3. 人類最後の新興宗教「 < 核兵器 > 教」について


 合目的的に整型化された系統・組織は、その機能において洗練された有効性の高さを示すものであるが、それを可能にする「技術」の自己完結性は、ヒトビトに人間の肉体的能力を超越していると思念させるときに、問答無用の「驚き−感動」を喚起してやまないのだ。そのときに、その合目的的価値がヒトビトの死生観に通底するほどの暴力性を持っていれば、ヒトビトの「驚き−感動」の衝撃は限りなく増大する。
 この意味からしても「科学的な殺人兵器」が問答無用にヒトビトの自愛的暴力を刺激してやまないことを容易に理解することができるが、それはヒトビトの存在理由である「荒れるにまかせる暴力」の生命原理に感応して、死生観を「殺-生」観にまで昂揚させるからに他ならない。
 思えば近代兵器の象徴たるミサイルもジェット戦闘機も原子力空母も原潜も、ヒトビトの想像を絶する「殺生観」と限りなく高められた機能美によって、ヒトビトの「驚き−感動」を一手に引き受けてしまうから、それはヒトビトの「殺生観」における「最強の暴力」への憧れと畏怖を駆り立てて、かつての人類が彼らにとって超越的に「美しくしかも荒ぶる自然」であったものを神格化していたように、いま美形の「核兵器」は最強の暴力性によって神格化されているといえる。
 しかも「核兵器」は、科学技術という偏執狂的な合理的思考によって生み出された自己完結的理論の暴力的肉化であるために、ヒトビトの日常的な思考の曖昧さに対しては潔癖なまでの血統の正しさによって揺るぎない超越的な実在性をもち、正に問答無用の絶対的権能においてヒトビトを支配する「荒ぶる神」たりうるのだ。この「科学信仰」に支えられた「荒ぶる神」は、自らへの畏怖と畏敬を忘れぬ「信仰者=暴力者」にのみ「抑止力」という名の「救済幻想」を保証する。そして科学的思考という<神学>は、自らの暴力的救済力を正当化するために、より強力に神を武装させる欲望を抑えることができないのだ。もはやこの「<核兵器>教」は、それを国教とする暴力国家によって「荒ぶる神」の欲望を実現するために、「<核>神話」の教理を布教するという大義名文によって宗教戦争へと突入する。
 そもそも宗教の発生と根拠を同じくする「信ずる力」の発動とは、「荒れるにまかせる霊力」の欲望に委ねられていると言わざるをえない以上、この「荒れるにまかせる霊力」によってしか<私>たりえぬヒトビトの自愛的欲望の相克関係が、民族・国家の霊的欲望である<ナショナリズム>として拡大的に対立したものを「戦争」といえば、ヒトビトは戦争という暴力「行為=経験」を宗教的意味によって正当化することにより、あらゆる罪悪感や苦悩から逃れているというわけだから、ヒトビトにとって宗教的意味を持たぬ「戦争」など有り得ないということなのだ。
 ところで、人類滅亡こそが唯一の教理である「<核兵器>教」のその「絶望の思想」は、ヒトビトの「荒れるにまかせる力」に保証された日常生活の<選択><排除>というささやかなる暴力的自己実現が、そのまま「<核>神」への<帰依>を体得させるという単純明解さによって、より刺激的なものを求めて止まないヒトビトの破滅願望を抑えることが出来ないから、結局は自分を傷付ける暴力によってしか快楽が得られないという退廃的で自虐的な宗教体験へと誘うことになる。
 いま強欲な国家権力者のみならず自愛的欲望で肥満してしまったヒトビトをすっかり虜にしてしまった「<核兵器>教」という新興宗教は、人類に対する唯一絶対の神が世界を滅亡させずにはいられないという完全な滅亡思想であるために、世界にたとえ<ひとり>の信仰者しかいなくてもその<ひとり>が「<核>神」を占有しうる敬謙なる聖職者ならば、その権能によって必ず人類滅亡という神の究極の欲望を実現できるという人類最後の最強の宗教なのだ。
 したがって、この「<核兵器>教」の<絶対的救済力>は、一切の「荒れるにまかせる霊力」ゆえの暴力現象をことごとく支配する最強にして最後の<暴力>であるために、その現前においてはいかなる宗教の救済も、この「荒れるにまかせる霊力」を台座とする個別化された<暴力的自己実現>でしかないために、異教徒どうしが「悪意の暴力」として反発しあう諸々の宗教は、ここですべての暴力の絶対的な頂点に立つ「<核>神」の「救済力=暴力的支配」を越えることはできないのだ。
 人類は、かつてこれほどの権威に満ちた<神>を信仰したことがないと断言しうるほどに「敬謙なる信仰者」でありながら、かつてこれほど<愚かな神>に隷属させられてしまったことはないと断言しうるほどの「愚か者」なのだ。

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4. 卑猥な国家に対して「見たいものを見る」


 まず国家権力は「OMANKOは卑猥である。卑猥なものは善良なるヒトビトを欲情させるおそれがある」という。そこで「ヒトビトをむやみに欲情させてはならない。ゆえに欲情させるものをヒトビトに見せてはならない」という支配論理を展開する。ここまでくれば、当然この支配論理は「OMANKOである女性性器はその周縁部も含めて見せてはならない」として、いかにも即物的な法律規制・行政指導という名の「表現=思想」管理をすることになる。
 これに対していつも管理され慣れた表現者である善良なるヒトビトは、「即物的にOMANKOと陰毛さえ見せなければ、いくら欲情させようと発情させようと勝手なのだ」という屈折した超越理論を展開することになる。
 このような国家権力とヒトビトとの間における「OMANKO闘争」は、結局は「見たいものを見せてもらえない善良なるヒトビトは欲情する」という、「体制的欲望=自愛的欲望」の台座である「荒れるにまかせる暴力性」を明らかにするだけなのだ。そこで言えることは、善良なるヒトビトが健全なるスケベとして夫婦生活・愛人関係・セックス遊戯などを営んでいるのならば、OMANKOはごく日常的に「見られているもの」にすぎないのだから、たとえ<6F>の NO.136-P.18 で今さら女性性器のみの拡大写真など見せられても、ほほえましいばかりのスケベにニンマリすることがあっても欲情などしないのが当たり前で、場合によっては、それが何んであるかも分からないまま見過ごされてしまうということさえ有り得るのだ。
 あるいは、ヒトビトが「性交」を語るときに「女性性器する!?」と言っても何んのことかさっぱり分からず、何か卑屈な感情をともなって密かに「OMANKOする!?」と言わなければ、その気にさせないということからしても分かるように、人間の本来的な生理現象・日常的営為さえ、<国家権力>と企業体存続という大義名文のためにその傀儡に成り下がった<マスコミ>によって、「言いたいことを言わせてもらえぬ」事態を羞恥心の捏造によって与えられなければ満足に発情できないというわけであるから、ヒトビトの「性交」とは、もはやタブーを犯すという退廃的な罪悪感を抜きにしては語れない快楽になってしまったというわけである。
 しかも、ここで国家権力やマスコミの差別的体質について見落としてはならないことは、ヒトビトが「性交」を「男性性器する!?」とは言わないし、まして「OMANKO」に対応する男性性器が幼児語の「OCHINCHIN」「OCHINKO」程度しかなく、大人に対応する「KINTAMA」にしたところでやはり「性交」を意味しないというわけで、さらには女性が「男と性交する」ことの呼び名が一般的には見当たらないというときに、「性交」そのものを男性中心の欲望原理のままにして、ヒトビトを「男の欲望」によって反照的に拘束し欲情させていると言わざるをえないのだ。
 この卑猥なる国家権力とマスコミは、「表現・思想の自由」に対して女性性器と性交を「OMANKO」以外では有り得ないものにしてしまったために、ヒトビトを限りなく欲情させつづけられれば、ヒトビトの無意識的な存在理由ともいいうる心情的で生理的な領域にまで支配力を誇示することができるというわけで、「ヒトビトが見たがるものはあくまでも見せてはならない」という卑猥な建前に固執することになる。
 つまり国家権力が隠蔽したがるものこそが権力者の支配暴力の恥部であるのだから、国民主権という理念からすれば本来はヒトビトのものである国家が、そのヒトビトに対してさえ国家機密として隠蔽してしまった情報を自ら公開しないかぎり、われわれは「見たいものは勝手に見ればいい」し、「表現したいことは堂々と表現すればいい」のだ。それが、権力者や官僚に掠奪されやすい国家という暴力装置を、すこしでも健全なかたちで運用していくための当たり前の知恵なのだ。
 ここでもしも「体制=自己愛」的欲望で肥満した教育者などが、自ら抑圧し矮小化した「OMANKO情報」に対する青少年の性教育などにくちばしを挟むつもりなら、それは青少年の社会的自覚を促す<躾>と社会人の日常生活への<理解>を進めるしかないのだから、卑猥な親たちと卑猥な国家と卑猥なマスコミによって性情報を勝手に凌辱しておきながら、今さら「管理・支配−隠蔽・排除」の論理によって性教育を口にするのは、同じく卑猥な大人のひとりとしてはなはだ厚顔無知と言わざるをえない。そのためにも国家権力は、マスコミは、ヒトビトは、あのおおらかな土俗信仰や地方の習俗として受け継がれている「性的<解放=開放>性」を思い起こし、まずは人間的営為の卑猥化こそを改めるべきなのだ。
 そこでわれわれは、これらの卑猥な暴力に対して「いかに生きるべきか」に回答を用意するために、いま「見たいものを見る」とはいかなることかについて考えてみなければならない。
 「見たいものを見る」あるいは「言いたいことを言う」とは、「<私の>見たいものを<私は>見る」「<私の>言いたいことを<私は>言う」ことであるから、それは「見たい」「言いたい」ことにおける「<私>が<私>であること」に他ならないといえる。思い起こすまでもなく絵実物的に「<私>が<私>であること」は、「常識・文化・制度」的欲望を自愛的欲望として対自化することであるから、ここにいう「<私の>見たいもの」「<私の>言いたいこと」とは、もともと常識・文化・制度の欲望として「見たいもの」「言いたいこと」であり、それを「<私>的欲望」として<私>物化しているにすぎないのだから、ヒトビトである個々人は知らず知らずのうちに常識・文化・制度によってこそ「見たいもの」「言いたいこと」が与えられていることが分かる。
 それにもかかわらず、いや、そのことを感じているからこそ、ヒトビトは「見てはならないものを見たい」し「言ってはならないことを言いたい」のだ。それゆえに、常識・文化・制度をいかに支配・管理するかに腐心する国家権力・統治組織が、自己保身のためにヒトビトに対して「見てはならないもの」「言ってはならないこと」を強要し、「見せたくないもの」「言われたくないこと」を隠蔽しつづけるならば、硬直化した体制下で生きるヒトビトは、「見たいものが見られない」「言いたいことが言えない」ことへと疎外されてしまう。この疎外によって自らの存在理由である常識・文化・制度を国家やマスコミに掠奪されてしまつたヒトビトが、それを耐え難き苦悩と感じているならば、支配権力が「見せたくないもの」「言われたくないこと」こそを暴露し、抑圧された体制下における「いじけた表現技術」などを<文化>などと呼んで隠棲することなく、自由奔放な表現体験を生きなければならないのだ。
 しかし国家権力とは、その支配装置の暴力にものを言わせてまで、ヒトビトが「見たがるものは見せたくない」「言いたがることは言わせたくない」体質だから、長いものには巻かれかねないマスコミのみならず非力なわれわれが、国家権力護持のために滅私奉公などという自己欺瞞を強要されたり、あるいは権力者の傀儡として暴力的役柄に「良心の自由」を売り渡してまで生き延びたりしないためには、体制を支えてしまう自愛的欲望こそを「解放=開放」する<何>論として、「見たいものを見る」「言いたいことを言う」ことのできる「<何>面の私」に目覚めていなければならないのだ。
 ただし相手は凶暴にして悪賢い国家権力だから、上手に<何>化していかないと「見たくもない痛い目を見るよ!!」と忠告しておきたい。もつともその覚悟でやらなきゃ自己愛は「解放=開放」されないだろうし、面白くないかもしれないけれどネ…

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5. スキャンダラスな <何 >論


 誰かのごく日常的な「陰口」や「良くない噂」が、非日常的な<スキャンダル>という言葉の暴力になるためには、常識・文化・制度の暴力的体質を積極的に担うマスコミなどによって、言霊の大量消費がなされなければならない。
 しかも<スキャンダル>とは、それが「本当であるのか嘘であるのか」にたいした意味はなく、ただ他人の不幸を楽しむヒトビトの自愛的欲望に<不成仏言霊>を投げ掛けることで暴力たりうるわけだから、その意味においては「体制的欲望に鎧われた中傷」ということになる。
 では、<スキャンダル>という言葉の暴力は何を傷付け失わせるのか?
 そもそもマスコミの暴力的体質が先鋭的なかたちで表れたのが<スキャンダル>だとすれば、<スキャンダル>が傷付けうる対象とは、マスコミ自身が勝手にでっちあげた「有名人」や「ニュース価値の高い事件の当事者」という社会的人格でなければならない。そして「有名人」「ニュースの当事者」が<スキャンダル>によって暴露されたくない「弱み」とは、自らの社会的地位であり名誉であり財産であるから、結局のところ所有しているはずの絵実物的価値でありそれを支える自愛的欲望であるといえる。
 つまり<スキャンダル>は自分で勝手に捏造した社会的人格性を掠奪するという節操のない暴力の悪ふざけだから、しばしば中傷される<誰か>がそれまでの無名性で担っていた社会的責任とは比較にならないほどの強大な暴力で、わざわざその<誰か>を傷付けるために有名人に仕立て上げることさえやってのけるのだ。
 さて「マスコミ的人格」は、いかにして<スキャンダル>から身をまもるのか?
 すでにヒトビトがよく知るところの三浦和義というマスコミの<マイナス・ヒーロー>が、テレビ・週間紙という勝れた<ビニール・パッケージ的構造>の中では、「嘘」を言ってはいけないというルールなど誰も持ち合わせていないことを明らかにして見せてくれた。マスコミとは、つとめて絵実物的価値を担っていながら、ひとたび<スキャンダル>になると「真偽を明らかにする」という大義名文により暴力化するというヤクザな体質であるが、自らの欲望によって捏造した「ヒーローの嘘」によって語るに落ちる様は、「問い詰める」暴力によって自分の虚構性を露呈してしまうという間の抜けたところが面白いといえる。とにかくマスコミによる<スキャンダル>という戯言の最大の弱点は、自らが担う「真偽を明らかにする」はずの絵実物的価値観が、結局は「もどき態」の装いでしかないためにいくら「嘘をつかれ」てもそれを非難できないということなのだ。つまりマスコミは、「とりあえずの事件」の表層を剥ぎ取ることには長けた掠奪能力を持つが、それを「嘘偽りのない事実」として偽造せずにはいられないという体質だから、もともとが嘘にすぎない「マスコミ的人格」が自愛的暴力で身を守るならば、やはり「嘘」で言い繕うことが一番確実な方法なのだ。
 しかし「有名人」「ニュースの当事者」は、この「嘘」だけで身の安全を守り切れるのであろうか?
 たとえ戯れであれ<誰か>が「嘘」を言えるということは、そこで言ったことが「嘘」になるような<物語>がとりあえずは「体制的な言霊」の地平として措定されていなければならないが、情報が大量消費されるマスコミなどにおいては「<嘘>を取り繕う<嘘>」が十分に「嘘」を取り繕いきれるうちは、その「嘘」が「嘘」である理由を発見することは出来ないけれど、ひとたび「嘘」を取り繕いきれずにあらゆることが矛盾として露呈してしまつたときには、それまで「ヒトビトの言霊」を裏切り「己の言霊」をも裏切りつづけてきたことになる<無責任>の付けが、たとえ自己破滅に至るものであってももはや背負わないわけにはいかなくなるのだ。しかし、そこで「戯言」が正に「嘘」として決め付けられるということは、初めから「正しい事実」などが用意されているわけではなく単に「言葉の欲望」どうしの暴力闘争において、自分の正当性を保証する「体制的欲望」に見放され「敗者の言霊」に成り下がったということでしかないのだ。
 ここで「口が災い」して身の破滅を招くのは自愛的欲望に鎧われたヒトビトの宿命であるとしても、たとえば「<何>面の告白」といいうる「戯言」は、体制的欲望と自愛的欲望の<言霊>や<不成仏言霊>を「解放=開放」する「空言」「何言」でしかないのだから、今さら<スキャンダル>の攻撃に晒されてもとめどなく言い繕い続けられる正体不明者ゆえに、破滅に追い込まれる<私>的欲望を持ち合わせてはいないといえるのだ。
 そこで、<何>行者がより積極的にささやかなる社会的役柄の<希望的人格性>によって、マスコミを弄ぶ「スキャンダラスな<何>論」を語ることが可能になるけれど、しかしそれは「有名人のそっくりさん」として有名になったりパロディ作家などとして有名になるという、常識・文化・制度によって管理・支配された「限定つきの戯言」を弄ぶのではなく、管理・支配しようとする「言霊の欲望」こそを無意味な事件として肩透かしさせるのでなければならないのだ。
 それゆえに「スキャンダラスな空言・何言」を操る<表現者>は、果敢にも「常識・文化・制度」的人格から脱落して「<何>面の告白者」として回帰するときに、そんな無責任さをヒトビトに疎まれつつもしかしどこかで羨望の眼差しを引き受けるという、「正体不明の有名人」を麗しき希望的人格として生きることになる。しかし、「<何>面の告白者」がヒトビトの中傷に晒されてわずかでも傷付く自己愛を引きずっているならば、<何>行者にとってはその傷みこそが<告白>されなければならないのだから、さらにヒトビトの中傷の中へと身を投げることになるのだ。
 しかも、この「スキャンダラスな空言・何言」の絵実物的な表層を捕らえて、「有名人」「ニュースの当事者」としての<何>行者を語るためには、たとえば<スキャンダル>だけで芸能界を生き延びる落ち目のタレントのように、何はともあれヒトビトを「あっ!!」と驚かせるだけの「スキャンダラスな戯言」を語ればいいのであるから、<何>的反省における<スキャンダル>の機能とは、「正体不明者としての<売名>性」と絵実物的役柄の横滑りによる「正体不明者への<買名>性」にあると言うことができるのだ。

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