2. 言霊の <何 > 景


 a.マス・メディアの言霊

 情報氾濫といわれる社会の中で無頓着に消費されていく<文字><言葉>を憂い、「文字や言葉は単なる記号なんかじゃない。もっと大切に使え!!」なんていうかなり神懸かった体制者の発言を聞くことがあるけれど、常識・文化・制度というものが、そういう<文字><言葉>などによってこそ語り継がれてきたことを思えば、それがいかに時代錯誤であれ小心の体制者が自己保身のために、そう言わざるをえない事情はしごくもつともなことともいえる。
 しかしNHK教育テレビ『日本語再発見/言葉をデザインする』なんかで、「文字は単なる記号や象徴なんかじゃない」なんて、あたかも発見的に言っているのを聞かされると、あまりにも「テレビ的体制者」の野望が露骨に見えてビックリさせられる。しかし、ここで君たちがビックリしないとすれば、それほど君たちが<マス・メディア>的欲望に呪縛されていることに対して、今あらためてビックリすべきなのだ。

 とにかく<文字><言葉>は、その出生を辿るまでもなく「言霊」を宿してこそヒトビトの価値判断や自愛的欲望を担えたわけだから、「常識・文化・制度」的欲望こそが、この体制的な<文字><言葉>の「言霊」に他ならないといえる。そこでわれわれは、この「言霊」を踏まえてマス・メディアの語る「文字や言葉は単なる記号や象徴なんかじゃない」に隠された狡猾な野望について語らなければならない。
 体制者によって卑下されている「単なる記号」とは、体制者の台座である自愛的欲望物語の<記号>にすぎないということで、それは<文字><言葉>の欲望である「言霊の霊力」が薄められているという意味において「記号的」であるにすぎないために、ここで「単なる記号」の担う社会的課題とは、いかにしてヒトビトの自愛的暴力を喚起しうるほどの暴力者になれるかということであるから、より積極的に「単なる記号であってはならない」とする念い入れは、<文字><言葉>の霊的な自己回復の企てなのだ。
 それにしてもいま常識・文化・制度がマス・メディアの存在なしには考えられないという事情からすれば、まずマス・メディアの一方的な伝達力という「大量消費」の罠が、<マス・メディア的言霊>をことごとくの<文字><言葉>に隠し、あたかも「常識・文化・制度」的欲望であるかのようにすり替えることにより、マス・メディア自身が「文字や言葉を単なる記号として消費してきた」ことを巧みに隠蔽しているにすぎないというわけなのだ。ここでは「体制的欲望」そのものが<マス・メディア的言霊>であることを見定めることが困難になっているのだ。
 しかもヒトビトが「自分の<文字><言葉>」と思念しているものによって社会的な人格形成をしているつもりでも、「自愛的欲望=体制的欲望(マス・メディア的欲望)」であるために、すでに日常化されて無意識的な「常識・文化・制度」的欲望に姿を変えている<マス・メディア的欲望>は、いつのまにかヒトビトの人格そのものになってしまうから、そこでは改めて<マス・メディア的言霊>を対自化することが困難なのだ。
 したがって、マス・メディア抜きには生きられないヒトビトは、無意識化されている「<常識・文化・制度=マス・メディア>的言霊」を自らの「<私>的言霊」として屹立させるか、あるいは「魅力的な狂気」を与えて暴力的に表現しデザインしえたものが、その時代の体制的価値観を先導し支配していくといえる。正に「言霊」とは、現代においてさえ<言葉>の表現活動において物象化的錯視された「ヒトビトの心・魂」そのものなのだ。しかし、われわれにすればヒトビトの<心>も<魂>も物象化的錯視でしかないのだから、所詮は「言霊」も幻想にすぎないが、それは自愛的欲望によってこそ生起する「霊的暴力」であるために、ひとたび生まれてしまえば後は「ヒトビトの心・魂」とともに自己増殖していくことになる。
 そこで、無意識化されている「常識・文化・制度」的暴力こそを<何>化すべきわれわれは、様々の表現についてまわる<文字><言葉>の<マス・メディア的言霊>を開放しつつ、同時に<文字><言葉>を共有する個々人の言霊をも解放しなければならないが、それは単に「沈黙者」として<文字><言葉>の使用を拒否することではなく、自己崩壊に至るまで暴力化しつづける<文字><言葉>の重い業果を、<何>的「事件=事件報告」として「記号化」することなのだ。
 それゆえにわれわれは、マス・メディアに対して「たとえ諸君が望まなくても自らの欺瞞的体質によって、<文字><言葉>を<何>化しうるほどの<単なる記号>にまですることが出来れば、それは人類滅亡の現前における救済の奇跡となるはずなのだ。ただしそのときにマス・メディアは、もはやマス・メディアたりえぬ絵空事として無用の長物へと浄化されているはずなのだ」と言っておきたい。さらにもう一言付け加えておけば、「マス・メディアによる<文字><言葉>の大量消費による記号性への埋没とは、<言霊の体制化>にすぎず、言霊の暴力性こそを解消しようとする<何>的記号化とは違う」ということなのだ。

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b.マス・メディアの不成仏言霊

 われわれが積極的な「社会的人格もどき」として、しかも<何>的「事件=事件報告」を生きざるをえないとすれば、「ヒトビト的言霊」の開放と「<私>的言霊」の解放のためにこそ、<何>物語を語る<何>記号としての<文字><言葉>を活用しなければならない。
 そこで、いま「ヒトビト的言霊」の情況を見てみると、あの<マス・メディア的戦略>の「言霊の大量消費」によって、たとえば不特定多数の<誰か>に向かって一日中鳴りつづけるラジオの中で、または今聞かれていないラジオや見られていないテレビの裏番組として、あるいは本屋の棚の中で眠りつづける書物として、さらにはたいして読まれることもなくチリ紙交換に出されてしまう新聞・雑誌・パンフレットとして、いたるところで当たり前な「言霊」として生きつづけたいと願いつつも、不幸にして不成就性の欲望を「無念の苦悩」として背負い死につづけているという、言わば<不成仏言霊>という亡霊としてしか生きられないものにしてしまっているのを知ることができる。
 はたしてわれわれは、この「マス・メディア的亡霊」の祟りに触れずに生きられるのであろうか。しかしわれわれは、無意識においてこそ「<常識・文化・制度>=マス・メディア」的欲望の拘束を回避しえないのだから、触らぬ亡霊にこそ祟られていると言わざるをえないのだ。
 この「触らぬ亡霊ゆえの祟り」が<不成仏言霊>だとすれば、それは「言霊の欲望」を不成就性に止どめているすべての事象に憑依することになってしまうために、「常識・文化・制度」的欲望の権化たる<文字><言葉>たちは、ヒトビトに語り継がれるまでもなく<誰か>に「表現=使用」されているだけで<不成仏言霊>として存在することになる。それは<文字><言葉>を<何>的に弄ぶわれわれの<A4><6F>においても例外ではありえないのだ。なぜなら、たとえ<A4><6F>における<文字><言葉>が、いま取り立てて誰かに読まれる予定はないとしても、やはり<文字><言葉>であることによって、いつかどこかで物好きな誰かに読まれるかもしれないというささやかな「期待」を孕んでしまうのだから、「ヒトビト的言霊」の<不成仏言霊化>を回避しえないというわけである。
 しかし、幸か不幸かたとえ<A4><6F>の<文字><言葉>がヒトビトに語られたとしても、「糞面白くもない何か」とか「くだらない何か」という一元的構造の「行為=経験」でしかないために、「ヒトビト的言霊」の「<私>的言霊化」が成立しにくかったり不可能であったりするという<何>的事件が喚起されるばかりだから、<A4・6F>的な<不成仏言霊>とは、「誰かに語られることを期待しつつ、しかし語られることによって語ることを裏切りつづける実りのない欲望」でしかないという<何>的欲望であることが明らかになる。
 このように<文字><言葉>が自ら語るに落ちずにはいられないというナンセンスな<何>的欲望こそが、絵空事を言いうる遊戯的な「言霊の眼差し」なのだ。それは、ヒトビトが自らの欲望でがんじがらめにしてしまつた「言霊」を、駄酒落・パロディーによって脱臼させつつ活性化しているところにも垣間見ることができるが、しかし絵実物世界におけるその「言霊の戯れ」は結局<自愛的欲望の回復機能>として取り込まれてしまうけれど、それに対して<何>的言霊は、自愛的欲望による自己回復を求めずにただ「戯れのための戯れ」へと横滑りしていくことになるのだ。
 ところで、この「<何>的言霊の眼差し」は、存在証明(アリバイ)としての<何>を語ることができる。<私>が「常識・文化・制度」的欲望を自愛的欲望として対自化することを「<私>たりうる<私>」の絵実物的存在証明というとすれば、それを<何>論によって検証する「<私>たりえぬ<私>」の絵空事的存在証明は、「絵実物的切断面としての何」といいうる<何>化された自愛的欲望の「不在」によって語らなければならない。それは、「沈黙」「無意味」という言葉が常にその意味の不在証明(レトリック)であるように、常識・文化・制度の中で「言霊化された<何>」という絵実物的不在証明によって<何>の絵空事的存在証明を語ることになるのだ。
 つまり<A4><6F>の<何>的「事件=事件報告」を「言霊化された<何>」の救済論として、「<自愛的欲望=苦悩>の不在証明」と同時に「<何=救済>の存在証明」を語ることにより、<A4><6F>は<何>的霊魂観における「言霊的<何>」あるいは「<何>論的仏」として人類滅亡の苦悩を克服する現場をヒトビトのものとして拓くことができる。
 しかし、ヒトビトがマス・メディアに呪われた<不成仏言霊>の<私>的肉化にばかり気をとられていると、ただ人目に付きたいばかりに刺々しくささくれだった<不成仏言霊>が、誰の自愛的欲望によってでも「十全なる言霊」に生まれ変わりたいと願い、手当たりしだいの<文字><言葉>に怨念となって憑依することを許すはめになるから、ヒトビトは知らず知らずのうちに自分の<文字><言葉>と思い込んでいるものを「荒んだ言霊」の欲望に掠め取られ、言霊によって「<私>たりうる<私>」でいようとする儚ない望みさえも、自分の<文字><言葉>をより暴力的に情報化しつづけなければ自己分裂・喪失してしまうという苦しみのみを生きさせることになってしまう。
 それは、不当に排斥され隠蔽されている<不成仏言霊>たちが、ヒトビトの自愛的欲望によって自己崩壊に至るまで許さないという「荒れるにまかせる霊力」の逆襲であるから、その怒りと呪いは係る<文字>と<言葉>を共有するヒトビト個々人が、自らの問題として<何>化していかないかぎり、永劫に欝積しつづける怨念として生きつづけることになるのだ。

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c.雑誌をコラージュする

 すべての雑誌が雑誌たることの身分証明として目次の下に「本誌掲載の写真・イラスト・記事の無断転載厳禁」を掲げ、「読者=引用者」の表現体験に浅ましいほどの神懸かった自己主張をしているけれど、われわれは、そんな雑誌の自愛的欲望をいかに<何>化することができるのか。言い換えるならば、「はたして無断転載・引用なくして成立する雑誌が存在しうるのか?」と問うことになる。
 われわれに言わせるならば、絵実物世界ではヒトビトの日常的な「事件=事件報告」であれ、あるいはいたって意図的な表現「行為=経験」であれ、それらは<文字><言葉><記号>などとして無断転載・引用して何ごとかを語り合えてこその常識・文化・制度なのだ。それなのに「常識・文化・制度」物語の権化ともいいうる「雑誌」が、「無断転載厳禁」などという自己否定を標榜していて、はたしてどこまでコミニュケーション媒体として存在可能なのか? 改めて言うまでもなくコミニュケーションとは、限りない「無断転載」の繰り返しなのだ。
 そこで「無断転載厳禁」について考えてみれば、たとえそれが著作権法などという制度に支えられた「雑誌」の自己保身の手段であるとはいえ、<何>論からすれば、それは「雑誌」の思い上がった自己神格化の企みであり、自らの語りうる「常識・文化・制度」物語を絶対的に暴力化した自己愛で閉鎖せんとする野望なのだ。
 つまり「雑誌」とは、「常識・文化・制度」物語を「無断転載」しつつ生まれ、しかもそれを「無断転載厳禁」によって生き残らせなければならないにも拘わらず、ヒトビトに「無断転載」されなければ生き残れないという、結局は自らの欲望によって自分を滅ぼすことになるという自己撞着的な「貧りの体質」と言わざるをえない。もっとも自己神格化とか独我論への情熱と欲望を喪失してしまってもなおかつ生き残れたという、そんなとぼけた「雑誌」の話を聞いたこともない。
 それは、ヒトビトが生まれながらの「無明無知=自愛的欲望」に鎧われているために、いかようにも人類滅亡を回避しえぬことに目覚めたとしても、その苦悩の元凶である自己愛によってこそ救済されたいと願わずにはいられないという身勝手さのように、「雑誌」もまた「無断転載厳禁」という自己否定によって滅亡物語を語りつづける宿命を背負ってしか「雑誌」たりえないということなのだ。それゆえに、目まぐるしく変動する社会の次々に生まれては消えていく事象の中で、暴力的な「オリジナリティー」で武装していない「雑誌」など、ちっとも面白くもおかしくもなく、すでに「雑誌」としての時代の「要請=欲望」すら見失っていると言わざるをえない。
 そこでわれわれは、かろうじて「雑誌たりえている雑誌」に今さら武装解除などという野暮を言うまえに、<6F>の引用論的手法に習い「<何>的雑誌」あるいは「雑誌もどき」を語ることができる。
 それは<6F>の引用論的手法により「雑誌」をコラージュすることに他ならないが、そのときには「雑誌」が<6F>の<何>景として、まるで「雑誌」という自分のパロディーとして出現することになるのだ。つまり、<6F>の<何>的表現者が正体不明の<誰か>でしかないために、あたかも陰険な凶悪犯が人質を取って強欲な資産家などに送り付ける「脅迫文」のように、新聞・雑誌の写真・文字・図形をコラージュしつつ、さらに切り抜かれた残りの何かをもとめどなく引用しつづけるという<何>的反省により、結局は「引用(選択・排除)する=引用(選択・排除)されない」という遊戯性の「暴力たりえぬ暴力」で<6F>を「雑誌の<何>景」にするときに、引用されつづけた「雑誌」が「<6F>の<何>景」として哀しいほどにおかしく切り抜かれて空洞化した「雑誌もどき」となり、「常識・文化・制度」物語のなかで暴力化しつづける「雑誌」という身分の「解放=開放」論的前衛を拓きつづけるのだ。
 ここでは、<誰か>に「無断転載」されつづけてもはや「雑誌たりえぬ雑誌」が、その「無断転載」の犯人である<何>的表現者に自己回復の補償請求を突き付けようとしても、そこには「作品たりえぬ作品」としての<6F>と「作者たりえぬ作者」としての<誰か>が、満足に社会的責任をも担うことのできぬ「正体不明の何か」としてあるにすぎないことを知るばかりなのだ。

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d.新聞の<何>景

 常識・文化・制度の中におけるすべての<表現者>の行為と経験は、「ヒトビト=<私>」の関係を解消しないかぎり、ヒトビトの価値判断という絵実物的な評価・意味付けに対する何んらかの責任を負わなければならない。もっともその宿業ゆえに表現者は、批判と称賛を糧として社会的に生きられるのだ。
 ところがなぜか「新聞」というマス・メディアでは、いまだその主なる報道記事の「表現者名」を明記せず、単に『〇〇新聞』という社名の「常識・文化・制度」的代弁者の顔でそれを隠蔽してしまう。
 そこで『朝日新聞/座標』(84.10.15)に新聞週間にあたっての論説として「民主社会での役割」が載っているのを見れば、自由な民主社会における新聞の役割として、「事象を映し出す鏡」「世論形成を促進する」ことの二点をあげ、「鏡」であることについては「すべての客観的事実の純粋な反映ではなく、それぞれの新聞によって選択的に構成された事実の報道なのである」といい、「ニュース」であるためには「ニュース・バリュー(価値)」があることを意味するが、その「ニュース価値」を判断する一応の原則として(1)一般関心性 (2)新鮮性 (3)真実性 (4)重要性をあげている。
 これを見ても十分に理解できるように、たとえ「新聞」という視座であれ自ら「すべての客観的事実の純粋な反映ではなく、それぞれの新聞によって選択的に構成された事実の報道なのである」と言っているように、「常識・文化・制度」物語によってしか「事件」たりえぬ「事件報告」に純真無垢の原体験などといえる「事実」などありえないのだから、その「事件報告」をあえて「事件」として「報道=表現」する表現者は、「ニュース価値」を「創造」するときの「取材記者とデスク、整理記者とデスク、時には関連部長、編集局長、局次長も加わっての総合判断」に対する最終責任者としての氏名ぐらいは明記すべきなのだ。だからと言ってわれわれは、今さら「本名−偽名(ペン・ネーム)」などの違いにこだわる本物主義ではないのだから、「判断グループ」の名前でも構わないと考えるのだ。
 とにかく、どの「新聞」も同じ事件を同じようにしか書いていないのならいざ知らず、「それぞれの新聞によって選択的に構成」した「読み物」でしかないのだから、たとえ「ニュース価値」の判断基準が一般関心性・新鮮性・真実性・重要性であれ、それは「新聞」が自ら言うように一応の原則でしかなく、むしろ積極的に相対化された基準でしかないことを見定めるならば、「ニュース価値」には表現者の創造的意図を無視することができないというわけで、すべての「新聞表現者」はヒトビトの価値判断に対する責任を果たさなければならないと思われる。
 すでにテレビにおいてさえ<ニュース><報道番組>が、たとえ編集というフィルターを通されているとはいえ、とにかくは「<事件=事件報告>の現場」からマイクとカメラを持った記者・レポーターによって語られつつあるときに、「新聞」は相も変わらず表現者の価値判断にともなう「<私>的言霊」を大量消費による「体制的言霊」へとすり替えて、「世論形成を促進する」などという擬態によって「ヒトビトの価値判断」を先取りしているのだ。それは、「新聞」による言霊の大量消費によって「語る」「問い掛ける」「見る」ことが、あたかも「常識・文化・制度」的知見であるかのようにヒトビトを幻惑することであるから、自分の欲しい回答のために設問を用意するアンケートのように、自らの表現「行為=経験」が担う社会的責任を「この世の中に神はいないと言う神」のように棚上げをして、自己神格化の野望にしらをきる荒唐無稽な厚かましさの企みなのだ。しかもこれは、「新聞紙面」という閉鎖的な世界における<完全犯罪>と言えるものなのだ。
 そもそも絵実物世界の表現「行為=経験」における<完全犯罪>といいうるものは、ありきたりの<作者>がありきたりの<作品>にあたかも超越的な価値基準によって選ばれたものとしての価値と権威を捏造し、その<作品>は「神の意志」と言いうる崇高な価値を反映しているためにヒトビトの価値基準の模範でありうると言い繕いつつ、<作者自身>がヒトビトの超越者として神格化しようとする自己欺瞞のことであるから、たとえ「新聞」が『新聞倫理綱領が戒める「何者かの宣伝に利用される」ことへの警戒心を欠くこと』なく、絶えず自省しつつ「健全な批判精神」を堅持するのだと言っても、結局は姑息な<完全犯罪者>として、自分が捏造した「ヒトビト的価値判断」によって「新聞表現者の言霊」を「ヒトビトの言霊」へとすり替えることでしかないのだから、自己神格化という欺瞞への暴力的体質に対する自省がなされないかぎり、われわれは、あの大東亜戦争下において日本帝国主義に迎合しつつ生き延びた<新聞精神>の企業体あっての「健全さ」など鵜呑みにするわけにはいかないのだ。
 そこで改めて、<完全犯罪>を「犯罪事実を認定しえぬ場合」か「被疑者と犯罪<行為=経験>の因果関係を論証しえぬ場合」とすると、それは「この世界では俺が法律だ!!」と言い切れる<神>的表現者の「閉鎖された物語における<完全犯罪>」のことになるから、それとは逆に自愛的暴力を<何>化するための「開放された物語における<反省的完全表現>」として語るためには、あまねくヒトビトを事件の現場へと誘うが「意味不明の<何かをしている>かまたは有意義なことは<何もしていない>場合」というわけで、結局は「表現者と表現<行為=経験>の絵実物的因果関係を論証できない」という正体不明の「<何>面の告白者」でなければならないといえる。
 したがって、もしも「新聞」が、その自愛的暴力者としての完全犯罪的体質に対する自省を、積極的な「<何>面の告白」として無価値・無意味を語ることができるなら、われわれは「新聞」のいう「健全な批判精神堅持」のスローガンを支持するが、営利企業としてのマス・メディアであることの欲望を我慢できない「新聞」が、いつまでも「ヒトビトの価値基準」たらんとする思い上がった欲望を隠蔽しつづけるつもりなら、そんな気恥ずかしい欺瞞的スローガンは引き下げて、速やかに「<体制>という自らの欲望によってしか何ごとも語れぬ<ほどほどの批判精神>によって生き延びること」を標榜すべきなのだ。

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