(5).<何>景論


1. 空言風景


 a. 「言葉の花束」を贈ることについて

 われわれは、まずここに谷川俊太郎の『詩を贈ることについて』という言葉を引用することにより、この言葉が語らなかった何かの中から『絵を贈ることについて』の戯れを語ってみたいと思う。

 われわれは『詩を贈ることについて』に『絵を贈ることについて』を贈ることにより、「語られたもの」と「<語られなかったもの>を語るもの」との対立する関係を偽造したのであるが、しかし、「語られたもの」と「語られなかったもの」が「語りつづけること」の反省的戯れによってほとんど同じ意味となり、結局は「語られたもの」どうしを語るに落とせたというわけである。
 何はともあれ<A4><6F>という「事件=事件報告」の物語風景が、その循環する<何>的反省に保証されて「排斥されつづけるものの復権」を語っているとすれば、「不在である何か」によって「<A4・6F>的風景」を語ろうとする「<何>景論」といいうるレトリカルな機能は、いつもヒトビトの価値判断の現前で「何かの風景」「空景」としてたたずむことにより、ヒトビトの欲望風景を風化させるのだ。つまり、絵空事・空言による「排斥されたものの復権」とは、押しなべて「<何>景論」たりうるのだ。
 そもそも<言葉>による確信・信仰とは、様々な<表現行為><表現経験>を自愛的欲望の武器にすることに成功してしまえば、今度は自愛的欲望が自らのためにいかようにでも<言葉>を捏造しうる権能を獲得することになり、そこに語られた<言葉>は、ことごとくヒトビトの確信と信仰を担うことになる。正に<言葉>は、美貌の女性に語られて欝々としたオジサンたちの灰色の世界をバラ色に輝かせるように、不思議な<愛>そのものなのだ。
 しかしここでは、<愛>の不思議な歓びが<言葉>の暴力によってこそ支えられていることを知るわれわれは、ヒトビトが欲望風景としてしか語れない<愛の幸福論>を、無意味な微笑で風化させる「<何>面の告白者」として語らなければならないから、「荒れるにまかせる愛」の世界では、その<何>面の告白ですら「言葉=愛」でしかないというように、言葉が痛みなくしては語れない<愛>も<愛>が語らせる言葉でしかないというわけで、<誰か>が<誰か>のために「苦しみ=苦しめる」ことになることも知らず<幸福>という希望のために贈る「愛の花束」は、たとえば「愛の絶望」という「贈る言葉にしえなかった何か」を語る「声なき言葉」にこそ捧げられるべきだと言わざるをえない。そうでなければ、<愛>を贈るものと贈られるものの<幸福論>が、結局は他人の苦しみや屍の上にしか築かれないという悪循環を克服することが出来ない。
 それゆえに<誰>のものでもない「何って何!?」は、ヒトビトの自愛的欲望を幻惑しうる「言葉の花束」というわけで、この花束には「愛の希望」を添えて贈るのもいいし「愛の絶望」を添えて贈るものいいけれど、それを贈るヒトであると同時に贈られるヒトである<誰か>は、今さらとりたてて何事かを語るには及ばない何かと、今こそ語るべき何かとの狭間で<言葉>を弄ぶ空言の「<何>景」を拓かざるをえないのだ。

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 b. 足跡の <何> 景

 われわれは、あの<6F>の NO.141-P.9 に切り抜かれた「謎の足跡」を発見する。しかも<6F>は、「〜にも足あとがあるんだヨ」という<言葉=文字>で「謎の足跡」の<何>景を語ろうとするが、その「足跡」がもともと「<誰かのもの>=謎=<〜>」として<6F>の<何>景でしかないのだから、われわれがこの「〜にも足あとがあるんだヨ」によって<6F>の<何>景を語ることは「謎の足跡」の<何>景を語ることとなり、それは同時に<6F>を語ることによって「足跡の正体」を語ることになるのだ。

       NO.141-P.9


 <6F>では、たとえヒトビトに「駄作の王者」「愚作の帝王」「失敗作の覇者」と揶揄される表現者でも、「<何>面の告白者」であることによって「正体不明の<誰か>」でいつづけられるから、その<誰か>が<快的遊感覚>の<何>的戯れを「行為=経験」しているかぎり、「もどき態」の<6F>を霞め問答無用に常識・文化・制度という約束の外に出ているはずなのだ。そこでこの「外に出る」ことをあらゆる<6F>の<何>的事件とすれば、われわれはガキのように<6F>的事件報告に向かって「これ何?」的事件を問いつづけることにより、いつも「外に出た<誰か>」の足跡を発見することになるのだ。はたしてこの日の<6F>では、<誰>が通り抜けて行ったのか?
 では、この謎を解く鍵はどこにあるのか。それは、ここで「外へ出た<誰か>」の<事件の足跡>が、「〜にも足あとがあるんだヨ」という文字のコラージュによる<何>的事件報告であるということなのだ。
 それゆえに、われわれが「<〜にも足あとがあるんだヨ>とは何か?」と「問うこと<事件報告=事件>」が、「<誰か>が外へ出る」事件を<われわれの事件>として喚起することになるということを踏まえるならば、<6F>から「外へ出る」のは<われわれ>に他ならず、<6F>に発見した「謎の足跡」も<われわれ>のものであることが明らかになるのだ。つまり<6F>では、「<何>にも足あとがあるんだヨ」と同時に「<あらゆるヒトビト>にも足あとがあるんだヨ」ということなのだ。
 言い換えるならば「謎の足跡」とは、「<6F>の何景」を「<ヒトビト=私>の何景」へと語るに落とす罠にすぎないことになるが、<A4>において<文字>であるわれわれが、「<A4>の何景=<ヒトビト>の何景」へと語るに落ちる「謎の足跡」たらんとすれば、『これは、<A4>であるワープロ用紙で二行の文字空間を埋める楽しみのために捏造された文章である』として語ることができる。
 この<A4>におけるわれわれの「謎の足跡」的宣言は、この宣言をせざるをえない背景つまりはヒトビトの欲望風景の中でしか表現者たりえぬわれわれの苦悩や、その苦悩ゆえの様々なるもくろみとは無関係に、<文字>として与えられた<言葉>の<A4>的目的は十分に果たしているといえる。するとこのナンセンスな宣言は、ナンセンスゆえの純粋「行為=経験」によって、<何>的事件として<A4>を語るすべての<文字>と同様に、さらにヒトビトに対する<何>的事件報告性としても、押しも押されもしない十分な<何>景論としての存在理由を獲得してしまうのだ。
 それゆえに、ヒトビトの絵実物信仰ともいいうる<価値観>を嘲弄するための、もっともらしくわざとらしい「何って何!?」の<何>景論は、単にヒトビトに対して沈黙する部外者になるのではなく、積極的に「謎の足跡」を残す正体不明の<何>行者であることが要請されているのだ。
 それは「自愛的欲望という足跡」を暴力で掻き消すことではなく、まして自分の「暴力的な足跡」を誰か他人のものへと擬装してそこから逃亡することでもなく、むしろ「清浄なる足跡」で、汚れきった自愛的欲望の床にあるいは抜き差しならぬ汚泥の沼地に、「<何>域の足跡」を残すことなのだ。
 それをたとえば、「あちらで立てればこちらで立たず、こちらで立てればあちらで立たぬ」という疲弊しきった小心のオジサンの疑惑だらけの<足跡>として辿ってみれば、何はともあれひと昔前に、資産家のひとり娘と結婚して得た地位と名誉にしがみつき、ようやく一人前であるにすぎないオジサンが、それでも生来の優柔不断とスケベのために、ちょっとヒステリー女房の目を盗んで遊んだつもりが、ついつい別れそびれてしまった愛人のすでに熟女となった強者に搦め捕られ、「どうするのよ? あたしは絶対に産むわよ!! あたしも、もうそんなに若くはないのよ、いま産んでおかなくちゃ、そろそろ母親になれるチャンスを失ってしまうわ。とにかく今度はいやよ。もう絶対にイヤ。だってそうでしょう、いつもあたしが泣いてきたのよ、分かる? 今度こそは、あたしと産まれてくる子供のために、あなたが泣いてください、ね!? お願いです。お願いですから、今の奥さんと別れて、産まれてくる子供の父親になってください!!」というわけで、女の切り札で絵実物的欲望の権化になってしまった哀しい女の決まり文句は厳しいから、「そんな無理を言わないでくれ。僕が、なんとか君の面倒をこうやって見てこられたのは、いまの地位と財産あってのことじゃないか。僕が、いま女房と別れたら、君とも終わりになってしまうよ。とにかくたのむ、堕してくれ」なんてオジサンが勝手な泣き言をいっても、「あたしは、あなたと暮らせるのなら、あなたの地位や財産なんか、どうでもいいのよ。とにかく、もう、このままじゃいやなの!! あなたが、どうしてもこのおなかの子を殺せというのなら、あたしは、あなたの奥さんを殺すほうを選ぶわ。もう、自分の子供は殺せない。そうでしょう、あなただって、その手で奥さんを殺せるっていうの? 自分だけ奇麗事で済ませようなんて、ずるいわ」というわけで、さらに現実的解決の要求へと語るに落ちるのがせいぜいなのだから、オジサンが優柔不断な愛欲の足跡を自愛的暴力で掻き消そうとしても、すでに悍しい自己愛にしがみついていてはいかなる解決策もないことを知ることになり、「じゃ、どうしろと言うんだ?」と言わざるをえないとすれば、熟女は待ってましたとばかり平然と、「奥さんを殺してください。もし、あなたに、それが出来ないのなら、あたしは、あなたと別れます。でも、あたしは、ひとりであなたの子供を産みます。だってそうでしょう、産まれてくる子供には何んの罪もないのよ。だから、子供には父親の愛と祝福と、それから大切な生活の保障を与えてあげて欲しいの。後は、あたしひとりで、立派に育て上げてみせるわ」というわけであるが、内心は金で解決がつくのならと思っていたオジサンも、後々の悩みの種になる子供は産まれるわ、金を取られるわではまるで立つ瀬がないと、「金か!!おまえは、子供をネタに金をゆする気か!?」なんて怒り狂うことになっても、当の熟女は、「自分の子供が、ゆすりの材料としか考えられないなんて、哀しい人ね。子供に、そんな哀しい父親を持たせるのは、とても忍びないから、あたしが、直接あなたの奥さんに掛け合ったほうが、よさそうね!?」とさらに傷口を広げてみせるから、もうオジサンとしては、絶望が熟女の子宮の中で遠い未来に向かって育っていくのを見詰めるばかりになってしまうけれど、熟女は、オジサンの絶望をオジサンのなけなしの自己愛で埋め尽くすまで引き下がろうとしないから、今さらながら力を落としたオジサンは「僕が、いままでに、君を悲しませる何をしたと言うんだ?」と善意の無自覚な暴力者を装えば、「あなたは、いつもそういう人なのよ。結局、あたしを歓ばせることは何もしてくれなかったということなのよ。現に、今度だって何も出来ないんでしょ?」というわけで、いよいよオジサンとしては、「そうさ!! 何も出来ない僕だからこそ、<何>が出来るのさ」と悟って出直すか、それとも女房か愛人のどちらかの女を殺して生き延びるしかないというわけなのだ。
 なんとも粗末な物語ではあるが、小心とスケベというとめどもない自己愛に見合った地位と財産などあるわけではないのだから、あまねく「思うようには生きられぬヒトビト」は、自己愛で血塗られた殺人現場に「謎の足跡」を残して逃走する犯罪者になるよりも、己の自己愛に「謎の足跡」を発見できる「<何>面の告白者」として、もっと気軽に生きてみてはいかがなものかと要らぬお世話をしてみたくなるのだ。

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 c. < 何 > 論的懺悔録

 われわれは、真面目な暴力者であるヒトビトの<真面目>さを嘲弄するために「言葉の<何>景」を語っているわけではなく、あくまでも<暴力>に対して<何>景を拓かんとしているのだ。それゆえに<A4><6F>は、<真面目>という絵実物信仰生活によって「<私>以外ではありえぬ<私>」や「<私>たりえぬ<私>」で苦労しているヒトビトのために、日々の新鮮な反省的「事件=事件報告」のサービスとして、「<何>論的懴悔録」を用意することが出来るのだ。
 それは、たとえば<あなた>が<誰か>に読まれることを期待しつつ密かに書きつづける<日記>を、われわれが、ヒトビトが、進んで読んであげるというように、かなりでしゃばった優しさに保証された「告白」の公募に他ならないのだ。だから女性週間紙によく載っている観光地の感傷旅行者用に置かれた「思い出の寄せ書き」といったものや、雑誌やテレビの人生相談を想像してみれば、当たらずとも遠からずといったところかもしれない。
 当然ながらこの「告白」は、剥き出しの自己愛でできた生物(なまもの)だから、一度、表現「行為=経験」したら腐らないうちになるべく早く<何>的対自化することが望まれる。そして<何>論的告白は、その苦悩をヒトビトと共有しあうための「公募」であるために、進んで「公開」されなければならないが、そこでは<誰が>どのような「嘘・偽り」の告白をしようとも、われわれはそれを非難するつもりはないし、ましてそのような権能など<誰>も持ち合わせてはいないのだ。だからあなたがたが、<聴聞僧>ほどの自覚もない破廉恥な<A4>や<6F>あるいは<何>行者にこそ不都合ありと判断された場合には、早々に近所の<芸術家>とか<宗教者>とか、あるいは横町のご隠居などに内通し、厳しい批判と中傷こそを喚起されることが望まれる。
 とにかくわれわれは<A4><6F>に成り代わり、諸君の苦渋に満ちた「わざとらし」く「まことしやか」な叫びを、あの<マスコミ>の常套手段である「やらせ」のように、面白おかしく勝手気ままに告白されることを希望してやまないのだ。
 それは<何>論が<マスコミ>と同様に<唯一絶対神>を背負っていないために、「真実−虚偽」の関係が成立しないからこそ言えることであるが、しかし、<何>論と<マスコミ>とは、同じような無神論的体質でありながらそこにはかなりの相違があることも忘れてはならないと言える。つまり<マスコミ>は、表現者としての自らの立場を「無色透明」なものに見せるために、「量産される情報」の伝達力に仮託して体制的価値を捏造し、自らは「沈黙する神」を決め込んでいるというわけであるが、<何>論は、様々な価値観・意味体系を無価値・無意味なものへと反省的に「解放=開放」することによってこそ、「真実−虚偽」関係を克服しているのだ。
 しかし「懴悔」とは、聖的存在に対する<反省><悔い改めること>としてのみ言いうる言葉であるから、「神聖なる真実」を持たぬ<何>論には「懴悔」という表現行為と「帰依」という表現経験は語れないことになるが、われわれは、この「懴悔」がすでに表現者の自己欺瞞によってしか語られないことを明らかにすることによって、<何>論的手段としての「懴悔」を語ることが出来るのだ。そもそも<何>論において言うならば、誰にとっても「<私>という反省者(懴悔者)」とは、反省以前には正体不明であった無意識から何ごとかを語り始めるために措定された、まったく「仮の表現者」を<私>物化したものでしかないのだから、「<何>論的懴悔録」に「<私>たりうる<私>」ゆえの苦悩を告白しようとも、あるいはそんな倒錯から逃避するつもりの窮余の策によって、不本意にも「<私>たりえぬ<私>」という苦悩者になってしまったことを告白しようとも、ここで自らの苦悩を語る「仮りの表現者」とは、いずれにしても自分の虚構性を棚上げにした「自己欺瞞の<私>」によってしか何ごとも語れないということなのだ。
 つまり、聖的存在である<神仏>を霊的実体として「信ずる」ことの見返りに与えられる「<神=私>たりうる<私>」としての表現者が、<神仏>によって武装するために俗的な価値観に溺れていた罪悪感を語ることになるけれど、それはすでに<神仏>として回復している<私>がいままでの「私の苦悩」を、「<神>としては分かっているけれど<私>としてはやめられない」こととしてまるで他人事のように語ることでしかないのだから、「<神>的表現者」は語ることによって「<神=私>たりえぬ<私>」へと滑り落ちてしまうというわけで、結局は「神=私」の実体的な関係こそが自分勝手な臆断にすぎないことを見定めるならば、「懴悔」とは、「仮の表現者」である「<私>もどき」を<神仏>の名の元に実体化するという自己欺瞞によってしか語れないことになる。
 言い換えるならば「懴悔」とは、すでに「<神>的表現者」の「<私>たりうる<私>」として思い込んでいる自己欺瞞を、どこまで「<神>たりえぬ<神の子>」「<仏>たりえぬ<凡夫>」として言い繕えるのかということでしかないのだから、「<何>論的懴悔録」のみならず一切の「懴悔」的表現においては、何よりもまず積極的な<嘘・偽り>こそが語られなければならないのだ。それゆえにわれわれが「告白」として語られるものに一切の「虚偽判断」を差し控えるときに、<A4><6F>における「<懴悔>的表現」は、十全たる苦悩的「事件=事件報告」として<何>化する楽しみを発見させるのだ。

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