11. 今さら理想社会は語れない


 現実主義者を自認するヒトビトは、たとえ自己欺瞞になろうともそれなりに<苦悩>と折り合いをつけて、あるいは<苦悩>を背負って暮らしているわけだから、われわれが絵実物世界の影に「金太郎飴」的陥穽として語ったり「<何>面の告白」によって語る<絵空事世界>など、苦労から逃げてばかりいる意志薄弱な者たちの心貧しく哀しい<共同幻想>にすぎないということになる。もっともわれわれに言わせれば、絵実物世界こそが幻想にすぎないと見定めることにより、ヒトビトの苦悩もまた「絵実物もどき」の装いとして解消しうるものとなったのだから、そんな幻想から語り出す<絵空事世界>もまた幻想にすぎないことを十分に承知しているつもりなのだ。しかしヒトビトはさんざん常識・文化・制度という幻想を生きているのに、今さら<何>面などという幻想は生きられないという始末だから、われわれはその偏屈な傲慢さに反省を喚起しつづけることになる。
 そこで現実主義者たるヒトビトにとっては、たとえわれわれが<幻想的人格>にすぎないとしても、この絵実物世界に「<何>行者」を名乗る変人・奇人が出没すれば、「あんたたちのように、そんなアホばかりしていたら、この世間では満足に食っていけないんだよ」なんて言わざるをえないほどには気になる奴として<存在>するわけだから、たとえアホやボケの幻想でも贅沢をいわなければ、絵実物世界でも十分に生きられる「現実=幻想」であることを認めざるをえないはずなのだ。
 しかしヒトビトは、<何>行者などという不愉快なものに対しては自己愛の取り繕いに執心せざるをえないから、<何>行者などちょっとヤクザで軽薄な「道化」にすぎないとして、「鬼性」を去勢し単なる変人・奇人として管理することになる。この解毒作用によって生き延びるヒトビトは、<何>行者であれ<絵空事世界>であれ、自らの幸福論の台座である「荒れるにまかせる霊力(自愛的欲望)」によってどうにでも言いくるめる権能を持つことになり、たとえば「そうか、そうか、君たちの言いたいことは分かった。確かにそれは素晴らしいことだ。でも、僕たちには、家庭もあるし、仕事もあるから、ま、今回は遠慮させてもらうよ」というわけで、<絵空事世界>は毒気を抜かれた「気休めのおまじない」と同様に、あたかも「絵実物化された<何>物語」という当たり障りのないものとして、ほこりを被った神棚の飾りへと祭り上げてしまいかねないのだから、ヒトビトが「絵実物化された<何>」に何等かの有効性を認めれば、それは「霊的<何>」として祭り上げて抜苦・願望成就のための信仰対象にしたり、あるいは「堕落した絵空事的<何>」としてあたかも修行を掠め取られ装飾となったマンダラのごとく、単なる幻想物語として「絵空事もどきの絵実物」へと葬り去ってしまうのだ。
 ここでわれわれが、<絵空事世界>は絵実物世界となんら異なるところのない現実の生活たりうることを主張しても、ヒトビトは「<何>行者だって? そりゃギョーザの間違いじゃないのかね、ギョーザなら水ギョーザ、焼ギョーザ、蒸ギョーザといくらでもうまいものを知ってるさ。何? 違う? ほう…、そういうもんかね。しかし、そんな糞面白くない生活を強いられて苦しんでみたところで、いったいどれほどの御利益があるっていうの? そんな苦労の果てに得られる安楽なら、いま目の前の快楽を取るほうが賢明というものだよ」というわけで、結局のところヒトビトの自愛的体質が変わらないかぎり、たとえ<何>行者が「いま」「ここ」に拓いている<快的遊感覚>も、どうせ行者の負け惜しみかひとりよがりの快感として遠い未来の安楽へと先送りしてしまうのだから、己の幻想性に自己欺瞞を見定めることのないヒトビトにとって<絵空事世界>とは、やはり<幻想>にすぎないというわけなのだ。それゆえに、<何>行者がみすぼらしい悲惨なる生活者として<絵空事世界>の快感を吹聴すればするほど、それは正に「絵空事」にすぎない理想世界へと解消されてしまうのだ。
 では、宗教のいう極楽浄土や天国という理想世界のように有名ではない<絵空事世界>は、いかにしてヒトビトと共有しうるものにすることが出来るのか。
 たとえば、ヒトビトにとって<正体不明の誰か>がたまたま<何>行者であるにしても、それがヒトビトの気を引く<魅力的人格>でないかぎり、たとえ「<何>面の告白者」を気取ってもまるでヒトビトに知られることもなく、ひとり「いわく因縁」を抱えた完全犯罪者のように未知、忘却、論証不能な<誰か>として存在しているにすぎないが、<何>行者にしてみれば、ヒトビトと共有する「常識・文化・制度」的苦悩を担いつつ「いまだヒトビトに語られていない何か」として、たまたま「ヒトビトの無意識」に潜在化されているにすぎないというわけなのだ。
 ところであらゆる<私>とは、「ヒトビトの無意識」ともいいうる膨大な<未知>に支えられてこその<私>であるにすぎず、その「未知なる存在理由」においては、たとえば宗教にいう本来清浄なる存在であったり、神の子であったり、あるいは未だ無言の「<何>面の告白者」であるというわけで、いかなる苦悩者・暴力者といえども「救済の動機」を持たぬものはいないことになるのだ。しかも、その「未知の存在理由」においては、すでにヒトビトの財産として育まれてきた救済物語によって期待される<未知なる救世者>の輝かしき業績を、たとえば釈尊やイエスのみならず八百万の神々や無数の如来や菩薩の仕事として、<過去>に出現したものとして享受してきたはずだし、あるいは<現在>に出現しているものとして享受しているはずだし、さらに<未来>に出現するはずのものとして享受するはずなのだ。
 言い換えるならば「ヒトビトの無意識」には、あらゆる<救済物語>が語りつづけてきた「救済の楽園」が<過去形><現在形><未来形>として含まれているが、いかなる「救済の理想」も苦悩者の「いま」「ここ」になければ<救済>たりえないのだから、この<通時間的>ではあるがあくまでも<現在形>でありつづける「無意識」の中にしか理想世界としての「救済の楽園」はないともいえるのだ。しかも、ヒトビトの「常識・文化・制度」的欲望として「無意識」が単なる<幻想>ではないと言いうる限りにおいて<絵空事世界>もまた<幻想>ではないと言えるのだ。
 だから、ヒトビトにとって「いまだ語られていない何か」として存在する<誰か>とは、これから救済される<私>の姿であるということになるが、しかし、いかにヒトビトが「救済を約束された<私>」という福徳と知恵と善意の祝福を担うものとしてあろうとも、ヒトビトが人類滅亡の現前で青息吐息であることにはなんら変化がないのだから、結局は無明無知の「暴力的<私>」として「いま」「ここ」に存在しているにすぎないのだ。
 それは、ヒトビトがすでに語り尽くされ実現されているはずの「救済の楽園」の上にいながら、それを自愛的欲望で覆い尽くしているにすぎないというわけなのだ。
 しかも<自愛的暴力>で焦土となる直前の「救済の楽園」は、あらゆる人間的暴力を遥かに超えた何億光年も彼方の異星人が救世主として飛来しないかぎり救済されないのだから、そんな望みの薄い期待を充てにしていないで、自らの「人類滅亡への責任」に目覚めそれを告白するしかないと思われる。そもそも<私>の苦悩克服とは、身心一如を前提とする「<私=ヒトビト>的欲望」の「解放=開放」によってこそ得られるのだから、物象化的倒錯を抱えて死んだ後に、身体を失い不成就性の自愛的欲望のみの「精神=心=霊魂」という迷いの実体的存在になってしまっては、もはやそこには自力救済の道はなく、まして人類滅亡の後には誰からの他力救済や追善供養のあてもないということを忘れてはならないといえる。
 つまり、「ヒトビトの無意識」によってこそ救済を約束された「<何>面の告白者」とは、絵実物的なしがらみを背負った「苦悩者」でなければならないにしても、「苦悩者」でないヒトビトは存在しないというわけで、「<何>面の告白者」とはヒトビトの共通の<可能性>たりえたわけである。しかも、「苦悩」が<私>とヒトビトとの役柄関係であることに気付けば、<私>とヒトビトとを通底させる「荒れるにまかせる力」ゆえの共有財産であることにも覚醒しえたわけで、そこでは<自己愛>による自己保身の最後の抵抗として、「あたしが苦労するのは、あたしが悪いわけじゃない。みんな世間が悪いのサ」なんていう、抜き差しならぬ苦労ゆえの「諦め的理想郷」をも語りえたわけであるが、しかし、<苦悩克服>に血沸き肉躍るわれわれは、そこにこそ「<私>の解放」を「ヒトビトの開放」へと移行させる道を拓いていたわけである。
 それにしても<絵空事世界>とは、絵実物世界の反照的な実体としてあるわけではなく、ヒトビト個々人が自らの<自問自答の物語>として「<ヒトビト=私>の苦悩」を克服することによってしか、ヒトビト共通の「可能性としての<何>面性」を語ることは出来ないのだから、今さら「救済の楽園」や<理想世界>の建設を標榜して集合したり、それを共同幻想にして現実の苦悩を慰め合うために組織・団体・結社・会派などで徒党を組むことはないのだ。しかし、「組織たりえぬ組織」として<何>行者や<何>論者たちが連帯できるなら、「組織もどき」のそれは正に「<何>面物語」として、とりあえずの「常識・文化・制度」の開放から<私><誰か>の解放を語ることが出来るのだ。
 もはやわれわれが、下手な考えをして休んでいるうちにも人類は滅亡してしまいかねないのだから、「いま」「ここ」に実現されている世界こそが「救済の理想郷」でなければ間に合わないけれど、何はともあれ<救済>と<滅亡>との狭間で辛うじて生きつづけているわれわれは、とりあえずは<救済>の真っ只中で「救済されつづけている」はずであり、これからも「救済されつづける」であろうところの「理想たりえぬ理想」世界に生きていると言える。それゆえに、いかなる<理想世界>も「いま」「ここ」に<快的遊感覚>として実現されなければならないのだから、われわれは人類滅亡の責任をたとえ「一口の食物」に対してもヒトビトと共有しつつ、人類が常に「望んできた」「望んでいる」「望みつづける」であろう「救済の楽園」のために、ヒトビトが常に未知として語らずに済ましている無意識・無意味・無価値なる戯れを呼び覚まし、「いま」「ここ」で<何>的「事件=事件報告」を生きなければならないのだ。

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12. 仕付け (躾から[身+何]へ)


 「常識・文化・制度」的欲望の「解放=開放」をいう<何>論にとって、体制的暴力者になるための「仕付け(躾)」とは、いかなる意味を持つことになるのか?
 「仕付け(躾)」とは、『新明解国語辞典』によれば「(1)礼儀、作法を仕込むこと」とあり、それは正に読んで字のごとく、剥き出しの自愛的暴力者である「餓鬼」を、真・善・美・聖・愛という「常識・文化・制度」的価値によって<体制的><社会的>に人格化することといえる。
 本来、無明無知として生まれてくるヒトビトが、体制的な社会人として責任ある地位・名誉・財産を確保しようとするならば、発育不全の「剥き出しの自愛的暴力者」や「独我論的体質」であることによつて世間から逸脱し排斥されて、自分の粗暴な行為の「しっぺ返し」である苦痛な経験により、人格を矮小化し閉塞情況へと追い込んでしまうことのないように、ヒトビトと「対話のできる人間関係」を形成するものとしての「仕付け」が必要になる。
 しかし、恒常不変の常識・文化・制度など有り得ないのだから、揺らめく価値の中に身を置いても自己喪失のノイローゼに落ちることのないように、「仕付け」を「躾」に固定することのない「身(真−偽)」「身(善−悪)」「身(美−醜)」「身(聖−俗)」「身(愛−憎)」として、変化を重層的に引き受けられる柔軟な人格が養成されなければならないといえる。それゆえに、既成の価値観を硬直化し暴力化して、「支配・抑圧−排除・隠蔽」することによって、仕付けられるものの「ねえ、どうしてなの?」に問答無用の「どうしてもだ!!」で「知ることの自由」に目隠しをしてはならないのだ。
 つまり、人間はどのように生きても社会的産物でしかないとすれば、所詮は生きがたき人生の苦悩をせめて<誰か>と共有しあえるようになるための「仕付け=対話」として、とりあえずの「<常識・文化・制度>的価値観による反省」が不可欠のものとなる。
 ところで、「仕付け」についてさらに辞書を見れば、「(2)縫い目を正しくするために、仮に糸で縫い押さえておくこと」とあるように、「仕付けられた事態」をそのまま究極の境地とするわけにはいかないのだ。
 そもそも「荒れるにまかせる力」によってこそ生まれ育ってくる餓鬼どもらは、「仕付け」のタガが解かれれば待ってました自堕落な大人になってしまうのだから、せめて「仕付け」とは、<私>とヒトビトが苦悩を共有しあえる関係こそを確立するためのものとして、その共通のキーワードである<自愛的欲望>についての反省を習慣づけるものでなければならないと言える。それは体制的人格が、苦悩の元凶である自愛的欲望を<何>との関係でいかにセルフ・コントロールするかということであり、<何>的視座によって「体制的価値への反省」を喚起することなのだ。
 したがって、ヒトビトが「仕付け」のタガを解かれたのちも、せめてヒトの痛みを共有しあえる対話者としての人間関係を拓こうと願うならば、「体制による反省」=「体制への反省」によって生きられる「身+何」と書きうる人生観に覚醒しなければならない。それが人類滅亡に対する<私>的責任を踏まえた苦悩克服にまで拡大されるなら、「身+何」は<何>行者として生きることを可能にする。
 それにしても誰もが「思うようには生きられない」体制の中で、巧みな「言い訳という自己欺瞞」によって自愛的暴力を言い繕ってきたヒトビトが、自分を偽るついでに「建前」という言葉で体制的価値を硬直させておきながら、「本音」のところではその欺瞞にみあつた「まにあわせ」の快楽を貧るばかりの大人たちとして、すでに「体制による反省=体制への反省」による<対話>の道を自ら破棄してしまつた発育不全者でしかないというのに、彼らは子供たちにいかなる「仕付け」をするつもりなのか?
 そんな自分勝手な大人たちが、己の自堕落を棚に上げ自分の都合よく子供たちを<管理>しようとしても、「発育不全の苦悩をいかにして誰かと共有したらよいか」を知らずに育った子供たちは、その苦悩的閉塞情況に埋没するばかりで、家庭から学校から社会から脱落してしまう。もはやヒトビトとの絆を失った子供たちは、「剥き出しの自己愛的欲求不満」の餓鬼となりただ暴力化するのみである。
 もっとも発育不全の大人たちは、端っから「仕付け」など出来ないことを知っているから、それを学校に任せてしまうけれど、「仕付け」の基本はまず家庭における自己愛への反省にあるのだから、学校が子供たちの<社会的人格形成>に参与することは重要であるにしても、<人格形成>の基本である「仕付け」まで学校が教育し管理することを許してしまえば、教育を国家権力や政党が握っているかぎり国家権力や権威者たちの勝手な欲望に人格形成を委ねることになり、学校という偏狭で閉鎖的な管理社会で権力者や権威者に都合のいいように均質化されてしまい、異端や例外を差別し排除する「国家信仰の宗教患者」を育て上げることにしかならないのだ。
 あまねく大人たちは、自らの発育不全が国家・政党・官僚・企業から学校に至るまでの社会そのものの閉鎖的体質に起因することを、その反照的なパロディーとして顕現させている餓鬼どもらの痛みによって知らなければならない。たとえばそれは、「校内暴力」や「いじめ」について<文部省>は口を出すけれど、それ以前に管理教育の亡霊である「教科書検定」などという時代錯誤を廃止すべきだということなのだ。
 今さら言うまでもなく「反省の論理」によれば、排除されたものの苦悩は排除する暴力への厳しい反省による、「苦悩の共有」によってこそ贖われなければならないのだ。
 すべての宗教による<救済>が、まずは己の無自覚なる「苦悩=暴力」に反省的に目覚めることから始まるように、あるいはすべての脱構築がすでに構築されている体制を前提にするように、<何>論による「解放=開放」もまた、とりあえずは「常識・文化・制度」的欲望によって整型化された人格を措定せざるを得ないのだ。
 それゆえにわれわれは、いま「仕付け時」を迎えた子供たちを持つ働き盛りの父親に、あるいは団地や新興住宅地で自愛的欲望に肥満した母親に、「あなたは何?」を喚起せずにはいられないのだ。

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