9. 「ドウシテ君ハ、毎日アキモセズニ生キツヅケテイルノデスカ?」


 「さしたる表現欲求があるわけでもなさそうなのに、<A4>とか<6F>じゃ、なんでそうやって毎日いたずら書きや無駄口ばかりを続けているのかね?」と言ってしまったヒトビトは、その後でわけもなく空しい口元を抑えることになる。
 なぜなら、われわれが<A4><6F>に表現生活を続けることを、仏教用語を借りて言うならば、苦悩の<業果>を新たなる苦悩の<業因>にしないように「<因縁解脱>を生きつづけること」がすでに明白であるはずだから、ここでは「なぜ生きつづけるのか?」に要約しうる一切の問い掛けが、もはやヒトビトの自愛的暴力を昂揚させることのない「つまらない質問」に成り下がっていることを知ることになるからなのだ。それは、言い換えてみればヒトビトの自愛的欲望を映す鏡である<A4><6F>が、いつも「では君たちは、どうしてそのささやかなる<私>なんかに呪縛されて、生きがたき人生をさらに四苦八苦させてまで生きつづけているのかね?」と問い返しているのに、ヒトビトもまた回答を用意してくれていないということなのだ。
 しかしわれわれが、ここでヒトビトの回答を待つまでもなく言いうることは、ヒトビトが<私>として喜びつつ悲しみ、泣きつつ笑い、憧れつつ卑下し、信じつつ裏切られるようにして生きつづけること以外に、<ヒト>が<ヒトビト>であることや<私>が<我々>であることの方法を求めないことの理由が、結局のところ「ヒトはみな弱く哀しく貧しいものだから、自己愛という衣を脱ぎ捨てては生き延びることが出来ないのだ」というわけで、自己愛への反省さえ自己愛によって武装させてしまうという<暴力的体質>であるということについてなのだ。
そして多くのヒトビトは、自己愛に埋没してでも生きざるをえないとする「弱者の発想」というものが、どれほど無自覚に培養された「体制的暴力」を担っているのかということについては目をつむり、その代償として常識・文化・制度によって自己保身を求めることが、より弱いものを踏み台にするという「陰険な弱いものいじめ」の排他的な暴力であるということについても目をふさいでしまうのだ。もっとも「弱いものいじめ」も「強いものの足を引っ張る」ことも均質化された閉鎖的社会の特質だから、ヒトビトは重々承知の「善意=悪意」なのだ。
 それゆえにわれわれは、弱者を気取って暴力責任を回避したつもりのヒトビトが、<A4><6F>に「ドウシテ毎日アキモセズニ表現生活ヲ続ケテイルノデスカ?」と問うことと、<A4><6F>が、すべてのヒトビトに「ドウシテ君タチハ、毎日アキモセズニ生キ続ケテイルノデスカ?」と問うことが、共にそれぞれの回答であることを明らかにして、つまりは<問うこと>が自らの<回答>であるにすぎない<回答>のない<自問自答>によって、「自分が<何か>を問う前に、すでに誰かに<何か>を問われている」ことに覚醒させる<何>的反省を仕掛けることにより、小賢しくも隠蔽された「弱者の傲慢さ」が、実はより強力な暴力に「支配されたがる欲望」であることを指摘しておかなければならないのだ。
 しかし、<A4><6F>に遭遇するまでもなく、すでに「いかに生きるべきか?」という内なる声に回答しつつ生きてきたはずのヒトビトが、もしも自己確信を疑うことのない体制的暴力者ならば、「ドウシテ生キ続ケテキタノデスカ?」に対してはいとも簡単に「当たり前じゃないか、楽しいからさ!!」と言い放すかもしれないし、あるいはまた「いま積極的に死ななければならないほどの理由を見い出せないからさ」などと気取ってみせるかも知れない。それは、今さら特別な決意を必要とするまでもなく「荒れるにまかせる力」ゆえに生き延びてしまう人間の宿命が言わせる台詞にすぎないが、そんな台詞で「人類滅亡への欲望」に支えられてこその幸福に目をつむり、「人類滅亡への責任」などという途方もない悲観論を容易に退けうるほどに健康的かつ鈍重に「<私>たりうる<私>」は、いまうかつに死んでいかようにも回避しえぬ苦悩者になるのなら慌てて死に急ぐことはないにしても、このまま自愛的欲望に任せて生きつづけてしまえば、いま死ぬよりもさらに辛い苦悩者になって死につづけるであろうことの不幸はどのようにして回避するつもりなのか?
 そこでわれわれは、すべてのヒトビトが人類滅亡への欲望を回避しえぬために共通に担うべき責任を踏まえ、いま「死に値するほどの生きかた」とは何かについて考えてみたいと思う。
 先人たちの「苦悩的死」を不成就性の霊的欲望として背負った<業果>としての人格を、新たなる苦悩の<業因>にさせぬように生きることとは、取りも直さず「<何>行者を生きること」に他ならないが、そのように生きつづけた「<何>行者の<死>的意味」とは、歴史化された「ヒトビト=<私>」の苦悩を浄化しつづける「<何>面の告白者」が、あの「是認の沈黙」によって<告白者>であることを解消し、それまで担っていた「<何>面性」をすべてのヒトビトが誰でも担いうる<可能的人格>として送り返すことなのだ。
 ところが、すでに見てきたように「<何>的告白者」といえども「絵実物もどき」の生活者であるかぎりは「十全たる告白者」と呼ぶことが出来なかったわけであるから、まして歴史化されている霊的苦悩を浄化するために告白しうるかぎりの<過去>を溯っても、結局は仏教にいう「本不生」としての「正体不明者の無意識」という捕らえ所のないところへと逢着するしかないとすれば、はたして<何>行者は「<何>的死」を実現するために「<何>面の告白者」でありつづけるにしても、誰が誰であるかも分からない暗黒の無意識に迷い込んだままで「是認の沈黙」を「妥協の沈黙」にしてしまうことのないように、「<ヒトビト=私>の苦悩」を厳密に掘り起こし浄化しつづけることが出来るのであろうか。しかし、この問い掛けも「<何>的時空間」を「いま」「ここ」として生きうる<何>行者の立場を見定めているならば、「<何>面の告白者」がほとんど無意識に背負っている<業果>としての常識・文化・制度は、いかにして<何>化しうるのかと問い返すことと同じことになるのだ。
 とすれば、「絵実物もどき」という苦悩の台座においては「<何>面の告白者=<何>的人格=ヒトビト」であったのだから、ここで改めて「もどき態・<何>面」がもともと<シニフィアンの戯れ>として正体不明の<業果>的人格にすぎなかったことを見定めるならば、「<何>面の告白者」は、いまだ<誰>にも<何>も問われないまま<地>化されて無意識的な常識・文化・制度に埋没した「<何>的苦悩の事件(=事件報告)」として存在しているというわけなのだ。
 言い換えるならば、<誰か>が「<何>面の告白者」として「<何>的苦悩の当事者」になることは、「<私=ヒトビト>の無意識的苦悩」に覚醒することにすぎないというわけで、ここでは「無意識の正体不明者」が自らの<無意識>と<不明性>を告白するためには、「<何>面」という「絵実物もどき」のフィルターがなければ<何>も告白しえないのだから、所詮「語りえぬものは、語れないものとして語ることによって、はじめて語れないものになる」という絵実物世界の自己矛盾へと語るに落ちるのだ。
 したがって、<何>行者が十全たる「<何>面の告白者」として、「いま」「ここ」における「<何>的死」を生きるために告白しうる「<ヒトビト=私>の苦悩」とは、「本不生」の過去から未来の人類滅亡にいたるまでの苦悩を掬い上げなければならないのだから、結局は「荒れるにまかせる暴力」そのものを苦悩として告白するしかないというわけなのだ。しかも<誰か>が「正体不明の<何>面」を担いうるということは、その<誰か>がすでに「<私>たりえぬ<私>」として自己同一性の曖昧な「絵実物もどき」にすぎないという<自覚>が不可決であるが、その<自覚>も「<誰か>が仮に<誰か>であるにすぎない<私>」として生きてみなければ、苦悩として「解放=開放」すべき「荒れるにまかせる暴力」は見えてこないのだ。
 言い換えるならば「<何>面への覚醒」とは、<何>行者という身分を永劫に保証する<ライセンス>ではないのだから、たとえば、「もしも僕がその役をするとすれば」というように「<私>が仮に誰かである」ときに、<私>が<誰かの役柄>を<私>として担えば「仮に誰かであるはずの<私>」は、<とりあえずの誰か>という「業果=ヒトビトの欲望」を肉化することになり、ヒトビトによって物象化されたとも言いうる役柄としての<誰か自身>になってしまう。あるいはその逆に、「もしも誰かが僕の代わりをすれば」というように「<誰か>が仮に私である」ときに、<誰か>が<私の役柄>を<誰か自身>として担えば「仮に私であるはずの<誰か>」は、<とりあえずの私>という「業果=私の欲望」を肉化することになり、<私>によって物象化されたとも言いうる役柄としての<私自身>になってしまうのだ。
 するとここでは、どちらの場合も<私>の業果と<誰か>の業果が相互に依存し補完しあってさらに強い上位の自己同一化を進めるために、「<私>たりうる<私>としての<誰か>」と「<誰か>たりうる<誰か>としての<私>」を「陰-陽」といいうる二つで一つの<人格>へと変容して、どちらか一方の<人格性>が新たに深層化されて<業因>となり、「<あるひと>が<そのひと>であるかぎり、<あるひと>が<私>であり、<私>が<そのひと>である」とか、「<私>が<私>であるかぎり、<私>が<あるひと>であり、<そのひと>が<私>である」という自愛的欲望を生きることになってしまうのだ。
 とにかく<無意識>を「語る=意識化する」ということは、表現者が<無意識化>することによってしか表現しえないのだから、<無意識化>してすでに「表現者たりえぬ表現者」になった「<何>的表現者」は「表現の<何>景」を拓きつつ、「無意識化した意識」を「意識の<何>景」としてあるいは「無言化(沈黙)した言葉」を「言葉の<何>景」として掘り起こすのだ。
 だから、「ドウシテ君ハ、毎日アキモセズニ生キツヅケテイルノデスカ?」とは、「生の<何>景」として「<死>的意味」を語ることであったと同時に、「意識化されている言葉=言葉化されている意識」の<何>景を、「無意識化されている言葉=言葉化されている無意識」=「意識化されている無言=無言化されている意識」として語ることでもあったのだ。

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10. < 何> の生命力 ( <何>面への反省的方法論 )


 <何>行者であるとりあえずの<自分>を「<何>面の告白者」として生きるということは、「<ヒトビト=私>の苦悩」を「対他−対自」の関係で<告白>しつつ、さらに「即自的−直覚的−非人称的」な<何>面性として覚醒しつつ生きることであるといえる。そこで<何>化の反省的構造を「対他−対自−即自−直覚−非人称」の連続的な関係で捕らえ直し、<何>の体得を言いうる身心一如の生命観について考えてみたい。
 ヒトとヒトとの関係においてしか生きえぬ<私>が、自愛的欲望の浄化として自己否定的に<何>の体得を目指すということは、まず始めに「対他的自己」の<何>化によって「<対他的何>的自己→対他的<何的自己>→対他的何」を言うために「<何>的対他化」をすることであるといえる。
 これによって順に<何>化を進めると、「対他的何」=「対自的自己」の<何>化によって、「<対自的何>的自己→対自的<何的自己>→対自的何」を言うために「<何>的対自化」をすることになり、次にこの「対自的何」=「即自的自己」の<何>化によって、「<即自的何>的自己→即自的<何的自己>→即自的何」を言うために「<何>的即自化」をすることになり、さらに「即自的何」=「直覚的自己」の<何>化によって、「<直覚的何>的自己→直覚的<何的自己>→直覚的何」を言うために「<何>的直覚化」をすることになり、無意識の<何>域を拓いて「直覚的何」=「非人称的自己」に到達する。これを「<何>化する私」の反省的方法論と言うことができる。
 それに対して「<何>面の私」とは、逆に無意識の<何>域にある「非人称的自己」=「直覚的何」が「直覚的<何的自己>→<直覚的何>的自己→直覚的自己」へと具現化するために「<何>的直覚(面)化」をすることになり、次に「直覚的自己」=「即自的何」が「即自的<何的自己>→<即自的何>的自己→即自的自己」へと具現化するために「<何>的即自(面)化」することになり、続いて「即自的自己」=「対自的何」が「対自的<何的自己>→<対自的何>的自己→対自的自己」へと具現化するために「<何>的対自(面)化」することになり、さらに「対自的自己」=「対他的何」が「対他的<何的自己>→<対他的何>的自己→対他的自己」へと具現化するために「<何>的対他(面)化」をすることになり、いよいよ「対他的自己」=「非人称的何」が「非人称的<何的自己>→<非人称的何>的自己→非人称的自己」へと具現化するために「<何>的非人称(面)化」をすることになり、再び「非人称的自己」=「直覚的何」に回帰することになる。
 この「<何>化する私」から「<何>面の私」への折り返しを、あたかも<自己目的的>な成仏論のように「<何>化する私の<何>面論」とすれば、それとは別に「<何>面の私」の<他目的的>な方法論として「<何>化する私」を<自利>の道としつつ、そのまま折り返さずに<利他>の道へと進み「<何>面の私」を語ることが可能になる。
 それは、「直覚的何」=「非人称的自己」に到達した「<何>化する私」が無記の<何>域で<対他性>の「<何>面の私」へと突き抜けて、「直覚的何」=「非人称的自己」を「<非人称的何>的自己→非人称的<何的自己>→非人称的何」へと具現化させるために「<何>的非人称(面)化」することになり、次に「非人称的何」=「対他的自己」を「<対他的何>的自己→対他的<何的自己>→対他的何」へと具現化させるために「<何>的対他(面)化」することになり、続いて「対他的何」=「対自的自己」を「<対自的何>的自己→対自的<何的自己>→対自的何」へと具現化させるために「<何>的対自(面)化」することになり、あとも同様に「<何>面化」しつつ無記の<何>域へと回帰するのだ。
 あるいはまた「対他的自己」が「とりあえずの<何>面性」に覚醒し、何はともあれ<利他>を目指せば、「非人称的何でなければならない対他的自己」を要請されて「非人称的自己」=「直覚的何」へと「<何>的非人称(面)化」しなければならず、さらに「<何>的直覚(面)化」から順に<何>化しつつ、ヒトビトの心を通して再び浄化された「対他的自己」へと回帰することになる。
 つまり、<自利>は「<何>的直覚化」によって「非人称的自己」(直覚的何)となり、<利他>は「<何>的非人称化」によって「非人称的何」(対他的自己)となるというわけで、<自利>と<利他>を結ぶ「<何>的非人称化」という無記の<何>域においては、「非人称的自己としての直覚的何」=「非人称的何としての対他的自己」が言えることになり、<自利>の目的が<利他>であり、<利他>の目的が<自利>であるという循環構造を明らかにして、さらに「<何>的直覚化」「<何>的即自化」「<何>的対自化」「<何>的対他化」「<何>的非人称化」という<何>的表現「行為=経験」は、それぞれの情況において「自利=利他」及び「<何>化する私=<何>面の私」を成立させていることが了解される。
 そこで、とりあえずはこの反省の構図を「愛の戯れ」として語ってみると、謎の魅女と初心な青年とのよくある別れのロマンスでは、十二分に青年の愛を受け入れている魅女が、いまだ若さだけの情熱で「アア、僕は君を離したくない!! ねえ、一緒に暮らそうよ」なんて、とめどなく勃起する愛をとりとめのない言葉で「対他的自己」へと呪縛するばかりのかわいい表現者の唇に指をあて、「もう、何も言わないで。そのままでいいのよ。そう、あなたはステキよ」と言いながら、青年の荒々しい芳香に言葉を埋め「対他的何」をまさぐる思いの空しさを振り切るけれど、すでに子宮の中では「アア…、この純粋さ、イイワッ、離したくない!! 離したくない!!」と愛欲の「対自的自己」へ埋没しつづける熟れた女としても、やはり純粋な愛欲のみでは生きられないと知り尽くした女であれば、「でも、このヒトの輝かしい未来のためには、いま、あたしが身を引くしかないわ」と心を決めて結局は「対他的何」からさらに「<何>的対自(面)化」への哀しみを引き受けなければならないのだ。
 ところがその次の日に、いつものように愛欲のメッセージを送る青年は、「いつまでも、纏わりつかないでね。あたしにはあたしの生活があるのよ」と魅女の「<何>的対自(面)化」された想像もしない言葉に遭遇し、「対他的何」から「対自的何」へと遠のく魅女に突き放されて、望みのない「<対他的何>的自己=対他的<何的自己>」から失意の「<対自的何>的自己=対自的<何的自己>」にたたずむしかないけれど、それはちょっとした不機嫌が言わせる悪い冗談だと思い直した青年は、より情熱的に愛欲のメッセージを送りつづけることになるが、ある日「あたしはねえ、浮気な女なのよ。あなたとは、遊んだだけよ」と、魅女はすでに「<何>的対自化」された言葉を青年へと送り自らは「対自的何=即自的自己」へと身を隠すのだ。
 もはや青年は「対自的何」を抱え、魅女の面影に向かい「あの愛の祝福は偽りだったとでも言う気かい? どうして僕は、こんな辛い仕打ちを受けなければならないんだ!! 僕は君を愛している!! 君だって、あんなに僕を愛してくれたじゃないか」と溢れ出る涙で立ち尽くすばかりだけれど、夢うつつに現れる魅女はまるで慈愛に満ちた聖母のような眼差しで「もう、あたしたちは終わってしまったのよ」と「<何>的即自化」へと誘う最後のカウンターパンチを浴びせるのだ。
 「どうしてなんだ? どうしてなんだ?」を繰り返すばかりの青年が、ようやく見付け出した魅女の前で、勃起しつづける愛を抑え切れずに哀れなほどに滑稽なスタンドプレーで気を引こうと焦っても魅女は振り向いてもくれないし、おまけに「もう、あなたのことは忘れたわ」といいたげな「直覚的何」のポーズでいかにもリッチな中年男と腕を組み立ち去ってしまうのだから、もはや正体不明になるばかりの「非人称的自己」としか言いようのない魅女の後ろ姿を、青年は世界の失意を一身に纏った絶望者として見送るばかりなのだ。そして、そんな青年が中年男への決闘状を握り締め欝々とした日々を送っているところへ、不意に魅女から「愛しているわ。だからもう誰も愛さない。さようなら」なんて、すぐには合点のいかぬ青年を一気に「直覚的何」へと突き落とすようなメッセージが送られてくるのだ。
 はたして青年には、自己愛によって傷付け合うほどに愛し過ぎてしまった愛人関係に、もはや愛欲への憎しみによってしか愛し続けられなくなってしまうという哀しみを見てしまった者に残された優しさとは、結局、黙って立ち去ることなのだという「愛の矛盾」を理解しうるであろうかというわけであるが、われわれとしては、この間に合わせの陳腐な物語にせめてもの「愛の<何>景」を見い出すつもりではいたけれど、どうやら「<私>は<誰>よりも<私>を愛していることに気付いたから、もう<誰>も愛したくない」という「愛の生命力」を語るのみの絵実物世界を反省的に垣間見るだけに留どまってしまったといえる。
 そこでわれわれは、この中途半端な物語のナンセンスより蘇り、いましばらく「非人称的自己」と「非人称的何」を結ぶ「<何>的非人称化」の現場に踏み止どまりたいと思う。
 とりあえずは「<何>的非人称化」を<自己目的性>の立場から「非人称的(無意識的)な誰かとしての何」と言い換えておけば、この自己否定的な<何>的反省とは「荒れるにまかせる力=暴力的生命力」を<地>とする<不在の図>としての<自分>を拓くことだから、ここで否定されていく<私>が「直覚的何」として「非人称的自己」に踏み止どまるということは、取りも直さず<無意識>である「無言の生命感」への非暴力的な覚醒であり、いまだ誰にも「意味=価値」づけられていない「無記の生命力」の体得であるといえる。
 ここで<何>行者の日常生活における目的を、新たなる「業因=欲望」を生むことのない「無記でありつづける生命力」の体得とすれば、「<何>的非人称化しつづける表現者」とは、もはやヒトビトのいう十全たる<人格>たりえず、単にひとつの<何>論的物語における「記号=<何>面」として「去勢された生身の生命感」を語るのみであるが、その「非人称的自己」を「<何>化する私」の「直覚的何」として見れば「自己否定しつづける生身の何か」ということになる。
 したがって、身心一如をいう生命観における<何>行者の「いま」「ここ」における姿とは、「自己否定的な<何>の生命力」そのものになることであるが、ここから「対他的な<何>面性」を志すことになれば「荒れるにまかせる霊力」を踏まえた「自己肯定的な<何>の生命力」は、あたかも因縁解脱した仏教者がその後も<利他>のために生きつづける浄化した「業果=業因」としての生命力であるように、ヒトビトの供養によって救済力を発動する「仏の請願」と同様の存在理由を持つことになる。しかし、所詮はヒトビトの無意味性、無価値性を反照的に担うにすぎない<何>行者は、華々しいカリスマ的救済者であることよりも、「もはや何も書くことがない」ことを表現「行為=経験」しつづけるという取るに足らない欲望を生きつつ、「そんなつまらないこと、ヤメロ、ヤメロ!!」と言ってくれるヒトビトに、「あなたは、何んで生きることをヤメないんですか?」を問い返すのみの無駄口の鏡であるほうが相応しいといえる。
 とにかく、ヒトビトの絵実物世界においてはことごとくが「事件=事件報告」以前である「<何>的非人称化」の表現「行為=経験」は、「直覚的何」の「自己否定する生身の何か」がそのまま否定しつづけることで「対他的自己」へと移行し、同時に「対他的自己」が「自己肯定する生身の何か」を肯定しつづけることで「直覚的何」へと移行するという、「自己否定=自己肯定」を可能にする無記の<何>域を「<何>の生命力」としてのみ「無言で語り」「無意識で覚醒」させるのだ。

   直覚的何
     ||
  非人称的自己 − <非人称的何>的自己−非人称的<何的自己> − 非人称的何
            [→<何>的非人称(面)化←]       ||

   対他的何 − 対他的<何的自己> − <対他的何>的自己> − 対他的自己
     ||       [→<何>的対他(面)化←]

   対自的自己 − <対自的何>的自己 − 対自的<何的自己> − 対自的何
             [→<何>的対自(面)化←]        ||

   即自的何 − 即自的<何的自己> − <即自的何>的自己 > − 即自的自己
     ||       [→<何>的即自(面)化←]

   直覚的自己 − <直覚的何>的自己 − 直覚的<何的自己> − 直覚的何
            [→<何>的直覚(面)化←]          ||
                              非人称的自己

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