7. 「何も書くことはない」あるいは「何もしないでいられるか」


 a. <何> 面の告白


 今さらさしせまった<問題>や<苦悩>があるわけでもないのに、黙っていても生きつづけてしまうためにいつも「表現欲求」に翻弄されている<誰か>が、幸か不幸かあの悍しき「作品−作者」の関係に対しては<正体不明>でいられることに気付いたとすれば、そんな<誰か>は、とりあえずの<A4><6F>などで<何>物語を語るのが一番似合っていると思われる。
 そこでも<何>は、<A4><6F>によって「意味するもの」であると同時に<A4><6F>を「意味されるもの」であるために、やはり「何って何?」は「何って何!!」でしかないのだ。それは、<何>が、<A4><6F>においてのみならず、<誰>がどこで何によってどのように語ろうとも自由でありながら、結局は<何>以外では語りえぬ<物語>を語らせることになってしまうということなのだ。
 つまり、「<何>以外では語りえぬ物語を語ること」とは、「今さらさしせまった問題や苦悩があるわけでもない」のに、<反省的表現者>であるために「<何>かを語らずにはいられない生活者」でなければならないということであるから、それを<A4><6F>における「ある表現者」の立場でいえば、何はともあれ「何も書くことがない!!」という「事件=事件報告」になる。
 では、「今さら何も書くことがない!!」と書く<何>的表現者にとっては、もはや<何>的に整型すべき<私>が存在しないということになるのか?
 ここでわれわれとしては、「何も書くことがない<何>的表現者」の事件(=事件報告)性が「<何>面の誰か」の独り言であるうちは<何>的意味における自己完結になっていると言えるから、とりあえずは「<何>的私」以外の<私>を見いだすことは出来ないと言うことができる。しかし、とめどない<何>的反省は、「今さら何も語るべきことがない」はずの完結した<何>的表現者が、それでもなを絵実物的な<作者>のように「何も書くことがない」と「書きうる」事件報告性を引きずっているという、表現体験の自己矛盾を見定めざるをえないのだから、たとえ<何>的表現者といえども「生きつづける=表現しつづける」限り、いくら<何>化しても<何>化しきれぬ<私>を背負ってしまう「表現者=生活者」としての宿命こそを<何>化する手段について語らなければならないのだ。
 それをたとえば<何>的表現者の挑発的な「開放論的<技術>」として言おうとするならば、所詮は<無意味>にすぎない<何>的意味を提示するというほとんど無目的な<技術>が、はたして十全たる<技術>たりうるのかと問い返しておかなければならないことになる。
 そもそも<技術>とは、表現行為、表現経験に様々な暴力的目的を設定して、その合目的的な手段のために「条件づけ」「制約づけ」をすることであり、それによって「常識・文化・制度」的価値を捏造することであったのだから、当然このような絵実物世界においては、<何>的表現に<技術>の成立を認めることは出来ないはずなのだ。
 しかしわれわれは、絵実物世界に「金太郎飴」といいうる絵空事的陥穽の<何>的意味を仕掛けることができるのだから、たとえばヒトビトが<誰>か分からない謎の人物を<正体不明者>といったり、取るに足らない無駄なものを<無価値>という言葉で「価値づける」ように、自らのために語るに落ちる罠として<無価値>を偽造する「自己目的的技術=純粋技術」を仕掛けることができれば、その<技術>は非暴力性ゆえに「<技術>たりえぬ<技術>」ではあるが、充分に実効力のある「技術もどき」として絵実物世界ゆえの<何>的表現を可能にするのだ。
 したがって<何>的表現者の<技術>とは、絵空事的意味・目的に対しては押しも押されもしない<技術>でありながら、絵実物的意味・目的に対しては<技術>たりえぬ<技術>というわけで、結局は、絵空事と絵実物の狭間を「技術もどき」の手法によって循環させることだから、「今こそ何も書くことはない」と気軽に書き語れる「わざとらしい=まことしやか」な遊び方のことといえる。
 すでにわれわれは、「私とは何か?」「いかに生きるべきか?」の問い掛けに、いつも体制的なヒトビトが暴力的な回答を押し付けることが納得できず、より「解放=開放」的な回答を用意したいという儚ない望みにうなされての<何>行者であったのだから、とめどない反省によって「荒れるにまかせる力」に逢着し「<何>面の私」へと覚醒したときに、この「<何>面の表現者」が「とりあえずの<私>」を「自己肯定的」に語れば「私は<何>である!!」となり、「自己否定的」に語れば「私は<何>んでもない!!」と言わざるをえないというわけで、この「<何>でありつつ<何>ではない私」が<表現者>でありつづけなければならない宿命は、「表現する」ことによって「自己否定を肯定する=自己肯定を否定する」ことであるために、「<今さら>そして<今こそ>何も書くことはないと語りつづけなければならない」ということなのだ。
 しかもこの「遊び」が、限りないスリルによってわれわれを捕らえて放さない理由とは、ひとたび「何も書くことはない」と語ってしまった表現者が、もしも<何>のみを語ることなく<何>たりえぬ欲望を語ってしまったり、あるいはまた何も語らない「沈黙のヒト」になってしまうならば、その節操のない自己愛の喉元には「おまえは、そうやっておめおめと生き延びているにもかかわらず、もう何も語ることがないと言うのだな。それじゃ人間を止めるか、それとも<何>論を止めるかの二つにひとつだ、さあ、選べ!!」というわけで、反省という名の短刀が<何>面によって突き付けられることになり、結局のところ<何>的表現者は、「今さら何も書くことはない」を語りつづけながら「遊びの自転車操業」を生きつづけなければならないのだ。
 したがって、「<何>面の告白」がもはや「沈黙」でしかないという「反省する<何>もない<何>行者」とは、死という「解放=開放」的事件の現場における「是認の沈黙」による「すべてよし!!」によってしか実現されないといえる。しかし<何>的表現者たりえずに、いや、それだからこそヌクヌクと生き延びてしまう「芸術家」とか「宗教者」とか呼ばれる表現者たちは、「<何って何!?>である<私>」から限りなく逸脱しつづける絵実物的欲望の真っ只中で、彼らにとっては「自己喪失の恐怖」でしかない<何>面性から目を背け、その自己欺瞞を<自己愛>信仰への逃避によって取り繕ってしまうから、彼らが苦渋に満ちた表情で「今さら何も書くことはない」と宣言すれば、まるで鬼の首でも取ったかのように魅力のない怠惰な沈黙者に安住してしまうのだ。
 それゆえに「<何>面の告白者」たる<A4><6F>は、その「告白=表現」によっては反省しえなかったかもしれない<何か>をも反省しうる「循環する告白」として存在することにより、ねっとりとした自己愛に鎧われて衰弱した悍しき<沈黙者>の眼差しをも引き受けて、「今さら何も書くことのない表現者とは何か?」と問い掛けているのだ。言い換えるならば、自己崩壊に向かって突き進む絵実物的欲望に、絵空事的陥穽として仕組まれた<A4><6F>は、それによって足元を掬われたりつまずいて「おおっと!! こりゃ何んだ?」と叫ばずにはいられないヒトビトを、とりあえずは<何>以外では<何>ごとも語りえぬ快適な表現者に仕立てあげてみせるけど、それでも忌々しげな表情の苦悩者であることを止められないヒトビトのために、「すでに<あなた>は<何?>と言っているが、いまだ<何も言ってはいない>ことに目覚めていない」だけなのだと語り掛けているのだ。

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 b. 「何をするために、どれほど積極的に何もしないでいつづけられるのか」

 「今さら何も書くことはない」と語りつづけることが、正に「今こそ何を書かずにいられない」ことであるときに、それは「<何>面の告白」たりえたわけであるが、それをさらに「何をするために、どれほど積極的に何もしないでいつづけられるのか?」と問い直すことにより、<何>行者の行者たる生活の心構えを探ることができる。
 あらゆるヒトビトのみならずたとえ<何>的隠遁者であれ、すでに「霊魂」とか「心」として臆断されしかもそれが不成就性の欲望として蓄積されつつ歴史化した「荒れるにまかせる力」物語によって生まれ生きつづけている以上、生まれてこのかた他人という人間を知らない孤立無援の奇跡的存在でないかぎり、「常識・文化・制度」物語を根拠とする「正」「反」「脱」「非」「超」などの位置付けにより、何んらかの<意味><価値>を生きさせられてしまうわけであるから、ここで<何>的表現者が<行者>として「積極的に何もしないでいつづける」ためには、何はともあれ歴史化され無意識化されたヒトビトとの「しがらみ」である「荒れるにまかせる霊力」を「解放=開放」しつつ、なおかつ「いま」「ここ」で純粋「行為=経験」としての「何って何!?」が暴力たりえぬものとして生きられなければならない。
 そもそもヒトビトは「自分のしたいことが出来ない」からこその苦悩者でもあったとすれば、それに対して<何>行者が「自分のしたいことを思うように出来る」こととして「いま」「ここ」で「積極的に何もしない」ためには、すべての<私>が何事も思い通りにはいかないことを知りつつも思い通りにせずにはいられないという、「歴史化された霊力」の欲望を自己制御できていなければならないのだから、何はともあれ「<私>の知らない<私>」の不成就性の欲望である「歴史化された霊力」を、とりあえずは歴史的に既成事実となっている<霊魂観>を踏まえた「霊力浄化」の方法を取りつつ、同時に「いま」「ここ」においてその「霊力浄化」の手段をも<何>化しうる<技術>で「<私>もどき」を語らなければならないといえる。
 それは、<何>行者としての「自分のしたいこと」が、結局はどれほどの絵実物的結果を求めるわけでもなく、単に「<自分のしたいこと>を思い通りに出来るようになること」でしかないという、相変わらずの「戯れ」的構造によって語るに落ちているにすぎないが、この自己目的的な「私の<何>化=何の<私>化」を語る<技術>の体得とは、「技術の体得」を目指すことがそのまま「技術の実践」になっているというわけなのだ。
 この「<何>面の技術」として霊魂観を踏まえた「霊力浄化」を不可欠のものとする理由とは、たとえば<タイム・マシーン>などという「反省機」でもない限りいかなる<反省>も、すでに歴史化されている不成就性の「荒れるにまかせる霊力」をその過去へと溯り、どこまで辿っても切りがないほどに苦しみながら生まれ変わり死に変わりしつづけたヒトビトの、歴史によって物語化してしまっている<霊>的「事件=事件報告」を今さら「消したり書き換える」ことが出来ないからに他ならないが、「霊力浄化の技術」は、生きつづける限りの「自分のしたいこと」としてその体得を目指しつつ実践されていくならば、「いま」「ここ」ですでに<苦悩>ではないという意味においては歴史化されている苦悩の残り火を消しつつ、さらに新たなる苦悩を蓄積させていないという意味においても十分な「霊力浄化」でありうるのだ。
 つまり、<何>行者には、宗教家のような「聖−俗」的価値観もなく、芸術家のような「美−醜」的価値観もなく、まして科学者のような「真−偽」的価値観もなく、ただ<表現者>として「<私>もどき」にすぎないことへの反省的な自覚によって、消極的な「荒れるにまかせる力」を生きるのみであるから、そのために積極的に「<何>もしないこと=絵実物的欲望を生きないこと」=「<何>をすること=絵空事的希望を生きること」は、たとえば、かつて<宗教><芸術>と呼ばれた霊魂観を改めて「<何>的宗教」「<何>的芸術」とするために、あの<6F>の「ある表現者」が一日一画のルールによる『絵空事シリーズ』を「霊力浄化」という意味において「不空芸術菩薩論」と呼んでいたように、<積極的な表現者>としての自己否定を体制的価値と自愛的価値との狭間で「宗教もどき」「芸術もどき」としつつ「解放=開放」して、いかようにも絵実物的価値たりえぬ「霊力浄化」を生きる<何>的瞬間を拓きつづけなければならないのだ。
 そして、この「霊力浄化」の証しとして与えられるものとは、「自分のしたいこと」が、自愛的欲望の暴力的悪循環としてではなく正に「<何>的表現者の反省的欲求」として無理なく順調に出来るようになるということであるから、ヒトビトの常套句を借りて言うならば、<何>行者として「<運>がよくなった」と感じつつ生きられることになる。
 それにしても、ヒトビトが「しなければならないことが出来ず」「してはならないことをしてしまう」という、遺憾ともしがたい苦悩好みの「思うようにはありえぬ<私>」であることの根拠とは、自分勝手に<何か>を思う<私>が、それとは知らずに秘蔵している歴史化された「荒れるにまかせる霊力」によってすでに「<私>たりえている<私>」であるものを、そう簡単に変化させたり転換させることが出来ないということの軋みであるのだから、その軋轢、確執を和らげ社会人としてより良き幸運を生きたいと願うだけの<幸福論>なら、あるいは平穏無事な日々を慎ましく優雅に生きたいと願う<幸福論>のためになら、既存の<宗教>による神・仏という「善意の霊力」への供養、あるいはより積極的に<私>的欲望を犠牲的に捧げ願望成就の契約を取り付けることによってでも、それなりの「幸せ」「喜び」は獲得できるはずなのだ。
 しかし、神格化されている「荒れるにまかせる霊力」への「懴悔=自己否定」によって自愛的霊力の浄化を願う<信仰生活>というものは、その自己否定的な立場のささやかなる幸福だけで満足していられるうちはいいけれど、もともと<宗教>は自利利他の元祖であるから、「荒ぶる神」の欲望を具現化するための<私>になるために、神による自己肯定という正に「神懸かりの荒れるにまかせる暴力者」になることを我慢しきれなくなり、さらにその<私>的な自己確信を「神の絶対性」と取り違え、あまねくヒトビトを<絶対神>の名の元に救済し支配しうると考える<宗教患者>になってしまえば、その神を信仰しないヒトビトに対しては、単に独善的な暴力者へと成り下がってしまう。もっとも、絶対化された暴力で異教徒を選択し排除しない神は神たりえないのだから、そんな神・仏と名乗る「荒れるにまかせる霊力」による「自己浄化」を、「霊的武装」にすぎないと見定める<何>行者は、独善的な幸福論で不幸を撒き散らす<宗教的救済>を鵜呑みにするわけにはいかないのだ。
 それゆえに、あたかも宗教であるかのような、芸術であるかのような、学問であるかのような、つまりは「絵実物もどき」の<A4><6F>などが、ヒトビトに「こりゃ何んだ?」と言わせたりあるいは「あなたは何も読まなかった」と読ませることによって、「<何>もしないことが<何>をすること」であることを主張しようとするならば、それはあたかも重力の墓場である<ブラック・ホール>のように、ヒトビトが自らの存在理由である<霊力>によってこそ引き寄せられてくるものとして、壮烈なる霊力の自己崩壊現象を「<何か>らしい擬態」として仕掛けなければならないのだ。しかもこの「<何か>らしい擬態」とは、たとえば宗教的理性の成熟し切っていた古代インドにおいては、「行乞の出家者」やあらゆる「宗教的知性への覚者」を<仏陀>と呼んでヒトビトの信仰・崇拝の対象にしていたように、それは、その正体を詮索する以前にヒトビトの常識・文化・制度によって反照的に規定されていくものの姿であるはずだから、何よりもその時代の「体制的欲望=自愛的欲望」を無意識のうちに映し出す「価値もどき」として存在することになるのだ。
 したがって、<霊力>がことごとく<経済力>に擦り替えられてしまった現代の資本主義社会の中に、たとえばボロの僧衣を纏った行乞の釈尊がタイムスリップして出現したとしても、毎日自己保身の競争に追い立てられて己の霊性も経済価値でしか対自化しえぬヒトビトにとっては、単なる落伍者、敗北者、浮浪者としてしか見られないであろうことを思えば、いま高度に発達した資本主義体制において積極的な<何>行者として「<何か>らしい擬態」を生きるためには、とりあえず定職を持たぬ趣味の自由業人として、「体制的欲望=自愛的欲望」に呪縛された「職業−労働」観を「<何>的仕事−<何>的に働く(=遊ぶ)」ことへと転換し、「欲望を労働する=欲望によって労働させられる」ことを回避しつつ、それでも一見は人畜無害の小市民を装いながら絵実物的価値観に肩透かしを喰わせつづけなければならないといえる。
 それを<消費者>という小市民性からみれば、<何>行者は、あの<完全消費者>ともいいうる行乞者の「供養−応供」という<霊的ギブ・アンド・テイク>を、今さら善意の霊力を気取って押し付けるわけにもいかないのだから、せめて絵実物的欲望を貧ることのないささやかなる<消費者>として、単に「遊びを買う」「無駄を買う」「ゆとりを買う」ことにより、あるいは「何も買わない」か「何だけを買う」ことにより、<何か>を「買う」ために担っている自らの労働的苦悩を「解放=開放」しつつ、「欲望を買わない=欲望によって買わされない」という<何>的消費者を生きることになる。
 とにかく、「荒れるにまかせる力」の悍しいほどの欲望に「でもね、しょうがないんだよ」と言いつつ暴力者を止められない表現者が、それでもなを心の隅で「しょうがなくはない何かをしなければならない」と微かなときめきを抱えているならば、ほんの遊び半分にでも「<何>をせずにはいられない」という不真面目な苦悩者として生きることをお進めしたい。

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8. 「私の生きることは <A4> <6F> につきる」と言えるのか ?

 

 はたして<何>的表現者は、「私の<A4><6F>は生きることのすべてです」とか「私の生きることは<A4><6F>につきる」と言えるのであろうか?
 そもそも絵実物世界における「作者」と「作品」との関係は、まず「神格化されている作者」が「作品」を創作し、「作品」は「作者」の意図にかかわりなくヒトビトの都合によって絵実物的価値を担い、ひとたび<誰か>によって「物神化した作品」にされてしまえば、「作品」はすでに不必要・無価値になった「作者」を、自らがヒトビトに対して担う価値によって「堕落しつづける神」へと疎外することになる。しかもそれは、「絵実物もどき」の<A4><6F>についても言えることで、<A4><6F>がヒトビトの欲望を満足させることの出来ない「愚作」「駄作」「失敗作」と評価されれば、係る表現者を「堕落しつづける神」からさらに「能力のない神」へと葬り去るのだ。
 それに対して絵空事世界における<何>的表現者と<何>記号との関係とは、もともと正体不明の<誰か>が自己否定するための表現をその「事件の現場」に位置付けるためのとりあえずの<人称性>と<記号性>でしかないのだから、それらは共に自分の価値を主張しあうことのない「何とでも呼ばれうる何か」でしかないために、互いに拘束したり排斥する欲望のない開放された関係にあるといえる。
 つまり、「誰であってもいい<何>的表現者」と「誰のものであってもいい<何>的記号」とは、「<何>的表現の現場」を<事件にかかわる人称性>で語るのか、あるいは<事件報告にかかわる記号性>で語るかの相違でしかないのだから、もともと「事件=事件報告」である<何>的表現においては、<表現者>と<記号>を別々の価値によって専有しようとしても、その企みは空しさによってしか報いられないのだ。
 そこで、<何>的表現の現場において事件である<誰か>と事件報告である<何か>は、共に「<何>面の告白者」として「私の生きることは<A4><6F>につきる」と言えることになるが、しかしこの「<何>面の告白者」が、常識・文化・制度における日常的な存在として「絵実物もどき」であることを踏まえるならば、はたしてそう言い切れるのかどうかについて見定めておかなければならない。言い換えるならば、絵実物的価値にまみれて生きている<何>行者は、たとえ「生きていること」をそのまま表現「行為=経験」しているとは言うものの、はたして自分の背中が見えるほどの自覚者として、あるいは未生以前の無意識に至るまでの明晰なる意識者として、一点の心の陰りをも見逃さぬほどの十全たる「<何>面の告白者」たりうるのかと問うことになる。
 ところが<何>行者の「<何>的技術」を思い返してみるまでもなく、あらゆる表現者が「もどき態」として常に反省しえぬものを引きずっているからこそ、われわれはとめどない反省を提唱しているわけであるから、当然のこととして「<何>面の告白者」はいつも告白しえぬ陰を背負っていると言わざるをえない。
 つまり、絵空事物語によって設定された「事件=事件報告」としての「<何>面の告白」においては、<誰>がその当事者になろうとも「私の生きることは<何>的表現につきる」と言えるが、「絵実物もどき」にすぎない日常的な生活者はいかようにも十全たる「<何>面の告白者」たりえぬために、「私の生きることは<何>的表現につきる」とは言えないということになる。すると開放区であるはずの絵空事世界においても、「<何>的表現者」は「<何>面」から疎外されつづける苦悩者でなければならないために、「<何>面の告白者」が絵空事的人格として賦与されているはずの「解放=開放」性がなんら救済たりえぬことになってしまうのだ。
 しかし、「絵実物もどき」という尾を引きずる「<何>面の告白者」とは、結局のところすべてのヒトビトに平等に与えられている「解放=開放」の可能性を語るための人格性というわけで、それは仏教が「如来蔵」によってすべての凡夫が仏になる可能性を秘めていることを語っていたのと同様に、もともと「<何>面の告白者」でないヒトビトは存在せず、「<何>面の告白者」であるためには絵実物的なしがらみを背負った「ヒトビト=<何>的人格」でなければならないということなのだ。つまりここで、あえて<ヒトビト>と「<何>的人格」の違いについて言うならば、<ヒトビト>が「絵実物もどき」にすぎないことを自らの認識として体得しているのが「<何>的人格」というわけで、その絵空事的知見への<覚醒>がすでに救済ではあるが、その<何>的知見として与えられるものとは「見定めつづけて生きつづけること」だから、結局は「<何>的に生きつづける」ことによってこそ「救済がより快適なものとして体得されつづける」というわけなのだ。
 言い換えるならば、<何>行者は「絵実物もどき」としてあるかぎり快的遊感覚へと救済されつづけるが、それは<何>行者として「生きつづける」限り「<何>的苦悩者」でありつづけるということなのだ。それゆえに、日々努力精進の<何>行者のみならず、すべてのヒトビトは「<何>面の告白者」であることに目覚めたときに、胸を張って「私の生きることは<絵実物もどき>にすぎない」と「語ること」ができるのだ。
 しかし、「<何>面の告白者」への覚醒とは、たとえそれが「我欲の目」から鱗が落ちる感動であったとしても、その感動に浸っているだけでは結局「荒れるにまかせる力」によって自愛的暴力者へと押し流されてしまうから、とりあえずは<何>的人格として<何>的反省を「語ること」の権利を獲得した程度のことと自覚すべきかもしれない。それにしても、「<何>的人格として語ることは<絵空事物語>を生きること」でありつつ「<絵空事物語>を語ることは<何>的人格を生きること」であるのだから、何はともあれ「<何>面の告白」を「語ること」こそが望まれるのだ。
 多くのヒトビトは「<何>面の告白者」に目覚めることを望まず、たとえ絵空事的世界を垣間見ても自分が<何>行者でなければならないほどの苦悩者ではないと高を括っている始末だから、自らが告白者として「<何>を語ること」など想像したこともないというわけで、「ええ? <何>行者だって? 毎日、そうやって糞面白くもないことを繰り返しているのかね? へえ、よくも飽きずに続けていられるねえ。ま、良く言えば、その日々の精進とやらを評価することは出来ても、自分の乏しい才能に見切りをつけられない執念深さには、ただただうんざりさせられるばかりだよ!!」なんて言い捨てて行ってしまう。
 ところが、今さら<誰>に言われるまでもなく「<何>面の告白者」であることに気付いているヒトビトは、あからさまに<誰>に聞かせるわけでもないのに言ってしまう自らの内なる良心の声とやらで、「正に、ごもっとも。多分、君たちのの言われる通りかもしれない。でも、うんざりしているのはお互い様なんだ。君たちにしたところで、<しょうがない><しょうがない>と言いながら、半ば諦めながらも自愛的欲望に呪縛されて夫婦円満、家内安全、商売繁盛、立身出世なんていう幻想であくせく生きているだけなのだから、その貧りの体質に目をつぶる<諦め>こそを反省すべきじゃないのかね。そんな執念深さには、ただただうんざりさせられるばかりなんだ。それとも、それは<諦め>ではなく、あくまでも主体的な選択だと強弁するつもりかい? そりゃないだろう。もしそう言い切れるなら成人病の発生率はもっと下がっていいはずさ。そもそも君たちにとって見るに忍びないわれわれのみならず、ヒトビトの平々凡々たる日常性とは、その凡庸なる顔に隠された<荒れるにまかせる暴力>を反省的に見定めることによってこそ、輝いて見えるはずだってことぐらい百も承知のはずじゃないか」なんて言い返しているにしても、結局はヒトがヒトビトであるかぎり反省者であることから逃れられないという自己制御の機能を、苦悩回避として活用することもなくわざわざ苦悩発生装置にしてまで苦悩への執着を止められないというわけだから、ヒトビトは<誰>に頼まれたわけでもないのに、<苦悩者>として生きつづけるという悍しき才能を十分に開花させてこの世を謳歌しているのだ。
 正に「しょうがないんだよ!!」とは、自愛的欲望に保証された天才的な閃きなのだ。

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