5. <何 > 面について

 「絵実物もどき」の<A4><6F>のみならず、あまねく<作品>と呼ばれるものがヒトビトにとっては「口のない肉質の仮面」だからこそ、<あなた>には「それが言える」のだ。そのときに<作品>と呼ばれる<何か>では、言葉が自らを誑かす悪ふざけを誰も排斥したり非難したりしないのみならず、<あなた>が「それを言う」のを期待しさえしているのだ。そう、それは「おおっ、こりゃ何んだ?」から、思いっきり開き直って「いったいわたしに何が言えるというのサ?」「その作品が何を言っているっていうの?」という、<あなた>のささやきを…
 つまり、ヒトビトの価値観の真っ只中で、「絵実物もどき」にすぎない一切の<作品>は、常に誰に「何と言われようとも」それを甘んじて引き受けるという、つとめて<あなた>まかせの「<何>面」宣言をしているのだ。
 そこで絵実物世界における事件の真っ只中で、係るヒトビトの表現「行為=経験」の現場における<何>面性への覚醒について言うならば、それは「あなた=わたし」がとりあえずの物語という約束を解消してしまったときには、結局はそれぞれが<何>的人格にすぎないことを自覚するしかないということなのだ。しかし、はたして「あなた」「わたし」は<自分>が<自分自身>である以前から、すでに<何>物語を語っている<何>面のヒトであることにどれほど自覚的であるのか?
 それにしてもわれわれは、好き好んでどれほど多くの<仮面>に幻惑されてきたことか。もっとも自我に捕らわれてもはや脱ぎ捨てることが出来ない肉化した仮面が、仮面であることに気付かないからこそヒトビトはその重さに苦悩したのであり、あるいは自らの確信していた顔がペラペラの仮面にすぎないことを思い知らされて自己喪失に陥ったり、さらには他人の優しさにすがってみたら、それが狡猾な騙しの仮面であったなどというわけであるから、そんな捕らえ所のない仮面によって幻惑されてしまうものとは何かを見てみると、それは「体制的欲望=自愛的欲望」によって臆断されていた「哀しい自我」であることに気付くのだ。
 つまりこの「哀しい自我」こそが、騙されつつも騙しつづける<私>という<仮面>にすぎないとすれば、ここで<誰か><何か>に幻惑されて「<私>たりえぬ<私>」へと裏切られた<私>とは、その<誰か><何か>こそを取り込んで、さらに強固な「<私>たりうる<私>」に成ろうとした臆断こそが<はぐらかされ>てしまったというわけだから、結局のところ「<私>に裏切られた<私>」に<くやしさ>をかみ締めるばかりなのだ。しかし、いくら「哀しい自我」といえども自愛的暴力者であることに変わりはないのだから、いつまでも<くやしさ>だけで「正体不明の<私>」をしているわけにもいかないというわけで、とりあえずは「哀しみ」によってでも再び「<私>たりうる<私>」を回復してしまうのだ。
 われわれから言えば、「仮面に隠された<私>」も「<何>面を隠す<私>」も<私>こそが虚構にすぎないというわけであるが、<私>とは反省以前的に自らが<何>面であることには耐えられない体質であるために、ヒトビトは正体不明の<私>のみならず素知らぬ顔の<何>面に出くわせば、その「正体」を知りたいと願わずにはいられないのだ。
 そこでこの<何>面の正体を、とりあえずは「常識・文化・制度」物語における「独創的な個別性」とすれば、ここに言う「独創性(オリジナリティー)」とは、<私>がヒトビトから限りなく個別化されて「<私>のみでありつづける<私>」という幻想的な<私>への闇雲な埋没のことと言える。それゆえに、「オリジナリティー」などという甘い「表現=生活」の幻想から醒めて、あるいはそんな幻想が自己崩壊へと追い詰めていくときに、その「独我論的<私>」こそが苦悩であることに目覚めてしまえば、そこには「<私>に似ている誰か」とか「<誰か>に似ている私」なんかが見えてきて、結局は「ヒトビトとどこも違わない<私>」として<私>の「独創的な苦悩」が呪縛を解かれ、「ありきたりの苦悩者にすぎない<私>」は「<私>のみでありつづける<私>」の哀しい自己同一性を解消していくのだ。
 したがって、物語的な役柄にすぎない「独創的な個別性」を<私>として担う「オリジナリティー」とは、どれほど完全犯罪者的に<私>にのめっていられるかという「自己陶酔」のことであると言える。とすれば<陶酔>という完全犯罪は、自己忘却という<仮面(装い)>の企みでしかないのだから、欝々とした「<私>たりえぬ<私>」を<忘却>によって「<私>たりうる<私>」へと取り繕うということは、ヒトビトと共有する「ありきたりの<私>」を忘却する<私>によってヒトビトを排斥し、<忘却>的仮面を被る<私>がもはや「ヒトビトたりえぬ<私>」を「<私>でしかない<私>」へと屹立させて、「ありきたりの<私>的苦悩」を「オリジナリティー」という美名で暴力化しようというわけであるから、「オリジナリティー」とは陶酔者によって「歪曲・矮小化されたヒトビトの苦悩」にすぎないということになる。
 そこで、自愛的暴力への陶酔者によって吹聴される「オリジナリティー」を、とりあえずは「<忘却>的仮面の正体」または「<何>面の正体」として戦略的に捕らえ返すことにより、その「オリジナリティー」によって反照される<自己忘却者>あるいは<何>面について語ることにしたいと思う。これは、<何>化された「オリジナリティー」の<何>面としての身分を問うことになる。
 われわれの<何>論とはもともと「反省の理論」であるから、個々の<何>面・<何>記号には、その<何>的反省でなければならなかったところの「いわく因縁=オリジナリティー」といいうる絵実物的「事件(=事件報告)」を措定することができる。しかし、どの<何>面も<何>記号も所詮は記号表現の戯れにすぎないというわけで、それらの<何>面といかなる<絵実物的人格>を関係づけて「<何>的人格」を語ろうと、あるいは<何>記号といかなる<絵実物物語>を関係づけて「<何>物語」を語ろうとも自由であるから、<何>面と<何>記号にとっての「オリジナリティー」には「個別性」を要求することができないのだ。つまりここには、とりあえずの<何>的「事件報告(=事件)」がたとえば<絵空事物語>として用意されているけれど、これを「表現=生活」する<当事者>は誰でもいいというわけだから、その「とりあえずの当事者」が抱えているとりあえずの絵実物的な因果関係は、<絵空事物語>の「<何>的事件報告性」を変更したり書き換えることはなく、単に係る<当事者>を暴力化するだけの必然性しか持ち合わせてはいないのだ。
 したがって、<何>面と「オリジナリティー」との不安定な関係において「表現者=生活者」が表現「行為=経験」するときに頼りにするものは、とりあえずは<絵空事物語>と言いうる「<何>的事件報告性」ということになる。しかしここでは、<自己忘却的表現者>たちが「オリジナリティー」によって暴力的な<陶酔>に浸ろうとしても、「<何>的事件報告」に見い出せる「オリジナリティー」には、自己否定する「<何>的独創性」はあっても「<私>たりうる<私>」へと誘う「個別性」を得ることができないのだから、常に居心地の悪い「<私>たりえぬ<私>」へと送り出されてしまう<表現者>たちは、もはや「自己忘却的な陶酔」に帰ることもできないために、たとえ「<何>的独創性」のみの「オリジナリティー」ではあってもここに「とりあえずの<私>」を設定しなければならず、何はともあれ「<何>面の<私>」という「<何>的人格」に身を寄せることになるのだ。つまり、「オリジナリティー」による<自己陶酔>を果たせぬ<表現者>は、「問い=回答」を結ぶとめどない「<何>的反省者」でなければならないのだから、「<オリジナリティー>への問いが<何>面という回答」であろうとも、あるいは「<何>面への問いが<オリジナリティー>という回答」であっても同じことになるために、ここでは「オリジナリティー(独創的個別性)」=「<何>化されたオリジナリティー(<何>的独創性)」=「<何>面のオリジナリティー」=「<何>面」が言えることになるのだ。
 それゆえに<絵空事物語>は、「誰のもの」とも「何んであるか」も曖昧なために「誰かのもの」であり「何かである」という揺らぎの真っ只中で、とりあえずは「正にそれでなければならなかった」ところの<何>面や<何>記号で語ることになるが、この「揺らぎ」こそが様々の「決定論(運命論)」や「物象化的倒錯(自己陶酔)」からの「解放=開放」を拓くわけであるから、この「揺らぎ」を再び「<私>たりえぬ<私>の不安」にしてしまっては、「<何>的反省者」ではいたくない「自愛的欲望に呪われた<表現者>」を自己喪失の危機という「苦悩」へと埋没させてしまう。
 そこで、「それでなければならなかったところの<何>面」を<絵空事物語>における「<何>面のオリジナリティー」と言い換えて、さらにそれを「<何>公園」の「揺れるブランコ」の戯れに例えることができる。その公園には、<ブランコ>の外にも<滑り台>があり<砂場>があり<シーソー>もあるはずであるから、<誰か>がその<ブランコ>を選んで遊ぶということがここにいう「オリジナリティー」であり、「揺れるブランコ」は<誰>が何をどのように意図しいかなる目的で揺らそうとも、「揺れる」ことだけで十分な<何>的戯れになってしまうというわけで、ここに仕掛けられている「ブランコ=<何>面」は、ヒトビトの無頓着な自愛的暴力を知らず知らずのうちに無力化させるという「とりあえずの<何か>=とりあえずの<私>」であるのだ。
 ところで「<何>面のオリジナリティー」は「とりあえずの人称性」でしかないけれど、<絵実物世界>から見れば未だ「独創的な個別性」としての性格を引きずっているというわけで、ことごとくの「オリジナリティー」が「絵実物もどき」にすぎないといえば、この「<何>面のオリジナリティー」とは「<絵空事もどき>の<絵実物もどき>」というものなのだ。
 それは、密教にいう<金剛手菩薩>という「仏教的<何>面=<仏>としてのオリジナリティー」に対して、密教的修行者が「護身法」という<引用論的手法>によって、「金剛手菩薩的救済力」をとりあえずの「<何>化(解脱)されたオリジナリティー」である<金剛薩?身>として担うときの、「金剛手菩薩という<絵空事もどき>の<絵実物もどき>」と「金剛薩?身という<絵実物もどき>」との関係として見ることができるのだ。つまりは、<仏>と<修行者>との関係というわけであるが、ここで重要なことは<仏>と<人間>を繋ぐものがいたって「人間的なオリジナリティー」であるということなのだ。
 そこで、「<何>公園で遊ぶ子供達」や「護身法を修する密教行者」の「<何>化されたオリジナリティー」を<何>的独創性の否定的意味からもはや「陳腐(ありきたり)になった個別性」と言い、<ブランコ>や<金剛薩?身>の「<何>面のオリジナリティー」を<何>的独創性の肯定的意味から「普遍的になった独創性」と言うことができる。とすれば、<何>物語にとって「普遍的になった独創性」としての<ブランコ>は、たとえば100人の子供に遊ばれても<ブランコ>でありつづけるためにとりあえずは「ブランコ化した子供達」を語ることができ、同じく<金剛薩?身>も、100人の行者に修行されても<金剛薩?身>以外ではありえないために「金剛薩?身化した行者たち」を語ることができるが、それに対して「陳腐になった個別性」としての「100人の子供達」にとってブランコは百様の意味を持つために「子供化したブランコ」を語ることになり、同じく「100人の行者たち」にとっても、金剛薩?身は百様の救済を正にマンダラ世界として拓くために「行者化した金剛薩?身」を語ることになるのだ。
 しかし、「普遍的な独創性」である<何>公園や<金剛薩?身>の「函数性」に対して、あたかも「解」といいうる「陳腐な個別性」である子供達や行者たちとの関係は、立場を変えて言えば、もともと「独創的な個別性」である子供達や行者たちの「函数性」に対して、やはり「解」といいうる「<何>的な独創的個別性」である<何>公園や<金剛薩?身>との関係にすぎないというわけであるから、それは「普遍的な独創性の<経験=行為>=陳腐な個別性の<行為=経験>」=「独創的な個別性の<行為=経験>=<何>的な独創的個別性の<経験=行為>」といういつもの循環する<何>的反省の構造であることが分かる。
 つまり、「<何>公園で遊ぶこと」とか「護身法を修行すること」という、「子供達とブランコ」及び「仏と密教行者」の協働関係である<何>的事件の現場においては、「<何>化されたオリジナリティー」=「<何>面のオリジナリティー」であったために、「<子供達><行者たち>のオリジナリティー」にとっては<何>的「<遊ぶ・修行>的事件=<ブランコ・金剛薩?身>的事件報告」であり、同時に「<何>面の<ブランコ><金剛薩?身>」にとっては<オリジナリティー>ゆえの「<遊ぶ・修行>的事件=<子供達・行者たち>的事件報告」であるということなのだ。
 それを言い換えるならば、<子供達>と<ブランコ>は「絵実物もどき」という<何>的存在理由を「オリジナリティー」と見定めることによって、ともに無差別・平等の<何>面にすぎないことになり、<人間>と<仏>は「如来蔵」という<仏性>的存在理由を「オリジナリティー」と見定めることによって、ともに無差別・平等の「清浄なるのも」であることが明らかになるのだ。子供あってのブランコはブランコあっての子供であるように、人間あっての仏は仏あっての人間であるというわけなのだ。
 したがって<何>物語を語るためには、たとえば「<何>公園で遊ぶこと」を抜きにしては<ブランコ>も<子供>も語ることはできず、「護身法を修行すること」を抜きにしては<金剛薩?身>も<行者>も語ることができないという不即不離の関係にあるために、もしも「普遍的な独創性」が普遍的独創性ゆえの「オリジナリティー」を主張しようとすれば、それは「<何>化する以前の私」とか「<何>面以前の私」が「いまだ<どこでも>何も語っていないこと」にすぎず、それに対して「陳腐な個別性」が陳腐な個別性ゆえの「オリジナリティー」を主張しようとすれば、それは「<何>面の私」とか「<何>化する私」が「いまだ<そこでは>何も語られていないこと」ということになる。
 そこで、たとえばヒトビトが「<何>面の私」という<意味>を知ることはできたけれど、いかにせん<何>行者などというトボケた生き方は到底できないと決め付けて絵実物世界へと逃げ込んでしまえば、それもやはり<何>的知見に対する自己欺瞞ということになり、自分を偽ることによって隠蔽されていく「苦悩」は、なるべく早めに「抜苦=願望成就」の<希望>として掘り起こし浄化していかないかぎり、次第に習慣化された「わかっちゃいるけどやめられない」という<苦悩>として背負い込むことになってしまうのだ。<何>的知見とはいうものの所詮は「無意味な戯れ」にすぎないけれど、せっかくの「反省的な快感」を無駄にして、あいも変わらぬ苦悩の悪循環に浸り「俺の希望とは、人類滅亡の苦悩こそを生きることだ」なんて開き直り、夜な夜なネオン街をうろついて倒錯した快楽ばかりを貧って苦悩の上塗りばかりしていないで、たまには<何>的な閃きに身を委ね「<何>面の私」の装いで気軽な<空言>でも語ってみてはいかがなものか。もしもそのときに、とりあえずの「<何>面の私」でありながら、その<空言>によってヒトを傷付け自らもまた傷付くことがあるとすれば、それはその<何>面がいまだ絵実物的な価値観で鎧われた自己愛を隠蔽していることが露呈しただけのことだから、その痛みもまた<空言>によって解き放すという<何>的反省を続ければいいのだ。
 しかし、そんな<何>行者など惨めで生きられないと思念して、いかなる<苦悩>であれそれは「<私>たりうる<私>」であるための不可欠の負債と割り切って、その<苦悩>こそを積極的に引き受けて壮烈に個性的な暴力者を生きつづけるつもりなら、それはそれで弱者の返り血で己の傷を癒しながら満身創痍で「自分を語る」しかないのだ。しかし、たとえ血で血を洗う苦悩に憤死を覚悟で「自分を語る」にしても、そのときには常識・文化・制度の欲望を自愛的暴力によって武装した殺るか殺られるかの<希望的人格>にならなければ、ヒトビトが自分には拘わりのない「他人の不幸や痛み」として、大いに喜んでくれるほどの「輝く暴力的苦悩」を獲得することはできないのだ。
 だからもしも、この「輝ける暴力者」に成り切れなかった敗者たちが、「それでも私は全力を尽くしました。この不幸な結果に悔いはありません」なんて、ひとり悟り切った顔で絵実物世界を流れていくつもりでも、いままでの鬼のような暴力者の角が折れただけのことにすぎないのだから、それまで踏みにじってきた弱者の無念の思いや屍に対しする償いを<苦悩>として残していることになるのだ。
 やはり暴力闘争の世界では、いつも勝者の人格が敗者の不成就性の<痛み>によって呪縛されていることになり、ここではその繰り返しによる歪められた欲望を抱えてしか生き残れないというわけだから、より深い自己欺瞞を重ねつづけるという「苦悩の悪循環」を回避できないのだ。
 次にわれわれは、この「輝く暴力的苦悩」を<魅力>という言葉に置き換えて語りつづけていきたいと思う。

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6. 魅力について


 a. 魅力的人格

 殺るか殺られるかの<希望的人格>は、ヒトビトが他人の不幸として喜び楽しめるほどの「輝く暴力的苦悩」を背負うことで<魅力>的でありうるが、もしも<何>行者が「体制開放=自己解放」の<脱自的自由人>としてヒトビトの<希望的人格>たらんとするならば、あまねくヒトビトが姑息な言い逃れによって隠蔽している「人類滅亡への欲望」という「輝く暴力的苦悩」を、反照的に顕現させる「辛くて見ていられない」と思わせるほどの<魅力的人格>でなければならない。
 そこでまず、「あいつは面白い奴だ」「いい奴だ」「すてき!!」などとヒトビトに言わせ思わせる<魅力的人格>とは何か?
 「魅力」とは、辞書によれば「ひとの心を引きつける力」とあり、それは「人気のあること」でもある。では、<魅力的人格>がヒトビトを引き付ける力を「好きにならせる力」「何ごとかを信じこませる力」「夢を与えてくれる力」という三点に絞って考えてみると、ヒトビトにとって誰かを「好きになる」こととは、<希望的人格>によって自愛的欲望を正当化したり自己移入してその誰かを「専有する」ことであり、「信じてしまう」こととは、その<希望的人格>を神格化(超越化)して「専有される」ことであり、「夢を見る」ことは、自己忘却または自己拡大化の幻想によるセルフ・コントロールのことであるといえる。
 つまり<魅力的人格>とは、ヒトビトの「体制的欲望=自愛的欲望」にもとづく価値観によってこそ捏造された<希望的人格>であり、ヒトビトの「専有したい=専有されたい」という欲望を担うために、「常識・文化・制度」物語を暴力的に逸脱する<暴力者>であることにより、あるいは超越的に独善的であることによって、その「魅力」を際立たせることになる。
 さらに「魅力」が、ヒトビトの日常的な思考、想念、感覚、意識を快適に麻痺させ眩惑させて、いつのまにか非日常的な世界へと誘うという「心」に直接的に語り掛ける力であることを思えば、<希望的人格>を「好きになり」「信じてしまう」「夢を見てしまう」ことが、結局は「霊的」な実体観(絵実物的価値観)に支えられていること、あるいは人の「気」という霊力を引く力であるということ、いやいや「心」そのものが霊性という錯視に向かわせる根拠であることを見定めるならば、<魅力>とは「霊的暴力」であることに気付かざるをえない。
 とすれば、<希望的人格>に宿る役柄的な霊的暴力があり、さらに霊的暴力の強さゆえに宿る<希望的人格>もあるといえる。これを統計的に論理的に解明しようとするのが運命学とすれば、この運命学というひとつの物語的知見ですら「信ずる」という言葉によってしか対自化しえぬヒトビトにとっては、<誰か>が魅力的であることの根拠を、そこで実体視された人物の先験的な資質と臆断することになるが、しかし<何>論からすれば、ヒトビトの羨望を引き受ける魅力的な「才能」などは、いたって相対的な物語的価値でしかないと言えるのだ。それゆえに運命学は、古来の社会的枠組みの中で育まれた情報のみに頼りそれで「いま」を読み取ろうとしても価値観の変遷を読み切れるはずはないのだから、「体制的欲望=自愛的欲望」関係の中で「変わりにくいもの」と「変わりやすいもの」を見定めて、その揺らめきを「いま」の価値観に置き換えて読まなければ「荒れるにまかせる力」の流れは見えないというわけで、結局それは運命学の決定論を超えることになるにしても、それでなければ運命学の役割である「いまを読みその先を読むこと」など出来はしないのだ。
 したがって<魅力的人格>とは、ひとつの物語を物象化したヒトビトの「専有したい=専有されい」欲望に保証されて、正にカリスマ的に逸脱した霊的暴力を担う人格のことであるから、ここでヒトビトを超越的な位置から閉鎖する暴力性は、ヒトビトの霊的な「権力信仰」を満足させる。しかしこの<魅力的人格>は、その霊性を共有するヒトビトにとってのみの共同幻想といいうる権威と権能によって憧れの対象たりうるにしても、その閉鎖的な存在理由ゆえに開放系における普遍的な意義などは持ちえないのだ。
 たとえば狂暴な国家権力に批判的な非暴力の<宗教的カリスマ>が、どれほど抑圧されたヒトビトの希望を担う<魅力的人格>たりえたとしても、もはや「神なき世界」では政治的な暴力闘争によってしか「<私>という自分」を守れないと臆断するヒトビトの即物的な自己愛をなかなか克服することが出来ないように、あるいは、あの田中角栄という魅力的な権力者が、利権の掠奪と偽造という才能に保証されたその政治暴力的カリスマ性のみにおいては、自らの立身出世物語の台座である日本国憲法の基本理念である「国民主権にもとづく基本的人権、自由権、平等権」から逸脱し、「日本の戦後政治の汚点」とさえ言われかねないのだから、結局ヒトビトを魅了する力によって支えられた人格とは、係る物語における暴力的意義しか持ちえないのだ。
 改めて言うまでもなく、このことは<魅力的人格>というものが、「好きになる」「信ずる」「夢を見させてくれる」ことによって自愛的欲望を満足しえたヒトビトにとってのみの閉鎖的な物語的人格にすぎないということであるが、それゆえに限りなく魅力的な権力者たらんとする強欲な暴力者たちは、歴史を顧みるまでもなくいつの時代もどこの国においても、政治的カリスマ性のみならず宗教的カリスマ性の捏造によってまで、支配者として「人心をつかみ続ける」ために霊的暴力の絶対化に腐心してきたといえる。そしてそれが可能であるということは、<魅力>というものがヒトビトの存在理由である「荒れるにまかせる力」に宿る霊的欲望への直接的な刺激による「揺らぎ」現象であり、しかもこの霊的暴力の曖昧な欲望の揺らめきが、たとえば恐怖の偽造によってさえパラノイアと呼ばれるほどに反応し、ヒトビトを極度に緊張させて「騙されたい」と思わずにはいられないほどに昂揚させてしまうというわけだから、いつも「滅亡したい」気持ちを抑えられないヒトビトが無自覚な苦悩者であることを見透かされてしまえば、ヒトビトの「心の揺らぎ」を絶対的権威によって騙しうる超越者は、その救済実績のいかんに拘わらず自らの超越性を誇示しつづけることで<魅力的>でありつづけ、ヒトビトの狂信的に「騙されたい」という自己陶酔を満足させてカリスマへと成り上がることが出来るからというわけなのだ。
 したがって、ありきたりの物語的人格をカリスマにまで成り上がらせる<魅力>の魔性とは、とりあえずの<誰か>が「欝積させた欲望=因縁」によって無意識にあるいは意図的に纏うかりそめの糖衣であり、その魔性の誘惑とは、ヒトビトにその<誰か>の正体を見定めることもなく、何はともあれ「しゃぶってみずにはいられない」欲望を抱かせるということなのだ。しかもヒトビトが口に入れた飴やチョコレートから青酸化合物が検出されないなどという保証はどこにもない。
 しかしヒトビトは、それがひょっとすると毒であるかもしれないという「ときめき」を抱かせるものでなければ、もはや<魅力>を感じないと言いうるほどに退廃的な快感に目覚めているというわけで、すでに抗生物質という毒物によってさえ「健康」という幻想を追い求めることに心身ともに慣れ親しんでいる始末なのだ。
 それゆえにわれわれにとって<魅力>とは、狂気にも似た<暴力>という毒性の糖衣であることを直観させる霊力であり、霊的暴力という苦悩の悪循環によってこそ自己実現をもくろむ魔性の快感であると言わざるをえない。

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 b. 「魅力の魔性」あるいは「鬼」について

 毒気のない<何>的人格が<魅力的人格>たりえぬということは、正に「魅」の文字が語るところである。
 『明解漢和辞典』でみる「魅」とは、「(1)バカす。まどわす。人の心をひきつけ迷わす。(2)バケモノ。もののけ。変化(へんげ)。妖怪」とある。これから考えれば「魅」とは、「鬼」族の一員に他ならず、常識・文化・制度への「鬼の復権」こそが<魅力的人格>であることに気付く。言い換えるならば、ヒトビトによって飼い馴らされ毒気を抜かれた「鬼」が<魅力的人格>でもあるのだ。
 それは、閉鎖的な異端排除の社会が、多少なりとも異端者に社会活性化のフィードバック機能を認めているうちは<魅力的人格>たりうるが、異端の度が過ぎてヒトビトにとっての毒性だけになってしまえば、再び「鬼」として排除される約束なのだ。
 ヒトビトが異端者を「鬼」として排除したり<魅力的人格>として弄ぶのは、閉鎖的(全体主義的)な社会で矮小化された自己愛を温存させるための「小賢しい知恵」であるとしても、その知恵でさえ自愛的欲望で閉鎖されているかぎり悍しき暴力であることに変わりはなく、たとえ個人主義の社会で独創的な個別性を認め合うことができても、そこではオリジナリティーによって武装することを克服できなければ、自己防衛に腐心する「哀しい知恵」がパラノイアを抱えた必死の暴力者に仕立て上げ、ひとりひとりを孤立無援の「鬼」へと呪縛し今さら<魅力的人格>などと呼び合うことのない魑魅魍魎の世界へと突き落とすことになる。ここで「鬼」たちは、強烈な自己主張という暴力で自立しなければ、一人前の社会人たりえないという喰うか喰われるかの関係なのだ。
 では、自愛的欲望が<開放>された世界で<魅力的人格>を語ることが可能なのかと問えば、それは「<何>が<何>のために<何>のみを語る」ともいいうる涅槃寂静の世界ならいざしらず、たとえば自愛的欲望の「解放=開放」の現場であるマンダラ世界では、無限といいうるヒトの数ほど存在する「霊的仏」たちが、救済されたいと願うヒトビトの霊性に支えられた<魅力的霊格>として存在し、想像しうるかぎりの人間的営為をことごとく浄化された「荒れるにまかせる力」の歓喜に満ちた愉悦境として見せるのだから、「<何>化するオリジナリティー=<何>面としてのオリジナリティー」を言いうる範囲で、この「オリジナリティー」は充分に<魅力>的でありうるのだ。
 ここでいう「オリジナリティー」の<魅力>とは、「<何>化する私」的表現者に「とりあえずの<私>」という毒性の暴力的人格が与えられているという意味において、<何>的反省者にとってはその<私>こそが<魅力的人格>たりうるということであり、この「<何>化する私」が「<何>的表現者」という意味においては「誰でもないがゆえに誰にでもなりうる」という「<私>もどき」の横滑りによって<何>面性を体得すれば、「<何>面の行者」に問い掛けられたすべてのヒトビトの<私>的営為は、<何>的反省によつて無意味性へと掠め取られた「とりあえずの<私>」から脱落する「<私>たりえぬ<私>」を<魅力的人格>として輝かせることになり、しかもヒトビトにとっての「<何>面の行者」とは、たとえ正体不明であろうともヒトビトの自愛的欲望の反照によつて、あの<霊的仏>のように<魅力的人格>であることになる。
 しかしそれは、絵実物的<私>の「オリジナリティー」への自己陶酔などではなく、あくまでも明晰に「自分とは何か?」を喚起することであり、己の外に苦悩の根拠である「鬼」や「悪魔」を捏造することではなく、己の中に調伏(解放)しうる「鬼性」や「魔性」を見定めることなのだ。
 したがって、無明無知のままに「鬼」である<私>を、「<何>化する私」によって解放しつつヒトビトに向かって「<何>面の私」を開放することが、同時にヒトビトである<誰か>が「<何>面の表現者」によって開放されつつ、さらに「<何>化する自分」を解放することになるというわけだから、この<何>的事件の仕掛けこそが「<何>面の行者」の存在意義といえるが、それは、ヒトビトが「正体不明の<私>」や「鬼の<私>」などではありたくないという自分勝手で排他的な閉鎖性に、「好きになる」「信じる」「夢を見る」という心の揺らぎを喚起して、平々凡々たる惰性で埋没する魅力の乏しい「オリジナリティー」を悔いの残らぬかたちにして輝かせようということなのだ。
 そしてヒトビトが隠蔽する自らの「鬼性」「魔性」によってこそ、<何>的反射鏡である「<何>面」の魅力に虜にされてしまうという「語るに落ちる」戯れは、ままならぬ自己愛にうんざりしている<私>の活性化でもあるために、ヒトビトは自分の都合の悪いときにこそ快適に騙して欲しいとせがむことになる。
 そこで、恐怖のパラノイアによつて死に至るほど陶酔させてくれと望まれる「<何>面の行者」が、すでに陶酔されたいと願うことによって苦悩に陶酔しているヒトビトに「いま戦わなければ俺たちは殺られてしまうゾ、どうするんだ!!」と切羽詰まって詰め寄られたとすれば、それは「ふん、<何>行者だって? 行者が聞いて呆れるよ。おまえが行者なら、俺たちを救って見せてくれ!!」という殺し文句で、殺るか殺られるかの暴力的行者への変身を迫られていることになるから、結局は<誰か>の自愛的暴力を生き延びさせるための<霊的暴力者>であるよりも、むしろ非暴力者としての責任において、暴力の前で「自殺行為を生きること」によって「殺られる」に至る「罪=苦悩」を贖うことになるけれど、しかしそのときにこそ辛うじて「殺る」に値する魅力で「<何>が生きられる」はずなのだ。つまり、それは「命」という自愛的欲望が解消されるために「荒れるにまかせる力」を浄化する事件として拓かれなければならないのだ。

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 c. 「さすらい人」について

 ヒトビトの哀愁を一手に引き受ける<魅力的人格>としてヤクザな「さすらい人」を上げれば、やはりヤクザな魅力という意味においては、<何>行者という隠遁者もよく似た流れ者なのだ。
 それはヒトがヒトビトの中で、たとえどのような情熱によってであれ、あるいは諦めによってであれ自愛的欲望に目覚めて生きようとすれば、時として「まことしやか」に「わざとらしく」も、自分の物語を「はみだし者」として語り演じて見せなければならないことがあるというわけで、そんな「余計なものを見てしまった」者たちは、ヒトビトの差別的な眼差しで無言のうちにも求められている<希望的人格性>を、たとえ「道化」と見なされても担わなければならないという「哀しい役柄」を分けあっているのだ。
 しかし、<脱自的自由人>としての<何>的隠遁者と「さすらい人」とは、ともにヒトの遺憾ともしがたい「しがらみ」ゆえの痛みを<憂欝>として背負い、わけもなく哀愁という魅力に彩られていながら、それでも誠に対照的な生き方であることを指摘しておかなければならない。
 両者はともに「もう僕のことは忘れてください」なんて都合のいいことを言って出奔した身であろうから、憂欝なる過去を「<私>として記憶している」ということが、取りも直さず憂欝なる過去を「記憶しているために<私>である」というわけで、「記憶」というものがそもそも自愛的欲望の<苦悩>であることを充分に承知しているはずだけど、その「記憶=苦悩」といかに拘わるかという点において大きな違いがあるといえる。
 ひとたび生きてしまった過去を忘れようにも忘れられない憂欝の中で、「さすらい人」の生き方を、「記憶=苦悩」からの限りない遠ざかりである「逃避−偽りの忘却」と、「記憶=苦悩」への限りない接近である「愛着−回想」との狭間で揺れ動く<ヒロイズム>と<ナルシズム>と言うならば、それは正に後ろを向いた自愛的暴力によって自己回復を切望する「さすらう自己愛」が、自らの欲望によって挫折させてしまった未来を「哀しい過去」で取り繕うとする姿なのだ。
 それに対して隠遁者としての<何>行者は、「記憶=苦悩」への限りない接近である「反省的<何>化=<何>化する私」の明晰なる痛みと、「記憶=苦悩」からの限りない遠ざかりである「<何>的対自化=<何>面の私」の快適な実践によって、「記憶」という抑圧からの「解放=開放」を体得することになる。
 つまり、「記憶」という名の自己愛を<私>として呪縛する「憂欝な痛み」の倒錯的な快感に溺れて「さすらい人」になるか、それとも<私>を「解放=開放」することの「不安」に身を投じて<何>行者になるかの違いであるとすれば、いわば<何>面の隠遁者は向こう見ずのおっちょこちょいというわけだから、「さすらい人」がまるで負け犬のように、後ろ向きの欲望で<私>を歪曲しつつ涙するほどには女々しくしていられないといえる。
 ところで、「憂欝なる過去」の記憶が苦悩であるのは、「さすらい人」や<何>的隠遁者に限ったことではなく、むしろすべてのヒトビトに共通の哀しき財産であると言うべきかもしれないが、それは同時に、すべてのヒトビトに「憂欝なる未来」が絶望として用意されているということでもあるのだ。
 そこでこの「憂欝なる過去と未来」の狭間で、快的遊感覚としての「いま」「ここ」を拓かんとする<何>行者は、人類滅亡という苦悩的未来を回避しえぬであろう「憂欝」を、どれほど<魅力>ある現在として輝かせることができるのか?
 とりあえず「憂欝」を『新明解国語辞典』でみると「〔天気が悪かったり心配事が有ったりして〕気が晴れない様子」とある。
 そこで、たとえ<何>行者が、人類滅亡物語である常識・文化・制度からの果敢な<何>的隠遁を企てようとも、それは己の台座である「憂欝なる苦悩」を厳密に<何>的に見定めてこその反省的飛翔でしかないのだから、たとえこの飛翔がヒトビトの自愛的暴力と通底する「荒れるにまかせる力」の浄化であるにしても、<何>的開放(<何>面の私)として回帰せざるをえない台座がやはり「荒れるにまかせる暴力」でしかないというわけで、<何>的事件が問答無用に<何>的事件報告であるかぎりは、係る「憂欝」を隠蔽したり忘却したりするわけにはいかないのだ。
 ここで「さすらい人」は、悍しい過去とあてのない未来との間で、取り留めのない憂欝に埋没していなければならないが、しかし、同様に憂欝であるとはいうものの<何>行者は、憂欝を「心」の逃げ場にしてしまわないからこそ、「いま」「ここ」に絵空事といいうる戯れの<快的遊感覚>を拓いているというわけなのだ。
 つまり、<何>面の隠遁者がとりたてて人類滅亡の「憂欝」を語ることにおいてのみならず、あの<何>的家庭を生きる<何>行者の「家庭的しがらみ」という「憂欝」においてさえ、循環する<何>的反省で純粋「行為=経験」を喚起することができれば<快的遊感覚>たりうるわけであるから、これをより刺激的に形容矛盾の楽しみによって言うならば「欝的快感を生きる」ということになる。
 したがって、「憂欝」と「快感」をも<何>化しうる表現者が、「欝的快感=快的欝感」によってこそ「<何>面の私」に逢着しうるとすれば、このメランコリックな世紀末的ポーズのかっこ良さが<何>的隠遁者の魅力的なセールス・ポイントなのだ。

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