(4).<何>的人格論


1. いま < 何 > 論的ライフ・スタイル


 われわれが、いま自愛的暴力の時代における「反省の思想」として語れるものは、表現者を限りない<反省者>へと誘う<何>論なのだ。
 人間の<自然的>な存在理由を語る「荒れるにまかせる力」が選択し排除する力であることから、「ヒトが生きつづける」ことは自愛的暴力によって何かを選択し排除しつづけることと言えたわけであるが、「表現」そのものもまた何事かを選択し排除する営為であることから、<何>論においては「生きつづけるヒト」を<表現者>と呼び、<ヒト>と<ヒト>との関係でしか生きえぬ<ヒトビト>の存在理由をも、表現行為と表現経験の関係から見定めようとしたわけなのだ。
 そこでいま<表現者>が、「自愛的欲望ゆえの<苦悩>を克服する」ために「行為=経験」を生きるとすれば、係る表現欲求が解消されたときにはとりあえずの「平安」を得ることができる。しかし<表現者>が、「自愛的欲望ゆえの<願望>を成就する」ために「行為」「経験」を生きるとすれば、「<私>たりえぬ<私>」からの自己実現とか自己拡大化への幻想は、常に幻想と乖離してしまう<私>的現実との歪みを苦悩として背負うことになり、さらにその苦悩は自己拡大化へのとめどない幻想を駆り立てて苦悩させる。それゆえに、己の自愛的欲望の肥大化を絵実物的な価値として創造しようとする「幻想表現」は、自分の苦悩をヒトビトに晒して楽しんでもらうということなのだ。
 そこで、もう少し<表現者>にかかわる<苦悩>と<願望>について見てみると、たとえば<美>という「自愛的欲望ゆえの<願望>を成就する」ためには、<美学>は決して<美>に対する自己否定を語ることが出来ないが、しかし<美>という「自愛的欲望ゆえの<苦悩>を克服する」ためには、あたかも<芸術論>的な<美>に対する自己否定を語らなければならないといえる。それは<神>についても同様で、<神>の祝福によって「自愛的欲望ゆえの<願望>を成就する」ためには、<神学>は決して<神>に対する自己否定を語ることが出来ないが、しかし<神>の決定論による「自愛的欲望ゆえの<苦悩>を克服する」ためには、あたかも<宗教学>的な<神>に対する自己否定を語らなければならないといえる。
 さらに言うならば、<美・神>などの「霊的意志」という「自愛的欲望ゆえの<願望>を成就する」ためには、<絵実物物語>は決して「霊的意志」に対する自己否定を語ることが出来ないが、しかし<美・神>などの「霊的呪縛」による「自愛的欲望ゆえの<苦悩>を克服する」ためには、<絵空事物語(あるいは無自性ゆえの因縁論)>によって「霊的意志」に対する自己否定を語らなければならないといえる。
 ところで、長い歴史の中でヒトビトの自愛的な想像力によって培われてきた「霊的物語」というものがある以上、「荒れるにまかせる力」によって生まれ変わり死に変わりしつづけてきたヒトビトの自愛的欲望は、「霊的意志」を無視しては自愛的欲望たりえないといえる。そこで、いまだ不成就性であるために「霊的意志」ともいいうる自愛的欲望ゆえに、すでに苦悩者として生まれ生きつづけているわれわれは、その<苦悩克服>さえも自愛的欲望による<願望成就>によってしか実行されないというわけであるから、「自利(自己目的性)として解放」するためには、まず<願望成就>として「<自己否定したい不成就性の自愛的欲望>という願望」を成就しつつ、<苦悩克服>として「<自己肯定する不成就性の自愛的欲望>という苦悩」を克服しなければならず、さらに「利他(他目的性)として開放」するためには、今度はヒトビトの<願望成就>に対しては<苦悩克服>として「<肯定する不成就性の自愛的欲望>という苦悩」を克服させつつ、ヒトビトの<苦悩克服>に対しては<願望成就>として「<否定したい不成就性の自愛的欲望>という願望」を成就させなければならないのだ。
 つまり「利他」として成就される「<否定したい不成就性の自愛的欲望>という願望」は、「自利」として「<自己肯定する不成就性の自愛的欲望>という苦悩」を克服することを保証し、さらに「自利」として成就される「<自己否定したい不成就性の自愛的欲望>という願望」は、「利他」として「<肯定する不成就性の自愛的欲望>という苦悩」を克服することに対応するというわけで、ここで「自利(解放)=利他(開放)」が言えることになるが、この「自利」と「利他」を区別する要因は、「(自分を=ヒトビトを)救済する=(何かに=誰かに)救済される」=「(ヒトビトに=誰かに)救済される=(ヒトビトを=自分を)救済する」という「救済しつつ救済され、救済されつつ救済する」関係の中で、どのような自愛的欲望を「不成就性の苦悩」と自覚して「<何>を救済し<何>に救済されたい」と願うかという反省的立場の違いにすぎないから、結局は「救済という表現」における表裏一体の「行為=経験」関係にあるというわけなのだ。
 したがって、自らの苦悩の原因によってしか苦悩克服もできずしかもその苦悩克服さえ苦悩なしには実現しないという、人間的営為がとめどなく繰り返してきた「一切皆苦の物語」からわれわれが学ぶことは、より刺激的な暴力によって苦悩の上塗りを重ねてきた人間的な「荒ぶる自然」物語の真っ只中では、常に<現在>がかつてない「最強の自愛的暴力の時代」としてあり、すでにわれわれはその時代を担う暴力者として生まれ生き続けているということへの反省的な自覚でなければならないのだ。
 このような情況にあって、われわれがいまヒトビトの苦悩的人類滅亡を少しでも先送りするために「自利=利他」を生きようとするならば、やはり「自愛的暴力の<何>化=何の<もどき態>化」を表現していかなければならないといえる。
 ところで、たとえわれわれが、いま誰かとともにこの暴力世界の真っ只中で「<何>的反省の楽園」を拓きえたとしても、それは「荒ぶる自然」物語に埋没する定めにすぎないから、まさかわれわれは、<何>論によってヒトビトの歴史が救済されるなどと思い上がるほどの神懸かりになることはできない。しかしわれわれは、宇宙開闢の動機を「荒れるにまかせる力」と見定めているために、自らの暴力によって「苦悩しつつ滅亡」したヒトビトの不成就性の自愛的欲望は、ヒトビトを「霊的苦悩者」として生き続けさせるはずだと考えざるをえないから、それがいずれまたどこかで宇宙の開闢を語る「霊的欲望」を欝積させて、その遥か後にまた<神>などと呼ばれるであろう<暴力者>として生まれ変わるはずだとすれば、そのときにわれわれは、その<神>が<神>たりうるために欝積させたはずのストレスをすでに浄化する反省者であったと言えるわけで、ほとんど間の抜けた宇宙的規模の奇跡に保証されてさえ生きることが出来るのだ。
 そこで、かつての「釈尊的ライフ・スタイル」の理念を「解脱−成仏−涅槃」という三点セットにすれば、われわれのいう<自愛的欲望>の絵実物世界からその延長線上にある「霊界」をも抜けて、もはや<私>としてはどこにも回帰することのない「何でもない何か」へと消滅することであったと言うことが出来るから、この最強の自愛的暴力の時代を大乗仏教にいう「末法の世」と見定めるまでもなく、所詮は<釈尊>なき世に生きざるをえないわれわれは、ここに「メタ仏教論」から循環する<何>的反省によって「何って何!?」へと突き抜けて、「かつて仏教であった物語=仏教以前的物語」というすでに<釈尊的知見>を仏教として語る必要のない<何>的地平で、あたかも宇宙創造の<神的欲望>にさえ反省を喚起しうる奇跡のように、いずれヒトビトの熱い期待によって<仏教>が始まるであろう夜明け前に、後のヒトビトによって語り継がれた<仏教史>には縛られることのない快的遊感覚を、まったく「歴史という時空間」を<何>化した本末転倒の真っ只中に拓くこととして、ヒトビトがそれとは知らぬ「釈尊的ライフ・スタイル」の<パロディー>を生きられるはずなのだ。
 あるいはまた、改めて「釈尊的ライフ・スタイル」を<釈尊的知見>の<何>論的パロディーとして語ることができる。
 まずは因縁解脱のための修行により<悟り>を得たとされる釈尊の知見が、苦悩なしには生きえぬヒトビトの「救済として追体験しうる」ものとして認められたからこそ仏教の成立が可能であったと考えてみることにより、あの『本生経(ジャ−タカ)』の語る釈尊の過去世物語を「釈尊神格化」の茶番として退けることができるのだ。
 そもそも『本生経』の言うところによれば、<釈迦如来>に至るための修行者にすぎぬ<菩薩>でさえ、たとえば宇宙の発生と消滅を三回繰り返すほどの期間の修行をして、さらに生まれかわり死にかわりする自愛的欲望が消滅するまでの修行を百回も貫徹し初めて「仏の悟り」を得られるにすぎないというのだから、ヒトビトはそんな気が遠くなったまま何度失神しても追い付かぬ無駄な努力をしてまで、有るか無いのか分からぬ<悟り>のために過酷な修行などしはしないものだ。したがって『本生経』の言うことを真に受けていたら、いくら凡人が努力しても到達しえぬ<釈尊的知見>は超人のものになってしまうが、そんな超人の修行と<悟り>といえども『阿含経(ア−ガマ)』といわれる膨大な文献の中から凡人たるわれわれが容易に想像しうるのだから、それは想像を絶する摩訶不思議ではないというわけで、釈尊を神格化せずにいられなかった当時の仏教者の己に対する謙虚さは評価しうるとしても、それゆえにヒトビトの知恵と努力を愚弄することになる自らのエリ−ト意識には無反省であったと言わざるを得ないのだ。
 そこでわれわれが、多くのヒトビトによって追体験が可能であったはずの<釈尊的知見>を見定めて、さらに『本生経』が語る釈尊の自己犠牲的な物語に彩られた前世を引き受けるならば、気が遠くなるほどの修行と徳を積んできたのは外ならぬ凡人のわれわれであることが理解されるのだ。言い換えるならば、いかなるヒトビトもその本生を<誰か>として特定しえぬがゆえに「本不生」としてのヒトビトにすぎないのだから、いま生きているわれわれとは有り余るほどの徳を積んだ釈尊的存在でありつつ、同時に自己破滅の危機を抱えた史上最悪の暴力者であるというわけなのだ。
 それゆえに<何>論者たるわれわれは、反省的な暴力者として<釈尊的知見>のパロディ−を生きることが可能なのだ。

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2. < 何 > 的変身のために


 さあ! この<A4><6F>界隈を無邪気な子供のように歩きませんか。たぶん<あなた>は、何かの予感にあふれた反省的な閃きを得るはずです。そう、それ! その自己愛な価値判断なんかで身構えてはいけませんよ!!
 いつも<あなた>たちは反省以前的表現者のままで、「何かいいことないかな?」「イマイチ、燃えてくる何かが足りない。でも、それが何かは不明なのだ…」などといって遊んでいるけれど、そんな<言葉>も録音して再生してみれば、その「言葉遊び」こそがいま求めている<何か>であることに気付くこともあるから、そんなときにはすでにその<何か>は「いいこと」として得られ、しかもそれが<何>化されていることを知ることが出来るはずなのに、<あなた>たちは、「ちえっ、何んだあ、そんなことか」と吐き捨てて、<何>的表現者に留どまることよりも不本意に<何>化されてしまった自愛的欲望への哀惜を振り切ろうとしないから、せっかく<誰>であってもいい「気軽な<誰か>」になれたのに、今さらながらの<自己確信>などという信仰心に満ち満ちて、「いいかい君ね、<何んだあ>というのは期待が裏切られたときの溜め息にすぎない。そんな無念の思いをさせられた相手に腹を立てるだけのことで、いったい何が分かると言えるのかね?」と不機嫌な顔で立ち去ってしまう。
 しかし、無邪気な子供のように遊び好きのわれわれは、ヒトビトのように相も変わらぬ信仰心で感傷的な「苦悩」にばかり酔っているわけにもいかないから、どんな修羅場でも「それは何?」を問いつづけ、いかなる「苦悩」も所詮は「何んだあ」でしかないゼロ回答を「苦悩者=反省者」で分けあって、「問う=回答」の表現体験のみを引き受ける<何>的表現者でいる覚悟なのだ。
 この「覚悟」を戯れに生きてみることが「<何>的変身」に他ならないのだから、とにかくわれわれは、あらゆる事象に向かって「何?」を喚起し「何!!」へと語るに落ちなければならない。そのときには、われわれが真・善・美・聖・愛などの呪縛から逃れられずに錯認し、知らず知らずのうちに欲望から脱落する「<私>たりえぬ<私>」を疎外してしまう「苦悩する<私>」の姿が、反省的にシュミレーションされてくるはずなのだ。
 つまり「<何>の透視力」を身につけるということは、もともとは「誰が誰であってもいい」という絵空事にすぎないがゆえに、辛うじて常識・文化・制度によって人格を確保しているヒトビトが、いつも自己喪失の不安を拭い去ることが出来ないという曖昧な<物語的人格>であることを、より強力な欲望物語とかより暴力的な権力物語に迎合させてでも、なんとか自己同一性としてのつじつまを合わせておきたいと願う自愛的体質であるために、たとえ思うようには体制的価値の掠奪と役柄的暴力性による自己偽造を実現しえないであろうことを知りつつも、やはりそれを諦めるわけにはいかない<苦悩者>であることを明らかにすることが出来るのだ。
 そんな<苦悩者>にかぎって、たいていは自負心とか自尊心なんかで武装しているから、われわれに対しては、「どうして君たちは、社会に対する責任を回避して、無意味の中にばかり隠れているの?」なんて非難がましく言うけれど、それもわれわれの意見を聞くために問い掛けているわけではなく、すでに排除するための最後通牒になっているというわけだから、われわれが「あなたたちの言う社会的責任とは、結局、人類滅亡のための共同責任者になることでしかないのだから、せめてわれわれは、その責任を反省的に全うするために<役立たず>として生きようというわけさ」と回答しても、絵実物的な<苦悩者>たちは、初めっから責任を回避してしまっている「自愛的暴力の後始末」には耳を傾けようとはしないのだ。
 そもそも絵実物的なヒトビトは、人類誕生以来の膨大な「不成就性の霊的欲望」という遺産を、自らの自愛的欲望で育みつづけた常識・文化・制度として相続していながら、その「不成就性の霊的欲望」が「荒れるにまかせる力」による絵実物的な自己実現への執着であることに無頓着なために、結局は不成就性の欲望を抱えて「死を生きつづけている」ご先祖様たちが誰も為しえなかった、「人類を滅亡させうるほどの暴力者になりたいという悲願」を自分の<無意識的な欲望>として担っているはずだから、ひとたびそんな絶望的な苦悩者であることに目覚めたならば、ことごとくの<自然的営為>を保証する「荒れるにまかせる暴力」への反省こそが、現代人共通の理念として生きられなければならないと自覚すべきなのだ。しかし、<人類滅亡>などという未知の受難には何も為すべきことのないヒトビトは、<人類滅亡>が「いま」を生きるすべてのヒトビトの責任だとしても、その悍しき動機はヒトビトを支配し隷属させてきた<権力者>たちの遺産であるはずだから、やはり<現代の権力者>たちが反省的に担うべきだと言って逃げてしまう。
 しかしわれわれに言わせるならば、いかなる「常識・文化・制度」物語においても「支配する=支配される」という相互依存の関係でしかないのだから、いまさら輪廻転生を身分差別や役柄決定の大義名文にするような自愛的欲望に固執していないで、現在のわれわれが<個人的苦悩>として担っているもののみならず社会問題として直面する一切の<苦悩>は、すべての「誰かである<私>=私である<誰か>」という<自分>の身から出た錆にすぎないと目覚めるべきなのだ。
 思えばいかなる宗教も、ヒトビトの<無自覚なる苦悩>への厳密なる反省を<懴悔>として喚起しえてこそ<救済>を語りえていたわけであり、芸術にしたところで、<無自覚なる表現欲求>への覚醒を<感動>として喚起しえてこそ<生命賛歌>たりえていたわけであるから、「何?」によって「何!!」に踏み止どまる<何>的変身はおろか、宗教にも芸術にも目を閉じ耳をふさいでしまうような、苦悩の「ババ抜き」的悪循環ばかりを楽しんでいるヒトビトには、われわれも戦略的なる厭味を込めて「誰が<困ってくれ>と頼んだわけでもないのに、勝手に<困って>おきながら、今さら助けてくれなんて言うのはまったく虫のいい話さ」なんていう、憎まれ口をお届けすることになる。
 そんな<何>的反省への誘いも宗教・芸術と同じで、ヒトビトに何を語り掛けようともヒトビトがその気になって自らの「驚き−感動」を発見しなければ、<何>も始まらないという事情を踏まえてのことにすぎないけれど、ひょっとして<何>的変身などにはまったく興味のない立身出世主義のヒトビトが、「何って何!?」との遭遇に「クッダラナイ!!」という排斥力で自愛的暴力を横滑りさせて自己保身を取り繕いながら、「そんな無意味や無責任の前にたたずむ自分に気付いたとしても、いったいそれで何がどうなると言うのかね? だいいち、その<何>とやらでメシが食えるっていうのかね?」とでも問い掛けてくれれば、われわれは心を込めて「そう、おっしゃる通り、今さら<何>ではどうにもなりません。ただ、あなたたちが<知らずに苦悩している自分>をどうにかするのみなのです」と回答することができる。
 いずれにしても、すでにヒトビトによって名誉ある称号の「バカ」「ボケ」「ドジ」を送られているわれわれとしては、今さら欲ぼけたヒトビトにはどれほどの反省をも喚起しえないとは思うけれど、ヒトビトが自愛的暴力ゆえに誰かの<愛>を貧らずにはいられぬほどの「欲ぼけ的体質」ならば、いっそのこと絵実物的価値で鎧われた服を何通りにも何回も着替えてみることを進めたい。
 この「装い」の自己愛による横滑りを楽しめるヒトビトは、たとえば暗がりで厚化粧する女心のように、知らずに自己喪失という居心地の悪いところに宙づりになるか、それともそんな自己欺瞞をもヒトを騙すことによって解消するというしたたかな快感に酔うことが出来るけれど、それは「演技する自分」への自覚において<何>的表現者と背中合わせの関係にあるのだ。そしてこの背中合わせの関係を<反転>しうるかどうかの別れ目は、「装い」で<何か>へと横滑りしつづけるヒトビトが、「何かでありうる<私>とは何か?」と問うことが出来るか否かに掛かっているわけで、この問い掛けこそが「装いという<行為>」を<何>的に対自化させる「何的<経験>」に他ならないのだ。
 しかも「何って何!?」の回答とは、いつどこにおいても質問者が「自分をいかに生きつづけるか」によってしか満足な回答たりえないのだから、ここで「何?」を問う「<何>的事件である<私>」は、いつも「<何>的事件報告である<私>」といまだ「<何>的事件報告ではない<私>」(あるいは<何>的事件報告がその可能性として語りうる<私>) を孕みつづけ、しかもそれをとめどなく付いて回る「<何>的事件ではない<私>」としても背負って生きつづけなければならないというわけで、死に至るまで「<何>的事件=<何>的事件報告」としては完結することもないままに「<私>とは何か?」と問うことは、結局のところ「<私>とは<何>だ!!」に至るまで「<何>的変身を生きつづける」ことになるのだ。
 そこで、「私とは何か?」の戯れの問答集をひもとけば、夫婦そろってスワッピング・パーティーに出掛けるほどには倦怠感を分かち合えるほどの愛欲的関係もなく、ただ惰性的に生活を占有しあうための夫婦の儀式がそそくさと済まされて、まるで間延びした男根が女陰との出会いよりも充足しているかのように、ほとんど安堵にも似た疲労感でタバコをふかす亭主の顔に、いままでの欝積した欲求不満を解消しうるほどの快感なぞ望むべくもない女房の子宮は、三食昼寝スポーツクラブ付きの貧りの体質によって育まれた無明無知をいいことに、ほとんど発情的に「問いつづける」のだ。
 「ねえ、あたしって、あなたと結婚して、どうなったのかしら?」
 「そう、まずは妻となり、おいカアサンになり、しばしばうんざりの女狐になり、かわいい子猫になり、あるいは日々の希望となり絶望となり、そして希望の拘束となりつつ絶望の安らぎとなり、それゆえにことごとくの禍いとなりつつ福となり、何よりも<何か>であるから幻想となりつつ現実となった。と、まあ、そういうこと」
 「もう、いつも口だけは達者なんだから。それもソツのない言い繕いばかり…」
 「そうかい? でもねえ、思うことを偽らずに語るってことは、そういうことなんだよ」
 「そうかしら? むしろ都合のいい言葉に本心を隠しているんじゃないの?」
 「そんなことは無いよ。僕たちのこの関係は、今言った通りさ」
 「でもねえ、あなたの言葉では語られていないあたしの毎日の生活は、そんなに割切れてはいないわよ」
 「ああ、僕もそれほど割切っているつもりはないさ。その自己矛盾こそを語ったわけだね」
 「そうかしら? あなたは自分を割切れてはいなくても、あたしのことは、もう割切っちゃっているんじゃないの?」
 「おおっ、そんな挑発的な言い方はないだろう」
 「でも、あなたの生活は仕事の一部にすぎないかもしれないけれど、あたしの生活は、あなたがすべてなのよ。わかる? つまりねえ、あなたは、あたしを愛することさえも仕事にしてしまっているってことなのよ」
 「そうかなあ…」
 「と言うことはねえ、あたしのことを仕事と同じ秤に掛けているってこと。でしょ?」
 「そんなことはないよ」
 「でもあなたは、いつも目盛りを読んでいる」
 「すると何かい、その目盛りとやらが狂っているとでも言うのかね?」
 「目盛りも狂っているけど、秤に乗せること事態がおかしいじゃないの?」
 「でもさ、それは男と女の違いじゃないのかね?」
 「違うわ!! 愛の問題よ」
 「とにかく、僕は仕事で忙しい。そして君は、僕の支えであり、家庭の支えであり、何よりも僕の生活の支えなんだ」
 「じゃ、あたしは、あなたの母親代わりでしかないじゃないの? あなたは、妻としてのあたしに、何をしてくれているって言うの?」
 「ふむ、ま、君が愛と名付けるものの幻想と現実のすべてを担ってあげられるってことさ」
 「なによ? それじゃ何もしてくれないってことと同じじゃないの!? つまり、あたしが支えにしていたはずのあなたって、すべて幻想だったってことなの?」
 「さあ、それはどうかな。むしろそれは、君の愛という欲望の問題だよ。たとえ夫婦にしたところで、互いに自己保身に努めながら、いかにして相手を隷属的に占有しようかと企んでいるにすぎないんじゃないのかね。そもそも男にとって良くできた女房とは、共通の幻想において女房によく飼い馴らされた亭主にすぎないってわけだ」
 「それじゃ何よ、うちは自己保身ばかりで断絶しているみたいじゃないの? あたしは断絶なんかしていないつもりよ。ただ、あなたが、あたしの愛に気が付かないだけなのよ。だいたい自己保身だなんて、自分勝手な言い分だとは思わないの?」
 「いいや、僕の考えでは、自己保身こそが愛の原初的な姿さ。たとえ愛を神の言葉にまで溯ったとしても、言葉である愛は、愛ゆえに傷付け合わなければ愛の喜びも得られないというわけさ」
 「ふん。また神なんか引っ張り出しちゃって、どうせ口だけなんだから、愛の奇跡を起こせない男は、謙虚に自分の愛を懴悔すればいいのよ」
 「それは無理な相談だよ。だってね、僕の言わんとする愛は、欲望における自己矛盾ということなんだ。つまり、愛は僕に語られることによって姿を失い、しかも姿のないものを語るときにのみ垣間見えるってわけだね」
 「何よ? その姿のないものを語るっていうのは…」
 「それを僕に語らせてしまったら、君は僕の愛を踏みにじったことになってしまうよ、ハハハ。とにかく、もうおやすみ!!」
 「ふんだっ!!」
 とまあ、いずこも愛ゆえの喜びという苦悩は、苦悩という愛の喜びにすぎないというわけで、すでに夫婦の性生活には<何>的変身を遂げているオジサンのみならず、欲求不満のカミサンが発情的に「問いつづける」ことは、たとえ「チエッ、何んだあ」へと語るに落ちるにしても、そこで裏切られたかのようにみえる期待は、ささやかなる対話によってこそ快適に充足されているのだ。そもそも「愛を問いつづけること」=「苦悩の告白」とは、その内容に救済的意味があるのではなく、「問いつづける(自問)=告白(自答)」にこそ救済的意味があるというわけで、「告白したからとて、<何>がどうなるわけでもないけれど…」と予想された<何か>へと語るに落ちる期待を、自らの責任で解消していく戯れなのだ。
とにかく、「問いつづける<私>」が「問われつづける<私>」でありつつ、しかも事件報告でありつつ事件そのものであるという、この「告白による<何>的変身」の現場では、「告白される過去性」を事件として問いつつ「変身への未来性」が事件報告として問われている「現在進行形の<私>」が、「変身への未来性」を事件として問いつつ「告白される過去性」が事件報告として問われるという「現在進行形の<私>」として生きられるのだ。それゆえに<何か>への変身は「<何>化された過去」を生きることであり、同時に<何>化への告白が「<何か>にすぎない未来」を生きることといえるのだ。
 そこで、現在性の「事件=事件報告」として拓かれている<物語>の真っ只中で、「告白=変身」を生きるために「何ごとかを語らずにいられない」表現者は、「語る(表現)」ことによつてとめどない「<私>たりえぬ<私>」を横滑りしつつ、反省者としてのみの「とりあえずの<私>」にとどまることになるが、ここで「何も語ることがなくなった」表現者として生きつづけてしまうならば、もはや「<何>的表現者」たりえぬ「生きる屍」として「<私>たりうる<私>」という幻想の<絵実物的人格>に埋没してしまう。
 言い換えるならば、自然的<私>の「荒れるにまかせる力」に目覚めた<反省者>は、自愛的欲望を<何>化しきれぬかぎり「<私>たりえぬ<私>」を背負った<表現者>でありつづけるというわけで、この<表現者>としての自覚と決意こそが、<何>的変身を生きさせるのだ。もっとも<何>論的に言えば、自愛的欲望によってこそ生きつづけるヒトビトはことごとく<表現者>であったわけであるから、もしもこの<表現者>が「<私>たりうる<私>」であることを確信しているとすれば、それは反省からの限りない遠ざかりとなり、いずれは自己神格化に至るまでの「暴力者=自己欺瞞的表現者=絵実物的作者」へと成り上がってしまうのだ。
 それゆえに、<何>的変身を目指す「<何>的表現者」が「何も語るべきことがなくなった」と思念することは、<表現者>からの堕落であり「反省的に生きつづける」ことの挫折に他ならないから、もしも反省的表現者のままで「何も語らない」ことになるとすれば、それは<何>的変身の究極において「<何>のすべてを語りうる」ときでなければならないのだ。
 つまり、「釈尊的ライフ・スタイル」のパロディーを自認する<何>的変身は、あたかも<悟り>を拓いた後の釈尊が、有余涅槃という因縁解脱してもなを生きつづける業果としての生命力によって<法>を説き続けたように、浄化された「荒れるにまかせる力」を自然のままに表現「行為=経験」しつづけることといえるが、無論、釈尊の救済者的カリスマ性とは無縁の無意味な欲望の戯れというわけなのだ。
 それにしても<何>的変身は自愛的欲望の「解放=開放」を目指すために、「<何>そのもの」は仏教にいう<空>のように<無>を映す鏡として語ることもできるが、しかし「問われ」て姿を現す<空>の消極性とは異なり、自ら「問い掛け」て<何>を掘り起こす「反省への要請」として、より積極的に無意味な「眼差し」を送ることが出来るはずなのだ。

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