10.「おもしろい」と「つまらない」


 

 『新明解国語辞典』で「おもしろい」を引いてみると、「(1)何かに心が引かれ、続けて、(進んで)してみたり、見たり聞いたりしたい様子だ。(2)普通とは変わった所が有り、続けて、(進んで)味わったりつきあったりして、もっと内容を突き止めたい感じだ。(3)おかしい事やうれしい事が有って、笑いが止まらない状態だ。」とある。
 つまりヒトビトの常識・文化・制度における「おもしろさ」を「絵実物的なおもしろさ」といえば、それは「<私>たりうる<私>の遊的な表現持続欲求」ということもできる。
 それに対して「絵空事的なおもしろさ」を前出の辞典にそって言うならば、「(1)<何>に心が引かれ、続けて、(進んで)してみたり、見たり聞いたりしたい様子だ。(2)別に変わった所が有るわけではないが、続けて、(進んで)味わったりつきあったりして、もっと内容を突き止めたい感じだ。(3)おかしい事やうれしい事、あるいは悲しい事や辛い事が有るわけではないが、快的遊感覚が止まらない状態だ。」となり、「<私>たりえぬ<私>の遊的な表現持続欲求」といえる。
 では、「つまらない」を前出の辞典でみると、「それに関心を寄せるだけの値うちが無い。(取るに足りない。ささいな/ばかばかしい/おもしろくない/むだた。はりあいがない)」とある。
 つまり、「絵実物的なつまらなさ」とは「<私>たりうる<私>の不満足な表現中止欲求」と言うことができ、それに対して「絵空事的なつまらなさ」とは「<私>たりえぬ<私>の不満足な表現中止欲求」といえる。
 ところでヒトビトは、「あたりまえ」な日常的事態を「つまらない」と表現し、「めずらしい」非日常的事態を「おもしろい」と表現する。しかし、<何>論者たるわれわれは、「絵実物的あたりまえ」を「絵空事的おもしろさ」と言い、「絵実物的めずらしさ」を「絵空事的つまらなさ」と言いうるわけで、さらに「絵実物的おもしろさ」が「絵空事的あたりまえ」であり、「絵実物的つまらなさ」を「絵空事的めずらしさ」として楽しむこともできるのだ。
 つまり、ヒトビトが「あたりまえ」とするものを「おもしろ」がり、「めずらしい」とするものを「つまらない」という<何>論的「天の邪鬼」は、ほとんど無意識化された絵実物的価値観の自愛的暴力に鎧われて、ありきたりの自己保身に埋没し「あたりまえ=つまらない」日々を生きつづけているヒトビトに、あるいは自愛的欲望を満足させる「めずらしい=おもしろい」ものばかり追い掛けているヒトビトに、「どうせ誰かの痛みと哀しみなしには何事もできないのだから、やめておきな!! まして君たちのいう<つまらない>ことをしていれば、結局は核戦争にでもよる人類滅亡より外には<おもしろい>ことはないのだから…」と言いつづけていることになる。
 循環する<何>的反省においては、すでに「まことしやか=わざとらしさ」「あたりまえ=めずらしさ」であったのと同様に、「おもしろい=つまらない」を言いうるわけであるが、これらの戯れは、「<私>たりうる<私>」の自愛的暴力に肩透かしを食わせることであり、ヒトビトが「おもしろがり」「めずらしがる」という差別し排斥する暴力を、差別され排斥された「つまらない」「あたりまえ」なものの側からなし崩しにして、暴力者たちの「まことしやか」な「わざとらしさ」を「おもしろがり」「めずらしがる」遊びなのだ。
 しかし、暴力「行為=経験」の現場における「<何>的反省の訴求力」を、被暴力者が暴力者へと暴力の牙を着払いで返却することだと臆断してしまうと、たとえば、ヒトビトが弱者嘲弄的に「おもしろ」がる無気力な表現者から、己の欲望を満足させるためなら自分の命と引き換えにしてもいいという貧欲な表現者に至るまでの、自らの暴力によって傷付くことを快感とする<倒錯的暴力者>たちに、「自虐的な自己愛」による自滅物語に手助けをしたことにしかならなくなってしまうのだ。
 それゆえにわれわれは、くれぐれも引き受けた暴力をそのまま発送人に返却するのではなく、選択・排除という暴力的価値判断を循環する<何>的反省の純粋「行為=経験」によって無力化し、暴力者たちが「何だ? これは? これじゃ何んにもなってねえじゃねえか」と言わずにいられないという、牙を抜かれた反省的欲望のみを返却する心構えを忘れてはならないのだ。

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11.<何>的瞬間


 

 <暴力>を純粋「行為=経験」によって無力化するために、様々の対概念をことごとくイコールで結ぶということは、取りも直さず<何>論的「事件=事件報告」の「いま」に目覚めることといえる。それゆえにわれわれのいう<事件の現場>とは、「<何>しい時間」と「<何>しい空間」の「いま」「ここ」に拓かれなければならない。
 そこで、「いま」「ここ」を拓く「<何>しい瞬間」あるいは「瞬間を<何>する」ことについて考えてみたいと思う。
 ヒトビトは、「語りつづける=生きつづける」ことがすでに時空間的体験であることを免れぬ<物語>の中で、不意に遭遇する陥穽としてあるいは屹立する奇跡として、あたかも永劫に静止する時間・空間があるかのように<瞬間>という言葉を意味づけてしまうけれど、<物語>の中においてはいかなる<事件>もそれを語る表現者によって反省的に対自化された<事件報告性>を回避しえぬように、<瞬間>もまた移り行く物語的欲望を語る表現者の<瞬間報告性>を無視しては存在しえないのだ。
 そのへんの事情は、たとえば相変わらず女から女へと渡り歩いている男が、ある酒場のカウンターに人待ち顔で所在無くタバコをふかす昔別れた女を発見したとすれば、
 「やあ、久し振りだね…」
 「あら、元気そうじゃないの!」
 「まあな。それにしても、ずっといい女に成ったなあ、ちょっと気が付かなかったよ」
 「ふうん、相変わらずなのね」
 「いやいや、本当だよ。でも、何というか、その表情は変わってないね、懐かしいよ」
 「……」
 「それにしても、久しぶりだなあ」
 「そう…、三年くらいかしら…」
 「そうかねえ。で、どう? 今なにしてるの?」
 「今? 今は、あなたと再会したところじゃないの、でしょ!?」
 「ん? ハハハ。相変わらずだなあ」
 てなわけで、屈託のないこの男に比べれば、やはり彼女の方はまだ何かのこだわりを抱えている様子であるが、ここで「今なにしてるの?」は正にその<瞬間>を問うつもりなどは端っからなく、まったく当然のこととして<最近>へとずれているからこそ、彼女の「何か」がわざとらしく<今>にこだわってみせたにすぎないけれど、それにしてもこの場面で<瞬間>という<言葉>を使えるかと考えてみても、
 「あなたと再会している瞬間よ」
 と言うのは会話としてはいかにも不自然になってしまうから、どうしてもここで<瞬間>にこだわって何かを言おうとすれば、
 「そう、いま再び、あなたと別れようとしている瞬間かしら…」
 「ん? ハハハ、かなり手厳しいお言葉だね」
 というようなわけで、当事者であるよりも解説者的な発言によってこそ<瞬間>という言葉は輝いて見えることに気付くのだ。
 だから、小説家が「彼女は、その男の言葉を弄んでいる自分に気づき、その瞬間、いままで想い出したくないと拒みつづけていた何かがひとつ、小さな吐息とともに崩れていくのを感じた…」とでも語れば、<瞬間>はより自然な形におさまるわけであるから、正に<神的表現者>による「事件報告=<瞬間>報告」として語られる<瞬間>こそが、より生き生きしているというわけなのだ。
 つまり、止どまることなく流れ続ける<時間>物語の中で、生生流転するはかない存在であるがゆえに、いかようにも<時間>を超えることのできないヒトビトが、彼らにとっては超越者である「物語以前的<時間>」も物語的「現実=事実」としての<時間性>に目覚めたときには、時間の瞬間性を「<瞬間>報告」として手に入れることが出来るというわけなのだ。それゆえに<瞬間>とは、正にそのときから限りなく遠ざかる<物語的欲望>を掠奪して、「<瞬間>報告者」となったヒトビトを匿名性の客観的な表現者へと棚上げし、あるいはヒトビトを<神>的な高みから<時間>を創造する<作者>へと祭り上げ、取り留めのない「事件=事件報告」の流れを超越的に不変的に静止した「いま」「ここ」を偽造しようとする<ビニール・パッケージ的構造>であることが明らかになるのだ。
 したがって、「<作者・解説者>たりうる<私>」であるヒトビトにとってのみの<瞬間>こそが「いま」「ここ」というわけであるから、ここに語られている<瞬間>とは「時間的<作品>」として「作者である<私>」の絵実物的な欲望を実体的に担っているために、われわれが、移り行く<時間>の真っ只中で変化しつつ「生きつづける表現者」として「いま」「ここ」を語ろうとすれば、せっかくの「瞬間=<瞬間>報告」への目覚めを自愛的欲望などて実体化することなく、<何>的「事件=事件報告」へと横滑りさせて「絵空事的<瞬間>」を語らなければならないのだ。
 そもそも絵実物物語という「荒れるにまかせる力」によって永劫に流れ続ける時空間の中では、いかなる<瞬間>も「物語的現在」としての「<いま><ここ>もどき」でしかないのだから、それを改めて「瞬間もどき」=「物語的<瞬間>」と言い換えるならば、「生きつづける表現者」がこの「物語的<瞬間>」の偽装を暴き、しかも生生流転ゆえに永劫に「いま」「ここ」としてはありえぬ<瞬間>を、「生きつづける」というその宿業の真っ只中で積極的に引き受けて、それを表現「行為=経験」の<刹那滅>的体験として拓くためには、結局のところ自己目的的な「純粋行為=純粋経験」としての「<何>的瞬間」が、たとえば「すでに<誰か>によって表現される予定の<何>がいまここで正に<何>として表現されている」という、とめどなく循環する「反省的<瞬間>」として語られなければならないのだ。
 それは、「行為−経験」や「事件−事件報告」を<純粋体験>の「瞬間への覚醒」によって結び、<時間>と<空間>を<何>化することなのだ。
それにしても、絵実物物語の中で「いま」「ここ」を勝手に静止させたために、 いつも「いま」「ここ」からずれてしまうという「瞬間たりえぬ瞬間」に慣れ切ってしまったヒトビトは、たとえば、別れ話のこじれたオジサンの陰険な女房が、どこで探り当てたのかオジサンの愛人のマンションへと踏み込んだその直後に、それと知らないオジサンがスケベを一身に背負ってやって来れば、中年殺しを自認するかなり強気の愛人は、すっかりうんざり顔で「いま!! ここに!! あんたの奥さん来たわよ。さんざん言いたいことを言った後で、勝手にひと泣きして帰っていったけれど、いったいどういうつもりなのかしら。だいたいねえ、あんたの奥さんに、とやかく言われる筋合いはないのよ。そうでしょ? あんたが、勝手にあたしに惚れるからいけないのよ」なんて、オジサンのスケベと優柔不断をいたぶり続けることになるにしても、オジサンとしては愛人のマンションである「いま」「ここ」に居ながら、泣き落としなんていう厭味な演技を裏切りの面当てとして、しかもこれからは不幸という名の愛を傷だらけで生きようと決心したはずの古女房の逆襲に遭遇したわけではないのだから、この別れ話の結末は諸君の想像に任せるとしても、ここに言う「いま」「ここ」は、「いまここに居るはずの女房」と「いまここに居るはずのオジサン」が別の所に存在しているという矛盾を犯していながら、それでも「いま」「ここ」を平気で掬い上げているという始末で、すでに<瞬間>を、近過去から近未来までをかなりいいかげんにしか語れないものへと堕落させてしまっているのだ。
 もっとも、<言葉>に対する<私>的臆断こそを<何>化せんとするわれわれにしてみれば、<言葉>は堕落しているぐらいの方が健全な姿だと言いうるにしても、ヒトビトは、しばしば自愛的欲望の堕落を取り繕うために<言葉>を擦り減らし、<言葉>の反省的な想像力をダメにしてしまうのだから、たまには「いま」「ここ」が正に事件の現場として拓かれている「何って何!?」で、<言葉>が「いま」「ここ」に生まれ出る<瞬間>を祝福してあげてはいかがなものか。
 そんなときにここでは、ひとつの<言葉>が衝撃的に「<何>した瞬間」を語ることがある。それは「あっ!?」なのだ。われわれは取り立てて「何?」「何って何?」を問うまでもなく、「あっ?」と「あっ!!」の閃きを反省的に生きることによって、その目的とするところを語ることが出来るのだ。

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