8.「まことしやか」と「わざとらしさ」


 

 ヒトビトの絵実物世界に「眼差し−応答」を送る<何>的事件は、いかなる戯れによって絵空事的陥穽ともいいうる「金太郎さん」へと、飛んで火に入る夏の虫を誘い込んでいるのか。われわれは、この「眼差し−応答」を<何>的にたぶらかしつづける「〜らしさ」の戯れについて語ることしたいと思う。
 すでに見てきたように<A4><6F>は、その正体不明性・無意味性などによりヒトビトの価値観の中では「もどき態」と呼ばれているわけであるが、それはヒトビトが自らの「眼差しの欲望」を納得させるために、たとえば<A4><6F>などに「<作品>らしさ」を要求することでもあるけれど、しかしそこではヒトビトが納得するに足るだけの<何か>を発見できるはずもないのだから、いわば「まことしやか」で「わざとらしい」<絵実物性>が晒け出されるばかりで、満足な回答を得られぬままの「問い掛け」にたじろぐヒトビトは、結局「何って何!?」でしかない<絵空事>の鏡に映し出される自分の「まことしやか」で「わざとらしい」自愛的欲望を見詰めるばかりなのだ。そこでヒトビトの「はぐらかされた眼差し」は、自らの「眼差しの欲望」は棚上げにして「まことしやか」な「わざとらしさ」こそが<絵空事>の正体であるという回答を用意せざるを得なくなってしまう。
 そんなヒトビトの価値観は、はぐらかされ揺らぎを与えられる<絵空事>への不安・警戒心・猜疑心を隠そうとしないから、「絵実物的な何か」が「まことしやか」であればあるほど「わざとらしい<絵空事>」を、そして「わざとらしさ」が鼻に付けば付くほど「まことしやかな<絵空事>」を発見し、さらに「絵空事的な何」が「まことしやか」であればあるほど「わざとらしい<絵実物>」を、そして「わざとらしさ」が鼻に付けば付くほど「まことしやかな<絵実物>」を発見してしまうのだ。
 しかもヒトビトは、<A4><6F>の「〜らしさ」という装いを<擬態>と見ずにはいられない自愛的欲望に鎧われているために、いかなる<何>的事件にも居心地の悪い価値判断に「ためらい」を隠すことができない。
 そもそもこの「ためらい」とは、「<私>であるはずの<私>」や「<私>でありえぬ<私>」への期待と失望に纏わる揺らめきであったり、あるいはすでに担っている物語的役柄とのずれや軋みによる戸惑いであるはずだから、その「揺らめき」や「戸惑い」に垣間見える「<私>もどき」の姿が、思わぬ「〜らしくない」醜態を晒すばかりではなく予想外の媚態や美形を見せるときの「驚き」であれば、それはしばしば「ときめき」でもありうるはずなのだ。この「ためらい」と「ときめき」は、「<私>は<私>でありつづけたい」にもかかわらずその<想い><思い><念う>ことによって、無意識にあるいは意図的に「ずれてしまう<私>」のごく日常的な苦悩であり喜びであるはずだから、われわれは、「まことしやか−わざとらしさ」の仕掛けによって日常的な営為の中で「ためらいつつ」「ときめきつつ」積極的に「ずらしていく<私>」を、まるでワインでも楽しむようにわずかの渋味である苦悩を不可欠のものとしつつ、それゆえの芳醇な香りと味わいを喜びにする「らしさ=らしくなさ」の戯れに酔うのだ。
 それにしても「らしさ=らしくなさ」ゆえにさんざん痛め付けられてきて今に至り、わずかな「ときめき」よりも辛い「ためらい」ばかりを引き受けてきたオジサンたちにとっては、夜の巷の「ウソ明るい」セックス遊戯で、到底オジサンたちでは太刀打ちできない高額所得者のギャルたちが、所詮は「OMANKOごっこ」が大好きとは言うものの「まことしやか」に明るければ明るいほど、オジサンたちはギャルの「わざとらしさ」に見合ったやる瀬なさで、「ま、それだけ高い金をふんだくりゃ、誰だって明るく楽しいはずだよナ」なんて恨めしく思わざるをえないから、かのギャルが「セックスは明るく楽しむものよ!!」なんて「わざとらしく」も「純粋 OMANKO 論」などというご高説を宣えば、オジサンとしては、だからといって法外な値段で売り物にしていいなどという「まことしやか」な論理がほとんどウソッぽく透けて見えるばかりなのだ。そこでわれわれは、たとえば停年退職までの道程がすでに見えてしまったオジサンたちに、いつまでも「本物の幸福」とか「本物の<私>」なんていう有りもしない夢ばかりを見ていないで、一日も早く<何>によって正体不明性へと「ずれていく<私>」を、気軽に楽しんでみてはいかがかと要らぬお節介をしてみたくなるのだ。
 ところで、『広辞苑』によれば、「実しやか」とは「いかにもまことらしいさま」とあり、「態とらし」とは「いかにも不自然でわざとしたようである」となっているが、これを<何>論的に言い換えるならば、「まことしやか」とは「よくできた嘘」とも言えるわけで「何(か)が無作為的に限りなく何(か)に近く見えること」となり、「わざとらし」とは「へたな嘘」とも言えるわけで「何(か)を作為的に限りなく何(か)に近く見せること」とすることができる。
 これを元にして絵実物世界に垣間見える絵空事の姿を語れば、まず、「まことしやかな絵実物」を「<よくできた嘘>としての絵実物」と言い換えると、それは正に「絵実物もどき」というわけで「無作為的に限りなく絵実物に似て見える絵空事のこと」となり、<よくできた嘘>をついているのは<絵空事>ということになるが、それを「嘘と見抜けぬ」ヒトビトにとっては、そこにほんの少し「わざとらしい絵実物」が立ち現れるから、これを「<へたな嘘>としての絵実物」と言い換えると、どんな嘘をつこうとも所詮は<絵実物>に変わりはないと臆断されたそれは「作為的に限りなく絵空事に似せて見せる絵実物のこと」になる。
 しかし、「絵空事の<よくできた嘘>」を嘘と見抜いたヒトビトにとっては、「わざとらしい絵空事」が立ち現れることになり、これを「<へたな嘘>としての絵空事」と言えば、すでに身元の割れた<絵空事>は「作為的に限りなく絵実物に似せて見せる絵空事のこと」であるために、結局は、初めの「まことしやかな絵実物」の「<絵実物>に似て見える」ことが、この「わざとらしい絵空事」の「<絵実物>に似せて見せる」企みの擬態であることを発見したことになる。
 それに対して、「まことしやかな絵空事」を「<よくできた嘘>としての絵空事」と言い換えれば、それは正に「絵空事もどき」というわけで「無作為的に限りなく絵空事に似て見える絵実物のこと」となり、ここで<よくできた嘘>をついているのは<絵実物>ということになるが、それを嘘と見抜けぬヒトビトにとっては、そこにちょっと変だなと思う程度の「わざとらしい絵空事」が立ち現れるけど、これを「<へたな嘘>としての絵空事」と言い換えれば、どんな嘘をつこうとも所詮は<絵空事>にすぎないと臆断されたそれは「作為的に限りなく絵実物に似せて見せる絵空事のこと」になる。
 しかし、「絵実物の<よくできた嘘>」を嘘と見抜いたヒトビトにとっては、「わざとらしい絵実物」が立ち現れることになり、これを「<へたな嘘>としての絵実物」と言えば、すでに身元の割れた<絵実物>は「作為的に限りなく絵空事に似せて見せる絵実物のこと」であるために、結局は、初めの「まことしやかな絵空事」の「<絵空事>に似て見える」ことが、この「わざとらしい絵実物」の「<絵空事>に似せて見せる」企みの擬態であることを発見したことになるのだ。
 しかし、「想像力の否定的効用」には無頓着のままで、様々な嘘・偽りに騙されつづけ、あるいは自分勝手な嘘をつきつづけてきたヒトビトが、それでも「僕は、何事も現実的に対処してきたつもりさ」と言える「<私>たりえぬ<私>」の不信感から焦燥感や、「<私>たりうる<私>」の充足感から重圧感という「ためらい」と「ときめき」を、「価値観の多様化」とか「脱コード化された社会」などという胡散臭い<言葉>で取り繕い、自愛的欲望を温存させるために絵実物世界に埋没しつつ「まことしやか−わさとらしい」眼差しで語っても、それは到底「<何>的反省」たりえないから、自己保身にうつつを抜かす<私>的欲望の安全装置として自愛的暴力を弄ぶための「ずらしつづける眼差し」で、ただヒトを傷付けそしてヒトに傷付けられることを繰り返すばかりなのだ。
 だから、たとえばここで<愛>によって救われるために反省をするにしても、それは「本物の事件(事実・真実)」という<神>の前に額づく<私>の「らしさ−らしくなさ」に焦りを掻き立てるばかりだから、「似て見える」受動的な装いと「似せて見せる」能動的な装いを「よくできた嘘−へたな嘘」でごまかし、とめどない自己欺瞞に傷付きながら「かりそめの<私>」を苦悩として生きていかなければならないのだ。
 そんなヒトビトの「欲望の眼差し」は、あたかも「自己否定もどき」に「自己肯定をずらしつづける」という自己愛の延命策により、「こ、これは何だ? こんな訳の分からんものは捨ててしまえ!!」と言うだけの暴力者へと埋没させてしまうだけなのだ。
 つまり、「まことしやか」も「わざとらしさ」も<嘘>という手段の<ビニール・パッケージ>にすぎないというわけで、<何>論的反省においては、「表現している何か」によって「表現していない何か」を見落とさなければ、やはり「嘘も方便」と言いうるのだ。

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9.「あたりまえ」と「めずらしい」


 

 「あたりまえ(当り前)」を類語辞典より抜粋すると、「尤もなこと、成程、無理もない、当然、至当、順当、普通、一般、尋常、自然、妥当…」とあり、「めずらしい(珍しい)」は、「目新しい、耳新しい、滅多にない、風変わり、得難い、希に見る、突飛、珍奇、珍妙、奇妙、奇態、奇抜、希有、未曾有、異例、無類、前代未聞…」とある。そこで「あたりまえ−めずらしい」をとりあえずの対応関係にあると考える。
 この「あたりまえ−めずらしい」を<何>論の操作概念へと衣替えすれば、「あたりまえ」とは「今さら<何か>に驚くほどのこともない事態」となり、「めずらしい」とは「今こそ<何か>に驚かざるをえない事態」となる。
 そもそもヒトビトの<日常>とは、「あたりまえな何か」をさんざん背負い込み、もはや溜め息ばかりの無感動という絵実物的知見をもてあましながら、そのくせ欲求不満の自愛的欲望ばかりをギラギラさせて、鵜の目鷹の目で衝撃的に満足させてくれる<非日常的>な「めずらしい何か」ばかりを求めつづけているのだ。
 そんなヒトビトは、たとえば金権的暴力者たちの野望である「あたりまえ」な環境の破壊的掠奪による「めずらしさ」の偽造的開発が、実は「めずらしい」環境の破壊による「あたりまえ」な開発でしかないことに気付いていても、そのことへの反省的認識でさえ<自然破壊>と言って「あたりまえ」のように<暴力者>たちを<自然>から引き離してしまう有り様だから、宇宙的<自然>の摂理をいかようにも超えられない人間的営為は、たとえいかなる暴力でもやはり「あたりまえな自然」の姿であることを認めたがらないのだ。しかしここで改めて、<人間的営為>が<自然>とともに「あたりまえ」のこととして繰り返してきた「創造−破壊」の動因を「荒れるにまかせる力」と呼べば、われわれの<何>論の言わんとする「めずらしさ」とは、この「荒れるにまかせる力」ゆえの「大いなる自然的暴力」へのとてつもなくバカげた<反省的発見>の企みに他ならないといえる。
 そこで、ヒトビトの自愛的暴力である「荒れるにまかせる力」の行き着く果てが、結局は<人類滅亡>でしかないことを「あたりまえ」として了解してしまう絵空事的知見にとっては、ヒトビトの言う「めずらしい何か」の究極もやはり<人類滅亡>でしかないと知ることだから、ヒトビトの「めずらしがる欲望」によって排斥された「あたりまえな何か」にこそ、われわれは<何>的な「めずらしさ」を発見するのだ。言い換えるならば、「絵実物的あたりまえ」を<何>的反省することによって「絵空事的めずらしさ」を拓くことになるのだ。
 たとえば<A4><6F>における<何>的戦略は、ヒトビトのいう「めずらしい何か」をことごとく「今さらの<何か>に驚くほどのこともない絵空事的<あたりまえ>観」によって去勢することだから、循環する反省的欲求を表現せざるをえない「A4・6F」物語は、「<私>的自然」を「<何>的表現者」として生きつづける<誰か>がいるかぎり、ひとたび反省された絵空事的「今さらながらの<何か>」を、さらに「今こその<何>」という絵空事的「めずらしさ」として捕らえ返すことを可能にするのだ。それは、「A4・6F」物語の「何って何!?」が、<自然>にしか生きられぬために自愛的暴力を回避しえぬヒトビトの欲望を、「今こその<何>を喚起せざるをえない痛み」として反省的に対自化させつづける鏡であるからといえる。
 ここでいま、「自分とは何か?」という物語における「荒れるにまかせる力」への自覚を<愛>として語るならば、「<荒れるにまかせる力>である<私>」とは「欲望化された自己愛」というわけで、それは取りも直さず<自愛的欲望>のことに他ならず、しかも<自愛的欲望>はすでに「絵実物的な<私>物語」なしには欲望たりえぬために、ヒトビトの価値観と通底する絵実物世界への「創造−破壊」的欲望によるかかわりは、<何か>を選択し排除する<暴力>的営為であることを回避できないのだ。したがって、このままでは「いかに生きるべきか?」を<自愛的暴力>によってしか生きえぬヒトビトの快感と痛みは、<日常>から輝きを求めて<非日常>へと屹立し再び輝きを失って<日常>へと埋没してしまうというわけで、<暴力>によってこそ「<私>たりうる<私>」でいつづけたい<愛>は、<暴力>ゆえに「<私>たりえぬ<私>」へと送り返されてしまうとめどない日々を、「あたりまえ−めずらしい」的価値判断によって傷付き傷付けることを止めることができない。
 しかし、ひとまずは「絵実物的<私>物語」を「何って何!?」に至る自問自答によって<何>化し、とりあえずの「<私>的計らい」を離れ宇宙的規模の<自然的欲望>によって「あたりまえな愛=めずらしい愛」に目覚めることが出来るなら、もはやおおらかな快的遊感覚を保証する「自愛的暴力たりえぬ<愛>」によって、日常的には「<何>化された非日常的<愛>」を、そして非日常的には「<何>化された日常的<愛>」を生きることができ、さらに、非日常的に「<何>化された日常的<愛>」をごく日常的に「<何>化された非日常的<愛>」として生きることも可能にするのだ。
 いいかえるならば、「表現者が<何>的反省を生きつづける」ときに、あるいは「生きつづける表現者が<何>的反省を語る」ときに、自愛的欲望を「あたりまえ=めずらしい」事件ではぐらかすことができれば、絵実物と絵空事との関係は、「絵実物的あたりまえ」=「絵実物的めずらしさ=絵空事的あたりまえ」=「絵空事的めずらしさ=絵実物的あたりまえ」という「反省的な故の木阿弥」的循環構造となり、いつものように「絵実物しつつ絵空事され、絵空事されつつ絵実物する」戯れを拓くことになる。
 ところが、<何>的事件報告を自らの事件としうる「享受的表現者」であることに気付いたヒトビトが、平々凡々たる日々に<私>を驚かし<私>に驚かされたい「驚きの発見」を願いつつも、それでもなを<あたりまえな日常>の「今さらながらの持続」に果敢なる「今こその遮断」を<決意>して<めずらしい非日常>を拓くことがなかなか出来ないとするならば、われわれは、そのような<決意>すら苦悩なしには踏み切れぬ「生きがたきヒトビト」に、「何って何!?」の驚きを<反省者>として体得することさえ出来るなら、どれほどの「辛い決心」をすることもなく「<あたりまえ>に生きつづける日々こそが<めずらしい>表現として語られた」ことであり、しかもそれが「<あたりまえ>に語りつづけることによって<めずらしい>日々を生きられた」ことへと覚醒させ、さらに、<何>的事件報告によって「享受的表現すること」を「生きている」うちに、いつのまにか「生きがたき<私>」の苦悩こそが<何>化されて「救済の表現的享受者」になっていることに気付かせるはずだと言うことができるのだ。

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