6.「表現しえない何か」と「表現している何か」


 

 <言葉>と<意味>との間で「表現という欲望」によって宙づりになった<何>は、はたしてどこまで「語ること」を反省的に語りうるのか。ここで「表現という欲望」であるわれわれは、この曖昧さの中においても<言葉>でありつづけるために、またしても<何>的言葉で遊ばずにはいられないのだ。

 「ねえ、ひょっとすると<何>って、どこまで行っても行き止まりじゃないかと思うことがあるんだよ」
 「ええ!? 君は自分の言っていることが分かっているのかい? いいかい、どこまでも行けるなら、そこは行き止まりなんかじゃないってことだよ、ネ」
 「ん? ああ、そうか…。うむ、実はね、どこまで行ってもどこまでも行っても結局は<何>にぶち当たってしまうってことなんだ」
 「ふうん、すると<何>より先がないってこと? それじゃ<何>って奴は、まるで宇宙の地平線みたいじゃないか」
 「宇宙の地平線? あの光速で見通せるものの限界ってこと?」
 「うん。つまりは<A4>的事件で<語り><引用>しつづけるときの<表現の反省的限界>ってわけだね。正に<何>とは、<A4><6F>における地平線ってわけだね」
 「でもねえ、<何>は地平線のように永劫に到達しえない希望ってわけじゃないんだよ。ただしね、<何>を体得すると、後はずっと<何>だけなんだ」
 「だからねえ、僕に言わせれば、<何>を生きるってことは光速で移動しているようなもんだってことサ。つまりね、僕にとっちゃ<何>と共に見えなくなってしまった君も、君にとっては<何>との永劫の道行きってわけだ。まったく、ご苦労さんなことだね」
 「ちょっと違うなあ…」
 「どうして!? 後にはただ<A4><6F>だけが残る。それこそが君の目標だったんじゃないの?」
 「いや、そうじゃないよ。そのときに後に残されているのは<何>であるはずなんだ」
 「また、どうしてさ?」
 「だって、僕は<A4><6F>における<何>の行き止まり現象について語っているんだよ。つまりね、ここで消滅するのは<僕>であり同時に<A4><6F>であるはずなんだ」
 「ところがね、それこそが、たとえば光速によって例えられる<表現の反省的限界>、つまりは<表現たりえぬことで表現せざるをえないこと>あるいは<表現しえないことを表現しなければならないこと>が、君の<A4><6F>における宿命ってことなんだよ。いいかい、君は<A4><6F>において、<何>の体得という手段で正体不明者へと消滅してしまうから<何>の外には<何>も残らないけれど、残されたわれわれにとっては歴然と<A4><6F>は存在するわけさ。しかもわれわれは、その<A4><6F>によってしか、<何>論の存在はおろか<何>のみの表現力・生命力になってしまったはずの君を知ることが出来ないってわけさ、どお?」
 「……」
 「だいいち君にとっては、この<何>との永劫の道行きによってこそ、あの<解放=開放>論を具現化させることが出来るんじゃないの? つまり<何>は、<何>という言葉を超えた<無>の中に解消されないことによってこそ、<無>を映す鏡たりえたってことじゃないのかな」
 「……」
 「ん? まだ<何か>言いたいの? ああ、そうか。君は、僕という鏡に<何>を映し、もはや<A4><6F>たりえぬ無言の言葉を語るのみだってわけか。しかしこれだけは言っておくよ、君の鏡たる僕は、れっきとした<A4>だってことを…」

 われわれは、「想像力の論理」により「レトリック−アリバイ」の関係を語ることにより、たとえ<A4><6F>であれそれが「表現されたもの」である以上、とりあえずの事件報告的「文字・写真・図形など」のみによっては「表現しえない何か」を引きずっていることを明らかにして、たとえ表現「行為=経験」であっても<事件報告>という「二次的な事件」では、表現したいにもかかわらず「表現できない何か」が「一次的な事件」としてあるはずだというところに、<レトリック>の「発見的認識の造形性」を認めていたわけなのだ。
 ところがヒトビトは、<事件>を<ノンフィクション>と言い<事件報告>を<フィクション>と言って別けてしまうから、「表現されたものは<フィクション>にすぎない」として「表現されていない事件」こそが「本物の事件」であると主張するけれど、しかしわれわれは、この「想像力」を自己否定的に働かせることによってこそ「事件=事件報告」を可能にする「反省的<何>論」を語りえたわけであるから、<とりあえずの事件>に一次性と二次性を認めるにしても、ヒトビトのように<事件>そのものを価値判断の対象にして「真実性−虚偽性」について言及するつもりはないのだ。
 なぜならすでに前節において見てきたように、『《事実》は「事件報告という物語的<現実>」より生まれ、《現実》は「事件という物語的<事実>」より生まれるという循環構造』であり、さらに『正体不明のまま<現実>と<事件>の間を揺れつづける<事実>とは、「物語的現実(事件報告)=物語以前的事件(現実)」の現場における<表現体験>のこと』であったわけだから、たとえヒトビトの言う「本物の事件」を<表現以前的事件>と言い換えたとしても、それは<表現的現実>としての事件報告でしかなく、結局は<言葉>であるわれわれによってこそ語られたものという「表現された何か」でしかないからなのだ。
 つまり、この「表現された何か」でしかないものを「本物の事件」へと捏造してしまう原因は、ヒトビトの「想像力」が「<私>は<私>である」と臆断させる自愛的欲望にしばしば無反省であるためと言える。
 そもそも表現体験における「想像力」がその創造性によってヒトビトを酔わせてしまうから、たとえどんな臆断であれいつのまにか創造者の立場を掠め取ることになるヒトビトが、自らの正当性を誇示するために「肉化した想像力」と言いうる信仰生活を捏造してしまえば、その<何か>を真・善・美・聖・愛などという価値で呪縛し<実体化>するのはごく自然な成り行きというわけで、それは、自己愛に鎧われた「想像力」ゆえの<物象化的倒錯>によってこそもたらされる弊害と言えるのだ。  
 それゆえに、この「表現できない何か」こそが「客観的世界の<事実>」であると強弁するヒトビトの狙いとは、たとえ表現者が自らの<知覚・想像>物語を語るにしても、すでに問答無用に担っている「常識・文化・制度」物語を無視しえないにもかかわらず、あるいは単に「常識・文化・制度」物語を語るつもりでも、やはり「<私>的知覚物語」を無視しては何事も語りえないにもかかわらず、「<私>的知覚・想像」を誇示したいときにはそれを「主観的物語」と呼んで常識・文化・制度から切り離し、あるいは「<私>的知覚・想像」の責任を回避したいときにはそれを「客観的物語」と呼んで常識・文化・制度へと押し付けるというわけで、それは自愛的欲望を温存するためのまったくのご都合主義と言わざるをえないのだ。
 だからここでヒトビトは、ごく当然のこととして<主観>と<客観>なるものを対立する概念にしてしまうから、「客観的<事実>」は<物語以前的事件>として「主観的<現実>」から遠ざかり、「主観的<事実>」もまた「客観的<事件>」から離れて自分だけの<物語的現実>へと埋没することになり、自己保身を前提とする<表現体験>は、「表現できない何か」を<超越的な実体>へと祭り上げて「いまだ語りえぬものには拘わりようがない」などという発言でわれわれを煙に巻き、反照的に実体化された「<私>的存在の限界」を「<表現体験>における限界」で言い繕うという算段なのだ。
 言い換えるならば、ヒトビトの言う「表現の限界」とは、表現者が実体的存在であるかぎり絶対に超えたり踏み込むことのできぬ領域との壁ということになり、われわれの言わんとする「表現の限界」とは、「表現行為と表現経験」を、あるいは「事件と事件報告」を反省によって結ぶためのとりあえずの境界線にすぎないのだ。
 とにかく、ヒトビトの言う「表現できない何か」も結局は「本物の事件」などという<言葉>で語られてしまうのだから、いかに表現しえぬ事件と言えども、それは「<主観-客観>的行為者=<客観-主観>的経験者」である<表現者>の表象世界における物語的「事実=現実」としてしか発見されないというわけで、もしもここでヒトビトの言葉を借りて「いまだ語りえぬものには拘わりようがない」と言いうるとするならば、それは「主観=客観」の世界で「うつろな主観」とか「何かに取り付かれている客観」というように、とりあえず与えられている視座にさえ忘却的な<表現者>にとっての「反省以前的事件」についてであるにすぎない。いずれにしてもここでは、誰にも知られていない「自己完結している何か」であれ「いまさら語る必要のない何か」であれ、それらは何んらかの形で「表現されている何か」として、たとえば「知らないこと」「語れないこと」「見えないこと」「聞こえないこと」などというように、<知覚>における自己否定的な事件としてでも「いま」「ここ」に発見されなければならないのだ。
 改めて言い換えるならば、われわれが「表現されていない何か」について語ることは、すでに<ビニール・パッケージ論>で見たように、ことごとくの<絵実物世界>を「もどき態」へと横滑りさせる<記号表現>の戯れを拓くことにすぎないが、ヒトビトが「表現されていない何か」にこだわることの思惑は、そこに<記号意味>となるべき「実体的な<何か>」の発見を期待しているからなのだ。そこでヒトビトが、その「実体的な<何か>」の<客観性>を絶対的な超越的なものにまで祭り上げてしまうということは、たとえば客観的世界を<神的欲望>に売り渡してしまうようなものだから、ヒトビトにとっては日常的な事件が「表現している何か」をいちいち自らの責任で判断するわずらわしさを回避することが出来るけれど、しかしそれは「表現されている何か」を虚心に見定めようとすればするほど、<神的欲望>に呪縛された客観性から抜け出すことが出来なくなってしまうことでもあるのだ。
 ここで繰り返される反省は、辛うじて「<私>たりうる<私>」であったものを、もはや取り繕うことも出来ないほどに切り裂かれた「<私>たりえぬ<私>」として露呈させてしまうから、この苦悩を回避するためには、虚心に見定めようとする反省をも<神的欲望>に委ね「神たりえぬ<私>」の愚かしさを懴悔するしかないのだ。ヒトビトが自らの「想像力」を自愛的欲望の犠牲にしてしまったその果てが<神>の捏造であったとすれば、ヒトビトの<懴悔>とは、自らの自愛的欲望と想像力の奇跡的産物である<神>に自らの<創造性>を捧げ、一切の創造を<神>の奇跡的所産として正当化することだから、ひとたび「ヒトは神を創造したり表現することは出来ない」ことにしてしまえば、ヒトビトは自ら責任を負いたくないものを、ことごとく「表現しえぬ何か」として<神>のもとへと送り返してしまうことが出来るのだ。
 そこでヒトビトが、「表現している<表現できない何か>」を表現体験から抹殺する方法を体得してしまえば、常識的に表現されているものは今さら語るに及ばないというわけで、たとえば映画館では「映画が<物語>を表現している」にもかかわらず、いつのまにか<物語の人>になってしまうから、あの不器用で朴訥で寡黙な役回りの高倉 健がいつも多くを「語らないことによってよりよく物語を語る」のは、それが「物語−内−存在」である主役の<沈黙>にすぎないからだとしても、ヒトビトはそこに語られている「不言実行的美徳=男のなかの男」物語を当たり前のこととして了解してしまえば、「当たり前の感覚」が「健さん!!」を映画の役から掠め取り、たとえ映画館を出ても<健さん!!>的美学で満ち満ちた世界に生きさせてしまうから、すっかり<男のなかの男>として無口になってしまったヒトビトは、「それじゃちょいと伺いますが、その失語症的<思い込み>のオジサンだけが<本物の男>だとすれば、男のなかの男たりえぬ<おしゃべり男>は、みんなオカマですか?」というわれわれの問い掛けに、いまさら<男>をやめるわけにもいかず、さりとて<健さん!!>的美学を映画へと返還することも出来ずに、ただ照れ笑いのなかでたじろぐばかりなのだ。
 さて、「表現すること」のみがとめどなく反省的に語られている<A4><6F>では、「表現している何か」と「表現しえない何か」がともに<何>そのものでしかないというわけであるが、そんな無意味なものは、ヒトビトの価値判断の前ではただ<正体不明><解読不能><くだらない><つまらない>などという<信号>を発しているのみの、失敗作・愚作・駄作として葬り去られてしまう運命でしかないけれど、それは「表現されている何か」に対しては<享受者>として、さらに「表現されていない何か」に対しては<表現者>として居つづけようとするご都合主義のヒトビトが、自分には拘わりがないと思う<何>に対しては、自らもまた<正体不明><解読不能><くだらない><つまらない>ものでしかないという「想像力の貧困」を、卑屈な暴力者の顔で隠蔽しようとする企みであることとして明らかにするのだ。
 だからそれは「表現していること=表現しえないこと」=「表現されていること=表現されていないこと」を言いうる<何>的「事件=事件報告」が、<何>が面白おかしいわけでもないけれどただ微笑のために微笑かける眼差しをヒトビトへと送っているのに、微笑すら返すこともなく「アマエラハ、アホカ!?」と言い捨てていくヒトビトの閉鎖的な価値観に、ささやかなる自己喪失への揺らぎを喚起していることになるのだ。
 したがって「言葉だけでは語り切れないもの」の存在も、結局は<言葉>という表現方法によって「とうてい言葉では言い尽くせない!!」などと「語らざるをえない」のだから、やはり<言葉>によってしか存在しえぬ<何>も、「語ること」の地平線に見え隠れしていると言わざるをえない。
 それゆえに、<A4><6F>の地平線に隠れて見えない部分の<何か>について、<誰か>が此見よがしに「それこそが<何>なのだ!!」と言ったとしても、それは<A4><6F>の外で「誰も何も言わなかった」と語りうることなのだ。
 そこで「<私>的存在」に反省的表現の地平線を見定めるときに、いつでもどこでも「<私>が在る(私がいる)」と<誰か>が語れば、<私>たりえぬ<私>が語らない<誰か>として在ることになり、それは同時に<誰か>である<誰か>が語らない<私>として在ることになる。あるいはまた、「<私>は不在だ(私はいない)」と<誰か>が語れば、<私>である<私>が語っている<誰か>として在ることになり、それは同時に<誰か>たりえぬ<誰か>が正に語っている<私>として在ることになるのだ。
 しかも「<私>的存在」に<何>の地平線を見れば、そこに揺らめく<私>の姿は「<私>は在ると<誰か>が語ること」=「<誰か>が在ると<私>が語ること」によって明らかとなり、さらに「<私>は不在だと<誰か>が語ること」=「<誰か>は不在だと<私>が語ること」によっても明らかにされるのだ。
 何はともあれ、われわれはすでに否定しえぬ「<私>的存在」を抱えてしか<肯定者>にも<否定者>にもなれないのだから、まずは「表現されている何か」を虚心に見定める<反省者>になることによってしか、「表現されていない何か」について語ることは出来ないのだ。

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7.「知っていること」と「知らないこと」


 

  <表現しえないもの><正体不明><謎><X><ブラック・ボックス>などは、様々の「物語」によって非常によく飼い馴らされた<未知>というわけで、われわれが<何か>について「知らないこと」が言えるということは、実は「<何>を知らないのか」を「知っている」からに他ならないのだ。
つまり、ここで「知らないこと」とは、「知っていること」がらのうちで「未だ語られていない物語(あるいは部分)」のことであるといえる。
 ところで<A4>における「未だ語られていない物語」とは、やはり<何か>のことであるから、ここで「知らないこと」とは「知っていることのうちの<何か>」のこととなり、それは「何が<何か>であることを知っていること」と言い換えることが出来る。すると、「<何か>を知らないこと」が「何が<何か>であることを知っていること」と同義になってしまうのだ。
 したがって<A4>においては、<何>について「知っていること」も「知らないこと」も意味上の差異がないというわけで、むしろそれは反省的表現者が、すでに「何って何!?」の「問い掛け=回答」によって遭遇している正体不明の<何>を、いかなる問題についてまで「所有しているか」または「所有していないか」として言い換えた、「<何>化された<私>的領域」あるいは「<何>に対する<私>的領域」のことと見るべきなのだ。それゆえに、われわれの言う<知>とは、<私>が「無知・無意味であること」を「知ること=知らないこと」であり、同時に<私>が「無知・無意味ではないこと」を「知らないこと=知ること」であるのだ。
 もっとも「<何か>の<私>的領域」をめぐる摩擦・確執こそがヒトビトの日常生活であるはずだから、たとえば、いつも欲求不満で肥満して「遊びたいのに遊べない」と勝手に思い込んでいる女房たちが、毎日遅く帰ってくる亭主たちにしばしば「どこで何しているんだか知りませんけどねェ、こういう生活ばかり続けていると、私は、どうなるか知りませんからね」などと、かなり難解な発言を投げ掛けるけれど、亭主の方にしたところで何を思ってのことか「うるせえな、そんなんじゃないよ」なんて、女房に付け入らせるのに十分な語るに落ちる返事をしているのだから、結局のところ、この断絶している「夫婦もどき」も断絶せざるをえない<何か>の理由については、互いに「何が<何か>であることを十分に知り尽くしている」にもかかわらず、<何>の<私>に占める領域を傷みによってでも確かめ会う<知>的遊びをやめられないのだ。
 とにかく「反省的<知>」が、自らの無知・無意味を「知っている」という「<何>を知っている」ことと、何が<何>であるかを「知らない」ために無知・無意味である<知>が、反省以前的に「<何>も知らない」ことと同義であるということは、ことごとくの自愛的欲望に<何>的事件として「反省的知=反省以前的知」とか「知=痴」を仕掛けることであり、それは取りも直さず<知>のとめどない<何>的反省の姿でもあるから、われわれの言わんとする<知>的事件とは、「<私>を<何>的に所有すること(=しないこと)」=「<何>を<私>的に所有すること(=しないこと)」であり、さらに「<何>的私」と「<私>的何」とが互いに「所有する(しない)=所有される(されない)」という混沌とした戯れとなって、もはや<知>は、すべての<私>における<知>的「行為=経験」として自らの存在を<何>化するものとしてしか<知>たりえないことになるのだ。
 そこで改めて、「知っていること=知らないこと」の関係から「語ること」への反省を語るならば、たとえば唐突に「誰も知らなかった」などというとぼけた<言葉>に出会っても、われわれは、必ず「誰かが何かを知っている」はずであることを見過ごすことはないと言える。なぜなら、もしも「<そのこと>について誰も知らなかつた」のなら、<誰>もそれについて「語りうる」はずはないのだから、結局は<誰か>が「<そのこと>について誰も知らなかつた」と「知っている」からこその発言であることが明らかなのだ。
 ここでヒトビトがどれほどの自己欺瞞を感じることもなく、いたって平然と「誰も知らなかつた」と言い切れる理由を探ってみると、やはりここでも「表現されている何か」という<事件報告>が当たり前のこととして実体的に自立し、表現者の<事件>は「表現されていない何か」と共に捨象されて<神>的な高みへと祭り上げられているのだ。  この自立する<言葉>とは、<言葉>が本来その<意味>によって非人称的な共同主観的「生きもの」であることを示していることに他ならないが、しかしそのことは、<意味体系>というものが「超コード化」されやすい体質であることを告白しているわけであるから、われわれは<言葉>の無自覚な生理現象のなかから「超越的表現者=神の言葉」と言いうる臆断を斥けて、「誰が<誰も知らなかった>と言っているのか?」を問い返さなければならない。つまり、表現者である<誰か>が、自分以外の<誰>も「それについて知らない」ことを「知っていた」から、それをいいことに「知らない」という事件報告を、あたかも「神の言葉」による世界創造の現場における絶対的な事件として偽造してしまうという、その「語ること」の暴力性に対する無反省な超越的傲慢さを放置しておくわけにはいかないというわけなのだ。
 それゆえに、<何か>の正体不明性について語ることを得意とするわれわれは、たとえヒトビトに「大きなお世話」とか「取り越し苦労」などと言われようとも、「誰も知らなかった」ことを「知っている」のは、いったい<誰>なのかと問いつづけずにはいられないのだ。すると、その<誰か>とは、いつどこにおいても「事件=事件報告」の仕掛人である「私=あなた」的行為者であるところの「あなた=私」的経験者でなければならないことが分かるから、ここで<私>であり<あなた>であるすべてのヒトビトは、あたかも<神的表現者>としてまるで「小説=神話」を「語る=読む」ように、平気で嘘の言える暴力的体質であること痛感せざるをえないのだ。
 それゆえにこそ、<何>的反省者たらんとするわれわれは、何事においてもたとえ<誰か>が知っていようといまといにかかわらず、せめて<嘘><偽り>ぐらいは「非暴力の戯れ」として語りつづけたいと願うのだ。

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