5.<何>的構造


 a.<何>とレトリック



 ここでわれわれは『レトリック感覚』(佐藤信夫著) という書物の<何-景>を語りつつ<何>の構造について考えてみたいと思うが、そのためには、ここで引用する<レトリック>という<言葉>も、何景化されたこの書物の中からわれわれが勝手に収集してきたものであることを了解しておいて頂きたい。
 まず<言語・言葉>こそは、「常識・文化・制度」物語を担うもののうちで最も主役的な存在だと言えるが、その<言語・言葉>もそれがひとつの物語にすぎないことによって、自らが語りえぬ<何か>をその物語の外に引きずっていることになる。
 そこで、<言語・言葉>もすでに<神>のごとき超越者たりえないとすれば、「<何>的表現者」ならずもあまねくヒトビトは、何事についてもその「すべて」を語りえないのだから、膨大な「自らが語りえぬ<何か>」の前ではいたって非力であることを悟らなければならず、あくまでも「自分が語っている<何か>」の中でしか、「いまだ語られていない<何か>」については語れないということを知るのだ。
 それゆえに語彙体系という物語的欲望は、ヒトビトの無意識的な言語活動に支えられて、その言語の「概念=意味」を膨張させ収縮させることにより、あるいは新語の作製によって「語りえぬ<何か>」をなんとか語ろうとする努力をしてきたといえる。それは正に<言葉>が生き物であることの証しであり、その生成消滅の過程は「辞書」「事典」という文化遺産になって堆積し、いずれ忘れられて亡霊となり失われた過去への道案内を務めているというわけなのだ。
 したがって<言語>の無意識的な物語的営為を、意図的に掘り起こす作業を<レトリック>というとすれば、<レトリック>とは言語体制における「創造−破壊」的な関係として、『レトリック感覚』に言う<認識的前衛>と<娯楽的前衛>こそを担うことが可能になるのだ。
 この語りえぬものを語ろうとする「想像力(イマージュ)の論理」としての<レトリック>は、同時にすでに<言語>が担う物語的役割を無力化していくことでもあるのだから、この<レトリック>の「創造−破壊」的機能とは、われわれの言う<ビニール・パッケージ>の「偽造−掠奪」的機能と同義であることに気付くことになり、何はともあれ<レトリック>は「何か?」と問い掛けることによってこそ機能するというわけなのだ。  とりあえず<レトリック>は、<ビニール・パッケージ>的構造の「仕掛け」であることが明らかになったが、それを<6F>という絵画性で見てみるとどういうことになるのか?
 あの<ガム・テープ>の出現以来、<6F>の画面には<黒塗りの太い線>が縦横無尽に走り回っているのだ。
 かつて「不透明テープを貼る」ことの<不可視性>という「見ることの論理」によって<記号意味もどき>を偽造したのに対して、<黒塗りの太い線>は、<記号意味もどきの何か>が「黒く塗り潰されている」ために、<塗る>という行為の絵画性が<6F>に「テープを<貼る>」ほどの違和感を与えることもなく、ほとんど「隠されるべくして隠された」当然の事態として現れ初めから原状回復への希望を断ち切っているために、ここで<何か>を知る手掛かりはもはや「想像すること」しかないというわけで、「黒く塗り潰された<何か>」を想像させる「イマージュの論理」によって、<記号意味もどき>の正体を探るべく「これは何か?」を喚起することになる。そしてさらに「透明テープ」の<可視性>によって<記号表現の戯れ>を言いえたことに対しては、<黒塗りの太い線>から「想像するのみの記号意味」は結局<想像>という虚構にすぎないと見定めるときに、何とも価値判断しようのないそれは「何とでも言いうるがゆえに何とも言いようがない<何!!>だ」ということになり、<6F>は再び<何>論的記号へと送り返されてしまうのだ。
 それゆえに「黒く塗り潰された<何か>」は、卑猥な国家権力によって黒塗りされた女陰から、テレビ・新聞・雑誌に目元を黒塗りされて登場する顔写真まで、それらは「見せない」ことによってヒトビトの<表現体験>を抹殺したつもりが、「想像させる」結果となってヒトビトはより刺激的な<表現体験>をすることになるというわけで、<何>的事件は強欲な暴力に取り込まれたときにこそ不節操さを露わにして「騙したつもりが騙されている」という自己撞着を仕掛けるのだ。
つまり<6F>の<黒塗りの太い線>は、「見ることの論理」を掠奪して「想像することの論理」を偽造することになり、ヒトビトの「隠されるから知りたくなる」という無意識的な物語的欲望を喚起しつづけるから、絵画的な条件における<レトリック>というわけなのだ。
 しかしわれわれは、<レトリック>という「想像力の論理」が勝れた<ビニール・パッケージ>的機能を持っているとはいえ、<ビニール・パッケージ>そのものは単なる方法論にすぎないことを思い起こし、はたして<レトリック>が絵空事的知見による絵実物的臆断を退ける手段としての「想像力」たりうるかどうかを見定めなければならない。
 ところで「想像力」と「自愛的欲望」の癒着こそがヒトビトに物象化的錯視を起こさせていると言いうるのだから、われわれは「想像力」の「創造−破壊」的機能の<自己否定>的活用を体得して、自愛的欲望の暴力性こそを無力化しヒトビトの価値観をはぐらかすことが目的だから、たとえ<絵空事><空言><戯言>にすぎない「アホのひとりよがり」と言われても<何>論的意義はあるといえるけれど、<レトリック>とは、常にヒトビトとの共通の物語的価値観を前提にしているために、ヒトビトの無意識的な認識を喚起し「アア、言われてみれば、そうだなあ!!」と、大多数のヒトビトを納得されなければ<レトリック>たりえないというわけなのだ。
 したがって「何か?」と問い掛ける<レトリック>を、「<何>論的認識の前衛」へと誘う手段にするためには、やはり「何って何!?」に至るまで問いつづけるしかないのだ。そしてそれが実現されたときには、<レトリック>はヒトビトの<絵実物的な評価>を気にすることもなく、取るに足らない「アホのひとりよがり」のままで「<何>的表現者」とヒトビトとを、すでに暴力者として生まれ生きつづけてしまつている人間への反省的な知見で通底させることが出来るのだ。
 それにしても「想像力」を自己否定的な反省の手段にするということは、それなりの痛みを覚悟しなければならないことなのだ。
 たとえば、「想像力」のごく日常的な営為といえる「騙す−騙される」事件を覗いてみれば、物心ついた頃からずっと男に「騙され」続けてきたという「想像力による自己喪失」に酔いつづけた哀しい女の演歌のような愛の溜め息が、「どうせなら死ぬまで騙して欲しかった」という場末の小さな酒場の物語としても、空のグラスを見詰める女の思いはひとりの男に「騙されつづける幸せ」さえもただの想像へと葬らざるをえない運命だから、「多分あたしって、何遍も何遍も騙されて、いつか泣きながら死んじゃうのよね…」なんて台詞が似合いすぎていれば、ひょっとするとこれは放っておけないほどに愚かでかわいい女を装う<したたかな擬態>かもしれないと気付いても、どうせ酒場のオジサンたちに<哀しい女>は酒の肴にすぎないというわけで、所詮は女ひとりも満足に「騙しきれない」はずの「貧困な想像力」ゆえにスネに傷を持つオジサンたちが、「それじゃ、僕が君に惚れて、とことん騙されてみようじゃないか、どうかね今夜あたり大いに騙されてもいいぞ、ハハハ」なんて、酔いにまかして胸の詰まる思いをたぶらかしながら楽しんでいられるのは、死ぬまで「騙しつづける=騙されつづける」という切ない女の<愛の救済論>が辛うじて成就するかもしれない理想的な関係が、結局は「愛の不在」や「愛の断絶」をそれと知らずに生きてしまうことの「愛情もどき」によってしか成立しないことを知っているからだとすれば、己の自己欺瞞は措いといてヒトの嘘を見破ることにばかり長けた<裏切り女>とか<裏切り男>という現実的な自愛的欲望者の<愛の救済論>とは、いつの世も「嘘とわかって騙されること」あるいは「見破られたい嘘をつくこと」でしかないというわけなのだ。
 ここでは「騙し−騙される」ことが「騙したつもりで騙されている」とか「騙されたつもりが騙している」という<愛の戯れ>になっていて、「騙し=騙される」関係が「想像力の論理」によって「<幻想の掠奪>と<現実の偽造>」=「<幻想の偽造>と<現実の掠奪>」という<ビニール・パッケージ>的構造になっているけれど、しかしその目的とするところが、<自愛的欲望>を刺激しあい相手をより強力に専有するための<増殖しつづける愛欲>の遊びに留どまっていて、「信じ切れないと知りつつも信じてみなければ何も始まらない」という自己愛に鎧われた「騙されたい−騙したい」欲望こそが解消されていないために、やはりわれわれが目指すような循環する自己否定的反省の「想像力」によって<私>的欲望の矛盾を無力化することが出来ていないと言えるのだ。
 何はともあれ<言葉>という物語の中で「何か?」と問い掛ける<レトリック>が、その「反省的な想像力」によって「何って何!?」でしかない自己矛盾へと語るに落ちるときに、<レトリック>の肩透かしが「仕掛人(行為者)=経験者」をも正体不明性へと連れ去ることができれば、<レトリック>はその直喩にいう「発見的認識の造形性」により、ヒトビトの自愛的欲望の現前で「戯れ」と「快的遊感覚」に保証された事件として<言葉>の絵実物性を絵空事的知見へと覚醒させる手段たりうるのだ。

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 b. 引用論とレトリック



 <6F>における写真・文字の<コラージュ>とは、問答無用の<引用論>的手法であるが、ここでは「引用=コラージュ」されるものが如何なるものであれ、それを<何>記号として位置付けそれによって<絵空事物語>を語ろうとするならば、何はともあれ<6F>へと「引用される」以前の<絵実物物語>に保証された「造形的概念」「役割」「価値」などが前提にされていなければならない。この「引用される<何か>」の絵実物的な身元が確かであればあるほど、<6F>という無意味性への<引用>は、ヒトビトの<絵実物物語>に対する「レトリック的発見」の驚きを大きくし、ヒトビトの日常生活によって無意識化された自愛的欲望に「前衛的で破廉恥で快適な反省」を仕掛けることが出来るのだ。
 つまり<引用論的コラージュ>とは、絵空事物語を語るために<絵実物的造形・意味>を措定する「レトリック的発見」の手法であり、それは推理小説の主人公である敏腕刑事やとぼけた私立探偵が、事件の現場に残された非日常的な形骸を拾い集め、隠された犯人の行動を追い詰めていくというあの手法に似ている。
 言い換えるならばことごとくの<絵実物的現象>とは、取り立てて<6F>へと引用されるまでもなく、<何>的知見に対しては「レトリック的発見」を仕掛けるためにすでに措定されている世界というわけで、「何って何!?」の<何>論から転化表現された<絵実物的言語>となり、それは<絵空事物語>の比喩でありつづけることになる。
 そこで、あまねく世界とは<絵空事物語>の比喩にすぎないと悟り、所詮は思い通りにならない<絵実物世界>にうつつを抜かしことごとくの「<私>的なる念い」を空しくしてしまうまで、<絵実物的なるもの>の「引用」に固執することが無駄な苦労と知る<絵空事的表現者>が、いまさらヒトビトの「レトリック的発見」を期待する気にもなれず「<何>への自己完結」を目指して「沈黙のヒト」となる決心をしたとすれば、そもそもはヒトビトの眼差しに晒された「無意味なもの」「戯れにすぎないもの」こそが「レトリック的発見」による<何>との遭遇の機会であったのだから、どうせ<いつか>は<どこか>で<誰か>に発見されてしまうかもしれない「沈黙のヒト」は、その沈黙ゆえに無関心なヒトビトには「何って何!?」の認識を喚起しえないにしても、「脱<常識・文化・制度>」的存在の<変人><逃走者><敗者><神懸かり><バカ>などという嘲笑を担うことは出来るのだ。
 したがって、日常生活においてヒトビトの都合と勝手で<絵実物物語>へと引用し語られている<何か>は、常に<絵実物物語>が語りえぬ<何か(たとえば絵空事世界)>を無言のうちに引きずっているというわけで、そんなヒトビトの眼差しはいつも<何か>の「レトリック的発見」の真っ只中で注がれていることになり、そこに「沈黙する表現者」としてしか発見されぬ「<何>もしていない=<何>だけをしている」ヒトがいるとすれば、その沈黙者にヒトビトが勝手に賦与する<絵実物的役柄・意味>は、「沈黙という反照の鏡」によって「<何>的表現者」となった彼の<沈黙の応答>によって転化表現されたものとなり、<絵実物的欲望>ゆえに腹立たしい思いで自問自答するヒトビトの元へと送り返されてしまう。つまり「沈黙する<何>的表現者」を、その無意味性ゆえにたとえば<アホ><ボケ><ドジ>と呼ばずにいられぬヒトビトは、自らの担う常識・文化・制度の「バカバカしさ」を反省的に突き付けられているというわけなのだ。
 では、ここで「沈黙する<何>的表現者」がヒトビトの物語的欲望によって「引用される」のみの「沈黙者」であることに留どまらず、より積極的に「引用する表現者」としてヒトビトに「何って何!?」を仕掛ける「<何>的表現者」になるためにはいかにすべきなのか。
 ところが「<何>的表現者」の条件である「非暴力性」を取り上げてみると、<6F><A4>における「引用論的コラージュ」のみならずすべての<表現体験>が「選択=排除」という暴力「行為=経験」であることを免れえず、<引用論的表現者>も<表現者>であるかぎり「引用されなかった<何か>」「表現されなかった<何か>」を排斥する暴力者であることが明らかになり、もはや「<何>的表現者」になることが困難になってしまう。
 しかし、ことごとくの<私>的存在なるものが自愛的欲望によってしか生きえぬ暴力者であることを見定めるならば、ここでわれわれが「表現しうる非暴力」とは、「暴力へのとめどない反省」を語ることでしかないのだ。そこで、<引用論的表現者>が「<何>的表現者」たらんとするならば、<6F>のように「循環する<何>的反省」により「引用されなかった<何か>」をとめどなく「引用しつづける」という「選択・排除する=選択・排除される」関係を仕掛け、「<何>的反省によって語るに落ちる暴力者」としての「引用する表現者」でありつつ、さらに「引用しつつ引用され、引用されつつ引用する」表現者であるために、<6F>が「絵実物もどき」であったのと同様に、「作者・創造者もどき」にすぎない「ある表現者としての<誰か>」に成らなければならないのだ。
 つまり、<引用論的表現者>は、自己否定的な引用論的暴力によって「絵実物もどき」を表現しつづける「作者=暴力者たりえぬ<誰か>」でいることが出来れば、「正体不明・不在の<ある表現者>」として非暴力的な<何>的表現を実現することになるのだ。
 その意味において、<何>的事件で表現「行為=経験」するヒトビトは、「作者−鑑賞者」という暴力関係から離脱し、しかも<何>的「事件=事件報告」を「引用する=引用される」ヒトビトは、ことごとく<絵実物物語>から離脱することになるのだ。
 しかし、自愛的欲望に鎧われた「<私>たりうる<私>」のまま暴力的表現者として常識・文化・制度を引用するヒトビトは、かえって絵実物的欲望である常識・文化・制度に引用されたことになり、それは絵実物的構造のみに保証された役柄を担うだけの没個性化した体制的暴力の受肉者として、責任逃れ・セクト主義の自己保身から民族差別・異端排除という陰湿な暴力を生む閉鎖的社会へと埋没してしまう。
 くれぐれも反省者であることを自覚していただきたい!!

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 c. アンディ・ウォーホルについて



 あのアンディ・ウォーホルは、かつて新聞記者のインタビューに答えて「あなたのいってほしいことを教えてくれればその通り答えましょう」(朝日新聞 58.6.11) と言ったといわれている。
 この「作者−作品」論に対する辛辣なユーモアとなっている言葉のあやを「アリバイ−レトリック」の関係で語ってみたいと思う。
 まず前出の『レトリック感覚』をみれば、「アリバイと緩叙法(レトリック)は、構造が、ちょうど陽画と陰画のように、逆なのだ。しかし、逆である以上、ひじょうに似ているわけではない。アリバイが肯定によって否定をあらわすのは、きわめて事実的に、いわば想像力を拒絶することによって、である。が、緩叙法(レトリック)は、言語的に否定することによって、すなわち想像力を発動させることによってなりたつのだ。」とある。そこでわれわれは、アンディ・ウォーホルの<何>論的戯れを語るために、ここにいう「アリバイ−レトリック」関係を援用していきたい。
 アンディ・ウォーホルという<表現者>は、あのインタビューにおける自己否定的発言の<レトリック(緩叙法)>によって、「問う=回答する」関係を成立させてインタビューという事件を、新聞記者からさらにヒトビトの想像力へと委ね発見的認識を喚起していたといえる。しかもこのインタビューは、アンディ・ウォーホルという著名な芸術家の<作品>あるいは<芸術活動>へのコメントを求めていたという事情を重ね合わせてみれば、アンディ・ウォーホルの自己否定的発言とは、<作者>と<作品>の関係にまで言及しうることだと考えられるのだ。
つまり、「<作者>と<作品>とは無関係さ!!」と理解される<レトリカルな発言>は、<作品>の前にたたずむヒトビトにとって<不在の作者>など無意味にすぎないにもかかわらず、言わば<アンディ・ウォーホル物語>というものによってその<作品>を<不在の作者>の<アリバイ>にしてしまう想像力の貧困を笑っていたというわけで、それは同時に、ヒトビトの前にたたずむ<作者>とは単に<ひとりの人>にすぎず、いま<不在の作品>などとは無関係であるにもかかわらず、やはり<アンディ・ウォーホル物語>によって<ひとりの人>を<不在の作品>の<アリバイ>にしてしまう想像力の貧困をも笑っていたというわけなのだ。
 ヒトビトの勝手な思い込みにすぎない<物語>によって「作者−作品」を<アリバイ>の関係に縛っていたものを、存在の事実に即して不在者を無関係へと還元する<レトリカルな名台詞>は、<作品>に対して<作者>などは<誰>であってもいい「<何>的表現者」にすぎないことを語り、さらに<作者>に対して<作品>とは、ひとたび<作者>の手を離れてしまえば<誰>の芸術作品であろうと構わない「<何>論的記号」にすぎないことを語っていたといえる。ここでヒトビトは、有名人を<傍観する者>として、あるいは有名な作者の作品を<鑑賞する者>としているつもりが、<ひとりの人>と<無言の作品>の前に突き放されて、不幸にもなけなしの感性と想像力を駆使する「享受的表現=表現的享受」者に成らなければならなくなってしまったのだ。
 したがって、ヒトビトの常識・文化・制度の中ですでに<知識>として措定されている<アンディ・ウォーホル物語>が引用する「作品もどき」と「作者もどき」は、その<引用者>を問答無用のまま<記号表現>の戯れへと誘い、彼らが「アンディ・ウォーホル的意味」として引用しえたと思念するものを、ことごとく<引用者の価値観>の反照的な転化表現として語らせることになるから、「作品もどき」と「作者もどき」の<レトリカルな構造>は、<アンディ・ウォーホル物語>あるいは<ポップ・アート>を育む<アメリカ物語>と通底する価値観を、<引用者>の担う<物語>の中に発見させたということにすぎないのだ。
そこで、この「アメリカ物語と通底する価値観」をとりあえず<現代資本主義>とでも言っておけば、<アンディ・ウォーホル的引用論>の「アリバイ−レトリック」関係は、<ビニール・パッケージ的構造>として現代資本主義の「掠奪−偽造」性を語っていたことになるが、その象徴たる<アメリカ物語>を芸術論における前衛的意味において<ビニール・パッケージ>して見せてくれた<偽造者アンディ・ウォーホル>も、現代資本主義の過酷な情報暴力世界においては<アメリカ物語>の凋落とともに、あるいはいつの間にか霧散してしまつた「正統-芸術論」とともに、貧欲な体制的価値にその前衛的意味を<掠奪>されて輝きのないデス・ストックに成り下がってしまったと言える。
 しかし、ヒトビトの自愛的暴力によって体制の中に埋没させられてしまった<アンディ・ウォーホル的意味>は、かつてのように時代的な感性に揺らぎを与え<絵空事世界>を垣間見せた前衛的事件たりえないにしても、それが<絵空事>の<アリバイ>であることを見抜く表現者に「何?」を貼付されれば、すでに<アンディ・ウォーホル的意味>が前衛的暴力たりえぬほどに、より刺激的で過激な暴力的体質になっている<ヒトビトの物語>が、「<何>的表現者」の反省的事件として浮かび上がり、<アンディ・ウォーホル的事件>がかつて反照的に<何>化しえた時代的暴力よりさらに落差の大きい暴力をあぶり出し、より刺激的な暴力を求めつづける暴力者たちに「自己崩壊の危機を回避せよ!!」という警鐘を聞かせることができるのだ。
 それにしても、<絵空事世界>へと風穴を穿ちうるアンディ・ウォーホルの<レトリカルな名台詞>でさえ、ひとたび自愛的欲望に鎧われてしまえば、「あなたのして欲しいことを言ってくれればその通りに致します」という宣伝文句の「便利屋商売」に成り下がってしまうし、まして貧欲な暴力者たちは「ヒトビトがして欲しいと思うこと」を先取りして「ニーズ」などと呼び、自らが捏造した<時代的欲望>によって常識・文化・制度を自己崩壊に至るまで暴力化しつづけるはずだから、ここでわれわれが反省的に「ヒトビトがして欲しいと思っていること」を語るならば、それはヒトビトが望むと望まざるとにかかわらず「自ら人類滅亡の道を進むこと」でしかないというわけで、せめて「ヒトビトの思い通りにならないよう」に「何って何!?」を生きることこそがわれわれの願いであるのだ。

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d. <事実> と <現実> の <何> 論



 NO.125-P.7 の<6F>で、何か意味ありげなパーティが開かれている。
 パーティは、いつも華やかさの影で男と女の怪しい期待を<何>化しつづけているのだ。その日、<欲望>というパーティの<レトリック>である男、そしてパーティを<アリバイ>にする女、はたして男が女を騙すのか、それとも女が男を騙すのか、いま正にパーティはときめきの「<何>的事実」なのだ。

     NO.125-P.7

 ここで男の自惚れなのか女のズルさなのか、「とにかくたんなる事実はだまさない。…事実は(記号化されないかぎり)虚偽を語ることができない」(『レトリック感覚』)などとは言うものの、その実、男のズルさと女の自惚れは、「事実は記号化することによっていかようにも虚偽を語ることができる」ことを、あるいは「事実は、それを記号化している物語によって虚偽も真実も語ることができる」ことを十分に知り尽くしているのだ。
 だから、ほんの一時の<欲望>を遊ぶつもりの男が、「僕は、いま君を抱きしめたいほど愛しているよ。僕は、この燃え上がる愛という事実を偽ることができない。サア、君の部屋にでもいこうじゃないか」と言えば、何はともあれ一生の<欲望>なら遊んでみるつもりの女が、「アラ、あなたが、そうやって毎日抱きしめたいと言いつづけてくれるなら、あなたに抱かれたいといういまの気持ちも事実なのよ。そこで相談なんだけど、まず先に教会へ行ってくれる?」というわけである。
 この結末は、男と女が自らの<欲望>を成就させるために、いかなる物語を捏造しつづけられるかという想像力と演技力にまかされているし、それはお互いのプライドとプライバシーの問題でもあるからわれわれの無駄口は差し控えるとして、ここでは、「<A4><6F>において語りうる<事実>(すなわち記号化された事実)とは何か?」について語ることにしたい。
 まず初めに<事実>の一般的な意味を『新明解国語辞典』で見てみると、「実際に有った事柄で、だれも否定することが出来ないもの」とあり、『広辞苑』で哲学的な概念を見てみると「時間・空間内に見出される実在的な出来事または存在。実在的なものであるから幻想・虚構・可能性と対立し、そこに与えられているものとして当為的なものと対立し、個体的・経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない」となっている。
 そこでわれわれが<事実>について言えることは、それが<言葉><文字>によって語りうるものであるために、なんらかの<物語的意味>あるいはとりあえずの<事件報告>であるということについてなのだ。この「記号化された事実」の<事実性>を、当事者の立場から「事件報告の現前」と言い換えるならば、それは<物語的現実>であることが明らかになる。
 とりあえずこの<現実>についても『新明解国語辞典』を見ると「現在当面していて、それを無視することが出来ない事柄」とあり、『広辞苑』では「現に事実としてあること。また、そのもの。その状態。実際」と言い、哲学的な概念としては「イ.理想に対するものとしての現実。この場合には現実は理想実現への障害を含むと同時に、またその実現の可能性を含む素材としての意味をもつ。ロ.可能態に対する現実態の意。アリストテレスにはじまる用法。可能的・萌芽的なものが発展して事実となって顕現した状態」となっている。
 したがってこの<物語的現実>とは、われわれの言う<事件の現場>のことに他ならない。ところが、ヒトビトが<事実>を見定めることの出来る<事件の現場>とは<現実としての事件>というわけで、ここでヒトビトにとつての<事件>が<現実的>であることは当たり前と見なすときに、ヒトビトの「<常識・文化・制度>的物語」とか<当事者>の背負っている<個人的物語>は棚上げにされてしまい、<事実>とは<物語以前的事件>としていまさら「事実=現実」であることは言うに及ばぬものとなり、より端的には「事実(現実)=事件」ということになる。
 すると困ったことに<事実>とは、われわれの言う<物語的現実(事件報告)>であると同時に、ヒトビトの言う<物語以前的事件(現実)>でなければならないという矛盾に陥ってしまう。
 しかし前出の辞典の意味を踏まえて<事実>と<現実>の関係について言うならば、<とりあえずの私>という個体的・経験的な存在者が、決して逃れることの出来ない「いま」「ここ」という<現実>の中で遭遇する<事件>が<事実>なのだというわけで、われわれもヒトビトも「物語性」という問題を抜きにすれば、ともに「事件性」によって<事実>と<現実>をイコールで結ぶことが出来るのだ。
 そこで、<事実>の「物語性」を見定めるために、ヒトビトの<現実>的問題である<事実>の「事件性」に体験の一次性である<表現行為>を関連づけ、われわれの<現実>的問題である「事件報告性」に体験の二次性である<表現経験>を関連づけ、「事件(表現行為)−事件報告(表現経験)」という関係に置き換えて考えてみたいと思う。
 まず、いかようにも回避しえぬ<現実>という台座で「事実を知る」というときの<知覚>について見てみると、とりあえず現相的な場面の<即自的な事件性>にまで遡ってみたときに、すでに回避しえぬものとしてある<表象世界>において「知る」ことは、結局「語る」ことと同次元の図化作用であると考えざるをえないから、「事実を知る(語る)」ことを「即自的な表現行為」ということができる。
 つまり、ここで「即自的な表象」を<表現行為>というとすれば、「対自的な表象」を<表現経験>ということになる。
ところがヒトビトの<物語論>からすると、「知る」ことの即自性を<事件>とすれば、「語る」ことは「対自化された表象」としての<事件報告>ということになるけれど、すでに見てきたようにあらゆる<表象世界>においては「事実を知る=事実を語る」というわけであるから、ヒトビトの言う<事件>は<事件報告>とイコールで結ばれなければならないことになり、さらに「即自性=対自性」となって「表現行為=表現経験」まで成立させることになるのだ。
 とすれば当初の「事件=表現行為」と「事件報告=表現経験」との関係は、同時に「事件=表現経験」であり「事件報告=表現行為」というわけで、これは<何>論にいう「循環する反省」と同様にとめどもない因果関係によってしか<物語>が語れないことを明らかにしているために、言い換えるならばここでは<知覚>が<表象世界>という<物語>を前提にしてしか何ごとも「知り=語り」えないことになり、「無意識的な知覚」である<直観>に至るまで何等かの<物語性>を抜きにしては機能しえないというわけなのだ。その意味において、ヒトビトが言う<物語以前的事件>もわれわれの言う<物語的現実(事件報告)>の影響を無視することは出来ず、「真実−虚偽」についてのみならず<事実>についても<物語>によってしか「知る=語る」ことが出来ないというわけなのだ。
 結局、《事実》は「事件報告という物語的<現実>」より生まれ、《現実》は「事件という物語的<事実>」より生まれるという循環構造になっているのだ。
 そこでわれわれは、この取り留めのない<事実>をより明確な<何>的構造として見定めるために、「レトリック(不在証明)−アリバイ(存在証明)」の関係として語りつづけたいと思う。
 初めにわれわれの言う<何>論において、<何か>を<絵空事的事実>のレトリックであり<絵実物的事実>のアリバイであるとするならば、<何>は<絵実物的事実>のレトリックであり<絵空事的事実>のアリバイであると言える。
 これをごく日常的な場面において語るならば、たとえば<何か>としての「ポルノ雑誌」や「哲学書」への<遭遇>が、ヒトビトを「発情」させたりあるいは「テメエラ、学校ナンテイウ遊園地デ、クッダラネエ言葉アソビシカ出来ネエクセニ、デケエ面スンジャネエゾ、アホメラガ…」と思わせたりする<絵空事的事実>のレトリックであり、<絵実物的事実>である「性交している男女」や「思索するアホ」のアリバイであるとすれば、<何>としての「ポルノ雑誌の<写真>」や「哲学書の<文字>」は、「性交する肉体」や「思索するアホ」という<絵実物的事実>のレトリックでありつつ、「発情」させたり「デケエ面スンジャネエゾ」と思わせる<絵空事的事実>のアリバイと言える。
 しかしこれを<ヒトビト>と<書物>の関係で見てみると、<ヒトビト>が「発情」したり「デケエ面スンジャネエゾ」と思うことのアリバイを「性交している男女」と「思索するアホ」にすれば、<写真>と<文字>がレトリックとなり、一方<書物>が「ポルノ雑誌」や「哲学書」であることのアリバイを<写真>と<文字>にすれば、「性交している男女」と「思索するアホ」がレトリックとなる。
 しかも「ポルノ雑誌」や「哲学書」は、チリ紙交換という<何>的事件に遭遇すれば、それらの書物がいかなるレトリックを抱えていようとも、ここでは紙の重量という均質化されたアリバイによってしか評価されず、ヒトビトにしたところで、体重測定という<何>的事件に遭遇すれば、たとえ「常識破りのスケベ」でも「学会の権威者」でも、ここでは体重という均質化されたアリバイによってしか評価されないというわけなのだ。
 あるいはまた「ポルノ雑誌」という<事実>の循環構造を、「何って何!?」でしかない<ビニール・パッケージ的機能>によって自己否定的な無意味性へと語るに落とすことも出来るのだ。
 「ポルノ雑誌」は、その刺激的な写真によってこそヒトビトを発情させてやったんだという「物語的現実」を偽造(アリバイ)するために、「ポルノ雑誌」などを見るまでもなくいつでもどこでも発情しうるヒトビトの「物語以前的事件性」を掠奪(レトリック)すれば、とりあえずは「ポルノ雑誌」によってこそ発情させられたヒトビトは、その「物語的現実」を掠奪(レトリック)して、「チクショウ、ヤリテェ!!」と叫んでソープランドへ直行したり、思わず古女房に手を出して空しい疲労を抱え込んだり、まったく隠棲して自慰行為に耽ったり、オッチョコチョイは覗きやパンティ泥で捕まったりすることがあるにしても、その現象のみをとらえてみれば、結局のところ「ポルノ雑誌」にとってはまるで与り知らぬ「物語以前的事件」の偽造(アリバイ)と言わざるをえないから、そんなヒトビトもここで再び日常的に発情しているヒトビトへと回帰したことになるというわけで、自慰行為や性犯罪のみならずごく日常的な性行為・性経験の現場をとらえて、それがすべて「ポルノ雑誌」の悪影響だなどとは誰も言えないという道理になるのだ。
 したがって、何に付けても初めは有って無きに等しい世界においてしか「知る=語る」ことも「生きる」ことも出来ぬわれわれにとって「絵実物的事実(そのもの)」とは、<絵空事的事件(何)>のレトリックであり<絵実物的現実(何か)>のアリバイでありつつ、同時に<絵実物的現実(何か)>のレトリックでありつつ<絵空事的事件(何)>のアリバイであるのだ。そして、「絵空事的事実(あるもの)」とは、<絵実物的事件(何か)>のレトリックであり<絵空事的現実(何)>のアリバイでありつつ、同時に<絵空事的現実(何)>のレトリックでありつつ<絵実物的事件(何か)>のアリバイでもあるのだ。
 ところで<何>と<何か>は、「<A4><6F>的事実」を「絵実物−絵空事」として語り分ける記号と言うこともできるから、「<何か>が<何>のアリバイであるときに、<何>は<何か>のレトリックである」=「<何か>が<何>のレトリックであるときに、<何>は<何か>のアリバイである」というわけなのだ。
 そこでこれを<記号>の「与件−意味」という関係によって語りつづけるならば、「<何か>が絵空事的与件のアリバイであるときに、<何>は絵実物的意味のレトリックになる」=「<何か>が絵空事的意味のレトリックであるときに、<何>は絵実物的与件のアリバイになる」というわけで、それは同時に「絵実物的与件が<何>のアリバイであるときに、絵空事的意味は<何か>のレトリックになる」=「絵実物的意味が<何>のレトリックであるときに、絵空事的与件は<何か>のアリバイになる」というわけなのだ。
 したがって<A4>や<6F>における<何>と<何か>は、「自らが語りえぬ物語(意味)のアリバイであること」あるいは「自らがそうはありえぬ事態のレトリックであること」により《事実》たりうるのだ。いや、むしろ《事実》とは、そのようなものとしてしか有り得ないというわけである。
 しかも、あの「何って何?」が自己完結的に「何って何!!」であるように、<何>と<何か>に対する問い掛けがことごとくナンセンスである以上、<何>と<何か>によってこそ語りうる<事実>もナンセンスと言わざるをえず、この正体不明のまま<現実>と<事件>の間を揺れつづける<事実>とは、結局のところ「物語的現実(事件報告)=物語以前的事件(現実)」の現場における<表現体験>のことなのだ。
 とにかく諸君、くれぐれも「たんなる<事実>」などには騙されないように!!

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