3.<何>を定義する


 

 たとえば<何か>を「あること」と言い換えたときに、「あること」を「或こと」と書けばそれは「或何ごとか」のこととなるが、それはすでに「何かがあること」と同義になっているために、さらに、より端的に「在ること」と言い換えることができる。つまり<何か>は、「或こと」の認識論と「在ること」の存在論を不可分の視座で語り、しかも<何?>と問えば、「在ること」のみならずほとんど荒唐無稽に「何かがないこと」であれ、それが<何>という<言葉>として「在る」かぎり、「何かがあること(或何ごとか)−が−ないこと」として語りうるというまったく不節操な性格なのだ。
 だからわれわれが、<何か>の「在ること」から「<あること>がないこと=<ないこと>があること」を経て「無いこと」までを語ることが、<何>の「あること」「ないこと」をあげつらって思考を弄ぶ<言葉>の戯れにすぎないと知ってしまえば、自分の不節操さを棚に上げたわれわれに、はたしてこのヤクザな<何>をまともに定義しうるのかという不安が過ぎるのだ。
 そこで再びあの<スケッチ・ブック>をめくると、NO.138-P.20(84.3.20) の<6F>に次のような<言葉>がある。
 “<何>は、あらためて言葉の意味を「定義」します。
 

84.3.20

 あるいはここで『6Fは言葉の何景(何化された風景)である』という「言葉」が、「6Fを定義する言葉である」と同時に、自らが「言葉を定義する6F(的文字)である」ことによって、「何の定義」と「言葉の定義」が表裏一体の定義をしあう<何>的遊びであることを明らかにする。”
 ここでは、「<6Fの定義>をする<言葉>」と「<言葉の定義>をする<6F>」とが、表現「行為=経験」 という<何>的反省の関係にあるために、<何>そのものが「定義されつつ=定義する」ことになり、「<6F・言葉の定義>をする<何>」と「<何の定義>をする<6F・言葉>」とが同等の関係として、<言葉>が<6F>の表面を横滑りし同時に<6F>が<言葉>の意味を横滑りしつづける<何>的戯れになっているのだ。
 そこで<言葉>であるわれわれが、とりあえず『<A4=文字>は言葉の意味をことごとく<何>として定義します』と言うとすれば、「<何という言葉>を定義する<A4=文字>」と「<A4=文字>を定義する<何という言葉>」との関係は、<何>を<言葉>と<文字>との間でとめどなく横滑りさせてしまうから、反省的でありつづけようとする<言葉>が、どうしてもこの<A4>で「<何>を定義」しようとすれば、『<何>が言葉の意味を<文字>へと還元する』ところへと撞着することになり、結局は<何>の「脱-意味性」が「<何>の定義」を無効にしてしまうのだ。
 したがって、とめどない<反省的表現者>であることを自認するわれわれが、「絵実物もどき」にすぎぬ<6F><A4>で「<何>を語りえた」と宣言しても、それは「<何>が<何を語るわれわれ>について語った」という「<何>の自己批判」に立ち会っているだけのことだから、今さら「<何>が定義するわれわれ」を素知らぬ顔で「われわれが定義する<何>」として提示するわけにもいかないのだ。
 そこで、「<何>を定義する」ことが「<無意味な何>を意味づける」という悍しいほどに思い上がった絵実物的野望であることを見定めるならば、ヒトビトが「<そのもの>として定義する」ときには「語っているものは語られていない」「見ているものは見られていない」はずだと言えるから、ここで「定義する」ことにより「<そのもの>たりえぬ<何か>」になってしまう「語りえぬものを語り」「見えないものを見る」ためには、やはり絵空事的知見を獲得しなければならないのだ。
 それゆえに<何>のパラドックスに落ちることなく、しかも「<何>の定義」という野望によって正体不明性へと還元されてしまった<何>について語り続けようとするならば、より反省的に「語りえぬものは語ってみなければ見えてこない」であろうし、「見えないものは見てみなければ語れない」ことを自覚しつつ、さらに「語られているものは語らないことによって見えてくる」はずだから、「見られているものは見ないことによって語りうる」はずだという<何>的事件を喚起し続けなければならないといえる。  そういえば、どのテレビ・ドラマも<愛>こそが最大のテーマというわけであるが、たとえば愛する男が若すぎるばかりに、その純真な<愛>を愛欲のしがらみで汚し深い傷を負わせたくないと思う年上の女が、いわく因縁に縛られた日常的な愛欲と非日常的な純愛との狭間で別れ話を持ち出しかねているときに、物語がそろそろ終局に向かうある場面で、深い沈黙のあとにまるで唐突にどうでもいい世間話を始めたり、あるいはその沈黙にはいささか不釣り合いの微笑みさえも見せてくれるのは、いつも〈私たりえぬ私〉を抱えてしか自分もヒトも愛せないという、松坂慶子的オネエサンの優しさによる「語れない」「見せられない」別離への痛みと哀しみであるはずだから、そこで「語られ」「見えていた」ものは<いたわりの擬態>ということになるけれど、いかに純朴な青年にしたところで唐突な世間話や微笑みが不可解であったからこそ、あの沈黙が口に出せない別れ話であったことを、そしてそれが辛い哀しみへの思いやりであったことを知りえたというわけで、互いに愛しあっているからこそ自分の受ける傷ほどに相手を傷付けてはならないという古色蒼然たる<愛の自己犠牲>を、青年の「あなたは自分から逃げようとしているのだ!!」なんていうピカピカの殺し文句で打ち破っても、結局は純愛では生きられぬ青年と愛欲を生きられぬ女の<愛の相克>は、荒んだ愛欲によって非劇的な結末へと生きるしかないというところにこそ、ヒトビトは「愛の定義」などという野暮を言うよりも確かな<愛>の姿を垣間見ていたのではないのか。
 とすれば、<A4>において<言葉>であるわれわれが、あたかもメロドラマのヒロインのように「語れないものを語る」痛みを担いながら、尚且つ「<何>の定義」という破局に落ちることなく「<何>を語る」ために「<言葉>について語る」とすれば、<言葉>は「語ること」にどこまで<反省的でありつづけられるのか>についても「語らざるをえない」ということになる。
 そこで<A4的住民>であるわれわれは、次のような<何>的「事件=事件報告」としての戯けた会話を楽しみたいと思う。
 「何してんの?」
 「ん? ああ君か、いまちょうど<何>をしているところサ」
 「エエ? <何>って何?」
 「ハハハ、君がいま思っている<何ごとか>に決まっているじゃないか」
 「何言ってるの? それじゃちっとも回答になっていないじゃないか。<何>が何んであるのかないのか、それに答えてよ」
 「だから<何そのもの>だと言っているんだよ」
 「ちょっと待ってよ、君の言っているのは、未だ<何ごとか>とも言いようのない事件だということなの?」
 「まあ、そうとも言えるけれどね」
 「とすればねえ、僕はその事件が<何>を目的にしているのか、とか、君がどういうつもりでその事件にかかわつているのか、ということを聞いているんだよ」
 「ハハハ、悪いけれど、そんなことは知らないよ。それはむしろ君の事件報告という企みの問題じゃないのか?」
 「すると何かい、君は、僕もその<何か>をしているにすぎないとでも言う気かね?」
 「おや、違うとでも言うの?」
 「もう、とぼけちゃって、いいかい僕が君に<何をしているのか>と聞いているんだよ」
 「だから、君が僕の<何か>を語ろうとする事件は、君が思っている<何ごとか>としての事件報告によってしか語れないってわけサ」
 「き、君!! 君は僕をバカにしているのか? 僕はその<何か>の正体が知りたいんだ。だから僕は、それを勝手に<何ごと>かとして語ってしまおうなんてつもりはないんだ」
 「そんなにムキになるなよ。君が<何ごと>として語ろうと語るまいと、そんなことは僕の知ったこっちゃないんだから…。そもそもね、<何>って奴は正体不明なんだよ」
 「正体不明? じゃ、その<何>とやらをしている君は、いったい誰なんだ?」
 「何だ何だ、今さらやだね、君が今までそう思っていたところの誰かに決まっているじゃないか」
 「ええ? すると君には、君が君であることの自覚もないってことかい?」
 「そりゃあ大きなお世話サ。だったら、そう言う君こそ誰なのサ?」
 「おおっ、僕は僕じゃないか!!」
 「ほう、そんなに簡単に言い切れるものかね。僕に言わせれば、それは、君が君だと思っているものに対して勝手に君であるにすぎないってことサ。だいたい僕にとって君は、所詮<誰か>にすぎないってことサ。つまりね、僕の自覚は、今さら君の世話になる必要がないってことだね」
 「それじゃなにかい、僕には、君に<何をしているのか?>と聞く権利がないとでも言うつもりかね?」
 「ハハハ、いいところに気が付いたね。でも、君を無視するつもりは毛頭ないんだよ」「ど、どういうことサ?」
 「つまりね、ここで<何か>をしているのは、結局、君だってこと。僕は君の<何>的事件によって仕組まれた物語的人格にすぎないってこと。ということは当然、君も僕の物語的人格にすぎないってことだね」
 「ええ? じゃ、その物語的人格っていうのは、いったい誰なのサ?」
 「だから、それが<誰か>にすぎないって言っているのサ。もっとも、君の言う物語も僕の言う物語も、例えば常識とか文化とか制度という物語を共有することによって通底しているってわけだね」
 「ちょっと待ってよ、それじゃ結局のところ、誰でもないってことになっちゃうじゃないか?」
 「そう、その通り。だいたいねえ、この<A4>には、君が思っているような<何>を埋める<何ごと>も<誰か>もいないってことサ。在るのは、ただ<何>的な事件報告だけだね」
 「それじゃねえ、もう一度だけ聞くよ、そうすると僕はいったい何んなのサ?」
 「うん、君こそが、<何>的事件そのものの僕だってことだね」
 どうであろうか、このとめどない<何>の有り様は…。しかし、<何>を<言葉>で語ろうとするヤクザな企みとは、所詮このようなものに成らざるをえないのではないだろうか。
 <A4><6F>の狡猾な「事件=事件報告」性に対して、まるでテレビのプロ野球中継を凡戦と知りつつ終わりまで見ているような悟り切った顔の<傍観者>でいるつもりの<あなた>が、そんな試合にも思わず望みのない逆転劇を期待してしまうことがあるように、何気なく「作品たりえぬ<A4>」とは「何か?」なんて思うことがあるとすれば、その時はどれほどの回答を期待することもなくそのままやり過ごしてしまうつもりでも、「何か?」への即答が誰からも得られなければ宙に浮いた「問い掛け」が、<A4>を語る<あなた>には<何か>以外には<何もなく>、しかも<何もない>がゆえに<何かのみ>があるにすぎないことを明らかにするはずだから、たとえ<あなた>が「何か?」と問い掛けたことに無頓着であっても、すでに「問う」こと自体が<問う自分>を<何かにすぎない>正体不明性へとはぐらかしているというわけで、そんな「何か?」からそっと身を引いて素知らぬ顔で<誰か>の事件にすり替えたつもりでいても、もともと<誰か>にとっては正体不明の事件にすぎぬ<あなた>が、あらゆるものに「何か?」と「問いうる」ヒトビトの地平を共有しただけのことだだから、<あなた>は改めて「何か?」を<正体不明のあなた>へと問い返されてしまうのだ。
 つまり、ここで言いうる<A4><6F>の企みとは、もしも<あなた>の何気ない「眼差し」が「何か?」という問い掛けならば、<あなたの眼差し>は自らの無意識的な<誰か>を呼び覚まそうとする反省的な「行為=経験」であることを、ささやかなる回答として問い返しているというわけなのだ。
 それゆえにわれわれは、自らの暴力性に無頓着なヒトビトの積極的な「問い掛け」こそを期待しているわけであるが、ここでわれわれが「何か?」に対して用意しうる回答とは、いつも誰に対しても「<何か>以外には<何もなく>、<何もない>がゆえに<何かのみ>がある」という<何>の構造にすぎないというわけで、ここにはヒトビトの反省以前に先在的な「<何か>という実体」があるわけではなく、まして<絵実物的な何か>が問われるのをじっと待っているというわけではないのだから、それを<絵実物的な痛み>として摘出するつもりなら、ヒトビト自身の自愛的欲望こそが反省されなければならないのだ。
 ところが、ヒトビトはどうせ楽しいことばかりではない生活に、自分の恥部を摘出する<何>的事件を抱え込んでは気が重いばかりだから、「クソ面白くもない!!」とばかりうんざり顔の横目で<A4><6F>をやり過ごしてしまうけれど、そのくせ余計な苦労を抱え込んでは「分かっちゃいるけどやめられない」という、「反省の先取り」によって反省の痛みを回避している有り様だから、もしもそんなヒトビトが何かの折に<絵空事的知見>に目覚めて、何から何まで<何-楽>で満ち満ちているはずの世界が、何ひとつとして<何>のまま存在しえぬ自愛的欲望物語の「絶望」として立ちはばかっているのを垣間見ることがあるとすれば、それが<分かっちゃいるけどやめられないヒトビト>にとって予想外に辛辣な事件になるはずだと思われることは、ヒトビトの何気ない日常生活においてこそ遭遇している<何>的事件が、ヒトビトの無関心をよそに核戦争による人類滅亡物語の真っ只中で、「それでもいいのかな?」「このままでどうするの?」とヒトビトの自愛的欲望という暴力に対して<反省的に生きる>ことこそを問い掛けているからなのだ。
 しかし、一個人の問題として人類滅亡を回避するために<反省的に生きる>などということが茶番にすぎないとしても、それを<何-楽>として生きたいと願うわれわれは、ヒトビトが<絵実物的価値>のために並べる甘く美しい言葉にこそ、自己愛に呪われた美貌の情欲を反省的に見過ごすことが出来ないという、その哀しみこそを遊び続けるつもりなのだ。
 だからもしも<A4>が己の<何-楽>を語ることもなく、まるで<神>ほどにも成り上がった<作者>として、無意味に「何を定義する」ことのかわりに、「<A4>は常にヒトビトの自己愛の現前で<何か>の真実を語りつづけている」などと言明したとしても、そこで語られている「真実なる何か」とは<A4>物語を「経験=行為」する<事件の当時者>に対しての正当性しか持ちえないはずだから、それは<私=作者>の言葉を絵実物的な体系として事件報告化していく地平で、いまだ語られていない<何か>への論理必然的な可能性を束ねて<私>的に物象化したものでしかないのだ。したがって、この出生の曖昧な「語られている真実」を<何>として定義しようとしても、そこではせいぜい「何かを語っている自分」が「語る」という事件においてのみ「真実」であることが明らかになるだけなのだ。
 これが<A4>における「何の真実」と「真実たる何か」を定義しようとする営みであるのだから、結局、われわれの<言葉>が「<何>を定義する」という試みは、「定義」そのものを無効にするところへと語るに落ちるしかないけれど、それでも<何か>を語らなければとりあえずの「何の真実」へも語るに落ちられないという戯けた陰謀にすぎないのだ。

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4.「何って何!?」


 

 そもそも<言葉>からは表現欲求を虚勢することが出来ないと見定めるならば、<言葉>である「何?」は、いまだ何とも呼ばれていないものに<正体不明の何か>を喚起して<何か>言おうとしていることに気付くのだ。
 しかしわれわれは、<芸術家>のように<美>を押し付けたり<宗教家>のように<神仏>を押し売りするつもりはなく、むしろあらゆる<表現者>の自愛的欲望という暴力の排他的な独善性こそを克服したいと願っているのだから、「何?」によって様々な臆断を退け<正体不明の何か>を探り出すために、<表現者>である己の欲望にとめどない反省の眼差しを送りつつ、自問自答するしかないところまで<問いつづける表現者>になることによって、初めて<正体不明の何か>から語り出す「<何>的表現者」たりえたというわけなのだ。
 それゆえに「<何>的表現者」の眼差しは、いつでもどこでも耳を澄まし目を凝らせば、ことごとくが「絵実物もどき」にすぎぬ世界が「なぜ<何か?>と問われるのか?」、あるいは「<何か?>って何か?」と自問する現場に立ち会うことになり、自愛的欲望に鎧われていた<私>には「見えなかったものが見えて」きて、「見えないものを語る」表現者として「<何>って何か?」(「何って何?」)に回答しうるのだ。
 そこで、とりあえず「何って何?」を問いつづけている<絵空事>を見ると、ここでは<何>が自己完結的に「何?」の回答であるためにいつも「何って何!!」あり、しかもその回答である<何>はいまだ正体不明のまま保留されているのだ。言い換えるならば、「何って何?」の<事件>と「何って何!!」の<事件報告>が同時に成立しているために、<問いつづける表現者>はすでに<誰であってもいい誰か>にすぎず、ただ単に<何>が純粋「行為=経験」として<絵空事>を語っているだけなのだ。
 つまり正体不明の<何>は、いつでもどこでも表現者である<誰か>を、「何って何!?」の真っ只中に取り込みつづけているのだ。<A4>において<言葉>であり<表現者>であるわれわれは、この<絵空事的事件>である「何って何!?」に積極的に身を投じていく覚悟なのだ。
 まず<作品論>を「何って何!?」の関係に置き換えてみると、「記号表現としての<何?>」が「何という<記号意味>」を自己実現している《作品的何》と、「何という<記号表現>」が「記号意味としての<何?>」を自己実現している《何的作品》とは、どこがどう違うのかともっともらしく問い掛けてみることができる。するとここでいう《何的作品》を、「何としての<記号表現>」が「記号意味という<何?>」を自己実現している《何的作品》に置き換えることも可能となり、それらの関係はいずれも、「<何>としての<何か>」と「<何か>としての<何>」との関係に集約されてしまい、結局は「無意味化された作品」と「作品化された無意味」とが、「とりあえずの作品」において分裂しつつ統一されているという「<何>の両義性」について語っていることになる。
 しかもここで「何って何!?」であるということは、「無意味化された作品」が「作品化された無意味」を語り、同時に「作品化された無意味」が「無意味化された作品」を語るという、あの「語りつつ語られ、語られつつ語る」戯れになっているのだ。
 つまり「<無意味>を語りつつ<無意味>に語られる」<A4><6F>の自問自答とは、<無意味=何>によって「語ること(行為)=語られること(経験)」が共に反省を迫られているというわけで、「何って何?」による問い掛けは「問う行為」への<反省的経験>であり、それが同時に「回答される経験」への<反省的行為>となり、<A4><6F>と<事件の当時者>が、それぞれ自己の存在理由にささやかな<自己不信>という疑問を投げ掛けていることになる。したがって<A4><6F>のみならず「何って何!?」でしかない<言葉>の<何>的反省の企みとは、ヒトビトが自らの価値判断によって「問うこと」が、自愛的欲望を増殖させて暴力的な自己回復を目指そうとする節操のない貧りであることを、ことごとく無効にすることなのだ。
 だからもしも、毎日毎日夜遊びが過ぎてついつい朝帰りになってしまう発育不全の若旦那が、いつの間にか店のやり繰りもすっかり任せてしまったカミサンの先細りの愛の灯は、ささやかなる憎しみとしてでも持続してくれればそれで結構だと高を括っていても、カミサンとてムンムンたる思いが仕事の張り合いで紛れているうちはいいけれど、やはり忙しすぎれば腹も立ち「あなた!! 毎日こんな時間まで、どこで何をしているんですか!?」と発情がらみで責めたてずにはいられないときもあるもので、そんなときに若旦那もなけなしの浅知恵で「そうなんだ、俺は、いままでどこで何をしていたんだろうか?」と、あたかも百年の記憶喪失から蘇ったとばかりの特権的表情で此見よがしに自問することができれば、何はともあれカミサンのモンモンたる疑惑はとりあえずの正体不明者にすり替えることはできるけれど、カミサンとて端っから若旦那のことなぞ信じちゃいないのだから、「そんなに正体をなくすほど遊び歩いて、一体どういうつもりなの!?」と会話を守り立ててくれるはずだから、若旦那もひるまずに一世一代の名演技で「そう、それが分からない。いったい俺は、どうしていたんだろう?」と念を押しておけば、さしものカミサンも<若旦那の顔をした謎の人物>をあるいは<若旦那たりえぬ若旦那>を前にして、もともとアホとは知りつつも今改めてアホの新発見を擬装してみせる余裕の中で、明日からの新たなる身の振り方を決意することになるはずだから、日々の会話もなくそろそろセックスも途切れがちになった欺瞞の夫婦であるよりも、いっそ「何って何!?」を喚起して辛い言葉で相手の痛みをえぐり出し血で血を洗って愛し合うという、危機的夫婦で命を輝かせてみてはどうかと御節介のひとつも言ってみたくなる。
 とにかく、自己愛という暴力に支えられてこそのヒトビトは、たまたま平穏無事であるにすぎない日々の事件と事件報告との狭間で、<何>的事件の無意味な鏡面に「表現者である自分」を発見することがなければ、狡猾に反省を回避しつづけた無明無知の暴力者として、「<私>である<私>」のために回避しえぬ苦悩にまみれて儚ない一生を終わってしまうのだ。
 しかし、逃げ場のない苦悩の中で「何って何!?」を自問自答しうるヒトビトは、今さら<何>的閉塞情況の影に<何ものかへの夢>を見ることもなく、まして<何ものかへの欲望>の影に<何の夢>を見ることもなく、「いま」「ここ」で言葉によって言葉を必要としない濃密な<現在性>の「驚き−感動」の事件に立ち会うことができるのだ。
 この「何って何!?」による濃密な<現在性>への覚醒とは、いつも付いて回る<時間性の苦悩>とどこへでも付いて回る<空間性の苦悩>に捕らわれた「<私>たりうる<私>」に、「時間って何!?」でしかないことと同時に「空間って何!?」でしかないことを気付かせ、時空間に呪縛された<意識>から超時空間としてある<無意識>への反省を可能にしつつ、<無意識>から<意識>へと反省的に語り出すことも可能にして、「無意識に覚醒する意識」=「意識に覚醒する無意識」という<何>化された時空間の真っ只中で、現在から未来へと引き伸ばされる「<意識化された苦悩>を無意識」へと解放し、過去から現在へと引きずる「<無意識化された苦悩>を意識化」して解放し、もはや過去と未来に対して「<私>たりえぬ<私>」を「いま」「ここ」に屹立させて快適な「とりあえずの表現者」を生きることができるのだ。
 それは「誰かである<私>」が、「何しい時間」と「何しい空間」の真っ只中で、常識・文化・制度に鎧われたことごとくの<絵実物的なもの>に向かって、「自分とは何!?」に至るまで「問い掛け=答える」ことであるから、それまで意識的にも無意識的にも「<私>たりうる<私>」であったことの自己愛的な排他性の暴力を、意識的な無意識的なヒトビトから排斥される暴力として反省的に引き受けて「ヒトビトである<私>」を開放し、しかもそれを再び暴力化することのない開放された「<私>であるヒトビト」として「快適な沈黙」を<何>物語として語ることになるのだ。
 ところで、表現行為から経験に向かう自問自答で「自分とは何!?」に至る<解放〜開放>の道は見えてきたとしても、「何は何のために何を語っているにすぎない」とも言いうる「何って何!?」の<何>への自己完結性は、いかにして表現経験から行為に向かう<開放〜解放>の道を「眼差し−応答」としてヒトビトへと送りつづけているのか。この「問い」を言い換えるならば、ヒトビトはどのようにして「あなたとは何か?」と問い掛けている「事件報告=事件」に遭遇し、「自分とは何!?」に至る道を歩き始めることができるのか、ということになる。
 そこでこれを<A4><6F>の<開放論>として見ると、たとえばあの悍しい戦争において逃走する軍隊が自己防衛のために仕掛ける陰険な地雷や機雷のように、あるいは負け犬同然のヒステリックなテロリストたちが売名行為のために仕掛ける無差別殺人の爆発物のように、われわれは嵩にかかって押し寄せてくる絵実物的な暴力に対して、人知れず「何は何のために何を語っているにすぎない」戯れを仕掛けるのみなのだ。
 しかし、この<A4><6F>が、陰険な地雷のように不意打ちの効果を期待し、しかもテロリストのように悍しいほどの売名宣伝の効果をも期待していながら、地雷や爆発物という暴力的手段と決定的に違うところは、ヒトビトの絵実物的な欲望や価値や意味のおいしそうなところだけを無効にして、誰もが「そんなアホが出来るくらいなら誰が好き好んで苦労なんかするものか!!」と言い捨てる<苦労のないアホ>のように、常識・文化・制度の<作品>である真・善・美・聖・愛にばかり肩透かしを食わせることが目的というわけで、<絵実物的ゲーム>の中に役立たずの<非暴力>を「スカ」として仕掛けるという点についてである。
 それは、常識・文化・制度という物語の中で「語られていない事件」を<沈黙>と呼び、それがヒトビトの都合で拒否、黙認、逃避、決意などという様々な意味を与えられてしまうように、われわれの仕掛ける「語られていない絵空事」も<沈黙>として存在し、ヒトビトが勝手に語る<物語>で語るに落ちるのを待つだけだから、われわれは「沈黙は沈黙のために沈黙を語っているにすぎない」というわけなのだ。
 つまり、語りえぬものを語るという<絵空事世界>において<何>を語るときにのみ「<何>の自己完結性」が言えるだけだから、常識・文化・制度の中に放置されている様々な表現行為や表現経験が、たまたまヒトビトの現前で「誰かに体験されることを期待しつつも、体験されることによって体験する意図を裏切りつづける実りのない表現体験」として、ヒトビトの表現欲求をことごとく<自己矛盾>へと誘うときに、その「事件報告=事件」の現場が「沈黙を語り無意味を意味する」ような<ビニール・パッケージ>的構造の<何>になっているというわけで、そのときに正体不明者として語るに落ちるヒトビトの自己撞着的な眼差しは、彼ら自身に「あなたは何?」「自分とは何?」を喚起してやまないのだ。
 結局ここで言いうる「<何>の自己完結」とは、<言葉>たりえぬ<何か>が<何>という<言葉>で語られるがゆえに、とめどなく語るに落ちるパラドックスであるにすぎないのだ。
 したがって、絵実物物語において「それは何?」「自分とは何?」を引き受けつつ「何って何!?」でしかない「絵空事的陥穽(何の自己完結)」とは、ヒトビトの「絵実物的臆断ゆえに不本意ながら<何>を語っている」にすぎないから、「いつ」「どこで」「誰が」かかる絵実物を切ってもまるで「金太郎飴」のように自己完結的な同じ顔を見せるけれど、しかしこの「金太郎さん」は自己完結性ゆえの独我論的な陥穽からは、誰もが演じられる「役柄のみの金太郎さん」として<正体不明性>へと擦り抜けてしまう。
 ところで<絵空事世界>において「何は何のために何を語っているにすぎない」と言いうる<何>は、その自己完結性によりさらに「何は何のすべてを語る」とも言えることになる。しかし<絵実物世界>の「金太郎さん」である<何>は、誰かがその飴を割ってみるという<何>的反省によってこそ初めて姿を現すわけだから、それが「金太郎飴」であることを知らない<絵実物的無知>を宿命的に背負った表現者にとって、<何>的反省以前に「何(金太郎さん)が何のすべてを語っている」こととは、結局のところ誰も「何も語っていない」ことと同じというわけなのだ。
 つまり、「誰かが何のすべてを語る」ためには、表現者として<何>的反省に覚醒しつつ絵実物的には「何も語っていない」ことによってしか実現できないわけだから、言い換えるならば「何のすべてを語る」ことのできる表現者は、<何>的反省しえた絵実物的な「何ごとか」に関してのみ、自らの存在理由である「語る(表現行為=表現経験)」ことを解消することが出来るのだ。それゆえに<絵実物世界>において、ごく平然とあるいはごく日常的に「私は私のために私を語っているにすぎない」と言いうる<私>は、その独我論的陥穽の中で辛うじて「<私>たりえている<私>」の臆断に対してのみ、「ささやかなる私が私のすべてを語っている」にすぎないのだ。
 そこでわれわれは、「何かのすべてを語りえた」と確信する<絵実物的表現者>に対して、彼らの独善的な自己神格化の欺瞞性こそを糾弾するために、いかなる表現者の<私>的存在理由もとりあえずの<絵実物もどき>にすぎないのだから、十全に「<私>たりうる<私>」としてはありえぬ<私>の<とりあえずの臆断>のみでは、「誰も自分が自分自身であることの<すべて>を語ることができない」ことを繰り返すことになる。
 ところが日常的な世界はすでに絵実物的なものとして在りつづけているから、ここで「<何>的表現者」として「<私>たりえぬ<私>」であるわれわれは、ヒトビトが安易に「何かのすべてを語りうる」と臆断するその<思い>と<言葉>の隙間で<何>を語るしかないというわけで、とりあえずは「<何か>をしないことが<何>をすること」でありつつ「<何か>をすることが<何>をしないこと」として、<何>と<何か>を両立しないものとして語らざるをえない。しかし、ひとたび絵空事的地平へと踏み出してしまえば、「何って何!?」は「<何>って<何か>!!」であり同時に「<何か>って<何>!!」であるから、<何=何か>はともに<ゼロ記号>として語られるものとなり、「何の何も何だ」から「何から何を取っても何である」とか「何は何があってもなくても何である」と同時に「何は何があってもなくても何でもない」ことになる。
 したがって、ヒトビトの「<私>たりうる<私>」という臆断に「何って何?」を仕掛けるということは、ヒトビトの表現行為あるいは表現経験として「語る」ということが、<ゼロ記号たる何>を「地」として「図-化」されることになり、実りのない地平における自問自答へと掠め取られた表現体験は「<私>たりえぬ<私>」へと横滑りして、価値判断による「選択−排除」あるいは「肯定−否定」の相克的な営みをいつのまにか「無力化=浄化」しつつ<非暴力的な戯れ>へと連れ去るのだ。
 <言葉>であるわれわれが、生きつづける限りは<表現欲求>を克服しえないと知れば、「<言葉>たりえぬ<言葉>」としていまだ「語られていない言葉」に支えられてこその<われわれ>であることを反省しつつ、「何って何!?」に<表現欲求>を委ね<何=何か>によって「語りつつ語られる」ときには、もはや<言葉>では<絵実物>と<絵空事>とを区別して「語れない」領域を拓くのだ。
 「<言葉>たりえぬ<言葉>」へと風穴の開いた「何って何!?」の問い掛けと応答は、ことごとくの「言葉の風景」を<解放=開放>して《何-景》と言いうる<言葉の楽園>へと誘うが、それは、自愛的欲望に覆われて欝々とした日々を送る<表現者>と<言葉>が、拘束しない関係で対峙しながら不可分のものとしてあり、同時に不可分の関係にありながら拘束しないで対峙するという理想的な関係を実現するのだ。

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