(3).<何>論


1. < 何 > 宣言


 われわれの<A4>で、<言葉>によつて<言葉>の外に出る<空言>の旅は、たとえば「無意味」や「沈黙」のように<ビニール・パッケージ>的な性格が明瞭で、しかも絵実物的世界を<ビニール・パッケージしつづける>という、情熱的で反省的な意志を容易に示しうる<キーワード>を携えて行きたいと思う。
 「それは何か?」
 そう、それは正に「それは何か?」なのだ。
 あの<作品>や<商品>に「透明テープを貼る」という<表現体験>のように、あらゆる事象に向かって「何?」を貼付すること、いやむしろより戦略的に挑発的にごく当たり前の顔をした<絵実物>に対して「何?」と問い掛けるのだ。
 それは「問う」行為者と「問われる」経験者が、「それは何か?」の真っ只中で共に自己不信に陥るまで<問いつづける>ことにより、在り来りの<名称>や<意味>に自足する「<何か>が<何か>でありつづける」世界に揺らぎを与え、もはや回答者を待つまでもなく質問者自身が回答せざるをえぬという、自問自答の「<問う>行為=<問われる>経験」へと突き抜けて「何?」的事件を拓くのだ。
 つまり、「透明テープを貼る」ことの<絵空事的事件>が、<記号意味>を<記号意味もどき>へと解放する<記号表現の戯れ>であったように、「何?」的事件とは、<記号意味>からの解放を「問いつつ」<記号意味もどき>の回答をすることなのだ。そもそも、「問う」ことは「期待する回答」のために問われ、「回答」もまた「期待された問い」のために回答されるのだから、「何?」の現場では、「問う」行為者は「<何>を期待しているのか(なぜ問うのか)」と問われ、「問われる」経験者は「<何>が期待されているのか(なぜ問われるのか)」と問うことになるというわけで、「問う=問われる」ことの矛盾のなかで「期待される<何>」は、質問者と回答者を無差別の自己目的的な<表現体験>へと巻き込み、行為と経験のみが純化された正体不明の「<何>的表現者」を出現させるのだ。
 ここで「何?」によって「期待される<何>」を語る「<何>的表現者」は、ことごとくの<絵実物的物語>に<純粋体験>の現場を拓き、問いつづけられて揺らぎ始めた事件と事件報告の狭間で、いまだ無垢の「物語的欲望の現在性」へと覚醒することになる。言い換えるならば「何?」は、あらゆる事象・物語の絵実物性を「何でもない」絵空事へと掠奪し、同時に新たなる絵実物として「何かである」価値・意味を偽造する「事件=事件報告」なのだ。
 それゆえに「何?」は、この勝れた<ビニール・パッケージ>的作用によって、常識・文化・制度あるいは自愛的欲望に呪縛されたヒトビトに、今までの「<私>としてはありえない<私>」という衝撃的な自己不信・喪失を喚起しつづけてきたのだ。
 われわれは、問いつづけなければならない。
 「それは何?」「これは何?」「何?」…、そう、結局は「自分とは何か?」
 そこで、とりあえずは「あなたって何?」と問い掛けてみれば、たとえば中年になっても結婚しない男と女の関係が、「何とも言いようのない」空しさのままそれでも「何とか言わざるをえない」物語として、とめどない無駄口を用意しているのだ。
 「ねえ、あなたって何?」
 「ん? 薮から棒に何だい?」
 「うん、ちょっとね。だんだん、あなたが見えなくなってきたってわけ」
 「またどうして…。僕は、ちっとも変わっていないつもりだけどね」
 「そう、その変わらないあなたが、だんだん変だなと感じてきたの」
 「じゃ僕に、どうしろと言うの?」
 「わからない…」
 「それじゃ君、僕が見えないんじゃなくて、自分が見えないってことじゃないの」
 「かも、ね。すると、あなたにとって、あたしって何なの?」
 「ふむ、結婚しない女、同居人いやむしろ僕が居候と言うべきか、つまりは愛人」
 「ふうん、その愛人って何なの?」
 「そうだね、愛の持続している人ってところかな」
 「ねえ、その持続している愛って何なの?」
 「そう多分、愛しい君を必要としつづけている生活、あるいは腐れ縁」
 「ははん。でもねえ、互いに相手を必要とする動機が愛だとすればよ、その愛がなくなっても、まだ相手を必要としているのが腐れ縁ってことじゃないの?」
 「愛なき束縛か、むしろ僕は、その束縛こそが愛だと思っているがね」
 「と言うことは、セックスだけの繋がりにも愛があるってわけ?」
 「そう、仏教には身心一如という言葉があるそうだよ」
 「それじゃ、ソープランドに行く男の愛ってどう説明するの?」
 「ふむ、言わば博愛、生命賛歌の博愛が資本主義によって歪められているとでも言っておくか」
 「ねえ資本主義以前の売春はどう説明するの?」
 「なんだい、やけに絡むね。…ま、男性原理に保証された身勝手な博愛、そんなところでどう?」
 「ふうん、じゃ売春は置いとくとして、あなたの博愛にとってあたしの愛つて何なの?」
 「そう、僕の博愛に、唯一の希望を与えてくれるもの。どう?」
 「すると、希望にすぎないあたしの愛には手が届いていないってわけよね。つまり毎日毎日、夢のない博愛を生きているってことでしょ?」
 「僕が博愛主義者であるかぎり、あるいは夢見る愛人であるかぎり、君はここにいて、ここにいない!! そういうことかい?」
 「あるいはより積極的に言えば、あなたは自分の博愛を絶望させるためにあたしを愛しつづけている、どうかしら?」
 「じゃ、君の愛にとって僕はどうなるの?」
 「そうね…、自分を裏切るために人を愛するような男は、とりあえず危険だから、<愛しすぎてはならないという欲望>のまま腐れ縁でいること」
 「とすれば君にしたところで、<愛を裏切るために僕を愛している>にすぎないじゃないか?」
 「でもあなたは、博愛主義の希望とやらで、あたしを束縛しつづけてきた」
 「しかし、君に言わせれば、それが僕自身、絶望を生きることでしかなかったのだから、絶望者はいかなる希望をも持ちえず、またその絶望によって人を拘束することは出来ない、だろ?」
 「でもあなたは、絶望している博愛の真っ只中で、希望というあたしを抱きつづけてきた。それともあたしを抱くことが絶望だったということ?」
 「やや、話しは、思わず危険地帯にはいってしまった!! 確かに博愛主義者たる僕は、絶望しては女を抱き、女を抱いては絶望することも、決してないとは言わない。しかし断じて、君は希望でありつづけている」
 「たぶん、あなたの、そのぬけぬけとした自己欺瞞が、あたしには重いのよね」
 「それじゃ君は、君自身のいかなる希望にも抱かれたことはないと言い切れるのかい?」
 「何よ、それは? あたしにだってまだ夢や希望はあるわよ。でも、あたしは、あなたという男に抱かれただけで、あなたにつまらない夢や希望を抱いたことなんかは、一度もなかったわよ」
 「と言うことは、結局、僕たちにとって性交という<行為と経験>とは何か? これが問題だというわけか?」
 「まあね。で、あたしたちのセックスって何なの?」
 「僕にとっては、たとえ<性経験>が在り来りの博愛に埋没することでしかないとしても、<性行為>は希望という名の愛でありつづける」
 「それじゃ何よ、あたしが問いつづけてきた<何?>は、セックスの現場においても<愛>で埋め尽くされちゃうってわけ?」
 「君は、その物語が<重い>ということかもしれないが、性交そのものはソープランドまで語りうる生命賛歌にすぎないはずさ」
 「でも、あなたの生命賛歌って博愛という愛なんでしょ? むしろあたしは、その<愛とは何か>って聞いているのよ。ここでも<愛>は、<何?>によって問われる対象でしかないのよ。つまり、<愛>は<何?>の回答たりえないってことなの、でしょ?」
 というわけで、オジサンにしてみれば、熟女の聡明なる子宮の前では腐れ縁でしかないスケベ物語なぞ、愛という希望で取り繕わなければ頑張れないというのに、これでもかとばかり責めたてる熟女の執拗にして濃密なる<言葉>の情欲が、すでに「何?」によって<愛>すら掠め取られた性交と同様に、中年女のごく日常的な生理現象でしかないとすれば、<何か>を回答しつづけるばかりのセックス・マシーンに成り下がったオジサンは、もはや、ささやかなるスケベ物語すら生きる望みたりえないものになってしまうというわけなのだ。
 つまりは、単にスケベのみではセックスしえぬ中年になればこそ、夢なくしては生きられないオジサンと、すでに夢だけでは生きられない熟女の、何んてことのない物語に「何?」の戯れを探ってみたにすぎないが、ここでわれわれは、熟女とオジサンをあたかも<言葉の性交>における「<何>的表現者」として語りえたように、より積極的に、純真無垢という常套句の欺瞞性こそを思い知らさせられるヒネた子供を装いながら、権威主義的な偽善者や体制的な暴力者、そしてすべての自愛的暴力者に対して、「ねえ、オジチャン、オバチャン、何してんの? これ何?」を喚起しつづけたいと思う。
 そもそも子供とは、いつの世も自愛的な欺瞞者である大人たちの醜い反照規定的な人格でしかないのだから、飢えた「餓鬼どもら」の痛い眼差しで「問いつづけ」なければ、常識・文化・制度は醜い大人たちの自愛的欲望で腐敗してしまうのだ。
 しかし、見栄や虚偽の装いによってこそ快適に過ごしているとも言いうるわれわれが、はたしてこの痛い眼差しの「何?」的反省に晒されて、傷付くこともなく楽しく遊びつづけられるというのであろうか?
 <A4>的事件においてのみならず、<言葉>によって「問う=眼差す」行為と「問われる=応答する」経験に挟まれた事件は、「何かであること」と「何でもないこと」を同時に成立させる矛盾構造の<絵実物>や<作者>を「もどき態」として露呈させるが、ここで<誰か>にとって、「何?」によって暴露されてしまった自己矛盾が<苦悩>でしかないとしても、それは苦しければ苦しいほど苦悩の中から不死鳥のように楽園へと蘇る劇的な遊びたりうるのだ。
 無論われわれは、死後の幸せを確信するだけで救われてしまうほどのロマンチストではないから、この蘇生の楽しみを遥か彼方へと先送りして、ひたすら忍耐の苦悩者にばかり埋没しているわけにはいかないのだ。

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2.< 何 > への誘い


 この<A4>で「何かであること=何でもないこと」のわれわれが、もしも誰かに「何か面白いことはないのかね?」と聞かれたら、待ってましたとばかり「<何>より他には面白いことはない!!」と言うことが出来るけれど、しかし<何>の面白さは、じっと待っているだけでは手に入らないのだ。つまり、単に<作品>や<事件報告>を享受するつもりではだめで、自らが<事件の仕掛人>でなければならないと言える。
 とにかく、「何?」と問い掛けて事件を起こさなければ「<何>も始まらない」のだ。では、<何>の面白さを手に入れるとはいかなることなのか?
 たとえばヒトビトが、「何ものかを自分の所有にする」と言うときに<所有>できると思念している<何ものか>とは、すでに常識・文化・制度によって<何か=そのもの>として価値判断され、意味化され、あるいは物象化されているはずだから、とりあえずはそれを<絵実物>と見ることができるけれど、むしろわれわれとしては、「所有する」ことが<何か>を価値判断し、実体化し、暴力化していくことの<絵実物的営為>であると考えているのだ。
 なぜなら、ここで誰かが「所有」し手に入れたはずのものが、たとえば「当たり前の空気」のように「ただ同然の<何か>」ならば、それは「価値判断以前の<何か>」「いまだ語られていない<何か>」あるいは「正体不明の<何か>」というわけで、<何>そのものとしか言いようのない「何でもない何か」は、常に<誰のものでもなく>既に<誰のものでもありうる>のだから、今さら取り立てて<誰か>が「所有」し手に入れたことにはならないのだ。
 つまりわれわれは、「所有する」という<絵実物的営為>が無駄骨に終わるところに、「<何>を手に入れる」という<絵空事的事件>を仕掛けるのだ。
 したがって「<何>を手に入れる」ことは、ヒトビトが後生大事にしている常識・文化・制度の体制的欲望といいうる価値観に、その欲望の手段である「所有」によって揺らぎを与えるというわけで、それは「所有する<経験>」のためにのみ「所有する<行為>」を楽しむという自己目的的「所有」を、まるで赤貧の役者が演じる大富豪のように、無意味で無責任で愉快な事件として仕掛ける遊びとも言える。
 そこでわれわれは、「何でもない何か」を「所有する」体験が、「行為と経験」あるいは「事件と事件報告」を同等の権利・身分で「<何>化している」と言い、さらに「所有」という欲望も「<何>化されている」と言うことにしたいと思う。
 ところで、「<何>的所有」が<ヒトビトの欲望>に無意味で無責任な事件を「仕掛ける(眼差す)」ことだとすれば、無意味と無責任に対するヒトビトからの辛辣な「応答」を、うかつにもまともな<体制的欲望>で受け止めたりして大怪我をするのは、おっちょこちょいの「<何>的所有者-もどき」というわけだから、「所有者-もどき」の覚めた遊びで<何>の面白さを手に入れるつもりなら、まずは絵実物的臆断を戯れに戯れつづけられる「<何>的人格」に目覚めることこそをお進めしたい。
 とりあえずここにいう「<何>的人格」とは、自問自答に至るまで「何?」を問いつづける「反省的な表現者」に他ならないけれど、ひとたび<何>的反省を手に入れたのちは、<絵空事的知見>への自己欺瞞という苦しみなくしては<何>を捨てられないはずだから、そんなヤクザな遊びに身を落とした「<何>的表現者」は、どこかで誰かが見詰めているかもしれない冷たい眼差しを背中で受け止めて、しかもそれを微笑の「何?」にしてヒトビトへと送り返せる苦労人でなければ勤まらないというわけで、たとえ<何>的欲望の戯れをバカ笑いとして仕掛けることが出来たとしても、なぜか後ろ姿には涙が似合ってしまう「道化」といった風情なのだ。
 しかし「<何>的表現者」たらんとするわれわれは、売れないことが自慢のコメディアンではないのだから、女々しい自己愛に溺れて<何>的反省を挫折させるわけにはいかないので、<絵実物的表現者>たらんとする空しい<自己愛>に対する「<何>的道化」として、結局はことごとくの<私>を「<私>たりうる<私>」へと<絵実物的に所有>させる<自愛的欲望>こそを<何>化しうる「<何>的所有」を目指し、「何でもない何か」への誘いを語りつづけたいと思う。
 ところで<言葉>とは、ヒトビトの常識・文化・制度によって語られてこそ<言葉>であるにすぎないのだから、そんな<言葉>の「何?」的欲望によって<何>へと突き抜けるためには、「絵実物もどきの<言葉>」を自認しつつ「無意味な空言で<何>を語りうるか」について語ることになるのだ。
 すると、<言葉>である<誰か>の<絵実物的欲望>が、「そんな無意味な言葉で語りうるものが、どれほど無意味であるかについて教えてあげよう」などと、わざとらしい目付きで嘲弄的に語り掛けてくるけれど、われわれは、いま誰かが教えてくれようとしているその<何か>のみならず、その<誰か>の発言自体が<無意味>であることについて語っておかなければならない。
 そもそも<無意味>を「意味=言葉」以前の事件とすれば、<無意味>は「意味=言葉」という事件報告によって「教える(表現する)」ことの内容にはなれないというわけなのだ。それゆえにわれわれは、誰かが教えてくれようとしている<何か>を無視することができるが、それは同様に、いまわれわれが<無意味>な<言葉>で語ろうとしている<何>もまた、ヒトビトによっていとも簡単に無視されてしまいかねないということなのだ。
 しかし<言葉>という「無言の約束」によって、「その無意味さについて教えてあげよう」とごく日常的に言いうるヒトビトは、それが誰のいかなる企みであるにしても、その「無意味なる言明」に<何か>の意味を与えてしまうのだ。それは結局のところ、それが正に<無意味>であるところの<物語>を、ヒトビトが勝手に、無意識に、無言のうちに読み込んでしまうことだとすれば、常識・文化・制度にささえられたヒトビトの反省以前的(無意識)な「呼び掛け−応答」でさえ、すでに<意味>なくしては充分に機能しえぬほどに<意味>に呪縛されていることを明らかにしているといえる。
 このようなヒトビトの<意味世界>でわれわれが「<何>を語る」ことは、われわれの<言葉>の反省的構造からすれば、ヒトビトがこの正体不明の<A4>に「何を求めているのか?」「何を眼差しているのか?」について語ることに他ならないから、たとえあからさまに無視されようとも絵実物的に価値判断されようとも、われわれが、<A4>を空言の快適なナンセンス色に染めて、しかも新鮮な<何>的事件の喚起力を持ちつづけようとするならば、われわれに対する「こりゃ何んだ?」という暴力的で熱い眼差しこそを、とめどなく「はぐらかし」つづけなければならないのだ。それはまるで、いくら誘われてもチョッカイを出されても一向にその気にならない魅女のごとくでなければならない。
 それでも「こりゃ何んだ?」によって、気ままに問いつづけるヒトビトの無意識に担う<物語的欲望>は、たとえ<A4>が正体不明の<絵空事>であろうとも、自らの価値観にもとづく決定を<何か>として下さずにはいられないはずだから、<A4>の「はぐらかし」が徹底していればいるほど、愚弄されたヒトビトのやり場のない暴力的眼差しは、自分のためにも此見よがしな「なんでえ、くっだらねえ!!」「まったくのナンセンス!!」という、われわれにとっては誠に耳慣れた回答を用意せざるをえなくなってしまうのだ。思えば、どんなにドケチのオジサンでも、ヤラセてくれそうなカワユイ娘には金も使うし気も使うけれど、いつも金ばかり取られていることに気が付けば、たいていはこの捨台詞でケリを付けてしまうというわけなのだ。
 その意味において<A4>がヒトビトに対して担いうる役柄とは、常識・文化・制度という体制的な欲望にどっぷりと浸かって無自覚なままに暴力化しているヒトビトの、自愛的欲望ゆえの熱い「排斥力」こそを一手に引き受ける不死身の生贄になることなのだ。それゆえに<A4>の意図とは、ヒトビトの性悪な眼差しの現前で、ただ<何>的事件であることのみを願っているにすぎないのだから、この「くっだらねえ!!」や「ナンセンス!!」こそ身に余る光栄といえる。とすればわれわれは、<A4>をいつまでもヤラセてくれない魅女に祭り上げるだけに留どまらず、ヤッテヤッテヤリマクル「<A4>=ソープランド(とるこ)嬢」説を唱えることも可能になる。
 とりあえずは、ソープ嬢が「セックスのためのセックス」を<商品>化しているにすぎないとすれば、「何が何んでもOMANKOしたい!!」という元気なオニィチャンやオジサンの直截な性欲に対して、<ソープランド的事件>はまったく純粋な「性行為=性経験」の現場を拓いていると言いうるが、この「セックスはセックスのためにある」というテーゼによってこそ<A4>的事件の当事者になりえているソープ嬢に、所詮は客にすぎない心寂しいオニィチャンやオジサンが、もしもセックス以外の物語的役柄を求めてもそれはまるでナンセンスであるように、遊びを遊びきれない発育不全の自愛的情欲で勃起してしまったオニィチャンやオジサンにとっては、さしものソープ嬢もまるで無力と言わざるをえないけれど、どっこいソープ嬢にしてみればそんな哀しいヒトビトの物語を貨幣価値への献身にすり替えて、シャボンの泡を飛ばしながらガッポリと稼いでいるのだから、結局のところ、<A4>的人格ほどには「純粋OMANKO」も出来ず、かといって「ナンセンス」のために高いお金も払えないオジサンは、今さら「何んか、淋しいなあ…」なんて思わずに、早く家へ帰って欲求不満の古女房に夫婦円満、家内安全、招福除災のギリマン供養でもしたほうがなんぼか有意義と言えるのだ。
 あるいはまた、熟女の出来心で遊ばれただけの気弱な彼氏が、すっかりその気になって彼女のマンションへと訪れたときに、たまたま半開きのドアーを押して入ってみたら、折しもベッドの上では、一見してそれと分かる怖い怖いヤクザ屋のオニィチャンと彼女が、それはそれは熱心に「セックスをセックスしている」現場に遭遇してしまったとすれば、思わず「アア!! 何? 何してるの!?」なんて間の抜けた<言葉>を掛けてしまっても、台詞の違う役者の哀しい<言葉>は空しいばかりだから、今さらどんな<言葉>をも必要としないやたらと美しい汗でピカピカの、「バカ、見れば分かるだろう」的事件のまぶしいほどのオニィチャンの背中の上をまるで鏡の表面のように限りなく横滑りして、そのまま彼女の乳房の脇を横滑りしていく「あら、坊や、そんなところで何してるの? 早く帰らないと怪我するわよ…」となり、「問う」ことによって「問われて」しまう「何?」は、わなわなと震えながらとめどなく溢れ出る涙で勃起した青春を、思わず羨望と屈辱と恐怖という冷や汗で射精してしまう彼氏に、「僕はいったい何をしに来たのか?」を繰り返させるばかりなのだ。
 というわけで自問自答せざるをえない<何>的事件は、すでに<言葉>を必要としない<問答無用の事件>に向かって「問う」ことにより、「何?」より他には<何>も問えないのに問うことすらが悔やまれる質問者を、より一層の<正体不明>性へと誘いうるのだから、<A4><6F>は、常に「作品もどき」としてたたずみ問答無用の戯れを仕掛けつづけるのだ。
 したがって、ヒトビトがいかなる<物語>を抱えて「問い」「問われ」ようとも、とりあえずは平等、無差別の条件で誰もが<表現者>たりうる<A4><6F>的事件の現場では、ヒトビトの自愛的欲望を<何>へと誘うための「何?」的喚起力を持ちつづけるために、ふらりとやって来る<享受者>たちの辛辣な非難、中傷という熱い<言葉>こそを待ち望んでいるのだ。
 だから、欝々とした日々の不満、不安のなかで「<何か>が気にいらない」というヒトビトの<事件たりえぬ事件>でさえ、「<何?>が気にいらない=<何>も気にならない」という<何>的事件に遭遇すれば、ヒトビトが「テメエ!! 何だ、その目付きは、俺をバカにしているのか!?」と凄んでみても、「おまえは何か、アホか!?」と軽くあしらっても、そこではテープ・レコーダーの再生音を聞かされるように自分の醜態を垣間見ることになり、「気にいらない<私>」が<言葉>の事件として喚起され、自己愛に鎧われた無自覚な<私>が<言葉の欲望>によって無力化されることになるのだ。
 それは、そもそも<何>事にも「何?」と問い掛けてみたくなるヒトビトの貧欲な「何かへの期待」が、「何が分かった」からとてどうと言うことのない<何>気ない<言葉の欲望>を刺激するだけの戯れにもかかわらず、訳もなく<何か>への回答を我慢できないという「所有への念い」に由来するのだから、「分かっちゃいてもやめられない」という予想された「戸惑い」へと語るに落ちる楽しみといえるのだ。この「戸惑い」の中で、どうしても<何>を「何か」として呼ばずにはいられない自分の「おかしさ」を見詰めることができれば、「何?」の真っ只中でそれを「何か」と呼べぬ「もどかしさ」が、この苦悩する<言葉の欲望>を快適な「正体不明の<何>」によってこそ贖っていることを理解できるはずなのだ。

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