(2).ビニール・パッケージ論


1. 作品性の掠奪と偽造


 <言葉>であるわれわれは、NO.118 の 13ページの<6F>によって語りえた何ごとかをその可能性においてさらに発展させるために、スケッチ・ブックの<6F>という呼称にならって言いうるワープロ用紙の<A4>版に立ち返り、あの「<6F>に透明テープを貼ること」の意図を「<A4>に透明テープを貼ること」へと展開して、<言葉>の欲望を反省的に語りつづけることにより、その<反省的な表現体験>が「価値・意味の掠奪と偽造」という両義性を担いつつ、さらには<変身の理論>たりうることを明らかにしていきたいと思う。
 すでにわれわれは<6F>を<言葉>で語ってきたわけであるが、12ページの<6F>においては「透明テープを貼る」ことのみが目的の一元的構造の<純粋性>を見定めることにより、誰かが「貼る」行為 (あるいは<言葉>が「貼ると語る」行為) とヒトビトがそれを「見る」経験 (あるいは<言葉>が「見ると語る」経験) を同時に成立させる<6F的事件>を拓き、しかも「<6F>に透明テープを貼ること」が<言葉=文字>の欲望をことごとく無意味へと誘う戯れであることを明らかにして、<言葉>であるわれわれは、未だ無価値ともいいうる<6F>に「<作品>たりえぬ<テクスト>」というとりあえずの名称を与えたわけである。そして、<言葉>の事件である<6F>は同時に<A4>の事件であるために、<A4>もまた「<作品>たりえぬ<テクスト>」であることを名乗りえたのだ。
 ところでこの<A4>の<テクスト>性とは、このような<6F>をすでに三千枚以上も「一日一画」というルールによって事件化しつづけている「ある表現者」が、まともな<作品>たりえぬ<6F>に対するヒトビトの戸惑いにも似た嘲笑的賛辞の意味をも引き受けて、しかもそれゆえにヒトビトの欲望によって呪われた価値判断をいとも簡単に擦り抜けていくことのできる身軽さから、これらの「<作品>たりえぬ<6F>」をまさに「絵に描いた餅」として《絵空事》と呼んでいることに照応させうるのだ。
 それに対して、われわれが語りえた 11ページの「あたかも<作品>の顔をした<6F>」は、あの新風営法施行以前に一世を風靡したセックス産業に群がった哀しい男たちの、「一本の欲望」といいうる価値のためにカワユイ顔をしたオシャブリ・ギャルたちが、自らは「性交(からだ)を売ってお金を貰っているわけじゃないんだから」という都合のいい純潔観に保証された正体不明の「愛人もどき」「性交もどき」として、あるいは「してもらう自慰経験」という「自慰行為もどき」として、男たちの目くるめく幻想と妄想を情欲の金銭価値として担い、いつのまにか「OMANKOをしたい!!」という男の純情を掠め取っていたように、とりあえずは<芸術作品>と呼ばれるものが、なんとも如才なくヒトビトの「欲望=価値」観に媚を売り、あたかも<本物>としてあるいは「物象化した作品」として、いつのまにか嘘偽りのない<記号意味>の受肉者に成り切れる狡猾な処世術を皮肉られて、「ある表現者」に《絵実物》と呼ばれていたものに照応するのだ。
 したがってわれわれは、この<A4>の<テクスト>性に対しても《絵空事》という名称を借用し、無意味な<言葉の事件>に対するヒトビトの嘲笑的賛辞をも積極的に引き受けて<空言><戯言>であることを自認しつつ、さらに<作品><書物>である<文字=言葉>のみならず、ことごとくヒトビトの常識・文化・制度によって価値判断されたり物象化された<意味><事件><事件報告><行為><経験>などにも、《絵実物》という名称を借用していきたいと思う。
 そこで、これらの名称を援用しつつ 13ページの<6F>について言えば、<透明テープ>の下に<誰か>が<言葉>であるわれわれを<文字>として発見したとしても、まずは《絵空事》の「<作品>たりえぬ<6F>」と《絵実物》の「<作品>もどきの<6F>」とに未分化のまま遭遇しているはずだから、そこでは<何>でも「常識・文化・制度」的に価値判断せずにいられないヒトビトが、もともとは《絵空事》としか言いようのない<何か>を勝手に《絵実物》として臆断するだけのことだとすれば、その臆断とは自愛的欲望に支配された存在論と認識論の混同にすぎないことになるけれど、しかしわれわれの目指す<表現体験>は、この混沌とした不節操さを<自愛的欲望>抜きにして積極的に引き受けたいということなのだ。
 つまり「透明テープを貼る」という不節操で破廉恥な企みは、さまざまの臆断を退けて「見ること(語ること)」の反省によって表現行為と表現経験の関係を取り結ぶことであるから、われわれはあらゆる事象に「透明テープを貼って<見る・語る>」ことにより、ヒトビトの欲望と手垢にまみれて放置された事件報告を、ことごとくピカピカの事件として蘇生させることができるのだ。
 しかしそれもチョット肩の力を抜いてみれば、いくら化粧で変身して《絵空事》的な多重人格をこなしても一向に自己分裂しない女性たちが、とりあえずの素顔という《絵実物》に戻るときはひとりの浴室であると気付いたオジサンが、たとえば愛人のマンションで助平根性丸出しに出歯亀行為すれば、そこはオジサンの性格を知り尽くした愛人のことだから、それと知りつつブラジャーをはずす助平行為は覗かれているという出歯亀経験でありつつ、同時にオジサンの助平経験を満足させることにはなるけれど、すでにオジサンは彼女がパンティを脱ぐに至るまでを<見る>ことはストリップの演出家として<脱がせる>に等しいのだから、ここでも彼女の素顔たる《絵実物》の実相を垣間見ることはできないというわけで、ただどっちもどっちの「スケベごっこ」は十分に楽しめるという程度のたわいない遊びにも似ているといえる。
 ところで、この「透明テープを貼って<見る・語る>」ことによって、「行為と経験」があるいは「事件と事件報告」がそれぞれに連係を持ちつつ、さらに相互に依存し補完し合う関係( たとえば「貼る行為=貼られている経験」=「見る行為=見られる経験」=「語る行為=語られる経験」であるために、同時に「貼る行為=見られる経験」=「見る行為=語られる経験」=「語る行為=貼られる経験」でありつつ、さらに「貼る行為=語られる経験」=「見る行為=貼られる経験」=「語る行為=見られる経験」であるということ。そして逆に「貼る経験=貼られる行為」…も成立するということ。あるいは「行為=経験」的事件=「行為=経験」的事件報告=「事件=事件報告」的行為=「事件=事件報告」的経験も成立するということ)が可能であるということを、<透明テープ>という性質の構造からみれば、それは<透明テープ>が<不透明テープ>と同様に<被覆性>を持ちながら、さらに<不透明テープ>にはない<透視性>を備えているという両義性によって保証されていることが分かる。
 つまり、<透明テープ>は、<不透明テープの不可視性>によってこそ言いえた「<作品>もどきの<6F>」(絵実物) という「作品性の偽造」を、「テープを貼る」ことのみで十分な<被覆性>にすり替えてヒトビトに提示し、さらに<透明テープの可視(透視)性>によって「<作品>たりえぬ<6F>」(絵空事) という「虚偽の作品性」を自ら露呈し、<6F>とは所詮「戯れの記号」にすぎないことを明らかにして見せたのだ。  したがって「<透視テープ>を貼る」ことの意義をより肯定的に言い換えるならば、それは<作品=絵実物>と思念されているものをとめどなく<テクスト=絵空事>へと「掠め取る」作業であり、同時に<テクスト=絵空事>をあたかも<作品=絵実物>であるかのように思念させる「偽造」作業でもあることになる。
 これを「<テクスト=絵空事>論的作業」として整理すれば、「<透視テープ>を貼る」ことは「<作品=絵実物>性の掠奪と偽造」を担うと言えるのだ。


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2. ビニール・パッケージ


 たぶん、<言葉>であるわれわれが、常識・文化・制度などの中で「<絵空事>的作業」として何事かを語っていこうとすることは、たとえばヒトビトが<宗教><芸術><学問><道徳><愛>などと思念しているものから、<絵実物>的なる部分ばかりを去勢していくことになるはずなのだ。しかし<絵実物>性の去勢が、自己目的的な一元的構造の<表現体験>によってこそ可能であるにしても、常に、すでに、われわれは<絵実物>的世界の中にどっぷりと浸かっていることについて自覚的でありつづけるのだから、それは<反省>という方法によって初めて拓かれる<事件>であるにすぎないといえる。それゆえに、あの<6F>の「ある表現者」が、正体不明の記号にすぎない<6F>をあたかも<作品>であるかのように額縁に入れて<絵実物>信仰者を戸惑わせて遊んでいるように、<言葉>であるわれわれも、<A4>的事件を書物化された<作品>として読んでくれる<読者>を積極的に想定して、しかも<読者>の期待には<何か>の形で答えうる努力を惜しまないつもりではあるが、しかし<読者>の<絵実物>的な自愛的欲望には徹底した肩透かしを心がけたいと思うのだ。
 そこで、<絵空事>論なる企みが、ヒトビトの自愛的欲望をことごとく「言葉の楽園」へと誘う戯れであることを示すためにも、われわれはもう少し日常的な場面について語っていきたいと思う。
 まず、「日常生活」において無頓着になっている<絵実物>的欲望を見事なまでに「商品」という形にして見せてくれるスーパー・マーケットを覗いてみることにする。ここでは「<透明テープ>を貼る」ことが、正に<ビニール・パッケージ>という方法として<商品価値>に深くかかわっていることを知ることができる。
 そもそもスーパー・マーケットにおける<ビニール・パッケージ>は、核家族化した消費者には大きすぎたり多すぎたりする食品を分割細分化する手段であったり、調理する手間を省きたい消費者の欲求を満たしながら、同時に店員のいない売り場での衛生的な商品管理を円滑にしているわけで、この密閉方式による細分化・成型化が、<使用価値>の分散による新たなる<商品価値>の<偽造・捏造>に他ならないとすれば、それは正に<商品価値>が<使用価値>という剰余を孕んで自己増殖する特異な体質を<記号意味>と<記号表現>との戯れとして見せてくれているといえる。
 しかも<ビニール・パッケージ>の<透明性・可視性>と<被覆性・不可触性>は、直に触れることの出来ない食品・商品から中の見えないビニ本に至るまで、それらは表面を見て撫で回すだけで決して中に踏み込むことの出来ない構造になっているために、消費者は<使用価値>の有効性を調べ確かめる手だてを掠奪されてしまうが、それゆえに<商品>は、自らの<価値>を包装し封印することによって自在に<商品価値>を増殖させることが出来るのだ。
 そういえばかなり前になるけれど、新宿あたりのセックス遊戯には<ビニール・パッケージされた女体>という商品があったように記憶する。それは、「見たい欲望」が満たされてそのうえ女体の量感が楽しめて思う存分に発情(性欲の偽造)できるけれど、決して「OMANKOをする」 対象にはならない性交を掠奪された女体というわけで、まったく戯けたその<発情システム>はすぐれた<ビニール・パッケージ>的構造により、発情させてくれた女体に「見られてする自慰行為」を「見てもらう自慰経験」へと変容させ、さらに「してもらう自慰経験=行為」へと高めて自慰行為の自己閉鎖性を掠奪し、羞恥心をくすぐる協働体験へと解放しつつ「偽造された性交(疑似セックス)」のとりあえずの快感によって、<発情システム>としての<商品価値>をさらに<快感システム>としての<商品価値>へと横滑りさせていたのだ。
 しかもそれは、国家権力によって「性器と性交」の<商品価値>を掠奪された健全なるヒトビトが、健全であればあるほどいつでも発情しているという閉塞情況で醸成した文化遺産というわけで、そこでは「いつも発情しているヒトビトは売春させなくても発情する」のだから、「いくら発情させても売春させなければいい」というヒトビトによる論理の偽造を可能にし、国家権力によって<ビニール・パッケージ>された<ヒトビトの情欲>は、ヒトビトが<ビニール・パッケージした売春(セックス遊戯)>によって<ビニール・パッケージ>仕返され、いかに国家権力の「健全思想」が猥褻であるかを露呈してしまうのだ。(この件については(5)-4を参照)
 その意味においても<ビニール・パッケージされた女体>とは、「<ビニール・パッケージ>させる国家権力」を「<ビニール・パッケージ>するヒトビト」という重層的な構造により、自分に押し付けられた体制的意味に肩透かしを食わせる誠にすぐれた「セックス商品」であったといえる。
 次に、<ビニール・パッケージ>の<物語論>的な側面から、「事件を事件報告へと掠奪」し「事件報告を事件へと偽造」する作業をみると、その機能がそのまま高度に洗練されて肉化したものに<テレビ>や様々の<マス・メディア>があることに気付くのだ。当然ここに言う「洗練された機能」とは、<誰>が<誰>を「いかなる目的」で<ビニール・パッケージ>しようとしているのかをヒトビトに気付かせないような<システム>のことであるから、それは強欲で小心的な国家権力の愚民政策によって報道管制された<閉鎖的システム>から、<ビニール・パッケージのシステム>どうしが自らの王国を築くために権威と権力をかけて競合する<開放的システム>まであるといえる。
 つまり、この<ビニール・パッケージ>という「掠奪−偽造」の戦略は、いかなる思想・理論・知見にもとづいて実践されるかが重要な課題なのであり、<ビニール・パッケージ>そのものはいかなる価値観も倫理観も持ち合わせてはいないのだ。
 したがってわれわれは、この<ビニール・パッケージ>を仏教的救済論にまで援用して語ることが出来るのだ。
 救済論を仏教者として「生きつづける」ということは、日々の反省・懴悔によって己の中にヒトビトと通底する「苦悩の根拠」を疑似的に実体化(偽造)した<煩悩>として掘り起こし、それを<仏の知慧>あるいは<般若空観>という視座の<ビニール・パッケージ>をすることにより、<煩悩>を改めて非実体的なものとして無力化(掠奪=解脱)する作業であるから、すでに生まれ生きつづけていることが逃れがたき一切皆苦である「日常」を、<ビニール・パッケージ>しつづけることこそが仏道修行であり「救済の現在形」であるはずなのだ。
 ところで<言葉>であるわれわれは、<6F>において自分を<ビニール・パッケージ>するという反省的事件を仕掛けることで、<6F>のみならず<A4>においても<文字>としての存在理由が<絵空事>的な事件報告性にすぎないことを明らかにできたわけであるから、ここではさらに<言葉>自身の持っている<ビニール・パッケージ>的構造(絵空事性)へと反省を進めそれを<意味>との関係として語ってみたいと思う。
 そこでまず、「無意味」と「沈黙」という<言葉>を見てみると、これらの<言葉>はその<意味>である「意味のないこと」「語らないこと」によって自己矛盾へと語るに落ちていることが分かる。ところが<言葉>の持つこの自己矛盾性は、これらの<言葉>を使う表現者が、「意味のないこと」「語らないこと」という<事件>を掠奪しつつ、「無意味」「沈黙」という<事件報告>を偽造する表現「行為=経験」(つまりは「事件=事件報告」)によって解決しているのだ。しかもそれは、<言葉>がとりあえず「意味するもの(記号表現)」の事件性と「意味されるもの(記号意味)」としての事件報告性という、重層的構造としてしか<言葉>たりえぬということに起因していると見なさざるをえないのだ。
 つまり<言葉>とは、「無意味」「沈黙」に限らず自らの「<意味するもの>という事件」性を掠奪されつつ、同時に「<意味されるもの>という事件報告」性を偽造するという自己矛盾によってしか何も語れないというわけで、この自己矛盾こそが<ビニール・パッケージ>的構造であるのだから、いくら不節操に偽造されつづけても一向に構わないという破廉恥で淫らな<絵空事>的体質に他ならないのだ。
 そこでいまわれわれが、あのスケッチ・ブック NO.119 の 2ページ(83.2.16) に「透明テープを貼られた<行方不明(コラージュ文字)>」を発見することは、<コラージュ>という事件報告性がその<文字>の<意味>を待つまでもなく表現者の事件性を「行方不明」にする表現行為の偽造であり、さらにその偽造行為を<ビニール・パッケージ>して事件化する<6F>の偽造は、「その日も生きつづけている表現者(享受者、発見者)」を正に「行方不明」へと掠奪してしまうという、とめどもなく「行方不明」で破廉恥な<絵空事>に遭遇したことになる。
 われわれは、あの宮川 淳が『引用論』で鏡の表面を横へ横へと滑る戯れの作業を語っていたように、<戯言><空言>にすぎぬ<A4>のワープロ用紙を束ねあたかも<書物>であるかのように装って、さらに<文字>である<言葉>で<言葉>の外に出る嫋やかな旅を進めたいと思う。

83.2.16


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3. ビニール・パッケージ論補考

 a. 天皇教と日本国憲法のビニール・パッケージ


 ここでは『日本の政治宗教/天皇制とヤスクニ』(宮田光雄著) をテクストとして、方法論としての<ビニール・パッケージ>を試みたいと思う。
 まず天皇教を日本国憲法によって<ビニール・パッケージ>すれば、天皇教は《元号法制化》により日本国憲法の《国民主権》の理念を掠奪して天皇《元首》化の偽造を企み、さらに《靖国国営化》により日本国憲法の《信教の自由》を掠奪して《国家神道》の偽造を企んでいるといえる。
 それに対して、日本国憲法を天皇教によって<ビニール・パッケージ>すれば、日本国憲法は《元号法制化》したとはいうものの《国民主権》により天皇の《元首》性を掠奪して天皇《象徴》化を偽造し、さらに《信教の自由》により天皇教の《国家神道》性を掠奪して《政教分離》《精神的自由》を偽造しているといえる。
 そこでわれわれは日本国憲法を平和憲法として位置づけ、これを擁護すべきだという立場から天皇教を<ビニール・パッケージ>していくことにしたい。
 神社神道において天皇とは、神統記的《万世一系》の思想により天皇霊が宿る現人神とされる。しかし、現代日本において国民統合の中心にあるのは日本国憲法であり、天皇は国民統合の《象徴》であるにすぎない。
 もし天皇が、この国民統合の象徴であることをやめ国家元首化するならば、国民主権の原理は崩壊してしまう。まして天皇の国家元首化とは、宗教的カリスマを政治的カリスマへと仕立てあげることであるから、天皇制国家とは、信教の自由を破棄して天皇とその国家のために、政治的宗教的な国民的献身としての生命の犠牲までを求めうる権能を持つことになる。
 それは、天皇と国家のために滅私奉公させられ戦死した《日本帝国臣民》が、《英霊》として靖国神社に祠られ、天皇に礼拝されるのを日本人としての最高の栄誉とする思想へとつながる。その意味において、靖国神社は、近代日本の軍国主義における精神的支柱とされた。
 しかし、この靖国神社国営化を《国民道徳》とみなすならば、この国民道徳とは、軍人以外の戦争被災者、及び中国・朝鮮・韓国・東南アジア諸国の植民地化され皇民化運動で戦場に狩り出されて負傷し戦死したヒトビトを排斥したところで語られ、しかもこれらのヒトビトや国々から掠奪した精神的な物質的な損傷・被害に対する謝罪・保障すら「うやむや」にしてしまおうと言うのだから、結局は異端排除、民族差別という血縁的・地縁的な自己完結性への民族閉鎖的な偏見と通底しているわけで、それは平和憲法たる日本国憲法の下における《国民道徳》たりえない。
 つまり靖国国営化とは、たとえ《超宗教的》な《国民儀礼》としての《神道非宗教》=《国教》とする《日本神学》によって正当化しようとしても、《日本神学》=《天皇教》であるかぎり日本国憲法の侵害を免れえないし、まして国民道徳たりえないというわけで、それは、明治以来の富国強兵政策のために捏造された《日本神学》と、それによって愚民化されてきたヒトビトの貧困な権力信仰という精神風土を利用し、天皇という権威によって日本国憲法の改悪を改正と言い繕い国家権力を神格化しようとする政府・自民党、あるいは欲ぼけた神社神道・天皇教徒の企みであるにすぎないのだ。だから《神格天皇》と《英霊崇拝》の目的とするものが、軍国主義の精神的支柱を復活させることでしかないことを見定めるならば、そこには日本国憲法の《戦争放棄》の理念を破棄し、新たなる戦死者を想定する国家と天皇教徒の野望が潜んでいることを糾弾しておかなければならない。
しかも、この日本的権力信仰という閉鎖的で貧困な精神風土は、ヒトビトが立身出世のためにまで国民的献身の名の下に《忠誠競争》を強要しあう圧力を生み、国家による《思想弾圧》を許すものとなる。
 したがってわれわれは、自らの精神的自由ために日本国憲法に保証された《信教の自由》を守り、政治による国家運営を世俗的営為と見定め、個人の《良心の自由》にかかわる真・善・美・聖・愛という普遍的価値を勝義のものとして、《政教分離》の国家観に目覚めていなければならない。


  b. 英霊崇拝をビニール・パッケージする

 われわれは、改めて<英霊崇拝>の欺瞞的構造を<絵空事>的知見で<ビニール・パッケージ>しておかなければならない。
 まず天皇教に対して絵空事的知による<ビニール・パッケージ>を試みるならば、天皇教は<神格天皇><英霊崇拝>により、絵空事的知にいう<霊的呪縛からの解放=開放>を掠奪してヒトビトの<死生観に至るまでの皇民化>を偽造し、さらにその国教論により絵空事的知の<無差別平等の思想>を掠奪して<万世一系的皇国の差別的権力信仰>を偽造する。
 かつて<天皇制国家=日本帝国>は、大東亜共栄圏論とか<八紘一宇>のスローガンにより、西欧帝国主義に対する<聖戦>の名の下に、帝国臣民と呼ばれたヒトビトの<国民的献身>と大東亜共栄圏と呼ばれた国々の<自由・尊厳・生命・財産>を掠奪して、侵略軍にすぎない日本帝国軍隊を神聖なる<皇軍>として偽造した。
 その日本帝国軍隊は<皇軍>と名乗ることにより、皇軍軍人になることは帝国臣民に与えられた平等の権利であり、むしろ栄誉ある滅私奉公の機会であるとして素朴なるヒトビトの<国民的献身>を煽って<徴兵制>を捏造した。しかも日本帝国軍隊は、<天皇の統帥権>という最高の権威により「上官の命令は朕の命令」というテーゼを生み、下級兵士の<命令に対する服従拒否>を掠奪し、上級者の私的制裁が営内秩序を形成するに至り、結局は<命令権者の私兵化>を偽造することになる。
 すると「軍隊の観念構造は国家の思想を最も鋭く表現する」(『近代日本思想史の基礎知識』 P.477) と言われるように、軍隊が勝利に酔っていた明治帝国の国際法尊重の立場が、軍部の思い上がりや脆弱な国家ゆえの経済の疲弊などにより、しだいに大東亜共栄圏構想による侵略戦争へと堕落してしまえば、軍隊は無計画・無目的なる大量虐殺をするほどに内部腐敗し、国家は国民の屍と焦土の上に尚且つ不滅の皇国を確信する権力者と天皇教徒の妄想によって虚構化され無力化されてしまう。
 ここで皇軍と呼ばれたまま侵略者に成り下がってしまう兵士たちは、命令の絶対服従者という<手兵=人形>のまま個人としての「良心の自由と生命」を掠奪されて、戦死者は靖国神社に祠られ<英霊>へと偽造される。
 ところが、<英霊>とは天皇教的霊魂観による呪縛であるから、そこで<英霊>とされた兵士たちの<不成就性の霊的欲望>とは、天皇制国家によって掠奪された個人としての「良心の自由への念い」と言わざるをえず、ここで<英霊崇拝>の持つ意味は、「荒ぶる悲しみと裏切られた献身への怒りによって<良心の自由>などには目覚めないでください!!」という欺瞞に満ちた鎮魂でしかないのだ。とすれば、個人としての<良心の自由>こそを保証する日本国憲法の下において、<靖国国営化>の目指すものがどうして<国民儀礼>たりえようか。
 それゆえにわれわれは、戦死者に対する国家の<靖国国営化>という欺瞞の野望を解体し、<英霊>と呼ばれた兵士たちの「無念の悲しみ」を天皇と国家から取り返し、すべての戦没者とともに国民ひとりひとりが自らの手で、あるいはあらゆる宗教者たちがそれぞれの方法で慰霊し供養して、彼らの不成就性の念いである「無念の悲しみ」こそを<解放=開放>し、彼らの遺志を継いでわれわれこそが個人としての<良心の自由>を体現しなければならないと言える。そしてそのときに、国家が政治の問題として関与しうることは、すべての戦争被災者に対する世俗的な保障問題であるにすぎないのだ。
 もしも、われわれがそれを為しえないとするならば、あらゆる戦争被災者の霊的存在理由を天皇教的霊魂観に呪縛された「滅私奉公による自己完結」として錯認する過ちを犯し、再び天皇と国家によるヒトビトの<良心の自由>の掠奪を許すことになってしまう。そもそも、「滅私奉公による自己完結」とは、国家が閉鎖的な全体主義であるときに「個人の良心の自由」を掠奪することによってしか偽造しえないのだから、国家が開放的な個人主義を保証しているかぎり、誰も他者に対して「滅私奉公による自己完結」など強要することは出来ない。したがって開放的な個人主義において、もしも「滅私奉公」を言うとするならば、それは「個人の良心の自由による自己完結」という個人の問題としてのみなのだ。
 とにかくここで、われわれが<天皇教>と<英霊崇拝>を<ビニール・パッケージ>して言いうることは、国民ひとりひとりが<神聖国家>などという幻想への権力信仰から早く目覚め、<国民主権>の理念を体現するヒトビトとして自らの常識・文化・制度を偽善的な権力者から守るために、あるいはそのような暴力者の増長を許さぬために、社会への不断の反省的視座を持ちつづけなければならないということなのだ。

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