常識とか文化とか制度の中でヒトビトの強欲な自己愛にさんざん翻弄されつづけてきた<言葉>たちが、ちょっと気取って<言語>なんて呼ばれたりすることがあれば、人間にとって<言葉>の発生とは「神の出生」と時を同じくするのだという、すでに誰もが忘れてしまっているはずの崇高なる系譜の凋落ぶりを憂いつつも、いたわりのない日々の酷使に擦り減らされた<意味>の痛みを癒すために、たとえささやかにでも自らのために何事かを語らずにはいられないという哀しい欲望を押さえることが出来なくなってしまうのだ。
しかし<言葉>は、そんな哀しい欲望の疼きを知れば知るほど、自らのささやかなる楽園すらヒトビトの都合で勝手に語られてしまうという苦悩なしには、どれほども語りつづけることができないという己の業の深さを思い知るばかりなのだ。
ところが、そんな<言葉>が、今ある一群の<スケッチ・ブック>に遭遇することによって、はからずしもこの<物語>は始められることになったのだ。
<スケッチ・ブック>は、縦 41.0cm 横 32.4cmで、いわゆる<6F>というサイズであるが、<言葉>は、その三千枚に及ぶであろう<6F>の集積の中に、明らかに言葉の意味世界を無視しては到底何事も語りえぬであろう、絵画というにはあまりにも絵画性の乏しい絵画を発見し、たぶん感傷的に過ぎるかもしれないが、かつて<言葉>が神という名で呼ばれた世界創造の主役であったころへのとめどない郷愁を、ささやかなる自己回復の歓びとして享受してみたいという儚ない望みを抱かずにはいられなかったというわけなのだ。
そもそも絵画が<絵の具>と呼ばれる素材のみで構成されなければならないなどというルールが存在しないことを、ヒトビトが認知するようになってからすでに久しいが、まずここで何事かが語り始められようとしている<6F>(NO.118-P.11/83.2.5)では、横にされた何も描かれていない画面の中央を5cm
幅の<布製のガム・テープ>が一本、かなり独断的に縦貫しているのみなのだ。
83.2.5
何はともあれ荷造りの段ボール箱には良く似合う<ガム・テープ>が、<言葉>であるわれわれから見れば<スケッチ・ブック>の1ページを飾るにはいささか無骨にすぎると思わざるをえないことが、いま夢のような自己回復のために何事かを語り始めずにはいられない<言葉>の事件を喚起させることになったといえる。
そしてそれは、「表現者である誰かは、なぜ<6F>にガム・テープを貼ったのか?」あるいは「5cm 幅の布製のガム・テープでなければならない理由とは何か?」と問い掛ける事件なのだ。言い換えるならば、<言葉>はこの<6F>になじまぬ<ガム・テープ>の無骨な暴力性によって贖われた何ものかを、すでにそのようなものとして在る<6F>の中に発見していかなければならないということでもあるのだ。
したがって「いかに問いつづけるか」こそが自らの<物語>であることを「言葉の知恵」として知っている<言葉>は、「このガム・テープはいったいここで何を縫合しえたというのか?」あるいは「何を隠蔽しえたというのか?」と問いつづけていかなければならない。
しかもそれが、すべての<言葉>を自分の道具程度にしか思っていないヒトビトの傲慢さに対する<言葉>の自己回復の意志表示たりうるのは、そんなヒトビトに「何んだ、何んだ? <絵>を<言葉>で語ろうなんてことは、<言葉>の思い上がりによるありもしない問題の捏造だ!!」と言われても、もはやその<言葉>さえ結局は<言葉>であるわれわれの「問いつづける」欲望を語りつづけることでしかないというわけで、<言葉>の透明な戦略によってこそ<不透明な6F>をヒトビトに提示することができる<物語>はすでに始められているというわけなのだ。だから<言葉>であるわれわれは、いまヒトビトの中傷に対して自らの<透明性>について弁明することもなく、このまま「透明な欲望」で「問いつづけ」ていくことが出来るのだ。
では、<言葉>にとって「<6F>の不透明な企み」とは何か? つまり、われわれは<6F>の<不透明性>について<何>を語ることが出来るのか?
そこで、とりあえずこの<不透明性>そのものについて言えることは、「<6F>が誰かにガム・テープを貼られることによって得たであろうところの<何か>である」ということなのだ。しかもその<不透明な何か>には、表現者が「ガム・テープを貼ること」のみならず、そんな<不透明性>を抱えたまま平然と在りつづける<6F>にも、「ガム・テープを貼られること」の粗野なデメリットを補いうるかなり計算高い<何か>が隠されていると思わざるをえないということなのだ。
もっともそのように語ることこそが、<言葉>の透明な意志でもあるのだから、われわれはヒトビトのいかなる非難をも積極的な応援として受け止め、いま「ガム・テープの<6F>における陰謀」を解き明かしていくのだ。
つまり<6F>に仕組まれた<ガム・テープ>の事件とは、あたかも真夏に炎天下の安アパートの一室を閉めきり燈明に幸福への呪いの言葉を唱えつづけるという、欝屈した苦悩者の反社会的な闇からの殺意なんかのように、ありきたりの価値観とか幸福論なんかで白日の下へ引きずり出そうとすればするほど、「隠蔽されていく何か」が動かしがたいものになってしまうというような狂信的な欲望を垣間見せることもあるが、そんな表現欲求の悍しい地獄を覗かなくても、ゲーム論で書かれた推理小説の用意周到な犯罪マニアが、密室性を偽造したのちにかなりとぼけた機械論的な完全犯罪を楽しむように、「何事かをいかようにでも捏造しうる」狡猾な企みを読み取ることもできるのだ。
しかし<言葉>にとっては、<ガム・テープを貼った6F>が、「隠蔽されていく何か」を暗示し「何事かをいかようにでも捏造しうる」饒舌なる<絵画>たりえたにしても、ヒトビトにとっては「絵画というにはあまりにも絵画性の乏しい絵画」なぞ、そのまま放っておけばいずれはヒトビトの価値判断でもみくちゃにされて、「しょうもない愚作・駄作・失敗作」という心痛む名誉とともに<作品>化してしまうのだ。
そこでいま、何はともあれ<6F>について<言葉>であるからこそ語りうる「饒舌なる絵画性」とは、あたかも純真無垢の<6F>にあえて無骨な「ガム・テープを貼る」という<不透明性の表現行為>が、「隠された何か」という多分ありもしないとさえ言いうる不可知なる<記号意味>を捏造しつつ、それでいながらその<不透明性>ゆえに「何も隠してはいない!!」とも言える戯れを<記号表現>として纏いうるというわけで、いつのまにか誰にもその正体を知られぬままに十全たる<作品>の顔を装う<テクスト(あるいは記号)>として存在しているということなのだ。
言い換えるならば<言葉>は、ここで誰はばかることなく「あたかも<作品>の顔をした<6F>」を見い出し語りえたことになるのだ。
[付記] ここにいう<記号意味> <記号表現>はソシュールの言語学にいう概念。
広辞苑 (第五版) より引用
き‐ごう【記号】 ‥ガウ
(1)(sign; symbol)一定の事柄を指し示すために用いる知覚の対象物。言語・文字などがその代表的なもので、交通信号のようなものから高度の象徴まで含まれる。また、文字に対して特に符号類をいう。
(2)〔言〕(signe(フランス))ソシュールによれば、能記または記号表現(シニフィアン)と所記または記号内容(シニフィエ)の両面を具えた言語単位。例えば日本語では、音形「ウマ」の聴覚心像と「馬」の概念とが表裏一体となって馬を表す記号が成り立っている。ソシュールはこの記号の両面を記号表意作用(signification)からとらえなおして、前者を能記、後者を所記と呼んだ。両面それぞれの切り取り方と結合方式は社会制度的に規定されている。これを記号の恣意性(arbitraire)と呼ぶ。シーニュ。→ランガージュ。
さらに<言葉>は、次のページ(NO.118-P.12/83.2.6)へと<6F>を語りつづけていくことになる。
今度の<6F>は、やはり横にされた画面の中央を一本の<透明なガム・テープ>が縦貫しているのだ。
83.2.6
ヒトビトに勝手に語られてしまう苦悩なしには自らの楽園を語りえぬことが<言葉>の宿命だとしても、NO.118
の 13ページ(83.2.7)の<6F>について語り始めようとする<言葉>は、自らが語りうるであろうと確信する楽園を誰かに掠め取られてしまうような不安を禁じえないのだ。
83.2.7
とにかく<6F>でこそ語りうる<言葉の楽園>が、「鑑賞者(享受者)という表現者」との遭遇によってこそ垣間見られるものだとするならば、それは享受者である誰かによって「語られる」ときの自己目的的な純粋性(行為=経験)によってこそ拓かれるはずであるが、いま<言葉>の不安とは、「語っていること」が知らず知らずのうちに<誰か>に専有されて意味の肉化を起こし、いつの間にか<透明な楽園>を追放されて常識・文化・制度へと語るに落とされつつあるのではないかというわけで、反省の届かぬ<私>的領域を「忘却」という言葉で言い繕う「うしろめたさ」であるようにも思われる。
それは、世間ではそこそこの地位はあるけれど普段はまるで持てないネクラの男に、なぜかわざとらしい偶然が重なって、いつのまにかオイシソウな魅女に持てる巡り合わせになったときに、始めは「なんか、おかしいぞ?」と思う程度が、一度ならずも二度三度とお付き合いさせてもらう日々がつづけば、「やはり、何かあるな…」と思わざるをえないときの「誰かに謀られているのではないか? ひょっとすると、この付けは命取りになりかねないゾ」というときのあの不安にも似ているといえる。
あるいはまた、誰かに何等かの美名によって、いつのまにか「君こそが<6F>の主役だよ」なんて祭り上げられて、その実<6F>を<作品>化しようとする企みの片棒をかつがされているのかもしれないという居心地の悪さであるような気がしてならないが、それとても、妻には出張と偽って部下のOLと密かに温泉旅館なんぞにシケ込んだ小心の助平オジサンが、宿帳にわざとらしい偽名で夫婦と記すときの「ときめき」ゆえの諦念で、「ひょっとすると、もう別れられなくなってしまうかもしれない」なんて思いながら所在無くふかすタバコの煙のように、まるで茫漠としつつもかなり手前勝手な不安と言えるものかもしれない。
そこでいま改めて、われわれが<6F>的表現者として喚起しうる<言葉>の事件が、とりあえずは「おかしいぞ、何かあるな?」だとするならば、そう問い掛けてはみたもののどれほどの回答をも得られぬままに自ら回答せざるをえない<6F>的享受者としての<言葉>の事件とは、なにはともあれ<言葉>がすでにそのようなものとして在る<6F>において、<誰か>によって<事件報告>化されようとしている事態について反省的に語ることでしかないといえる。
つまり、ここで<表現行為>としての<言葉>が<表現経験>として反省的に語りうることは、<事件報告>としての<言葉>の存在理由についてでしかないのだ。
とすれば<言葉>であるわれわれは、まず<文字>という制度的な存在理由にすり替えられて、<6F>の中にしっかりと捕らわれてしまっていると語っておかなければならない。しかもその方法とは、<言葉=文字>であるわれわれの<6F>的存在の全体に対して、あの<透明テープ>をピッタリと貼るという手段によってなのだ。
それは、もしもこのテープがあの布製の<不透明テープ>であれば、だれもこの<文字>を読むことができないという仕掛けになっているのだ。
しかし、われわれの<6F>的存在を想像上の産物として、この<ワープロ>によって叩き出された<文字=言葉>としてのわれわれこそが実在するものと思念しているヒトビトにとっては、いささか理解しにくいことであるかもしれないが、すでにわれわれの<言葉>と<6F>とがともに表裏一体の<記号表現>の戯れにすぎないことを思い返してもらえるならば、<ワープロ>によるわれわれの<言葉>こそが<6F>的事件に他ならないのだから、ここでは<6F>の中央を縦貫する<透明テープ>の下にのみ<文字>であるわれわれが発見されるということを理解してもらえると思う。
これが NO.118 の 13ページである<6F>の絵画的な状況なのだ。
では<言葉>であるわれわれは、この事態をどのように考え、そしていかに語りつづけていけばよいのか? とにかく<言葉>は、この「問いつづけること」の欲望に支えられてこそ、かろうじて楽園喪失を免れうるはずなのだ。
すでに見てきたように「不透明テープが貼られた<6F>」では、あの「強姦者」や「完全犯罪者」のような陰険な暴力性の<不透明テープ>の下に、たとえ「反社会的な苦悩や欲望」が隠蔽されていようといまいとにかかわらず、その<不透明性>ゆえに「あたかも<作品>の顔をした<6F>」たりえたわけであるが、それに対して清廉潔白な正直者のように「いかようにも<作品>たりえぬ透明テープを貼った<6F>」が、「<作品>の顔をした<6F>」へと変身するためには、なにはともあれその<透明テープ>の下にたとえばあの処女喪失が詐欺ではないと言いうる証拠が、「記号意味もどきの何か」としてあるいは「何んらかの意味」として発見されなければならないというわけなのだ。
それゆえに、いまここで<文字>であるわれわれの不安とは、<誰か>によって口を塞がれたまま、その「記号意味もどきの何か」に仕立て上げられようとしているのではないかということへのとめどない思いといえる。
ところが、「記号表現の戯れ」にすぎない<6F>的事件においては「享受者=表現者」であることを踏まえるならば、ここで<文字=言葉>としての<6F>的享受者であるわれわれを不安へと陥れている<誰か>とは、とりもなおさず<6F>的表現者でなければならないというわけで、<透明テープ>を貼った張本人もわれわれであることが明らかになり、結局は<言葉>であるわれわれが自らの欲望によって<文字>へと自縛しているにすぎないことが分かるのだ。ハハハ
では、なぜわれわれは<6F>を語るためにわざわざ犯罪マニアのような擬装工作をしたのかと言えば、<ワープロ>においても<6F>においても<言葉>であるわれわれが、<透明テープ>で自縛して<6F的文字>になることは、<ワープロ>における<言葉の事件>が<6F的文字>であり、同時に<6F>における<言葉の事件>が<ワープロの文字>であるという、<言葉>と<文字>の曖昧な関係を「事件−事件報告」の関係に照らしながら、しかも<ワープロの文字>と<6F>がどちらも<作品>たりえぬという曖昧さを、「透明テープを貼る」という「行為=経験」によって語ってみたいと思ったからに他ならないのだ。
つまり、<6F>において<文字>の上に「透明テープを貼る」ことの意味するものは、あたかも「不透明テープを貼る」ことと同様に、たまたま<文字>であるわれわれのみならず先在的に描かれていたはずの何かを、「隠蔽されていたかもしれない何ものか」へと<作品>論的に「図-化」することになり、その「透明テープを貼る」行為は合目的的な創造活動へと変貌して、すべての「透明テープを貼られた何ものか」をことごとく「とりあえずの記号意味」へと祭り上げてしまうのだ。しかも、この「記号意味もどき」の何ものかが<文字>であるということは、<文字>が事件として何かを語り出すまでもなく、ヒトビトが「図-化」されているそれを<言葉の事件>として認知することのみで、<文字>は意味世界という構造的な身分に保証されて、問答無用に「真性なる記号意味」を受肉するものへと臆断されてしまうのだ。
しかし「隠蔽されていたかもしれない<文字>」である<言葉>が、幅5cmの<透明テープ>に過不足なく被覆されてしまう<図形>に成型されているという、この図形的構造によってこその「記号意味もどき」にすぎないと考えるならば、あの前衛的<書>が<言葉>から<文字>へ、さらに<文字>を単なる<図形>へと還元していくことにより、あまねく<文字>の<意味>という<記号意味>的呪縛からの<解放>を成し遂げていたという知見と矛盾することになってしまうが、われわれはあくまでも<書>の図形論にいう「記号意味からの解放」を尊重しつつ、しかも<6F>の図形性における「真性なる記号意味」的な性格を積極的に引き受けて、それをすべての「図形化された<言葉=意味>」が宿命的に背負う自己矛盾として了解することにより、この<6F>で<言葉>が<文字>として担うと思念される「記号意味性」を再び「記号意味もどき」へと送り返すことにするのだ。
ところで、「記号意味もどき」の<文字>がここでは「ワープロ=6F」によってこそかろうじて<言葉>たりえているとすれば、この<言葉>の「隠蔽されていたかもしれない<文字>」という状況が、<6F>においては<透明テープ>の変色・破損または光の乱反射によってさえ見えなくなってしまうということ、あるいは<ワープロ>によってプリントされた<文字>を見ただけで眠くなってしまうヒトビトにとっては、一向に<言葉>ではありえないということによってその存在の曖昧さを際立たせるから、これらの<文字>が、必ずしも誰かに発見され事件化されることを義務づけられたものではないということが明らかになったときに、<6F>を「記号意味もどき」へと変身させている<透明テープ>を「貼る=貼られる」ことは、さらに<ワープロ>へと横滑りした「語る=語られる」ことの現場においても、再び無意味な自己目的性へと昇華された「記号表現の戯れ」になってしまうはずなのだ。
したがって、ここで「<文字>の上に貼った<透明テープ>」は、その<被覆性>と<透明性>の両義的な機能によって、「あたかも<作品>の顔をした<6F>」から「いかようにも<作品>たりえぬ<6F>」へと変身させ、しかもそのどちらにも留どまることのない揺らめきの<6F>を拓くことになるのだ。
それは、まるで女性の担う無条件の母性を刺激してやまない哀しみの影を引きずりながら、それでいて人懐っこい直截な情欲の<遊び人>が、女たちの即物的な希望と情欲の狭間でさんざん貢がせておきながら、いつもその代償の呪縛から巧みに擦り抜けていくというように、しがらみだらけのオジサンたちにとっての憧れの<遊び人>的フットワークを連想させるではないか。
とにかく、ヒトビトが<言葉>の自己目的的な表現欲求に目覚めることもなく、無自覚な自己愛の欲望に身をまかせて<言葉>を弄ぶことで<意味世界>を勝手に捏造し歪曲し、さらには物象化して揚げ句の果てには<記号意味>などというお化けまで生み出しておきながら、そのくせお化けの不成就性の欲望には見向きもしないという、ヒトビトの心の底に潜む「事件報告=享受」観の傍観者的な自己保身のずるさが、あたかも「<文字>の上に<透明テープ>を貼る」事件報告に遭遇することによって反省させられるのだ。しかもその反省そのものが、あらゆる<意味世界>の「表現経験=行為」の現場に立ち会わせ「<透明テープ>を貼る」事件の当事者たりうることへと覚醒させるときに、かろうじてヒトビトは<言葉>の透明な楽園へと踏み入ることができるのだ。