「 何 っ て 何!? 」

“ことばの何景”


プロローグ

 たとえば下町の路地裏の賃貸マンションなんかで、夜更けどきになればなるほど眠れないひとり暮らしの淋しがり屋が、ガキのころからの水商売なんかですっかり演歌が身についたさすらい人ならば、とりあえずはその日一日分の傷ついた心とやらを小脇にかかえ、今さらどこへ流れたってどうせこの界隈じゃ強欲なぶりっ娘ホステスにしかめぐり逢えないと知りつつも、きょうもまたやるせない人恋しさにネオンの巷をさまよわずにはいられないなんていう、まるで自転車操業としか言いようのない哀しい<遊び人>の生活なんかがある。
 ところがこの<遊び人>とて、行く先々で高い金をふんだくられてホステス嬢のご機嫌をとりむすび、それで遊んだ気にさせられて放り出される日々がつづけば、よほどヤクザな稼業でキワドイ金でもつかまないかぎり、自分で思うほどの<遊び人>には成り切れないというわけで、いつも「遊ばれて遊びきれない遊び人」は堅気という名のヒトビトがどんなに眉をひそめようとも、かなり惨めで辛い人生と言わなければならない。
 しかしわれわれに言わせれば、好き好んで辛い人生を生きているのはなにも<遊び人>に限ったことではなく、立身出世なんていう己の幻想のために働かされて自らの歓びのためにはなかなか働きえないすべての労働者は、まるでヤクザな<遊び人>と同じ構造の苦しみを背負っているというわけで、「私は私でありつづけたい」なんて思念しているヒトビトを見わたせば、結局は何事もままならないというのがこの世の常なのだ。
 そんなわけで、これから何事かを語り始めようかと思っているこの<言葉>でさえ、「とりあえずの表現者」のみならず勝手に自分の言葉として語ってくれる誰かがいなければ、インクの染みにすぎない<文字>は何も語りえないのだから、「遊ぶこと」も「働くこと」も「語ること」もそれぞれが思い通りにはいかない自己矛盾といった苦悩なしには何事もなしえないというわけで、ままならぬ世間では<私>という欲を通そうとすれば何をしても苦悩でないものはなく、たとえ苦悩克服を目指したとしてもすでにそのこと自体が苦悩なしには実現しえないということなのだ。
 したがって、もはや苦悩でないものが何もないときに、いまわれわれに一番楽しいと思われることがこの「苦悩」こそをいじめぬいてやることだとすれば、ここで何事かを語り始めようとしている「とりあえずの表現者」の「表現者」でなければならないことの苦悩克服について、われわれは「戯けた言葉」を語りつづけていくことができるのだ。



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