第六章



別れられないのに別れたいと言ってしまう僕〜A



 ハハハ、だいぶ応えてるようね…。

 ——ああ…、カッ、カミサマ…、ぼっ、僕に、せめて真性インポテンツとしての安らぎをお与えください!! もう…、もう僕は、満足な食事も与えられずに、なっ、なんと八時間に及ぶ地獄の拷問に耐えているのです。たっ、助けて…。

 なによ!? せっかくの休みなんだから、いいでしょ? 
 そもそもねえ、八時間っていうのは、情夫の労働として考えてみたって、いたって全うな条件というべきじゃないの? 
 まあ、それにしても、あなたの疑似インポテンツって、突き上げるだけの愚直な絶倫男や、遅漏症なんていう機能不全のおごり高ぶった冗談よりは、ずうっと中身が濃くて良かったわよ、ホント…。
 とにかく、己の屈辱感を贖うための必死の愛撫作戦、これこそは愛の戦場における涙ぐましい美談と言わざるをえない。でもねえ、あなたって、どこでレズみたいな技巧を身に付けたの? このぶんなら、男根なしで十分にやっていけそうじゃないの、ハハハ。 
 何はともあれ、英雄インポテンツ殿、本日はこれにて休戦にいたす。ああ…、それにしても、やっぱり疲れたわ…。

 ——ふむ…、しっかし、君の欲情しつづけるパワーは、正に狂える大地母神ってところだな…。ま、それにしても、この神懸かった淫乱が相手じゃ、もともと勝ち目はないのだ。かつて、この戦場より生きて帰還したものの話しは聞かないからねえ…。

 大地母神? そうすると、あたしは、単に<荒ぶる自然>であればいいってわけにはいかないってことね?

 ——ん? どうして…。君は、誰はばかることなく十二分に大自然的淫乱ですよ。

 あなたねえ、荒ぶる自然的欲情が欲情によって<地母神>と呼ばれるためには、何よりもあなたたちのような<呪われた英雄>を必要とするんだから、<発情させる神々>は限りなく魅力的でなければならないってわけじゃない? 
 とすれば、やはり永遠の若さと美貌こそが望まれるってことよね…。ふむ、そうしてみると、やはり青春を浪費しすぎてるかもね、ハハハ。

 ——きっ、君ねえ、君こそ自己認識が甘いんじゃないの? 君のような魑魅魍魎のたぐいはだねえ、男の生き血を飲みつづける限り永劫に妖艶な姿を留どめるもんさ。
 そんなことよりもねえ、君が<荒ぶる地母神>として永劫の生命力を享受したいと願っているならばね、何よりも今ここで、とりあえずはこの僕という傷だらけの英雄に食事を与え、これを生かしつづけなければならない、どお? 

 ハハン、でも、さっきの口ぶりじゃ、ギブアップのあなたは、もうこのまま骸となって大地に帰り、あたしの美貌の糧になってしまいたいって雰囲気だったんじゃないの? 
やっぱり、どんな責め苦にあってでも、生きていたいってわけね。

 ——むむっ、とっ、とにかく、朽ち果てる前に、たらふく飯を食っておきたいのじゃ!! 
 ハハハ、了解。
 まあ、死出の旅路に腹ごしらをするってことは、死に至る苦しみを長引かせるだけだっていうけど、あなたも、いよいよ絶望の修羅場で生きる愛の戦士ってわけなのね。
 そんじゃ、まあ、呪われたインポテのために、金をかけて手をかけぬことにしましょう。本日のメニューは、火あぶりにされた牛の屍、そして飲み物は、冷蔵庫に澱む血の色のワイン、もしも哀れな牛が、死の直前に食いそびれた牧草があるとすれば、われわれはその不成就性の食欲のために、哀悼の念いを込めてサラダを供する。で、ご飯がいいの、パンがいいの? 

 ——ん、インスタントでもいいから、オニグラをつけてくれるなら、パン。ただし、フランス・パンがかすかすなら、食パンのガーリック・トーストにして欲しい。

 はいはい。で、火あぶりの楽しみは、いつものマスタード・ソースでいいの? 

 ——ああ。だけどさ、これから買い出しに行くのかい? 

 ううん。心配御無用!! 用意周到ってところね。

 ——ふうん、するってえと、本日のささやかなる贅沢は、予定のコースってことか? 

 あら、なにも無条件であなたが優遇されるわけじゃないのよ。もしも情夫の責任を果たしていなければ、当然ながら、カップ・ラーメンってわけね。

 ——ということは、僕が、いまだインポテと知りながら、地獄の責め苦を計画していたってわけかい? おおっお、なんて悍しき淫乱の企み!! 

 つべこべ言わないの!! たとえインポテだろうと、これくらいの肉体労働は、遊び人のあなたにとっちゃ美容と健康のためにも、望まれるべくして与えられた絶好のチャンスじゃないの? 

 ——だけどさ、君のむちゃくちゃなしごきがだね、僕のインポテを回復不能にしてしまうことだって有り得るじゃないか? ほら、この憔悴しきった様子を見ると、なんか不安だなあ? ステーキぐらいじゃ起死回生は望めそうにないよ…。

 なによ、そんなこと心配しなくったって、大丈夫だって…。
 あなたがねえ、今日のような情熱を維持できるなら、その呪われたペニスなんかなくたって、なんとかやってけるわよ、あたしが保証してあげるって…。そうか、だったら、その煩わしいペニスなんか切り落としてさ、いっそシチューにでもしようか、ハハハ。 

 ——ウオオッ、とっ、とんでもない!! いくら破滅に向かう日々だからって言ったって、なにも自分から好き好んで夢も希望も捨ててしまう理由はないのだ。

 それにしても、どうして、見込み違いなんかしちゃったのかしら…。
 そもそもあなたの疑似インポテンツっていうのは、あの<夢物語>で「〜したい」あなたの不成就性によってこそ誘発された不用意な陥穽だとにらんでたのよねえ…。だからこそ、あなたの無自覚なる自己欺瞞を暴露してあげることで、あなたは<夢>から醒めた「〜したい」欲求不満の<物語的人格>として、あのギンギン的絶倫男を回復する段取りだったのよ。そしてステーキは、ひたすらそれを待ち望んでいた!! 
 ところが、ところが、なぜかあなたは、あのギンギン男に戻らなかったにもかかわらず、情夫の責任を十二分に果たしてしまったってわけなのよね。

 ——んん? すると何かい? 君は以前から僕を<劇中作家>として自立させるために存在しているなんて言っていたのにさ、何のことはない自分の欲情を満足させるために僕を利用していたにすぎないんじゃないか? そんなこととは知らない僕はさ、君にまんまとだまされて、ついには「書いてはいけないもの」を「書いてしまう」罪にまで貶められていたってわけなんだろう?

 今さら何よ、あたしの愛に隷属する情夫としての自覚こそが、<劇中作家>としての自立を保証してくれるんじゃなかったの? まして「書いてはいけないもの」を「書いてしまった」あなたは、その自己欺瞞によってこそ救済から見放された<表現者>として、地獄の一丁目に住まう<芸術家>たりうるんじゃないの? そして何よりもその堕落しつづける愛欲のためにギンギン的人格を回復したかったんじゃないの? 

 ——んん…、まあ…。

 でも、どうしてペニス不在の情夫になんかなっちゃったのかしらねえ? 

 ——そんなことは、すでに明白じゃないか、僕の責任感と<優しさ>以外に何があるっていうの? これこそがひたすらなる隷属関係を支えてきたんですよ、でしょ? 

 もう、すっかり惚けちゃってさあ…。あたしが言ってるのは、その疑似インポテンツの原因についてにきまってるでしょ? 
 ははあん、あなたは、いつの間にか<夢物語>への哀悼の辞を「書かされてしまった」ことを、まだ根に持ってるってわけね。正に、この根っこに…、ハハハ。

 ——そ、そりゃまあ、根っこだって生きものですよ、プライドも糞もない隷属関係に、機嫌を損ねたり腹を立てることぐらいはありますよ。

 ふうん、でも、その腹立ちにもかかわらず立ちえぬ男根ってことは、そんな念いを癒えることのない<堕落した表現者>の痛みに擦り替えて、そのままマゾ的な自虐的快感へと昇華させてしまったってことなの?

 ——ウヌ…、何んとでも言ってくれ。今さら君を呪っても<救世主>たりえぬ僕としては、癒されることのない痛みの中で、ひとり<神>の救済を信ずるしかないのだ。それゆえに、いま哀しみの男根のみならず、生きつづけることの辛さと痛みを噛み締めたい食欲のために、せめて、せめていま、冷たいワインを与えてほしい!! 

 ねえ、もしもこのまま疑似インポテンツがつづくとすれば、あたしの愛に隷属するあなたは、もはや勃起することもなく垂れ流しの精液の中で、ひとり法悦に浸ってしまうってことになっちゃうのかしら? そうすると、かつて痛みの快感によってこそギンギンたりえたあなたは、もはや痛みの法悦ゆえにギンギンたりえなくなってしまったってわけ? これが事実だとすれば、これこそが悪しき信仰ゆえの自己崩壊ってわけね、ハハハ。
 では、とりあえず呪われた法悦のために、白ワインを用意いたしましょうか? ちょっと待ってね…。 

 ——ああ、ヨロシク…。

 それにしてもさあ、<夢物語>という正体不明性の欲求不満によって、<劇中作家>としての永劫の反省を完結させているという自己欺瞞なんて、結局は欲求不満による凡庸なる自由意志への背信行為にすぎないんだから、あまりにも陳腐で道徳的にすぎる問題だとは思わない? かつての<神話的芸術家>たちの大罪にくらべたら、まったくささやかな軽犯罪ってところかしら…。もっともその程度の欺瞞ですんでいるから、<神的表現者信仰>を捨てずにいられる<マゾ的劇中作家>たりえてるってわけね。
 はい、お待ちどうさん、ここに置くわよ。

 ——おお、アリガト!! ところで何んだい、その道徳的にすぎる軽犯罪って? 

 そうね、それを見せちゃったら発育不全のお巡りに捕まるよって知っていても、どうしても見せずにいられないという程度の欲望のことよ。ま、あの<夢物語>を踏み台にして、一挙に<神話>へと飛び立つほどの大嘘つきにならなかったあなたは、でも、あたしとの永劫の不純交際を続けていけるほどには、十分な罪悪感を身に付けたってわけね。
カンパイ!! 

 ——そうすると、そのささやかなる罪悪感こそが、僕のインポテの原因ってわけかい?
 とすればだよ、僕たちの不純交際においては、ギンギン的体質への復帰は望めないってわけだ?

 あなたねえ、諦めるのは早いわよ。だってギンギン的体質が不純交際と矛盾するわけじゃないんだから…。
 つまりねえ、あなたの罪悪感とは、この不純交際によって生起するわけじゃなくて、今となっては、ギンギン的体質と同様に罪悪感もまた不純交際の動機になっているってことなのよ。だからこそ、その罪悪感を自己欺瞞として認知して、<夢物語>の「〜したい」欲望の正体を懴悔することができれば、あなたは不純交際における完壁なるギンギン的体質を回復できるはずなのよ。
 ハハン、ひょっとするとあなたは、自己欺瞞の罪悪感を、いつのまにかギンギン的体質への罪悪感に擦り替えちゃったんじゃないの? つまりは、ギンギン的体質こそが自己欺瞞の原因だなんてことにしてしまったために、自己欺瞞から逃避するつもりが、ギンギン的体質への復帰を妨げているってわけなのよ、どお?

 ——そんなこと、知るかよ…。君の<思考ゲーム>からすればそうかも知れないけれど、僕としてはだね、あのギンギン的体質っていうのは、何んて言ったらいいかなあ、そんな面倒臭い論理的な手続きとは無縁のはずなんだよ。
 だからね、僕としては、ギンギン的体質への復帰なんてことは、ほんのちょっとしたきっかけがあれば十分だと思うわけさ。たとえば、その<思考ゲーム>みたいなものへの反動的な気分がね、傷だらけの英雄である僕を狂信的な祭司に変身させて傍若無人な<荒ぶる神>にさせることがあれば、あたかも自然的欲望を思考で支配する大地母神を闇討ちにして、僕はギンギン的体質への回復と同時に<神的表現者>として君臨するかもしれないってこと、そういうことを心配したほうがいいんじゃないのかね? 

 とんでもない。もはやペニス不在のままで情夫たりうるあなたは、そんな闇雲な情熱を劇的な緊張感に仕立てあげるほどのアホはやってられないってことね。
 なぜなら、あなたは<永劫の反省>から逃避しつづける<劇中作家>としての自己欺瞞を、マゾ的な自虐的快感に保証された<苦悩者の平安>に擦り替えてしまっているから、たとえ反動的気分で<神の愛>による武装を企てても、すでに暴力性を去勢されてしまっていては、戯れにもあたしへの殺意を昂揚させるほどのオプティミストたりえないのだ。

 ——チェッ、情夫の情熱までも<思考ゲーム>なんかで管理されちゃ、哀しみのインポテは、粗末なワインに憂欝と退廃の安らぎを貧るばかりなのだ、トホホ。

 こうしてみると、あなたって人は、もともと非劇的な運命に生れついているはずなのに、なぜか、ほとんど恥ずかしいほどに絶望感の似合わない愚鈍な体質を引きずる滑稽的人格なのよねえ…。つまり、そのシーツにくるまれた疑似インポテンツなんて、まるで純文学的情死の果てに存在論的芸術観によって晒しものにされた、自己神格化幻想の屍みたいに陳腐だってこと、ハハハ。

 ——どっ、どういう意味じゃ? 

 うん。何をやっていてもわざとらしくて嘘っぽい。しかし、それが何んのポーズであるかが、はっきりと分かるという意味においては、表現力とか訴求力を持っている不思議的体質だってこと、ハハハ。

 ——ムムッ、きっ、君は、僕のささやかなるまどろみまでも、<言葉>という武器によって掠奪する気なのか!? 

 ハハハ、そんなに向きにならないの。もはやあなたの情熱も貴重品に成りかねないんだから、そんなに無駄遣いしちゃだめよ。少し寝たら? 食事できたら、起こしてあげるわよ。

 ——じょ、冗談じゃない。こんなときに寝てたらミイラになっちまうよ。うっかりしてたら、なけなしの情熱までスッカラカンにされちまうぜ…。まったく気を許せないんだから、アブネエ、アブネエ。

 バァーカ。じゃ、もう少し飲む? 

 ——ああ、いいね。ところでさ、僕がだよ、ほとんどいいかげんな厭世主義者であるために、不幸にして楽観主義者たりうるとすれば、さしずめ君は、厳密なる厭世主義者であるために、まったく陽気な淫乱でいられる倒錯的な真面目人間ってわけかい? 

 そうね…、そうしてみるとふたりの相姦関係は、不純交際をせずにはいられない関係ってことかしら?

 ——するってえと、われわれは、絶望こそを確信することによって、去勢された暴力を陽気に生きるハレンチストってわけか。おお!! <夢物語>よ、インポテンツよ、あまねくハレンチストと変態に栄光を与えよ!! 乾杯。

 アッハ。それは言えてるわよ。いい? さらにあたしの真面目さについて、もうひとこと<夢物語>的構造によって言わせてもらえるならば、「生きるということは、生きえぬ儚ない望みを生きない」ってことね。つまりねえ、幻想という希望を捨て、絶望という現実を友として生きる、どお? 

 ——もはや、どうもこうもないのだ。すでに君の何もハカナイ恥部を見せ付けられ、おまけに絶望が絶望を抱きつつ抱かれる日々を過ごしてしまえば、近寄りがたいほどに神秘的にして清純なるものを、ヒイヒイ言わせて凌辱することの健全なる快感までも絶望させちまってるってわけさ。だから、僕の「何かを<したい>という希望は、もう<したくない>ことを<しない>ですむ保証がなくは成立しえない」ってわけだね。

 ハハァン、すると、あなたのあの<夢物語>の「〜したい」欲望っていうのは、「回避しえぬ何事かをしなければならない苦痛からの救済願望」によって裏付けされていたってわけね? 

 ——んん…、まあ、そういうことになるかな…。

 じゃ、改めて聞くわよ。あなたの「〜したい」欲望は、いったいどのような「したくないこと」を、「しなければならない」という苦痛として背負っていたの? 

 ——そっ、そんなに性急に責めたてないでよ…。それでなくたって、もう散々責めたてられた後なんだからさあ…。君の、その<言葉>という焦熱の銃弾に撃ち抜かれてしまっては、僕はミディアム・レアーのステーキを口にすることもなく、ほとんど瞬時にしてウエルダンにされたまま絶命しなければならないのだ。

 ハハハ、まだ死なせるわけにはいかないもんね。でもさあ、どうしてそんなに、あたしの<言葉>があなたをズタズタにしてしまうのかしら? そういうのって、結局は<生命力>の問題なのかしらねえ?  
 ふむ、<物語的生命力>か…、つまり<物語的人格>の創造性については、あたしの方が、より反省的で自覚的だってことね。ま、それだけあたしが、愛情豊かだってことでもあるのね、でしょ? 

 ——ウヌ、その愛情こそが呪われておるのじゃ!! されば、呪われし女ハレンチストよ、その渇愛の仮面に隠した正体を明かせ!! エエイッ、しゃらくせえ、大ブスめ、その淫乱美人の仮面を脱げ!! 

 ハハハ。虚構よりいでて虚構へと去る。その名は、芸術論的悪意の使者!! そして股の名を、愛の美容整形における性器の大傑作!! この虚構の股間に息づく芸術論的陰門は、絶望という愛に閉ざされた子宮として君臨するのだ、ハハハ。

 ——もう、ハハハじゃない!! 腹がへって死にそうだ!! 

 ハイハイ。もう少しよ。ご存じのようにあたしの場合は、口と手仕事、思考と淫乱は、それぞれ個別のシステムで生きられるんだからね…。ねえ、我慢できなければさあ、テーブルに赤が出てるから、チーズとトーストでも食べててよ…。

 ——おおっ、さっそくの心使い、かたじけない。しからば…、パンツをはいてと…。
 ……んじゃ、お先に頂きますよ。ねえ、君も少し飲まない? 

 少しって、なによ? たっぷりと飲ませなきゃ駄目にきまってるでしょ、ハハハ。ん…、アリガトウ。いま、オニオン・スープできるからね。ねえ、あなた、そのチーズ、少しちぎって入れてちょうだい。

 ——ほい。ん? 極薄のトーストは…、おお、これだな。

 ねえ、お願い、ついでにオーブンに入れて? はい、サラダ。

 ——ほい。ええっと、ドレッシングは、確かこの間のヨーグルトのが残ってたよねえ? 
 それはねえ、冷蔵庫のね、下の段の右うしろ、お願いね。

 ——ホイホイ。あの…、ねえ? なんでしたら、肉は、僕が焼きましょうか? 

 あら、あたしの腕を信用してないってわけ? 

 ——いや、その…、君もね、多分お疲れだろうと思ってね。

 ふうん、優しいのね。でも、任しといて。あなたの「〜したい」欲望の正体を掴むまでは、挫折してられないんだから、ね? ハハハ。

 ——おお。でもさあ、いくら僕がね、ギンギン的体質へと復帰することが望まれているとしてもさ、君は、どうしてそんなにだね、僕の隠された欲望なんかを暴きたいと思ってるの? ひょっとすると、何か他の目的でもあるんじゃないの? 

 なによ!? あなたこそ、そういう問題を、よくも平気でマゾ的平安にばかり委ねておいて、切実なる自己探究っていう表現欲求を放置しておけるわねえ? あなたねえ、あなたみたいな懐きやすいナルシストが抱える<不成就性の欲望>ってねえ、絶望の中で儚ない自己逃避願望にして射精したり、自己神格化幻想のオルガスムで浮遊させていると、しまいには悪性自己愛のキャンサーになって自滅しちゃうわよ。
 あたしとしてもねえ、まだまだ、あなたという情夫をおシャカにしてしまうわけにはいかないんだから…。もっと、しっかりしてもらわなくっちゃね。

 ——トホホ。なんという悍しき優しさ。

 はい、スープよ。熱ち、ちっ、お待ちどうさま。これは、愛の処方箋による抗ガン剤ってところね。

 ——おお、なんということか!! 呪われていることも知らない僕の食欲!! 哀しい胃袋よ、張り裂けるまで食うがいい。ん…、なかなか結構ですよ。

 はい、焼けたわよ。

 ——ほい。では、さっそく検死をせねばなるまい。ムムッ、なんと直接の死因は焼死ではないな? こっ、これは、明らかに犯罪行為を隠そうとする証拠隠滅の放火だ!! 

 アッホー!! 焼き具合はどうなのよ? 

 ——ふむ!! 妬ましいほどにお上手ですよ。

 コノッ、おだてちゃったりしてさ…。

 ——いや、ほんと。それにしても、だいぶ張り込んだんじゃないの? 

 まあね。では、あたしも…。ん!! さすが松坂牛ってところね。でもさあ、こういうものを食べると、やっぱし非常に暴力的に昂揚してくるわね。

 ——オオッ、屍肉を喰らう鬼ババだ!! 

 ふうん、あなたの方も、いよいよ、あたしの愛の尋問を受ける心の準備ができたってわけね。じゃ、さっそくだけど、あの<夢物語>の中で、あたしたりえぬあたしに「〜したい」反省的なあなたは、ここで、このあたしに「何をしたくない」と考えてるの? 
 つまりねえ、あなたの凡庸なる遊び人という日々に、あたしに対して「したくない」のに「しなければならない」苦痛の正体って、何? 

 ——ググッ。きっ、君ねえ、その質問は、あの死闘の後でする質問としては、まことに不適切だと思うんですがねえ? 

 ということは、何よ!! もう、あたしを愛せないとでも言うの!?

 ——とっ、とんでもない。そういう誤解を招くからこそ、不適切だって言ってるんじゃないか。だいいちねえ、夏バテ以来、後遺症ですっかりやつれてしまった僕がですよ、どうして君以外の女に、僕の空しくなってしまった存在理由を打ち明けることが出来るっていうの? 

 あれ? あなたのインポテ症は、もう言葉屋あたりじゃ誰もが知ってることなんじゃないの? ハハハ。まあ、もっとも「〜したい」ことが、在り来りの性交願望なら、なにも手間かけて<夢物語>を捏造したり、あたしでないあたしを夢見たり、その上キャンサーで自滅しかねない不成就性のマスターベーションなんか繰り返すことはないのよねえ。所詮は、品性下劣な淫乱男だもんねえ。

 ——お互い様でしょうが? 

 なによ、あたしは自分のお金で遊ぶんだから、勝手でしょ!? あなたは、タカリのくせに情夫としての責任まで逃れようとするから非難されるのよ。

 ——あれれ? もう、きょうの必死の努力は忘れてくれちゃったってわけ? 

 あなたこそ何よ? きょうは、何んでこのステーキにありつけたのか忘れちゃったの? 
 ——ハハハ。まあまあ…、喉元過ぎれば熱さを忘れるとか言うじゃありませんか、ねえ?ステーキも胃袋に入っちゃうと、本来の意味を思い出せなくなっちゃうんですね、ムハハ。

 とにかくねえ、長年に亘る素行不良の情夫としては、きょう一日の努力だけじゃ、前歴を帳消しにするほどの得点は上げていないってことね。でも、きょうの結果からすると、あなたは以後、<勃起なき情夫>として努力するほうが、ずっと望ましい好成績を上げられるんじゃないの? 

 ——ウオッホン!! こりゃ、うかうかしてられないぞ。そのたっぷりガーリックの利いたトーストちょうだい!! いまに見ておれ…、ギンギンに遊びまくってやるぞ、ムハハ。
 どお、君も付き合わないと臭い負けするよ? 

 あたしは、結構!! ガーリックごときで、収入を落とすわけにはいかないの。

 ——ほう、サービス業の鑑ってわけね。

 それで、どうなのよ? あたしの尋問は、すっかり<物語的時間>を欝血させたままになってるわよ。<物語論物語>の血行障害は悪性自己愛を増殖させるだけなんだから、気を付けてちょうだい!? 

戻る目次

 ——ハハハ、君も執念深いたちですねえ。そういう性格こそが、悪性自己愛を誘発させるんじゃないの? そういう、しょうもないことはね、忘れてしまったほうが…、アアッ、分かった、分かりましたよ、答えますよ、答えますとも…。すぐそうやって、暴力行為に及ぼうとするんだから…。分かった分かったよ。
 とにかくねえ、僕は<夢物語>の中で「夢物語をやめたくなかった」からこそ、優しい君を、ここは重要だからもう一度言うよ、<優しい君>を失わずにいることが出来たってわけさ。つまり僕は、あの「夢物語こそを語りつづけていたかった」としか言いようがないのだ!! 

 駄目駄目!! そういう見え透いた嘘は駄目。<夢>の中のあなたは、必死で「目覚めたい」って言ってるのよ? 今さら忘れたとは言わせないわよ。

 ——あれれ? そうですか? それじゃやっぱし、忘れてるんじゃないの? 

 まったく、あなたの不節操なナルシズムは、どんな汚名を被ろうとも、己の存立にかかわる<永劫の反省>さえも自己逃避願望で骨抜きにしちゃうのねえ…。

 ——ほう、そう見えますか? ハハハ。
 でもねえ、<夢物語>においては、<僕が僕であること>を止めることが出来れば、たぶんあの<不成就性の欲望>は解消できたはずなんだ。だけど僕はねえ、やはり<夢物語>を止めたくなかったし、まして<僕が僕であること>を止めるつもりもなかったってわけさ。だからこそ僕は、たとえ<不成就性の欲望者>と呼ばれようとも、<夢>における全き自己同一性を獲得していたってわけだね。

 だけどねえ、結局は、その<夢物語>から醒めてしまったあなたが、正体不明のインポテを引きずっていたり、<夢物語>を神秘性で飾り<救世主>に成り上がろうとして、ことごとくの反省的欲望を無力化していたんだから、それはすでに現実逃避という初期キャンサーと言わざるをえないのだ!! 

 ——きっ、君はねえ、そうやって現実逃避を強調するけどさ、僕にとっては、<夢物語>こそが現実だったんだよ。だから、<夢物語>の中で<夢>を見ていることに気付いていた僕こそが、正に現実的な反省的視座であったってわけさ。
 だからねえ、<夢物語>の中で<不成就性の欲望者>と気付いていることによって、全き<夢的人格>という自己同一性が保証されていたように、いまここでは、<愛のドキュメンタリー>における<不成就性の反省者>と気付いていることによって、僕は<劇中作家>として全き自己同一性を保証されているってわけだね。
 どうです、これでも僕が、現実逃避をしていると主張するつもりかね?

 あなたは、そうやって次々と反省的視座を骨抜きにしていっちゃうのよ。
 それはねえ、「反省しなければならないもの」を「反省しえぬもの」と見なし、克服しなければならない苦悩を放置して、救われる望みのない苦悩者に埋没しつづけることでしかないのだ!! 言い換えるならば、苦悩者である自分から目を背けるために苦悩に責任のない自分を捏造して、反省的視座を無責任に横滑りすることだから、責任回避のために虚構にすぎない幻想を次々と実体的な自我で肉化しようとする企みでもあるのだ!! 
 つまり、あなたは<夢物語>において、自分が自分であると思い込んでいたことが<自己分裂>であり、それは不幸にして自分が自分であることを放棄するという<自己分裂>によってしか、あなたのいう現実における<自己統一>に辿り着けないという二重の自己撞着に呪縛されていたってわけなのよ。
 そんなあなたにとっては、そこが<夢>の中であれ<愛のドキュメンタリー>であれ、実体的な自分に固執するかぎり克服できない<自己分裂>という情況こそが現実だってことなのよ。それゆえに、この<愛の現実>が破滅に向かうメロドラマであるにもかかわらず、あなたは、これを絶望的芸術論として引き受ける痛みさえも回避しようとして、とめどない自己欺瞞を繰り返しているってことなのよ。

 ——ふむふむ、とすれば、やっぱし僕という人間は、自己逃避をしつづけないかぎり、もはや僕としては有り得ないってわけだね、ハハハ。

 ハハハじゃないでしょ!? それじゃまるで末期的キャンサーじゃないの!? 

 ——だけどねえ、自己逃避という横滑りによってこそ僕は僕たりえているとでも考えないかぎり、<夢物語>における<優しい君>との秘めたマスターベーションが、たとえ不成就性のものではあっても、なぜか荘厳なる歓びに満ちていたことの説明がつかないし、まして<夢>から醒めたときの安らぎが、あたかも<神的表現者>への自己無化を語りうる至福感に満たされつつも、さらに未知の愛にときめいていたことの説明がつかないってわけさ、ハハハ。

 ねえ? 食事中にマスターベーションとかキャンサーについて討論しうるという、あたしたちの強靭な食欲に乗じて言わせて頂くとすればねえ、実は、あたしはあなたの言うその<荘厳なる歓び>とか<安らぎ>とか<至福感>について、徹底的に疑問を抱いているってことなのよ。つまり、それは、あたしや読者を惑わすための出まかせじゃないのかってね、どお? 

 ——またまた、すぐそういう根も葉もない中傷をするんだから…。だいたいねえ、君は、<夢物語>における僕でもないのに、あの「〜したい」欲望ゆえの平安が、偽りだったとでも言うつもりかね? そもそも、ギンギンたりえぬ<愛の表現者>の屈辱的な痛みにマゾ的な法悦の現出を言い立てたのは、君の方なんだよ? 

 これは、中傷なんかじゃないわよ。
 だって、そうでしょう? あなた、あの<夢物語>の中で救われていたの? どうみても、あたしには苦しんでいるとしか思えなかったわよ。
 いい? たとえ<あたしたりえぬあたし>との秘めたマスターベーションが、あなたにとって<神の愛>への自己無化的至福感だったとしても、それは二重の自己撞着という苦悩的情況からの逃げ切れない逃避でしかなかったのだから、あなたのマゾ的な自虐的法悦も、結局は<自己愛信仰>に呪われた単なる倒錯的快感でしかなかったということなのよ。
 だからこそ、あなたの自己逃避的体質に対する厳しい反省あるいは懴悔によって、己の苦悩の重さに覚醒しないがぎり、たとえあなたの望む<神話的世界>においてさえ<神>による救済は成立しえないのだから、ここには<安らぎ>も<至福感>も存在しないはずなのよ。もしもこの手続きを無視して、この<物語論物語>で救済を言うとすれば、それは<悪性自己愛>で武装することでしかないのだ。
 つまり、<悪性自己愛>のキャンサーっていうのは、<自己逃避による自己神格化幻想>という病気のことなのよ、お分かり?

 ——とすればだよ、僕の<悪性自己愛>とは不治の病なんだから、もう、僕には、どうしようもないじゃないか? 

 そんなことはないでしょう? 懴悔があるじゃないの? 懴悔が!! 
 懴悔こそが、あなたみたいな末期的症状のキャンサーにも有効な奇跡の治療法なのよ。つまりあなたは、破局に向かう<物語的愛>の真っ只中で、十全たるハレンチストとして退廃の美学に帰依するしかないのよ。

 ——だけどねえ、君が何んと言おうとも、実際に<夢的人格>であった僕としては、あの<夢物語>には、この<物語論物語>では育みえなかった<救済の動機>を確信できたんだよ。

 何よ、まだ性懲りもなく、<夢物語>を救済論に仕立てあげようっていうの? 
いい? あなたの自虐的快感を無意識のうちに法悦的な至福感へと誘っていたのは、あなたのいう<神の愛>なんかではなく、この<物語的愛>ゆえの<退廃の美学>に他ならないってことなの。言わばあなたは、そのマゾ的な自虐的体質ゆえに、<神>のいない<物語論物語>で破滅に向かうメロドラマの嫡子だってこと、それに目覚めるべきなのよ!! 

 ——しっかしねえ、つまりは、その…、マスターベーション志向の<表現者>の気分としてはね…、たとえば…。

 何をグズグス言ってんのよ? ははん、ひょっとしてあなた、この粗末な 1.8リットル詰ワインではあるけれど、快適遊感覚という目的に対しては確実に自己愛の抗生物質たりうる反省力を、ほとんど副作用の暴力性だけ取り出して、支離滅裂のヨッパライに変貌しつつあるってわけ? 

 ——いいえ、そんな大それたことは考えてませんよ。ただねえ、この呪われた胃袋に澱むワインの海で、いつ溺死しても悔いがないという、そんなささやかなる幸福感を表現してみたかったってわけさ。ま、御馳走して頂いたお礼ですよ、ハハハ。

 ウソウソ!! その程度のワインなんかで幸福感に浸れるあなたじゃないはずよ。

 ——ふむ、そうすると、僕も知りえぬ隠された良心とやらに、疲労困憊しているアホ男が、たわいもなくたぶらかされているっちゅうことかな? 

 また、そうやって偽りの衣装で身を飾るんだから…。とにかく、ここまできたら、あたしの役目としては、あの「〜したい」本音とやらを、一刻も早く明らかにしてあげなければならないってわけね。

 ——ま、君ねえ、今日はお互いに疲れているんだからさ、そういう深遠にして崇高なる話題はですね、たとえば秋風の立つ木漏れ日の山荘なんかでですねえ…。

 ううん。どうせ本音は割れているんだから、いつでもどこででも語りうるまったく手軽な話題というべきじゃないかしら…、ハハハ。

 ——ムムッ、ワインが足りないよ!! 

 はい。じゃ、もう一度言うわよ。
 あなたは、「〜したい」本音と「〜するわけにいかない」現実との軋轢から逃避するために、事実を歪曲することによってインポテへと埋没してしまったはずなのよ。だから、そんな軋轢ゆえに<夢物語>へと横滑りして仕組まれた自己欺瞞っていうのは、不成就性のマスターベーションによって、あたかも絶望する愛のドキュメンタリーに踏み止どまるかのようなポーズは見せているけれど、その実は、愛のドキュメンタリーで「自己と現実を逃避せずにはいられない自己愛」を、<神の愛>にくるんで「逃避したい自己愛」を正当化しようということだったのよ。
 こういうのが、正に悪性キャンサー特有の発想方法ってわけね。

 ——するとだね、僕の凡庸なる軽犯罪性がだね、発育不全のハレンチストとして<退廃の美学>に目覚めるとすれば、それは一体どういうことになるの? 僕にしてみればねえ、<夢物語>という劇中劇で身を持ち崩す<愚かなる表現者>こそが、ハレンチストにふさわしい退廃だと考えるけどねえ? 

 あなたの言う<身を持ち崩す>ってことは、<自己分裂>という鮮烈なる今日的問題を曖昧にして、時代錯誤の悪性自己愛を<超越的価値>で武装して生き延びさせようとする悍しき権力志向なのよ。そんなものは決して<退廃の美学>たりえないのだから、むしろキャンサーによる<美学の退廃>にすぎないと言うべきなのだ!! 
 いいこと? 退廃がかろうじて美学たりうる根拠とはねえ、<表現者>としての<自己分裂的運命>を積極的に引き受けて生きることなのよ。だから、あなたが姑息な手段で、<物語論物語>から<夢物語>へと横滑りするにしても、<夢物語>から<物語論物語>へと回帰するにしても、それは、二重三重に<自己分裂>を深めることにしかならないのだから、逃避が逃避であるかぎりは逃避から逃げられないという<欺瞞的宿命>へと語るに落ちるしかないってわけね。

 ——するってえと何かい? 君の論法によれば、<物語>とは、ことごとく退廃的な構造をしているってわけかい? 

 まあ、そういうことね。
 だからこそ、どんなにチンケな軽犯罪性の<自己分裂者>であっても、それが、<物語的人格>であることを止めることのできない自分を止めることによってしか、現実へ回帰できないと臆断する<虚構の絶望的存在者>としてあるときに、あるいは、<物語的人格>という自分ではない自分になるという自己欺瞞によってしか、主体性を回復できない<非実体的な絶望的表現者>としてあるときに、つまりは、所詮<虚構>であり<非実体>であるにすぎない<とりあえずの物語的人格>という、仮の主体であり実在である<劇中作家>に目覚めていることこそが、いかなる<偽善的な神話作家>に対してさえ、その反省的な表現行為の現相的な場面における純粋性によって、悪性自己愛に糾弾の一撃をくらわしうる<孤高の表現者>たりうるってこと、この<表現者>こそが、<非小説的物語>を<退廃の美学>として語るにふさわしい唯一の芸術家だってことなのよ。

 ——そうするとだよ、退廃せずにはいられない<物語>を、ひとたび<芸術論>として語り始めてしまえば、そこでいかなる苦悩の救済が叫ばれようとも、その<物語>を<宗教論>として語ることは出来ないっていうの? 

 あったりまえでしょう!? 何を今さら寝言なんか言ってんのよ? 
 あれれ? あなた本当に酔ってきちゃったの? めずらしく赤い顔してるじゃないの? 
 ——そ、そうかい? すでに呪われた胃袋は、寝首を掻かれてもいい覚悟で弛緩してるってわけさ、ハハハ。

 ねえ、コーヒーでも飲む?

 ——ああ、いいね…。

 じゃ、もう、片付けちゃっていいわね? 

 ——ん。ごちそうさん。ああ…、そうか、洗い物があるんだね…。
 それじゃ、僕がコーヒーを入れようか? 

 優しいのねえ…。でも、その手で、あたしの追及を逃れることは出来ないのよ、ハハハ。

 ——そんなこと、思ってないよ。もう、さっきから、すっかり観念しちゃってるさ。

 感心感心!! 
 とにかく、あたしの信念からすればねえ、破滅に向かう甘美な愛を<芸術論>として語ろうとしているときに、その<物語的欲望>である<愛の原理>によって反省的な自己探究と人格形成を貫徹することなしによ、よりによって自己愛を温存する宗教に身を委ねるなんていう態度は、どんなゲスの淫売女より不純な発想だってことなのよ。
 あなたねえ、何はともあれ<芸術論>によって自己探究と人格形成を貫徹しようとするならば、結局は<芸術論>における<物語的人格性>の超克を体得する以外には、いかようにも克服しえぬ<物語的愛>の前で<芸術論的に絶望>する自分を認知しなければならないんだから、それを承知で自己愛の神格化という欺瞞によって自己探究と人格形成を止揚してしまうつもりなら、そんな欲望こそが<退廃する芸術>における贖いがたき大罪だってことよ!! 

 ——とすれば、まあ、なんだかんだと言われてはいるものの、いまだに自らを救済するに至らない僕は、これでも結構はおとなしい<劇中作家>にすぎないってわけさ、ね? 

 んん? そんな言い方はないでしょ? なんとかここまで<劇中作家>としてやってこられたのは、いったい誰のお陰だと思ってるのよ? 
 だいたいねえ、そういう態度でいやいや<劇中作家>やってるから、あたしとの愛の暮らしの中でどれほどの大罪を犯すこともなく、そのくせあたしの目を掠めては宗教なんかにラブコールを送ってるってわけでしょ、そういう自分を恥ずかしいとは思わないの? 

 ——ハハハ。その程度のことを、いちいち恥ずかしがっていたんじゃ、僕の変態性が泣くじゃありませんか? そもそも僕はねえ、君の糾弾や非難に耐えうるほどに<厳密なる芸術論者>だったってわけじゃないからね。まあ、僕にとっちゃ、君との行き掛かり上の役回りってわけさ。

 もう…、この期に及んでまで、そんな言い分けが通じると思ってんの? 
 あなたは、すでに破滅に向かう<物語的愛>を<芸術論>として語りうる<劇中作家>なのよ。それとも、いまここで、自己神格化のアホ的発作で、この<物語>を全部ボツにしてしまいたいっていうの? 

 ——すぐ、そうやって向きになるんだから…。君のそういう過激な言動こそが、一種のヒステリーによる発作じゃないの? ムハハ。

 ふむ、そうかも知れないわね。でもねえ、そのお陰で、みなさんにとても喜ばれているのよ。感度良好なりってね。

 ——またまた、そうやってもっともらしい嘘をつくんだから…、君の感度良好は演技でしょうが? でなきゃ、いくら淫乱だってさ、毎日何人もの男との過激な性交を持続することなんか無理にきまってるじゃないか? だいいち、そんな無理を青春に強いるからこそ、君の性交が労働にならざるをえないんじゃないの? 

 あら、そうでもないのよ。だって、あたしは欲情しつづける自分に積極的に目覚めている地母神ってわけだもんねえ、ハハハ。

 ——まあ、勝手に悶えるがいいさ!! ん…、お湯が沸いたな? 

 ううん、もうちょっとね。
 ねえ、ところであなたってさ、この<物語論物語>をドキュメンタリーなんていう反省的手法で、少なくとも<芸術論>として語ろうなんていうときにねえ、あたしとの愛の暮らしについては、いったいどんな芸術論的課題を考えてんの? 

 ——何んだ何んだ? 愛の日常生活を、今さら手垢のついた<絶望的芸術論>なんかで細工しようったって、もう飼い殺しの情夫しか出てこないよ…。

 アッハ、それもそうね。じゃ、その飼い殺しの情夫を、<夢物語的構造>の不成就性の欲望者に即して言ってみてくれない? 

 ——ふむ…、しからば、あの「〜したい」欲望が、止めたくない<反省的芸術論>を止めないですむ保証こそを要請していたように、僕は、今さら止めることのできない<欺瞞的表現者>としての屈辱の中でこそ、<物語的愛>に隷属する<芸術論>こそを語りつづけていく覚悟だったってわけだね。

 さあ、どうかしら? むしろそれを言うなら、「続けたくない芸術論を続けなければならない苦痛」から逃れるつもりだったってこと、この苦痛から逃げ切れなかったからこそのインポテだったんじゃないの? つまり、あなたの「〜したい」欲望は、もう「続けたくない芸術論を続けないですませる」ための叫びだったはずなのよ。
 そうか!! 読めたわ!! あなたの<不成就性の欲望>の正体とは、あたしに隷属する愛に「別れたい!!」を叫びつづけていた、図星でしょ!? 

 ——グググッ!! 

 ハハン、反省的な愛のドキュメンタリーでは、あたしに「別れたい!!」を叫びつづけているあなたも、あたしがあたしたりえぬ<夢物語>では、それを<言葉>にする機会を見付けることが出来なかったってわけね? 

 ——スッ、スバラシイ!! ホールインワン賞だね、世界一周の旅へご招待だ!! ハハハ。

 ねえ、ハハハで済むことかくら? 

 ——んん? ハハハ、冗談、冗談!! 
 ほとんど哀しいばかりの冗談に決まってるじゃないか…。

 エエィッ!! このっ!! 

 ——ウッ、ウオオッ!! まっ、参った!! 参った!! いいいてっ、痛ってえ…。
 たっ、玉が、玉が潰れちゃうって…。ウウウ…。

 あたしの陰門に懴悔するか!? 

 ——ハイッ、ハイッ!! 

 良し!! 

 ——おおっ、痛っ…。もう、そんな洗剤の付いた濡れた手でさ…、アアッ、パンツまで染みちゃったじゃないか…。

 ふうん、それは良かったわね。ジクジクして気持ちいいでしょ? ハハハ。

 ——ほれ、ペナルティの痛みを忘れないうちに懴悔させてよ。こうなったら、デザートがわりだ…。

 ハハハ、そんなに焦ることはないのよ。デザートの後でいいのよ。愛の園は、再び戦場と化すはずなんだからね。

 ——ゲゲェーッ!! ああ…、もう僕は、デザートどころではないのだ。コーヒー入れる気力も失ってしまったよ…。

 いいわよ、そこでしばらく死んでたら…。それとも、あくまでも「別れたい」なんて思ってなかったと反論してみる? 

 ——し、しからば、僕が懴悔せねばならぬ過失など、一切犯していないことを論証してみたい!! そもそも僕は、<劇中作家>として芸術論者を自認する以上、君に隷属する情夫の愛を止めるわけにはいかないのですよ。
 なぜなら、<愛のドキュメンタリー>の反省的地平に位置する<夢物語>とは、<絶望する芸術論>である君の<物語的愛>に対する<反省的芸術論>としてのみ<芸術論>であるにすぎないのだから、なんで僕が、君の愛から「別れて」もなお<芸術論者>たりうると言えるというのかね!? 
 もしも君が、どうしてもこの「別れたい」という言葉を、僕の献身的な愛の証として生贄にしたいと言うのなら、僕としては、「別れるつもりがないからこそ、別れたいと言ってみたかったにすぎなかった」と言うことが出来るのだ、ハハハ。

 それじゃねえ、<夢物語>の中で、どうしてあたしを、オナペットとして去勢しちゃったの? それは、取りも直さず、あなたがここでは反省によってしか成立しない<芸術論>から、<永劫の反省>だけを葬り去るつもりだったからじゃないの? 
 つまり、愛の日々に散々「別れたい」と思っていたのに、あえて<夢物語>に<あたしたりえぬあたし>を出現させて「別れる」理由を去勢することにより、辛うじて<夢物語>にも<物語論物語>に対する<反省的芸術論>としての体裁を整えたとは言うものの、これによって「別れたい」欲望を潜在化して<物語論物語>へと横滑りさせ、いままで「別れたいのに別れるとは言えなかった」あなたに、あえて「別れるとは言わない」という主体性を捏造し、<芸術論>から反省を抹殺すると同時にあたしの<物語的愛>を破棄する権能を手に入れようとしたってこと。この送葬の手続きによって、すでに<夢物語>は<反省的芸術論>としての機能を停止し、その存在理由を喪失してしまっているのよ?
 言い換えるならば、すでに情熱的な愛を失いインポテに成り下がったあなたは、それが自己欺瞞に起因することを棚上げにして、そんな後ろめたさを隠すためかどうかは知らないけれど「あえて今のところは、別れるとは言わないことにしよう」という企みを弄んでいるのだから、「別れたいのに別れない」欺瞞を重ねる<物語的愛の裏切り者>なのだ!! 

 ——君ねえ、<裏切り者>に創造性を認めていたのは、君の方でしょうが? 
 いいかい、そういう君がだよ、「止めるつもりのない芸術論の中で、芸術論を止めてしまいたい」という<反=芸術論>を、もはや<芸術論>ではないなんて言えるのかい? 
 つまり、僕の<芸術論>は、君の言う<反省的芸術論>に対する<反=反省的芸術論>たりうるってことさ。そして、<反省的芸術論>に対する<裏切り>によって創造性を獲得する僕の<反=反省的芸術論>こそが、自己愛を切り刻む正統的な創造性によって<正統的芸術論>である可能性を、君が否定することは出来ないはずなのだ。

 おおっ、なんという悪賢さ!! 卑劣、愚劣、下劣!! 

 ——ムハハ、まいったか!? 
 早く、コーヒーを出してくれたまえ。おっと、デザートには、きのう僕が作っておいたオレンジのコンポートを用意してくれたまえ。
 ま、とにかくね、僕は君の<芸術論>を下敷きにしてしか<芸術論>を主張しえぬという、まったく自分でも呆れ返るほどの<愚かなる表現者>ではありますがね、それこそが、君なしでは僕たりえぬことの証だってわけさ、ね。その意味からしたってさ、僕は、どんなに君のお節介から逸脱しようとも、君の<物語的愛>を不可欠のものとして語りつづけていくことになるってわけさ。

 するとあなたは、この<反省的芸術論>においては、あたしに本気で「別れたい」と言えないために、自己愛を温存させる劇中劇という欺瞞的構造を反動的に利用して、あたかも<神の愛>に祝福された<正統的芸術論>へと風穴のあいた<夢物語>を捏造し、さらに優しさで塗り固めたオナペットのあたしという安全牌を用意して、不成就性の「別れたい」欲望を「別れられない」情夫で取り繕い、自己完結的なマスターベーションを繰り返していたってわけね。

 ——んん…、まあ、そういうことになりますか? ハハハ。
 だけどねえ、あの<夢物語>が神秘体験であったということについては、今さら疑う余地はないんだから、いま君が解明してくれたようなことは、ほとんど僕の<意識的な計らい>というものを超えたところで、つまりは、今となっては僕も責任を負いかねるものとして行われたにすぎないってわけだね。

 まったく、どこまで陰険な性格してんの? 
 はい、どうぞ。思いっきり濃いコーヒーよ。

 ——おおっ、やっぱり、敵は僕を寝せないつもりだな? 

 当然でしょ!! まだまだ重要な尋問が残されてるのよ。
 ねえ、すでに燃えたぎる愛は消えかかっているっていうのに、いまだに別れる気のない暮らしの中で、なんでわざとらしくも「別れたい」なんて叫んでたの? その<反=反省的芸術論>の<芸術論的立場>についてお聞かせ下さいな? 
 でもねえ、今さら<救世主>なんかを引っ張り出して、<宗教論>でごまかそうなんて手は通用しないのよ、いいわね? 

 ——ハハハ。ついに<劇中作家>は、その正体を明かすときがきたのだ!! 君、マスコミの諸君を呼んでくれたまえ、記者会見だ!! 

 アホッ!! あなたの正体も本音も、すでに了解済みよ。
 あたしが知りたいのは、あたしがせっかく<反省的芸術論>を提唱しているっていうのに、その反省性を悪性自己愛でことごとく掠奪してしまう無反省なあなたが、たとえあたしに対する反動にすぎないにしても、反省的意義を否定しえぬ<反=反省的芸術論>を主張しえたのかってこと。

 ——ふむ。まあ…、強いて言うならば、このコーヒーの味ってところだね。

 何よ、それ? あなたが、酔っ払って入れたスドオリップのコーヒーより、ずっとおいしいじゃないのさあ!? 

 ——ハハハ。確かにねえ、君はソープ嬢をさせておくにはもったいないほどの腕前ですよ。ところがねえ、いま僕が言わんとしていることは、腕前なんかのことじゃないんだ。かねがね君が言うところの君と僕との関係が、しばしば飲んでいながらその味わいについて語られることのないコーヒーのように、<言葉>こそを<愛>とする関係から<愛の生活>が限りなく逸脱していることについての覚醒ってわけさ。
 つまりね、あたかもこのコーヒーに、君が「捨てちゃいやよ」という切なる思いを込めていたかのように、いま改めて<暗黒の透明感に湛えられた芳醇なる退廃のまどろみ>を語ることが出来るように、自己逃避とか現実逃避と言われる逸脱を、いまだ語られていない<現実的な欲望の意味>として語り直すようなもんだね。
 どうですか? この自覚が、<不成就性の欲望者>の<欲望の現実性>によって<物語論物語>の<言葉の意味>を肉化してしまうというわけだから、<会話>をも限定された意味論で硬直化してしまう<言葉の体質>に、言葉を逸脱してしまう欲望を見定めることによって<思考ゲーム>の内部告発を喚起しえたってわけさ。

 なんだあ、それじゃ<悪性自己愛>を欲望に任せて開き直らせただけじゃないの? 

 ——そうさ!! そんな<開き直り>とか<反動>こそが、容易に<反省的意味>たりうるほどに、君の愛と言いうる<物語論物語>を支える<言葉>は、<論理整合的な記号>として出生しているわけじゃないってことさ。
 それはねえ、僕たちの<言葉>によってこそ語られるはずの<愛の物語>が、いつの間にか<言葉の愛欲>によって<愛>を語るという言葉自身の欲望を増長させてしまい、ついには、その<言葉>が思考の手段たりうることを笠にきて、己の快感である合理的思考の権能によって<芸術論>の名を掠奪し、僕たちの生きつづける<物語>を論理的なゲームで搾取しようとした企みに、最後の警鐘を与えてやったのさ。
 それは僕たちが、この<会話の関係>においてさえ、わざわざ<言葉>で語る必要のない<コーヒーの味>という、想像力によってこそ語りうる<物語的空間>を生きてきたってことだね。つまり僕たちは、<言葉>の中で<言葉>にしえぬものを操ってここまでやってきたってわけさ。

 じゃ、あの<夢物語>における正体不明の「〜したい」欲望っていうのが、<言葉>を自己不信へと貶める罠だったってこと? 

 ——んん…、そういうことになるかな? 
 いや、むしろ<物語>という劫罰を背負わされてしまった<表現者>の<真実>への叫びってわけだね、ハハハ。まあ、その意味においては、僕は君の<言葉の欲望>に対して、常に反省的立場を主張しうるってわけさ。

 駄目、駄目!! 
 そういう悪性自己愛的発想は、あからさまに<救世主宣言>することの愚かさを悟ったあなたが、今度は<救世主>としての復活を<言葉>の死と再生に擦り替えて、あたしへの反動的立場を利用した<劇中救世主>になろうとする企みなのだ。

 ——さあ、どうかねえ。僕としては今さら<劇中救世主>なんて新語を言い出すつもりはないね。そもそも<劇中の神>こそが<救世主>なんだよ、今さら<劇中救世主>なんていう屈辱的な権威など弄ぶつもりはないってことさ。
 ただね、<言葉>によって語られる<物語>の可能性以前に、<言葉>が<言葉>たりうる先在的な<物語>に対して、その<言葉>が担わされている限界に警鐘を与えているだけさ、ハハハ。

 それが、<自己愛>の末期的キャンサーの症状といいうる<劇中救世主的呪縛>なのよ。いい? 言語世界において、<言葉の限界>について言及するってことが、すでに<超越的な統一原理>を要請する企みだってことなのよ。

戻る


 



戻る / 目次 / 次へ