ここでは、あなたのいう<言葉>たりえぬものでさえ、結局は<言葉>によってこそ解き明かされてしまったってわけよ。正にこれこそが、<物語>の語る<物語的欲望>の姿じゃないの?
——で、でもねえ、僕としては、僕の肉声であるはずの<言葉>が、勝手に君の<物語的愛>を語らされてしまうことに、少なからぬ不信感と同時に密かなる希望を抱いていたってわけさ。
ま、言うならば、あの<夢物語>とは、<物語論物語>から僕の心の中へと、とめどなく流れ込んでくる隙間風で、ちょっとハングライダーの気分ってわけなんだから、ほんのささやかなるお遊びで、<言葉>の奴をたぶらかしてやっただけとご理解頂いても結構なんですよ、ハハハ。
何んだあ、それじゃ結局は、あたしたちの<物語的人格>としての<存立と自由>を保証してくれる<言葉の物語的性格>を確認しただけじゃないの? つまりは、<物語的言語>によって語られる<意味論>の多義性とその可能性についての考察にすぎないじゃないの?
——ん、まあねえ、そう言ってしまえば、それまでのことかも知れないけどねえ…。
でも、僕としてはねえ、<止めたくない芸術論>を「止めたい!!」と言わざるを得ない<言葉>の魔性について、つまりは、<物語的愛>との絶えざる確執に悩む<表現者>としては、そんな自分が<言葉>であることの正体不明性を、何はともあれ<反=反省的芸術論>としてでも問わなければならないと考えたってわけだね。
どお? 僕のこの狂おしいほどに昂揚してやまない、<表現者>としての<自己統一欲求>の崇高さを垣間見てさ、またまた惚れ直したんじゃないの?
さあ、どうかしらねえ…、ハハハ。
ふむ、でも、その問題はかなり重要だと思うわよ。多分あなたとしては、それに明解な回答を用意することができれば、そのときには、十全たる<芸術論者>として自立できるってわけね。
そしたら、二度惚れしてあげてもいいわよ。ただし、そのときは、<勃起なき情夫>という修羅場をくぐり抜けた情熱と技術を携えて、尚且つあのギンギン的体質の復活というおまけ付きになってなきゃ駄目よ。
——チェッ、勝手にしてくれ。
とにかく、ここで僕が、<表現者>として日々実感するところによれば、僕を<表現者>へと駆り立てる表現欲求の根拠っていうのは、どうも<言葉>以前のものだと感じるんだね。つまり、退廃せざるを得ない<芸術論>とか<物語論物語>以前なんだ。
ああっ、一応は断っておくけどね、もうこの<物語論物語>を超越的な何かで閉鎖しようなんてつもりはないんだからね、ホントだよ。
そんなわけで、たとえば<芸術論者>にしても<事件>としての<表現行為>そのものは、ひょっとすると、まだ<芸術論物語>の外にあると思えるっこと。ところが、その<事件>を反省的に<表現経験>として捕らえ返してみるときに、はじめて<事件>の背負う<物語性>が浮かび上がってくる。つまり、<物語的欲望>が見えてくるんだね。
だから、この<事件>を<物語>の中に位置付けるという<表現経験>は、<物語的欲望>に支配された<言葉>を必要とする。そこで<事件>が、ようやく<芸術論的意味>を担うことができるってわけさ。
そう、正にその通り。ところが、その<言葉>こそが、<芸術論的根拠>であると同時に、キャンサーの遺伝情報ってわけね。それゆえに、もはや<言葉>こそが<物語的欲望>そのものの実相とさえ言えるってこと。だからこそ、あらゆる<物語>の<物語的欲望>っていうのは、<愛>と呼ぶ、<美>と呼ぶ、<神>と呼ぶ、様々の原理をその<言葉の意味>として担いたがるキャンサー的体質だってわけなのよ。
だけどねえ、あたしが、この<物語>で特に悪性のキャンサーだと言いたいのは、<言葉>が、ひとつの<物語>といういたって相対的な意味関係において<とりあえずの原理>にすぎないものを、超越性とか絶対性なんかで武装させて、<物語的欲望>を<支配欲>に擦り替えて振り回す<権力主義的な暴力>の不節操さについてなのよ!!
——まあねえ、君のそのご心配につきましてもですね、すでにアホのベールを脱ぎ捨てた僕としては、今さら異議を唱えるところではありませんからねえ、ムハハ。
ダメダメ、その程度のことで、すぐ気取ってしまうようじゃ、まだまだアホのベールは脱ぎ捨てられていないみたいよ?
——ウオッホン!! とっ、とにかく、僕が、とりあえずは<表現者>としてここに至り、いま<言葉>の問題として提起しておかなければならないと思ったことは、ひとたび<物語的欲望>に呪縛されてしまった<言葉>を、かかる<事件の現場>において解放することができるのか、あるいは、<言葉の意味>が、すでに原理によって掠め取られてしまったのちに、<事件の物語性>を原理から解放することができるのかってこと。
ハハン、それは、正に言語以前的な<表現者>の発想ってところね。でもねえ、はたして、そんな発想に頼っていて、<劇中救世主>というあの悍しき陥穽を回避できるの? でもまあ、感心なことは、それなりに<自己分裂的情況>を現実の問題として見定めようとする姿勢がうかがえるってことね。
どお、そろそろ下半身のほうが、ムズムズしてきたんじゃないの?
——きっ、君ねえ、いつも言うように男の繊細なる感受性っていうのは、そんな単純明解な論理ゲームなんで処理するわけにはいかないんですよ、失礼なんだから…。
でもねえ、そういうふうに<物語論物語>を見くびった言い方ができるってことは、言わば<言葉>を嫌う<霊的物語>の中で、いつまでも自己愛に溺れてしまう倒錯的な快感にこだわっているってことじゃないの? 結局は、それが<言葉>に限界を要請する発想になるのよ。ねえ、あなたは、こんな発想を引きずっていて、「物語的欲望からの<言葉>の解放」とか「<事件の物語性>を原理から解放」するなんてことが出来るの?
——きっ、君ねえ、僕は<言葉>がいつの間にか担わされている<意味の限界>に警鐘を打ち鳴らしているんだよ、その僕をつかまえてだね、そりゃ失礼ってもんじゃないの?
ふうん、まあ、その自覚があればいいんだけどね…。
でもねえ、あなたの言う<原初的な表現行為>にしたところで、後にそれらを反省的に<経験>として意味付ける以前に、すでにその<行為>が<事件>でありえたところの<物語>を必要とするんだから、いわゆる<発生論としての物語>はどのように解消するつもりなの?
ここでもしも、あなたが<言語世界>を閉鎖してしまうような発想をしていたら、この<発生論としての物語>こそが超克不可能な絶対的前提条件になってしまうのよ?
——まあ、ご心配無用ですよ。それにしても、<発生論>なんかを不用意に語ると、君を喜ばせる結果になりかねないから用心しなくっちゃね、ムハハ。
そこでとりあえず言えることは、すでに誰かの<反省的経験>である<事件報告>と言いうる<物語>が与えられているときに、その中でこそ新たなる<表現行為>としての<事件>が起こるわけで、それがまた新たなる<事件報告の物語>として誰かに<経験>されるってわけだね。そしてこれは、初めも終わりも定かではない循環構造として繰り返されていくわけだから、これを<物語>の自己増殖と言ってもいいってわけさ。
ふうん、そうするとあなたは、なぜか勇猛果敢にして身の程しらずの野望を抱き、しかもここでその<物語の自己増殖性>を踏まえた上で、<物語>の生きざまである<表現行為>と<表現経験>を、さらには<事件>と<事件報告>によってこその<物語>を、その<物語>の生命力である<物語的欲望>としての<言葉>から、そしてあらゆる<言葉>を<意味>によって呪縛する<原理>から、そのがんじがらめの<言葉>自身によって、ことごとく解放しようとしていることになるのよ、大丈夫なの?
——まあね…。
あなたねえ、そんなに平然と構えてるけどねえ、<宗教>においてさえ、それが<救済論>として何んらかの意味における解放を実現するためには、結局のところ<神>とか<仏>という<原理>を必要とするのよ。それなのに、あなたの言おうとする解放っていうのは、<原理>に鎧われた<救済論>に陥ることはないっていうの?
——だからさ、つまりはね、<言語以前的な事件>ってやつでね、すべての<原理>を止揚しちゃおうってわけさ。
そんな、寝言みたいなこと言ってて大丈夫なの? 知らないわよ。
ねえ、どんな解放にしたところでさあ、結局は<解放論>っていう<物語>にすぎないんじゃないの? それじゃいつものように、語るに落ちるだけよ。
ハハン、ひょっとすると、そこに何んらかの実感ありなんでしょ!? ソコニ!!
——すっ、すぐそういう卑褻な目で、男の股間を見るんだから…。そんな眼差しを注ぐ暇があるんだったら、コーヒーでも注いでよ…。
ハハハ。はい。
確かにねえ、あなたが言うように、<言語以前的な事件>を想定することは可能よ。でもねえ、<表現者>の<表現欲求>っていうのは、結局のところ、何かにつけて生きがたき<物語的人格>が「自分とは何か」「いかに生きるべきか」と自問するときに、<無意識的な物語的欲望>を自分固有の欲望として、あるいは自分を<自分たりうる自分>へと実体化する動機として錯認したり臆断してしまうことによって生じる傷みを、<物語的愛>と<自己愛>との軋轢や確執として見定め、それをなんとか自己実現という名目で調整し妥協点を見付け出そうとして発生してくるんじゃないの?
だとすればよ、いかなる<表現者>であれ彼らが、ひとたび<自己探究>や<人格形成>のために「何か?」とか「いかにすべきか?」という<表現欲求>を自覚してしまえば、そのときには、すでに<言葉の欲望>に捕らわれているってわけよ。
まして<言葉>が、この問題に回答を用意しようとすれば、<言葉>の思考能力による論理整合性とか自己正当化の欲望は、それを何んらかの<原理>で武装することを我慢できなくなってしまうわよ。だいいち、そうしなければ、<言葉>はこの問題に対して自己欺瞞のない回答を用意することができないのよ。そして、<言葉の意味>を住まいとする<原理>は、<物語的欲望>と結託して、たとえ誰かにアナクロニズムだなんて言われようとも自らの王国を築き上げるために、あたかもヘーゲル的な弁証法ともいいうる古色蒼然たるシステムなんかを引っ張り出して、ありとあらゆる<事件>と<事件報告>を、あるいは<行為>と<経験>を、<原理>への上昇的忠誠心と<原理>からの下降的使命観によって呪縛してしまうのよ。
ねえ、こんなふうに<原理>と<言葉>と<物語>が不可分のものとしてツルんでいる世界に、<言葉>で語る<言語以前的事件>なんかが存在できると思ってんの?
——ふむ。そうすると君は、<劇中作家>であれ<物語的人格>であれ、とりあえずは<表現者>と言いうる誰かが、何んらかの<原理>を要請してしまうことになる<表現欲求>の正体を、いったい何んだと思ってんの?
なに言ってんのよ!? それこそが<愛>じゃないの? だからこそ、<物語的愛>って呼んできたんじゃないの、でしょ?
——いや、そうじゃないんだ。いいかい、君も言うように<物語的愛>たりうる<愛>とは、結局のところ<言葉の意味>に住まう<原理>にすぎないってわけさ。
だからね、僕としては、<表現者>が<愛>を渇望する根拠とは何か? これに対する君の見解を聞きたいんだ?
やっぱしねえ…、まだあなたは、<愛>についての認識が不十分と言わざるをえない!!
——ほほう、すると<愛>も、所詮は<認識>の対象なんだから、やっぱし<言葉の意味>にすぎない、でしょ? ムハハ。
ああっ、そうか!! いったいどうしたのよ? まるで奇跡としか言いようのない明晰さじゃないの?
——ハハハ。それで…。
チクショウ!!
つまんないトリックに引っ掛かっちゃってさあ、てんで不愉快!!
ふむ、それにしても<愛>を渇望してやまないものの正体とは何か?
ん!! ああ、そうか…、そういえばさあ、あなたのいう<言語以前的事件>を、あたしのいう<無言の物語的愛>によって喚起される<何か>かもしれないとすればねえ、その<何か>は人類を滅亡へと誘うだけの<無言の生命力>に呪縛された<絶望する愛>によってしか語れないのだから、<言語以前的事件>もまた<絶望する愛>によってこそ語られていくべきなのよ。
とにかくここでは、いかに<言葉>たりえぬものであっても、結局は<言葉>によってしか喚起しえないってわけね、でしょ?
——ハハハ。実は、僕としてもねえ、この<言語以前的事件>によってこそ、君の言う<愛の原理>を超克してみたいと思ってるわけさ。
ふうん、するとあくまでも<劇中作家>に徹することで、何んらかの希望を見いだそうってわけね、感心じゃないの?
——まあね。とにかく君の言う<言語以前的何か>を、<絶望する愛>とやらによって語ってくれたまえ。
フン!! 偉そうに…。じゃ、いいのね?
とにかくねえ、すでに生まれ生きている人間の存在理由を<生命力>と見定めるならば、ここで<無言>のうちに生命現象を移り行かせる<生命力>とは、いかなる<物語>においても善悪の価値判断に対しては本来<無記>と言わざるをえない。
ところがこの<生命力>は、何ごとかを創造しつつ破壊し消費する力として何ごとかを移り行かせる力であり、常一主宰といいうるものや恒常不変なるものを存在させることができないために、とりあえずは<荒ぶる力>と呼ぶのがふさわしいってわけね。
それにもかかわらず<荒ぶる力>は、それを担うものに<主体性>を与え、さらに他者に向かって働きかける力となって<力の行使者>を反照的に規定し、他者との役柄関係を深めてより確固たる自己同一性を充実させた<力の行使者>を実体化し、いよいよ価値判断という差異づけの<原理>として機能することになってしまう。しかも、この<荒ぶる力>を、自己拡大化の技術として持つ人間は、すでにその力によって人類滅亡の可能性をも手中にしてしまったために、その人間的なる<荒ぶる力>こそを<暴力>と呼ばなければならないってわけね。
つまり、人間の存在理由とは、<生命力ゆえの暴力性>であり、その<暴力>とは、<差異の原理>によってとめどない善悪を発生しつづけることになる。
——そこで君は、この<生命力ゆえの暴力性>こそが<愛>だってわけだね。
そう。だから<愛の原理>とは、その排他的な暴力の究極を人類滅亡に見定めるまでもなく、<暴力ゆえの苦悩>を背負っているために、それは<生命力ゆえの苦悩>と言いうるほどに呪われているってわけね。
つまり、あらゆる<物語>の存在理由を<無言の生命力>と見定めるときに、すでに<無言>と言いうる<言語以前的言語>や<自己否定的言語>においても<暴力である愛>は、<善悪>や<聖俗>の価値判断と同様にやはり<美的価値判断>の動機となるべきものであるために、<美>もまた<善悪>や<聖俗>と同様に<生命力ゆえの苦悩>を背負わなければならないと言える、どお?
正に、この苦悩を回避しえぬ<絶望する愛>への撞着こそが、<美学>のみならず<芸術論>や<宗教論>においてさえすでに用意されている回答ってわけね。
——すると君は、当然のこととして<物語的人格>の表現欲求の正体とは、<無言の生命力である愛>だって言いたいわけだね。
まあ、そういうことね。
すでに<芸術論者>であるものが、<言語以前的事件>を考えるとするならば、何よりもまずこの<絶望する物語的愛>と対峙しなければならないってこと。とすれば、この<絶望する物語的愛>を解放せんとするあなたの<反=反省的芸術論>という立場も、結局は自らの存在理由である<絶望する芸術論>の中でしか語れない<解放論>にすぎないのだから、あなたが<芸術論者>を自認するかぎり<絶望する愛>を超克することは出来ないってわけね。
——まあまあ、とにかく聞いてよ。ここで君の<言葉>を借りれば、<言語以前的事件>とは<荒ぶる生命力>として実践されなければならないってわけだね?
ん、まあね。
——そこでね、止めたくない<芸術論>を「止めたい」と言ったり、あるいは別れられない<退廃的な愛>を「別れたい」と言ってしまうという、僕のこの克服しがたき<自己分裂>の現前で、もはや宗教による<愛の救済論>に堕落することなく、<愛>の解放を<荒ぶる力>の体得としてお目に掛けようってわけさ。それは当然のことながら、あの<夢物語>で「別れたい!!」と叫びつづけていたことの謎解きでもあるってわけだね。
ねえ、あなた、それは酔いにまかせての大風呂敷じゃないの? 大丈夫?
もしもこれで、語るに落ちたりすると、自己不信を抱えた<言葉>こそを最後の切り札にしてるんだから、それこそ再起不能よ?
だいたいねえ、<愛の原理>を反省的に<絶望する物語的愛>として見定めることのない<芸術論>においては、そこで<愛>がたまたま<芸術論的苦悩>に姿を変えていても、それは<感覚的な形而上学>ともいいうる個別化された<自愛的断定>にすぎないのだから、結局は<神の愛>なんていう超越的な権能の差異形式に組み込まれて、<神>の下部に成り下がるだけなのよ。
もうマーラーの時代じゃないんだから、<神>を裏切り切れずに結局は<神>の前に挫折してしまう<物語>の再現なんて、<傲慢なる神>のキャンサーに犯された<芸術論的形骸>にすぎないことくらい、誰だって知ってることなのよ?
——まあ、今さら白状するまでもないんだけどね、僕の<反=反省的芸術論>としての<反省>はね、なにも<反省>そのものを止揚することが目的じゃないんだから、ここがすでに<神の力>など及ばぬ<物語>であることは、十分に承知しているのですよ。
とにかく、お任せあれ。すべては、この<反=反省的芸術論>の<反省>にこそ掛かっているってわけさ、ムハハ。
でもねえ、あなたの<反=反省的芸術論>の<反省>なんかでさあ、さんざん自己欺瞞を重ねてきた<劇中作家>の悍しいほどの<自愛的欲望>が克服できるの?
それにねえ、あなたの言う<言語以前的事件>が<荒ぶる生命力>の体得だとすればねえ、それは当然のことながら、<即自的な反省以前的行為>ってことになるんじゃないの? つまり、ここでは反省が不可能ってわけじゃなくて、これは<反省が生起する以前の事件>ってことなのよ?
——まあね。ところが、ここには<言葉>のトリックが隠されているってわけさ。
つまり、<反省以前的行為>っていうのは、結局<厳密なる反省的経験>によってしか実現されないってこと。それは、<言語以前的事件>が、<言葉>で語られる<事件報告>となることによって、初めてその<何か>を<事件>として問うことができるのと同様ってわけだね。
あららっ!! あなた、どこか身体の調子が悪いんじゃないの? それともコーヒーが濃過ぎたのかしら?
——ど、どうして!?
だってさあ、とっても明晰よ。まるで、あなたらしくないじゃないの? いったい、どうしちゃったの? ハハハ。
——なっ、なんちゅう侮辱!! これ、この姿こそが、僕の実相なんですよ。
へえ…、世の中には、聞いてみなきゃ分からないなんてことが有るもんなのねえ、ハハハ。で、どうなの? ギンギン的体質は回復できたの?
——残念でした。まるで音沙汰がないねえ。ま、本人がどういうつもりなのか、僕にも、さっぱり見当がつきませんねえ、ハハハ。
ハハハって、何よ?
それじゃあなたは、もうギンギン的体質まで超克しちゃうつもりなの?
——さっきから、言ってるじゃないか? 僕の身体の調子までは、君の論理ゲームなんかで管理することは出来ないって、ねえ?
ふうん…。まあ、とりあえずは、いいとしておきましょう。で、その先は?
——とにかくねえ、僕は、<表現行為>と<表現経験>によって語りうる<表裏一体の体験>という反省的構造に気付くことにより、ささやかなる明晰さを獲得したっちゅうわけですよ。それゆえにこそ僕は、ここで<劇中作家>としての<永劫の反省>に呪縛された身分を、<絶望する物語的愛>によってこそ祝福された喜びとして引き受ける知見に到達できたってわけさ。もはや、逃げも隠れも致しませんぞ!! ムハハ。
だけどさあ、たとえそれが、自己欺瞞の最後の開き直りだとしてもねえ、いったい何が、あなたをそれほどセクシーな男に変身させてしまったのかしら、ねえ?
——だめだめ…。もはや、おだてに乗るような僕じゃありませんぞ、ムハハ。
ま、たとえこの僕がだね、セクシーであったにしてもだ、それは、たまたま僕がアホ印のパンツを脱いだところに、発情する君が遭遇しただけのことですよ、ハハハ。
ふうん…、こうしてみると、やっぱり今日のあの死闘こそが、あなたを覚醒させたと見るべきなのね。
——さあね。僕としちゃ、ま、ほとんど普段と変わりませんがねえ…。そう、強いて言うならば、君の<絶望する愛>に呪われた<物語論物語>という偏見が、明晰さという思い上がりによってだね、僕のありのままの素晴らしさを理解しようとしていなかったってことさ。
そんなはずないでしょう? ささやかなる明晰さで思い上がってるのは、あなたのほうじゃないの? とにかくねえ、この情況から判断すれば、あのギンギン的体質に翻弄されていたことが、あなたの理性を曇らせる病気だったってことなのよ、でしょう?
だからこそ、インポテのあなたが、あの精力絶倫からすれば屈辱的なほどに限りない遠ざかりである死闘において、己の<不成就性の欲望>を贖う努力こそが、はからずしも、あの<夢物語>における不成就性の「〜したい」欲望に対する反省たりえたってことなのよ。
——んん…、まあ、確かにねえ、僕としては<夢物語>がそうであったように、僕が僕であると思い込むことが<自己分裂的苦悩>であるということ、そして同時に、僕が僕であることを止めるという苦悩なしには、<夢的苦悩>もインポテも克服できないだろうという、この二重拘束の絶望こそを自覚するのに吝ではありませんよ。
でもねえ、この自覚がだよ、たとえ君をして僕に二度惚れさせることになったとしても、この自覚だけで、すべてが解決されるわけじゃあないんだね。
フン、かわいくない言い方!! それで、その自惚れの結末は?
——まあ、あせらずに聞いてちょうだい。
たとえ僕が、<絶望的芸術論>で<劇中作家>に徹するとは言ってもね、そこはやはり<表現者>としての来歴にかかわる心情というものがあるわけだから、唐突に<神的表現者>への信仰を捨てるってことも出来ないんだねえ。
ああ、無論、この<神的表現者>にしたところで、もはやこの<物語論物語>に土足で踏み込むようなことは出来るわけがないんだけどね。
当然でしょ。<神>だろうと<神話作家>だろうと、あたしたちの愛の暮らしに干渉することなんか出来っこないでしょう?
——ということは、僕らもまた、<神的表現者>に対しては、<絶望する愛の芸術論>を押し付けることが出来ない。ところでこの事情を、君はさっき<物語的言語>の多義性って言ったけど、いま改めて、それが絶対性を排して多様でありうるところの根拠について探ってみると、それは僕たちが、いまだ入力されていないCRT画面をすでに埋め尽くしている<無言の物語>において、すでに<言語以前的事件>を実現しえていたからこそ言えることなんだと考えられるってわけさ。
それゆえに、僕たちが<絶望する愛の芸術論>を主張しえたということは、同時に、それを可能にした<言葉>の存在によって、それまで隠棲していたはずの<神的表現者>が、その<言葉>の<言語以前的事件>として、自らの<神話>をあるいは<救済論>を語りえていたはずだってことさ。
でもねえ、ひょっとするとそれは、<正体不明の表現者>であるあなたが<神的表現者性>と<劇中作家性>を、その<言語以前的事件>に対して個別の<物語的人格>として存在させたことにしかならないんじゃないの? もしも、そうだとすれば、あなたは辛うじて<自己分裂的に統一>されている自分を、かえって確固たるふたりの<表現者>として分裂させ、両者は同等の権利において自己を主張しうる人格になってしまうわよ。
つまり、<言語以前的事件>を言うために、不本意にもあなたは、いや、むしろ予想通りあなたは、ふたりの<表現者>を<実体化>してしまうという自己矛盾に陥ることになってしまうのよ!!
——まあ、まあ、まあ…、そう、あせってはいけませんよ。
その心配はね、<言語以前的事件>にかかわりそれを暗示する<物語的言語>が、<表現行為>と<表現経験>という相対化された表裏一体の<反省的体験>として理解されることによって、自ずから解決してしまうはずなのさ。
つまりね、<劇中作家>が絶望的愛の「芸術論を語りつづけるという<行為>」を、<神的表現者>が「救済論として書きつづける<経験>」として反省するということが、あるいは、<神的表現者>が「救済論を語りつづけるという<行為>」を、<劇中作家>が絶望的愛の「芸術論を書きつづける<経験>」として反省するということが、さらには、どちらかが「書くという<行為>」を、他方が「語るという<経験>」として反省すると言いうることが、ことごとく『<ある表現者>が<文字>を書いた』という<言語以前的事件>によってこそ保証されるってことだね。
ふうん…。するとあなたは、<絶望する愛の芸術論>を語り書く<劇中作家>が、<とりあえずの人格>であるところの《ある表現者》だっていうわけ?
——まあね。そして、<救済論>を書き語るところの<神的表現者>もまた、<とりあえずの人格>である《ある表現者》であるにすぎない。
ふむふむ。そうすると、その二重人格的な《ある表現者》って、いったい誰なの?
——ハァイハァイ!! よくぞ、聞いてくれました。
その《ある表現者》こそが、あらゆる<言語以前的事件>を喚起しうる<荒ぶる生命力>ってわけだね。つまり、<物語論物語>のみならず<無言の物語>である空白のCRT画面が、すでに<絶望的愛の原理>で埋め尽くされているにもかかわらず、《ある表現者》という反省的構造を体得した僕は、《ある表現者》が言語以前的に<荒ぶる生命力>そのものであることによって、ことごとくの<物語>に蔓延する<生命力ゆえの苦悩>である<絶望的愛>を突き抜けた<言語以前的事件>として存在できるってわけさ、どお?
ふうん…。確かにねえ、あたしたちにとっては、「文字を書く」のが誰であろうと関知するところではないんだから、たとえあなたの言う《ある表現者》が存在するとしても、そんなことに、今さら異議を申し立てるつもりはないのよ。でもねえ、あなたが、単に反省的であるというだけのことで、十全たる《ある表現者》たりうるっていうの?
——つまりは、《ある表現者》を体得する反省的方法について語れってわけだね?
まあね。
——ということは、<言語以前的事件>である《ある表現者》を、<方法論>とか<実践論>という<言葉>として語れってわけだから、ここでまず注意しておかなければならないことは、《ある表現者》について<語る>ことが、それ自体<反省的な解放的事件>であるということ、言い換えるならば《ある表現者》とは、誰かの<反省的な解放的事件>としてしか語れないために、《ある表現者》が誰かに語られ体得されたときには、そこに至る<方法論>であり<実践論>でもある<解放=論>は、<解放的事件>の真っ只中でことごとく解放されて<論>たりえなくなってしまうってことが起こるわけだね。
ふうん、だけどさあ、これは<表現者>としての<究極的な自己否定>に拘わる問題でもあるんだから、ただ<言葉>では語れないからって、何んでもかんでもすぐに諦めちゃう禅みたいに座ってりゃいいってもんでもないでしょ?
——その通り!! いいですねえ、いいところを突いてますよ。
だからこそ《ある表現者》になるってことは、<表現者>にとっては<究極的な自己否定>を必要とするにしても、それによって<表現者>であることを一切解消し、表現意欲のかけらもない生きる屍に成り下がるってわけじゃないんだから、正に君のいう<永劫の反省的表現者>として生きつづけなければならないってわけさ。
つまり《ある表現者》は、まかり間違っても、<反省的表現体験>に無頓着な禅僧が芸術家を気取って、臆面もなく墨蹟を売りさばくような醜態を晒すわけにもいかないってことになるね、ムハハ。
さてさて、そこで《ある表現者》について語るとすれば、まず《ある表現者》が書く<文字>は、<絶望する愛の言葉>であると同時に<確信する愛の言葉>でもありえたってわけだから、これを言い換えるならば、<劇中作家>と<神的表現者>が、それぞれ何を語り書こうとも、それは《ある表現者》の書いた<文字>としてしか存在しないってことだね。
ここで重要なことは、「《ある表現者》が文字を書く」という<言語以前的事件>は、<読者>といいうるあらゆるヒトビトをも含めて、誰にでもどのようにでも解釈され意味付けされうるという性格のために、<物語>という存在理由によってこそ何事かを理解し表現することができるヒトビトに対しては、<物語以前的事件性>によりすでに<無目的的行為>として存在していることになってしまう。それゆえに《ある表現者》の<文字>は、この<無目的性>のために<文字>を書くことが目的で書かれたにすぎない<文字>となり、《ある表現者》の<表現行為>を一元的構造の自己完結性へと昇華させることになるってわけさ。
そこで、この自己完結的な行為を<純粋行為>と呼ぶとすれば、自らが純粋行為者であることを知る反省は<純粋経験>ってわけだね。言い換えるならば、<純粋経験>として反省的に体験されたものこそが、<純粋行為>に他ならないってわけさ。
したがってね、「《ある表現者》が文字を書く」という<行為>と<経験>は、その純粋性において<完結した事件>と言いうるわけだね。
そうすると、<劇中作家>も<神的表現者>も、あるいはすべての<物語的人格>も、この<純粋行為>にして<純粋経験>である「文字を書く」という事件を喚起することによって、みんなが《ある表現者》たりうるってわけね。
——そういうことですねえ。したがってね、こういうふうに言い換えることも出来るってわけさ。いいかい? 僕は《ある表現者》に自己無化となる純粋性の反省によって、<荒ぶる生命力>の芸術論を自己実現することなり、<神的表現者>は、やはり《ある表現者》に自己無化となる純粋性の反省によって、<荒ぶる生命力>の救済論を自己実現することができる。
つまりねえ、《ある表現者》は、本来、<劇中作家>と<神的表現者>に対して自己無化であることによって、<荒ぶる生命力>の<物語>を、かかる<物語的人格>によって自己実現することが出来るってわけさ、どお?
うん、いいわよ、素晴らしいじゃないの!!
んん…、でもねえ、まだ基本的な問題が解決されてないわよ。いい、その《ある表現者》を想定したとしてもねえ、<文字>の発生論ってところから考えていけば、やはり<先験的な物語>がなければ、「文字を書く」ことは成立しないのではないかって問題ね。
つまり、たとえ《ある表現者》の書く<文字>にしたところで、<文字>は<言葉>としてしか書きようがないのだから、<言語以前的事件>としては存在のしようがないってことに対して、どのように回答するつもりなの?
——ふむ…。
そうだねえ、ここで<劇中作家>である僕にとっての《ある表現者》への覚醒っていうのは、すでに与えられている無自覚な<物語的行為・経験>を、反省的に<経験>し<行為>して再び物語的に意味付け直すことであり、同時に、いま<経験>し<行為>していることの<物語的意味>を、反省的に浄化した<無意味性の物語>へ、あるいは<無目的的な物語的行為・経験>へと送り返す<事件>を喚起するってことなんだね。
だから《ある表現者》とは、あらゆる<物語>に対して先験的に存在する<絶対的な無意味者>として考えるわけじゃなく、すでに与えられている<物語>という<言語世界>によって、否定的にあぶり出されたものとして語るに止どめるしかないってわけだね。ここでは、無意識のうちに<言語世界>によって生まれ生きつづけてしまった者は、<神という意味>の出生を<言語>に辿ることは出来ても、<言語>の出生を<神という意味>に辿ることが本末転倒であることを知ってしまえば、この<言語>の循環構造において<言語>自身の出生を<発生論>として語ることが自己欺瞞になることを回避できない。
つまり、ここで言えることは、「《ある表現者》が文字を書く」ときにすでに用意されていた<物語>とは、僕たちの<未知的無意識>という<無言の物語>にすぎないのだから、自分の<言葉>を辿って<未知的無意識>に踏み込むことによってしか、《ある表現者》として<文字>を書くことができないってわけだね。それは同時に、自分が無自覚に語っている<言葉>が、すでに<文字>として存在しうることに覚醒することでもあるはずなんだね。
ふむふむ、いよいよ明晰さが、身についてきたってわけね。
そうすると、あなたが、あの<夢物語>の中で<あたしたりえぬあたし>に「別れたい!!」と叫びつづけていたことが、結局は<開放宣言>だったってことなの?
——ん、まあね。
つまりね、<物語論物語>における<夢物語>の反省的構造というのは、<夢物語>に<君たりえぬ君>の措定によって<劇中作家>の<反=反省的芸術論>の立場を確保して、何かにつけてインポテ症状を抱えた<劇中作家>が、<物語論物語>においては<言葉>たりえていない<不成就性の欲望>を、<夢物語>において反省的に対自化することにより、ここに拓かれる<言語以前的事件>を《ある表現者》の<言葉たりえぬ解放論>として提示しえたってわけだね。
それは結局のところ、<絶望する愛の芸術論>に対する反省が<夢物語>という<反=反省的芸術論>を拓き、そして<夢物語>が神秘体験といいうる自動書記現象であったことが、<劇中作家>の僕にとっては正に<純粋行為>として「文字を書く」ことを可能にし、それが<夢的人格>の僕にとっては、「夢を語る」こととして<反=反省的芸術論>の<純粋経験>を可能にしたということ、さらにそのことが、<絶望する愛>を<純粋行為>することとして、<物語論物語>の<物語的愛>の解放を<純粋経験>することが出来たことになるという仕組みってわけだね。
ということは、あなたの言う<開放論>の目的が、ヒトビトにとっても《ある表現者》の体得として認知されるならば、すべての<物語世界>における<愛>の暴力と非暴力が、あるいは<差別する愛>と<差別される愛>が、共に同等の権利で自己の正当性を主張しうるってわけね?
——まあ、そうだね。でも、ここで言う自己主張とは、当然ながら<反省的表現行為>と<反省的表現経験>でなければならないってこと。なぜならば、これはすでに君が言ったように、反省とか自己批判こそが、<物語>を<物語論>として展開させる唯一の創造力を保証してくれるからってわけだね。
それにしてもねえ、あたしが言っていた<物語的人格>の存在理由を反省的に見定めるということが、まずは<意識的な物語>ゆえの役柄的意味を排して、<無意識>の現前で<自分たりえぬ自分>に遭遇する<非人称的な知覚>に目覚めることだとすれば、それを、あなたが「《ある表現者》が書いた文字」に覚醒することとして言い換えるにしても、あたしは、あなたの言うそんな無味乾燥の<開放論>だけじゃ納得できないのよ。
つまり、《ある表現者》に覚醒したあなたは、これからどのように生きつづけるつもりなのか、これを明確に示さなければならないってこと。そもそもねえ、「別れられないから別れたい」と言い「別れてしまいそうだから別れたくない」と言う、そんな愛を絶望として生きることによってこそ<物語的人格>としての喜びがあるのよ。
とにかくねえ、<開放論的人格>の《ある表現者》なんかじゃ、まるで無色無臭の透明人間みたいで、面白くもおかしくもないじゃないの、でしょ? そんな《ある表現者》としていくら生きつづけたって、いったいどれほどの<物語>を創造しうるって言うの?
——ハハハ、それこそが、<絶望する愛>こそを生きる大地母神としての心意気ってわけだね。ところでねえ、君は<カイホウロン>という<言葉>をかなり無頓着に使っているけれど、僕にとっては、<解放論>と<開放論>のふたつがあるってわけさ。
つまりね、君の言う<物語的愛>に対する<物語論>としての<カイホウロン>とは、僕に言わせれば<開放論>ってことになるから、君の<反省的開放論>という発想からすれば、《ある表現者》の<非人称性>には何んらかの不満が残るかも知れないけどねえ、僕の言う<解放論>では、君の<反省的開放論>をさらに<反=反省的開放論>として反省することによって、<物語的愛>を肯定へと転じて<物語的人格>の<自己愛>こそを<解放>しているってわけさ!!
これを<開放論>から言い換えれば、<物語的愛>を<開放>するためには、<反省的解放論>によって否定された<自己愛>を、さらに<反=反省的解放論>として反省し返すことにより<自己愛>を再び肯定しなければならないってわけだね。
だからこそ、「物語的愛の<開放論>」にして「自己愛の<解放論>」たりうる《ある表現者》は、<物語的愛>と<自己愛>を否定的に反省したものの、<とめどない反省>ゆえに浄化された<物語的愛>と<自己愛>を積極的に担う<肯定者>としてさえ存在することが出来る、どおですか? ムハハ。
ふむ、<開放論>と<解放論>か…、チクショウ、あたしとしたことが、ちょっと迂闊だったかなあ…。だけどねえ、ひとたび浄化してしまった<物語的愛>と<自己愛>じゃ、やっぱり毒気がなくて、面白くないんじゃないの?
——そうかなあ…。この<物語論物語>においても、僕たちの<愛の絆>が<文字>であること、この知見にもとづいて反省的に語りつづける限り、僕たちは、互いの欲望をいかようにでも実現しうる可能性を束縛しないってわけさ。だから、君が<荒ぶる地母神>ならば、僕は君を生かしつづける<永劫の荒ぶる生命力>でありつづけるだろうってことなんだけどねえ。
ただし、そんな僕の<荒ぶる生命力>は<絶望する愛>の中でも、もはや<暴力たりえぬ生命力>と呼ぶにふさわしいものになっているはずだね。
ふうん、じゃあなたは、いつの間にか、密教に言う宇宙的規模の<清浄なる生命力>とも言いうるものとして、ギンギン的体質を回復した<芸術論者>でありつつ、厳密なる反省の<解放=開放>論者だって言うの?
——まあね、ムハハ。
すでに僕のギンギン的体質は、<純粋なる生命力>を物語的に具現化させる創造力でこそあれ、<不純的欲望>の破壊力ではありえないのだ。
まして君の言う<開放論>が、<物語的愛>を担う<物語的人格>どうしの対他的な関係における<反省的知見>であるとすれば、僕の言う<解放論>とは、<物語的愛>を<自己愛>として担う<表現者>の対自的な場面における<反省的知見>ってわけだから、たとえ君が、<物語論物語>という開放系においてのみの十全たる<物語的人格>だとしても、僕は、<小説=物語論物語>という閉鎖系においてさえ十全たる<解放的劇中作家>たりうるってわけさ。
結局、僕は<聡明なる表現者>でありつつ、しかも君の<絶望する愛>に隷属する情夫でありつづけるだろうってことさ、ね? ムハハ。
何よ!? それじゃあなたは、タカリを正当化するために<解放論=開放論>をデッチ上げたっていうの?
——そっ、それは、言い掛かりってもんだよ。
それにしたって、君は、この不純交際を創造的に絶望させていくつもりだったんじゃなかったのかい?
でもそれは、あなたが<劇中作家>として<永劫の反省者>である限りにおいてなのよ。ところがあなたは、口では《ある表現者》として<永劫の反省>を生きつづけるようなことを言っておきながら、<劇中作家>としては、この反省を保証する正直性すら順守してないじゃないの?
——んん? どうしてさ?
だって、今あなたは、いつの間にかウィスキーのがぶ飲みを始めて目の座った<劇中作家>にすぎないのだから、所詮は、そんな体たらくの情夫を言い繕うために、<解放>と<開放>の言い分けをした嘘つきにすぎないってこと。
つまり、ここでは、<解放>と<開放>が《ある表現者》の<純粋行為>と<純粋経験>によって書き分けられたわけじゃなく、まったく作為に満ちた<神的表現者>か欲惚けた<劇中作家>として書いたことなんだから、その企みによって<行為>と<経験>の純粋性を自己否定してしまっているのだ!!
そもそもあなたは、<絶望する愛>に対する<夢物語>で<反=反省的芸術家>を擬装しつつ、単に<不成就性の欲望者>の閉塞情況にすぎないものを、《ある表現者》としての<純粋行為>へと擦り替えて私物化し、そのまま<物語論物語>へと回帰して<自己完結的な不成就性の欲望>を捏造することにより、《ある表現者》の<純粋経験>を私物化して、まんまと<神的表現者>たりうる<とりあえずの劇中作家>に変貌してしまっているのだ!!
それは、奇しくも<絶望する愛>において唯一の希望たりえた<解放=開放>論そのものを、恥ずかしげもなく無力化して生き延びようとする、大嘘つきの<神的表現者>の企みに他ならないのだ!!
——おおっ、自分の明晰さに陰りを認めるのに耐えられないからって、今さらそんな言い草は通らないのだ!!
たとえ僕が、がぶ飲みのウィスキーに泥酔しようとも、それは単に<絶望する愛>に隷属する情夫のごく日常的な情景にすぎないのだから、これが《ある表現者》の純粋性を損なうものにはなりえないのだ。現に僕は、泥酔の果てにあの<饐えたナルシスト>に埋没することなく、見事なほどのギンギン的情夫として復活して見せようじゃありませんか!! ムハハ。
だいいちだね、そんな君の言い掛かりを通用させてしまったんじゃ、ここまで君と僕が悪戦苦闘のすえ215ページに亘って語りつづけてきたことが、ことごとく無意味になってしまうのだ!! とにかく、つまらない冗談はよしてくれたまえ。
あなたねえ、あなたは今、このつまらない冗談でも用意しなければ、あたしたちが、ここまで語りつづけてきたことを、<無意味性>によって《ある表現者》へと送り返すことが出来ないのよ? 分かる?
——きっ、君ねえ、そんなこと言ったら、ここまで辛抱強くお付き合い頂いた<読者>を愚弄することになってしまうじゃないか?
冗談じゃないわよ。このまま、だらだらと語りつづけることこそが、<読者>を愚弄することになってしまうんじゃないの!!
あたしはねえ、《ある表現者》の反省的な可能性に希望を託したいからこそ、もうこの<物語>を止めようと言ってるのよ。だって、そうでしょう? <物語論物語>という反省の論理ゲームは、もはや戯れの<純粋行為=純粋経験>として葬り去ることによってしか、<解放=開放>論たりえないのよ、でしょう?
完
1986年11月
こや のりよし
「ああ、僕は、何とかこの女と別れなければ…」と思いつつ…
はここで終わりです。