第四章



僕の「〜したい」夢物語



 あなた、今、それは無理よ…。

 ——でも、僕は、どうしても「〜したい」んだ!!

 そんなこと言ったって、もうすべてが、こうなっちゃってるのよ。今さら、もとには戻せないわよ。

 ——うっ、うん…、それは分かってるんだ。

 だったら、そんな無理を言って、あたしを困らせないで…。
 あたしはねえ、あなたに言われるまでもなく「〜させて」あげられるカワイイ女でいたいのよ。でも、どうしても、それが出来ないのよ。

 ——ん…、なんか、変んだなあ…。どうしたんだい? 
 いつもの君らしくないじゃないか? 身体の具合でも悪いのかい?

 ううん、そんなことはないわよ。ただねえ、何んと言われても、あたしは「〜させて」あげられないのよ。で、でもねえ、もしもあなたが望んでくれるなら、あたしの唇から<言葉>を奪って欲しいの…。いま、あたしに出来ることは、そうされることだけなの。

 ——いや、そんなことじゃないんだ、違うんだ。こんなときに、僕は、君の<言葉>を奪ってしまうわけにはいかないんだ。とにかく僕は「〜したい」んだ!!
 でもねえ、これだけは誤解しないでよ。僕は、君の愛に証を求めて「〜したい」と言ってるわけじゃないんだ。だいいち、君を困らせるつもりなんか、全然ないんだ。ただ僕は「〜したい」、いや「〜しなければならない」んだ!!

 それは無理なのよ。あたしは、あなたを愛してるわ、だから愛の証を求められたのなら、どんなことでもしてあげられるけど、それだけは出来ないのよ。

 ——おお…、僕は、愛する君のためなら、どんな試練にだって耐えていくつもりだよ。そんな僕が、君を困らせて喜ぶわけがないじゃないか?
 でも僕としては、君を愛するがゆえに「〜したい」んだよ。つまりね、これは君にしか頼みようがないことなんだ。

 でもねえ、あたしがそれを断わらなければならない理由ってねえ、あたしには、その資格が無いってことなの。たぶん、あたしがそうしてあげることはルール違反なのかもしれないわ…。だから、あたしに、あなたの希望をかなえてあげる気が無いってことじゃないのよ。分かってもらえるかしら…。

 ——分からないよ、僕には分からないよ!!
 なぜなんだ、どうして僕には「〜させて」くれないの?

 ああ…、あたしだって、あなたのためなら、そうしてあげたいのよ。でも、どうすることも出来ないの…。

 ——じゃ僕が、どうしても「〜したい」とすれば、どこへ行って、いったい誰に頼めばいいっていうの?

 やはり、それにも答えられないわ。ごめんね…。
 とても辛い言い方なんだけど、これはあなた自身の問題なのよ。だから、誰もそれに手を貸すことは出来ないわ。結局あなたが自分で解決しなければならない問題なのよ。

 ——どうしてなんだ!! どうしてなんだ!! まったく分からない。
 もう僕は、「〜したい」ってこと以外には、何も考えられないほどさ。それなのに君は、まして優しい君が、どうして僕を避けようとするの?

 ああ、かわいそうに…。
 でもねえ、あたしは、あくまでもあなたを見捨てたりなんかしないわよ。

 ——そ、そんなあ…、それじゃ、僕の要求から逃げようとする君が、なんでわざわざ僕の前にいるの? 僕が「〜したい」ってことが、君に対して、そんなに不都合な要求だっていうのかい? そんなはずはないんだ!? 
 だって、これは僕を見捨てないと言ってくれる君としか実現できないことじゃないか、そうだろう? そ、それとも、僕の愛が…、いや君の愛が、偽りだとでも言うのかい?

 ねえ、これだけは信じてちょうだい。あたしは、あなたをだましたり貶めるために愛を語ってるわけじゃないのよ。でもねえ、とても哀しいことだけど、あなたのその希望には、ノンを言ってあげることしか出来ないのよ。いや、むしろそのために居るのかもしれないわ。

 ——そりゃあ、おかしいじゃないか、そんな君が、どうして僕を見捨てないなんて言えるのかね? それじゃまるで、何も知らされてない僕の愛が、惨い仕打ちをされていることにしかならないじゃないか? それとも僕は、知らないうちにそういう罰を受けるべき罪を犯してるってことなの?

 ううん。あなたは、あたしの愛を裏切るようなことはしてないわよ。
 でもねえ、ここでいま、あなたにはっきりと言ってあげられることってねえ、あなたが、その「〜したい」っていう哀しい望みを言い出さなければ、たぶんあたしは、このような形であなたの前に現れることはなかっただろうってこと。

 ——す、すると君は、僕の「〜したい」ことに反省を喚起させるためにいるってこと?

 ん…、それは分からないわ。でも、もしかしたら、あなたにとっては、あなたではないと思うことで、あなたに拘わる何かなのかもしれないわね。

 ——それじゃ君は、僕のいない<僕の物語>で、僕が求めても得られない<優しさ>のすべてを担ってるってわけ?

 たぶん、そうなのかもしれないわね。そう、もっと端的に言えば、今のあたしは、あなたが「〜したい」と言うこと以外の何かであるのかも知れない…。

 ——どうしてなんだ? どうしてそんな言い回しをするのかなあ?
 おや? そう、そういえばなんだか変んだな…。ああ、そうか!! ここは学生の頃に住んでいた日暮里のアパートじゃないか…。そ、そうだよ、この西陽の当たったガラス窓、この机、ほら、懐かしい本が揃ってるよ…。
 あ、あれ? すると、何んで君がここにいるの? 君と出会うには、まだ十数年も早いじゃないか。そ、それなのにさ、なんかしっくりいっちゃって、とても懐かしい感じじゃないか? あ、あ…、切ないほどに美しいねえ。どうしてなんだ…。
 ん? そういえば、そうだよ、どうして僕は、君に「〜したい」なんて打ち明けてしまったんだ!? そうなんだ、とにかくこの一言は、君にだけは言ってはならない<言葉>だったはずじゃないか?
 それなのに、それなのに、僕は、どうして臆面もなく、君に「〜したい」なんて言いつづけてるんだ? 僕は、いったいどうしちゃったんだろう…。

 ううん、いいのよ。だってあたしは、あなたの「〜したい」欲望の前に立ちつづけるためにいるんだから…。あなたは、いま自分の気持ちを偽る必要はないのよ。つまりねえ、あたしは、あなたが何も言わなくたって、あなたのことが分かるの。そう…、あなたがこの部屋に住んでいた頃のことも、そればかりじゃない、そのずっと前のこともね…。
 あなたを愛しているあたしにとってはねえ、そんなことは知ってても当然なのよ。なぜならねえ、ふたりの愛にとっては、あなたはあたしで、あたしはあなたなんだから、そうでしょう?

 ——とすればだよ、余計におかしいじゃないか? 君は、僕の「〜したい」っていう希望に対しては、他人事では済まされない言わば宿命的な関係を持っていたってことになるんじゃないのかい? だとすれば、君にとっても、ただノンと言うだけじゃなく、自らが回答しなけりゃいけない問題ってわけじゃないか?
 それなのにノンとしか言わない君は、自分を否定するためにだけ存在しているにすぎないってことになるよ? そしたらだよ、僕以外の僕である君によって、拒否されつづける僕の希望もまた、僕の自己否定的欲求にすぎないってことになっちゃうぜ?
 僕が「〜したい」ってことは、そんなに荒唐無稽なのかい? それとも、君が支離滅裂だってことなの?

 それにも答えることは出来ないわ。とにかく、あたしはノンとしか言えないんだから、そうやって問いつづけられることが、とても辛いの…。あなたを、苦しめることにしかならないんですものね。

 ——ええ? 「〜したくて」苦労している僕が、いつのまにか君までを苦しめちゃってるってことなの? ああ…、そんな…。
 ふむ…。そうするとさあ、それは、僕が君に「〜したい」と要求するからだけじゃなくて、君に問いつづけるということ自体にも原因があるってことなの?

 多分ね。でもねえ、たとえここにいることが辛くても、あたしは、あなたへの愛を確信できるからこそ、こうして存在してるのよ。それはねえ、決してあなたを苦しめることが目的なんかじゃないのに、あなたの愛があたしを必要としている限りは、あたしはここで、自分の愛を疑うことは出来ないってことなの…。
 たぶんあなたは、あたしを愛してくれているからこそ、「〜したい」と言わずにいられないのかもしれないけれど、あたしにはノンとしか言ってあげられないのよ。

 ——ん…、やっぱし分からない!!
 だってそうだろう、君はいま、僕が君に「〜したい」ということは、君を愛する者なら当然のことだと言ってるんだよ? それなのに君は、あくまでも僕を拒絶しつつ、おまけに君は拒絶する自分にさえ辛い思いをしてるんだよ。
 どうしたんだ? いつもの君らしくないじゃないか? どうして君が、こんなたわいのない自己矛盾に落ちてしまうんだよ?
 ハハァーン、君はまた、念の入った演技で僕の<ひたすらさ>をじらして遊んでるってわけか?

 ああ…、いまのあたしは、そんな女じゃないわ。それは、あなたが一番よく知ってるはずよ。そうでなければ、あなたはあたしに「〜したい」とは、打ち明けることはなかったはずなのよ。

 ——ふむ…、それは確かにその通りかもしれない、それは確かに、分かってはいたんだけどね…、ん? 分かってる? 
 ええっ!! いったい僕は、何が分かってるっていうんだ!? こ、これは、いったいどうなってるんだ?
 僕は、すべてに居心地が悪いっていうのに、すべてが在るべくして在るように了解されていながら、そのくせ何も分かっちゃいないなんて…、これじゃまるで、何もかにもが夢の出来事じゃないか!? ああっ!! こ、これは夢か!? そうか、これは夢だ!! そうだよ、これが夢でなきゃ、いつもの僕でないこと、いつもの君でないことの辻褄が合わないじゃないか。そうだよ、まるで疎遠で異物のような自分や、まるで同体の他人なんかが、ただ不成就性の真っ只中で、わけもなく囲んだり囲まれたりしている愛の関係なんて、夢でなきゃ語れっこないじゃないか!!

 でもねえ、たとえあなたが、これは夢なんだって気付いたとしても、それだけではあなたの問題が解決したことにはならないのよ。それは分かるでしょう?

 ——ん!? 僕には、夢から醒めることが許されないっていうの?
 君は何が言いたいの? いいかい、醒めることのない夢なら、それこそが現実ってもんじゃないのかい、そうだろう?
 でも、君が何んと言おうとも、これは、確かに夢だ。でも、なんで、こんな夢を…。

 だって、あなたは「〜したい」んでしょ?

 ——そっ、そりゃ、そうさ!!

 だからじゃないかしら…。

 ——すると何? 僕の希望は、自分の夢を出口のない不成就性で塗り込めてしまってるとでも言う気かい? 
 ああ…、僕は、いったいどうしたらいいんだ!? これが夢と知りつつ夢から醒めることが出来ない。しかも「〜する」ことさえ出来ない。いったい、どうなってるんだ!?

 ねえ、あなた、もしかすると、どこかで何かを勘違いしているんじゃないかしら…。何遍も同じことを繰り返して悪いんだけどねえ、あたしの出生といったらいいのかしら、それとも存在理由っていったらいいのかしら、それは、あなたの希望を実現させてあげるためじゃなくて、あなたがあたしに対して「〜したい」っていう欲求を持つことによって、あたしを実体化してるってことなのよ。

 ——ええ? そ、それじゃ、ここで僕が僕であるかぎり、正体不明の君がそこに存在しつづけるっていうの?

 ん、まあ、そういうことね。でもねえ、たぶん正体不明なのは、あたしじゃなくて、それはあなた自身のことだと思うのよ。なぜなら、あたしはあなたとの愛の関係によってこそ、ここに存在していることが明らかなんですもの…。
 そう、だから、愛ということについて言うなら、あなたも決して正体不明なんかじゃないと思うわよ。それは、ふたりの愛の関係において、互いに相手を愛することが自分を愛することだと自覚しているってこと。だからこそあなたは、あたしに「〜したい」って言えるんだと思うわ。

 ——ちょっと待ってくれ…。すると正体不明なのは、あくまでも僕が「〜したい」と言っていることだと言うのかい?

 たぶん、そういうことになるわね。

 ——じゃ、僕が僕であることが、「〜したい」僕を正体不明にしてるってことなの?

 だからねえ、あなたがあなたではないという情況では、あたしもあたしではないということになるわね。つまりねえ、そこでは、ふたりが自らの愛によって、互いに愛しあう愛の根拠を失ってしまうから、愛によってあなたがあたしであり、あたしがあなたであるというようなことが、もう言えなくなってしまうってことね。
 でもねえ、何か違う意味であなたはあたしであるかもしれないし、あたしはあなたであるかもしれないけれど、それがどういう関係なのか、いまのあたしたちには語ることが出来ないってわけね。

 ——どうも違うんだ…。何んていうか、やはり夢の中の君じゃね、要領を得ないんだよ。あの決然たる確信がないと、君じゃないんだなあ…。
 だいいちねえ、僕が僕でなく君が君でないようなところでは、誰が誰であろうと、そんなことは全然問題にならないんだよ。とにかく、ここでいま問題になっていることは、僕がなぜ「〜したい」のかってこと。そして、この希望の前に、それを拒否しつづける君が立ちはだかっているってこと、それ以外のことじゃないんだ。

 とすればねえ、あなたがなぜ「〜したい」のか分からない正体不明の自分を解決しつつ、あたしの正体不明性をも解き明かしたいのなら、その「〜したい」という希望こそを破棄するしかないんじゃないの?

 ——今さらそれはないよ…。そんなことが出来るくらいなら、僕は苦労なんてしてないんだよ。だってねえ、もう僕はね、この夢の中では、「〜したい」と思うことだけで存在しているとしか言いようがないほどにのめり込んでるんだよ。いま僕は、押しも押されもしない「〜したい人格」そのものなんだ!!

 ねえ、そんな事情を十分に知っているあなたが、なんでその苦しい自分を止めることが出来ないの?

 ——ああ…、き、君が、そんなこと言うなんて…。君は、僕の苦しみを本当には理解していないんだ。こんな会話を繰り返していたら、僕が苦しみつづけるのは、君がそこにいるからだとしか言いようがなくなってしまうじゃないか…。

 だから、あたしも辛いのよ。でも、仕方のないことなのね…。あたしには、あなたの愛を生きがいにするしかないんですものね。

 ——そ、そうじゃないんだ!! それじゃ、まるで君じゃないんだよ。
 いつものように、僕のどこが間違ってるのか言ってくれないか? 僕は、いったいなんで「〜したい」んだ!?

 ねえ、ここではねえ、あたしを責めても答えは得られないのよ。それじゃあなたが、余計に空しくなるばかりなのよ。それにねえ、もうあたしには、あなたに言ってあげられることは何もないの…。

 ——で、でもねえ、このまま突き放されちゃったら、僕は、僕の正体不明性は、「〜したい」ということの欲望の不明性よりも、この希望が君に拒否されたための自己喪失によるものとしか言えなくなっちゃうじゃないか?

 それじゃねえ、もう一度、この情況を整理してみるわよ。
 あなたは、初め「〜したい」という希望を実現することに躍起となっていた。ところが、いつまでも希望が実現されないうちに、当てのない希望は希望として引き受け、ただ希望を持ちつづけることに専念してしまい、いつの間にかその「〜したい」ことの目的と内容が、「〜したい」という希望そのものを持ちつづけることになってしまったっていうことじゃないのかしら…。

 ——ん? ちょっと、ちょっと。 そうすると僕は、実現する気のない希望を、君に要求しつづけてきたっていうのかい?

 そう、たぶんあなたは、自分でも気付かないうちに、「〜する」ことを望まなくなっていたんじゃないかしら…。

 ——そっ、そんな!! それじゃ僕は、何んのために夢なんか見てるんだ!? 
 それとも君は、僕が夢を見つづけたいために、「〜したい」と叫びつづけているとでも言うのかね? じょ、冗談じゃないぜ、だ、誰が、こんな袋小路になった夢なんか希望するもんか!! ああ…、ぼ、僕は…、あああ…
 ……
 ああっ!! あっ!! ああ…。

 どっ、どうしたのよ!? と、突然、そんな大きな声を出して…。こんな時間に、びっくりするじゃないの…。
 あらあら、こんなに汗かいちゃって、どうしたのよ? なんか、悪い夢でも見たんじゃないの?

 ——ん? おおっ!? 

 いつまで寝惚けてんのよ? ねえ、あなた、このところちょっと疲れてんじゃないの? なによ、ベッドに原稿用紙なんか持ち込んじゃって…。書き物するんならワープロでやればいいじゃないの…、こんなところでやらなくったってさあ…。
 だいたいねえ、そういうのは、あなたらしくないわよ? あなたがベッドの中でやらなきゃならないのは、そんなことじゃないでしょう?

 ——ううっ…、ふう!! ゆ、夢か…。
 んん!? おおっ? 夢?
 へっ、変んだなあ…、そういえば、確かいま、夢の中で夢を見ていることに気付いてたわけだよねえ…。ふうん、いったいどうなってんだ? 
 ん? おお!! こっ、こりゃなんだ!? これは?
 ちょっと、ちょっとさあ、君は、あのテレパシーによる自動書記現象なんていうのを信じるかい?

 なっ、なによ? うるさいわね。
 もう三時過ぎてんだから、早く寝なさいよ。テレパシーでも霊感でもいいから、早く寝ないと迷子の幽霊になっちゃうわよ…。

 ——アァーア、そんな夢を掠め取るような言い方してさ…。ねえ、ちょっと聞いてよ? 僕はねえ、夢も夢、夢の真っ只中で夢について書いたんだよ!! ええ、どうだい!! 
 ホラホラ、まるでさ、夢を支配するテレパシーに操られるようにしてさ…、ちょっとご覧よ、夢の中の出来事がね、すべて書いてあるんだよ。ええ、すごいだろう!? ちょっと、そう思わないの?

 うん…。どうせ、寝惚けて書いたんでしょ…。あなた器用なんだから、それくらいのことが出来たからって、驚きゃしないわよ。もう…、いいから、寝かせてよ…。

 ——そ、そんな冷たいこと言わないでさ、ちょっと、ちょっと読んでみてよ。
僕としちゃねえ、結構面白い夢だったんだからさ…。
 ん? ねえ? もう寝ちゃったの? ふうん…、そういうわけね。どうやら、これが本物ってわけか、チェッ…。

 


 


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