第二章



呪われた女を抱きつづけていた僕〜A



 それであなた、これから先、どうするつもりなの? 
 三日間も帰ってこないから、ようやく自立する気になったのかと思ったら…、なによ、ヘベレケになって帰ってきて…、それからずっとこれじゃないの!? 
 ねえ、アルコール漬けのベッドマン!! いつまで、そうしているつもりなのよ?
自分で始めた<物語>もそのままにしちゃってさ、今さら自分の愚かさから逃げようったって、それが愚かなことなのよ。

 ——グ、グウェーッ。そ、そんな恐ろしいこと言わないでよ…。もう、メチャンコ気分が悪いんだからさ…。オエッ、オエッ…。

 汚いなあ…。ねえ、ベッド汚しちゃいやよ。出すんだったら、トイレでやってよ…。

 ——ウグッ、ウグッ、オオッ…。ね、ねえ…、で、出ちゃったよ、ホレ!!

 ええっ!? バ、バァーカ!!
 朝っから、そんなウンザリするもの出すんじゃないの、アホ!! もう、せっかくの今日一日分の労働意欲が、汚染されちゃうじゃないの、ヨッパライめが!!

 ——ヘヘヘ。だけど、さあ、汚染ってことはないでしょうが、グルグル…。

 あなたねえ、たとえ<生理的表現者>のつもりだとしてもよ、結局はCRT画面か印字されたワープロ用紙でしか存在できない<物語>を読み返してみれば、自分が<物語的人格>にすぎないことぐらい誰にだって分かることなのよ。
 なにが、<生理的表現者>よ、アホ!! この<物語>の第一のルールは<文字>であること、いい? この<文字>であることを超越するものは、すべて虚構なのよ。
 だいたい生理的なワープロなんか、あるわけないでしょう!? 生理的な無機物はタンポンに決まってるんだから、ハハハ。

 ——グエーッ。えげつないんだから、もう…。
 だ、だけどねえ、僕だって…、その…、なんとかね、自立しようと思ってさあ、ずっと考えていたことだって、あるんだぜ、ゲポッ、ゲポッ…。し、失礼。
 とにかくねえ、とにかく、自分がね、<物語的人格>としてだよ、ワープロやその用紙の中にしかねえ、存在しないってことをさ…、知ってしまった僕ってのは、いったい誰なのかってことだよ…。

 へえ、そんなことで三日間も潰しちゃったの? 
 たかが<読者>と同じ<誰か>になっただけのことで…。そんな<誰か>なんて、所詮は、あたしたちのあずかり知らないヒトなのよ。だけど、あなたがひとたびこの<物語>の中で「そういう自分とは誰か?」と語ってしまえば、それはもはや反省的な<劇中作家>の囁きになってしまうのよ、でしょ?

 ——グッグッ、グルグル…。な、なんか、よく分かんないよ…。

 つまりねえ、あなたがここで自分の言葉をしゃべりつづけるかぎり、<生理的表現者>になんてなれないってこと。

 ——ん? するってえと…、ウグッウグッ…、ああ、気持ちわりい…、その、なにかい…、黙ってれば、いいってことか?

 それじゃ、<読者>と同じじゃない、<表現者>でなくてもいいの?

 ——ア、ア、そうか…。で、でもさあ、オッ、オエッオエッ、し、失礼、でもとにかく、この呪われた、屈辱的なほどに呪われた<劇中作家>からだよ、逃れるためには、グッグッ…、どうしたってさ、沈黙しかないっていうんだろ…。

 まあ、そうね。でもそれじゃ<表現者>としては自殺行為ってことになるわね。だから、ここであたしたちがしゃべりつづけるってことは、この<物語>に対する権利であると同時に義務でもあるってわけね。それが、とりあえず<物語的人格>の逃れることのできない宿命ってことなのよ。

 ——し、宿命か…。だけどさあ、ウッ、ウグッ、た、たとえばね、<表現者>が黙秘権を主張するってことが、有り得るんじゃないの?

 そりゃそうよ。この<物語>止める決心がついたんならね。現に、あなたがまる三日間留守にしていた間は、<物語>も存在していなかったわよ。ああ、それに、舞い戻ってきてグズグズとベッドマンしていた三日間もね。でも、あなたは戻ってきた、そして四日目には再び語り始めてしまった。しかも、<劇中作家>としての満足な自覚もないままにね、でしょ?

 ——ウグッウグッ、オ、オエッ…。
 アア、なんか、なんかすごおく、気分が悪くなってきた…。

 とにかく、あなたは一週間近くもグズグズしていたことになるけれど、結局のところ、現段階では<劇中作家>としてしか存在できないことに気付いたからこそ、恥を忍んででも再び語り始めなければならなかったってわけなんでしょ?
 それなのに、いつもながら往生際がわるいんだから…。どんなに二日酔い三日酔いするほど飲んだって<劇中作家>以上にも以下にもなれないのよ…、どうせ、語りつづけなければならないと決心したんなら、もっとシャキッとしなさいよ。あたしはねえ、糸屑みたいになっちゃったヒモもペットも用なしよ!!

 ——ああ、もう、何もかもしょうがなくてさ、ググッ、ゲ、ゲロも出ない感じ…。さすがのアホも、二日酔いには、ウッ、ウグッウグッってこと。い、今さら、<物語>も糞もあるか…。

 だったら、いつまでも未練がましくブツブツ言ってないで、止めちゃえばいいのよ。何はともあれ、あなたが<表現者>なんでしょ、そのあなたにやる気がないんだったら、なにもあたしが<物語>の面倒なんかみる義理はないんだもんね。
 でもねえ、あたしはねえ、もう若くはないあなたのことが心配だから言ってるのよ。そうでしょ、このあいだのアルバイトだってそうじゃないの、結局は、すっぽかしちゃってさ…。言葉屋のママ、がっかりしてたわよ。いくらコーヒーを入れるのが上手だって、真面目に働く気がなけりゃ、ただの遊びとおんなじじゃないさ…。
 とにかく、アルバイトにしたって<物語>にしたって、自分のことでしょ、もっと自分でやる気にならなくちゃ、だめじゃない…。

 ——ああ、うるさいなあ…。ググッ、も、もう、オフクロや世話女房の真似は、結構だからさ…、ち、ちょっとねえ、かまわないで欲しいんだよ。

 だめ!! 今かまわなかったら、またウイスキーなんかがぶ飲みして寝ちゃうんでしょ!? もう、起きなさいよ…。

 ——き、君ねえ、いくら僕の顔がだよ、ググッ、オ、オエッ…、ああ…、つまりね、ヨッパライとは思えぬほどにですよ、穏やかな表情だからって、ねえ、いま僕の心の中では、まるでねえ、そお、東海地震の震源地ほどにも、無気味な亀裂を抱えてるってわけさ、ゲポッ、き、君にね、この、この苦しみが分かるう?

 いいえ!! そんなヨッパライの気持ちは、全然、分からない!! 分りたくもない。自分でも鏡を見てみたら…、どんな大地震に遭遇しても、まったく無傷といえる厚顔無知が、ドロドロの汗とアルコールで塗り固めてあるみたいよ。
 ホーラ!! もっとシャキッとしなさいよ。男らしく!!

 ——ハハハ。こ、これ、男そのもの。ホレ、しかもシャキシャキ!!

 バァーカ。やっぱり、そこだけは別の生き物なんじゃないの? 
 そうねえ、こうして見ると宿り木に精力を吸い取られた無知の木とか、朽ち果てた唐変木に付いたきのこってわけね、ハハハ。

 ——ああっ、頭に響くからさ、そんなに笑わないでよ…。
 グッグッ、グルグル、と、とにかくねえ、この哀しいほどの矛盾こそがだねえ、正に、僕の現状を語ってるってわけさ。ど、どうです? この昂揚感は…、ぼっ、僕を惨めにさせるばかりじゃあ、ありませんか、ね? そう思って眺めてみればですよ、この空しいほどの昂揚感にね、ささやかなる祝福を与えてやってくれさえすれば、僕は、ことごとくの矛盾を解放してね、<劇中作家>としてですよ、奇跡的な復活を成し遂げられるっちゅうわけですよ、ねえ…。
 ちょっと、そんなところで眺めてないでさ、こっちへ、おいでよ…。

 お断り!! それにねえ、どお考えてみてもねえ、たぶん、その狂おしいほどの自己矛盾は、大切に温存しておくべきだと思うわよ。

 ——ど、どうして?

 だって、そうでしょう、その自己矛盾こそが、<劇中作家>としての最後の拠り所なんじゃないの? それ、放出しちゃったら、もう、あなたはヒトビトに伝える意味さえ失った<文字>の屍になっちゃうわよ?

 ——ググッ、ああ…、相変わらず、冷静にして、まあその…、的確なる判断ちゅうところでしょうか? もはや、こうなってしまったら僕は、このままひとり、失敗作の闇の中へと身を沈めるしかないのだ…。

 だっ、だめよ!! また、寝ちゃうつもりなんでしょ!? 
 ねえ、いつまでも、そんな下手な病気の真似なんかしてないで、起きなさいよ!! あなたの生きがいは、その下半身なんでしょ? だったら、下半身が元気なあなたは、問答無用に健康そのもの!! 
 ねえ、そのシーツ、洗濯するんだから、こっちへ、かしてよ…。
 もう、あたしたちの愛の冥想空間を凌辱したものは、即刻、バスルームへ出頭すること!! こら!! そこの中年、いつまでその酸えたナルシズムに埋没してるつもりなの?
 とにかく、熱いシャワーでも浴びて、アルコール抜きなさいよ。

 ——ね、ねえ、そんなに優しく構わなくてもいいから、ねえ…、そっとしておいてあげてよ…。

 ふうん、そうなの? あなたって、ひょっとすると、あたしの愛の真っ只中で、ひとり勝手に秋風のシーツなんかに包まれちゃって、ただ無責任に冬の来るのを待つつもりなの?

 ——とっ、とんでもない。オッ、オエッ…。ぼっ、僕の惨めな愛がですよ、ここより他に、どこに身を寄せるところがあるっていうの? つ、つまり、なんですよ、君の愛のシーツにすがるより他に生きる延びる場所を見いだせないほどに、僕は、深く病んでいるってわけですよ、グッ、グルグル…。

 さて、どうかしら…。どう見みてもその醜態は、いつもの素行不良の結果じゃないの?
 どうせ今回の彷徨も、結局は三日と持たずに誰かさんに捨てられちゃったってわけでしょ、ハハン? それで今回のお相手はどんな娘だったの? そう、そういえば、ちょっと電話でもめてた娘がいたじゃないの? あれはいつだったっけ?

 ——ゲポッゲポッ、オエッ!! ううう、気持ちわりい…。ど、どうしたんだろう、不快感が込み上げてくるたびに僕が僕ではなくなっていくようだ!! 
 たっ、大変だ!! 一ケ月前の僕がいない、十日前の僕がいない、一週間前の僕がいない、三日前の僕がいない、ああ、今、この僕は、いったい誰なのか?

 ふうん、そんなに心配しなくてもいいのよ。ごく最近のあなたなら、いますぐ思い出させてあげるからね、ハハハ。
 そう、一ケ月前の電話だったっけ、あたしが下宿屋のお姉さんにさせられたのは? それから十日前は、確か姉貴じゃなかったかしら…。そういえば、妹だなんて言わせてた娘が、よく電話してきてたじゃないの? あの娘には、何んて言ってたの? やっぱり下宿屋のお姉さん、それともおばさんなの? 確かにあたしは世帯主よ、でもここは下宿屋なんかじゃありませんよ、まして世の中に十歳も年下の姉貴なんてものがいるんですか?
 まったくどの面さげてああいう大嘘が言えるのかしら、ねえ?  
 それにしてもこの間は、結局その大嘘が元で、妹さんとやらともめてたんでしょ? そうか、その言い繕いのために妹さんのところに転がり込んでたってわけ、ん? そうしてみると、あなたが近親相姦して遊んでいたのは、お姉様とじゃなくてもっぱら妹さんとだったってわけね、ヘンタイさん?

 ——ググッ…。そ、そういえば、どこかで、そんな話を聞かされたような気がしますよ。でも、どうかなあ、それが僕のこととは思えませんねえ。確かねえ、それはすでに死滅してしまった<超越的表現者>って奴のことだと聞きましたよ、とにかく、あいつは悪だったからねえ…。

 そうかしら、その悪は、死滅するどころか、死にそこなってアルコール漬けになってると聞いたわよ。まあ、あなたが、どこで素行不良をして野垂れ死にしてもいいけどねえ、素行不良の尻を持ってくるのだけは許さないわよ。

 ——テヘヘのついでに、ゲポゲポッ…。
 そうですか、奴も死にきれなかったんですねえ、かわいそうに…。そういえば、相手の娘もなかなかのクセモノだったとか言ってましたからねえ…。十分に遊びきれずに、結局は遊ばれてしまったんでしょうねえ。まあ、どいつもこいつもロクなもんじゃないんでしょうが、元気に遊んでられるだけ、幸せっちゅうもんなんですねえ。
 それにくらべたら、どうですか、この僕は、もう死に憧れるだけの瀕死のナルシストちゅうところですよ、かわいそうですねえ…。

 するとなあに、もう、あたしと別れるほどの危機的な元気もないままで、そのままあたしのベッドに寄生して屍になるのを待ちつづけるつもりなの? 冗談じゃないわよ!! あたしはねえ、あなたの母親ほどには寛大じゃないのよ、ん? それとも、今度は母子相姦ごっこをしたいっていうの? バァーカ!!
 いつまでも、アルコール漬けの死にそこないなんかしてんじゃないの、起きなさい!!

 ——うっおお…、そんなに大きな声出さないでよ。頭蓋骨にビンビン響くじゃないの…。
 
 ねえ、あなたのその変態性の脳みそがねえ、このまま手の施しようもないほどに、グズグズに崩れてしまうのか、それとも何かの可能性に向かって熟成していくのかを分けるものは、あなたの反省的な気力しだいなのよ。
 ここではねえ、あなたの意欲こそが、あたしたちの愛の連帯感を支えていくのよ。いいこと、この<物語>のみを連帯感とする美しき同棲というものは、あたしたちの会話こそが不可決なのよ。

 ——グッ、グルグル…。ね、ねえ、僕の愛の病が癒えるまで、しばらくは、君だけで<物語>やっててくれない? ぼ、僕の脳みそはねえ、こうやって静かにアルコール漬けにしておけば、十分に現状維持できるはずなんだ、ねえ?

 ふうん、ということは何? あなたのその愛の病とやらが、<物語>という連帯感を平気で無視できるっていうんだから、結局は、あたしへの愛に対する不信行為であることをはばからないってわけね、ヘエ、たいした根性してるじゃないの!!

 ——アアアッ、とっ、とんでもない、たいした根性なんかしてませんよ…。たっ、ただねえ、君の広大無辺な慈悲心に甘えていたいだけなんですよ、ハァーイ。

 さっきも言ったでしょ。ここで自分を物語っていこうとする意欲っていうのは、<劇中作家>であることに限らず、すでに<物語的人格>であるということの責任問題だって…。

 ——で、でもねえ、いくら責任っていったってさあ、グルグル、すでに<文字>を書いている実感を失ってしまった<表現者>がですよ、自分の<物語>なんてものを語れば語るほど、つまり僕は、どんどん僕ではなくなってしまうような気がするんだよねえ。
 もはや僕の愛は、自己喪失へと旅立ってしまったのかも知れないんだ、ねえ? だからこそ、自己回復のためにも君の広大無辺な慈悲心にすがるしかないってわけさ。とにかく、いま僕は、自分の<言葉>が怖いんだよ、ググッ、オエッ。

 ねえ、このあたしを何んだと思ってるの? お店じゃドケチとまで称賛されたあたしなのよ。そのあたしが、どうして、あなたというしょうもない情夫の自棄的な性格を満足させるためによ、この貴重な愛を投げ掛けるなんてことがあると思えるの?
 いい? たとえあたしに、ヒンズー教の神々のようにヒトビトの官能的な喜びを掌るほどの慈悲心が与えられていたとしても、あなたみたいな邪まな性格の怠け者には、断じて手を差し延べたりはしないつもりだってこと。
 とにかくあなたはねえ、<劇中作家>という反省的な視座に目覚めて、あたしが投げ掛ける明晰な愛のインパクトに的確に応答すればいいのよ。

 ——で、でも君は、いつだって僕の情熱的なラブコールを、まるで冷たくあしらってるじゃないか…。ほ、ほら、まだ僕の情熱は、こんなに元気ですよ、ホレ。

 だめ!! あなたは、その発育不全のナルシズムを克服しないかぎり、死にそこないのまま発情しつづけるしかないってこと。だいたい、そんな自棄的な愛欲だけで、この<物語論物語>を語り尽くせると思ってるの?
 とにかく、いつまでも、そのまま甘えていられると思ったら大間違いよ。そもそも、そんな変態性の愛欲だけで、あたしが、炊事、洗濯、掃除におこずかいの面倒までみる女だなんて思ってるの?

 ——なっ、なんだなんだ!! オエッオエッ、グルグル…。
 きっ、君は、そうやって読者までもだますつもりなのか? すでに君が、情夫たる僕を隷属的なペットとして弄び、時に虐待していることは明白なのだ!! それなのに、今さらそんな嘘は通用しないのだ!!

 バァーカ。あんたは、常識外れの怠け者ではあるけれど、何はともあれ専業主夫なんだから当然でしょ。もう…、知らないよ。いい? そのシーツも、パジャマも、自分で洗濯しなさいよ、いいわね!!
 なによ、その目は…。これは、男とか女の問題じゃないでしょ?

 ——ムハハ、グルグル、ごもっともごもっとも。これはね、自分の男としての腑甲斐無さに対する反省の眼差しですよ。

 それが分かってるんだったら、自分でその眼差しに早く応答することね。それがこの<物語>に対するあなたの男らしさの復権ってことじゃないの? どんなにアホでも、そのほうがずっとセクシーよ。

 ——そ、そお…。それにしたってさあ、結局は、君の悪辣な野望と意志なくしては、僕の主体性すら獲得できないってわけでしょ?

 それは、このあいだから言ってるじゃないの。それがお互いの権利であり義務であり、なによりもこの<物語>の創造性だって…。これこそが、この<物語世界>の運命でしょ。そもそも運命って、自分で積極的に引き受けつつ自己否定的に克服してこそ、転換とか変身の可能性が拓かれ未来を語ることができるんじゃないの? 
 運命から逃げようったって、逃げられっこないのよ。そういう逃げられない循環構造とか、閉鎖系の世界観のことを運命って言うんだもん。あなたねえ、いいこと、逃げられない循環構造ってねえ、逃げようとするから逃げられないのよ。
 言い換えればねえ、運命から逃げつづけようとする者は、その自己逃避を正当化する自己愛によって運命を閉ざしているってこと、分かる? つまりここでは、自己愛という欲望の連環こそが運命の姿でもあるってわけね。

 ——ん? なんだい、君はどうしろって言うの? 僕が<劇中作家>である運命からは逃げ切れないと覚悟すれば、この運命を克服する道が拓かれるってことかい?

 まあ、そういうことにもなるわね。
 ただし、そのためには、何よりもまずあなたが<劇中作家>としてこの<物語世界>を双肩に担い、尚且つ自分が<表現者>であることの自愛的欲望を反省的に解消していく<表現者>として生きなければならないってこと。
 つまりねえ、発育不全のナルシストは、現実逃避の自己愛という無知の欲望に呪われたお化けだから、死ぬに死に切れず度々<物語世界>に迷って出てくることはあるものの、亡霊としての存在理由である愛欲を自分で解消しないかぎり、成仏することも現実へと回帰することもできないってわけね。
 この意味においては、もしもあなたが成仏できれば、たぶんあなたは<生理的な表現者>として「文字を書く口述筆記者」になれるのかもしれないわね。

 ——またまた、ウウ、ウオッウオッ、オエッ…、っと、失礼、そのなんですよ、また君は、おいしそうな事を言っちゃってさ、僕を笑いものにしようってんだろ…。
 だいたい君はね、平気で成仏とか言ってるけどさ、良く聞いてみればなんてこたあない、僕が僕であることをやめることでしかないってわけじゃないか、そんなことのために僕の愛を無駄遣いできると思ってんの?

 ま、厳密なる反省者として生きえぬあなたが成仏するなんてことは、天変地異の奇跡が起こったとしても無理な相談と言うべきかもしれないけれど、せめて<劇中作家>という現実へと回帰するくるらいの反省的な努力はしてほしいわね。

 ——そ、そりゃあ僕だってねえ、失踪中の三日間というものは、それなりに努力しましたよ。君は、どう思ってるか知らないけれどねえ、僕は発情鬼とかドラキュラなんていう亡霊になってさ、三日三晩も女の血股を求めてさまよってたわけじゃないんだぜ、ハハハ、オエッ…。

 バァーカ、それじゃ、何やってたのよ?

 ——つまりその、なんですよ、芸術してる友人知人を尋ね歩きだね、僕の<表現者>としての苦悩について語り合ってきたっちゅうわけですよ、どうですか、このひたすらなる努力は…。

 ふうん、努力ねえ? ま、たとえば、その努力を認めたとしてもよ、その結果がこの瀕死のナルシストってわけだから、その努力とやらも当然推して知るべしってところね。

 ——そ、そりゃ、まあ、僕の性格とですねえ、無知ムッチリという体質とですねえ、力量不足と消化不良がミックスドベジタブルになってね、そのままステーキのガロニになることもなく、ただ茫然と腐ってるわけですよ。オエッ、オエッ…、ハハハ。

 なに、それ?

 ——いや、実はね、どうもこの病は、三日酔いばかりじゃなくてね、失踪中に食べたもんが悪かったような気がするんだねえ、不幸って奴には遠慮ってもんがないのかねえ…。
 ん、まあ、そんなわけでね、非力にして繊細なる僕は、元気なる芸術家たちに比べてですよ、あまりにも己の境遇の惨めさに溢れる涙をこらえることが出来ず、ついには絶望という名の病に臥せってしまったという次第ですよ、グルグル…。
 それにしても、ゲポッゲポッっと、<元気印の芸術家>たちは、どこでも自分の<作品>に対してはね、それなりの権威に基づいてですよ、いわゆる<自由意志>を獲得し、<創造性>を主張してるってわけさ。ところがね、彼らにしたって元気印の僕と比べればだよ、そんなに想像を絶する才能に恵まれてるってわけじゃないんだよ、実際のところねえ。
 それなのにねえ、ああ…、僕は不幸な星の下に生まれてしまったっちゅうわけなんですねえ…。このままじゃ、まるで生殺しの<表現者>だもんねえ。と、とにかく、己の<自由意志>を裏切りながらでしか生きていけない運命なんかに、いったいどんな意義と喜びがあるっていうの? もう死んじゃうよ…。

 もう、何遍言わせる気なの? あなたは死にそこないのお化けだから、それ以上は死ねないの!! それにしても、よくもそう同じ不平不満ばかり言って遊んでられるわねえ…。
 ああ、そっか、あなたはそういう欲求不満を抱えたお化けだったのよね、ハハハ。
 ところでさ、そもそもあなたが死にそこなってしまった発端っていうのは、変幻自在な<物語>という世界に対して、あなたの仕事である<物語作品>こそが超越的に先在すると臆断していたように、誰か他人の仕事である<作品>もまた<物語>の出生以前に先在すると臆断してしまったことによるのよ。
 ここで、他人の<物語作品>に対しては通りすがりの<読者>にすぎないと思い込んだあなたは、そこに自らの<物語世界>を語り起こす<事件の当事者>として<作品>を共有する道を発見できぬまま、単に<事件報告>を読まされる以外に為す術のない自分を正当化しようとして、<作品>の前に立ちはだかる<創造者たる芸術家>という幻想を捏造してしまったというわけね。
 この勝手な臆断を当たり前なこととして黙認しているヒトビトにとっては、あなたもまた<物語作家>として、あなたのいう<元気印の芸術家>同様の名誉が与えられているはずなのよ、でしょ? 言い換えれば、あなただって、<物語>という世界に無頓着なヒトビトにとっては、けっこう<元気印の芸術家>に見えているはずだってことね。
 いいこと? ここであなたが無明無知を装って、たとえあたしにアホ呼ばわりされながらでも、<元気印の芸術家>に成り上がってしまいたいなんて、心密かに願うのはあなたの勝手だけどねえ、あたしは、あなたみたいな売名家的な名誉のためにここにいるわけじゃないのよ。あたしは、あくまでもあなたが語りつづけようとする愛の信頼関係に基づいてのみ、ここで<物語的人格>として生きつづけるつもりだっていうこと。
 どお、けっこう泣かせる話でしょ?

 ——泣いてますよ、もう、いやと言うほど泣かされて、まったく絶望的涙の垂れ流しですよ、ゲポッ…。
 で、でもねえ、とにかく、ここで僕に与えられる名誉って言ったってさ、君の、そのシニックな眼差しから察するまでもなく、結局は、裸の王様になるだけのことじゃないか?
 まして、そんな名誉に浮かれてみてもだよ、どうせ<自由意志>の首根っこは君に押さえられてるんだから、君に隷属する下部としての名誉なんて、屈辱に与えられる称号にすぎないってわけさ、そうだろう…。
 もう、僕としてはね、いい歳をしてね、君や読者に笑われるための道化になるよりは、このベッドで汗にまみれ絶望するナルシストでいつづけるほうが、なんぼか心休まる日々が送れるはずだと見定めたってこと、グルグル…。

 ふうん、もはや裸の王様にはなりたくない、さりとて裸の下部にもなりたくない、か!! だったらついでに、絶望的なナルシストになるのも止めればいいのに、ねえ? ハハハ。

 ——チェッ、ハハハじゃないぜ…。その笑い聞かされるとさ、僕はもう…、悲しいほどに、ひたすら不愉快になるばかりだよ…。
 まあ、それにしてもさ、今さら思い返すまでもないことだけどねえ、確かに僕は、君の面倒にはなってますよ、いや、言うならば、何から何まで面倒になっちゃってるってわけさ。なんたって居候でありながら、パンツまで洗濯してもらう身分ですから…、だ、だけどねえ、実は、その君の優しさがですよ、僕の命取りなんじゃないかって、ね?

 それは何? 自分の置かれている境遇に目覚めたっていうことなの? それとも、自分の意志薄弱を取り繕うために、あたしの優しさまでが非難されてるってわけ?

 ——ひいっ、ひっ、非難だなんて、とっ、とんでもない、オッ、オエッ。ハハハ。
 ただねえ…、できればですよ、その…、<劇中作家>であることは引き受けざるをえないとしてもね、せめてね、まあ、僕の論法とでもいいうるものの中でね、君との愛の関係を作り直したいと思ったってわけ、どうかねえ…。

 「どうかねえ」って、それであなたが立ち直れるんなら、そうしたらいいじゃないの?
 何遍も言ってきたように、<愛のドキュメンタリー>なんていったって、結局はいかなる愛も、それを自分の<物語>として語り起こさないことには、どこかよそで発見してくるってわけにはいかない代物なのよ。つまりは、もしもあなたに、その<愛の論法>とやらが有るとするならばよ、それを見事なほどに論証してみせることこそが、あなたのこの<物語>における最大の目的ってわけじゃないの、でしょ?

 ——ん、まあ、そういうことなんでしょうけど、ねえ…。
 でもねえ、なんというか、その…、君のねえ、そういう突き放した言い方が、僕をめっぽう憂欝にさせてしまうんだよねえ。僕にしたところでさ、常々、君との愛を論証してみるつもりではいたんですよ…。現に、今だって、そのつもりではいるんですよ、グルグル。だけど君は、今も、そうやって冷たい眼差しで僕を突き放しつつ、まるで洗濯オバサンから身を引こうとはしないんだもん、ねえ…。
 ねえ、ちょっと、こっちへおいでよ。ひょっとするとさ、僕は<愛の論法>を手繰りよせることによってね、このベッドから立ち直れるかもしれないんだぜ…。

 忙しいのよ。

 ——ねえ、そんな冷たいこと言わないで、ねえ、ちょっと!!

 なによ、そんな声を出す元気があるんなら、そこで、その<愛の論法>とやらを聞かせてくれればいいじゃない?

 ——き、聞かせてよって言ったってねえ、僕は、今さら陳腐な愛のスローガンや殺し文句を並べたてるつもりはなんだよ。だってさ、そんなもので言葉を飾ったところで、僕の衰弱し切った愛の情熱がだよ、たちどころに回復するなんてことは望めっこないからさ。
 だいたいねえ、情熱的な愛の関係なんてもんが、そう簡単に言葉で言い表せるなんて考えることのほうが、そもそも普通じゃないんだよ。
 洗濯なんか、いいからさ、ちょっと、こっちへおいでよ!!

 だあめ!! 洗濯なんかってことはないでしょ? とにかく、そっちへ行くと、そのアルコール臭い身体でさ、ベタベタくっつくから、ダメ!!
 初めにも言ったでしょ、あたしたちの愛の関係っていうのは、あくまでも<言葉>なんだって、ねえ? だから、あなたが再起を託した愛の関係とやらも、まずは<言葉>として堂々と語られなきゃダメってこと、いい?

 —— ……。

 聞いてんの?

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 ——ゲポッゲポッ…、ウッ、ウウッ、ゲボゲボ…、オエッオエッ、ゲエーッ!!

 アッ、アア…、そんなとこで、出しちゃだめよ!! トイレ、トイレ!!

 ——ウッ、ウウウ…。

 大丈夫? ねっ、早く、早くトイレへ行こう…、ん? どうしたの? 何やってんの?
 ああ…、アアッ!! な、何すんの!? あ、あ…。

 ——ハハハ、どうだっ!! 僕の作戦勝ちなのだ。
 やはり、こうやってね、密接なスキンシップがなければさ、いかなる愛の関係も語りようがないってわけさ。

 も、もう…。気持ち悪いんじゃないの?

 ——だからさ、気持ち好いことしようと思ってね、ハハハ。

 アアッ、そ、そういうやり方は、ず、ずるい!! ファッショだ!!
 ウッ、ウウ…、だ、だめ!!

 ——ハハハ。
 …ん? ね、ねえ? 君は、いつの間にレイケツ動物になってしまったんだ!?

 …? バァーカ!! お尻は冷たくていいの!! この朝ッパライめが!!

 ——なんだい、それ?

 朝っぱらからヨッパラッテルあんたのことよ。
 ねっ、ねえ、いつまでお尻さわってんのよ? よしなさいよ…。

 ——しっかしねえ、これ全部が、脂身なんだねえ…。
 アッ、痛っ!! ぶ、ぶたなくたっていいでしょうが?

 あんたみたいのは、ぶたなきゃ分からないの!!
 アアッ、くっ、くすぐったいわよ。そんなことしてないで、あなたの新しい愛の関係っていうのを、言葉で説明してみせてよ? 身体の方は、これだけ密接な関係になってるんだから、文句ないでしょ、ね?

 ——またまた、急に、そんな見え透いた笑顔なんか作っちゃって…。
 ほらほら、その無邪気さを装った笑顔の企みは、いつものあの論理ゲームなんかで、僕のささやかなる希望という持ち駒を、根こそぎ巻き上げようって腹だろうが? どうだ? その性の悪い眼差しが己の笑顔を裏切っているのだ!!

 アラ、そんなに魅力的な眼差しかしら、ハハン?

 ——うっ、わお!! 君もすでに手遅れなのだ。まったく、人のことは言えないねえ。いったい、毎日毎日、どんな自惚れの仮面付けて鏡のぞいてんだか分かりゃしないんだから…。君ねえ、どう見たってそれは冷徹な猛禽類の眼差しでしょうが?

 ふん、そうかしら…。あなたねえ、焦点の合わない女の眼差しなんかにねえ、発育不全の男たちが欲情していた時代は、もう終わったのよ。男だって女だって、ビシッと目的を見定めた眼差しをしてなくて、どうしてこの時代を生き抜いていけると思ってんの?
 ああ、やっぱり、そういう気はないみたいね? だいたいこれだもんねえ、あなたね、こういうのをイワシの腐った目って言うのよ。
 それにしてもあなたって、愛する者の鋭い眼差しに自尊心をズタズタにされて、おまけに肉体的な辱めこそを愛の証にしたいなんていう、徹底的に倒錯した精神構造をしてんじゃないの? そうとでも考えてみないと、あなたのこういう屈折した求愛行為っていうのは、説明がつかないもんね…。
 ねえ? あたしが冷たくすればするほど発情したりしてさあ、ほとんどあたしの身体的な欲求を超えてまでよ、そうやって倒錯的な快楽のために従順に尽くすあなたの誠実さって、すでに宗教的な自己回復の儀式っていう感じだもんねえ…。
 ねえねえ、ちょっと答えてよ、あたしってさあ、そんなにもあなたが虐げられたいと願っている、切ないほどの愛欲を刺激してあげてんの?

 ——チェッ、なんでえなんでえ、勝手に僕を、こんなふうに飼い馴らしておきながら、そんな言い方はひどかろうが…。

 でも、あなたねえ、あなたがそういう要素をかなり持ち合わせてたってことが、あたしたちの関係をここまで持続させて来たんじゃないの? そう考えてみればよ、あなたが、あたしの歓喜のために尽くせる絶大な奉仕の精神は、やはりひとつの才能と言っていいはずなのよ。だから、あなたは決して自分を能無しだなんて卑下することはないのよ。むしろここでは、その才能こそが、とても創造的なものとして尊重されるってことね。

 ——だったら、やっぱしこれで好いってことじゃないか、でしょ? いちいち面倒臭い言葉遊びなんかしなくたって、さっきから僕は、君の絶大なるオルガスムのために、ご奉仕させてほしいって言ってるわけですよ、ねえ?

 ところが、残念でした。今あたしを歓喜へと誘うものは、むしろ徹底した<言葉>遊びによってこそ上り詰めるオルガスムというわけ。つまり、今あなたが奉仕するところは、不謹慎なコレじゃなくて…

 ——ウウッ、ウワッ、いっ、痛っつつ…。そんなに強く握ったら、ウオッ、こ、壊れちゃうよ!!

 そう、壊れちゃっても惜しくないコレじゃなくて、壊れてほしくないあなた自身の脳みそにこそ、自ら絶大な奉仕をしてくれることを願ってるわけよ。
 どお、ショック療法で、お目覚めになれましたか? ハハハ、すっかりしょげちゃったじゃない…。ざまあみろって、ところかな、フフフ…。

 ——ちっ、ちくしょう…、またしても、僕の唯一の創造的欲求は、君の悪辣な攻撃によって、無残にも去勢されてしまったのだ、おお、痛て…。

 ふうん、そんなに痛かったの? かわいそうにねえ、ハハハ。
 さあて、さて、と…、お洗濯、お洗濯!! ねえ、あなた、いいかしら?

 ——ん? 何が?
 ウッ、ウオッ!! とっ、突然、そんな無茶を…、ベ、ベッドから、おっこちるじゃないか!? そんなに無茶すると、シーツだって破けちゃうよ…。

 ハハハ、非常手段なのだ!! あとねえ、その汗とアルコールでドロドロのパジャマ、自分で脱ぐのよ、いいわね!! そして、ここへ入れるのよ…。

 ——ああ…。

 ねえ、あなたのその柔な創造的欲求を、<行為>とか<経験>へと高める能力や才能って、どんなものだと考えてるの?

 ——ええっ…、なんだいなんだい、離れたかと思ったら、もう<言葉>で発情してるってわけかい? まいったまいった…。いやあ、まいったついでに、まいったねえ、汗でパジャマが脱げないよ、ハハハ、ほれ、見てごらんよ…。ヨッ、トットと…。
 ん? 分かった分かったよ、答えればいいんでしょ…。
 まあねえ、僕の場合は、もっぱらこの持って生まれたギンギン的体質ってことだね。現にさ、ホレ、ちょっとぐらいいじめられたってね、ホレホレ…。

 アホ!! いい歳して、裸で何やってんのよ? 早くシャワー浴びなさいよ!!

 ——まあ、なんですよ、創造的欲求なんて言ったって、巷にはねえ、キンレイ法とかタントラ・ヨーガなんてのがあるぐらいだから、やっぱし自分の努力や精進てなもんも、否定するわけにはいかないけどねえ…。
 さてさて、そんじゃ、しかたないからシャワーでも浴びますか、オエッ…。

 あなたって、本質的に不純構造でできてるのね?

 ——それはないでしょう!? あ、ちょいと通して…。とにかく、互いに相手あっての不純交際じゃないですか、ねえ? それなのに、僕だけが不純だってことはないでしょうよ?

 これは、精神衛生上の問題よ。ところがあなたの場合は、すでに心身問題として汚染しちゃってるってこと。あなたみたいな体質は、どうしたら、心身ともに洗浄できるのかしらねえ…。ほとんど絶望的ってことかな…。
 ああ、そうそう、よくあるじゃない!! ほら、よく冬の寒いときに、雪なんかがチラチラしちゃってるようなときに、此見よがしにやってるのあるじゃん、幽霊みたいな白衣着たり下帯だけの裸で、滝に入ったり手桶で水浴びるのが、ねえ? あなたは、ああいうのをやらなきゃダメなんじゃないの? ねえねえ、今度、一度やってみたら…。

 ——君は、そんなに僕をいじめたいってわけ? アアッ、手が滑った…、ハハハ。

 アア、なにすんのよ? スカートが濡れるでしょ!!

 ——あれ、うっかりしてたよ、ごめんごめん。そんなところにいると濡れるよ、ヒヒヒ。こういう暑い日は、やっぱり熱いシャワーでなきゃ、だめだねえ…。

 もう!! わざと掛けることないでしょう!! いい歳して、まるでガキなんだから…。

 ——そんなところで、いつまでも洗濯機なんかいたずらしてると、ビショ濡れになっちゃうよ、ハハハ。ねえ、それ全自動なんでしょ? 野暮な手出しは諦めて、機械にお任せしたら…。

 あんたみたいのが、あっちこっちシミにするから、人手が掛かるのよ、コンチクショウ、エイッ!!

 ——プハッ!! ほ、本気で、つねってんの!! 痛ってえ…。

 で、どお、少しぐらいは汗を流したら、才能の実相が見えてきた?

 ——ううん、まだまだ。いまね、よおく洗ってるところ…。

 そればっかしね…。
 すくなくとも清潔な発想っていうのはねえ、才能なんて言われる能力を、なんかその特定の人に先験的に、自存的に、賦与されているものとしては考えないってことよ、分かる?

 ——あれ? そうなの? それじゃこのギンギン的体質はどうなってるの? こればっかしは、僕が持って生まれたものとでもしておかないことには、どうしょうもないでしょうが?

 ううん。そのギンギン的体質が、単なる病気なのか、それとも何かの才能たりうるのかを分けるものの見かたがあるってことね。
 つまりねえ、ヒトはいろいろな性質、性格、体質なんかを持って生まれてくるけれど、そういうものに起因するあらゆる表現活動を、能力とか才能として評価する根拠ってねえ、あなたのその脳みそを、おいしそうに浸してる日常的な習慣とか、常識・文化・制度にすぎないってことなのよ。常識が変われば、文化が変われば、制度が変われば、結局は住むところが変わるだけでも、ヒトの能力・才能の評価も変わってしまうってこと、でしょ?だから、能力も才能もヒトビトが担う<物語>の役柄的意味にすぎないってこと。

 ——するとねえ、さしずめ僕は、アルコールによって汚染された常識と文化と制度によって、惨めにも二日酔的苦悩者へと貶しめられ、さりとて素面じゃ、うだつのあがらないアホ男、オエッ…。いずれにしても、この繊細にして多感な僕は、この現代という粗野な常識・文化・制度が体質に合わないってことかな、ねえ? ああ、かわいそうなボク!!

 バァーカ!! 勝手にアルコール漬けになって、おまけにヒトの迷惑も顧みないで、さんざんあたしの愛と善意を貧ったあげく、ドロドロの汗と脂で何日もベッドを占領しておきながら、そんな生活が自分の体質に合わないとか、好きでもない相手と暮らしてるからだなんてことが、よくも平気で言えたもんねえ!?
 いい? これこそが、あなたの悍しき体質そのものなのよ。この恥部を厳しく見定めるくらいの自覚を持たなきゃ、物書きなんてやってけないんじゃないの、でしょ!?
 アホ!! そんな恥部は、いくら見詰めても未来はないの!!

 ——ヘヘヘ、そんなに見くびったもんでもないよ。ホレ、ホレ…、こうしてしごいてるとねえ、いまに子種という未来が元気に出てくるからね、ホレホレ…。
 アアッ、見ててくれないの?

 当たり前でしょ、アホが…。
 あなたねえ、もしもよ、自分で才能に恵まれてないなんて思うんだったら、自分を十分に主張しうる新たなる役柄を見付け出せばいいのよ、それだけのことよ。だからねえ、そのためにも自分を厳しく見定めなさいって言ってるの、お分かり?

 ——ふむ、そうか…。こうして、この鏡で厳しく見定めると、やっぱし、この胸のあたりにもう少し豊かな肉付きが欲しいってところかな、ねえ? そうしないと、ホレ、こうしてエレクトした男根とのバランスが、やっぱし悪いかもしれないねえ、ホラ…。

 やっぱし、冬になったら、どこか山に篭って滝でも浴びることねっ。そうでもしなきゃ、もうそのアホ的体質は浄化できそうにもないわよ。

 ——とっ、とんでもない!! やなこった。そんなことまでして人生観を変えるぐらいならねえ、僕は迷わずに<表現者>を止めるさ。そのほうが、ずっと賢明ってもんだね。なんせ僕は、これでも一応は苦悩に愛でられし<表現者>なんですよ、今さら辛い思いをしなくったって、浄化する苦悩に不自由してるわけじゃないんだから、ねえ。
 ねえ、そんなことより、君も一緒に浴びませんか? きっもち好いよ…。

 あたしはねえ、いま洗濯オバサンとお掃除オバサンの二役だから、遊んでられないの。

 ——ふうん、じゃこれで出るか…。

 あ、タオルは、そこよ…。

 ——うん、あんがとさん。さてさて、迎え酒には…、結局、冷たいビールに勝るものはなしってところかな…。

 だめ、朝から、ビールなんて駄目よ!! そこにトマトジュースが入ってるでしょ、ああ、ポカリスウェットも冷えてるわよ…。

 ——ったくもう、なんだかんだと、うるさい奴め。ほんじゃ、こいつにするか。酒を飲んだ翌日は、わけもなくこいつが好いとしてもだ、ずうっと飲みつづけてしまえば、後は何でも同じなのだ、と、ヘヘヘ。
 しかしまあ、なんだよねえ、君のようにさ、何んにでも食ってかかるというか、食らい付くというか、まるでピラニアみたいなとんでもない性格をですよ、あたかも優れた性格であるかのように思わせる<物語>なんてものをね、僕は、まったく語るつもりなんかなかったんだけどねえ…。
 いったい、どうなっちゃってんのかねえ、まるでこの<物語>には、神も仏も見当たらないってんだから…。ええっと、僕のシャツは…、おっ、有った有った。
 そういえばさあ、この<物語>にしたところで、結局はひとつの<世界>なんだからさ、この迷えるナルシストをだね、問答無用で救済してくれるなんていう優しい神や仏がいたっておかしくないわけだよねえ、でしょ?

 あら、あなたにしては、ずいぶん用心深い発言じゃないの、どうしたの?
それとも、それは、さっそくシャワーの効用ってことなの? それにしてもあなた、それ素面で言ってるわけ?

 ——なんだ、なんだ!! ポカリスウェットなんぞ飲まされちまえば、もはや朝ッパライとは言えまいが!!

 あなたの身体って、ずいぶん単純な条件で情況設定の転換ができるのねえ…、で、もう気持ち悪くないの?

 ——あ、もうシャキシャキだよ。グルグル、オエッ…、ハハハ。

 それにしても、あなたを問答無用で救済してくれる<神>なんていう言い回しが、かなり思わせぶりなのよね。また、何んか企んでるんじゃないの?

 ——き、君、僕はいま酔いから覚めて真人間に帰ったばかりだよ、それなのにいったい何んの企みが出来るっちゅうの? 僕はねえ、君が考えているような深謀術策を弄する輩とはちゃいますよ。

 ふうん、まあ、とにかくは、<神>を<世界>との関係で語れるっていうことは、それなりに<物語>に対する<神>の有効性とその限界についちゃ、多少なりとも意識的だっていうことね。

 ——なんだいなんだい、やけに回りくどい言い方するじゃないか、君は、いったい何が言いたいの?

 う、うん…、結局ねえ、あたしたちが語ってきたことっていうのは、言い方を変えてみれば、れっきとした<宗教論>として語りうるものだってことなのよ。無論、なにもかにもが相対的な関係に置かれているような、こういう<物語>で<宗教論>を語るってことは、たとえば「神は存在する」という前提で<神>の存在論を語るような<神学>なんかを容認するわけにはいかないけどね。
 でもねえ、あなたは、どんな醜態を晒してでも<神的な表現者>の亡霊とかシッポなんかを平気で引きずっていられるようなヒトだから、やはりあなたの宗教的発言には気を許すわけにはいかないってことなの。そんなわけでね、たとえあなたが無意識を装ってみても、あなたのウジウジとした自己愛の中で<神>なんていう概念は、かなり特別な思い入れをした切り札になってるんじゃないかと思ってね…。
 ま、だけどここは、とりあえず<物語論物語>だから、そんなカードも使い方を間違っちゃえば、ただの紙切れ同然になっちゃうしねえ…、そうねえ、どう考えてみても、博才を感じさせないあなたの場合には、やっぱし神のいない絶望の淵で女々しく嘆き悲しむ姿がお似合いってことかしら…、ハハハ。

 ——君ねえ、そうやって勝手な<物語>を作ったりしてさ、僕を絶望の果てへ突き落とそうとしてるようだけどね、絶望するナルシストから引きずり出したのは、正に君なんだよ、わかってんの?

 ハハハ、そういえば、そうねえ。すると、どういうことなのかなあ…、絶望していればいるで不自然だし、まして期待される人間像や希望に溢れる顔をしていても、やはり不自然に思われちゃうんだから、結局のところあなたって人は、あたしやあなた自身が思っている以上に正体不明ってことじゃないの? つまり言い方を変えれば、どこにもシックリいくような居場所がないってことなのよ、ね?

 ——なっ、なんだなんだ、僕を追い出す気か?

 さあね、それはあなた次第かしら…、ハハハ。
 …ん? アアッ、びっくりするじゃないの!! 黙って、後ろなんかに立ってないでよ…。な、なによ? なにも今すぐ出ていけなんて言ったわけじゃないでしょ? 
 あなたってねえ、ちょっと追い詰められたり不愉快なことがあると、すぐ、そういうふうに独善的な神で武装した侵略者みたいな顔するんだから…、いくらあなたが敬謙なる信仰者だとしてもよ、所詮あなたの信仰する<神>はあなただけのものにすぎないのよ、分かってんの?

 ——おおっ…、君は、宗教を否定する気かい? 君ねえ、僕のようなアホで意志薄弱の人間にこそ宗教が必要なんじゃないの、でしょ? 誰が考えたって、それが正論というものでしょうが? 
 だったら、僕が敬謙なる信仰者であって悪いってことはないでしょうよ。それとも君は、この<物語世界>じゃ信教の自由なんてものは認めないとでも言う気かね?

 いいえ、そんなことは言ってないわよ。むしろあなたが、そうやって信教の自由を認め尚且つ積極的に擁護してくれるつもりなら、あたしは大賛成よ。なんせ、あたしが言わんとした<物語的人格論>を<宗教論>としてみれば、それは正に<信教の自由>の問題なんだから…。ということは、どういうことだか分かる?
 つまりねえ、あなたは、ここで信教の自由を保証することによって、自らが<神>を切り札として使う権利を失ってしまうってことなのよ、ハハハ。そういうのを語るに落ちるっていうんじゃないの?

 ——へえ、そういうもんですかねえ…。僕としちゃあ、一向に落ちたという感覚がないのにねえ…。おおっと、こっちのほうは感覚リミット!! ちょいと、ごめんよ…。
 ……
 ハハハ、おしっこは、まだアルコール臭いよ。やだねえ…。
 とにかく、善良にして敬謙なる信仰者たらんとする僕には、君の言わんとするところが、まったく理解できませんねえ…

 今さら、しらばっくれたって、ダメよ。だいいちその顔に書いてあるもん。
だって、あなたが言わんとする<神>って、あの唯一絶対にして完全無欠、おまけにとめどなく超越しつづける人格的意志としての<創造主>のことでしょ?
 とすればよ、なにかと権威や権能を去勢されてしまったと嘆いている<劇中作家>のあなたが、<生理的な表現者>を信仰するものとして、すきあらば<口述筆記者>という言い繕いで成り上がろうとしている<超越的表現者>のことと同じじゃないの?

 ——で、でもねえ、たとえ僕が<神的表現者>を信仰したからといったって、君に迷惑が掛かるわけじゃないだろう? これでも僕は、<表現者>の血筋を引く<劇中作家>なんだからね。
 とにかく君が、<物語的人格論>とやらを<宗教論>として語るつもりならばねえ、僕としてはだよ、とりあえずはあのモーゼを<神話的表現者>としたときに、彼が十戒という天啓を授かったという奇跡的な事件あたりにまで遡ってね、僕の<創造者信仰>のルーツを探っていただきたいってわけさ。

 ハハン、そのモーゼなんていうあたりがかなり臭いわね。ダイレクトに<神>なんてものを出さないところに何んかありってところね。それも結局は、<救世主>なんていうより怪しげな<物語的人格>を捏造する布石なんでしょ?

 ——うむ…。だったら君は、この信仰の問題をだね、どんな<物語論>として語ることが出来るっていうの?

 そおねえ、とりあえずはバッハの時代あたりまで遡ればいいんじゃないかしら…。
 それは、ヨーロッパにおける音楽芸術の出生をバロックといわれる時代まで遡れば、<芸術>と<宗教>の今日的情況は十分に語れるっていうことね。
 いい? もっぱら<神の愛>が確信されていた時代が、様々な矛盾とか腐敗によって揺らぎはじめたときに、言わば<神の愛>の所有権を巡ってプロテスタントが生まれてきたとすればよ、プロテスタントとしてのバッハの仕事っていうのは、神職の独占物だった<神>を、芸術家までもがその個人的な営為によって、所有し具現化することが可能になったということの証なのよ。
 つまり、一介の<表現者>にすぎない者が、自分の仕事である<作品>に<愛>という名の神霊を<美>として宿すことに成功したところに、ヨーロッパに言う<芸術家>と<芸術論>の出生があると言うことが出来るってわけね。
 この情況を見定めるだけでも、十分にあなたの企みは見えてくるはずなのよ。
たとえばねえ、前衛音楽のみならず様々の前衛的な芸術運動によって、伝統的な芸術が拠り所とする約束はことごとく解体されたはずだとしてもよ、未だ芸術を<作品論>としてしか問うことを知らないヒトビトにとっては、感動という手段によって<美>の存在を確信させる<作品>は、未だに<作品>自体が<美>を宿すものとして評価され、<神の愛>の具現化を祝福している有り様だってわけね。
 そこであなたは、前衛的芸術論などとは関わりを持たぬヒトビトを当て込んで、あなたがたとえ<愛のドキュメンタリー>なんていっても、所詮はヒトビトの暗黙の了解によって<作品論>としてしか評価されないと見越し、<作品化>された<ドキュメンタリー>の<表現者の愛>を口述筆記という超越的手段で<神の愛>に擦り替えて、<ドキュメンタリー作家>という<神>に成り上がろうとしたってこと。

 ——ん、まあ…、でもねえ、君の言う<芸術論>の出生が出生ならばですよ、いま<神>の存在までもが相対化されてしまいかけているときにこそ、芸術家たらんとするものは、<神の愛>と<美>の不可分の関係を見定めて、やはり敬謙なる信仰者であるべきなんですよ、ねえ…。これは僕の芸術家としての感性によって疑う余地のないものになってるってわけだね。
 まして<劇中作家>という身分ゆえに信仰者でなければならない僕としては、せめて僕が<劇中作家>たりうる<物語>を<愛のドキュメンタリー>にすることによって、ここに神霊の降臨を仰がなければ、いかようにも<神>の存在を語ることができないってわけですよ。

 でもねえ、それが<物語的人格>であるあなたの個人的な信仰の告白ならば、あたしだってとやかく言うつもりはないのよ。

 ——そ、そうでしょう…、僕だって、そのつもりですよ。
 だけどねえ、<劇中作家>である僕は、単に<神の愛>を自分の<物語>として語ることのみにとどまらず、より積極的に<神の愛>への帰依に証を立てるためにも、僕は無私の立場で<口述筆記者>でなければならないってわけさ。
 その意味においてはね、僕のためにはバッハを語るのではなく、むしろあのマーラーについて語っていただきたいと思うわけだね。
 たとえば『第8番』のあの壮烈にして荘厳なる第1部ではね、たぶん一介の作曲家にすぎない彼が、思わず宇宙を響かせ<創造の主たる神霊>が降臨する<奇跡的な事件>を喚起しえた感動に震撼として、しばし滂沱の涙を押さえることが出来なかったはすだと感じるわけさ。当然ここで彼は、<作曲という事件>の仕掛人であったにもかかわらず、神霊の降臨という奇跡によって自らが<神の愛>を受肉するものとして、ほとんど<無私の作曲家>となり<神の意志>にのみ基づく<作曲という事件>に立ち会わされたにすぎないはずなのさ。
 無論、彼の仕事がここに至るためには、『第2番』の終楽章やあるいは『第3番』の終楽章における救済への荘厳にして高貴な<祈り>を、マーラーという苦悩者自身の身を切り刻む反省的な痛みによって、集中させ持続させて<神の賛歌>へと昂揚しえたという、あの真摯な努力と精進が認められてなければならないとは思うけどね。そしてそのすべてが、『第8番』の第2部においてことごとく救済されていくわけさ。
 ここに一貫して見られるマーラーの<作曲家>としての姿は、決して<神>に成り上がるなどという不遜な態度ではなく、あくまでも<神>に使えるものとしての<無私の表現者>の姿であったと言いうるはずなのさ。
 つまりこれこそが、正に僕の理想とする<表現者>の姿というわけですよ、ね?

 ふうん、マーラーねえ…。でもあなたには、マーラーのように無垢の感受性で生きることの哀しみと死への恐れにせきたてられて、<神の愛>にすがらなければ生きえなかったような、つまりは止むに止まれぬほどの切羽詰まった表現欲求ってものがあるの?

 ——あっ、ありますよ、あるはずなんですよ、たぶん…、ね。
 た、だだねえ、それは僕の場合には、幸か不幸か君にも打ち明けることも出来ない深層の確執としてね、埋没してるっちゅうわけですよ、ハハハ。

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