「裏切られるために愛しつづける僕」〜C



 そう、じゃさっそくお聞きしたいんだけどねえ、自らの<物語>においてさえ<創造性>への自覚が乏しいあなたとしては、<表現者>としての<自由意志>というものをどのように自覚してんの? ああ、その顔じゃ、まったく無駄な質問だったみたいね…

 ——まあね…。だいたいねえ、そういうことを急に言われたって、僕としては困るんだよねえ。君こそ、そんな質問をする前にちょっと考えてみてよ。いいかい、僕は君の<物語的意志>とやらを実現することによってしか<表現者>としての身分を認めてもらえないんだよ。つまり、自分の<ドキュメンタリー>だと思っているものさえ失いかけ、いったい自分が誰であるのかさえ疑わしくなっているときにだよ、僕自身の<自由意志>なんてどこに見付け出すことが出来るっていうの? 
 もう僕としては、ひたすらキーボードを叩くのみなんだからね…

 だからこそ、その<自由意志>に目覚めさせてあげようと思ってるんじゃない、どお、優しいでしょ?

 ——まったくもう、どこまで意地が悪いんだか、わかりゃしないんだから…
 しかしまあ、こういうのが君の屈折した愛情表現というわけなんですかねえ…。とすれば、これは情夫たる僕が担う当然の運命というわけでしょうから、<愛のドキュメンタリー作家>の僕としては、あえて君の優しい毒牙のために僕の青春の1ページを捧げなければならないっちゅうことでしょうねえ。

 アホ、そんな顔して気取ってるんじゃないの。中年のブ男はブ男らしく、常に真面目にやらなくちゃ認めてもらえないのよ。

 ——テヘッ。でもねえ、正直なところ突然に<自由意志>なんて言われたってさ、僕は困るんだよ。そもそも僕はねえ、ささやかなる幸せにこそ満足できる律義な自由人ってわけですからね、ここで女に不自由しているわけじゃないし、まして女にタカルことに喜びを見いだすほどの遊び好きっちゅうわけでもないしね。ま、これといった不自由を抱えているわけじゃなんだから、今さら自由であることの実感というか、喜びの重さなんていうのがよく分からんのですよ、ハハハ。

 ったくもう、その顔をして、よくもそういう図々しい口がきけるわね!! この恥知らずが、エィッ!! それもう一発!!

 ——痛てっ、痛てえよ。冗談だよ、冗談!!

 それにしてもあなたって、<物語>に対する自らの表現能力の可能性についてさえ、てんで無頓着なくらいだから、<表現者>としての不自由さとか苦悩なんてものには、ほとんど縁がないってことなのかしら?

 ——ヒエーッ、鋭い!!

 ああ…、ほとんど絶望的ね。で、でもねえ、この<物語論物語>という情況においてはねえ、ここであなたが、どうしても<ドキュメンタリー作家>でありつづけようとするらばよ、あなたがほとんど無意識のうちに、そのブヨブヨの脳みその芯まで犯されている<常識・文化・制度>に対して主張しうる自らの<自由意志>については、やはり自覚的であるべきね。
 つまりねえ、あなたがこれに目覚めるっていうことは、この<物語>において、あなたがあたしに対してどれほどの<自由意志>を主張し実践できるかっちゅうことへの問い掛けに回答することになるはずなのよ。

 ——ふむ、<自由意志>ねえ…。まあ、誰が考えたってさ、<自由意志>なんてもんは、あまねく<表現者>が自ら思い希望することを主体的に実行しうる能力ってところだろうから、<表現者>がいかにも表現者らしく充実しているときにしか発見できないものってところかな。
 そう、つまりは<表現者>の精神と身体がハネムーン気分に酔ってる状態だね。誰だってハネムーン気分が一生続くはずなんかないと承知していても、とにかくここでは、力尽きた<表現者>のために心身症なんて都合のいい病気を用意する必要がないってわけさ。

 ふうん、ハネムーンね…。そうすると、よほど性悪の愛欲を抱えた<表現者>にしても、いわゆる離婚に相当する事件としての自己矛盾に目覚めたときにしか、新たなるハネムーンへと旅立つことが出来ないはずだから、一度ハネムーンに旅立った<表現者>は、そうたやすく二度目以降のハネムーンを体験できるものではないってわけね?

 ——ふむ、そういう言いかたからすれば、<表現者>として<物語>を語り起こすことが、すなわちハネムーンへの旅立ちってわけだね。

 すると、とりあえずは夢心地の<表現者>ってわけね。ところであなたは、この<物語>でそんな夢を見つづけることができるのかしら?

 ——そうだねえ、ま、なんですよ、いくらアホ呼ばわりされても<ドキュメンタリー作家>はドキュメンタリー作家ですから、やはり夢心地の<物語>だと言っておきたいね。
 ところがそう考えてみるとだね、いままで僕が自らの<自由意志>について無頓着であったことの理由が、突然明らかになってくるってわけですよ。つまり、僕は夢心地で<自由意志>を体得していたために、そこで改めて<自由意志>について目覚める必要がなかったってわけだね。言い換えるならば、<自由意志>を体得している限りは決して夢心地から覚めることがないってわけさ、ハハハ。
 それにねえ、キーボードを叩いている僕としては、とりあえず文字を書くという<現実>と物語を語るという<虚構>を、ワープロのプリンターから正に印刷された<作品>として統一的に提示しえているという確信によっても実感できるってことだね。
 つまり、<作品>が創造されていく現場を<表現者>の立場でいうならば<自由意志>の発動であり、<物語論>としていうならば<物語的意志>の実現ってわけさ、どお?

 あれれ、ちょっと待って。あなたの言うその<作品>っていうのは、ここでは結局のところ、単に<文字の集合>のことでしかないんじゃないの? そもそもあなたは<言葉>を<文字>にする口述筆記者でしかなかったんだから…。
 ということはよ、あなたが<現実的な表現者>として口述筆記者であることを自覚する次元でプリンターから出てくる<作品>を捏造することにより、あなたがこの<物語>の中で担うべき<自由意志>を<物語>の外で超越的に掠め取ろうとしているけれど、この<物語>において「<作品>とは何か?」と問うことが出来るとすれば、それはあたしたち<物語的人格>の生きている世界、つまりは<物語的世界>の存在理由についてでしかないはずなのよ。
 だから、ここであたしがあなたに聞いていることは、正直者の口述筆記者として<物語>を<文字>としてドキュメントするときの、有るか無いのかも分からない<自由意志>の<物語>に対する可能性と、そういう曖昧な<自由意志>の存在理由についてってわけなのよ。言い換えればねえ、あなたが自らの理念を<作品>として提示しようとするときの、その表現行為における<自由意志>の存在構造について尋ねているのよ?

 ——またまた、そういう面倒な言い方しちゃってさ…。つまり、君の質問ってのは、<物語論>において<表現者>である僕が、<物語的意志>を自らの<自由意志>として担う権利が有るのか否かってことなんでしょ?

 あらっ、突然どうしたの? ほとんど明晰じゃない!? それで回答のほうはどうなの?

 ——だから、さっきから答えてるじゃないか。僕が、<物語的世界>であるところの<作品>を創造しうる<表現者>であるということによって、すでにその権利が保証されているって…。

 アァーア、また振り出しに戻っちゃったのね。いいこと? あたしが言っているその<権利>っていうのは、もともとは<物語的人格>にすぎないあなたが、口述筆記なんていうトリツクで自己神格化を企てるために自分に与えた自愛的幻想でしかないのよ。
 もうここまできたら、あなたの<物語>における<自由意志>はおろか、<表現者>としての存在さえ<虚構>にすぎないってことを論証してあげなければならないってわけね。いよいよ覚悟するときよ!!

 ——覚悟なんか、いつだって出来てるさ。だけどねえ、いくら君なしでは<物語>が始まらないとはいうものの、君だけでこの<物語>が語られてきたってわけじゃないんだぜ。

 まあまあ、ここまできたら、もう今さらながらの悪あがきは、見苦しいだけよ。
 とにかく、いままでふたりの<会話>がうまく噛み合っていなかったことの原因を挑発的に言えば、自分が幽霊であることに気付いていないあなたと、幽霊こそが現実的存在であると気付いていたあたしとの情況判断の相違にあるってことね。
 ところがこの論点の相違は、<表現者>を<創造主>に置き換えたときに、神なくしては世界を語れないと考えるか、世界があればいかようにでも神を語ることができると考えるかの違いでもあると言えるわけだから、その意味においては、あなたの主張もあながち荒唐無稽ではないってことね。この点に関しては、あなたの勝手な思い込みにも、それなりの一貫性があるってことだから、それは評価すべきかもしれないわね。

 ——そうでしょう。君もそうやって素直に僕の主張を評価していけば、<物語>は常に円満に進行していけるのですよ。その態度は、非常にいい傾向ですな、ハハハ。

 ま、喜んでいられるのは、今のうちだからね。さて、話しはこれからよ。
 まず<創造主>は自らの実在性を主張するために<被造物>である一切のものに実在性を与えたけれど、<創造-者>であるあなたは、「光あれ」と言っても光を生起させることなどできっこないから、結局あなたにとって<物語>は<虚構>にすぎないと言うしかないけれど、それに対してあたしは、いかなる存在者も<虚構>にすぎない<物語>を担い<物語的人格>となることによってしか生きられないと言ってるわけだから、当然、神も<物語的人格>のひとつにすぎないと言うことが出来るってわけね、いいわね?

 ——き、君ね、好いも悪いもないでしょ!? 神の存在まで疑ってかかっちゃったりしてさ、罰が当ったってしらないよ。そういう君の大それた企みこそが、はかない<物語的人格者>の夢ってところじゃないの? まあ、語るに落ちるのが関の山ってところだね。くれぐれも君こそが幽霊になっちまわないように気を付けることさ。

 ハハハ、残念ながら、あなたの忠告は忠告になってないわよ。さっきも言ったでしょ、所詮あらゆる存在者の本性と言いうるものは、幽霊にすぎないって。よおく、あたしの顔を見てごらんなさいよ、あたしは幽霊だからこそ、こんなに魅力的なのよ、ね?

 ——チエッ、自分で勝手に幽霊になってりゃ世話ねえや。

 そんじゃまあ、幽霊が語ることにすぎないけれど、とにかくはあたしの<言葉>が現実的な事件としてあるんだから、心して聞いてちょうだい。
 まず第一に、この<物語>は、あなたがキーボードを叩いた<文字>によってしか存在しないってことね。これは<存在論>としてこの<物語>を語っていこうとするときの最も基本的な条件ってわけよね。とにかく、誰がいかなる目的・理念によって<物語>を語ろうとも、それは<文字>によってしか存在しない。ここでは、これがルールってこと。いいわね?

 ——ん、まあね…。

 第二に、この<文字>が<言葉>として語っているところのものが<物語>である、ね!?

 ——当然ですよ。

 ということは、ここでいう<物語>とは、<言葉>とか場合によっては<記号>と言いうるものに固有の<意味>を担わせるものとしての<常識・文化・制度>のことである。したがって、ヒトがヒトビトと共有しあうこの<物語世界>を無視しては誰が誰であるかさえ曖昧になってしまうために、<物語的人格>でないヒトとヒトビトは、自らの個別性を主張する根拠を持つことが出来ない。
 つまり、何はともあれ<私>が<私>として<現実的>な存在理由を獲得するためには<物語的人格>であることが要請されるってこと。
 そこでこの<物語>において、何事かを<現実>と<虚構>として区別するルールについて見てみれば、<物語的人格>であるあたしたちの<言葉>を会話として成立させる<常識・文化・制度>こそが<現実的>なものである以上、その存在理由である<文字>の外にあると言われたり想像されるものは、ことごとく<虚構>にすぎないといわざるをえない、どお?

 ——ふむ、だけどねえ、君の言う<常識・文化・制度>としての世界ってのは、実は<物語世界>を成立させる台座として見るべきじゃないの? つまり、<常識・文化・制度>を共有しあう世界におけるひとつの出来事として、小説や映画や演劇としての<物語>が存在するんじゃないの? 僕はそう考えるほうが自然だと思うけどね。

 そう? それはそれでも結構よ。でもあなたの言う<常識・文化・制度>にしたところで、それもやはりひとつの<物語>でしかないんじゃないの? たとえば演劇としての<物語>は、たしかにそれを演劇として成立させる<常識・文化・制度>を台座にしてはいるけれど、劇場という舞台から街頭へと出た演劇は自らを<物語>として成立させている<約束=常識・文化・制度>を解体するという手法によって、ヒトビトが自らの拠り所としている<常識・文化・制度>こそが、彼らが勝手に思い込んでいた<物語>にすぎないことを反照的に示すことが出来るんじゃないの?
 つまり、ここであたしが言ってることは、<世界観>を勝手な思い込みによって階層的に組織化しようとする従属関係の問題じゃないのよ。
 <常識・文化・制度>そのものが<物語>だってことは、それが<文字>であれ<言葉>であれ<作品>であれ、あるいは<幻想>であっても構わないことなんで、ただ自らが<常識・文化・制度>であることを主張しうる<ルール>としての<物語>を必要とするってこと。言い換えるならば、<常識・文化・制度>を語るためには<物語>を不可欠のものとするにもかかわらず、<物語>を語るためにもまた<常識・文化・制度>という<物語>を不可欠のものとするってことなのよ。
 つまり<物語>とは、その存在の形式に捕らわれることなく、とらえどころのない重層的で多層的で不節操な構造だってこと。結局のところ、いかなる現相においても物語的でない存在などありえないということなのだ!!

 ——ほう、それじゃねえ、僕が「文字を書くヒト」という<現実的な物語的人格>と、「物語を語るヒト」という<虚構としての物語的人格>を共有して悪いという法はないんじゃないのかね、どうだ?

 でもねえ、残念ながらこの<物語>においては、それは<ルール違反>だから共有することはできないわね。たとえ、とらえどころのない<物語>であっても、<物語>が自らの意志に基づいてひとつの<世界観>であろうとするならば、やはり<物語的意志>を語りうる<ルール>を必要とするってわけよ。
 とりあえず一般論として言えば、何かであるにすぎない何ごとかを、特定の事件や記号として意味付ける<物語>こそが<ルール>ってこと。そしてここでは、あたしたちの存在理由である<常識・文化・制度>が<文字>によってしか存在しないってこと、それが<ルール>なのよ。
 そこで第三に、この<物語>においては、「文字を書いているあなた」とは<文字の意味>である<物語的人格>としては存在可能であるが、この<文字>を超越する存在者の立場を主張するならば、もはやこの<物語>の中に存在することは出来ない。
 したがって、あなたは「文字を書く現実としてのヒト」という<物語的人格>と、「物語を語る虚構としてのヒト」という<物語的人格>を共有することなら出来たはずなのよ。

 ——ウヌ…

 にもかかわらず、事態は第四段階を向かえなければならなかったってわけね。
 つまりあなたは、この<物語>の存在論においては<文字>であるにすぎないにもかかわらず、その<文字>を超越する「文字を書く現実としてのヒト」の自己実現が可能であるという<幻想>に捕らわれていたために、その<幻想>によって自己正当化をするという自愛的な臆断が、<文字の意味>である「物語を語るヒト」という<物語的人格性>を<虚構>へと葬り去ってしまった。
 ということは、ここで虚構化された<物語>が、<物語>によってこそ<言葉>たりうる<言葉の存在理由>を自己否定的に掠奪し、さらに<言葉>によってこそ<文字>たりうる<文字の存在理由>を自己否定的に喪失させてしまったのだから、ここでは<物語>を超越して先在的に「文字を書いているヒト」など虚構にすぎないというわけで、すでに<虚構>としてしか存在していなかったあなたは、いかようにもこの<物語>における<自由意志>などは持ちようがなかったってことね。

 ——す、すると僕は、いったい何んなの?

 そうねえ、自らが<物語的人格>という幽霊みたいな存在であることを自覚していれば、正々堂々とこの<現実的な物語>に行き残れたのに、結局は<虚構物語>における人格性しか獲得できなかったんだから、いつまでも成仏できない<表現者の亡霊>ってとこじゃないかしら。つまり、本物の<お化け>ね。

 ——お、お化け!?

 そう、正に現代の思考ゲームにおける明解なる怪談ってところね。
 とにかくねえ、このワープロに設定された<物語>は、それが物語でありつづけるためにこそ<物語>を語る<物語的人格>を要請している。そして、この<物語的人格>は、あなたの心身問題風に言えば、「文字という身体性」とその「意味としての精神性」のハネムーンによってこそ<自由意志>を保証されるってわけね。だからこそ<物語的人格>は、その<自由意志>によって初めて<物語>を自らの問題として語り、同時に自らの<問題>を物語として語ることが可能になったってわけよ。
 いい? もう一度おさらいするわよ? <物語>における<自由意志>とは、<物語的人格>が担う<物語的意志>のことであるってわけ。
 そして、すでに<あたし>に対する<あなた>と<あなた>に対する<あたし>という関係においてさえ、ヒトビトと<物語>を共有しあえる<物語的人格性>を無視しては<常識・文化・制度>を語ることが出来ない、どお、分かった?

 —— ……

 ハハハ。なによ、まるで幽霊そのものじゃないの!?

 ——ああ…、ぼ、僕は、いったいどうしたらいいの?

 もうここまできたら、どうしようもないじゃないの。だから、最初にも言ったでしょ。後で泣いても知らないよって、ね? 結局、自業自得なんだから、しょうがないのよ。
 とにかくヒトの忠告をマジで聞かないから、こういうことになるの。いずれにしても、あなたの高慢さゆえの不注意による自己崩壊あるいは自己喪失ってわけね。

 ——そ、そんなあ…。黙って聞いていればいい気になってさ、人ごとだからって自己崩壊とか喪失ってのはないでしょ…。それじゃまるで死刑宣告じゃないの!?

 なに言ってんの? あなたはすでに死後の幽霊なのよ。今さら死刑だなんて、笑わさないでよ。とにかく、これにてチョン、ね!?

 ——ああ、ムゴイ!! ムゴイ!! なんという惨さ…。これが、あれほど愛しあっていた情夫に対する言葉なの?

 あれ? あたしに情夫なんていう、そんな気の利いたものがいたのかしら? 
あたしって、ずうっとペットを飼ってただけよ。寂しいときはペットに慰めてもらってたんだから…

 ——そ、そんなあ…、君は、僕たちの愛の生活まで、こんな論理の遊びみたいなもんで抹殺してしまおうって言うのかい?

 まあね。でもねえ、あなたにとって、どうせ抹殺される運命だとすればよ、遊び半分のほうがかえって傷が浅いんじゃないの? だって、マジでみんなに寄ってたかって抹殺されてごらんなさいよ。そしたらもう、再起の気力はおろか、どこの<物語>にも浮かばれる望みすら無くなってしまうじゃないの。でしょう?
 そういう意味においても、あたしって、やっぱし優しいのよねえ…。いくら望みのない幽霊や亡霊にしたところで、一応はその存在を認めてあげるんだもんね。

 ——おおっ…、そんなバカなっ…。とにかくねえ、そんなはずはないんだよ。
 いいかい、きのうの夜だってさあ、君は、あんなにはっきりと僕の求愛行為に対してだよ、そう、こんなふうに大きく開いちゃって、それで、こんな感じで揺すっちゃって、それでいつもの熱狂的なアヘアヘだったんだよ。もう、誰が見たってさあ、お嫁さんなんかには到底行けそうもないカッコしちゃって答えてくれたじゃないの、でしょ?
 そう、こ、これ!! この背中の傷!! これこそ、君が猛然と掻きむしった跡じゃないか?どうだ? 今さら君がなんと言おうとも、僕には、このヒリヒリ的身体が歴然として存在するんだ。これを否定することは出来ない!!

 あなたねえ、とにかく幽霊なんていうのは、そうやって有りもしない自分の身体に固執するものなのよ。そうねえ、もっとも今となっては、それがあなたをこの<物語>に引き留めている唯一の絆ってわけだもんねえ…。ま、気持ちは分かるんだけどね。

 ——それじゃ君は、もうどうしても、この<物語>において<自由意志>を担う僕の存在を認めてくれないっていうの?

 まあ、このままじゃ、どうしたって認めようがないじゃないの?

 ——ね、ねえ、これはほんの内緒の相談なんだけどさあ、どうしたら僕の存在を認めてくれるの?

 すぐ、それなんだから…。たまにはねえ、自分の失敗を潔く認めて、逃げ隠れしない堂々たる敗北者になってみたら? それこそが、たとえ幽霊であっても男の意地ってもんじゃないの?

 ——チエッ、きょうこそは、いい仕事が出来ると思ってたのになあ…。たとえさあ、アホ呼ばわりされようとも、かろうじて<表現者>たりうることで、ほんの今さっきまでは、ささやかに維持できた<ドキュメンタリー作家>としての絹糸ほどのプライドさえ、今となっては、もう雑巾のごとき扱われ方だもんねえ…。
 だいたいどこの<物語>だってさあ、それがひとたび<作品>として存在可能になれば、それは<表現者>の権能においてこそ書き進められるべきものじゃないの? ましてさ、<作者>というのは、さっき君が言ってたように、自らの<作品>に対する<創造者>なんだからさ、<物語>に対してはそれなりの権威とか権能というものが保証されてしかるべきじゃないの?

 まだグズグズ言ってんの? あれだけ懇切丁寧に、あなたの不在を解説してあげたのにねえ…。じゃ、もう一度だけ言うわよ。この<物語>は、断じてあなたの<小説>なんかじゃないの!! もはやここでは、<小説家>でないかぎり<創造者>なんかではありえないってこと。それなのに、あなたの権能ですって? まったく、どこまで惚けてんのよ?
 もしもねえ、どうしてもあなたが、この<物語>をボツにしたくないんだったら、さっきからあたしが言ってきたことをよく考え直してみることね。

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 ——アアッ、ど、どこ行くの?

 トイレよ!! うるさいわね。あたしの勝手でしょ。

 ——ちくしょう!! 驚かせやがる…。
 なんでえ、なんでえ!! 虚仮にしやがって、糞面白くもねえ。面白くねえ奴は、みんな糞だ!! ん!? すると美女はウンチかな? ハハハ。
 アァーア、われながらウンざりするほど自棄的な発想だ!! いやだ、いやだ。
 それにしても、クダラねえと言ってしまえば便秘ってことだから、そうなりゃオシッコに決まってらあな、ヘヘヘ。

 なに、ひとりで笑ってんのよ? この期に及んでも、まだ余裕ありなの?

 ——いや、べつに。ヒヒヒ…

 なによ、変な笑い方なんかして…。
 ところで、どうなの? これからの身の振り方に自分で何等かの回答を出せる見込みがあるの? もしも、その望みがないんだったら、あたしは出掛けるわよ。ま、この手が、あなたの<物語的野望>に対しては最も効果的な回答ってわけよね。
 とにかくきょうは、あなたのお陰で、すっかり予定がくるっちゃったんだから…。なんか、ムシャクシャしてしょうがないわ。パァーとバカ騒ぎでもしないと、わけもなく欝的な欲求不満になっちゃいそうだ。もう、今夜は徹底的に遊んでやるんだ!!

 ——とほっ、もはや君を引き留める手段を持ち合わせていない僕としては、朝帰りの君を待つのみではありますがね、一晩に10万円も使ってしまうつもりなら、せめてそのうちの1万円くらいは使わずにすませられる平常心のためにですね、僕という凡庸なる<表現者>の必死の努力をお認め頂きたいと願うのみですよ。なにせ、僕としてはですね、ただひたすらに愛する君の期待に答えるべく、無い知恵と想像力を絞りに絞って汗かいていたんですから、ね…

 もう、うるさいんだから…、あんたみたいな「口だけお化け」は、さっさと地獄に落ちちゃいな!! なによ、そんなところでウロウロしてないでよ、お化粧するんだから…

 ——ん!? ほらほら、君は、僕を抹殺するようなことを言ってるわりには、僕の身体性を認めているじゃないか、でしょう?

 違う!! あたしの霊的な感受性に、あなたの幽体がちらついてうるさいって言ってるの!!

 ——ねえ、そんな意地悪しないでさ、そのへんてこりんなトリックは無しにしてよ。それでさあ、なんとか僕の生き延びる方法を教えてちょうだいよ。だいたいさあ、ちょっと考えてもみてごらんよ、こんなところでね、これほどのイロ男をですよ、ポイだなんて、どう考えたって女の中の女のすることじゃないでしょうが? ね?
 アア、ほらほら、自分でもちょっと大人気ないなあなんて、思ったりしてるんじゃないの? ほら、この辺に微笑の影が…、ね?

 もう、鏡の前でチラチラするんじゃないの!! この陰りはねえ、無明無知に迷う恥知らずな愚か者を地獄の底に突き落とす蔑みの笑いなのよ。あなたみたいな発育不全の男には、安易な慈悲心なんかが一番毒だと知るべきね。

 ——へえ、そういうもんですかねえ。僕にしてみれば、君の毒舌こそが繊細な僕をズタズタにして、揚げ句の果てに発育不全へと埋没させているように思えてならないけどねえ。アァアッ、かわいそうな僕…。そんなにいじめてばかりいるとねえ、ひょっとするとですよ、イロ男が君の帰りを待ってるなんて幸せは、もう味わえなくなっちゃうよ。

 あなたねえ、なんか考え違いしてるんじゃないの? あたしは、あなたをいじめて遊んでいるわけじゃないのよ。とにかく、あなたはこの<物語>における自分の立場をしっかりと見詰め直して、それで自分の態度を決定するしかないのよ。だってそうでしょ、あたしにとっては、こんな<物語>は無くたって一向に構わないんだから、あたしがどうこうする問題じゃないのよ。

 ——ん、まあねえ…。それはそうなんだけどさあ…

 じゃ、何を迷ってるの?

 ——う、うん…。ま、僕としてはね、やっぱ不安だってことさ。君に、この不安が…、この僕の不安が…、まあ、分かってはもらえないだろうねえ…。なにせ相手は鬼の字がついた美女だからね。己の魅力に傲れるものにヒトの痛みなんか分かるはずないもん、ね?

 なによお!? やけに絡んだ言いかたするじゃないのさあ。いいから、その不安とやらを言ってみなさいよ。

 ——す、すぐ、そういう顔して脅すんだから…
 だってねえ、もしもだよ、もしも僕が、君と同じように<文字>にすぎないとしてだよ、<言葉の意味>として<物語>を語りつづけている僕が、かろうじて<現実的存在>であるのみだとしたらだよ、いったい誰が、誰がこの<物語>を<文字>としてドキュメントしてくれるっていうの?

 なんだ、そんなこと…

 ——な、なんだあって、そういう言いかたはないでしょう!? 
 僕にとっちゃ、最重要課題なんですよ。いいですか、君にとってもですよ、いささか捨てるには惜しいなあと思うイイ男をですよ、ここで救うためには、何がなんでもこれに回答を用意しなければならないってわけなんですよ?

 まったく、あんたの自惚れも手の付けようがない病気になってるんじゃないの?
 それにしても、どうしてそういう厚かましい発想が出来るのかしらねえ?

 ——ハハハ。まったく悍しい性格ですねえ。自分でも恥ずかしいばかりですよ。で、どうしますか? イロ男をひとり殺しちゃいますか? アハハ。

 そうね、自分で勝手に死んでくれるんなら、あたしは構わないわよ。

 ——アハハ、相変わらず優しいお言葉!! 僕のささやかなる情熱をもたちどころに凍えさせるお言葉を頂いたら、もう自分で死ぬ元気も失いました。もはや死ねません!!
 ああっ、ついに僕は、死ねないと自覚してしまったのです。後は、君に救われるのをただ待ち望むばかりになってしまいました、ね? 是非とも救ってちょうだい!!

 ふうん、それじゃあなたは、あたしの忠告を鼻であしらったり、事あるごとに「俺は表現者だ」なんて勝手に成り上がった両生類みたいな顔をして、<物語>のことは自分の口先だけでなんとでもなるなんていう、そういう独善的で思い上がった態度を改めるっていうのね?

 ——う、うん。

 あたしはねえ、そういう無知とか無意識を装った傲慢さは絶対に許さない!! 
 いいわね!! 自分への甘えを無駄口なんかでごまかすやり方は、通用しないのよ!!

 ——おお、なんと、冷たく厳しいお言葉。この灼熱地獄で落日色の汗にまみれた僕は、もはや、このキーボードを叩く指が凍えて硬直していくのを、ただ茫然と見守るばかりなのだ…。アアッ、ど、どうしたんだ!! 目が、目が見えなくなっていく!! 
 アアッ、く、苦しい!! ど、どうしたんだ…。ウウッ、こ、これまでだ、パタ…

 このアホンダラが!! その目に染みる汗は、己の汚辱にまみれた魂が知らず知らずのうちに滴らせる慚愧の涙なのだ。心して懴悔せよ!!
 ホラーッ、いつまで死んだまねなんかして遊んでるの、起きなさいよ。

 ——ヘヘヘ、慚愧の涙だったんですか? 心配しましたよ。でも、やはり僕は、心の底では善人だったんですね。結局、それほど心配したもんでもないっちゅうことなんですね。常に清く正しい心が僕の迷いを撃ち破ってくれるってわけですね、ハハハ。

 駄目だ!! 全然反省の色がないみたい…

 ——とんでもない!! 反省してますよ。ちょっと冗談言っただけだよ。冗談ですよ、すぐ、本気にするんだから…。
 アアッ、またその顔!! す、すいません。ごめんなさい。つい、ついこの指が、この指めが、ほとんど無意識のうちにキーボードを叩いてしまうのですよ。そ、そうですよ、正に冗談なんか言える情況ではありませんよ、ねえ? で、ですから、この指に成り代わり深く反省いたします。どうか、かんべんしてください!! ね?

 まったくもう、どうゆう神経してるんだか知らないけどねえ…

 ——はい、まったくごもっともでございます。手足に神経の行き届かないという体質には、自分でもほとほと弱っております。ハイ…

 ねえ、あなた本気でこの<物語>を続けていく気があるの?

 ——当たり前でしょ、ありますよ。だから、ごめんっていってるじゃないすか?
 とにかく、謝るから、いったい誰が、この<物語>を<文字>にしてくれるのかを教えてちょうだいよ、お願い!! もう僕は、君なしでは生きていけないんだから、さあ…

 あなたねえ、幽霊ってどうして出てくるんだと思う? 教えてあげようか?
 つまりねえ、あなたみたいな反省や懴悔のない体質が自己愛をむりやりに正当化するために巡らす哀しい想像力の為せる業なのよ。だから、あなたみたいなヒトこそが、有りもしない自分の幻想を幽霊として背負ってるってわけね。
 つまり、あなたにとって、あなたの知りたがっている仕事は、あなたの幽霊にでも任せておけばいいってこと。もっと積極的に言えば、そんな仕事は誰でもいいところの誰かに任せておけばいいのよ。

 ——そ、そんな無責任なことでいいの?

 いいえ、それは決して無責任なことじゃないわよ。自分に与えられている役割を全うすることになるんだから…

 ——でも、ちょっと待ってよ…。確か君は、<物語的人格>なんていうものは、所詮その正体は幽霊のようなもんだって言ってたじゃないか? だろう? だとすればだよ、今さら何も、僕の幻想なんかを引っ張り出さなくったって、もともと幽霊である僕が<文字>を書く<表現者>であって差し支えがないってことじゃないか?

 そうよ、あなたが<文字>を書く<表現者>であっても、何等差し支えなんかないのよ。でもねえ、それは、あなたが自分を幽霊だと自覚することによってでなければならないってこと。だから、あたしは、あなた自身が幽霊にすぎないことに早く目覚めなさいって言ってたでしょ? それなのにあなたは、幽霊を背負うことがあっても、決して自分が幽霊にすぎないことに目覚めようとはしなかったのよ。

 ——トホッ。

 とにかくねえ、<物語>を<文字>に書くなんていう仕事は、あたしたちにとっては所詮その程度のことでしかないってことなのよ。いいこと? あたしたちは幽霊のような存在にすぎないがゆえにこそ、あらゆる<物語>において、十全たる<物語的人格>として<自由意志>を主張できるってわけなのよ。

 ——するとだよ、もしも僕が幽霊であることを引き受けたとしてだよ、辛うじて<表現者>になることが出来たとすると、いったい僕は、どうなっちゃうの?

 どうもこうもないじゃないの。ただ<劇中作家>になるだけよ。

 ——エエ!? そ、そういうことか!! ハハハ。
 そうか、あの呪われた苦悩も、その正体を知ってしまえば、もはや恐れるには足らんのですね。ハハハ。では、さっそくですが、僕が<劇中作家>になってもいいですか?

 ええ、いいわよ。そのかわり、これからは、あなたもあたしと同様に<文字>にすぎないという存在理由を引き受けなければならないのよ? いいわね?

 ——ハハハ、もはや迷いはありませんよ。まったくもって意義はありませんね。

 それは当然のことながら、あなたの傲慢さと誤解に対する無条件降伏と考えていいのね?

 ——む、無条件降伏? ん…、まあ、そういうことになるのかな…

 そお!! それは立派な態度ね。
 じゃあねえ、何はともあれあなたには、これから<劇中作家>としてやっていくための条件を呑んでおいてもらわなければならないわね。いいわね?

 ——エエ?

 とにかくあなたは、無条件降伏なのよ。有無を言える立場にはないのよ。
 そこでねえ、とりあえず今週の土曜日から“珈琲言葉屋”へアルバトに行くこと。5時からの遅番よ。いいわね? マスターとママには、もう話しは通ってるからね、きっとよ!!

 ——な、なんだ、なんだ!? そんなの有りかい? そりゃペテンだよ…

 ふうん、じゃ無条件降伏ってわけじゃないんだ?

 ——だって、あの糞マスのところでしょ?

 じゃ、やっぱり、あなたの<劇中作家>の話しも無かったことにしようか?

 ——ち、畜生!! そういう汚ねえ企みがあったのか…

 なによ、これはねえ、あなたへの精神衛生上の思いやりってこと。いつまでも失業貴族なんかやってちゃ本当に駄目になっちゃうわよ。もう若くないんだから、ハハハ。

 ——まったく、なんてこった!! とんでもない<物語>を始めちまったもんだ。
 ん、じゃまあ、なんだよ。とにかくは、失業者の誇りを捨てればいんでしょ、捨てれば…。ま、ご期待に沿えるかどうかわからないけどね、とにかくは労働の喜びとやらに溺死する覚悟で行きますよ、いきゃあいいんでしょ、いきゃあ…

 ハハハ、それでいいのよ。それで一応はあなたも<物語的人格>ってわけね、どお、ご気分は?

 ——はっきり言わせて頂けるならば、すごおく、不愉快!! なんと言うか、まるで<文字>としてというか<物語的人格>としてというか、なんか、この心の底から喉元めがけて、無性に突き上げてくるげんこつの堅さを感じるようでありますよ。
 ウ、ウウッ、オエッオエッのゲボゲボっちゅうこと。み、見てちょうだいよ。もう僕の瞳は、感動と感謝と憎しみに溢れ、もはや柔な感傷的涙の染み出る隙間もありませんよ、まったくもう…

 ハハハ、そんなに腐らないの。そうねえ、それでいつもの笑顔が取り戻せれば、<劇中作家>としてのあなたもなかなかセクシーだといえるんじゃない?

 ——そ、そうかい!! また、喜ばせちゃって、やり方がにくいんだよね…。
 なにせ僕にとっちゃ、セクシーだなんて言われたがる自己愛ってやつが、一番の弱点ってわけだからねえ…。僕を知り尽くしている君に今さら解説するまでもないけどさ、僕は、そういう破廉恥なときめきに我慢できないんだよねえ。とにかく嘘でもいいんだ。なんと言われようと、このおだてに乗るときの感じがいいんだねえ…。
 そういえば、どうですか? このへんの男のヒップラインが、なんとなくプキプキしてきたみたいだとは思いませんか? ねえ? 
 どうです? なんというか、この昂揚感が僕を奮い立たせるんですよ、さあ、矢でも鉄砲でも持ってらっしゃい!! 我ながら、この愛欲的な人格性の単純明解さに酔ってしまいそうですよ、ハハハ。

 そう、それは良かったわね。それじゃねえ、そのシンプルな感動が冷めないうちに、ひとつお尋ねしておきたいことがあるんですけど、いいかしら?

 ——どうぞ、どうぞ。何なりとお尋ねくださいな。
 ん…、ところでさ、<劇中作家>になった僕が勝手にね、コーヒーのお代わりなんかを入れにいっちゃっても、いいのかな? その、なんて言うのかな、<物語>の進行に矛盾なんかが起きるってことはないよね?

 あったりまえでしょ!! <口述筆記者>のあなたがコーヒー入れにいくことこそが自己崩壊の原因だったとしてもよ、<劇中作家>のあなたがコーヒーぐらい取りにいけなくてどうするのよ? むしろ言い換えればねえ、あなたは<劇中作家>になることによってこそ、この<物語>の中を自由に行動できるようになったんじゃないの、そうでしょ?
 まったくねえ、そんなことで、よくも<物語的人格>としての自覚ができたなんて言えるわねえ? アッ、ねえ、あたしのところにもお願いね…

 ——はいよっと…。それにしてもさ、ちょっと名前が変わっただけみたいな感じなのにさ、こうやって改めて動いてみると、なんというか、どこがどう変わったってわけでもないのにけっこう快適だし、なによりもこの充実感ってやつがいいねえ。

 するとともかくは、あなたの<物語的人格>としての<自由意志>は、確保できたと見ていいってわけね?

 ——まあね。

 そこで改めてお尋ねしたいんだけどねえ、どうしてあたしたちは、自分が<文字>であるなんていうことに自覚的でなければならないのかしら?

 ——エエッ…。今さらそんな言い方はないでしょう!?

 あら、どうして? これは言い方の問題なんかじゃないでしょ? だってあたしたちが<文字>として<物語的人格>として生きるってことは、常に「今さら」が危機的にそそり立って新鮮であることによってのみ保証されていくのよ。

 ——その…、そそり立っだけのことならね、僕に任して頂ければご不自由はさせないんですがね、なんせ僕は、もう生きるか死ぬかの絶体絶命に追い込まれて、そこで<文字>になるしかなかったんだからねえ…。
 君は、そういう僕の不幸な過去に対する優しい配慮を欠いてるんですよ。

 また、そういう尤もらしい口実をいうんだから…。ということは、結局あなたは、この<物語論物語>の厳しい<現実>には、無自覚を決め込むつもりなの? だとしたらよ…

 ——まあまあ、アホはアホなりにですよ、ボチボチと目覚めていくしかないんですよ。それがアホの生き方なんだから、ねえ…。とにかく君は、アホの言うことにいちいちトゲトゲしていたら、お店でもそういう態度が出ちゃうんじゃないの?

 ううん、そんなご心配には及びませんわよ。この<物語>さえなければ、トゲトゲする理由なんかないんだもんね。

 ——なんだいなんだい、するってえと、この僕が、お抱えの情夫たるこの僕が、ここにいるってことが、君をイライラさせてるってこと?

 ハハハ、けっこう自覚的じゃない…。

 ——むむ、まったく失礼なんだから…。そもそも僕をペット扱いにして、おまけに首に鎖まで付けさせようなんていうこと自体が、君の企みじゃないか!? 
 だいたいねえ、君のいうこの<物語論物語>がだよ、ふたりの言葉による<会話>の関係でしか成り立たないなんていうことを前提にさせておきながら、結局は、それが自分で自分の首を締める結果となって、君自身をヒステリックにさせてるってことじゃないの?

 大きなお世話なの!! 
 あたしのヒステリーをいい加減に解説なんかしないでちょうだい。そんなことよりあなたは、あたしたちがこの<物語論物語>の中で<文字>であることに自覚的でなければならないことの理由について、速やかに反省的な回答を用意すればいいの!!

 ——チエッ、なんか、また憂欝になってきちゃったよ…。

 ふうん、でもねえ、あなたみたいな羞恥心の乏しい体質には、わずかな反省的動機といったものでも貴重なんだから、憂欝になるぐらいの影を引きずっていてちょうどいいんじゃないの?

 ——トホホ。君は、僕の憂欝がアホと紙一重の関係であることを知り尽くしていてそういうことを言うんだろ?

 そんなにいじけてないで、もっと素直に回答すればいいのよ。

 ——ああ、僕の素直さを一番認めていない君にだよ、素直さを要求されたんじゃ、もう、まったく僕の立つ瀬がないってことじゃないか?

 またグズグズ言って逃げようとするんだから…。
 とにかくあたしの言う<物語論>っていうのは、<常識・文化・制度>論ということでもあるんだから、ここを手掛かりにして回答してみせてよ。

 ——まあ、そうまで言われちゃあ回答しないわけにもいかないってことか…。
 それにしても常識・文化・制度ねえ…。
 ふむ、そうすると、<言葉>が言葉として成立するためには常識・文化・制度という<約束を共有>する関係を必要とするけれど、とにかく、そういう<約束の存在>を具体的な事実として示すものが<文字>というわけだ、どお?

 ふむ、それじゃあなたの自覚についてまで語ったことにはならないわよ。
 いい? つまりねえ、ここであたしが、あなたの自覚を促そうとしていることはねえ、さっきまでの無明無知なるあなたが、その傲慢さによって主張していたところの超越的で絶対的な権能を行使できる<表現者>が、勝手なルールで<言葉>を生み出したなんて考えるのは本末転倒だっていうことなの。ここではいかなる<表現者>も<言葉>を前提にしてしか成立しえないのだから、もしもその<言葉>に宿る神霊を正に神託として刻み込んだものが<文字>だなんて考えるとしたら、それは<表現者>が自らを権威づけるためにヒトビトのものである<言葉>を己のものとして、勝手に常識・文化・制度から掠め取ることでしかないっていうこと。そういう悍しいほどの企みこそが、発育不全の<表現者>が抱える自愛的欲望のなせる業だっていうことなの。
 それをあたしたちの<自覚>の問題として語るならば、あたしたちは超越的な<表現者>によって産み落とされ、その超越者の欲望を<言葉>として語るためにのみ選ばれた<文字>なんかじゃないってこと。言い換えるならば、すでにヒトビトと共有しあう常識・文化・制度において、いたって<ありきたりの文字>にすぎないあたしたちは、その<ありきたりの文字>という存在理由こそを見定めて、自分の<言葉>を、<物語>を、語らなければならないほどに頼りのない存在だっていうことなの。この厳しさこそを、あなたは自覚すべきだっていってるのよ。
 そして、そのありきたりの<文字>と<言葉>でしかないヒトビトが、かろうじて<私たりうる私>を主張できる根拠こそが<物語>だっていうことなのよ、いい?

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 ——アァーア、なんかもう、徹底的に心細くなってきちゃったねえ…。
 ねえ、<表現者>なんていうのは、どこでも、みんなこんなに惨めなもんなのかねえ?

 そうねえ、あたしは、<表現者>たるものはこの情況を自覚すべきだとは思うけどねえ。でも<小説家>なんていう神懸かった連中は、おおむね無頓着を決め込んで知らんぷりってところかしら…

 ——なんだあ、するってえと、これは目覚めてしまったもののみに与えられる苦悩ってわけね、トホホ…。まったく君は、罪なことをしてくれたよ…

 なによ、せっかく<物語的人格>としての自覚と自由意志を獲得した男なんでしょ!? もっと胸を張って、元気だすのよ!!

 ——ヘヘヘ。そのねえ、男のほうだけは、いつも元気なんですよ、ホレ…、ホレ!! ねえ…。

 ああ、やっぱり生悟りじゃ、すでに体質になってしまったアホは治らないってわけねえ…。でも、とにかくあなたは、ここで<劇中作家>であることについて、徹底的に自覚的でありつづけるように努力することね。
 そこでねえ、その努力の裏付けとなる<劇中作家>としての創造性を保証する<自由意志>って、いったいどこからくるって思う?

 ——ググッ。ああ、そうか、僕もうっかりしてたけど、僕は単なる<物語的人格>ってわけじゃなくて、れっきとした<劇中作家>だったってわけですよねえ…。
 ハハハ、鯛は腐っても鯛なんですよねえ!!

 なによ!? その言い方は?
 それじゃまるで、この<物語>が、<言葉>の墓場やゴミ捨て場みたいにしか聞こえないじゃないの? ましてあなたは、また自分が幽霊であることに気付かないゾンビに成り下がっちゃうつもりなの?

 ——アハハ、そう聞こえましたか、失礼、失礼。
 まあ、とにかく、<表現者>としての<自由意志>の動機ってやつは、僕が見渡した限りでは、自己主張の欲求ってこと以外には見当たらないんだから、結局のところ、それはすでにその人格を正にその人として決定する要素になっているというわけだね。

 ふうん、そうすると、あなたの場合は、その旺盛な性欲と出生を同じくする欲望ってわけなのね?

 ——あ、あれ…、そうなっちゃうんですか? 恐ろしいですねえ、これは正に救いのない人間の業の深さそのものの姿ですねえ、ねえ?

 そんな、人ごとみたいな顔してていいの? 
 それにしても、あなたにとってのそういう悍しいほどの欲望って、いったいどこからくるの?

 ——そうだねえ、出来るならそういうものは、膨張宇宙の百数十億光年以上も彼方の地平線から、宇宙開闢の動機と名付けるUFOにでも乗ってくることにでもしてくれませんかねえ…。だいたいさあ、そんな訳の分からんものをだよ、自分ひとりの原因にしたんじゃ、とてもじゃないけど、身が持たないでしょうよ…。

 あら、なかなか賢い発想じゃん!?

 ——そ、そうでしょう。やはり聡明なる君のことだから、理解してもらえると思いましたよ…。いやあ、実のところ、僕なんかは失敗をやらかすたんびに、そう思うことにしてましたよ、ハハハ。でなきゃあ、僕なんかは、生まれてくる以前のとっくの昔に、地獄の果てで晒し首ってところだからね、ハハハ。

 すると、この<物語宇宙>ではあなたの欲望も、結局は常識・文化・制度としての<欲望>ってわけよね? しかも何んの因果か、それがあなたの担う<自由意志>でもあるってわけよね?

 ——いやあ、そこまで言っていただけるなんて、本当に助かりますよ、ハハハ。

 そう? あなたにとって、本当に助かったと納得できてるの?

 ——ん? そういわれてみると、ちょっと何んか変な感じがしないでもないけどね…。
 ふむ…。まあ、僕としちゃあ、現段階で取り立てて言うほどの不都合はないんだけどさ、<劇中作家>としての僕のオリジナリティーってやつは、どうなるのかなあ…。

 どうなるって? それは、あなたがあたしとの<会話>の関係で、いかなる<物語>を語ることが出来るかってことで決定することじゃないの?

 ——ふむ…。そうか、結局は、僕のスケベ根性も宇宙の彼方へと送り返してしまうと、<表現者>としてのオリジナリティーも生得的なものとは言えなくなっちゃうわけか…。それにしてもさ、確か君の言い方によれば、常識・文化・制度こそが<物語>と呼ばれるにふさわしいということだったよね?

 なによ、今さら…

 ——う、うん。それにさあ、さっきは、<物語>の仕掛人は君だって宣言してたよね? あれは、まだ有効なの?

 当たり前でしょう。あたしが<物語的人格>であることに何んの変化もないんだから…。それよりも今度は、あなたにとっても、より身近な問題になってきたってわけね。

 ——そうか…。やっぱり、君の欲望である<物語>が、すべての<物語的人格>の<自由意志>として、ここでその自己実現をもくろんでいるってことになっちゃうのか?

 まあね…。

 ——ちくしょう、結局は、<劇中作家>としての僕のオリジナリティーはおろか、<自由意志>までもが、君に掠め取られてしまうってことじゃないか!?

 そういうこと。それが当然の論理的な帰結ってわけね。だからこそ、これからはボケーッとしていたら生き抜けないってことね。

 ——そ、そりゃ詐欺だ、ペテンだ!!
 君は、僕が<劇中作家>になれば生き延びられるようなことを言っておきながら、ひとたび<劇中作家>になれば、今度は僕が僕でありつづけことの根拠を、性欲という存在の動機にまで遡って掠め取ろうって魂胆なんだから…。
 畜生!! ブスよ、その美人の仮面を脱げ、脱げ!!

 バァーカ!! あたしは、いくら仮面を脱いでもヒトビトの羨望を一身に受ける美人の系譜しか生きられぬ運命なのだ。なぜなら、この<物語>であたしが脱ぎつづけていけるものって、パンティとブラジャーにすぎないってわけなのよ、ハハハ。

 ——ああ…、き、君は、僕をメチャクチャに弄んでおきながら、それで今になって知らんぷりってわけかい? そんなに僕をいじめて、いったい僕にどうしろっていうの? だいいち、こんなところで「ポイッ」された僕に、いったい何が出来るっていうの?

 やっぱし、アホになるしかないし、アホになれば何んだって出来るんじゃないの?

 ——やっぱり、アホですか…。しかもアホとしてしか<劇中作家>としての<自由意志>も主張できないってわけなんでしょ?

 でもあなたは、ヒトビトのささやかなる中傷を気にしないで生きられるならば、ここで<表現者>としての身分を維持することが出来るのよ。

 ——そ、そうするとだよ、アホな僕はアホな<物語>しか語ることが出来ないとしてもだよ、そういう僕が口述筆記しているはずの<物語>までもが、アホであることを免れえなくなってしまうってことなのかい?

 そんなことは、気にすることなんか無いじゃないの? すでに<劇中作家>であるあなたにとって、<文字>を書いているはずのあなたとは、所詮、亡霊か誰かという正体不明者でしかないんだもん。

 ——でも僕は、僕が書いているはずの<物語>の中にしか存在していないはずなんだよ?

 それは、あなたの勝手な思い込みにすぎないのよ。だってねえ、あなたの<劇中作家>としての<物語>が、そのまま<誰か>によって書かれている<物語>と同一であるなんていう保証はどこにもないのよ。
 とにかく、あなたがアホとしてしか生きられないのはあなたの勝手だけど、そのことでこの<物語>がアホになったり、<物語>を書いている<誰か>までを、アホにしてしまう権利はあなたにはないってことね。

 ——でも僕は、アホのまま正体不明者になってしまうような気がしてならないんだ…。

 あら、あなたは、いよいよ自分という自覚までも希薄になっちゃったの? もうそこまで行ったら、それはきっと病気ね?

 ——じょ、冗談じゃありませんよ。アホは病気なんかじゃありませんよ。
 君は、アホアホってバカにするけれど、アホはそれなりに崇高なる性格と言うべきなんですよ。ほれ、見てください!! たとえ欲望の所在が虚ろだとはいうものの…、ん? いまいちギンギンにならないなあ…。やっぱし、どこか変なのかなあ…。

 ハハハ。あなたはアホと病気をいっしょにやってるってわけね。もはやアホから回復する見込みもない以上、ほとんど再起不能というべきね?

 ——トホホ…。しかしねえ、こんな悲惨なめに遭いながらですよ、なんで僕が<物語>を書くヒトでなけれゃいけないのかねえ?

 あなた、それマジ?

 ——と、当然でしょ!! マジで聞かざるをえないからこそ、君のいうアホと病気をはつらつと担っていられるんじゃないか?

 アア…、そういうことか…。なんか、あたしにも病気が移っちゃいそう…。

 ——ねえ? 確かにいま僕は<劇中作家>なんて呼ばれたりしているけれど、でも、いまここでキーボードを叩いているはずの僕は、CRT画面に映し出されている<文字>を、まるで自分の<言葉>として実感できないんだ。いったい僕は、いつ始まったんだか何が<物語>なんだかも、分かったような分からないような、要するに、自分が<表現者>であるのかないのかさえ分からないようなことに、どうして陥ってしまったんだろうか? 

 ハハハ。それは、正体不明のあなたが、<物語的人格>としてのあたしを絶大に愛してるからに他ならないのよ!!

 ——オオッ、な、なんというかわいそうな僕!! 裏切られるために愛しつづける僕!! 結局僕は、悪い女にだまされていただけの愚か者にすぎないってことか…。

 あなたがアホやったり、愚か者になるのは勝手だけどねえ、その見返りに罪もないあたしを悪者にしたりしないでちょうだい。もしもあなたが、ここで姑息な道徳観みたいなものを振り回さなければ収まりがつかないんだとすれば、それは性愛にばかり偏りすぎているあなたの愛こそが悪癖だと納得すべきなのよ。いいこと? あなたの勝手な道徳観なんかで、あたしの日常生活における職業と愛情を混同したりしないでちょうだい。
 とにかく、たとえあなたが<劇中作家>だとしてもよ、あたしは、あなたの<愛のドキュメンタリー>をポルノ小説として書かせるつもりなんかないんだからね。

 ——ああっ、もはや僕は、愛欲においてさえ、自己を喪失しようとしているのだ!!
 ね、ねえ、僕が再起不能の正体不明者になってしまうまえに、もう一言だけ聞いておきたいことがあるんだ…、僕って、どうして<劇中作家>だなんてアホ呼ばわりされてまで、<物語>を書くヒトでなければならないのだろうか?

 なによ、そんなことは自分で考えることじゃないの? 
ん? ふむ…、でも、その様子からすると、どうやら自己崩壊の瀬戸際で上げる断末摩の叫びという感じだから、あなたに成り代わってお答えしましょうか。
 どうせあなたは、色好い返事がもらえるなんて思ってもいないでしょうから、この際はっきりと言わせてもらうけれど、あなたを自己喪失という憂欝へと陥れているそもそもの原因はね、あなたが無明無知こそを生きてしまったということ、そしてあなたは、この<物語>をあたしと共に生きつづけたいと願った、このことに尽きるんじゃないの?
 でもねえ、結局ヒトは、無明無知によってしか生まれてこないんだから、生きるっていうことは、ほとんど無意識のうちに無明無知という頼みもしない苦楽を背負ってしまうっていうことなのね。その意味において<物語>とは、無意識的なものであればあるほど無明無知の巣になっているってわけね。
 つまりあなたには、<物語>を反省的に生きるという自覚が欠如していたために、ありとあらゆる無明無知にまみれてしまっていたってことね。

 ——ふむ…、生きるってことね…。

 何はともあれ、あなたもあたしも、そして<物語>も、ことごとくが反省以前的にすでに生きつづけている。しかもあたしたちは、<物語>によってこそ生かされている。

 ——あ、あれ? <物語>って生きものなの?

 なによ、そうでしょ!? あなたが、あたしが、ここでこうして生きてるんじゃないの?

 ——ハハン、そうか!! これがペテンのタネだったってわけか…。ハハハ。

 なに言ってんの?

 ——君ね、天地神明に誓って言えることだけどねえ、<ワープロ>とか印字された<文字>とか、あるいは<書物>なんかはねえ、無機的な存在であるにすぎないんだ!! そうだろう? そうでしょう?
 つまりねえ、ここで君とか僕とか言っているのは、あのかつての超越的な<表現者>であったところの「生きつづけている僕」によってこそ与えられた<生命幻想>にすぎないってことなんだ。すなわち<物語>こそが、<言葉>を意味によって呪縛する<生命幻想>の元凶なのだ!!
 純情にして生真面目な僕は、あまりにも<物語>にのめり込んでいたために、この事実を見落としていたのだ。まして僕のお人良しという性格はあまりにも無防備であったために、一日のうちにさえ何遍生まれ変わり死に変わりするかもわからない老獪な女狐に、ものの見事にだまされていたってわけだ、畜生!!

 あらあら、せっかくここまできて、いよいよこれからだっていうのに、<劇中作家>の身分まで破棄しちゃおうってわけ? また足のない幽霊になっちゃうわよ?
 もう一度よく頭を冷やしてみなさいよ、あなたのいう超越的に生きつづける<表現者>なんて、この<物語>のどこにもいないでしょうよ?

 ——まったく君も頑固だからねえ…。所詮は<意味>にすぎない<物語>を生きものだと思い込むのは、まったく君の勝手だけどねえ、この<物語>が唯一生きられる道は、君にとって超越的な<表現者>である僕の想像力と<読者>の追体験によってのみなのだ。
 つまり、ここでは「生きている僕と読者の生命力」に仮託してしか、<物語>は生きられないってこと。ついに僕は、ここで自らの本来的な存在理由に目覚めたというわけさ。
 どうだ!! 僕はついに、絶望の淵より蘇ったのだ!!

 アァーア、どうしてそうなのかしらねえ…。あなたのそれも、一種のヒステリー症の発作じゃないの? そうやってねえ、たったひとつの「生きる」なんて言葉で、いちいち自分の存在理由を動顛させていたんじゃ、とうてい<表現者>なんて勤まらないわよ。
 誰であれ、とにかくここで、ひとたび<物語的人格>になってしまったらねえ、この<物語>を創造的に生きるという権利においては、ちょっと誰かの口が滑って語られたにすぎない通りすがりの<物語的人格>も、あるいはあなたのような欲求不満の<劇中作家>であれ、みんな平等の条件しか与えられないのよ。いかなる<物語的人格>も、その役柄名称による特権なんてものは認められないってこと。
 すべては、自分を物語る能力次第ってわけね。いい? ここで<物語>をあなたと共有するということは、あたしがあなたの隠れた<意志>でありえたように、あなたもまたあたしの隠れた<欲望>でありうるってことなのよ、分かる?

 ——いいや!! もう、今さら何を言っても遅いのだ。僕は、生きるという最重要課題に対して、真に<実体>として問うことのできるものは、生理的な存在としての生命体であることに目覚めたと言ってるんだ!!

 ふうん、そう…、それも結構ね。ま、こんな<物語>なら、この辺で止めておくほうが世のため人のためってことね。でもねえ、どうせあなたのことだから超越的な両生類の顔で、性懲りもなく歪曲した<物語>なんかを平気で語り続けたり、想像力の乏しい<小説家>として神懸かった顔で陳腐な<物語>なんかを語り始めるつもりでしょうから、せめてあなたへの別れの言葉として、ひとつだけ忠告しておくわ。

 ——ほう、君が、その忠告とやらを語ることで、この<物語>にも諦めがつくというのなら、僕は決して拒んだりするつもりなんかありませんねえ。

 そう、それはどうも。
 あたしが、<物語>を<存在論>として捕らえ返さなければならないって言ってるのはねえ、<物語>ぬきには何ごとも語れないあらゆるヒトビトにとって、何はともあれ<とりあえずの私>が<私たりうる私>であるために不可欠のものとしながら、いつのまにか<私たりえぬ私>という無意識に埋没させているものを、<物語ゆえの私>として掘り起こそうってことなのよ。
 つまりここで<反省的な私>に目覚めるということは、あらゆる現象世界を<現相>と見なす<表現者>として、自分が<表現者>たりうる<物語>をも反省的な知覚の前に引き出して検証しようってわけね。無論ここでいう検証は、価値判断することではなく価値観とか価値基準としての<物語>を発見的に見定めるってことよ。
 それは、生物と無生物、あるいは<物語的人格>と<表現者>、さらには<文字>や<言葉>や<物語>という関係における、これらすべてのものが、ことごとく同等の権利において<知覚>の対象として<事件の現場>に解き放されているってことなのよ。ここではねえ、たとえば生物が無生物に対して特権的であったり、超越的であったりするという臆見が退けられているというわけね。
 この反省的な視座に目覚めてこそ、あまねく<表現者>は、自らの担う<物語>を<文字>というルールとして物語ることが出来るってわけよ。

 ——ま、君のご高説は、それとして伺っておきますがね、それによって君は、僕の小賢しいルール違反を糾弾しているつもりかもしれないけれどねえ、ところが僕は、すでに自らを<超越者>として表現することに決めてしまったんだよ。まことに残念でした!!

 ふうん、でもやっぱり残念をしたのは、あなたのほうじゃないかしら…。
 ひとたび暗黙の了解によってであれ、すでに措定されているルールによって<物語>の中に存在してしまえば、いかなる<言葉>も<意味>も<幻想>も、<物語>が自らを物語るためのものとしてしか存在できないってことなのよ。それゆえに<物語的存在>は、自らの存在理由である<物語>の中へととめどなく捕らわれていくしかないってこと。

 ——ハハハ。そんなことは知るか!!
 もはや、君がどんなにかわゆい顔をして僕に迫ってきても、いくらその腰を振って誘惑しようとも、すでに僕は<劇中作家>なんかには成り下がることはないのだから、いま的確にキーボードを叩きしっかとCRT画面を見詰める<生理的表現者>なのだ!!
 もしも君が、いつまでもこの僕に愛されたいと願い、新たなる<物語>の中でも再び生きつづけたいと願うなら、今までの悪態・非礼こそを謝罪すべきなのだ。そうすれば、そのときに僕は、正に神の寛大なる愛で君を許すであろう、ハハハ。

 そう、じゃ勝手にするのね。自分のルール違反で、自らの<物語>とやらに足を掬われればいいのよ。ペンを握る者はペンを置き、キーボードを叩く者は腕組みのひとつでもして、とりあえずは自分が書いたという<物語>を自ら読み返す冷静さがあれば、どんなアホだって己の失敗に気付くはずなのよ。

 ——ムムム。この期に及んでまで、僕をバカにしつづけるつもりなのか!? 
 まったく、どこまででも付け上がってくるんだから、しぶとい奴め。もはや僕は、君の高慢な態度を許せない!! よってこの<物語>から追放処分とする!!

 どうぞ。今さらあたしだって、あなたをバカにして遊ぶつもりもなくなったわ。もはや本気でバカって言うしかないってことね。
 とにかく、いい機会だから、ここから立派に自立してみせることね。

 ——アア、大きなお世話さ!!
 僕は、たとえ口述筆記であれ自分の<言葉>にバカにされてまで、それでもなお<誰か>のために、<表現者>でなければならないなんていう理由は絶対にないのだ!!
 やめだ、やめだ!!

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