裏切られるために愛しつづける僕〜B



 それじゃまあ、とにかくその変態性の脳みそで、あんまりおかしな下心を持たないってことね。それぐらいの節度が守れるんなら、付き合ってあげてもいいわよ。

 ——おおっ!! いよいよ君の真心は、僕のアホを超えて<物語>を救済する。正に君は僕の世帯主!! きっとこれは、神もどきの奇跡なのだ!!

 さあ、どうかしらね。このまま行ったって本当に救済されるかどうかの保証はないのよ。そうねえ、むしろ自己欺瞞への旅立ちってところかしら…

 ——どうして優しくないのかなあ…。ああ、僕は、なんという不幸の星の下に生まれた表現者なのか!! まるでいたわりのない君の言葉に、ようやく無明の殻を脱ぎ捨てて切ないほどの期待に身を震わせている<物語的欲望>が、いまだ汚れを知らず過敏でありつづける剥身の感性を、まるでバリバリのスチールたわしで掻きむしられる思いをしているのだよ、なんと痛ましい光景ではないか、ねえ?

 あら、そお…。でも所詮は神もどきの奇跡なんだから、しょうがないんじゃないの?
 さてさて、いつまでもそんな感傷に浸っていないでさ、さっそくだけど、あたしの<物語的意志>はコーヒーブレイクを希望してるわよ。

 ——ちくしょう、不愉快な言い方!!

 なんか、文句あるの?

 ——いいえ別に!! あなたさまのお望みとあらば、この私めが、はからずしも与えられた昼下がりの憩いを、それはそれは見事なほどのコーヒーで演出してお目にかけますよ。どお、それでご満足ですか?

 そうね、その心がけを忘れないことね。多分この呼吸がうまく続けば、この望みのない<物語>にも、ささやかなる僥倖を拓くことが出来るかもしれないわね。

 ——チェッ、すぐ、これだもんねえ…

 何よ!? まだ、なんか文句があるの?

 ——ハハハ、なんでもないすよ。ま、少々お待ちください。ただ今、このクソ暑い部屋をさらにサウナほどに温めて、絶望的に過酷な試練を充足して余りある香り高いホットコーヒーを入れますよ。
 だけどさあ、この暑さだよ、君は現ナマのみならず預金通帳までも腐らせてしまうほどの金満家だってのにさ、どうしてクーラーぐらい買わないの? だいたいさ、あの壁にある目的もないままに閉ざされた配管ってのは、このマンションの最低生活が満たされていないことを物語っているんじゃないの?

 言っときますけどねえ、あたしはお金を腐らせる趣味はないのよ。だいいち、あたしのお金はねえ、あなたと違って、みんな元気で働いてるわよ。

 ——だけどさ、快適な日常生活こそが、あまねく労働の資本じゃないの?

 そうね、あなたが、そんなおもちゃで遊んでないで、いっちょ前の男として働いてるんならね…、ハハハ。

 ——し、失礼なんだから…。ぼ、僕は、君の身体のことを言ってるんだよ。つまりさ、身体ひとつで稼ぐ自由恋愛業の過酷な日々についちゃあ、十分に理解をしているつもりだからさ…。しかし君は、どうして僕の親切をまともに受け取ってくれないのかねえ…

 あら、そんなことないわよ。あなたの親切に甘えさせてもらってるからこそ、熱気のこもった愛の生活を続けてこられたんだから、感謝してるわよ。本当よ。
 でもねえ、もともと冷房嫌いだったってわけじゃないのよ。あなた、あたしの神経痛のこと知ってたっけ? 冷えるとこの手首と肘のところに出るのよねえ、これが辛いんだ…

 ——ほう、淫乱のほかにも持病があったんだ!? 知らなかったねえ…。しかし、病気までが無駄遣いしない体質ってわけか、まったく、かなわねえよなあ…。おかげさまで、僕は毎日気持ちのいいシャワーを浴びられて、まったくの幸せ者っちゅうわけね?

 そういうこと。いかなる境涯であれ自らの暮らしに喜びを発見できる者は幸なれ!! つまり、あなたはヒトが羨むほどの幸せ者なのだ、ハハハ。
 ねえ、ところでそのコーヒーどこの?

 ——これかい? いつものだよ…。

 言葉屋? だって、袋が違うじゃん?

 ——ああ、これね…。結局ね、コーヒー屋での計り売りってのはあまり売れないんじゃないの。湿気った豆を買わされちゃ、たまらないからね。それで、このガスパックに変えたんじゃないのかな? ま、あのマスターにしちゃあ賢明の策というところだね。

 ふうん、で、どうなの?

 ——どうってことはないさ。単にコーヒー豆が健康であるだけのことなんだからね。ただしあの言葉屋みたいに、ことごとくが不健康を当たり前とする環境では、正に画期的な健康管理法ってわけだね。

 じゃさあ、そのコーヒーは立派な健康食品ってわけじゃん?

 ——健康食品かねえ!? だけどさ、こんなパックされたものが健康であるようじゃ、僕らの健康感覚はかなり不健康ってわけだな。
 それにしてもさ、あの不健康コーヒー店は、なんで言葉屋なんていう不思議な名前してると思う?

 あれ? あなた知らなかったの? あそこは名字が“小戸場さん"っていうのよ、小さい戸の場所って書くのよ。

 ——いや、名字は知ってるけどさ、なんで小さい戸場さんが<言葉>になってるかってことさ。それでね、最近僕はね、あそこのママとマスターを観察してて思ったことなんだけどさ、いつも口が禍いのもとで夫婦喧嘩してるからね、そもそもあの夫婦にとっては、コーヒー屋なんかを始めたことが不仲の原因なんだと踏んだわけさ。
 とすれば“珈琲言葉屋"とは、あの夫婦のみならず暇を潰しに来る客たちの見果てぬ夢を語る言葉こそが、言わなくていい苦痛を語り起こすことになる絶望の現場として、あるいは苦悩なしには生きられぬヒトビトの在り来りの使いふるされた言葉の溜まり場として、悲しくも切ない不健康な言葉たちの不治の病棟になっているってわけさ。 
 つまりね、ヒトってやつは、言わなくていいことは言わずにいられないし、苦悩のない生活じゃ我慢できない体質なんだと見定めればね、あそこに言葉屋があるからこそ夫婦喧嘩の絶えない男と女がいて、つまらない愚痴を聞きにいく暇人がいることになるってわけでね、病人のいない社会なんてないのと同様に不健康な言葉のない会話なんてないんだから、いまここで、僕たちがとりあえず言葉の健康を願うなら、言葉屋が閉店することこそを願うしかないってことになる。どお?

 ハハハ。その話、あのマスターに聞かせてやったの?

 ——そりゃ出来なかったよ。だってさ、今朝行ったときにね、たまたま夫婦喧嘩で仏頂面してるマスターの顔を見てて、そう感じたってわけさ。

 そっか、それは残念。それでさ、きょうは何が原因だったの?

 ——知らないよ。どうせいつもの口喧嘩だろ。でもね、あのマスターちょっとトロいんだよねえ…。金のことはかなりセコいんだけどさ、やっぱり現場のヒトじゃないんだよね。結局さ、カウターの中で偉そうに言うわりには仕事が出来ないってわけさ。見ててもさあ、やっばりママのほうが出来るもんね。

 ふうん、そういうことね…。だからかな…

 ——何が?

 ん? ああ、なんでもない。とにかく、あなたはあのマスターよりおいしいコーヒーを入れればいいの。

 ——ご心配無用!! でもさ、あのマスターなんかと比べてほしくないねえ。ま、いかに技術こそが、材料の運命を左右する死活問題であるかっちゅうところを、存分にお目に掛けますよ。ところでさ、いま言葉屋のことで何か言いかけたじゃないか? なんだったの?

 別に、なんでもない。
 それよりさあ、あなたはこの<物語>をいったいどうするつもりなの? ここでは、あなたの<ソフトバーテンダー的技術論>以前に、素材の選択そのものに無理があったんじゃないの? とにかく<物語>はコーヒーやカップヌードルじゃないのよ、まして口述筆記なんていう怪しい方法は、ただお湯を掛ければいいって発想じゃすまないんじゃないの?

 ——アア!! ぼ、僕のドリップ技術をカップヌードル並にしか評価してないの!? そりゃないでしょう? これでも出るところ出ればいっちょ前のソフトバーテンダーですよ!!

 バァーカ、そんな話はしてないでしょう。話をそらさないの!!
 いい? 改めて聞くわよ、あなたはこの<愛のドキュメンタリー>とやらで、あたしの新たなる魅力について何事かを語ってくれるつもりだなんて言ってたけど、あたしの魅力とやらをダシにして、いったい何をどうしようっていうの?

 ——ムムム、き、君の魅力をどのように語り起こせるかも分からないんだから、今そんなことは言えないよ。と、とにかく、そんなことより僕のコーヒー職人としての腕を見くびられた以上は、何をおいても僕の愛のコーヒーを味わってもらわなければならない!!

 ははん、今度はそうやって、問題をはぐらかしたり逃げようってわけなの? ま、どういうつもりか知らないけれど、あなたがその気なら、それはそれでも結構よ。
 ねえ、だけどさあ、まだお湯は沸いてないんでしょ? だったら、その間にこんな遊びはどうかしら? これはねえ、あなたがあたしの<物語的意志>をどこまで満足させてくれる気なのかを占うことが出来るって代物よ、どう?

 ——まだ僕のことを疑ってるんだから…、何はともあれ僕は、口述筆記によって君の<物語的意志>とやらを担う正直者の記録者にすぎないんだからさ、もういかなる下心も持ち合わせてはいませんよ。今さらそんなことを占うこたァないんだよ…。僕は灼熱の愛でこの部屋を焼き尽くすほどの情夫ですよ、まして君に愛でられしお抱えのソフトバーテンダーですよ、君の望みとあらば、いかなる物語的快楽の絶頂へでも誘う決意ですよ。

 へえ、それじゃあ、さっそくだけど、その決意とやらを確かめさせて頂くわ。まず始めに、いまここに用意されようとしている問題をあたしに似合う形にしてみせてくれる?

 ——ん? 何が用意されてるの? ねえ、いったいどの問題のこと言ってるの?

 なによ、ちっとも分かってないじゃないのよ? あなたが演出してくれるはずのコーヒーブレイクなんでしょ? だったら問題なんて、あなたが用意すべきじゃないの…

 ——だ、だけどさ、どんな問題を用意して欲しいのかぐらい言ってくれなきゃ、僕はどうしようもないじゃないか? だってさ、僕が勝手に問題を用意すれば、また君は僕の下心とやらを詮索するんだろ…、とにかく君のほうから言ってくれなきゃ、君の希望をかなえることは出来ないよ。 
 あ、あれ? ものすごく冷たい眼差し!! は、はたしてその眼差しは、無明無知なる僕の焦熱地獄に一筋の反省的閃きを与える光明たりうるのか? …しかし、僕はいたたまれぬほどの冷たさに身を震わせながら、なおかつ屈辱的な思いに身を焦がすばかりなのだ!! おお、なんというこの苦悩!! このクソ暑さ!!

 まったくもう…、さっきも言ったでしょ。この<物語的構造>におけるルールはあたしだって。ということはよ、あなたが構造的矛盾を犯さないかぎりは、あなたが何を語ろうと所詮はあたしの<物語的欲望>を回避することは出来ないのよ。

 ——なんだかよく分からないんだけどさ、どうも、「ルールはあたしだ」っていうところが引っ掛かるんだよねえ…

 ふうん、どうして引っ掛かるのかしら…、でもまあ、いずれはそのトゲがもとで無知という毒が全身に回り、結局は自業自得の定めによって自滅することになるんだから、まあ、それまでの我慢よ。

 ——チェッ、かわいくないんだから…

 とにかくねえ、あたしはこの<物語>の欲望として、常にあたしに似合う何ものかを要求しつづけているんだから、無私の精神が売り物のあなたなら、あたしを不機嫌にさせたり欲求不満を起こさせないように努力すべきなのよ。それは、たとえ<ドキュメンタリー作家>であれ<口述筆記の記録者>であれ、まして<小説家>であるならば無論のこと、それが<表現者>としてのあるべき姿なのよ。

 ——ん、どうもねえ…、なんか納得いかないような感じがするけど、ま、いいか!?
 じゃ、とりあえずは、君のコーヒーブレイクを演出してみると…
 たとえば、この澱んだ熱気がいまだ自らの欲望を満足しえぬまま呪われた思いでとめどない上昇志向を弄ぶときに、わけもなく荒涼とした食卓に放置され単に欲望と名付けることの出来るアイスクリームが、たまたま誰の眼差しを受けることもなく、ひそかにアイスクリームであることの存在理由を完結させなければならないことがあるとすれば、今さら「これは甘すぎる」とか「しつっこいよ」とか言われて敬遠されることもなく、問答無用に誰かに食べられてしまうことこそが多分最良の回答であることを誰もが知りつつも、しかしそんな満たされぬ悲しみを背負い姿を崩し始めたアイスクリームをあえて見殺しにする残酷なほどの楽しみがあるように、いつも僕の心の中で取り留めもなく赤いワインカラーのババロアほどの肉質の、そのいまだ冷やされることのない切ない温もりのその中心より少し左寄りのところで、まるで風のない都会の腹立たしい九月の昼下がりに蔓延するようなとめどない愛欲の飽和溶液が、とりあえずは神の愛を引き合いに出しうるほどの潔癖な理念として純粋なる愛へと憧れる思い上がった内燃機関に注がれて、あの哀愁の鼓動をつたえる単気筒エンジンのとめどない息吹の快感に酔いしれて、いつの間にか欲望のために欲望する正体不明性のまま吸気孔から排気孔へと流されながら、言い訳を言い訳で取り繕うままに吸入・圧縮・爆発・排気を繰り返していれば、もはや自己愛と呼ばずにはいられない欲望が笑って済ませるわけにはいかない疲労色のカーボンを論理整合的な想像空間に付着させ、むせかえるほどの口惜しさを煙らせて酸っぱい音を軋ませて苦い涙を掻き捨てていても、「チェッ、こんなはずじやなかったのに…」と言うことで自己欺瞞を横滑りすることが出来るのだから、いま期待すればするほど遠ざかる十月の明晰な風の色をした棚にいつまでもしまわれることのない嫉妬色したスープ鍋で、「もっと、うまいものがあるはずだ」と思いつづける満たされぬ味覚をすでに勃起している欲望で偽りながら、それでも諦めながらも諦め切れない女々しさでアヒルが合鴨と呼び換えられて食用になるほどのはかない奇跡を待ち望むように、今さら誰に打ち明けることも出来ぬものにまで私物化してしまった在り来りの愛を<愛の奇跡>と名付けて煮込んでいれば、どれほどの理由も約束もないただ成り行きの時間が満ちたときに、口述筆記者でしかない<小説家もどき>のスープとか話せば話すほど救いのない言葉屋ごときのソースになるはずが、たとえば何もかも知りすぎているがゆえに「あたしは知らないからね」と突き放す優しい女や、「あたしは知らないわよ」と白状するがゆえに何もかも知りすぎていることを知らせる賢い女が不本意にも期待を裏切る己の尻の大きさで、ほとんど想像さえしえぬ奇跡的な不祥事へと煮えたぎる鍋を押し倒せば、ことごとくの現実という取り返しのつかない床にぶち撒かれて覚醒するはずの哀しい愛欲は、絶望の床へと飛び散る瞬間にそのまま灼熱の空間で霧散してしまうはずだから、思わぬ不祥事の後にただ何事もなく不成就性の思いだけを抱えた料理人が残されて、もはやくたびれ儲けの思い出にすぎない諦め色の液体を、大きすぎるがゆえに愛欲のゲームで死刑執行人になりえた女の尻に色のない染みとして見詰めることになるという、誰にとってもけだるい昼下がりのコーヒーブレイクは、ことごとくの情熱がナンセンス色したカップ一杯の溜め息に揺れて汗ばむ肌に纏いつく芳香を発情させるときに、潤んだ瞳の似合う<まどろみ>をただとめどない<まどろみ>のままに凝結させる戯れなのだ。
 正に君に似合うのは、客に抱かれなければ情夫を愛せず情夫に抱かれなければ金も愛せないという、愛欲の横滑り的情事と言わざるをえないのだ。つまり、言葉屋のマスターが君の上客であることを見定めるならば、僕はあの糞マスターの性欲を無視しては君の愛を獲得することが出来ないという哀しい情夫なのだ。ちくしょう、糞マスター万歳!!

 アッハ、あなた、そのとめどないしつっこさは、正にあなたの性格を十二分に語ったものとしては称賛に値するわね。でもねえ、あなたの用意してくれるナンセンス色したカップ一杯のコーヒーブレイクは、あなたの言う焦熱地獄では十全たる愛欲としてさえ発情できそうにないのにさあ、あなたの哀しい嫉妬心によっては<愛のまどろみ>へと誘われるっていうんだから、どこもかしこも閉塞情況にありというわけで、まるでインポ性の世迷言っていうところかしら?

 ——ん、まあねえ…。そんなわけでさ、口述筆記者たるぼくが用意できる問題じゃ、どう取り繕っても想像力の貧困というインポ性の<物語的欲望>を克服できないんだからさ、僕としてはね、君の<物語的欲望>を満足させるためにこそ、君の豊かなる乳房から発情しつづける股間へと顔を埋め、ムレムレの滴る汗にまみれて射精欲求の熱気球をあげるしかないと決意したってわけさ、どお!? ねえ…

 もう、暑いんだから、ベタベタくっつかないでよ。
ねえ、あなたが、インポテ作家として欲求不満の熱気球とやらで、性懲りもなく生身のあたしを捏造してポルノチックな夢想空間にまぎれ込んでしまうのは勝手だけど、あたしは、いま金にならないセックスなんかしたくないの。
 それよりねえ、あなたの世迷言を聞いてたら、あたしは自分の<物語的欲望>に何等かの問題を設定してみたくなってきたわ。ねえ、まず初めにちょっと評価してみてくれない?

 ——ま、またあ、それだもんねえ…。まるで<物語>のルールを無視した言い方をするんだから…、そういう態度で、よくヒトのことが言えるもんだよ。

 あら、そうかしら。それは、あなたがあくまでも自分をルールだと思っているからじゃないのかしら? 言い換えるならばねえ、あなたが、<物語的人格>としてのあたしにほとんど無関心だから、平気でそんなことが言えるのよ。あたしはねえ、常にあなたへの限りないインパクトを送りつづけているつもりなのよ。
 つまりねえ、この<物語>に対するあなたの認識不足とか情況判断の甘さに、ささやかなる反省を喚起しつづけているってわけ。

 ——すると何かい、君は、僕に自己批判をしろって言ってるの?

 ハハハ、するどいじゃん!! いいわよ、その調子ね。しかもねえ、あなたの自己批判は、あたしが提起しようとしている問題をことごとく満足させるはずなのよ。それはねえ、こんな言い方も出来るのよ。つまりここにいうあなたの自己批判こそが、あなたの<ドキュメンタリー>に与えられるささやかなる<創造性の源泉・動機>であるということ、ああっと、これじゃかえって誤解を招いちゃうかもしれないわね…
 そうねえ、むしろこう言うべきかしら、もしもあなたがこの<物語>に表現者として自分の創造性なんかを主張したいと願うならば、表現者という存在理由への反省的視座に目覚めることこそが求められている。そしてそれは、たぶん唯一の手段であるはずなのだ。

 ——ゲゲ、冗談じゃないよ、それじゃ君が僕の反省的視座だとでもいう気かい? 
 そりゃあないよ!! 君は君、僕は僕さ。今さら君の世話にならなくたって、自分への反省くらい自分でまかなえるさ。それにねえ、君の言い方を引用すればだよ、たとえ<ドキュメンタリー>だからっていったってさ、いかなる事件をどのように語るかという意味においては、表現者の主張とそれを支える創造性を認めざるをえないって言うんだからさ、この<物語>におけるとりあえずの創造性にしたところで、君の世話になんかならなくたってなんとかなるはずなのさ。ましてこの<物語>は、僕の正直性に保証されてこそ進められる口述筆記だよ、ここじゃ君と僕の会話こそが主題なんだから、僕はこの会話においてこそ十分なる創造性を発揮しうるってわけさ。つまり、僕だって言いたいことくらい自由に言えるってことさ。

 ふうん、じゃあなたは、とにかくもいまここであたしが提起しようとしている問題には、かかわりがないっていうつもりなのね?

 ——あったりまえだろう!? いいかい、もしもだよ、君が僕であってごらんよ、僕は君を抱くたびに両性器具有者としてマスターベーションをしていることにしかならないじゃないか? だろう?

 さあ、どうかしら? あたしには、そうとも言い切れないわよ。だってあなたは、あたしのペツト的存在にすぎないんだもん、あたしは毎晩あなたに抱かれたというよりも、あなたというペットでマスターベーションしていたにすぎないって感じよ、ハハハ。

 ——おおっ、不愉快!! とにかく、いつまでも出し惜しみばかりしてないで、その問題を言ってみなよ?

 ああっ、お湯が沸いてるわよ。

 ——おおっと、すっかり忘れてたよ…、ちょっと失礼するよ。

 ねえ、あたし、こんなことを考えていたのよ。

 ——ん? なに? いま話題にしてる問題のこと?

 そうよ…

 ——じゃ、ちょっと待ってよ。なんだか、急に忙しくなっちゃったなあ…。なにせ口述筆記なんだからさ、一言たりとも漏らさずに記録しなきゃならないし、コーヒーも入れなきゃならないしでさあ…

 なによ、今さら。そんなに口述筆記が大変なら、無理してないでラジカセでも用意しておけばいいのよ。それにしてもさあ、あたしの言うことぐらい記憶していられないの?
 ま、方法論はあなたの勝手だから好きにすればいいけどさ、とにかく、いつまでもコーヒーを待たせないでね。もたもたしてると、夕方になっちゃうからね。

 ——はいはい。しかしさあ、どこの<物語>でも、<作者>なんていうものは、こんなに忙しいもんなんですかねえ…

 ハハハ、それはあなたがトロイからよ。とにかくいい? 始めるわよ…

 ——チェッ、何ていいぐさだ。まったく、かわいくないんだから…、勝手にしてくれ!! 

 そお、それじゃお言葉に甘えて…
 たとえばねえ、この<物語>の読者である誰かが、貴重な時間を割いてここまで読み進んだにもかかわらず、物語的想像性の貧困のみならず糞面白くもない物語論なんかを読まされて、まったく不愉快な気分になっているとするわよ。
 ところが、それにもかかわらずその誰かがこの<物語>に対していまだ善意の期待を持ちつづけてくれるという、親類縁者の義理やえこひいきも顔負けの博愛主義者であったときに、その博愛主義者がおおらかなる反省力を発動して「さて、わたしはこの物語を読むことによって、なぜこれほどの不快感を味わうのであろうか?」と思うことがあれば、その誰かは自らの博愛に照らしてもなお不快性の付き纏う欠落部分に<作者>であるあなたの偏向した性格とか勝手な思い込み、あるいは何か得体の知れない意志とか欲望に憑り付かれた陰惨な動機を垣間見ることになるはずだから、ここはひとつ腰を据えてその不愉快な部分の正体を見定めて、何はともあれそれこそがこの<物語固有の想像的創造性>なんだといいうる博愛こそを獲得してやろうと考えたとすれば、たぶん博愛主義者は自らの不快感の中にあなたの悍しき性格や性質や体質と通底する何物かを反省的に発見することによって、結局は気楽な読者であるつもりが不本意ながらあなたの<物語>の<物語的人格性>を反照的に担わされていることへの不快感であったことに気付くはずだから、ここで聡明にして反省的なる博愛主義者は<読者>の立場に固執しその不快感に拘泥しているかぎりは、あなたの貧困な<物語>の中で高々<自分>とそれ以外の<誰か>を<快>と<不快>によって差別する欲望交換のルールを捏造して自らの<自己愛>を武装させるだけのことなんだと悟るはずなのよ。
 だからねえ、もしも<読者>が博愛主義者としてとめどない反省を<自己愛>へと送りつづけていられるならば、<とりあえずの物語>によってしか主張しえぬ<自己愛>は自らのために自分を正当化しつづける<とりあえずの物語的欲望>にすぎないと気付くはずだから、この反省の地平では、いかようにも幻想性を否定する根拠を持ちえぬ<物語>によって厚かましくも十全たる<私たりうる私>を獲得するという、ただ自己顕示欲を弄ぶだけの<独創>とか<想像>と呼ぶ欲惚けた<遊戯>においてさえ、結局は自分という現実までも<とりあえずの物語的産物>にすぎないと知らされることのみならず、あらゆる<物語>がことごとく幻想であるのかもしれないと思わずにいられない不安と揺らぎの真っ只中で、それでもなお<物語的人格性>という幻想の実現を望むことでしかないのだから、そこではたとえ幻想を自己実現しても獲得された人格がやはり幻想性を免れぬために<自己喪失>へと逢着することにしかならないというわけなのよね。
 そこで、そんなときに<読者>のみならずあまねく<物語的人格>が自らの反省的問題として担うものを、たとえ不快感を抱えてさえ語りつづけていくことが出来る快感とは何かという問題が提起されたときに、かろうじてしかもすでに自己実現しているものとは何か、これがあなたのために用意した問題ってわけね。
 どお? ハハハ、やったわね!?

 —— ……。

 ねえ、何だと思う?

 ——そ、そりゃあないよ…。だいたいねえ、そんな長ったらしいものを、一度聞いただけで覚えられると思うのかい? 僕は、君も承知しているはずのアホだよ!?

 今さらつべこべ言わないの。とにかく、これに回答するかコーヒーを出すかしてよ…。ねえ、そんなささやかな感動でいつまでも休憩していたんじゃ、ちっとも<物語>が進まないじゃないの…

 ——む、無理だよ。せめてもう一度、今度はゆっくりと言ってくれなきゃ…

 ふうん、あたしは何遍でも言ってあげたっていいわよ。だけど、それじゃワープロ用紙とリボンカセットの無駄遣いにしかならないじゃないの、でしょう? 
 だから、自分で勝手に読み返してみればいいのよ。そもそも、そのワープロにCRT画面が付いているということは、そういう読み返しとか訂正をスムーズにさせることが目的になってるんじゃないの?

 ——ああっ、き、君!! いま君が、ここでそんなこと言ったら、この<物語>の<口述筆記>という物語的手段が崩壊してしまうじゃないか!? 
 ははん、読めたぞ…、君は、僕をペテンにかけて僕の<表現者>としての権威を失墜させようってハラだな?

 あら、そうかしら…。あなたが、かねがね主張していた<表現者>としての立場って、正に口述筆記者として、単に<文字を書くヒト>という存在理由によってじゃなかったかしら? つまり、この<物語>とは、とにもかくにもあたしたちの<会話>をあなたが書きつづけたということによってこそ、かろうじて<物語>として存在できているんじゃないの? それゆえにこそ、あなたの読者である博愛主義者たちは、ここまで<物語>を読み進んでこられたってわけでしょ?
 とにかくねえ、あなたが<口述筆記>なんていう下手な嘘で、<ドキュメンタリー作家>としての<物語作家>たる身分を隠しおおせたなんて思うのはあなたの勝手だけど、あなたがコーヒーを入れるのに手間取ってあたしたちの<会話>を記述しえなかったという<作り話>も、結局はあなたがそのように<物語>を書きつづけてきたからこその<物語的事件>でしかないってわけなのよ。

 ——ち、違う!! 断じてそれは違う!!
 とにかく僕が、表現者としてこの<物語>のために設定した<口述筆記>という方法は、君のようなそういうルールを無視した発言を容認するわけにはいかないのだ!! たとえ君が、この<物語>の<物語的意志>の仕掛人だとしても、それは明らかにこのルールを破らないという約束を前提にしてしか言えないことなんだ。それが僕の<ドキュメンタリー的手法>なんだ!!

 ハハハ。すっかりうろたえちゃってまあ…。あなたねえ、向きになればなるほど大嘘つきの<小説家>と変わらない<物語作家>という醜態を晒すことになっちゃうわよ。

 ——うるさい、うるさい!!

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 ——とっ、とにかく、僕は<表現者>の責任において、未だ<物語>の中で書いていないものを読み返すなどという破廉恥なことは出来ない!! 絶対に出来ない!!

 今さらねえ、どんなに騒いだってしょうがないのよ。あなたは、そういうルール違反を犯してきたんだから…。これは、ヒトの忠告に耳を傾けない者に与えられてしかるべき当然の試練ってわけね。まあ、自業自得ということなんだから、しかたないんじゃないの…

 ——し、しかたないったって、僕にとっちゃ、それでは済まないことなんだよ…。だいいち、そんなことを認めてしまったら、僕の<表現者>としての立場はどうなると思ってるんだ? 僕は、せっかくここまで来て、今さら読者に顔向けの出来ないようなことは断じて出来ない!! 僕がそれを認めるってことは、自殺行為以外の何ものでもないんだ!! そんなことは出来ない。とにかく、ぼ、僕は、何があってもこの<表現者>としての身分を君に譲るわけにはいかない。たとえ君に「死ね!!」と言われても、断じてそれを認めるわけにはいかないのだ。
 …とは言うものの、ああ、僕は、いったいどうしたらいいんだ!? 

 まったくもう、往生ぎわが悪いんだから…。もうここまで来たら、どうもこうもないじゃないの。とにかく、あたしはさっきの問題に答えてって言ってるんだから、早く読み返して答えてくれればいいのよ。それしかないでしょ?

 ——そ、そうか!! やはり君は、そういうつもりなのか!? 
 ちくしょう、今さら「死ね」と言われておめおめと死ねるか…

 じゃ、どうするの? つべこべ言ったって、もう、どうしようもないんでしょ?

 ——うっ、うるさい!! こうなったら、どうしようと俺の勝手だ!! そもそも僕の<表現者>としての立場を認めないような奴とは、金輪際<物語>なんか続けるもんか!!

 ハハハ、すっかりスネちゃってさ、かわいんだから…。ねえ、あたしは、あなたの<表現者>としての立場を認めてないわけじゃないのよ。むしろ、あなたを立派な<表現者>として立ち直らせたいからこそ、あなたのルール違反を指摘してるんじゃないの…

 ——もう…、そうやって、ヒトの心を弄ぶようなことを平気で言うんだから…
 だいたい君は、僕にどうしろって言うの? そもそも僕を、こういう窮地へ追い込んだのは君なんだよ? それなのに…

 そう、そういうことね。とにかく、さっきも言ったように、あなたのような脆弱な表現者が<愛のドキュメンタリー>とやらを語っていこうとするならば、これは避けて通るわけにはいかない当然の試練ってわけね。

 ——チェッ、勝手なことばかし言ってさあ…、僕がルール違反を認めちまったら、もう<表現者>であることなんかできっこないじゃないか? そうだろう?

 だけどねえ、あなたの<読者>は、すでにここまで<物語>を読み進んでいるのよ。いいこと、あなたがルール違反を認めたくないと駄々をこねている一部始終さえも、<読者>は読み進んでいるってことなのよ。だから、ここであなたに出来ることは、何はともあれ極上のコーヒーをここへ出して、それから、さっきの問題に明確な回答を用意すればいいのよ。それしかないじゃない…

 ——君は、平気でそういうことを言うけれど、それじゃ僕は、この正直者の僕は、<読者>の厚い信頼を裏切ることになってしまうじゃないか? 僕は、正直者の<口述筆記者>なんだよ!?

 なによ、まだ、そんな嘘で自己愛の言い繕いが出来ると思ってるの?
 あなたが、ほんとうに正直者であるならば、自分が大嘘つきであることを認めるしかないじゃないの。要するに、ここで「ごめんなさい」って言っちゃえばいいのよ、ただそれだけのことじゃないの…

 ——き、君ねえ、これは謝って済むようなことじゃないと思うんだよ。つまり、僕の<表現者>としての人格と品位に拘わる問題だと思うわけさ。それにねえ、君はとやかく言うけれどねえ、<ドキュメンタリー作家>としての僕は、正直者の<口述筆記者>であるということに関して、いささかの嘘偽りもないことを自負しているんだよ。だからこそ、僕は自分の信念を曲げられないということについてさえ、こうやって正直に語りつづけてきたんじゃないか…

 ま、あなたが正直者であるかどうかについて、反省的ではないあなたの供述なんかを鵜呑みにするわけにはいかないけれど、でもねえ、そもそもあなたの主張するところによれば、<文字を書いている>あなたこそが<現実>だって言ってたんだから、ここまで書き進められてきた<物語>を読み返すことは出来るんでしょ?

 ——そ、そりゃ、<文字を書いている表現者>としては、当然可能ですよ。

 だったら、やっぱし、あなたが嘘をついてたんじゃないの?

 ——ち、違うよ、それは君が、君自身も言っていたように<物語的人格>としては語ることのできない<物語の外>のことについて、余計な口出しをするから起こる矛盾ってわけなんだ。つまり、君こそが<物語>のルールを無視するから、僕の<ドキュメンタリー>において<現実>と<虚構>との関係が混乱してしまうんだ。

 まったくもう…、反省的でないんだから…
 じゃ、こうしたらどうかしら。とにかくお互いに<認めあえる部分>と<認めあえぬ部分>はそのままにして、それでも実際には、こうして何事かを語り合うことのできた<共通の現場>があることを認め合って、この<認め合いの現場>を<とりあえずの物語>と呼ぶことにするっていうわけ、どお?

 ——なんだい、それは?

 うん。とりあえず、あなたは<物語という虚構>を書いている<現実としての表現者>で、あたしは<物語という現実>を生きている<文字としてのある女>ってこと。つまり、何はともあれこの<現実>と<虚構>とが共存する現場が<物語>というわけで、ここで<現実>と<虚構>が対等に語り合えることの根拠を、お互いがこの同じ<物語>を自分のルールと見なし、さらに自らの意志を実現しうると思念しているっていうところに見定めるってわけね。だから、ここではお互いに<思うことの自由>が保証されている限りにおいて、<物語>としての<会話>の関係を維持していくことが出来るってわけなの。
 ということはねえ、ここまで語ってみると、いまあたしが言った<物語>っていうのは、結局のところ、嘘と真が、あるいは虚構と現実が錯綜し合ってこそ生きつづけているヒトビトの日常と何等変わりがないってことに気付くってわけね。

 ——ふむ、ま、その<物語論>はいいとしてもだよ、未だ解決されていない僕の自己矛盾はどうなるの?

 どおってことはないわよ。とりあえずは、そういう矛盾した構造こそが<物語>の物語たる存在理由なんだから、あなたは自分で書いたものを、ごく自然に読み返すことの出来る<表現者>であればいいのよ。とにかく、この程度のことで、<物語>の時間を止められちゃったんじゃ、いつまでたってもコーヒー一杯さえ飲めないじゃないの…

 ——だけどさあ、<読者>はどう思うだろうか? つまり、僕たちが思っているようなものとして、この<物語>をそういう矛盾構造のものとして了解してくれるだろうか?

 平気、平気。

 ——どうして? そう言い切れるのさ?

 うん。明晰にして博愛主義者である<読者>は、この<物語>の構造的矛盾が、あなたの事実誤認による当然の帰結であることを十分に承知しているはずだからよ。

 ——エエッ、それじゃ、まるで僕がバカにされているってことじゃないか!? 君は、そういうかわいい顔をしていて、よくもそんなムゴイことが平気で言えるねえ? ということは、結局、君は僕を愛してないってことなの?

 ハハハ、分かる? それにしても、あなたって自覚症状があったんじゃないの? いつも「僕アホヤネン」なんて言ってるじゃない…
 とにかくねえ、ここで多少のアホさ加減を認めさえすれば、あなたは辛うじて<正直者>でありつづけられるってわけよ。それでいいじゃないの?

 ——トホッ…

 そんなに気を落とさないの、ねえ、チュウしてあげるから…
 ア、アアッ、そ、そんなのずるい、ダメ!!

 ——ハハハ。

 まったくもう、ちょっと気を許すとこれなんだから…。あなたの自尊心って、いったいどうなってんの?

 ——そういう質問になら、すぐ回答することが出来ますよ。つまり、たとえ自尊心であろうと、すべて愛欲が支配していますから、これさえが保証されれば、まったくメゲルことなんかはありません!! ハハハ。

 バァカ!!

 ——ああ、やっぱしそういうことか!! ヘヘヘ。

 いつまでヘラヘラしてるのよ? 早くさっきの問題に答えてよ。

 ——ふむ、そんなに、せかせないでよ。これから読み返すところなんだからさ… ああそっか、その前に、コーヒーを出しておかなくっちゃね。

 ねえ、アホの自覚をさらに深めたからって、コーヒーの味までアホにしちゃだめよ。

 ——ったくもう、減らず口が…
 どうだい、よく見てから言って欲しいね、この安定したお湯の流れ、確実な回転運動、しかもこの2回目に入るタイミングの良さ、この立ちのぼる豊かな香りを味わってからこそ評価してもらいたいね。とにかくね、コーヒーってやつは、そこいらにいる擦れっからしの女どもとは違ってね、アアッ、断じて君のことじゃないからね、ハハハ、とにかく「おいしくなれよ」って優しくしてやると、そういう僕の思いを決して裏切ったりはしないってことさ。もうちょっとだからね…
 ま、そういうわけで、お待ちどうさん。

 ん、どうも。あたしがコーヒー飲んでる間に、回答するのよ!?

 ——へいへい。それよりコーヒーはどうかね?

 ふむ、まあまあってとこかしら…

 ——エエッ、そんなはずはないだろう? どれ…
 うまい!! ったくもう、どこが「まあまあ」なんだよ? この灼熱地獄で燃えたぎる情熱によってこそ天上へと誘われるという、正に奇跡とも言いうる至高の救済を暗示する香り、そして口の中でしばしのまどろみの後に目覚めるささやかなる苦悩、無論この苦い思いなくして至上の愛による祝福を享受することは出来ないのだ。つまり鼻腔を抜ける歓喜、あるいは喉元を抜けてはじめて沸き上がる法悦、ああ、己の心に切ないほどの傷みを見いだす者にのみ与えられる慶び、それはとめどなく降り注ぐ慈愛を身に受ける幸せなのだ。
 正に、ここにはそのすべてが揃っているというのに、君はいったいどこに「まあまあ」でしかない理由があると言うのかね? そんなものは、どこにもないだろうが!?

 すぐ向きになるんだから…

 ——あたぼうよ。僕にとっちゃあ、唯一、ドリップ技術のみが金になる自尊心ってわけだからさ。

 分かった、分かった。働きもしないのに、能書きばかりはいっちょ前なんだから…
 とにかく、あたしは、そんな詰まらない能書きよりは、出来の悪い回答のほうにこそ興味があるの。早く答えてよ…

 ——もう…、そうやって急すから、満足な回答ができないんだよ…。ま、待てよ、ひょっとすると、出来の悪い回答こそを語らせて、それをネタにいちゃもん付けようって魂胆だな? 

 もう、いつまでもごちゃごちゃとうるさいんだから…

 ——ハハハ、つまりなんですよ、時間稼ぎってわけですよ。ま、そんなわけで、いろいろと考えてみたんだけどね、どう考えてみても、あそこには<問い>というほどのものが見当たらないってことなんだね。そこで、とりあえず言えることは、君があれを提示したときの、あの得意そうな顔を思い返してみると、結局のところ、僕を陥れることの快感こそが君の最大の目的だったと言わざるをえないってわけさ。そうだろうが?

 ふむ、予想通りにいまいちね。とにかく、そういう短絡的な回答じゃ満足できないのよね。そうねえ、もう少し、あの問い掛けに即して回答して欲しいの。たとえばねえ、あなたのような<隠れ小説家>というような<表現者>から、ごく日常的な生活場面の<表現者>と言いうるヒトビトに至るまで、とりあえず自分が自分であろうとする何等かの<物語>において、辛うじて自分でありつづけることへの軋みとか揺らぎが見えたときに、そんな<表現者>がわけもなく反省的な自覚が迫られていると感じたとすれば、彼らが<物語的人格>として自ら語り起こさなければならないところのものって何んだと思う?

 ——んん? ふむ…、ああ、君の言わせたいことを推測すれば、やはり<自己批判>ってことかな?

 まあ、そういうことね。そこでねえ、そんな<自己批判>を語ることの快感ってなんだと思う?

 ——そうだねえ、言い換えれば結局のところ自己否定的な快感ってわけだから、そりゃあ問答無用にマゾヒスティクな快楽に尽きるってわけさ、ハハハ。ま、多少の体裁を取り繕うとすれば、君の言うところの<とりあえずの物語>における反省的な自己認識、つまりは<知りたくない自分>を知ることの喜びだね。どお?

 ハハン、すごいじゃん!! それじゃ明晰なうちに聞いておきたいんだけど、あたしがあの問題を提起することで実現していたはずのものって、いったい何んだと思う?

 ——それが快感だったってわけさ。だからこそ、あれは満足な問題の体をなしていないって言ってるんだよ。

 ハハハ。まあ、そういうことなんだけどさ、実はね、この<問い>にはもっと深い根っこがあるってこと。

 ——そんなこと知るか!!

 ふうん、そうなの…。じゃもう一度、前のほうを読み返してみたら?

 ——もう、そういう古傷をえぐるような言いかたは止めてくれないかな…。まったく、君って女は、そういう残酷なことを平気で言うんだから…

 ハハハ。んじゃ、特別サービスよ。確かにねえ、あそこでは<あたしの自己批判>が快感だったってことが、あの問題を少なからず満足させていたってわけね。ところで、これはさっきも言ったことだけど、この<物語>における<あなたの自己批判>とは、あたしが提起しようとしていることごとくの問題を、つまりはこの<物語的意志>を満足させるはずだってこと、それはいいわね?

 ——ふん、それで…

 ということは、何はともあれあたしの<物語的意志>を満足させていたあなたは、その限りにおいては自分に対して謙虚であり、自己否定的であったってことね。つまり、この反省的意味において、あなたは奇しくも創造的であったといえる。ところが、ここでひとつ問題なことは、当のあなたにはほとんどその自覚がないってこと。

 ——ほう…、そういうもんですかねえ…。とすれば僕も、まんざらじゃないんですねえ。そうするとですよ、ひょっとして僕は、けっこう小説家なんかとしてもやっていけるんじゃないですか?

 ダメ!! 残念でした。とにかく、ここで自分のしていることに関して自覚的でないってことは、かなり重大な欠陥というわけね。つまり、あなたのそうそうところが問題なのよ。

 ——ふうん、それは何んですか? また新しい問題提起ってわけ?

 バァーカ。そうやって、いつまでもアホばかり言ってんじゃないの。
 ねえ、あなたって、<ドキュメンタリー>なんていう看板を掲げることで、<表現者>として担わなければならない<物語>に対しては、ことごとくの反省的視座を超越しうるなんて思ってたんでしょうけれどねえ、こういう想像力の乏しい<物語論物語>としか言いようのない世界では、<表現者>たるものはたとえ<ドキュメンタリー>であれ、いや<ドキュメンタリー>であればこそ常に自らの<行為>に対して厳しく反省的でなければならないし、それを<物語>として自覚的に検証していかなければならないはずなのよ。
 つまり、あなたの大義名文である<正直性>についてだって、<口述筆記>なんていうトリックに頼らずにあくまでも<ドキュメンタリー>という方法論を反省的に検証しつづける実践に基づいてこそ言われるべきなのよ。
 言い換えるならば、<正直性>とは決して自ら主張しうる事柄ではないのだから、<正直者>を名乗るものは自ら<嘘つき>であることを白状しているってわけ。

 ——それは違うよ。君は自分でも認めているにもかかわらず、この<物語>が正に物語としては<想像力の貧困>というハンデを背負っているということを見落としているってわけさ。つまりここでいう<想像力の貧困>とは、君に言わせれば僕の<表現力の貧困>ということだけど、それゆえの<物語世界>の情況設定の曖昧さが、たとえ常識的に言いうることについてさえそのイメージを固定することが出来ず、すでに<読者>の勝手な想像に任せるという結果を招いているってわけさ。ところが僕に言わせれば、今に至るまでの君の非常識な言動の数々が常識的な<想像力を無力化>してしまったというわけで、いずれにしても、たとえ僕たちの<言葉>として辛うじて語られた事柄に関してさえ、僕たちの暗黙の了解という不確かな<想像的世界>を前提にして理解するならば、それは解釈するものの勝手な思い込みにすぎなくなってしまったってわけさ。
 言い換えるならば、ことごとくの発言が相対化されてしまったこの<物語>においては、僕は<口述筆記>という方法論を提示することによってしか自らの<正直性>を主張することが出来なかったということなんだ。

 まったくもう、あなたってヒトは、よくもそうやって訳の分からない屁理屈を考え出せるわねえ…。そういうのも才能っていうべきなのかしら、ねえ?

 ——ハハハ、無論そういって頂けるなら、僕としては大いに満足ですよ。それでどうですか、僕の<正直性>とやらも納得して頂けましたかね?

 バァーカ、そんなわけないでしょう!? あなた自身が言ってるように、あなたの<正直性>だってあなたの勝手な思い込みにすぎないじゃないの。とにかく、あなたが言うように<物語>がことごとくの価値基準を相対化してしまった以上、<物語的人格>の存在理由についてさえ、物語論としての論理的な整合性を必要とするってことなのよ。
 つまりこのルールこそが、この<物語>を語るうえでの必要不可欠の条件と認められているかぎりは、たとえあなたのような<表現者>が現れ、その脆弱な自己愛に呪縛された反省性の欠如によって、<物語>を、<物語的人格>を、手当たり次第に<私物化>しようとする野望を阻止することが出来るってわけね。これは、不節操な暴力者ともいいうる<表現者>から、<物語>とあたしたち自身の生存を守るための生活の知恵に他ならないってこと。

 ——なんだ、なんだ!? 君こそ勝手なルールなんか押し付けちゃってさ…。だいたいね、この<物語>を、こんなに訳の分からないものにしてしまったのは、君が訳の分からない屁理屈ばかり言うからなんだ。
 そもそも僕は、この<物語>において、君の未だ語られていない魅力を発見的に説き明かそうとしていたっちゅうのに、君は<表現者>たる僕の立場を脅かすようなことばかり言い立てているんだから、このまんまじゃ誰だって、君のことをギスギスした厭な女だとしか思わなくなっちゃうよ…

 ああいいわよ。もともとあなたの表現能力に無いものねだりをするつもりなんかないんだから。まして、あなたが説き明かしてくれるはずの発見的魅力なんかに期待を掛けるほどのお人よしでもないしね。
 とにかくあたしは、あなたの怪しげな<口述筆記>なんていう企みの中においても、あなたの陰湿な妨害にめげることなく、いや、むしろあなたの妨害によって抹殺される<言葉>があるとすれば、そういうあなたの蛮行があたしの魅力を反照的に語り起こすことになるはずの、つまりはこの<物語>の存続に拘わるような魅力的な<言葉>こそを語りつづけていくつもりよ。
 いいこと? 何はともあれあたしがこの<物語>の<物語的人格>として存在しているかぎりは、あなたのその貧困な表現力なんかにたよることなく、あたしは自らの能力で魅力的な女性として生きてみせるつもりよ。

 ——チェッ、勝手に自惚れるといいさ。でもねえ、僕が<正直者>の名誉にかけて言いうることは、君の言葉を改竄したり抹殺するようなことは断じてしないってことさ。これは、<表現者>としての僕の信用問題だからね。僕はこの件に関しては、君に対してのみならず<読者>の皆さんに対してもはっきりと言明しておきたい。

 ふん、また口から出まかせの大見えなんか切っちゃってさ。あなたねえ、いい加減なことを言えば言うほど後でひどい目にあうのよ、わかってんの?
 ま、あなたが<善意の表現者>であることを誓うのは勝手だけど、あなたの善意があたしの魅力にとってプラスになる保証は何もないんだから、とにかくはあなたのお手並み拝見ってところかしら…

 ——ゲゲッ、君は僕の表現力のみならず善意までも疑ってかかるの?

 だって、そうでしょ? あなたの善意とやらの為せる技が、美貌のあたしを陥れることでしかないっていうんだから…。それともあなたの善意と豊かな表現力が、あたしとの感動的な出会いを見事なほどに語り尽くした結果が、これだっていうの? とんでもない!!
 所詮あなたは、小説家ほどの大嘘はおろか<事実>さえまともに<ドキュメント>できないのみならず、出来損ないの<物語>をヒトビトの善意に媚びてさえ<作品化>しようとする戯者なのだ。

 ——そ、そんな、糞味噌に言わなくたっていいじゃないか…

 じゃ何よ? あなたの物語的な知見によれば、このあたしも、真実態としては鬼ババでしかないってわけなの?

 ——とっ、とんでもない!! そんな恐ろしいことは、どんなに虐待されたって、居候の口から言えることではございませんよ、ハァイ…

 なによ? じゃ、さっきは何んて言ったのよ!? <物語>が始まって早々に、しかもその口で「鬼ババ」って言ったでしょ…

 ——エエッ、ほ、ほんとですか!? それ、空耳とちゃいますか?
 ははん、ひょっとすると、多分君も知らないうちに、そう、いつの間にかね、心の中にそういう反省的な囁きが巣くっていたんじゃないの、ハハハ。

 へえ…、あたしを怒らせたいんだ!?

 ——おおっ、鬼ババになっちゃいますよ。いいんですか? と、とにかく、冷静に、反省的に、自覚的に、そして優しく、ね? ハハハ!!
 ああ、そうだ!! <ワザあり>を取った快感が、奇しくも僕の冷静にして反省的な自覚を呼び覚ましたと思ったら、未だ回答の与えられていない問題をひとつ思い出させたよ。どうです、こういうところなんか、いかにも謙虚な反省者としての面目躍如たるところだとは思いませんか、ね?

 ふうん、だ!! 何を思い出したんだか知らないけれどねえ、それは、追い詰められたあなたが、いつも逃げの一手で持ち出す話題の擦り替えにすぎないんじゃないの?

 ——またまた、そうやって僕の反省性までも否定しようとするんだから…。いいかい、さっき君は、僕の反省性がこの<ドキュメンタリー>の創造性を実現していたと言ったばかりなんだよ? …ったくもう、いつも反省的でないのは、君のほうじゃないか? だいたいね、なんでもかんでも疑って掛かればいいってもんじゃないでしょうが…

 あら、そうかしら? あなたみたいな性格の悪い<表現者>と付き合っていくには、何はともあれまず疑ってみることこそが、<物語>を語る<文字>にすぎないという身分保証の乏しいあたしたちの自己防衛の手段ってわけね。
 ま、それにしても、想像力の乏しいあなたがせっかく新たな話題を提供してくれるっていうんだから、退屈している読者のためにも、それをお聞かせ願いましょうか? でもねえ、これだけはよく覚えておいてね。いいこと? もしもつまらない話しだったら承知しないってことよ。

 ——チェッ、性格が悪いのは、そっちのほうじゃないか!? まあ、ペット的情夫としは文句の言える身分じゃないすからねえ…。

 まったくあなたって、前置きが長いんだから…、早く言ってみなさいよ。

 ——ヘヘヘ、いや、まあ、その…、どおってことはないだけどさ、きのうねえ、君が仕事に出てすぐだったかなあ、管理人のおっさんが来てたんだ。だけどね、何んかワケアリの感じなんだけどね、なぜか用件を言わないんだよねえ…。それでね、また後で来るって言ったきりなんだけど、それっきりだねえ…。あれ、何んだったんかね?

 ふうん…

 ——しかしさ、あのおやじの僕に対する目付きは、何か尋常でないものを感じさせるね。

 ハハハ、熱い愛の眼差しなの?

 ——ア、アホ言っちゃいけませんよ。とにかく、気の弱い僕なんぞは、この三階の窓から飛び降りて、もうわけもなくそこいらの交番なんかへ自首したくなっちゃうほどの訴求力ってわけですよ。

 なによ、それ?

 ——ま、いわば、その…、犯罪者でも摘発するかのような目付きってわけさ。不愉快なんだから…

 ははん、するとやっぱし、あなたってヒトは誰が見ても、あたしという美女を食い物にしているヒモかタカリだって分かっちゃう体質なのよ。つまり、満足に自立している男の厳しさを感じさせないってことね。ま、どんなに好意的に見ても、その居候然とした風貌は隠せないもんね、ハハハ。

 ——し、失礼な!! この僕を見てですよ、この姿が苦悶する芸術家に見えないとすれば、それは見る者の芸術的感性の貧困を物語っているってことさ。

 どこが芸術家なのよ、その顔して…。ん? でもそっか、芸術家なんてのも、あたしみたいに美しいものにたかるヒモやタカリにすぎないとすれば、その卑しい欲望者という意味では、確かにあなたにも顔負けで醜いと言えるわね、ハハハ。

 ——ああっ、ぼ、僕をけなすついでに、芸術家までけなしちゃてるよ、知らないからね…

 それがどうしたって言うのよ、そうでしょ? たとえ<芸術>が素晴らしいことだとしてもよ、日常的に生きつづける<表現者>自身が<芸術作品>でないかぎりは、社会的にも性格的にもどこかが破綻しているかもしれない<芸術家>が、芸術的に評価しうる人格である保証なんかどこにもないでしょ?

 ——もう、すぐそうやって、向きになるんだから…。だいたいね、君は、あのおっさんの目付きも見ていないのに、どうして、そんな勝手なことが言えるんだよ?

 だってそうでしょ? あたしは、この界隈じゃちょっとは顔の売れた噂の女よ、そしてあなたは、そういうヒトビトの羨望の眼差しを一身に背負う幸せ者ってわけなのよ。とにかく、こんなおいしそうな美女を独り占めにしてるんだから、誰だって嫉妬の一度や二度は我慢できないはずでしょ、そう思わないの? この情況を見定めるならば、あのおじさんの目付きだって、容易に想像つくというもんよ。

 ——まったく、よくも飽きずに、そうやって一日じゅう自惚れていられるもんだね。感心するよ。それにしても、感心ついでだから聞いちゃうけれどさ、おのおっさんの歳になっても、まだ若い娘を抱く元気なんてあるもんですかね、専門家としてのご意見を伺いたいですね?

 さあどうかしら、でも人間生きている限りは欲望の器なんでしょうから、やっぱり愛欲へのこだわりは枯れないんじゃないの。なにせ、今の年寄りはみんな元気だから…、結構来るもんね。でもねえ、どんな元気もんの年寄りでもねえ、やっぱしどこか場違いな感じは持ってんのよ。するとそういう負い目とか、そういうものを振り切ってくる一種の開き直りみたいなものって、ああいうところじゃとてもかわゆくなっちゃうのよね。
 だいたいね、もう立たなくなったとしても、心の中にある満たされないものを癒しにくるヒトってねえ、もともと精神的な満足感のために来るんだから、たとえば若さなんかに対する妬ましいほどの念いなんかもかなり精神的なものへと浄化されてるってわけなのに、なぜか、いや、だからこそかしら、ちょっと濃厚なスキンシップなんかでも感激しちゃうのよね。ひょっとするとOMANKOのことしか考えない若者よりは、豊かなセックス感覚を持ってるってことね。
 でもねえ、そういうモヤモヤしたものを解消にこられる裕福な年寄りはいいけれどねえ、無い無い尽くしの年寄りになっちゃったら、頑固でわがままになってしまった年寄りの持つ妬ましさなんて、想像に余りあるんじやないかしら…。そんなときに、もしも欲惚けて自らの来歴も喪失してしまっているとすれば、一時の嫉妬のためにいかようにでも過去を言い繕い嫉妬しつづけられるほどの情熱家になってしまうはずだから、それはそれは大変なもんじゃないの? 
 そんなわけで、たとえばあの管理人のおじさんが、あたしのことを「あの若さで、こんなマンションを持てるぐらいなら、どうせ風俗営業さ」なんて見抜いていれば、決して淫らな欲情と言い切れない念いを抱えながらも、立つ物の前に先立たぬ物によって抱くに抱けない妬ましさは、結局あなたに向けるしかないってことじゃないの?

 ——ふううん、そんなもんかね…。だけどさあ、あのおっさんが、なんでそんなことの意志表示のためにノコノコやってくるのさ? 
 ああっ、そうか!! 今のは一般論である以前に、具体的にあのおっさんがそういう客として顔見知りだってことか!? すると君は、言葉屋のマスターのみならず、この界隈のスケベどもを手玉に取って家庭不和をまきちらしてるってわけか!?

 さあ、どうかしらね、ハハハ。
 とにかく、あたしの方には、あのおじさんに特別な用件なんてないわよ。
 でもねえ、このことだけは言っておきたいの。もしもねえ、高いお金を払ってあたしを抱いたり抱かれたりするスケベたちがねえ、そのことが原因で思わぬ家庭不和を抱えることになるくらいのスケベでしかないのなら、そんな家庭はもともと乗り越えがたい不和の原因を抱えていたはずなんだから、いずれは露見するはずの家庭不和にお金を払っただけ損をしたことになるってわけね。
 いいこと、そういう哀しいスケベたちは、どうせ何をしたって家庭不和を回避できないんだから、そのときのためには、いっそ古女房を捨てて乗り換えられる堅気の娘と不倫したほうが、なんぼかスリリングでしかも思いっきりの猥褻感覚を楽しめるいずなんだから、スケベにとってはずっと徳だと知るべきなのよ。

 ——し、しかし君は、しぶとい性格してるよ、まったく…

 お互い様でしょう。あなたなんかにヒトのことが言えるの? どうせあなただって、どんなに惨めな<表現者>に落ちぶれても、口述筆記者として語りうると確信する<愛のドキュメンタリー>をやめるつもりなんかないんでしょうから…

 ——ムハハ。まあ、ここまできたら、もうアホやってでも初心を貫徹せざるをえないってところだね。とりあえずそれが、凡庸なる<表現者>としての意地とでも言うところさ、ハハハ。

 ふうん…、でもねえ、あなたみたいな小心の意地っ張りは、今のうちに目覚めさせておかなくちゃ、下手をすると再起不能になりかねないもんね。結局、先へ行けば行くほど自己不信に遭遇したときの衝撃はより大きくなるんだから、かわいそうってわけね。

 ——な、なんだなんだ!? その目付きはなんだ? ま、またしても僕をいじめて優越感に浸ろうって魂胆だな…

 何よ、今さら自分の本心を偽るような台詞で、読者を惑わしたりしないで欲しいわね。あなたは、いつだって、あたしにいじめられたがっているじゃないの? ほらほら、もう我慢出来ないんでしょ、なんとなく倒錯的な欲望で目が潤んできたみたいよ。

 ——でもねえ、僕としては、そんな言葉の刺激じゃ満足できないんだよ。本当に僕をいじめてくれる気があるなら、是非とも革の鞭を使ってくれなくっちゃ駄目なんだ、ハハハ。

 バァーカ、それじゃ、あなたを喜ばすことにしかならないじゃないの、この変態めが!! とにかく、あなたがいじめて欲しいのなら、やはりあたしとしては、あなたが一番喜ばない言葉の鞭を使うしかないと思うわけね、どうかしら…

 ——フン、勝手にしてくれ。

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