第一章



裏切られるために愛しつづける僕〜A



 ——あ、あれ、ちょっと待ってよ。いま急に出ていかれちゃ僕は困るんだ。
 これから君と僕の<物語>を語り始めようとしているのにさ。いまちょうど、このワープロに状況設定をするところなんだ。と、とにかく、ちょっと待ってよ。何しろこの<物語>は、君がいなければ始まらないんだからさ。

 なによ? またあたしを利用して、何か怪しげなことを企んでるのね?
ま、何を考えているんだか知らないけれどねえ、今は、あなたの遊びに付き合っている暇はないの。今日は忙しいんだ。急がなくっちゃ…、悪いけど、あなたのそのおもちゃで<文字>なんかにされて遊ばれているわけにはいかないのよ!!
 ん!? 何よ、あたしの言葉をワープロに打ち込んでいるの? どういうつもりなの? そんな口述筆記みたいな真似なんかしちゃって…。
 でも、あたしは御免よ。たとえあなたが、すでにあたしを<文字>としてワープロの<物語的人格>へと取り込んでいると主張しても、ダメだからねっ。この豊満にして知性的なひとりの美女は、あなたの貧困な想像力に身を委ね、しかもそんな小さなCRT画面の中に収められているわけにはいかないんだから。
 だいたいこのあたしを目の前にしていながら、よくも平気であたしの魅力を、ヒトビトの想像さえも届かない沈黙の僻地に押し込めて、まるで正体不明のまま埋没させておこうなんてことが出来るわね!? このバストからヒップにかけてのラインなんか、どう表現してくれるつもりなの? ああ、それともそれは、あたしに対する何等かの反抗的な意志表示ってわけなの?

 ——ど、どうして君は、いつも僕の純真な表現意欲を認めようとしないのかなあ…。
僕は、君の魅力を全面的に認めていますよ。しかも想像力の貧困についてだって、いまさら意義を申し立てるほどの身のほど知らずってわけじゃないんだ。だからこそ、僕が君の魅力のすべてを語り尽くすまで、ここに居て欲しいと言っているんじゃないか。

 だめ!! 今はあなたの貧困な想像力に付き合っているほど暇じゃないの。とにかく、あなたの純真さとやらを確かめている時間がないんだから、中途半端な努力はやめておいたらって言ってるのよ。
 ああ、いけない、いけない。つまらないことを言って、あなたと遊んでいる暇はないのだ。急がなくっちゃ、ええと、お財布、お財布…。あたし、美容院へ行ってくるわよ、後はお願いね…。
 ん? 何よ、何んなのその顔は? やけに突き放した冷たい眼差しじゃないのさあ?

 ——「何よ?」はないでしょう!! そうやって、君だけ勝手にポンポンと弾けちまったんじゃ、ワープロ名人の僕も、いささか君の言葉を打ち込んでいくのが追い付かないじゃないか。ましてね、僕はここで、いかに<物語>を展開していこうかという、この大問題についてさえ、まだはっきりとした回答を用意していないんだからさ、まずはこの点についての君の意見を記述しておきたいんだよね…

 あら、あなたが勝手に始めた口述筆記じゃないの、それで不都合が生じたのなら、勝手に計画を変更すればいいのよ。あたしは言いたいことを言うだけなんだから…
 だいたいねえ、あなたの貧困な想像力を前提にしているかぎりはね、自殺行為になりかねない<物語>になんか協力できないってこと!!
 そもそもあなたのその大問題にしたところで、とうてい明確な回答なんか期待できるはずがないのよ。だってねえ、あなたの口癖って、いつもこうじゃなかったかしら、「もはや僕は、小説を書くというあの大嘘つきの才能に恵まれていない不幸を悔やむより、正直者であることを誇りにすべきなのだ!!」でしょ!? そういう言い分けで自己愛に溺れてしまう者には、<物語的構想>などを考えること自体が、端っから無理な相談ってわけ。
 もっともずる賢いあなたのことだから、その辺のことは十分に承知の口述筆記だったんでしょうけどねえ、でもその最初の手続きでさえ満足に遂行できないんだもん、もう<物語>の<作者>であることを諦めるしかないわね。

 ——な、なにも、いまここで、そんな言い方をしなくたっていいじゃないか。何はともあれすでに何事かを語り始めてしまったんだから、僕にだって読者に対する<作家>としての立場というものがあるんだぜ。
 とにかく僕はね、まだ漠然とした構想でしかないけれどね、<作家>としての自覚と責任において、たとえば<ドキュメンタリー>と言いうるものとして、生々しい君と僕の生活そのものを語っていきたいと思っているわけさ。それは、取りも直さず僕が<正直者>であるという、この崇高にして愛すべき性格にもとづいてこそ、はじめて実現可能な構想というわけなんだ。それなのに頭っから能無し呼ばわりされたんじゃ、僕は時代錯誤の自閉症かいじめられっ子に退行していくしかないじゃないか…

 へえ、そうなの? あなたって、そんなに傷付きやすい体質でしたっけ? そうしてみると、見掛けよりは繊細で反省的だってことなの? でもとにかくは、その発育不全な性格については、それなりの自覚ってものがあるわけね。

 ——そ、そうですよ。僕の正直性をみくびっちゃいけないよ。だいたいねえ、この性格ゆえに、僕は君を裏切ることのない情夫でありつづけたってわけさ。

 さあ、どうかしら。あたしに言わせれば、むしろその自立性の欠如が女への寄生を許しているんじゃないの? ああッ、いけない!! とにかく、今日のところは時間切れ。予約の時間に遅れちゃうわっ。

 ——ちょっとちょっと、ねえ、その予約の時間に遅れたからって、別に割増し料金を取られるってわけじゃないんだろう?

 そりゃそうだけどさあ、あの店、いつも混んでるのよ。時間に遅れたら、今度は後回しになっちゃうじゃないの…
 きょうはね、仕事に出る前に、ちょっと寄るところがあるのよ。だから、早く美容院を済ませておきたいの。遊びじゃないのよ。

 ——ふうん、例のなんとかローンへの融資のことだろう? でもさあ、そんなに貧乏を目の敵にしてさ、目くじら立てて稼がなくったっていいじゃないの? そもそも、消費者ローンなんてのは金を借りにいくところなんであってさ、どう転んだって金を貸し付けにいくところじゃないと思うんだよね…

 ねえ、あなたって、そんな言い方が出来る立場かしら?

 ——ハハハ、まあ…、その、なんですよ。つまりは、才能は乏しいが至って<正直>なるひとりの<作家>がですよ、たまたま、きょう突然に、見慣れているはずの美人である君との生活に、また新たなる感動的事件との遭遇を予感させるものを発見したというわけさ。無論ここで発見したと確信できるものは、この抑えることの出来ない表現欲求によってしか取り出すことが出来ないのだから、いま正に愛の奇跡に向かって<物語>が語り起こされようとしている劇的な瞬間を迎えているというわけさ。
 そんな訳でね、きょうのところは、君の新たなる魅力と愛の可能性を語りうる希望を秘めた<作者>のために、そして僕の未知なる読者のために、わずかの時間を割いて頂きたいとお願いしているわけですよ。

 でもさあ、あなたが、あたしの魅力についての発見的な<表現者>であることは、結構なことよ。だけど、何んであたしが、あなたのみならずあなたの読者の面倒までみなきゃならないのよ?

 ——そりゃあ当然だよ。だってね、君がいくら魅力的だとしてもだよ、その魅力ってのは僕がヒトビトと共有してこそ初めて魅力たりうるからさ。
 たとえばだよ、君が店では在り来りにナンバーワンである美貌のソープ嬢でありつつ、いまだ某国立大学から足を洗いきれぬ忘れられた学生でもあるという、どちらの立場においても君の抱える秘密が後ろめたさでありながら、しかし<自分たりえぬ自分>によって危機的<私>を捏造しなければいられない君の揺らめきが、まるで崩壊する美を予感させる危険な<女>として輝いていれば、その怪しげな魅力さえも僕がひとりじめすることを君は喜ばないはずだからさ。
 だから、いま発見的に語られようとしている君の魅力は、当然ながら読者のものでもあるというわけだね。つまり、僕のドキュメンタリーという構想による<物語>は、君の魅力なしには語ることが出来ないってこと。

 ダメダメ。そんな手には乗らないの。自分の裸ひとつで稼ぎまくった金満家としての自覚は、あなたのお遊びに付き合っていられるほどいい加減なものじゃないのよ。

 ——もう、裸成金めが!! いま燃え上がろうとしている僕の表現欲求は、僕にとっては、ほとんど奇跡的なまでの昂揚感なんだ。まして若さだけじゃ通用しない年頃ですよ、そんな僕のささやかなる文学的欲望を見捨てるなんてのは、ムゴイヨ!! ムゴイネエ…。
 そうやって君は、僕の繊細なる感受性と創造性の芽を摘んできたってわけなんだ。 

 バァーカ!! 身のほど知らずの鈍才には、摘み取るほどの感受性も創造性もあるものか!! だいたいねえ、あたしの魅力を満足に語れるはずのない<物語>に、出来もしない無理難題を押し付けるほどの野暮なんて言いっこないでしょ。まして、あなたが勝手にあたしを取り込むために仕組んだ口述筆記なんだから、そんな<物語>によ、ごく在り来りの<文字>にすぎないこと以上の身分を要求するつもりなんかないわよ。ただねえ、ここではっきり言っておきたいことはねえ、このあたしをあなたの貧困な想像力で<文字>にするということが、あたしに対する侮辱的な行為だってことなの。分かってるの?
 とにかく何んの<ドキュメンタリー>だか知らないけどねえ、そんな<物語>を始めようというあなたには、あたしの<物語的人格>という身分を保証しなければならない義務があるにしても、あなたに口述筆記されたあたしが、あなたの<作家>としての身分を保証しなければならない理由なんかどこにもないでょう!?
 いい? よく聞くのよ、あたしが面倒みているのは、情夫としてのあなたにすぎないの。つまりねえ、情夫たるあなたが<作家>であるのはあなたの勝手なんだから、あたしは<作家>としてのあなたの貧困な想像力にまで責任は持ちかねるってこと。どこまでも甘えられると思ったら大間違いよ!! いい歳してさ…

 ——とほ、そんなオジサン扱いの冷たい言い方をしなくたっていいじゃないか。何はともあれここに用意された<物語>は、僕の想像力に委ねられた<小説>なんかである以前に、君と僕との愛の生活を口述筆記によって<ドキュメント>しようというわけなんだよ。だから、ありのままの君の言葉を記述していくのみの僕は、たとえ<作家>としての想像力が貧困であろうと豊かであろうと、それによって君の魅力を歪曲してしまうということなんか起こりようがないんだよ。

 ダメダメ、あなたの<口述筆記>なんていうトリックでごまかされるわけにはいかないの。いくら口述筆記ていったって、結局は<対話物語>としての<編集>を免れることは出来ないのだから、そこには<ドキュメンタリー作家>としての創造的な想像力の介入を無視するわけにはいかないってわけ。とにかく<編集>という表現行為が介入するかぎり、いま、あたしがここに居なければならない理由は何もないってことね。
 あなたは、この<物語的時空間>の中を縦横に走り抜け、あたしを<物語的人格>として、つまりは<言葉>として<文字>として、愛の生活とやらをドキュメントしていけばいいのよ。そしてその後に、それらの記録をもとにして<ドキュメンタリー>という<物語>を書き上げればいいってことじゃないの?

 ——そ、それじゃ君は、僕の<文字>であり<物語的人格>である<君>に対しては、縁もゆかりもないアカの他人だとでもいう気かい?

 他人という言い方は適切じゃないけれど、確かにこの<あたし>はあなたの<文字>や<物語的人格>ではないわね。現に、いま美容院へ行こうとしているあたしと、あなたの<文字>であるあたしとは別人とさえ言えるものね。たぶんどちらかが<事件>だとすれば他の一方が<事件報告>っていうところかしら…。
 言い換えると、<作家>であるというあなたのみならず、すでにここで<文字>にされているあたしは、このマンションを出ていこうとする<正体不明のあたし>を拘束する何の権利も持たないけれど、<物語的人格としてのあたし>は、美容院へ行こうしている<あたし>と口述筆記している<あなた>を触発しつつ同時に触発しかえされているというわけね。

 ——そうするとだよ、いま美容院へ行こうとしている君と、<物語的人格>である君と、どちらが本物なのさ? とにかく僕の表現方法は<ドキュメンタリー>なんだから、事実に即した本物の君を明らかにしてもらわなければならない。僕は、あくまでも君の生の声を無視して<物語>を進めるわけにはいかないのだ!!

 バァカねえ、あなたがそうやって、明暗順応の低下とか疲れ目にもめげずにチコチコとキーボードを叩きながら、CRT画面の中に文字を並べている<物語>に、<物語的人格>以外のあたしなんてどこにも存在しているはずがないじゃないの、でしょ?
 だからもしもよ、あたしたちの<言葉の意味>として以外に、いま美容院に行こうとしている<あたし>がいるとしてもよ、それはあくまでもあなたのCRT画面である<物語>によっては語ることの出来ない外にしかいないってことよ。
 とすれば、そんな語ることの出来ない<正体不明の誰か>は本物でありえないし、ましてCRT画面の中にこの魅力的な女体を発見することは出来ないってわけ。結局は、あなたの言う事実に即した本物としての<あたし>なんかはどこにもいないのだから、あなたがどちらのあたしを現実的な事件として取り上げるかということでしかないのよ。いいこと? あなたのやっている仕事って、そういう構造になっているのよ。
 つまりねえ、これだけははっきりと心得ておいてちょうだい、あなたの<文字>はその構造的限界において、美容院へ行こうとしているあたしを捕らえることが出来ないってこと。だからこそ、たとえあなたが突然に<小説家的な野望>に目覚めこの<物語>はすべて自分の言葉で語りえていると確信することがあったとしても、とりあえずそれはあなたの勝手な思い込みにすぎないのだから、あなたの<言葉の意志>をあたしが担わなければならない理由にはならないってことね。
 端的にいえば、あたしはあなたの言いなりになるつもりは全くないってことね。

 ——ぼ、僕は、なにも僕の言葉で君を手込めにしようなんて考えていないよ。

 あらあら、そうかしら? その目付き、しかも脂ぎった目、それは明らかに性的犯罪者固有のものじゃないのかしら? ほら、よく鏡を見てごらんなさいよ…
 とにかく、ここであなたが言葉によってあたしを強姦しようと、どんなに醜態を描いてあたしの自尊心を辱めようとも、それはあなたの勝手だけど、いま美容院へ行こうとしている正体不明のあたしは、いまさらあなたに強姦されようとは思わないだろうし、まして<あたし>というプライドを捨ててまで、あなたの<文字>に対して尽くさなければならない理由もないってこと。そしてそのときには、あなたの<文字>でありつつ<物語的人格>であるあたしでさえも、そういう変態性の<作家>といっしょに仕事を続けるという約束などには乗らないだろうってことね。
 もう一度だけはっきりと言っておくわよ。あなたがどんなに上手に自分の言葉を操り<物語的人格>を捏造しえたとしても、それは<文字>であるあたしと<作家>であるあなたとのとりあえずの役柄関係でしかないってことね。しかも、この<文字>という身分においてさえ<物語的人格>としてのあたしは、<作家>であるあなたに対等に自分の意見を主張しうる人格であるはずなのよ。

 ——なんだなんだ!! それじゃ、<文字>の外にいる君と<物語>の中にいる君が、ふたりツルんでこの僕に脅しを掛けているようなもんじゃないか。

 バァカ!! それはあなたの思い過ごしよ。いや、むしろ思い込みと言ったほうがいいかしら…。それとも、ひょっとすると、あなたのそういう言い方には、何かの企みが隠されているってことなの?
 もしもよ、あなたに何等かの下心があるんなら、あえてあたしたちは戦略的にグルだと言い放すことも出来るのよ。それとも、より挑発的に言えば、あなたがここで<物語>を語り始めたときから、すでに<物語>の外にいたはずのあたしなんていうのは、端っから存在していなかったってことね。
 とにかく、あなたがマジでそんなことを言ってるんだとしたら、あなたは自分の言葉の意味という幻想に弄ばれているってわけね、お分かり?

 ——ええ!? 君こそ、何を寝ぼけてんの? このワープロのCRT画面という<物語>の中にいる君こそが幻想さ。当たり前じゃないか!! そして、ここでこうして君のマンションにいる居候とその世帯主こそが、現実的な存在者ってわけさ。だからこそ、僕は、君の言葉を書き留める<表現者>でありえているというわけじゃないか、そうだろう…

 あら、そうかしら?
 あっ、いけない。遅れちゃった!! とにかく、あなたの言っていることは到底納得できないけれど、きょうはここまで!!

 ——今さらそれはないよ。君は、すでにここで<物語的人格>であることを認めているにもかかわらず、この<物語>を見捨ててトンズラしようって気かい? 僕が、この奇跡的に鈍才でありつづける僕が、いままさに僕たちの<愛のドキュメンタリー>を始めようとしているそのときに、君は、この<物語>を、いや、この情夫たる僕を見捨てて美容院なんかへ行ってしまおうってわけかい?
 僕は、<作者>としての自覚に基づき断じて宣言する!! われわれの<愛の奇跡>のために、君はあくまでも<物語的人格>でなければならない!!

 だから…、さっきから、あたしは自らの権利において、この<物語的人格>であることを全うするって言ってるじゃないの!? ただし、あなたの<文字>の外にいるあたしを、あなたが拘束する権利はないってこと。

 ——ええっ? それじゃ、僕にどうしろっていうの?
 僕には、どうしても君の生の声が必要なんだ。そう、それは僕の愛が君のその美しき身体を不可欠のものにしていることと同じことなんだ。とにかく、ほら、ねっ、ねえ…、こうしてみればいっぺんに納得できるはずなんだよ…

 アッ、アア…

 ——ね、でしょう?

 ん、もう…、こんなときにちょっかい出すんじゃないの!! このドスケベがっ、よしなさいよ!! しょうがないんだから、じゃもう一言、これだけは言っといてあげるわ。いいこと? もしあなたが、美容院へ行こうとしているあたしがいなければ<物語>を書き進められないと考えているのなら、それは、あなたが<物語>に対するルール違反を犯しているからにすぎない、とね。
 もしもよ、この意味が分からないんだったら、もうこれでチョン、ねっ!? じゃ…

 ——ああっ、そんな!!

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 ——ちょっとちょっと、ちょっと待ってよ!!
 そんな謎めいた言葉を残して消えてしまうなんて…、だいたいねえ、これは推理小説ってわけじゃないんだよっ?

 …ったくもう、しょうがないんだから。じゃ、もう一言だけよ。それにしても、あたしって、こういう過剰な優しさが、いつも自分の幸せの足かせになっているのよねえ…

 ——いいえ、とんでもない!! 決してそんなことはありませんよ。何しろヒトの幸せを願う者にこそ、幸せは与えられるっていうわけですからね。つまりこれこそが幸福の原理ってわけさ、ハハハ。
 とにかく、その一言こそを早くお聞かせ願いたいのですヨ。もはや僕は、君の言葉なくしては生きられないと告白してるんだからさ…。

 あなたって、なんて脆弱な表現者なの、もう、若さが言い訳にならない歳なんでしょ?

 ——ハハハ。まあ、こればかりは歳には関係ないんだね。とにかく昔から女のために生かされるイロ男というものは、おおむねそうした運命なのですよ。

 もう、アホ!! あなたねえ、あなたは<ドキュメンタリー作家>などと名乗ることによって、やはり<自分の物語>をそのワープロに打ち込んでいる<小説家気取り>になってるじゃないの。あなたが生身の存在として、ほとんど無意識のうちにワープロの外にいると確信しているその気取りとか思い上がりというものは、あなた自身が主張する口述筆記というルールと矛盾することになるのよ。
 いいこと、口述筆記というものは、それ自体がすでに<物語的手法>なんだから、それを可能にする<情況>あるいは<物語>がすでに措定されているってことなのよ。だから、すでに<口述筆記物語的人格>であるあなたが、正直者の口述筆記者として崇高なる無私の精神で<物語の記録者>に徹するつもりならば、あなたは今さら<小説家>として、<口述筆記物語>を超越しているかのように装い<自分の物語>を創作するなんていう不節操なことをしてはならないってことなの。
 言い換えるとねえ、たとえあなたが<ドキュメンタリー作家>を名乗ろうと<小説家気取り>であろうと、あなたはそのCRT画面の中にしか存在していないってこと。

 ——な、何を言ってるの!? 僕は今さら<小説家>を気取るつもりなんかないけれど、僕はあくまでも<口述筆記者>としてCRT画面の外に存在しているじゃないか?
 それはねえ、確かに僕の提唱する<口述筆記>は君の言葉を不可欠のものにはしているよ、しかも自分の言葉さえも口述筆記してはいるけれど、それはこの<物語>が僕たちの<ドキュメンタリー>だからじゃないか。とにかく、ここで語られている<言葉>をワープロに打ち込んでいるのはこの僕なんだから、断じて僕はCRT画面の中に捕らえられてしまうことはないのだ。

 それがルール違反だっていってるのよ。もしもよ、あなたがこのルール違反に気付かないとするならば、それはあなたの方法論が初めから失敗していたってことなのよ。つまり、あなたが<正直者の口述筆記者>であるかぎりは、たとえば、あなたは全自動のワープロにすぎないのだから、その空白のCRT画面をも支配している<無言のルール>を超越したり、そこから脱出することはできないってことなの。

 ——またまた、自分の性格を棚に上げて、そうやって正直者にばかり言い掛かりをつけるんだから…。僕はね、正に君のいう全自動ワープロのつもりではいるんだよ、だけどね、残念ながら科学技術のいたらなさを補う<善意の表現者>でなければならないというだけのことだから、そのルールとかいうものを超えようなんて、そんな不遜なことは考えてもいませんよ。

 だめだめ。あなたが、どんな言葉で言い繕うとも、すでにあなたはルール違反を犯しているのだ!!

 ——それこそ言い掛かりだよ。それともひょっとすると、君がルールなんかを問題にする以前に、すでに僕はそれを超えちゃっているんじゃないの? つまり奇跡とも言いうる超人的な能力によってとか、あるいは持って生まれた徳としてさ…。

 残念でした。そもそも、あたしを美容院にさえ行かせることが出来ないという閉鎖性が、あなたのルール違反を証明しているってわけよ。それゆえにあなたの<愛のドキュメンタリー>は、まともに始まる以前にすでに挫折しているってことね。ところがあなたは、<善意の口述筆記者>という勝手な思い込みによって自ら語るに落ちるという罠に陥っているにもかかわらず、生来の自愛的体質ゆえにそれに気付いていないのよ。
 とにかく、あたしは暇じゃないの!! きょうは、そういうとぼけたヒトに付き合ってられないのよ、じゃねっ!!

 ——ああっ、お願い!! 僕を捨てないで!! ねっ、ねっ? チュウしてあげるから…

 バァカ、邪魔しないでよ。
 ハッハハ、なんてかっこしてんのよ!? それ、さかりのついたタコ?

 ——ええ、なんとでも言ってちょうだい。なんと言われようと、君は美容院に行くまでもなく、すでに美しい!! おおっ、今さら飾り立てて悲しいブスどもの嫉妬と絶望をあおりたてて、いったい何になると言うのか!? むしろ君は、その在りのままの姿で、不幸なブスどもの身近な希望となるべきではないのか!! 何よりも君は、そのままが美しい!!

 その手には乗らないの。とにかく、あたしの邪魔をすることばかり考えてないで、あなたの思い上がりについて反省してみたら…。そして口述筆記なんていう危険な手段は取り下げて、正々堂々と<小説>として書き直せばいいのよ。そんな姑息な方法にばかり頼っているようじゃ、いつまでたっても一人前の物書きになんかなれないわよ。

 ——ハハハ、ご心配には及びません。まあ、ほとんど遊び半分だからいいんですよ。でもね、たまたまきょうは<ドキュメンタリー作家>として昂揚しているというわけだからさ、何かにつけて才能の乏しい僕としてはね、この奇跡的な瞬間への遭遇を大切にしたいってわけさ。だいたい君だって、僕の才能についちゃ何んの期待もしていないんでしょ?

 まあね。単に若くない情夫ってところね。

 ——だったら、才能では語ることの出来ない僕の貴重な体験こそを尊重して頂きたい!!
 それが、アホな鈍才に対するせめてもの愛情ってもんじゃないの? ねえ、僕は昼夜を問わず君に絶大なる愛情を捧げているじゃないか…、しかもそれは、君を飽きさせることのないハイテクニックに託しての孤軍奮闘ですよ!? これこそは若さで解決できるもんじゃないんだから、やはり君は僕のこの善意と努力にこそ報いるべきなんですよ、でしょ?
 ああっ!! 逃げる気か!? ち、ちくしょう、敵がその気なら、ハイテクニックにて目にものを見せてくれるわ!!

 アッ、ア、アア…。だっ、だめよ。こ、こんなところで…。もう…
いくら気持ちいいことしたって、知らないよ。アアッ、もうドスケベが!! 変態!!

 ——ど、どうだ!? 次なる仕打ちはこれじゃ、この恥ずかしいほどの刺激を受けてみよ!! ねっ、驚くほど淫らな快感でしょ? ところでどう、逃げたりしないで、僕が犯しているというルール違反のルールについて、もっと優しく教えてくれるつもりになったかい?

 アアッ…、もう、ルール違反を犯していながら、その上あたしまでも犯そうっていうの? 変態は、すぐそういう汚い手を使うんだから…。

 ——冤罪じゃ間尺に合わないからさ、ね。そんなわけでルールって、いったい何んなの?

 物語よ!! <物語の構造>そのもののことよ。

 ——ええっ? それじゃ、ちっとも回答になってないじゃないか…

 どうして? だって、そうでしょう? あなたが<自分の物語>を語ろうとする以前に、すでにCRT画面は<物語>で埋め尽くされているってこと以外に、いったいどんなルールがあると思ってたの? 
 さっきから、何遍も言ってることじゃないの。だいたい自分のしたいことや言いたいことばかりに夢中になって、ヒトの話なんかほとんど聞いてないんだもん。

 ——何かい? するってえと、この空白のCRT画面には、すでに誰かが下書きをしてくれているってことかい?

 まったく、あなたってヒトは、その程度のお粗末な脳みそでよくも文章を書こうなんて気になれるわね。ねえっ、もう、離れなさいよ!! 暑いんだから、いつまでもベタベタくっついてないでよ。あたしは、あなたみたいなお粗末な才能に貴重な青春を弄ばれている暇はないのだ!!

 ——アアッ、そんな言い方はないよ。それじゃ何も知らない読者が誤解してしまうじゃないか。

 何よ?

 ——そうだろう!? だって君は立派すぎるほどのソープ嬢だよ。もう単なる堅気のあばずれなんかじゃないんだよ。つまりさ、僕のお粗末な才能のために捧げてくれたものは、もはや青春なんていう感傷や無いものねだりの感情なんかじゃなくて、もっぱら売春という有り余るほどの金勘定のおこぼれにすぎないってことさ、ハハハ。

 こっ、このバカ男が!!  あんたみたいなアホに、そんな偉そうなことが言えるっていうの!? あんたなんか、ただのタカリじゃないか!! 

 ——またまた!! そうやって新たな嘘で嘘を取り繕うとするんだから…
 所詮君にとっての僕なんてのは、たかるほどの物も与えられないペット的情夫でしかないじゃないか。つまり君は、ヒモちゃんを弄ぶために売春道楽にふけってるってわけさ。言い換えるならば、金勘定に長けた根っからの淫乱だってこと、図星でしょ?

 うるさい、このタカリめが!! あたしが好きで勝手にやってることじゃないさ、あんたなんかにそんなこと言われる筋合いはないのよ。だいたいねえ、ただの淫乱だけでやってける商売じゃないんだよ!!

 ——ははん、正に好きこそものの上手なれってわけか。それにしてもさすがの君も、やっぱりその辺が一番触れられたくない部分ってわけだ、ハハハ。察するところそのブラックボックスは、金という欲望への恨み辛みに彩られた復讐心でいっばいなんだ、だろう?

 うるさいわね、なんだっていいでしょう。もう、性格が悪いんだから…。まだグズグズ言うと、今度はパンチが飛ぶわよ!! 

 ——なんだなんだ、結局、君が青春と売春を捧げたのは、すべて金のためにすぎないってわけだ、おっ、おおっ、痛て!! ああ、本気で殴ってんの!! 痛いじゃないか!?

 ふん、約束守っただけよ。

 ——もう、女のくせにバカ力なんだから…。ま、所詮、暴力で取り繕えるものなどそんなところさ、ハハハ。おおっと、危ない危ない…

 笑うな!! タカリのあなたに、断じてあたしの青春とあたしのお金を笑う権利なんか無いのだ!!

 ——タカリ、タカリって、人聞きのわるいことを…。僕は君のあの莫大な預金と財産を掠め取ったわけじゃないんだよ。とにかく、強烈なパンチのみならず事実の歪曲によって、僕の表現意欲に過大な負担をかけようなんていう卑劣な手段は認められないのだ。

 あんたなんかに認めてもらわなくても結構なの。とにかく、あなたみたいな性格のわるい男には、しばしば鉄拳を振るわなければならないってこと。この愛情溢れる制裁を我慢できないようなら、やっぱし<物語>は、これにてチョン、ね?

 ——ヒトを殴ったりコケにしておきながら、今さらそれはないでしょう!? さんざん苦労してここまで記録してきたんだからさあ…。だいたいね、君の言い分によればさ、僕が君に虐待されつづけるペット的情夫であるためには、この<物語>という関係こそを不可欠のものとしているんじゃないの? だったら、君としてもこの<物語>を止めてしまったら、もうストレスを解消する手だてを失ってしまうことになるんだぜ。

 ああ結構よ。あんたがベタベタ纏わりつかなくなれば清々するわよ。

 ——もう、強がりなんかいっちゃって…。そもそも僕は、君にとって維持費のかからないペットであるのみならず、君のために献身的に仕える情夫だってことは、君のバランスシートでは了解済みのことじゃないか?

 さあ、どうかしら? それはあなたの自惚れかもしれないわよ。だいいちあなたがペット的情夫であることと、あたしがあなたの<物語的人格>であることとは、同じ天秤にかけられる関係じゃないのよ。つまり、あたしはあなたの<物語>なんかが語れないところでペット的情夫を仕付けていくつもりだから、あなたの<物語>なんかはいつ中止になっても構わないってわけよ。

 ——さあ、どうかね? 君の自惚れこそは、ペット的待遇で僕に掃除、洗濯、炊事にセックスと、まるで奴隷的な献身を強いるその姿を、僕の言葉で語らせずにはいられないはずなのだ。

 何よ? 黙って聞いてれば、奴隷的献身ですって? どの面さげて、そういう戯けたことが言えるの? この嘘つき、大嘘つき!!

 ——な、なんと、この正直者の顔を見忘れたと言われるか? ハハハ

 ああ…、あたしって、子供のころからクジ運が悪かったからね、いつもスカ…
 ちくしょう、このスカ男め!! これでも食らえっ…

 ——ハハハ、残念でした。しかし、ごもっともごもっとも。ただし、このスカはスカでも極上のスカ。だいたいね、インテリ崩れなんていうのは化粧崩れよりもたちが悪いんだからさ、そんな偏屈な姐御のお相手が勤まるってんだからね…

 まったくねえ、なんであんたなんか加え込んじゃったのかしらね…

 ——それは愚問!! 回答はすでに語り尽くされているのです。つまり、僕の精神と身体が共に正直者だからですよ。

 バァーカ、この大嘘つきが!! そういうつまらない戯言を繰り返していると、エンマさんが来て変態のペニスを抜いちゃうよ。

 ——おおっと、どうせなら君に抜かれてみたいねえ。うまくすりゃ、中身だけが抜けるってわけだね。そんじゃまあ、とにかくどういうふうに抜けるものか、抜いたり抜かれたりしてみようか?

 だけど、あなたって根っからのスケベなのねえ?

 ——そりゃそうさ。正直者のままで淫乱の君と生活できるくらいだからね。

 ああっ、いけないいけない。またしても貴重な青春を浪費してしまった。どうしてくれるのよ!? こんな時間になっちゃったじゃないの、あんたのせいよ!!

 ——だからさ、もう美容院なんか諦めて、しっかりとスケベして遊ぼうよ、ねえ?

 もう、あたしは本格的に怒った!! こうなったら、あたしも意地よっ。きょうは徹底的に苛めてやる!!

 ——おおっ、憧れのムチなんかでしてくれるの?

 アホ、無知はあんた!! これから<物語>のルールとは何か、徹底的に叩き込んでやる。

 ——そっ、そんな怖い顔なんかしてさ、しっ、しわが増えちゃうよ。アアッ、あのさ、いくらペット待遇だからって、て、手荒く扱ったらかわいそうですよ!! ぼ、僕だって生き物なんですよ、縫いぐるみなんかじゃないんだからねっ。
 ああ…、そうそう、そういえばね、僕の友人に獣医がいるんだけどね、彼がよくペットの虐待について話してくれたことがあるんですよ。ほら、よ、よく見掛けるでしょ、雄犬なんかを飼ってる近所の後家さんとか売れないホステスババたちを、ねっ。あのオバサンたちが連れてくる衰弱しきった犬は、どれもペニスの毛が擦り切れているありさまでさ、もう四つ足でさえ満足に立てないほどにシゴかれちゃっているんだってさ、怖いですねえ…、それでね…

 つべこべと、うるさいの!!
 あなたねえ、もう一度マジで尋ねるけれどね、この未だ何も書き込まれていないCRT画面の空白を、すでに埋め尽くしている<物語>の正体が、本当に分からないっていうの?

 ——ハイッ、先生!!

 いいこと? あたしがいま言おうとしている<物語>ていうのは、あなたがその澱んだ瞳でどっぷりと脳みそまで漬かっている常識・文化・制度ってことなのよ。ホラッ、顔を背けるんじゃないの、こっち向きなさいよ。

 ——おおっと、君は美しい!! 正に愚か者たちに君臨する輝ける知性だ!! チュッ…

 な、何すんのよ、余計なことすんじゃないの!! こんちくしょう!!

 ——い、痛てっ、ヘヘヘ。

 しっかり聞きなさいよ。とにかくあなたは<口述筆記者>であろうと<小説家>であろうと、この常識・文化・制度によってしか<表現者>たりえないのよ。まして、このルールを無視しては、もはやあなたは何者でもなくなってしまう。そうなってしまったら、あなたは変態やドスケベでいることさえ出来なくなってしまうのよ。

 ——そうか!! それで僕には、変態であることの自覚がないってわけか、ハハハ。アアッ、失礼…。は、反省してますよ。

 いい? ここであなたが口述筆記という方法で語ろうとしている<愛のドキュメンタリー>が、無言のうちに担っているルールっていうのは、あたしが<物語的人格>だっていうこと、分かる?

 ——ううん、全然分からない。だってさ、君はさっきから、そればっかし繰り返してんじゃないか。なんで、君が<物語的人格>であることが、そんなに重要なのさ?
 その程度のヒントじゃ、僕の暗黒の理性に衝撃の閃光を走らせることなんか出来やしないぜ。ま、その点については、この僕が保証しますよ、ハハハ。

 ああ、これだもんねえ…。ねえ? とにかく、記述の方法は何であれ、あなたがそのCRT画面の中にあたしの<言葉>を<文字>として打ち込んでいくことが出来るということは、あたしという存在を<物語的人格>として認めている限りにおいてのみなのよ。しかもここでは、幸か不幸かあなたの<口述筆記>という方法ゆえに、あたしとあなたの<言葉>は<会話>の関係として記述され、その<会話の関係>によってこそあたしたちの<物語的人格性>が明確に保証されているってわけなのよ。

 ——だから僕は、さっきからこの<会話>の重要性を認めるがゆえにですよ、僕を捨てないでと懇願していたんじゃないか…。それなのに、君は、そんな事情を十分承知の上で僕の切ない思いを踏みにじってきたってわけだ、この鬼ババめがっ!!

 残念でした。あたしの美貌では、とうてい鬼ババは勤まらないわね。

 ——ゲッ!!

 ねえ、ひょっとするとあなた、<ドキュメンタリー>という言葉で<フィクション>と<ノンフィクション>の関係を整理したつもりになっているんじゃないの? あたしに言わせれば<ドキュメンタリー>だって、所詮は<フィクション>なのよ。
 つまりねえ、いかなる<事件>であれ、それを<作品>という<作り物>として提示するかぎりは<事件報告>にすぎないのだから、どんな<事件>もひとたび<事件報告>として<ドキュメント(記録)>にされてしまえば、とりあえず<ノンフィクション(事件の報告)>と呼ばれる<フィクション(作り物)>が<物語>としてあるにすぎないってわけなのよ。だから、あなたが意図している<愛のドキュメンタリー>だって、それはあなたとあたしとの<愛の物語>でしかないのよ。
 いい? 重要なのはここよ。そしてこの<物語>においては、その外に<原体験>とか<原事件>なんていうものは存在しないってこと。ここではこの<物語>を前提にするかぎりにおいての<常識・文化・制度>によって、かろうじて<事実>とか<現実>とか<真実>が言われるにすぎないってこと。つまり、ここにあるものは<物語>だけ!! 
 もう分かったでしょ、あなたはこの<愛の物語>の外に<原体験>としての<愛の生活>を捏造するというルール違反を犯したってわけね。それは結局、あなたとあたしがこの<物語>の中で対等に<会話>しうる約束としての<常識・文化・制度>を踏みにじったということになるのよ。
 もう一度言うわよ、あたしとあなたがどのような<会話>を交わそうとも、その意味内容にかかわらずあたしたちの関係は<物語>という存在構造によってのみ繋がれているってこと。

 ——だ、だけどねえ、それは、あくまでも<文字>とか<映像>とか<演技>というようなものによって表現されている<物語>、つまりは<書物>とか<映画>とか<演劇>なんかの<表現活動>に対してのみ言えることじゃないのかね? 僕としちゃあ常識とか文化とか制度をそのまま<物語>として語ろうとするのは、ちょっと強引にすぎると思うけどね?
 だいたいさ、僕と君との間には、明らかに<文字>のみではない生身の関係があるじゃないか!! つまり、日常的に男根と女陰が欲望における愛の領域を奪い合う肉体関係という厄介なやつが、ね!? 
 だから、この<物語>においても、まず先にあるのは原体験としての<愛の生活>ってわけさ。これなくして<ドキュメンタリー>を語ることなんか出来ないのだ。

 まったく、うんざりするほどのカチカチ頭なんだから…

 ——そりゃまあ、ドスケベと呼ばれるほどの体質だからねえ、何事においても無意識のうちにカチカチになれるぐらいでなけりゃ、日常的に爆発的な快感を維持しつづけることは困難だってことさ。要するに、そういう体質だってことだね、ハハハ。

 ねえ、ひょっとするとあなたって、日常的な快楽にばかり爆発しすぎるから、物書きのほうがおろそかになるんじゃないの? あんまり下半身ばかり充血させているから頭へ血が回らないのよ。

 ——ちえっ、大きなお世話さ、君だってヒトのことは言えないんじゃないの?

 あら、そうかしら? あたしの場合は立派な金儲けの手段として十二分に評価しうるものになってるわ。ま、悔しかったらポルノ小説でも書いて稼ぐしかないわね。

 ——うるせえうるせえ…、それが出来るくらいなら、何もこんな訳の分からんものを書いたりするもんか。

 でもねえ、この<物語>を訳の分からないものにしているのは、あなたなのよ。もういちどよく反省してみたら…。たとえばよ、仮にあなたの<愛の原体験>があるとするわよ、でもそれをあなたが<文字>にしようとするときに、その<愛の生活>はどういうルールで<文字>という記号に変換されているの? でしょう!? 
 つまり、そのときに<愛の生活>は、まず<言葉>というルールを共有しているってことでしょ、いい? <言葉>こそは、それを共有するヒトビトの<常識・文化・制度>を成立させる基本的な要素であるはずなのよ。あなたの口述筆記による<会話的物語>にしたところで、結局はこの<言葉>を前提にしているからこそ存在しているんじゃないの?

 ——へえ…、そういうことになってるんですか…。何事も聞いてみなけりゃ分からないものですねえ。

 とぼけるんじゃないの。あなたが、そこでキーボードを叩きながら<文字化>している<言葉>って、あたしたちが当たり前のこととして了解している<常識・文化・制度>としての<物語>を無視しては、一言たりとも成り立たないのよ。
 言い換えれば、あなたのいう<原体験>だって、この<言葉>で語られる<常識・文化・制度>の中でしか存在しないんじゃないの? それはヒトがヒトビトの関係によって人間でありうるという存在の根拠が、すでに<言葉>という<物語>を不可欠のものにしていたってことよ。だから、あらゆる人間的営為は自らが無意識のうちに担っているにすぎない<物語>さえも、それを成立させる重要な要素になっているってわけね。
 とにかく、あなたの<愛の原体験>も、それを<事件-報告>として語りうる<物語>が存在しなければ<文字>にすることはできないってこと。
 もはや、CRT画面の中で<文字>にすぎない<物語>には、あなたのいう生身の肉体関係などは存在しようがないんだから、あなたは、ここで<意味>という想像的肉体関係を、あたかも<文字>の外に存在するかのように捏造していたってわけね。しかも不節操なるあなたは、自分勝手な想像力によって偽造した存在者によって、この<物語世界>を閉鎖し支配しようとしているのだ!!
 それこそが、あなたの小賢しい策略なのだ!!

 ——まあまあ、そんなに向きにならないで…。僕も自分の<原体験>が担うはずの<言語世界>を無視したり否定したりするつもりはないのさ。ただし、僕の立場からすれば、<言葉>によって語られることによって初めて<事件>が存在するわけではなく、まず始めに存在している<事件>が様々に語り継がれるにすぎないのだから、すでにある<事件>こそが<事実>であり、様々に語られる<事件報告>こそが<虚構>と言わざるをえない。まして僕は、CRT画面を<文字>で埋め尽くしているのだから、今さらここで<文字>を書くことの約束を無視してまで<絵>を描いたりするつもりもないってことさ。
 したがって、僕は自らの責任において、君の言うルールを十分に尊重していると断言できるってわけさ。どうかね? つまり僕に言わせれば、君の論法こそが<事実>の誤認を犯しているのだ!!

 何よ!? あなたこそが<物語>における<現実>と<虚構>の錯認をしてるじゃないの。いいこと? あなたのいう口述筆記による<ドキュメンタリー>においては、<物語>を語っているあなたが<現実>で<文字>を書いているあなたが<虚構>なのか、それともその逆なのかという、基本的な問題が誤認されているってことなのよ。

 ——おお、正にその問題だよ、君にはそれが正しく理解されていないってわけだな。つまり<ドキュメンタリー>を<文字>として<書いている>僕こそが<現実>ってわけさ。だから、<物語>の中で何事かを<語っている>僕とは、所詮<文字>の担う<意味>でしかないといえる。これが表現者としての僕の立場さ。
 いいかい、言い換えるならば僕こそが<物語>のルールなのさ。
 つまりね、あらゆる<物語>の<作者>が、自ら<書くヒトである身体性>と<語っていることの精神性>を<物語的意志>の実現である<作品>によって統一するように、この<ドキュメンタリー>では、問答無用に口述筆記しつづけるという<記述者の無私の情熱>が、あたかも<物語的意志>の実現として<事件>という現実と<事件報告>という虚構を統一しているというわけさ。
 だからこそ、口述筆記によって語る<ドキュメンタリー>の表現者とは、僕のような<正直者>でなければ勤まらないというわけさ、ね?

 あああ…、やっぱり<物語作家>という自己神格化への迷路へ入りこんじゃうのね。こうなると、ここであたしが言ってあげられることって、<文字>を書いているあなたが虚構で、<物語>を語っているあなたが現実だってこと、それだけね。
 つまりねえ、この<ドキュメンタリー>がすでにあなたの<小説>でない以上、あなたがいくら自分がルールだと主張しても、自ら仕掛けた口述筆記という罠によってルールの産物へと語るに落ちてしまうのよ。それは自分の股間から母親を産み落とすという奇々怪々な矛盾と同じことね。
 そこで、ひとつ冷静に、この<物語>の存在理由について考え直してみれば、この<物語>のルールを明確に体現しているのが、実はあたしだってことが分かるはずなのよ。もっと戦略的に刺激的に言い換えるならば、表現者であるはずのあなたは、あたしの<物語的意志>に基づいてしかこの<物語>を書き進めることができない。つまり、今、さまよえる表現者であるあなたにとっては、あたしこそがこの<物語>の仕掛人だってわけね。

 ——何だ、何だ!? 僕を見殺しにしないことと引き換えに、今度は表現者の立場を掠め取ろうって魂胆かい? チェッ、ヒトの弱みに付け込んで甘い汁を吸おうなんて、立派な根性してるよ、まったく…
 ま、君が何んと言おうと、ワープロのキーボードを叩いているのはこの僕なんだから、それがたとえ<ドキュメンタリー>だからっていったって、表現者の立場を今さら君に譲るわけにはいかないのだ。

 違うの!! もういい!! あたし、やっぱり美容院だけは行っておこうっと…。まったく、アホには付き合ってられないわよ。

 ——きっ、きったねえよ!! そういうヒトの足元を見るようなやりかたは…
ははあん、そうか、君は僕の苦しみをみて無上の快楽を味わうサディストってわけか!? この白ブタの変態めが!! おぬしは肉欲に満たされてもなを肉欲の空想に呪われつづける淫乱じゃ!! この神聖なるCRT画面の威光を汚すものは地獄へと落ちろ!!

 バァーカ!! 
 ああ…、それにしても、もうこんな時間か…、やっぱし無理かな…。

 ——ハハハ、無理、無理。
 しかし君は悪運が強い!! 君は僕とのささやかなる会話を続けたおかげで、呪われた淫乱のサディストとして地獄へと落とされずにすんだってわけさ、ねっ。
 だから、奇しくも単なる淫乱として与えられた平安は、僕という命の恩人に付き合うことによってこそ贖われなければならないといえる。

 まったくもう…。だけどねえ、あなたって、どうしてあたしの言っていることをマジで聞こうとしないの?

 ——いえいえ、めっそうもございません。僕のような善意の正直者に、なんでそのようなことが出来ますか? もしも君がそのように感じられたとするならば、それはただわたくしめがアホであるからに他なりません、ハハハ。
 ま、そういう訳でありますから、この点を十分にご配慮いただきまして、以後末長いお付き合いをお願い申し上げる次第であります。

 じゃ、あなたは、どうしてもこのまま破局に向かって<物語>を進めて行くってわけね。

 ——な、何も、破局ってことはないでしょう? まるで僕の善意なんか認めようとしないんだから…。要するに、かわいくないんですよ。でも、まあ、とにかくは君がここにいてくれるなら、何はともあれ僕は全力を傾けてこの<物語>を語りつづける覚悟ですよ。

 ふうん、後で泣いたって、あたしは知らないわよ。

 ——誰が、泣くものか。そもそもイロ男というものは、いつだって泣くに泣けない運命なのさ、ハハハ。

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