(4) 宗教の<何>景


1.霊的権力者たちを生き返らせるな!!

 何事につけても生きがたきヒトビトの宗教的な感情や信仰心は、様々な抜苦・願望成就のためにそれに見合った<霊的役柄>を想定し、そこに霊的暴力者あるいは霊的権力者としての<神>を住まわせることになる。ここでこの<神>が神として成立するためには、ヒトビトから与えられた<霊的役柄>とヒトビトが救済されたいと願う霊的情熱としての自愛的欲望を不可欠のものとするのだ。
 そして始めは取るに足らない霊的暴力者にすぎなかった<神>も、ヒトビトの情熱にほだされて次第に権威づけられ人間界を超越する霊的権力者にまで成り上がってしまえば、次第にあらゆるヒトビトの希望や期待を担うようになり<神>自らの出生の動機である<霊的役柄>を曖昧にさせて、今度は<神>として救済されたいヒトビトを選ぶ権能者としての霊的意志を持つようになる。つまり、始めに<神>を出生させたヒトビトにとって霊的救済とは自分の宗教的情熱に見合った<必然的>なものであったはずであるが、<神>が神としての霊的意志を「持つ=持たされる」ことによってヒトビトの救済願望は<偶然>に成就されるものに下落してしまうのだ。
 すると、自らの出生も曖昧になりことごとくが偶然の真っ只中へと放り出されているヒトビトが、この<神>によって救済されたいと望みあるいはこの<神>によって自らの自愛的欲望を正当化したいと望むとすれば、自分の宗教的情熱によって再び<神>を<必然性>の中に手繰り寄せ、自分だけが<神>の恩恵とか祝福という<奇跡的役柄>を担うべくして選ばれた<特権的暴力者>であると自覚させる<霊的閃き>とか<天啓>を演出しなければならないのだ。
 つまり、<偶然>の真っ只中で信仰という<必然>によって<奇跡=偶然>的事件を手繰り寄せることを、<神>の霊的意志という<必然性>から語るならば<奇跡>に遭遇する人の<偶然性>はいたって<必然的>なものになってしまうのだ。それゆえに、「私だけが選ばれるべくして選ばれた」と勝手に思い上がった<特権的暴力者>が、<神の子>とか<霊的権力者の赤子>として神々の祝福に法悦の涙を流すのは宗教者の勝手だが、そもそも<偶然>という現象・事態を反省的に語るならそこではすべてが<必然的結果>にすぎないのだから、自己愛を正当化する欲望によって捏造された<反省的論法>はいくらでも<奇跡>を起こすことができるのだ。
 この<奇跡>の捏造という演出はヒトビトを宗教的神秘的な興奮へと誘うために、世俗的な権力者は常に自らをこの<奇跡的役柄>へと成り上がらせ、無明無知なる権力信仰のヒトビトを精神的にも肉体的にも支配しつづけてきたのだ。
 思えば天皇教と仏教は、国家権力によって自らの富と権威を正当化せんとする<欲ぼけ的体質>どうしであったというわけで、もともと仏教は天皇教の中枢にある聖徳太子の政治的戦略によって日本に根付いたようなものだし、院政時代には天皇の地位は退いたとは言うものの実権者である上皇が、異質な教義を持つ仏教に帰依しその上出家して法皇と名乗ってさえいたのだから、天皇教の教主にあったものが政治的な都合で仏教徒になることを不自然とは思わぬ天皇教の不節操さもさることながら、それを両手を上げて歓迎し政治的権力を手に入れて自らを権威づけようとする仏教の不節操さにも呆れてしまうけれど、何よりも天皇とは、国家権力者という世俗的存在であることを見定めるならば、この国家権力者にとって宗教とは自らの権力を神聖化するための手段にすぎないというわけで、その方法を選ぶ以前により権威のあるものに支配されたいと願う愚民に見合った統治システムであれば何でも良かったというわけなのだ。
 それは何も宗教に限ったことではなく物理学を<科学信仰>の神学としてみれば、<宇宙原理>も<人間原理>も科学的真理に姿を変えた<神>の意志・動機を語る手段でしかないのだから、物理学的現象以前を語ることのできない物理学は、とりあえずの人間に許された<科学信仰>の領域を見定めてその先に広がる<沈黙の世界>へと<神>を棚上げしてしまうのだ。常に<神>を語りえぬものへと先送りしてしまう物理学者は現代の敬謙なる神学者と言わざるをえないのだ。
 ところが、<神>がヒトビトの霊的役柄を自らの霊的意志として持つ<霊的暴力者>のまま超越的な権能者へと祭り上げられてしまえば、あとは無明無知なるヒトビトの手前勝手な自己愛を正当化しようとする宗教的感情を引き受けるだけでも十全たる<霊的権力者>として自らの霊的欲望を昂揚させることが出来るのだ。いま人類の歴史を顧みるまでもなく、宗教という霊的世界の営みとは常に無明無知なるヒトビトの自愛的欲望の反照としてこそ語られ生かされてきたのだ。その意味においても、すでに国民統合の象徴にすぎない天皇を国民支配のために利用しようとする国家権力者や欲ボケた天皇教徒たちの企みを、われわれは無視することはできないのだ。
 それゆえに正月になると、神社に祭られている神々の正体も知らずに参拝するヒトビトが、近代日本帝国主義の精神的支柱である国家神道の<明治神宮>に押し寄せ、あるいは権力信仰の正月を習俗という言葉に隠蔽して<皇居参賀>をすることが、彼ら個々人の宗教的理解とは拘わりなく、異端排除・民族差別の国粋主義に鎧われた<霊的欲望>を発動させる暴挙であることを指摘しておかなければならない。
 言い換えるならば、国家神道の神々に無明無知のまま「初詣で」するヒトビトとは、あの皇国という幻想の日本帝国を支えた従順なる帝国臣民の末えいと生まれ変わりであり、かつて大東亜戦争の後で無明無知のまま担った自らの戦争責任を「一億総懴悔」というスローガンで言い繕ったように、また再びチャンスがあれば第三次世界大戦という人類滅亡の後に「やはり俺たちは国家権力者に騙されていたのか!!」と言おうと待ち構えている悍しき亡霊たちだというわけなのだ。
 とにかく<神><仏>にかぎらず、一切の<霊的権力者>たちは自分たちに霊的情熱を捧げてくれるもののみにとっての<神聖なる価値>と<善>でしかないのだから、そんな危険なものを国家権力者の手に委ねるわけにはいかないのだ。

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2.釈尊は帰ってこない

 釈尊が苦行によって悟り、その悟りを生きつづけることによって到達しようとしていたものとは何か? そう問い掛けることは、仏教の根本的な存在理由について何等かの回答を用意することになるはずなのだ。
 まず釈尊の出発点である現状認識について見てみると、「思い通りには生きられぬ」ヒトビトは「苦悩なしには生きられない」ということの発見であり、その原因を、<業>という「荒れるにまかせる力」によって生まれかわり死にかわりしているために恒常不変の<私>というものが存在しないにもかかわらず、<私たりうる私>でいつづけようとして<煩悩>という霊的な自愛的欲望によって<私>に執着するからだと見定めることであった。それゆえに釈尊の求めるものは、「荒れるにまかせる力」ゆえの<輪廻転生>から離れて永劫に苦悩しないことであったために、まずは<煩悩>を「解脱」し、釈尊的倫理観における善意によって生きるために「成仏」し、さらに「荒れるにまかせる力」を浄化しつつ無力化しつつ生きた後に、もはや再び生まれかわり死にかわりすることのない永劫の静寂である「涅槃寂静」に入ることであった。
 釈尊的知見によれば、「<思い>通りに生きられずに苦悩する」ことは、そもそも<私たりうる私>のために「想い思い念う」ことによって生ずるというわけであるから、何はともあれ苦悩克服のためには何事かを思わずにはいられない欲望を、<無意識的>な<霊的>な領域にまで遡って解消しなければならないということになる。それは、取りも直さず「釈尊的ライフスタイル」の<パロディ>を生きようとするわれわれの目指すものでもあるのだ。
 つまり釈尊の言う「涅槃寂静」とは、様々に思い悩ませる霊的な自愛的欲望を解消し輪廻する世界には帰らないというわけであるから、苦悩を抱えたまま死んだヒトビトが<私>的欲望で迷う霊界において、釈尊に巡り会いその善意の霊的意志によって救済されるということは有り得ないことなのだ。言い換えるならば、釈尊は当の昔に霊的世界からも消滅しているはずだから、霊的な救済力において現世利益や追善供養を語るときに「釈尊の霊力」を引用することが出来ないというわけで、この世における「釈尊の再来」などはいかようにも起こりえないということなのだ。
 それゆえに、もしも釈尊の霊的具現化によって何等かの救済が実現すると言うならば、そのことによって「釈尊の涅槃」を否定することになり仏教そのものの存在理由を喪失することになる。それでもなお釈尊の霊的救済力を言うために「霊界を超えた神的な霊性」などを捏造したとしても、その論法では超えて到達したところも霊界にすぎないために、結局は「ありきたりの霊性」で「釈尊の涅槃」を語ることに変わりがないと言わざるをえないのだ。それは、自動車のテレビ・コマーシャルが、「ついに、セダンを超えたセダンの誕生!!」と言っているから、さぞかしダンプカーのごとき無頼漢にでもなったのか、あるいは小型耕運機のごとき働き者にでもなったのかと思っていたら、<ありきたりの乗用者>でしかないという事態と同じことだから、「似非超越論」による<手前みそ><権威の偽造><自己正当化の言い繕い>にすぎないのだ。
 そこで霊的仏教における救済力の発現についてわれわれが言いうることは、釈尊的知見を宗教化することに貢献した聖者たちが、生きて苦しみ死んでもなお苦しみつづけるヒトビトのために、あえて「涅槃寂静」に入らずに菩薩といいうる霊的な仏として善意の霊力者に踏み止どまっているからにすぎないというわけで、それは密教のマンダラ世界のように仏教の霊的世界観で釈尊的知見を語ることが可能であるという意味において、釈尊的知見の霊的救済力の発現が可能であるというだけのことなのだ。
 したがって「釈尊の知見」そのものには、いまわれわれの苦悩を救済してくれるという保証を得ることは出来ないかもしれないが、しかしわれわれの苦悩を救済へと導いてくれる確実な光明を与えてはくれるのだ。言い換えるならば、「釈尊の知見」は仏教の解説書でも読めば容易に理解することは出来るかもしれないが、しかしそれによって救済されるかどうかは釈尊的知見を自らの指針として生きられるかどうかにかかっているというわけなのだ。
 それゆえに、「釈尊の知見」を仏教的霊魂観とは掛け離れたところでパロディとして生きることが可能になるわけであるが、しかしわれわれの言う<何>論的ライフスタイルが「荒れるにまかせる力」の解消という意味においてのみ「釈尊の涅槃」を目指すならば、霊的仏の救済力を発現させられるという保証はないということも見定めておかなければならないのだ。
 そこで、たとえ<何>行者と気張ってみても所詮は釈尊が言われるように「思い通りには生きられぬ」われわれなのだから、より快適に<何>論的涅槃に到達するためには、すでに歴史という「常識・文化・制度」によって醸成された霊的な「体制的=自愛的」欲望によって生まれ生きつづけているヒトビトの世界を、とりあえずわれわれが<何>化すべき仏教的霊魂観の台座と見定めて、そこで「想い思い念う」煩悩を多少なりとも「思い通りに<想わず思わず念わないで>」済ませられるようになるために、<霊的仏>を供養してその浄化力を授かりながら、同時に仏教的霊魂観そのものを<何>化していくことこそが賢明な策と思われる。
 それにしてもそんな都合のいいことが可能なのかと思われるかもしれないが、そもそも<何>論とは、宗教こそが人類滅亡の元凶であると知りつつも宗教こそが人類滅亡を回避させる唯一の手段であることも理解するというわけで、語ることによって語るに落ちる自己矛盾の真っ只中に居座ることこそを身上としているのであるから、<何>行者として生きつづけるかぎりは、自らの霊的な自愛的欲望を無力化するために仏教的霊魂観を不可欠のものとしても、<何>的涅槃へと突き抜けるためには一切の霊的欲望を解消しなければならないのだから、ごく日常的な生活を<霊的仏>の浄化力などで武装することなく、仏教的霊魂観そのものをも解消しつづけなければならないのだ。
 それは、いかなる<否定的実践>も単に何事かを<否定>するのみでは、否定されたものを踏み台にして自愛的欲望を生き延びさせることにしかならないというわけで、たとえ自分の過去を<否定>したと宣言してもそれで一切の過去が消滅したことにはならないのだから、ヒトビトの無意識の欲望としてさえ存在しつづける霊的世界の拘束を解消しようとするならば、<私たりえぬ私>が担う一切の霊的欲望をも無力化していかなければならないのだ。それゆえに、<何>行者は仏教的霊魂観によってことごとくの<私>的欲望を積極的に<何>化しつつ、もはや仏教的霊魂観によっては消極化された<私>的欲望しか生きないことになるのだ。
 つまり、いかなる<救済>も<悟り>も<因縁解脱>も、ヒトビトをそれに向かわせるきっかけとなった出来事や動機があるはずだから、ある日突然に天啓を受けたり目から鱗が落ちるのを自覚するような衝撃的事件に遭遇することがあるにしても、それはその特定の日時から突然変異のごとく別人に変身するわけではなく、あくまでも以前からの柵を背負っているからこその変身でしかないのだ。だから勝手に思い上がって<神>になってしまう暴力者にしたところで、せいぜい神懸かった霊的暴力を獲得するだけのことだから、<神たりえぬ神>として人間的な寿命を生きるしかないのだ。
 とにかく<救済><悟り><解脱>とは、自分が何等かの意味において<苦悩者>であることを自覚することによってしか始まらないのだから、<何>論のみならず一切の「解放=開放」論は「不浄ゆえに浄化されつつ浄化しつつ不浄を引きずって生きる」しかないというわけで、<私たりえぬ私>の揺らめきのなかで「積極的な浄化と消極的な不浄を生きる」ことによってしか実現されないのだ。
 われわれは、仏教的霊魂観の有効性とその限界を見定めることにより、いまさら「釈尊の再来」を期待することもなく快適な「仏教者もどき」として「釈尊の知見」を生きることができるのだ。

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3.坊主殺せば七代祟る

 俗に坊主殺せば七代祟るとか言われるが、坊主を殺してしまった<誰か>に祟る霊的存在とは何んなのか? まず始めに言えることは、殺された坊主が殺した<誰か>に祟るとすれば、その坊主は到底仏の空観とは縁のない不成就性の俗物的欲望者にすぎなかったことになるから、わざわざ殺された俗物的欲望者に坊主という役柄を与えなければならない理由は見いだせないのだ。むしろここでは、<誰か>に殺されなければならないような自愛的暴力者であった坊主こそが、仏教者にあるまじき者として霊的仏たちから祟られるほどの厳しさで糾弾されなければならないのだ。
 それとも、どんなに悪辣で強欲な俗物的坊主であれ、ひとたび仏縁を得て坊主となったものを殺してしまうという行為は、犯しがたき神聖なるものを犯し凌辱するに等しい暴挙なのだというわけで、もはや仏の慈悲によっては、いかようにも救われないと思わずにはいられない罪の意識を抱えて生きなければならぬという、絶望的な恐ろしさに苦悩することの例えにすぎないのであろうか。
 そんな被害妄想もそれによって苦悩する罪人にとっては、確かに祟りといいうるものかもしれないが、それにしてもこの「犯しがたきものを犯してしまった」罪の意識を裏返してみると、ここではヒトビトの一切の苦悩を取り仕切るとさえ思われている<霊的仏>たちが、殉教者という悲惨なる運命を辿った同胞の哀しみを痛み、神仏を恐れぬ無法者に目にものを見せてくれんとばかりに、心貧しき愚か者を寄ってたかって<いじめぬく>ことになるという、かなり勧善懲悪的な宗教観に毒されているというわけなのだ。これでは<霊的仏>は信ずるもののみにとっての善意でしかなく、門外漢にとっては単なる悪意の暴力者でしかないということを回避できなくなってしまうのだ。
では何がこの哀しき無法者に祟るのであろうか?
 ところで、坊主がヒトビトの救済願望を担う希望的人格として、あるいはヒトビトの苦悩を自らの苦悩として引き受ける脱自的自由人として、菩薩行といいうる霊魂観を踏まえた仏教的救済者であれば、坊主がヒトビトにとって坊主たりうる拠所とは、ヒトビトが思い通りには生きられぬ自己愛で苦労する暴力的土壌に他ならない。坊主は<霊的仏>の霊的救済力を担ってこそ生きられるのであるから、ヒトビトの苦悩こそが自らの生命力の源であり「苦悩する生命力=荒れるにまかせる力」に感応してこそ<救済者>としての善意を実践しうるのだ。それゆえに、ここで悪意に満ちた暴力的苦悩を救済しうるものは、そんな自己愛を撃ち破る<救済者>としての<善意の暴力>でなければならないというわけなのだ。
 そこで<誰か>が真面目な仏教的救済者である坊主を殺したとすれば、その犯人が抹殺し負化したものは坊主の善意というわけであるから、この坊主に託していた<救済の希望>を奪われたりあるいは善意という反省的な歯止めを失ったことになるヒトビトの悪意の暴力性は、殺生観にまで昂揚した暴力者に感応して悪意の発現を我慢できなくなってしまうのだ。
 つまり、<誰か>が救済者たる坊主を殺すという暴力行為の担う意味は、救済者としての善意が救い上げ解消しつづけていたヒトビトの悪意の欲求でなければならず、犯人は罪の意識におののきながらいまだ懴悔しえぬ悪意を抱えたままで、さらにヒトビトの悪意の欲求を背負い込まなければならないのだ。しかも仏の救済から見放されたままでまして自分を救う反省力もない犯人は、自分が奪ったヒトビトの善意にこそ見合った悪意の希望的人格として、ヒトビトの苦悩こそを生き続けることになる。
 それゆえに、救済者たる坊主がたとえば自分の親類縁者七代にわたる救済力を持っていたならば、坊主を殺したものは何はともあれ自らの親類縁者七代にわたる<不成就性の救済願望>を背負うことによって贖わなければならないといえる。
 では坊主殺しの罪人はいかようにも救われないのであろうか?
 ところがわれわれは、<坊主殺し>が救われない理由をすでに語っているわけであるから、それが克服されれば当然救われてしかるべきなのだ。つまり、自らの悪意に満ちた自愛的欲望の傲慢さを仏教的知に<懴悔>し、そこで悟りえた反省的な善意を生きることができれば、七代までも祟られるほどの暴力性に見合った力で救済されるはずなのだ。その意味において、祟られるほどの暴力者こそヒトビトの苦悩までも救済しうるという強力な潜在能力を持つ<期待される救済者>というわけなのだ。
 しかし、自らの<自己愛>が<欲望>が悪意であることあるいは傲慢であることを、身に染みて納得できないからこそ<懴悔>が出来ないのであり、しかも仏教的知はその懴悔によってしか体得できないというわけだから、結局は<坊主殺し>といえども罪の意識で被害妄想に取り付かれるほどの無意識的な反省者として「どうすれば良いか」が分かっていながら、それが「思い通りに出来ない」という自己愛に自ら身を沈めて這い上がろうとはしないのだ。
 それにしても、今の坊主が殺されて七代も祟るほどの救済力を持ち合わせていないように感じられるのはなぜか? 高度化された資本主義体制の中では、もはや坊主も善良なる一市民として俗物的欲望者にすぎないということかもしれないが、価値観の多様化によって宗教的価値も相対化されてしまうときに、今さら伝統的な権威主義に固執する仏教的善意を振りかざしてもヒトビトの苦悩を救い取れないという事情は容易に理解できる。しかしそのことは、ヒトビトの歴史化された潜在的な自愛的欲望である霊魂観と、激しく移り行くヒトビトの日常的な価値観との軋み歪みによって生ずる苦悩に無頓着な坊主たちの欲ぼけた怠慢を是認することにはならないのだ。
 われわれに言わせるならば坊主とは、いつの時代も世俗的な苦悩の真っ只中に踏み込んでこそ<救済者>たりえたはずなのだから、移り行くヒトビトの苦悩こそを救い上げるということは<流行すたりの人気稼業>と同様に、ヒトビトの満たされぬ時代的な欲望にも敏感でなければならないはずなのだ。もしもしそれが出来ないとすれば、もはや救済から見放されたヒトビトの悪意の欲求は<能無し坊主>にこそ祟ることになる。
 それゆえにこそ坊主は、いま改めて<諸行無常><諸法無我><涅槃寂静>を見定めて、尚且つテレビタレントほどの身軽さで移り行く常識・文化・制度の中に身を投げて、ことごとくの不成就性の欲望に引き千切られていくヒトビトの自己愛の痛みにこそ救いの手を差し延べなければなるまい。しかし、それを潔しとしないのならば、もはや宗教者であることを懴悔して<何>行者にでもなることをお進めしたい。

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