4.天寿を全うする

 たとえばいま、ここで語られようとしている<物語>の中に助かる見込みのない病人がいる。すでに手術をしても回復を望めぬ病状ではあるが、本人が望むならば2〜3ケ月の自宅療養が可能な状態なのだ。
 そもそも彼はいま抱えている仕事にそれなりの見通しを付けておきたいと判断したために、自分の病状を的確に把握しておかなければと考えて、その病名の告知を願いすでに述べたような情況を知ることになった。そして彼は、家族のいたわりを貧ることになりかねない自分の弱さを知り尽くしていたために、あえて病室に仕事を持ち込んでいる次第なのだ。無論それは、それを可能にする出費をとりあえずの保険で賄い切れる見込みがあってのことなのだ。
 何はともあれ、彼は残り少ない命を自ら引き受ける覚悟を固めたわけであるが、思い通りには進まない仕事に悶々たる日々を送っているのだ。そんなある日、病気の痛みにうなされて眠れぬままに夜明けを迎えるころになり、一晩の無力な戦いにもようやく痛みとの和解が成立して、わずかな解放感が戦い疲れた者のみに与えられるささやかな眠りへと誘うのだ。
 ふっと気が付くと、彼は時間に追われながら研究報告の整理に没頭している。しかし、どうしても見付からない報告書がある。その報告書こそがこの仕事の成否を決定しかねない重要な問題についての報告なのだ。しかし、すでに用意されているはずのその報告書がない。なぜ見付からないのか? 彼にはその書類が紛失する理由が分からない。なぜならその書類は、いま確かにこの机の上に置いておいたのだから… おかしい!? どう考えたって、そんなはずはないのだ。
 「焦るな! 焦るな! 落ち着いて探せばきっと見付かるはずだ」と彼は自分に言って聞かせるが焦る気持ちは高まるばかりなのだ。「ない!? ない!?」と叫びつづける彼は、いつの間にか高鳴る喪失感だけで存在することになり、もはや<私>としての自覚すら曖昧になっていた。
 すると突然、誰かが後ろにいる気配がする。彼は、思わず急降下するエレベーターに乗り合わせた驚きで我に帰ったが、その気配が余りにも衝撃的であったために、頭髪の先から血の気が引いていくような気味の悪いものを感じたのだ。彼は身の凍るような思いに振り向くこともできない。しかも微かな風が冷たく流れ、彼は全身に溢れ出た冷や汗に身震いがとまらない。
 しかし、そのわずかな風が彼の後ろで紙の擦れる音を起てる、そう紙が風を孕む音なのだ。「おや? ひょっとすると… しかし、なぜ?」、それはほんの一瞬の戸惑いにすぎなかったけれど、身体が動かない。なぜか捕らえ所のない恐怖感に縛られて後ろを見ることが出来ないのだ。それにしても彼の探しているものは、どうやらとんでもないところに有りそうなのだ。
 自分が自分であることを無性に切なく思い始めた彼が、闇の中に浮かび上がる机に冷たい汗をひとつ落としたときに、さらに一陣の風が立ち、そんな自分をいとおしく思い始めた彼を置き去りにするかのように、目の前の無数の書類が舞い上がり闇へと消えていくのだ。「な、何んだ!?」と叫ぶが声のでない彼は、それが尋常ならざる事態であることに気付いても、今はどうすることも出来ないのだ。彼は、<私たりうる私>としての一切の確信が<私>でありつづけようとする無力な欲望によって崩壊していくのを感じながら、「身体が動かない!!」と焦ることでさらに身体を硬直させてしまえば、もはや正体不明の恐怖心の中では「何も見たくない!!」と思うばかりなのだ。
 しかし、彼がそう思えば思うほど、なぜか彼の念いを無視する力が加わり、まるで首の筋が軋む音を立てるほどの勢いで後ろに向けるのだ。もはや目を閉じることも許されぬほどの脅迫的な恐怖感の中では、彼が見たと自覚できるものは何もないのだ。
 それなのになぜか、「君が探しているのは、この書類じゃないのかね?」という低く澄んだ声だけは理解できるのだ。それにしても人の温もりを感じさせないその声に、ことごとくの<私>が揺らぎ始めている彼は、その声の主を見定める意欲もないままに、気が付けばいま探していたあの報告書がそこに示されているのを知るのだ。彼は硬直した身体でぎこちなくうなづくだけで、それを手にすることはできない。
 再び声がする「この書類は、私が預かっている。君がどうしてもこの書類を欲しいと願うならば、私の言うことを守らなければならない。どうだ、私との約束が守れるか」
 ところが、その約束が何であるかさえ分からないにもかかわらず、彼は圧倒的な無力感のまま承諾せずにはいられないほどに脅えているのだ。彼がその意志を示すと、その声はさらに語りつづける。
 「今から言う言葉を覚えるのだ。そしてこの言葉を十万回唱えるのだ。いくら時間を掛けようが、それは君の勝手だ。しかし君も急がねばなるまい。そのことは君も十分に承知しているはずだ。いいかね、よく聞くのだ。エンメイジュックカンノンキョウ カンゼオン ナムブツ ヨブツウイン ヨブツウエン ブッポウソウエン ジョウラクガジョウ チョウネンカンゼオン ボネンカンゼオン ネンネンジュウシンキ ネンネンフリシン」 その声が消えると同時に、彼を問答無用に拘束していたものが一気に解けて、彼は中空に投げ出され、そのままもんどり打ってベッドの上に落ちるのだ。
 訳の分からぬ厭な夢を見たと気付いた彼は、未だ収まらぬ動気を感じながら、すえた体臭の寝汗にまみれて茫然としているのだ。それは、いやな夢をあまりにも鮮明に覚えていることの居心地の悪さからいまだ目覚めていないということでもあったのだ。
 彼は、カーテンを通して注ぎ込む朝日を確かめ、小さな個室にひとり取り残されて今為す術もなくただ死を待つだけの自分を確かめて、再び忌まわしき夢を反芻してみるのだ。「それにしても、取り上げられてしまった書類って、いったい何んだったのか? 確かに仕事はやり残したままだけど、探しても見付からなかった書類などは無かったはずだ。でも、あの呪文はいったい何だ? あんなものを一回聞いただけで覚えられるはずがないじゃないか、まったく…、しかも十万回だって!? まったく荒唐無稽な話だ。でも、何とか言ってたな、エンメイジュック…、ネンネン何とか? ま、覚えられるはずはないんだ。こんな夢を見るようになっちゃいよいよだめかな?」というわけで、不快にして不可解な夢の原因を、重い朝の身体に深い夜中の痛みとして探ってみるのだ。
 「何が何だか分からないが、欲しいものがことごとくエンメイエンメイで手に入るのならば、誰もこんな病室で世をはかなんだりするものか」と思いつつも、彼はベッドの中で苦しい寝返りを打つたびにわけもなく「エンメイエンメイ」と口ずさむ有り様なのだ。そんなときに、ふっ、と「エンメイって何だ? そういえばカンノンとか言ってたな…、するとあれはお経ってわけか? それにしてもエンメイって言うのは延命ってことかな?」というわけで、聞いたこともないお経なんかを手繰り寄せていることの不思議さに気付き再び衝撃を受けるのだ。
 しかも「延命とは、命を永らえるということだ!!」と考えてみれば、正にいま自分がどれほど望んでも得られる見込みのないものを望まずにはいられない自分の切なさに、身震いするほどの涙をすることになる。しかし彼は、生き永らえる望みのない病気に撃ちのめされて、神仏にすがりたいと思うほど気弱になっている自分を晒け出してしまうほどには、自己愛を慈しむ自制心を失っていないのだ。それゆえに、自分の惨めさを見せ付けるようなこんな不思議な夢の話は、誰にも話すわけにもいかないと感じられるほどだった。
 そしてその日の夜、きのうの不可解な夢の恐怖感を思えば眠ることの辛さは回避したい気持ちもするが、しかし眠らずにいて痛みに耐えることも辛すぎるというわけで、ほとんど周期的にやってくる痛みのために沈痛剤を飲み、さらにこの日は問答無用の眠りのためにわずかの睡眠薬を飲むことにしたのだ。
 やはり彼は、姿の分からぬ<誰か>の前でまったく無力な自分を発見し、しかも自分が自分でありつづけていることさえもが尋問されているような不快感の中で、「身体が動かない!!」と思う衝撃的な焦りで自らの自由をより厳しく拘束してしまう悪循環に陥って、見失った書類を突き付けられているのだ。
 「君は、もうこの書類が何であったかさえも忘れてしまったというわけかね? この書類は、君がどうしても欲しいというから私が探し出してきたにすぎないのだ。それなのに、もはや君がこの書類を必要としていないのならば、私は君と取引をする理由を持たない。もしそういうことであれば、戯れに私を呼び出したりしてはならない」という声がする。
 しかし彼にしてみれば、誰が好き好んでこんな不快な思いをするために、おまえなんかを呼び出したりするものかと言ってやりたいのだ。すると、そんな彼の思いが悔やまれるほどの傷みとして突き刺さる威嚇的な威厳に満ちた声が、「バカ者!! この期に及んでまで自分の心を偽るつもりか!? それほどの思いで自分を裏切りながら、それでもなお温存させたいと願う自分とは、おまえにとっていったいどれほどのものなのか、それについて答えてみろ!! それとも、その悍しいほどの自惚れが堂々と人に誇りうるものであるということについて、胸を張って釈明することが出来るとでもいうのか?」と降り注ぐ。
 いまさら誰に言われるまでもなく、ここに居る彼は、確かにその書類を取り返したいと願わずにはいられないからこそここにいるのだ。だから、たとえそこに何が書かれていたのかを忘れてしまったとしても、彼にしてみれば「思い出すことの出来ない重要報告だからこそ今それを必要としているのだ」と、言い切れるほどの闇雲な確信を抱いている有り様なのだ。もはやここにいるかぎりそれが彼の仕事に不可欠のものであることを疑う余地はない。しかも彼にしてみれば、なかなかこの手に戻らない書類こそが、今いくら望んでも得られるはずのない<延命の鍵>を暗示しているように思われてならないのだ。
 彼が今ここにいる理由とはただそれだけのことなのに、死をまじかにして今更「自分とは何か?」に回答しろと言われても、もはやいままでの人生を無意味なものとして理解するような自己批判は出来ないのだから、彼にしてみればいま彼が彼自身と自覚しているつもりの彼以外に、はたしてどんな自分を発見すればいいのか見当もつかないというわけで、自分の自尊心がいかなるものを根拠にしているかなどと考えたことはないといえる。それゆえに、訳の分からぬ糾弾を受けても何も答えようのない彼は、自分の犯した過ちを自覚できぬままに父親に叱られている子供のように、ただ震えて雷の通り過ぎるのを待つばかりなのだ。
 それにしても彼が言葉にして語るまでもなく思うことに向かって問い掛けてくる正体不明者の声は、彼の心を見透かしているという意味においても無気味でならないのだ。彼はそんな居心地の悪さを払拭しようと、あえて大声で叫んだ「おまえは誰だ!?」 すると一瞬にして彼の叫びが想像を遥かに越える爆発的な響きとなって彼を飲み込み、耳をふさぐ間もなく轟々たる雷鳴が彼にむかって尋問するのだ「おまえは誰だ!?」 
 彼は頭が破裂するほどの耳鳴りをかかえてベッドの上に回帰するのだ。まだ鳴り止まぬ雷鳴に爆発的な血の逆流を繰り返す頭が、それでもなお<私たりえぬ私>へと茫漠たる自覚を軋ませて<とりあえず私>を呼び戻し、次第に呼吸の乱れに気付かせてさらに熱い鼓動を自覚することによって、また気の重い朝に辿りつかせるのだ。

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 「おまえは誰だだって? そんなことは構いやしない。もはやすえた体臭の死にそこないだ」と吐き捨ててはみるものの、無性に口惜しい思いが込み上げてきて、やり場のない敗北感に枕を濡らしてしまうのだ。そんな思いを振り切ろうと彼は重い身体で寝返りを打てば、今度はあのエンメイ何とかが気に掛かるのだ。エンメイ何とかなどというお経なんかがあるのだろうか? しかし彼は、家族のものや見舞いにくる友人たちに、そんな名前のお経を探してくれとは言えない、いや、言いたくはないのだ。
 そこで彼は、たとえば絶体絶命の死刑囚が宗教の導きで崇高なる清浄観を得て旅立つことがあると言われるように、こちらは病院ではあるが同じような閉鎖的世界なのだから、余命のない病人が同じような境地で旅立つために宗教に興味を持ったとしても、そこで特別な理由を探す必要はないのだと考えてみれば、わずかでも自分の惨めさを言い繕える理由に巡り会ったことになり、なんとなく好意を寄せている看護婦さんにとりあえずは気高き病人の役を演じてみるかという気になって、まるで死を恐れぬ聖者のごとき心境を取り繕いながら「ねえ、看護婦さん、仏教のお経にエンメイ何とかいうのがあるのをご存じですか?」と話し掛けた。
 彼は快活な仕草の彼女から、たとえば「あら、きゅうにお経の話しですか。私には分かりませんよ。でもなあに、何か悟りでも開いたのかしら」という程度のたわいのない応答を想像していたが、何故か彼女は不意を衝かれたものの表情になり、しかも答える言葉がなくて困惑する顔が何とも取り繕いかねて強張っていくのだ。しかしそれも一瞬のことで彼女はそんな心の隙間も自らの笑顔で贖いうると信じているかのように気を取り戻し「どうして、そんなこと聞くの?」と言う。
 しかしなぜか、彼にとっては彼女のそんな問い返しが不自然なものに思われた。なぜなら彼女は、そのお経については知っているとも知らないとも答えずに、触れられたくない部分を注意深く避けている様子なのだ。でもとにかく彼が、夢の話をするきっかけはできたのだ。「ええ、実は、二日ほど続けて変わった夢を見ましてね。そのエンメイ何とかいうのが、はたしてお経なのか呪文なのかは分からないんですがね、それについてちょっと知りたいことがありましてね」と、ささやかなる崇高さの装いを保ちながら散々持て余した問題に何等かの手掛かりを求めた。
 彼女は、わずかの間にかなりの言葉を選んだ様子であったが「夢を見たって言うわけね」と堅い笑顔を返す。そんな様子がやはり気になる彼は、ひとまずエンメイ何とやらは置いておくことにして、「僕の夢が何か変ですか?」と尋ねた。
 彼女はいまだ心の整理が付きかねている様子で、多少は持て余しぎみの堅い笑顔を窓に向けたけれど、きゅうに向き直るといたずらっぽい目で「ねえ、何か魂胆があってあたしを驚かそうってわけじゃないでしょうね?」と予想もしないことを言うのだ。
 「ちょっと、それはどうゆうことですか? そんなに僕の夢がおかしいの?」彼は彼女の次の言葉を待った。
 「あの、あたしねえ、前にも同じこと聞かれたことがあるんです。その時もやはり患者さんが、そのお経の夢を見たと言われたものですから… それで、あたし、ちょっとびっくりしてしまって」と、正に驚くべき告白なのだ。
 彼は全身に悪寒の走るのを感じながら「それじゃ、そういうお経があるんですね」と確かめた。
 「はい、確かに有ります。とても短いお経でした。あたし、前の時に図書館へ行って調べてみたんです。あたし、そういう夢の中の暗示みたいなものに、ちょっと興味があったものですから。あの、宜しかったらメモしてきましょうか?」というわけなのだ。
 何はともあれ彼は、同じ夢を見た人がいるということに無性に戦慄するのだった。しかも彼女の不思議な体験における驚きの大きさが、あたかも彼の残り少ない未来を見通しているかのように思われて、彼は自らの悲惨な末路を思い言葉を失っていた。そんな様子に気付いた彼女は「前の患者さんの時もそうでしたけれど、その夢はとても好い夢だったんですよ。あたし宗教のことはよく分からないんですけど、その方は、それから間もなく退院できたんですよ」と言う。
 彼は心の隙間を覗かれた思いがして、自分の弱気を忌ま忌ましく思いながら、「すると、その患者さんも、エンメイ何とかを十万回唱えたっていうわけですね?」と聞くと、彼女は「十万回ですか? それは分かりません。その時はメモをお渡ししただけでしたから」と言う。
 そしてさらに「そのお経って、とても有り難いお経なんですって。あたし後で、ある人に聞いたんですけれど、どんな病気も治して長生きをさせてくれるという教えなんだそうです。ですから、それを十万回も唱えればきっと御利益がありますよ。後でまたメモしてきてあげますね」と、彼女は緊張の解けた優しい笑顔で軽くVサインをする。
 彼は彼女のそんな屈託のない笑顔にささやかな希望を託し「そんなサービスをすると、病人が減ってしまうよ」とVサインを返した。
 さっそく次の日に彼の元へメモが届けられた。それには「延命十句観音経 観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心」と書かれ丁寧に振り仮名もしてあった。
何はともあれ彼にとっては、超常的な暗示によって巡り会ったお経というわけで、もはや自分の思いによっては生き延びることもおぼつかない現状をみれば、何か超常的な力に頼ってみるのも悪くはないというわけで、このお経との出会いを奇跡的な吉兆にしてみたいと思った。
 それにしても十万回とは想像を絶する回数に感じられた。そこで彼は、とりあえず声を出して読んでみた。始めは多少読み憎くてつかえ、何回か息を繋ぎながらであったために15秒位かかったが、それでも慣れてくるとほぼ一呼吸で読めるようになり10秒位で出来ることが分かった。これを元にすれば日数が計算できることになる。まず10秒で1回とすれば、1分で6回、1時間で360回、もしも1日に10時間費やすことが出来れば何んと3600回、すると約30日で十万回ということになる。多分慣れてくればペースは上がるであろうから、この30日というのがとりあえずの目安と見ることができるのだ。
 そして彼の現在の病状からすれば、平均的な余命を2〜3ケ月と見るのが妥当という診断であったから、単純計算ならばなんとか十万回には間に合いそうに思われたけれど、しかし延命十句観音経十万回に挑戦することは、まだ自分としての自覚を持ちながら生き延びられる残された時間のすべてを費やすことになるのだ。つまりこのお経との巡り合わせに奇跡の実現を賭けるか、それとももう僅かでも残された仕事の整理をしておくべきかという、このどちらかに決断を下さなければならないのだ。しかし彼としてはどちらも捨て難いことなのだ。そこで二股を掛けることはできないものか、残務整理とはいえ結局はライフワークを未完のままに終わらせてしまうことになるのだから、とりあえずは出来るところまでで納得するしかないと決断すれば、この仕事には時間の多少は有っても無しに等しいと言えるのだ。とすれば30日かかる十万回を、1日5〜6時間のペースに落として50日位掛かったとしても何とか間に合いそうに思えるのだ。
 そこで彼は、特別な治療がないかぎり午前中を仕事に充て午後を延命十句観音経十万回に充てる計画を立てた。ところがその日、夕方になって発作的な激痛に襲われてみると、もはや仕事どころの余裕はなくなり余命すべてを奇跡に賭けてみたいと思わずにはいられなくなってしまうのだ。
 そのまま薄暗い病室で沈痛剤の助けを借りながらうとうとしているときに、彼はベッドの脇に見知らぬ人が立っているのに気付いた。パジャマを着たその中年の男は見るからに病気に蝕まれた生気のない顔をしてるが、この大きな病院では患者という役柄で誰もが同じ顔を強要されてしまうとさえ思われるために、その人もこれと言った特徴を感じさせないごく普通の病人であった。
 その男は、静かに彼の顔を覗き込み「あなたは、あのお経を信じますか?」と言うのだ。
 彼は虚ろな眼差しで「どなたですか? 失礼ですが僕は、いまちょっと眠いので…、後にしてください」と言いながら寝返りを打ってしまう。
 それからしばらくして彼は再び人の気配を感じて目を開けた。そこにはさきほどのパジャマの男が立っているのだ。
 そして静かに再び「あなたは、あのお経を信じますか?」と言う。彼が重い身体を起こそうとすると、パジャマの男はそのままでいいと白い両手で制するのだ。彼はあまり自由にならない身体をそのままにして顔を起こし「あなたは? どなたですか?」と聞く。
 パジャマの男はあまり表情のない顔で「私も、お経の夢を見たものですから、どうも不思議な話だなと思いまして」と言う。彼もまた随分不思議な話だとは思ったけれど、ふっと我に帰り、多分この人が看護婦さんの言っていた人だろうと感じられたから、その人が尋ねてきても不思議はないと納得してはみたけれど、改めて看護婦さんの言ったことを思い返してみれば同じ夢を見た人はすでに退院しているはずなのだ。しかし身体がだるいせいなのか、なぜかそんなことはどちらでもいいことのように感じられた。
 パジャマの男は彼の顔を覗き込みながら、かなりゆっくりした口調で「私は、正に地獄に仏とばかり、一も二もなくあのお経に飛び付きました。観音の力を本当に<信じて>延命十句観音経を唱えるならば、必ず天命を授けるというのですからね。もうそれしかないと決意しました」と言う。
 「すると、あなたは、もうお始めになったんですか?」と彼が目を輝かせると、「ええ、私はこう考えました。この病院の中で管理された命を細々と生きるなら、いっそ自分の信仰の力で自分の命を管理して天寿を全うしたいと考えたのです。それで無理を言って退院しまして、それからは毎日、もう一日中です。それは命懸けでした」
 「それで十万回出来ましたか?」
 「十万回? 数は問題ではありません。私にとっては観音の救済を信じられるかどうかが問題だったのです。信仰は数では計れません」パジャマの男は暗い顔で静かに首を振っている。
 そしてパジャマの男は「私はもともと信仰などには疎い方でしたから、どんなに信んじているつもりでも、やはりどこか心の隅で疑っている自分がいるんですよ。そう、たとえばこんなお経を唱えるだけで助かるはずはないと思うわけです。それで、回りでは家のものたちが無理をするなと言うのですが、そう言われると余計に向きになりましてね、どうせ望みのない命でしたから命懸けで信じ切れるかどうか賭けたのです」と言う。
 彼は息を呑んで次の言葉を待った。パジャマの男は相変わらず無表情な顔で続けた「それから毎朝5時に起きまして、精進潔斎というわけです。水垢離を取りましてね、4時間の睡眠以外はまる一日お経を唱えつづけました。アア、あなたのおっしゃる回数で言いますと、そうですね一日に一万回ぐらいにはなるでしょうか」
 「いっ、一日で一万回もですか?」
 「ええ。ところが三日目ごろから、数が数えられなくなりまして、それから何日間かは続いたのですが、もうそれっきり分からなくなってしまいました。つまり、命を信仰の証しに捧げたというわけです。ま、所詮は燃え尽きる直前の命にすぎなかったのです」と、パジャマの男はひとり納得顔でうなづいている。
 彼は、平然としているそのパジャマの男の無表情さに突き放され、全身に悪寒が走るのを覚えた。そして乾いた喉を押し広げる熱い不安で「あ、あなたは、い、命を信仰の証しに捧げたとおっしゃるのですか?」と聞き返した。
 パジャマの男はやはり平然と「ええ。しかし後で気が付いてみたのですが、たとえ信仰のために命を捧げようとも、私にとっての信仰というのは、天寿を授かることこそが最大の眼目だったのですから、やはり死んでしまえば、天寿は全う出来なかったことになります。つまり、その意味においては死を捧げた信仰すらも無駄であったということになるのです」と言うのだ。
 それにしても彼は聞きたくはないが、しかしどうしても聞かずにはいられないことを恐る恐る尋ねた「死んでしまえばなんて言われるけれど、あなたはそうやって生きているじゃないですか?」
 「ええ、まあ、結局は意識不明で病院へ戻されて、そのまま隣の病室で生命維持装置で生かされている私は、確かにまだ死んだとは言えないかもしれませんが、しかし生き返る望みもありません。でも私としては、命懸けで延命十句観音経を唱えることが、生涯における最も充実した日々でしたから、いまさら屈辱的な死を受け入れるわけにもいかないのです」というわけで、パジャマの男は自らが亡霊であることを自覚しつつも自らの尋常たりえぬ存在理由についてはまったく無頓着なのだ。
 彼は、そんなパジャマ男がいたずらに人を脅かす性格の悪い幽霊ではないと納得することで、なぜか尋常ならざる事態を納得してしまう自分の尋常ならざる事態は棚上げにして「するとあなたは、身体から遊離してしまった霊魂というわけなのですか?」と尋ねた。
 パジャマの男は少し口元をほころばせ「まあ、そんなところです。でも、あまりそんなことにはこだわらないで下さい。私自身、身体と霊魂なんていう二元論みたいなものに毒されていることを、かなり恥ずべきことだとは感じているのです。とにかく、分かってはいるつもりなのですがね…」というわけだから、とりあえずの正体が分かってみると、やはりパジャマの男も<私たりえぬ私>を抱えた苦労人であったことが忍ばれるのだ。
 そこで彼が「あなたは、壮絶な信仰生活を実践していながら、それを屈辱的な死と決め付けていらっしゃるようですが、僕のような怠け者からしてみると、やはり信仰に捧げた死は何にもまして尊いと思われます」と言うと、パジャマ男は「そうですか…。そうしますと、つまりあなたは、これまでの命を天命だと納得して信仰を受け入れたほうがいいとおっしゃるわけですね。そうですか、やはり、私は自分の信仰を買いかぶっていたんでしょうかねェ、それとも観音の救済力を買いかぶっていたんでしょうかェ、どちらだと思われますか?」と尋ねる。
 ところが彼にしてみれば、信仰への思いについても観音の救済力についても、彼の方こそが知りたいところなのだ。「もしも僕が、それについてお答えできるなら、僕はほんのわずかな未来について、何も思い悩むことは無いはずなのです」
 「ふむ、そういうことになりますか。ま、私の場合は、結局は自惚れということでしょうかねえ!? 多分そういうことでしょうねえ。いゃあ今日は、あなたにお合い出来てほんとうによかった。有り難うございました」と、パジャマ男があの無表情な顔を忘れさせる穏やかな笑顔で一礼した。それを目礼で受けた彼が目を上げたときには、もう誰もいなかった。そんな亡霊の消滅をごく自然のこととして納得できる彼は、まだ夜明けまでには間のあることを確かめて静かな眠りについた。

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彼は慌ただしい人の出入りする音に気付いて目覚めたが、それが隣の病室から機材を運び出す音であり、廊下で連絡の遅れたことを詫びる医師に患者の家族と思われる女の人が、悔いの残らない治療であったことへの感謝を語っている様子が分かったときに、彼は夜明け前の出来事を思いながら、<自惚れ>という言葉で自らの生涯を総括し納得していったとさえ言いうるパジャマ男の信仰について何か空しいものを感じたのだ。
 彼は枕もとの『広辞苑』を引き寄せ<天寿>という言葉を捜した。そこには「天から授けられた寿命。天年。定命」とあった。何か納得がいかなくて今度は<寿命>について引いてみると「(1)いのち。よわい。生命。(2)転じて、物がいたまずに保つ期間」となっていた。彼は<天寿>も<寿命>もたいした違いのないことを確認したにすぎなかったために、ここであえて相違点を捜してみると、天寿を延ばすとは言えないが寿命を延ばすとは言えることから、<天寿>を受動的な生命観とすれば<寿命>が能動的な生命観によって語られたものに感じられるということであった。
 しかし彼はまだ納得がいかなかった。つまり、われわれの一般常識からすれば「受動的な生命観」を語る言葉としては<宿命>の方がなじんでいることを思えば、それをわざわざ<天寿>と言い変える時には、やはり宗教的なあるいは人間的な計らいを超えたものへの感情が加味されていることを見落としてはならないと感じられることなのだ。だから、たとえわれわれの生命が仏教にいう因縁によって自らを<宿命>づけているにしても、因縁などというものによって汚される以前であれば、すべての<命あるもの>は自らの生命力が自然に尽きるまで生きられるはずだという、そんな思いを込めてこそ語られる言葉として<天寿>があったのではなかったのか。彼はそう考えてみることにより、誰もが健康という理念によって平等に与えられるはずの可能性としての生命である<天寿>と、生きがたき現状を納得させるために使う<宿命>とは歴然とした違いがあることを見定めることができた。
 そこで彼は、パジャマの男が語った信仰の矛盾を検証してみることにした。まず<病気>で死ぬということは「天寿を全うできなかった」ということになるから、それはそのような因縁によってしか生きられぬ<宿命>であったというわけで、その人の命はそれだけの<寿命>しか生きられなかったことになる。そこで観音への信仰が仏教的な知見において真実と認められたときには、いかなる病人にも天寿を全うさせると言うならば、何はともあれわれわれにとっては<命>あっての信仰なのだから、信仰の証しに命を捧げる者はいかなる境涯のものであれ、これ以上の証しは捧げられないというわけで天寿が授けられなければならないことになる。
 その意味において、パジャマの男は病気を克服していなければならないはずなのだ。しかしパジャマの男は寿命を延ばすことが出来なかったのだから、命懸けの信仰も真実たりえなかったということになる。それゆえにパジャマ男は、信仰不信・自己不信に迷い死ぬに死に切れなかったというわけなのだ。しかしパジャマ男は<宿命>の外に<天寿>を想定して、それを信仰の力によって体得できると思うことが、自分の能力への自惚れであったと理解し、<宿命=天寿>と見なすことによって自らの信仰を正当化したのではなかったのか。
 彼は、それによってパジャマの男が安らかなる眠りに付くことが出来たのならば、そのことには何の意義を挟む余地もないと考えたが、しかしそれでは、縁日の露店商から買った100年生きる亀がその翌日に死んでもそれが100年目だといって逃げられてしまうことと何等変わるところがないように思えてならないのだ。その限りにおいて観音信仰は、死後という未来と寿命という未来を知らぬヒトビトの善意と情熱を手玉にとった詐欺的商法とも言いうるものなのだ。
 では、信仰などというものは単なる気休めにすぎないのかと言えば、信仰における真実性の判定がすべて仏の手に委ねられている限り、信仰者は常に不信心という脅迫観念を背負わされているために、信仰者が何を思おうともそれによって観音の救済に意義を唱えることは出来ないのだ。
 そこで彼は、信ずる人あってこその観音の救済であることを踏まえるならば、やはり信仰における真実性の判定は信仰者の納得のいくものでなければならないと考えた。言い換えるならば、それは観音との契約を結ぶことになるはずなのだ。ここに至り初めて彼は、あの十万回というノルマが救済のための契約たりうることを理解したのだ。
 彼はあの不思議な夢のことをもう一度思い返してみた。延命十句観音経を十万回唱えるという契約によって彼が手に入れる書類とは何であったのか。もともと彼のものであったはずの書類に書かれていることとは一体何であったのか。彼が未完のライフワークを完成させるためには不可決の書類とは何なのか。
 ここまで辿ってみれば、十万回などという彼にとってみれば途方もない契約によって得るものは、天寿を全うするとまでは行かなくてもせめて<延命>でなければならないのだ。それが与えられてこそ彼のライフワークは完結をみることが出来るのだ。そう考えてみれば、つい仕事に追われ不節制な生活をする以前はまさかこんな病気になるとは予想もしない健康体であったのだから、彼がライフワークのために当然有ってしかるべきものと臆断していたものは健康体としての寿命であるはずなのだ。それにしても、今となっては彼が儚ない望みと知りつつも望まざるをえないものとなった<延命>が、なぜ書類として示されるのかが理解できないのだった。
 しかし、何はともあれ契約のキーワードが延命十句観音経なのだから、十万回を成就したときに得られるものはとりあえずの<延命>であるはずだし、それが何等かの意味付けとして示されるものが書類であると考えることが最も妥当であると思われた。しかもその意味付けは、失われて初めて重要視されるようになったというよりも、もともと彼のライフワークには不可決の問題として意味付けされていたものに思われるのだ。
 ここで彼は深い溜め息を付きぼんやりと白い耐熱ボードの天井を眺めながら、ライフワークにおける自らの寿命あるいは生命の位置付けを試みるのだ。
 そもそもライフワークを、その人が生涯を掛けて成し遂げた業績としてみると、その業績に対するヒトビトの評価はどうであれ、その人の表現生活への自己批判を兼ねた集大成であるはずだから、表現者としてライフワークを計画するときは、自分の表現世界への反省的構想とその可能性及び表現者としての寿命に見通しがついていなければならないのだ。その意味において彼のライフワークには、仕事の内容以前に表現生活の可能性への反省的評価に甘さが有ったことを認めなければならないといえる。
 それにしてもひとりの表現者の自己総括における反省的な創造性が、かろうじてヒトビトの評価を獲得する<作品>たりえたとしても、その<作品>にとって表現者とは作品が喚起しうる想像的な可能性としての役柄にすぎないのだから、その<作品>が面白くさえあれば、所詮は幻想にすぎない表現者はたとえ野垂れ死にしていようとヒトビトには拘わりないことなのだ。言い換えるならば<未完の作品>であってもヒトビトの評価を得られる確信があるならば、彼はあえて<遺作>として挫折したライフワークを提示することができるのだ。ところが彼には、それほど思い上がった技量もないし、ましてライフワークの研究課題そのものに、ヒトビトを引き付ける魅力があるとは感じられないのだ。
 そもそも彼が厳密なる自己批判によって、反省的構想の欠如した自らのライフワークを見定めるならば、まずは表現者としての自覚そのものにも、どれほどの社会的な存在理由があるわけでもなく、ただ何かを<誰か>に向かって語らずにはいられないという、切ないほどの表現欲求の解消にすぎない自己満足に突き当たるだけなのだ。その意味において、常にヒトビトの評価とは無縁のものでありつづけた彼の表現生活は、自分の生き方を納得させるために自分に向かって語りつづけただけでもあるのだから、たぶん初めて表現生活に目覚めたときから未完のライフワークでありつづけたことになるのだ。言い換えるならば、彼のライフワークは未完のまま死ぬことによってしか完成されないライフワークというわけなのだ。
 ここで彼は、思わぬ結果に逢着してしまった思考ゲームを大きな溜め息の中に解消した。
 それにしても溜め息によっても解消されないこの結果は、どう引き受けるべきものなのか。どんなに頑張っても完成されないライフワークは、頑張れなくなったときにしか完結しない。つまり、ライフワークを完成させるために延命を望むことが自己矛盾になってしまうのだ。
 もはやライフワークを完結させたければ野垂れ死にしかなく、延命を望めば終わらないライフワークというわけで、いまさら確認するまでもなく彼は表現欲求を抱えているために死ぬに死ねない苦悩を生かされている始末なのだ。結局、いま彼がしみじみと思うことは、人生ここに至るまで何事も思い通りにはならなかったということの確認にすぎないのだ。
 彼は焦燥感の中で闇雲に執着していたライフワークに、的確なる反省のくさびを打ち込むことが出来たことを感じながらも、いまだ燃え尽きてはいない表現欲求に胸が熱くなるのを抑えることができないのだ。閉じたまぶたが熱くなり「いまさら生きる手だてを反省してみたところで何になるんだ!?」という空しさが頬を伝わり耳まで落ちた。
 そのとき「どうですか?」と、耳になじんだ優しい声を掛けられて目を開けるとあの看護婦さんなのだ。彼はひとつぶの涙にまたしても心を覗かれた思いがしたが、もはや取り繕う手だてもなく、ただ力のないほほ笑みを返すだけなのだ。彼女は見慣れた患者の涙を笑顔でやり過ごし「どう? 十万回へ挑戦してるの?」と聞く。
 彼は、うっかりとパジャマの訪問者のことを話してしまいそうになったけれど、たぶん彼女が初めに夢の話を聞かされたのはあのパジャマ男であったはずなのだから、パジャマ男の尋常ならざる信仰を善意で取り繕ってくれた昨日の彼女の心使いを思い、幾つかの言葉を飲み込んだあとで「いや、まだ少々納得のいかないことがありましてね。どうも、不信心なたちなんでしょうかねえ」と答えた。
 彼女は点滴の器具を調整しながら「それじゃ、納得してからね?」と、たぶん彼女にとっても多少は興味のある話題の周縁を軽く横滑りしていくのだ。
 そこで彼は「身体の自由が段々きかなくなってくると、余計なことばかり考えるからでしょうかねえ。尤も考えることまで止めちゃおしまいだもんね」と笑って見せた。
 さて彼女が出ていったあとで、彼はちょっと自分の言葉が気になった。もしも苦悩や苦痛が余計なことを考えさせるとするならば、余計なことを考えないで済ませられたときには、もはや「思い通りに<考えたり思わない>ですむ」快適な安息が与えられていいはずではないか。われわれが死んでしまうことで、考えることや思うことをたちどころに消滅できるなら、誰も迷って幽霊や亡霊になることもないはずなのだ。つまり彼にとって、余計なことを考えることがライフワークを未完のままにさせる原因だとすれば、うまく余計なことを考えない方法を体得したときには、苦悩や苦痛から解放されるという意味において、とりあえずの延命と同時にライフワークの完結を見ることが出来るのではないか?
 これは彼のささやかなる閃きなのだ。ここで<考え・思い>における<余計なこと>を苦悩や苦痛から生まれる妄想とすれば、とりあえずは<妄想たりえぬ私>によって考え思う方法を探らなければならない。そしていま手元にあるのは延命十句観音経十万回なのだ。つまりこれを<妄想たりえぬ私>の思考方法あるいは「勝手に<考え思ってしまう>ことを解消する」方法への転用が出来ないものか? 
 そこで初めの夢を思い返してみると、彼がライフワーク完成に必要不可欠な書類の返却に求められた約束は延命十句観音経を十万回唱えることのみであり、それ以外には何の条件も付いていないのだ。思えばあのパジャマ男との対話から得たものは、観音の救済力を体得するためには明確な約束こそを前提にすべきだということであったのだから、十万回という約束を堅持するかぎり彼の目指す方法への転用は可能であるはずなのだ。しかも、余計なことを考えない表現者としてライフワークへの反省的な見定めができた今となれば、<延命によってライフワークの完成を求める>ことの自己矛盾を止揚したときの証しとして与えられるはずの正体不明の書類が、彼の表現生活の意味付けとして語っているであろうことを、<余計なことを考えない>ことの範囲において考えることが可能になったといえるのだ。
 つまり、それは白紙であるはずなのだ。その問答無用の回答は、「これは何だ?」と問い掛けつつ自答せざるをえない表現欲求によって、問い掛けている自分を回答のない回答へと突き出すことになり、もはや「これは<何>だ!!」としか言いようのない表現生活へと語るに落とすことよって、「何も考えないことを考えさせつつ何も考えない」ことを可能にするはずなのだ。
 彼は高鳴る胸を撫で下ろし、闇雲なライフワークへの没入と空しい延命から覚めた表現欲求で<余計なことを考えない>ために、つまりは<余計な考えとしての延命とライフワークの完成>を望まないために、彼は延命十句観音を十万回唱える決意をするのだ。

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