9.<眠る>とは何か!? あるいは「目覚めて眠ること」

 われわれが何をどう思おうと思わざるとにかかわらず、あるいは意識的であろうと無意識的であろうと、生命体としての<私>の存在理由とは、「荒れるにまかせる自己愛」といいうる変容の真っ只中においてさえ、その変容を自覚しうる「とりあえずの〈私たりうる私〉」を台座としているのだ。だから「〈私たりうる私〉としての荒れるにまかせる私」と「〈私たりえぬ私〉としての荒れるにまかせる私」が、<私>的存在を軋ませ揺らぎを与えて精神障害を抱え込ませるほどに苦しめることがあるにしても、あるいは愉悦境に住まわせるほどに快適にすることがあるにしても、さらにはそんな<自己愛>に自覚的であろうと無自覚的であろうと、「<私>でありつづけようとする<私>が生きつづけている」ことに変わりはないといえるのだ。
 そこでヒトビトが、自覚的・意識的な<私>としてしか生きえぬことのストレスを解消するために、なんとか「眠る」という手段で無自覚的・無意識的な<私>にすべり込んでみても、やはり「<私>でありつづけようとする<私>が生きつづけている」ことに変わりはないのだ。それゆえに、ここでとりあえずは無意識者でありながら、いわゆる深層の意識者として「眠りながらに<荒れるにまかせる私>」は、目覚めているときと同様に〈私たりうる私〉と〈私たりえぬ私〉の狭間で、何ものかに追われて逃げつづけたり、驚き、泣き、わめき、叫び、笑いつづけている有り様なのだ。
 したがって、<何>行者が昼夜を問わず「積極的に<消極的な自己愛>」を生きるつもりでも、意識者として「目覚めている」ときには「荒れるにまかせる私」への<何>的反省に覚醒していられるが、無意識者として「眠っている」ときには思わぬ夢にまどわされたりして、結局は意図的に「荒れるにまかせる私」を「<何>的に眠りつづける」ことが困難になってしまうのだ。それゆえに、この「<何>的に眠れる」ようになることが<何>行者の修行目的のひとつでもあるのだ。
 ところで消極的な「荒れるにまかせる自己愛」に覚醒しそれを体得しているということは、<自己愛>への積極的な<何>化が生きられているわけであるから、この覚醒時においては「〈私たりうる私〉=〈私たりえぬ私〉」、「意識=無意識」、「自覚=無自覚」であるために、「何の生命力」として生きているかぎり「眠ること=目覚めていること」が言えるのだ。
 言い換えるならば「<何>的睡眠」の境地においては、「<何>的に眠っている」かぎり「荒れるにまかせる私」の消極性に「目覚めている」ことができ、同時に「<何>的に目覚めている」かぎり「荒れるにまかせる私」を積極的に「眠らせておく」ことができるのだ。
 では、いかにして「<何>的に眠る」ことができるのか。
 この問い掛けを言い換えてみるならば、無意識者として「眠っている」ときでさえ「荒れるにまかせる私」は、はたして「荒ぶる無意識者」でありながら「<何>的に目覚めて」いることが出来るのか、ということになる。さらに言い換えてみると、「目覚めて」ていようと「眠って」いようと無意識的な欲望としての<自己愛>は、いかにして<何>化することが出来るのか、と問い掛けていることになる。
 そこで無意識者としての「荒れるにまかせる私」が意識的な世界に踏み出すことについて考えてみると、それは取りも直さず<自愛的暴力者>として生きることに他ならないために、もともと無意識から「荒れるにまかせる私」として生まれ生きつづけてきた<無意識的暴力者>であるわれわれは、自らの<暴力性>に反省の眼差しを送ることが出来たときこそ「目覚め」というわけなのだ。それゆえに、意識者として無意識の世界に踏み込むことは、たとえば冥想的な手段による反省的な自覚として欝屈(あるいは霊化)した自愛的欲望を白日の下へ引き出すことであるから、ことごとくの<私たりうる私>の影に「私たりえぬ欲望」を掘り起こし、<私たりえぬ私>の影に「私たりうる欲望」を掘り起こすことになる。
 つまりここで言いうることは、逆説的ではあるが、<何>行者としての日常生活において<無意識的な自愛的欲望>の解放がなされていれば、必然的に「<何>的に眠る」ことになるというわけであるから、夢のなかで「荒れるにまかせる私」であるうちはまだ<何>化されていない<無意識的な自愛的欲望>を抱えているということになる。無論、夢の中でも<何>行者として<無意識的な自愛的欲望>の解放をすべく、<何>的冥想によって「眠る」ことが望まれるのだ。
 そして、ここに言う<何>的冥想とは、「とりあえずの<私たりうる私>」としてある無意識的な<私>を、あくまでも<とりあえず>にすぎないと意識化していくことであるから、それは<私>的意識というものが、もともと<私たりえぬ私>という一切の無意識的な世界における勝手な思い込みにすぎないことを、ことこまかな日常生活の<想い><思い><念い>について悟ることなのだ。この日常生活における様々な<私たりうる私>への<想・思・念>を、自ら思い過ごしであったと了解・納得できなければ、誰かに頼まれて体裁だけを取り繕っても<何>的に「眠り」「目覚める」ことはできないのだ。
 いずれにしても、<何>的自覚者として「目覚めている」かぎり、たとえ「眠っていても」無意識的な<何>的自覚者として「目覚めている」ことになるけれど、その逆に未だ<何>的自覚者として「眠っている」かぎりは、たとえ「目覚めていても」無意識的な<何>的自覚者として「眠っている」というわけで、それは自愛的暴力者として「目覚めている」かぎりたとえ「眠っていても」無意識的な自愛的暴力者として「目覚めている」ことと同じになってしまうのだ。
 結局ヒトビトは、<何>的反省については「目覚めていながらも眠り」自愛的欲望については「眠りながらも目覚めている」というわけで、眠ても覚めても自愛的欲望にうなされているのだ。

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10.<仕事>とは何か!? あるいは<労働>をしない働きもの

 金持ちや資産家ではなく、年金生活者や保険生活者でもなく、ひねもす公園の日だまりで安酒を食らって迷想する浮浪者でもなく、ましてヤクザな遊人やソープ嬢の生き血をすするヒモちゃんでもないのに、何の後ろめたさを感じることもなく堂々と<労働>しない者として<何>行者がいる。何はともあれ隠遁者であるために労働者ではないといいうる<何>行者は、すでに善悪の価値判断を主張しえぬ<何>的表現者にすぎないために、もはや仏教的価値観を背負った出家者でもないから、今さらヒトビトの善意にすがって生きる完全消費者にもなれないというわけで、自ら「無職趣味の自由業人」と名乗れるほどの働きものでなければならない。
 つまり、<何>行者は誰かに強要されて<労働>することはないとしても、もともとは真面目な<仕事人>というわけなのだ。
 そこでとりあえず『広辞苑』を引いてみると、<仕事>とは「(1)する事。しなくてはならない事。特に職業・業務をさす。(2)[理]外力が働いて物体が移動た時に、物体の移動した方向の力と移動した距離との相乗積を、外力が物体になした仕事という」とある。では<職業>とは「日常従事する業務。生計を立てるための仕事。家業。なりわい」となっている。それに対して<働く>とは「(1)うごく。(2)精神が活動する。(3)精出して仕事をする。(4)他人のために奔走する。(5)作用する。(6)(文法用語)語尾が変化する。活用する。(7)(他動詞的に)(悪いことを)する」とあり、さらに<労働>とは「(1)ほねおりはたらくこと。(2)[経]人間がその生活に役立つように、手、脚、頭などをはたらかせて自然質料を変換させる過程」となっている。
 これらを踏まえ<仕事>について言い換えると「いかなる事情があれとりあえずは自分の意志に基づいてすることになっている目的的作業」というわけで、この<仕事>を目的とする「行為=経験」を<働く>こととして位置付けることができる。そして、<職業>を「生計を立てるために日常的に従事することになった<仕事>をいう」とすれば、この<職業>に従事する「行為=経験」を<労働>と言うことができる。
 そこで、<職業−労働>の関係をみてみると、<職業>とは経済活動としての「常識・文化・制度」的役柄というわけで労働者は常にこの役柄に拘束されることになる。この役柄的拘束を<職業的責任>として言い換えると、それは掛かるヒトビトの「体制的欲望=自愛的欲望」を円滑に「担い=担わせる」ための暴力調整機能としての<努力約束>を強要することになるが、その<責任>は<職業>の担う社会的欲望に保証された<権利>を主張することができる。つまり経済活動という暴力関係における<職業>とは、社会的「<責任>を上位の暴力者より担い=<権利>によって下位の暴力者に担わせる」という弱い者いじめの暴力的役柄のことなのだ。
 それゆえに、地位であれ名誉であれ財産であれ権威であれ権力であれ、そのような<社会的責任>を様々の暴力的価値によって捏造しうるものは、自分で勝手に担う<暴力的権利>という役柄的意味でしかない見せ掛けの安全保障と引き換えに、<下位の暴力者>の<責任>を掠奪して、弱者である職業人・労働者の努力約束ばかりを押し付けるのだ。この職業人・労働者の身分のみならず弱者・被支配者の<努力約束>が、支配者の暴力的欲望によって統治システムとして実体化されてしまえば、懲罰という暴力的制裁に拘束された被支配者の<可能性として担いうる責任>は過大評価され、それに対して<可能性として保障された権利>は過小評価されてしまうのだ。
 何はともあれ<職業>をヒトビトとの暴力関係における「対他的対自=対自的対他」としての営みとすれば、<仕事>はもっぱら自らの存在に掛かる「対自的即自=即自的対自」としての反省的な営みということになる。それゆえに生まれながらにして暴力者であるヒトビトは、生来の暴力的欲望に課せられた<約束事>がとりあえずの<努力約束>にすぎないことを知り尽くしているから、この<努力約束>である常識・文化・制度の中で暮らすかぎりは、その<約束>によって自らを武装させることが出来るというわけで、反省的な<仕事人>であるよりも暴力的な<職業人>であるほうが自愛的欲望を満足できるために、職業的役柄の拘束性に自己欺瞞を抱きつつも反省的仕事人であることが困難になってしまうのだ。
 しかし、「体制的欲望=自愛的欲望」としての社会的営みがことごとく人類滅亡への欲望を回避しえないことを見定めるときに、<何>行者たらんとするわれわれは、自らの<仕事>を職業的役柄で拘束しないように注意しなければならないが、もしも職業的役柄を回避しえないのならば、その職業的役柄が担う社会的責任と権利を消極化しうる<反省的仕事人>あるいは<臨時雇い>として、単に生計を賄うに足りるだけの経済的役柄性を<働け>ばいいのだ。それは完全消費者である雲水の日常作務のように<積極的な仕事を働き>つつ、たとえ人類滅亡の現前でも職業的な救済者として自覚することもなく、ただ座禅をするという<消極的な救済(職業)を遊ぶ>ようなものといえる。少なからず、ことごとくの自愛的欲望の「解放=開放」のために「積極的に働く」ことは、<職業的役柄>を「積極的に遊ぶ」ことでもあるのだ。
 それにしても「荒れるにまかせる力」によって生まれ生きつづけているわれわれが、何等かの意味において<働かざるをえない存在>であることに目覚めているならば、金儲けが大好きで「仕事(職業)が生きがいです」と言いうる根っからの<商売人>のように、何等かの因縁によって与えられた<職業>をあたかも天職として担うことで<職業の暴力的役柄>については目をつむり、身命を尽くして<働く仕事人>の潜在的な暴力性をも見過ごすことが出来ないのだから、<仕事−働く>ことの関係が「常識・文化・制度」的営為であるかぎり、無意識のうちにも孕む「自愛的=体制的」欲望にも反省的でなければならないのだ。
 したがって、ここで「荒れるにまかせる力」への反省的「行為=経験」として「働く=遊ぶ」ためには、せめて「無職趣味の自由業人」として「職業を趣味で働く」程度に留どめ、もしも可能ならば隠遁者として積極的に「働くことを働かず、働かぬことを働くように、遊ぶことを遊ばず、遊ばぬことを遊ぶ」ものとして、<何>的行者を生きることが望まれるのだ。

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11.スポーツとは何か!?

 とりあえずいま<スポーツ>に対応する日本語を選び出してみると、<体操><体育><運動><競技><冒険><娯楽><遊戯>などが浮かび上がってくる。そこでこれらの日本語を手掛かりとして<スポーツ>の要素について考えてみると、「学校教育」「社会教育」「体位向上」「健康維持」「心身鍛練」「限界・記録への挑戦」「未知への冒険」「競技・勝負としての闘争心の満足」「ゲームとしての遊戯性」「見世物商売(ショービジネス)」「生活様式(自己表現・ファッション)」というようなことが言える。しかもこれらの要素は単独で成立しているわけではなく総合的に機能することによって<スポーツ>の楽しみを保証しているのだ。
 <スポーツ>における種目には、それが生まれてくる「常識・文化・制度」的な制約や要請を無視することは出来ないが、より多くのヒトビトの公正な判断を保証する<ルール>を確立することによって、インターナショナルな性格を持つことが可能になり<スポーツ>による国際交流を語ることができる。ところが<スポーツ>という名の闘争心は、様々の<私たりうる私>という欲望を刺激して地縁・血縁の連帯感を高め<私たりえぬ私>への差別感情を満足させるために、とりあえず相手と殺し合うという徹底的なダメージを負わず負わせないというだけのことで、実は<スポーツ>という名を借りたナショナリズムの代理戦争であることを否定できないのだ。
 そこで<スポーツ>が、たとえ<遊び>としての意義を唱えてもその<遊び>は「戦いの疑似体験」へと語るに落ちてしまうのだから、結局プレーヤーとして育まれる<自覚>の問題について考えてみると、個人競技の場合は、誰に頼ることもなく自分で判断し決断し実行することが要請されるために、「荒れるにまかせる力」として生まれ生きつづけてきていながらそのことに無自覚であるものを<私>的存在へと目覚めさせることができ、団体競技の場合には、個々人がひとつの目的のために自分に与えられた共同主観的な役割を自覚し協調して戦う社会性を養い、情熱的な闘争心の昂揚という感動を共有することができるというわけなのだ。
 この「戦いの思想」としての<スポーツ>における<自覚>の問題を、<体育>として言い繕っているのは「押し付け教育」の権化である「文部省」というわけであるが、たとえば『広辞苑』で<体育>を引くと「健全な身体の発達を促し、運動能力や健康で安全な生活を営む態度等を養うことを目的とする教育」とあり、それは単に栄養学的な食事療法とかあるいは道徳教育や宗教生活としてさえ読み替え可能なものにすぎないのだから、そんな曖昧な概念で<スポーツ>を「身体の教育=体育」として権力的に言い換えようとしてもそれは無理な相談ということになる。そもそも明治以来の国家的民族主義による富国強兵政策にもとづいて国民の体位向上を目指してきたのは「文部省」なのだから、どんな奇麗事を並べ立てても文部省の<スポーツ>に託す狙いとは「国家的民族主義としての闘争心」を鼓舞することに他ならないのだ。
 それゆえに日本の<スポーツ>には、民族意識を昂揚させるためにも古来からの<武術>を<武道>と言い換えて取り入れているわけであるが、それは<スポーツ>における<自覚>の問題が「体制的欲望=自愛的欲望」によって武装することであり、和解という保証の与えられた戦場でルールという自己規制によって戦うことであるために、「人殺しの方法と思想」である<武術>を、教育的見地と称して<自覚>の問題へとすり替えて<武道>を捏造することは誠に的確な判断と言うこともできるけれど、ここで<武道>が教育的見地から、<武術>によって育まれた「心・技・体」の統一的昂揚感という理想的境地に到達させようとしても、これもまた無理な相談と言わざるをえないのだ。 
 たとえば世界チャンピョンである柔道家が力の衰えを囁かれるときに、地位と名誉と国家的威信を背負い勝ちつづけるために、日々の努力・精進・鍛練・節制をして闘争心を昂揚させそれを維持することが<空しい>と言い、その翌日に引退宣言をして「いまは肩の荷を降ろしてスッキリしています」というわけだから、この不世出の柔道家にとってさえ<スポーツ>とは「心・技・体」の理想境とは程遠い<抑圧>以外の何ものでもなかったというわけなのだ。それは「心・技・体」の象徴である相撲において横綱の引退声明を聞いても同じことなのだから、<体育>のみならず<スポーツ>という思想において「心・技・体」とは、常に<力尽きた暴力者>を送る言葉にすぎないということになる。
 そもそも「心・技・体」とは、殺されるか生き残るかの絶体絶命を生きつづける武術者の<自覚>としてしか維持できない境地なのだから、いつでも<引退>できる「武道家の自覚」とは次元の違う問題なのだ。したがって、どうしても<体育的見地>においてその目標を「心・技・体」に定めたいと願うなら、とりあえずここに言う<心>とは国家的民族主義のために「昂揚しつづける闘争心と勝つことへの集中力」を維持しつづけることでしかないのだから、ここでは正に帝国主義という亡霊に取り付かれた「文部省」の悍しき野望が露呈するだけなのだ。
 そしてもうひとつ<スポーツ>における時代錯誤・権威主義・教条主義という病気に<アマチュア精神>がある。われわれは、いかにも教育的見地に取り付かれた<アマチュア精神>の欺瞞性について、まずは<スペシャリスト>と<スポーツ用具>の開発という<プロフェッショナル>な経済関係から見ていきたいと思う。
 いまヒトビトが<スポーツ>に関心を寄せる条件をみれば、もはや「限界・記録への挑戦」「未知への冒険」「名誉を背負った闘争心」「遊戯性」「見世物商売性」が主要目的であることを無視することはできない。このことはあらゆる<スポーツ>が<スペシャリスト>を要請していることからも理解されるところであるが、この「スペシャリストの養成」とは高度化された<スポーツ用具>が不可欠であり、自分の目的に合った用具を選ぶことが重要な問題なのだ。
 ここで<スポーツ用具>の担う意味について考えてみると、あらゆる<スポーツ>は全裸で人間的な身体の可能性のみを求めて行われる以外には必ず目的に応じた<用具>を必要とするわけで、<用具>は競技者の能力を十分に発揮させるためのものから、競技の結果・記録への合目的性によって競技者の能力を十二分に発揮できるものへと改造されつづけることになる。
 しかし、予想を越える好成績をもたらす<用具>が開発されると、保守的なヒトビトは<用具>の技術革新を抑圧して現状の利権を温存させることに夢中になるけれど、いまさら「道具は目的によって生まれつつ目的は道具によって生まれる」という人間と道具の歴史的経過を顧みるまでもなく、「スポーツは目的的な用具によって生まれつつ用具はスポーツによって生まれる」にすぎないのだから、<スポーツ>は、どれほどの権威もないひと昔前の科学技術に保証された「用具の規格」などに固執することなく、変化しつづける文化・技術に見合ったルールの改正をしなければならないのだ。もしもそれが怠れば、過保護になった<スポーツ>はそのひ弱さゆえに魅力を失い、より強力な<用具>でより強力に魅力的に行われる<スポーツ>に人気を奪われ、いずれ誰も見向きしないものに成り下がってしまうのだ。たぶんそれが、<スポーツ>の持つ暴力性に見合った<スポーツ>の生命力と言いうるものなのだ。
 そして合目的的な用具の開発には、様々な<スポーツ障害>という予想可能な事故から不測の事故までを回避する目的をも担うために、<スポーツ科学>といわれる学問的な問い掛けが行われるようになり、そのために<スペシャリスト>の体験とそれを科学する実験的方法が繰り返されて、それらの成果を取り入れたより機能的な<用具>の製造がなされるのだから、当然のこととして用具の開発にはあらゆる企業の新製品開発と同様に莫大な費用がかかるのだ。しかも、その費用を負担してくれるのは、新製品開発によって儲けようとする製造者にすぎないのだから、製造者の競争心に煽られた投資を無視して<スポーツ用具>の開発を語ることはできないのだ。
 その意味において<スポーツ用具>は、自由競争という戦いに生き残るために改造されつづけるという<経済的構造>に取り込まれてしまうのだ。しかもこの<スポーツ用具>における自由競争とは、たとえば<自動車レース>に参加する製造者と競技者の関係のように、すでに「用具の開発」自体が<スポーツ>と言えるものになってしまうのだ。それゆえに社会主義体制という硬直化した経済構造においては、優れた自動車が製造されないのと同様に優れた<スポーツ用具>の開発が停滞してしまうのだ。
 もはや<スポーツ>は、その「用具の開発」の段階から経済構造の中に組み込まれているために、その用具を使って獲得する<スペシャリスト>としての地位と名誉が、「誇り高き暴力者=スーパーヒーロー」というヒトビトからの憧れを喚起するものとなったときには、<スペシャリスト>の使う用具が<スペシャリスト>と同時にヒトビトの憧れの対象になり、それらは様々な経済活動を展開する企業の<イメージ戦略>にまで取り込まれてしまうのだ。
 次に、<スポーツ>は自分で競技するだけではなく、その成立の根拠である「戦いの動機」ゆえに誰かと戦うための<競技会>を必要にするのだから、ここで「見せる目的・要素」を無視することのできない<スポーツ>の在り方を考えてみれば、これに明確な判断を示さない<アマチュア精神>は様々な矛盾を抱え込むことになるのだ。
 それはまず「用具としての服装」が機能のみを追及するだけではなく、<ユニフォーム>としてヒトビトに見せる目的を担ってデザインされていることが象徴的に語っているのだ。つまり使用目的のためにより洗練された<スペシャリスト>たちの高価な<ユニフォーム>は、彼らを応援する地縁血縁的なヒトビトの熱い眼差しを担うために、プロの商売道具として以外には大きな競技会になればなるほど、彼らが<ユニフォーム>を着て競技に参加することで、何等かの利益を得るヒトビトから無償で供与してもらうことになるのだ。
 そして「見せるスポーツ」の抱える矛盾とは、<競技会>というスポーツの形式においてより明らかになるのだ。たとえば、オリンピックを見るまでもなく<アマチュア・スポーツ競技会>の開催・運営にも莫大な資金が掛かり、同時にそれに参加する選手にもかなりの費用が掛かるために、より多くのヒトビトに入場料を払って見てもらわなければ競技会が成り立たないのだ。言い換えるならば、現在ではたとえ<スポーツ>と言えどもヒトビトに見てもらうことを目的にする限りにおいては、もはや経済構造を抜きにしては成立しえないのだから、ありもしない「心・技・体」の暴力者を称える<スポーツマン・シップ>とか、それを<教育>という名で歪曲した<アマチュア精神>などによって経済活動からの分離・純潔性を唱えてもどれほどの説得力を持つこともできないのだ。
 それにもかかわらず<アマチュア精神>などに固執すれば、練習する時間の確保から競技者としての生活も維持しかねる<スペシャリスト>たちは、彼らを支援するヒトビトの善意と見返りを求めぬ金銭にすがらなければならないことなる。それはあらゆる<アマチュア・スポーツ>が、自らの所属する地縁血縁的な希望を担う代表選手を捏造し、彼らを送り出すヒトビトが競技会への出場という大義名文により、寄付金と称して場合によっては恐喝まがいに多額の金銭をかき集めるという不健全な企みを容認することになってしまうのだ。その意味において言いうることは、<アマチュア精神>とは「貧りの精神」を育成し称えることでしかないことになる。
 つまり、たとえ<アマチュア・スポーツ>であれひとたびヒトビトに見てもらうものとして演出する以上、常に誰かの善意を強要してしか成立しない<アマチュア精神>などは取り下げて、経済活動を無視しえぬ<スポーツ>であることを自覚して出処の明らかな資金によって運営し出資に見合った見世物に徹するべきなのだ。
 したがって、<スポーツ>が<プロ化>することによって<スポーツマン・シップ>が衰退するなどというのは「体育的発想による権威主義」にすぎないし、もともと<スポーツマン・シップ>とは「とりあえず約束を守る暴力者」のことだから、それは<スポーツ>そのものの成立条件であると見定めるならば、<スポーツ>が<スポーツ>でありつづける限り特別に鼓舞されたり廃れたりするようなものではないと言えるのだ。それゆえに<スポーツマン・シップ>を<アマチュア精神>の拠所にしようとすることは、<体育的発想>が自らの潔癖性を捏造し美化するための姑息な言い繕いにすぎないことが理解されるのだ。
 最後にわれわれは<何>行者として、<スポーツ>を<何>化するにはいかにすべきかについて語らなければならない。
 すでに見てきたように、<スポーツ>の目指すものはとりあえずの約束を守るという条件によって「体制的欲望=自愛的欲望」を担う暴力者になることであるから、われわれは<スポーツ>が暴力者としての欲望を「解放=開放」するための手段に成りうるか否かについて考察することになる。
 つまり、<スポーツ>とはいかようにも暴力的価値観から超越的であることはできないために、<スポーツ的欲望>を<スポーツする>ことによって暴力的欲望を宙づりにしなければならないのだ。
 それは「スポーツ的欲望をスポーツすることが、いまだスポーツ的欲望でしかないのならばスポーツ的欲望はスポーツされていないが、すでにスポーツ的欲望たりえないのならばスポーツ的欲望はスポーツされていることになる」というわけで、<スポーツ的欲望>を解消するために<スポーツする>ことは、無意識のうちに「体制的欲望=自愛的欲望」によって武装している<私>を「目的のない遊戯性の快的遊感覚」へと誘うことでなければならないのだ。
 しかもそれは、<スポーツ>を憧れとしてファッション化することにより、<スポーツ・ファッション>を装うことで自己愛を温存させることではなく、自ら「正体不明のスポーツマン」として汗にまみれなければならないのだ。つまりそれは、合目的的な「練習・訓練・鍛練」を目的から離し単に<練習すること>を目的として<スポーツ>するようなものということになる。
 この<何的スポーツ・マン>は、どれほど勝れた競技者に見えようとも競技に参加する気はないのだから、たとえ競技に出たとしてもまるで勝つ目的を持たない競技者として、ヒトビトの暴力的欲望を失望させつづける無用の長物にすぎないのだ。

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