6.ワープロとは何か!? あるいは「ワープロは何も書かない!!」

 とりあえずここにいう<ワープロ>とは、「日本語ワードプロセッサ」のことである。この<ワープロ>の機能は、あの不便な「日本語タイプライター」の延長線上にあるが、しかし電子技術革新の恩恵により飛躍的な機能アツプを達成しているのだ。何はともあれ<ワープロ>が「日本語タイプライター」の域を越えることを可能にした要因は、集積回路の向上による高度な<情報>の「記憶-処理」能力を持つということによってなのだ。
 ここで<ワープロ>が持つことになる情報とは、人が文章を書くときに必要とされる一般的な知識と常識ということになるが、それはすでに国語辞典を内蔵させているとさえ言いうる語彙と、その国語辞典に保証された語彙の活用法であるが、それらは文章の編集能力として、情報の保存能力として、さらには印刷能力として機能するように組み込まれているのだ。つまり、<ワープロ>に欠如しているものは、とりあえずは文章を書こうとする表現者の創造的能力ということになるから、それはコンピュータと同様に機能させる目的・動機を外部より与えられなければ働きようがないのだ。
 いまだ発展途上にあると言える<ワープロ>は、さらに構文上の常識を備え文脈に応じた語彙を的確に選び出せるようになり、さらに操作が簡略化されていくと思われるが、どんなに進歩しようともやはり目的・動機を与えてくれる<誰か>を不可欠のものとするのだ。
 そこで<ワープロ>の「機能=性格」を、文章作成における「常識・文化・制度」的表現装置ということができるが、それは、そもそも<文章作成>とは<言葉の使い方>としての営為であり、<言葉の使い方>とは<思考方法>と直結した営為であるのだから、<文章作成>とは<思考方法>そのものの姿というわけで、<ワープロ>を使うということは、個別化されている<思考方法>にとりあえずの客観性といいうる反省的視座を措定することになるために言いうることなのだ。
 つまりそれは、個々人の<書き言葉>が共同主観性を獲得することであるから、書いた文章を誰かに読んでもらおうとするならば、当然のマナーと言うべきことかもしれない。ところが、悪字の達人である<私>が初めて<ワープロ>の<キー>を叩いたときに、CRT画面に映った自分の文章を見ても一向に思考が進まなかったことを思い返してみると、<文字の形>とは<思考の形式>であり<思考の個別性>とは<文字の癖>なのだと感じられたほどであるから、為す術もなく茫然とCRT画面を眺めていたあの感覚からすれば、<ワープロ>を使うことは<私たりうる私>の拠所である<思考の個別性>を喪失する思いがしたものだ。
 その意味において、表現者としての正体不明性を積極的に引き受けようと考えるわれわれが<ワープロ>を使うことは、悍しいほどの<私>的思考を喪失したとりあえず<私たりえぬ私>を、<空言>の<言葉遊び>へと誘ってくれたのだ。
 ところで、より完成度の高い<ワープロ>になればなるほど、ヒトビトの文章作成における規範的立場を取ることになるはずだから、斬新な創造性による常識外れの表現になじまないものになっていくと思われる。むろん高度な<ワープロ>は、「常識・文化・制度」的機能を解除して<詩的><文学的><芸術的>な表現をも可能にしてくれるはずであろうが、そのときには、より逆説的な機能として<誰か>の芸術的感覚をコピーするための「誰々風芸術の発想と表現形式」というマニュアルも用意されるようになるかもしれない。しかし、いずれにしても<ワープロ>が「常識・文化・制度」的表現装置として、あまねくヒトビトの言語表現世界に客観的な規範性を纏い君臨するようになることは想像に難くないのだ。
 それゆえに、絵実物的規範である常識・文化・制度こそを「解放=開放」せんとする<何>的表現者は、ひとたび<ワープロ>を手にしてしまった以上、初めて<ワープロ>に遭遇したときの自己喪失感にいつまでも酔っていないで、より積極的な<ワープロ>の<何>的機能について目覚めなければならないと決意するのだ。それゆえに、いまさら<ワープロ>など使わずにしこしこと手書きに徹すればいいということでは、「触らぬ神に崇りなし」という部外者の負け惜しみになってしまうはずだから、ヒトビトの言語表現世界が<ワープロ>に席巻されればされるほど、<ワープロ>機能の<何>化によってこそ絵実物的規範を無効にしていきたいと思うのだ。
 たとえば、未だ構文上の常識が不十分であるために的確な語彙を瞬時には選び出せぬもどかしさを逆手に取り、同音異義の言葉遊びによって<何>的言語を語ることができるのだ。ここに『現代芸術の地平』(市川 浩著) という書物からP.5の初めの部分を引用してみたい。

 「一本の線の出現は<意味>の誕生である。しかしその意味は、空白の<無意味>の海のなかでしか<意味>でないことを認めなければならない。<意味>としての一本の線の出現は、ただちに空白を<意味>としての空間にかえる。一本の線は新たな<意味>を誕生させる<意味作用>となるのである。そしてこの新たな意味の誕生は、引かれた線がみずから<無意味>へと後退することによってあがなわれなければならない」とある。
 
 これを作意に満ちた<ワープロ>の戯れにまかせると
 「一歩んの栓の出減は<忌み>の嘆生である。しかし園いみは、食う吐くの<無い味>の生みの名かでしか<意身>出ないことを水戸め無ければ奈良ない。<医未>とし手の逸本の千の種津厳は、ただ血に苦得履くを<胃見>敏ての九感にカエル。一本乗せんは荒田な<異身>を短錠させる<威魅佐用>となるのである。阻止て個の荒棚いみの端情は、火刈れた選が水から<六医見>へと交替刷ることに酔って上縄れ無ければ鳴らない」というわけで惨たんたる有り様なのだ。

 あるいは、すでに「閃きの論理」のところで提示した構文のように、<ワープロ>を「常識・文化・制度」的表現装置として機能させる「目的・動機」こそを抜き取ったまま、<誰か>の「発想と表現形式」のみを提示することにより、<ワープロ>的言語を<何>化していくことができるのだ。そこで前出の文章を引くと

 「    の出現は    の誕生である。しかしその   は、   のなかで  しか      でないことを認めなければならない。    としての      の出現は、ただちに   を    としての   にかえる。   は新たな      を誕生させる     となるのである。そしてこの新たな    の誕生  は、     がみずから    へと後退することによってあがなわれなければ  ならない」というわけである。

 この正体不明の構文は、<誰>によってでも活用されるものであるために、もはや<誰>のものでもない<在り来りの発想>へと埋没してしまうのだ。

 そこで上記の構文を遊び半分に<何>論で埋めていくと
 「<没個性的ワープロ>の出現はとりあえず<沈黙する表現者>の誕生である。しかしその<沈黙する表現者>は、自愛的欲望に鎧われて絵実物物語を語ろうとする表現者たちのなかでしか<沈黙する表現者>でないことを認めなければならない。<沈黙する表現者>としての<ワープロ>の出現は、ただちに<私たりうる私>のために絵実物物語を語ろうとする表現者を<私たりえぬ私>としての<沈黙する表現者>にかえる。正体不明の<ワープロ>は新たな自己喪失感によって快適に絶望する《<何>の肖像》を誕生させる<何>的反省となるのである。そしてこの新たな《<何>の肖像》の誕生は、そんな沈黙を苦悩と感じる表現者たちをそれでもなお絵実物的欲望で回復させようとするならば、没個性的であるはずの<ワープロ的機能>がみずから体制的欲望を担う<常識・文化・制度=絵実物物語>へと後退することによってあがなわれなければならない」のだ。

 つまり、ここで<没個性的ワープロ>はたとえ体制的欲望を担っていようとも、<空言のシステム>として自愛的欲望に鎧われた絵実物的表現者を<沈黙する表現者>へと変身させることになるから、<ワープロ>はことごとくの正体不明者の欲望を担ってこその<個性的な物語の何景>を語り、<沈黙する表現者>はヒトビトの欲望を担ってこその<没個性的な物語の何景>を語ることになる。ここで語られる<何>景は、表現欲求の横滑りという意味においてのみ<絵実物もどき>の「<何>の肖像」として絵実物的欲望を宙づりにすることが出来るのだ。
 言い換えるならば、いかに<没個性的ワープロ>であれ自愛的欲望による自己実現のたために機能させれば、表現者は体制的欲望を担うことになってしまうのだから、とりあえず沈黙しているにすぎない絵実物的表現者であるヒトビトは、「表現欲求を宙づりにする」戯言の手段として<ワープロ>を活用しなければ、<何>的反省の絵空事物語を語ることが出来ないというわけなのだ。

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7.食事とは何か!? あるいは「スカを食う!!」

 「食べること」は動物の生存における必要条件といえる。ここでわれわれが、食事について考えようとすることは、一日中餌をあさって働きつづける昆虫が「生きつづけるために食べること」から、贅沢三昧のグルメや情緒不安定で食べずにはいられないという哀しい食欲が「食べつづけるために生きること」に至るまでの行動様式について、いかなる反省が可能であるかということについてなのだ。
 ところで、すでにわれわれは貨幣経済という体制の中で生きつづけているために、すべてのヒトビトが自らの食物を生産し捕獲するという野性的生活からは解放されている。それゆえにヒトビトは、その日一日分の食物が買えるだけの賃金を働けば、何はともあれ何日間か生きのびられることになるが、それも賃金になる仕事と働ける条件が保証されてのことにすぎないけれど、そのような常識・文化・制度を支えるヒトビトは、たまたま何等かの都合があって働けない場合にも、それなりの方法によって<食べられる>だけの生活は保障されることにはなっているはずなのだ。しかしそのような制度はその多くを国家の行政的責任に委ねてあるが、いかなる国家も結局は権力者によって私物化されやすい体質だから、ヒトビトの善意を強要することはあっても自ら弱者の救済に尽力することは少ないと言わざるをえないのだ。
 とりあえずここで言えることは、野性生活の「荒れるにまかせる欲望」に委ねられた<自然的ルール>と同様に、ヒトビトは貨幣価値という「荒れるにまかせる欲望」に委ねられた<自然的ルール>に換算しうる食物を食べて生きているわけで、それは同時に常識・文化・制度によって認知されたもの以外は「ゲテもの」などとよばれて、なかなか食物としての身分を確保しえないということなのだ。しかしヒトビトは食卓というルールの中においても冒険心を忘れることができないから、「ゲテもの」には「ゲテもの」であるがゆえの希少価値を捏造し、もっともらしい日く因縁を取り繕い自らの常識・文化・制度にとり入れてしまう。
 いずれにしてもヒトビトは、自愛的欲望に愛でられし常識・文化・制度によってしか何も食べられないのであるから、時と場所が変わることによって食物とその食べ方は変化しつづけているといえる。それはまた、ヒトビトが常識・文化・制度を引きずりながら<食べられるもの>と<食べられないもの>を選別しながら生き延びてきたということであるから、そこでは収穫・捕獲する時期を選ばなければならず、あるいはどんなに美味しいといわれるものも食べすぎたり飲みすぎれば体調を崩してしまうために、たとえ<食べられるもの>であれヒトビトの生活に即してその時期と量がコントロールされなければ、たちまち<食べられないもの>になりさがってしまうというわけで、<食べられるもの>の基準とはかなり微妙な価値判断によって支えられていることが分かる。
 したがって、この<食べられるもの>と<食べられないもの>の選別とは、「常識・文化・制度」=<物語>に与えられた目的によっても変化しうるものであるから、<何>行者のみならず「いかに生きるべきか?」という問いに何んらかの回答を用意するものには、その生き方に応じた食事の様式が考えられて当然なのだ。
 たとえば古来からの山岳信仰である修験道には、「木喰」という穀物断ちの食生活によって得られると考える霊性浄化の物語があるけれど、「木喰」をしてまで浄化しなければ修まらないと考える霊性を持ち合わせていないヒトビトにとってはまるで馴染まないから、たとえ修験者には猿と同じような食事をすることこそが修行であるにしても、ヒトビトにとっては所詮悟りきれぬサル知恵を得る程度のことにすぎないというわけで、極端な自然主義はその不自然さによって、健康食品志向の不健康なヒトビトにさえ敬遠されてしまうのだ。
 あるいはまた、宗教的な信念や沈思黙考のために菜食主義を唱える者もあれば、過激な闘争心と体力をつけるために肉食主義に徹する者もあるであろうし、さらには美術鑑定家を気取って美的欲望を貧る者もいるというわけで、それぞれの目的に応じた<物語=思い込み>を満足させる<食べかた>があるはずなのだ。しかし、そのいずれの<食様式>も自らの目的に対してのみの有意義であるだけだから、多様化したヒトビトの自愛的欲望をすべて満足させる<食様式>などはありえないのだ。
 そこでわれわれが、<食べること>への反省として多様化した自愛的欲望を満足させないための<何>行者の食生活について語るならば、何はともあれすでに生きつづけている以上<何か>を食べなければならないのだから、せめて〈私たりえぬ私〉のために「常識・文化・制度」化された何かを消極的に<食べる>ことを心がけ、〈私たりうる私〉の自己愛のためには積極的に<食べなければいい>ということになる。言い換えるならば、われわれはすでにヒトビトの「自愛的欲望=体制的欲望」によって保証された<食物たりうる何か>を食べてしか生きえない以上、それを貧ることなく消極的に食べ、より積極的に〈私たりえぬ私〉を生きればいいということになるのだ。
 しかし、それが無理だと言うヒトビトも、たとえば食物が与えられることの恵みを神仏に感謝しつつ、時には密教のように霊的生命として生きつづける一切のものへの供養となるように、ことごとくの自然的なる恩恵への感謝こそを積極的に食べ、そして〈私たりうる私〉を消極的に生きれることができれば、滅亡に向かってギスギスした世の中を多少なりとも潤いのあるものにすることができるはずなのだ。
 いずれにしても、そのときにこそヒトビトの自己愛によって自己愛を食べつづける貧りの連繋に、かろうじて「スカを食らう」楽しみを発見することができるはずなのだ。それが「自己愛としての<何か>」を食べることなく、ただ「<何>こそを食べる」生きかたになるのだ。


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8.<排泄>あるいは<捨てる>とは何か!?

 われわれは食事をして<排泄>をすることにより生命活動を営むことが出来る。それはことごとくの生命について言いうる生理的現象であるから、たとえば宇宙食などのように排泄物を少なくするための食物などがあるにしても、<排泄>という「行為=経験」とは、自分で勝手に始めたり止めてしまうわけにはいかない自然現象として、人間的な主体的行動に対してはいたって気ままな<消極的事件>というわけなのだ。
 そんな生理的現象をとりあえず<機能>と見定めて<捨てる>という<積極的な事件>として言い換えるならば、ひとつのシステムが合目的的に機能するために必要とされた力も、目的的に活用されなかった力は初めの意味・意義・価値を変換させられて<捨てられる>というわけなのだ。それはわれわれが不必要になったものを<捨てる>ことから、電気器具が電気エネルギーを摂取して機能し不必要になった熱や騒音を放出したり、自動車が排気ガスを出し工場が工業廃棄物を出すという道具・装置などの機能についても見ることのできる現象なのだ。
 そこでたとえば音響システムをみてみると、このシステムが目的とする機能は<音>を出すことであるから、装置から放出される<熱>は不要なものということになる。ところが<熱>を利用するエアコンから放出される<音>は不要なものにすぎないというわけで、電気によって機能する器具の目的をとりあえず<音><熱><光><動力><情報>などとして利用することとすれば、電気によって機能する器具が何を必要とするかによって他の可能性は無駄な不必要なものになってしまうというわけなのだ。つまり<排泄><捨てる>ことは、生理的現象から機械の機能に至るまでエネルギーの合目的的な活用における完全消費ということが不可能であるための当然の結果にすぎないのだから、何を選択し何を排除するかということはシステムの合目的的な特性によって決定されることになる。
 もっとも、いまわれわれが生存しているこの宇宙もあのビッグ・バンという事件で解消されることのなかった<排泄物>にすぎないと考えてみれば、その<排泄物>によって生起した一切のものは何かを<排泄>しつづける運命というわけなのだ。そういえば生命の誕生が、発情という快楽への欲望によって<排泄>された情報によって始まり、出産もまた排泄器官によって併用されているという生命構造は、われわれが自らの生命現象を<排泄の循環>によって考察するときにはいかにも暗示的な事実のように思われる。この<排泄>しつづける運命とは、われわれのみならずあらゆる動物が糞尿にまみれて誕生し、あらゆる植物が前世代の屍を糧として生まれ成長するように、あるいは動物の排泄物がそのままでも昆虫や微生物の食糧になり、動物と植物は光合成の関係によって共存しているように、何かによって排除し排泄されたものを選択し摂取する何かがあるというわけで、あらゆるシステムが相互に影響を与え補完しあう循環する関係を抜け出ることが出来ないということなのだ。
 この循環する大きなシステムが「荒れるにまかせる力」をより暴力的に摂取しつつ機能して到達するところは、結局暴力的意味によって均質化された宇宙的規模の「破壊=創造」的事件へと回帰することになるはずだから、それに至るまでは、より暴力的に変容しつづける環境に順応できないシステムが自家中毒によって自己崩壊を重ねていくことになる。そこで、人間の愚かさが環境破壊によって地球的規模の自浄能力を喪失させてしまえば、もはや人間の生存が望めなくなってしまうことを憂い、人間が自ら管理しえぬ<廃棄行為>に何等かの警鐘を喚起しようとしても、所詮は人間も暴力的に在るようにしか在りえないというわけで、かつて人間的知が自らの反省力によって自愛的暴力を完全に支配・管理しえたという歴史はないのだから、自らの愚かさを得意になって言い立てるほどには賢く生きられはしないのだ。
 何はともあれ生成流転や輪廻転生を<排泄の循環構造>と見定めるまでもなく、ひとつの現象がその姿を変えつづけていくときに、いかなるものであれ自己完結的に消滅してしまうことはありえないと知るならば、とりあえずの<消滅>とは完結的なまでの<変容><変様>というわけであるから、何かが何かへと変化するときにその変化という機能の有効性を高めて、自らの排泄物によって自家中毒を起こしかねないものの排泄を少なくするためには、とりあえず<消極的に摂取>することによって<積極的に燃焼>させて自己完結的に機能させるしかないのだ。
 それは、消費経済という<捨てる>ことによって加速する暴力的な循環構造の中で、せめて<捨てる>ものを少なくして生きつづけることを志すようなものであるから、たとえば仏教のいう身心一如の人間的営為を、因縁解脱から涅槃に至る修行として考えることもできるのだ。ここでは<身体>を忘却して自己増殖してしまう<精神=霊魂>という欲望の現象を、いかに完結的に解消するかということが眼目なのだ。
 言い換えるならば<積極的な自浄生活>によって生命機能を完全燃焼しうるほどに高め、その後に迎える<消極的な死>という変容のときに、いかにして精神的な欲望という排泄物を遺さないようにするかということなのだ。それゆえに仏教者が精神的欲望を解消しきれずに死に至るときには、そんな欲望を積極的な善意の霊性に委ね仏教的な霊的存在として<変容=成仏>することを願うことになるのだ。

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