3.メガネとは何か!? あるいは「メガネは何も見せない!!」

 「ボヤケて見える」「ゆがんで見える」というヒトビトの発言には、すでに「ハッキリ見える」「チャント見える」という<正常性>が措定されているわけで、それは「目が不自由であるという病気」に対する<健康>を前提にしていることになる。もっとも一般的には、今まで見えていたものがよく見えなくなることによって、初めて目が悪くなったと感じるのかもしれないが、初めに裸眼で見えていた視力が人によって様々なのだから、ここでは<正常><健康>という概念もかなり曖昧なものにすぎないといえる。 
 そこで「よく見えない」事態には、メガネ(あるいはコンタクト・レンズ) をかけ<矯正>することになるが、それをはずしてしまえばまた故の木阿弥になってしまうのだから、とりあえずの<正常もどき>になることにすぎないのだ。
 しかし、たとえば自動車を運転するなどという制度的要請(それは、とりあえず普通に目の見えるヒトの能力を基準にして、車の性能も道路の構造もできているということ、そしてそれらを根拠にして道路交通法が定められているということ)がないかぎり、「よく見えないヒトビトはメガネをかけなければならない」というルールなどがあるわけではないのだから、街ですれちがうすべての女性が美しく見え、カラーテレビが万華鏡のように見えるからといって、誰に文句を言われるすじあいもないけれど、ヒトビトは常識・文化・制度という規制の中で何んらかの不自由を感じてメガネをかけてしまうのだ。 
 ところがここで「自由によく見える」ことが<正常もどき>であることを忘れてしまうと、「よく見えない」ヒトビトは、メガネなしにはものの実相が見えないと思い込んでしまうが、裸眼で「よく見える」ヒトビトにしたところで、多分猛禽類のタカのようには見えていないであろうし、複眼のトンボのようにも見えてはいないであろうし、片目づつしか前を見ない魚のようにも見えてはいないはずなのだから、結局のところ「常識・文化・制度」に保証されている限りにおいて「よく見えている」にすぎないというわけなのだ。
 つまり、メガネをかけて「よく見えるもの」とは「常識・文化・制度」的様相にすぎないのだから、そこに見えるものがそのままものごとの実相であるなどという保証はどこにもない。現に裸眼で「よく見えていた」ヒトビトにしたところで、常識破りの望遠鏡や顕微鏡というメガネをかけることによって、自らの確信していた世界観が崩れ「よく見えていた」はずの眼もたよりにならないことを知ることになる。
 したがって「よく見える」ということの曖昧さから「見ること」を考えなおしてみれば、それはメガネをかけていようと裸眼であろうと、どのような視座(価値観)で「見ているのか」ということへと辿り着かざるをえない。
 その意味において、「常識・文化・制度」という怪しげな価値観を前提にしているかぎり、「よく見えるようになるために」といってメガネをかけても、メガネは「ありきたりの価値以外には何も見せない」のだ。
 だから、せっかくメガネをかけるチャンスが与えられたヒトビトは、あたかも世間に背をむけたがるヒトビトが人相を隠すために掛ける黒いサングラスで<見られたくない>という欲望を貧るように、思いっきり世間を突き放しつつもしかし<見られたくない>と思うほどの欲望を転化して<いまさら何も見たくはない>と開き直り、<正常>などという安心によっては<何も見ない>つもりの<何>的レンズのメガネをかけて、「常識・文化・制度によってしか見えない<私>」という正常病から覚めて一日も早く正体不明者になってみることをお進めしたい。
 なぜならわれわれは、無自覚なままに「常識・文化・制度」によって生まれ生きつづけてしまっているのだから、とりあえずは目をつむり「何も見ないことによってしか、新たなる何かを見い出すことができない」のかもしれないのだ。
 したがって、われわれの掛ける<何>的メガネは、たとえヒトビトに「色メガネで見ている」と中傷されても、そう言わざるをえないヒトビトの自愛的欲望が見えてしまうほどに<絵実物的な色>のないメガネだから、近眼であればあるほど良く遠くが見えて、遠視であればあるほど良く近くが見えて、乱視であればあるほど良く歪みのない目的が見えるはずなのだ。それは、自分には<何が>見えていないのかに気付いた人に、今まで見えなかったものを見せるメガネというわけなのだ。

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4.クツとは何か!? あるいは「クツは履かれることを拒否する!!」

 クツは、とりあえず二本足で直立し行動する人間の直接地面にふれる部分を保護するためのすぐれた道具である。
 足になじんだクツは、まるで素足のように踏み締める大地の質感を伝えるというけれど、身体の延長としていくら素足感覚を追求しても、やはりそれは素足の延長であるがゆえに<素足もどき>にすぎない。しかもこの<素足もどき>は、ヒトビトの変化に富んだ生活様式の中で、様々の目的に応じたところで素足感覚を保証してくれるものでなければならないのだ。それゆえに<素足もどき>は、それぞれの場面で<合目的的様相>に徹することになるが、それは同時に<素足>からかぎりなく遠ざかることになってしまうのだ。
 なぜなら、どこをどのように歩くのか、走るのか、跳び上がるのか、あるいは立ち止まるのかによって、たとえば岩のように堅いゴツゴツのクツ底、するどいツメのようなスパイクをつけたもの、生ゴムで吸い付くような底のもの、あるいは平らな革底というようなわけで、正に「ヒトビトの変化に富んだ生活」が、一足のクツですべてをまかなうことを不可能にしているのだ。
 もはやクツは、ヒトビトに「履いてもらう」ために出現したにもかかわらず、自らの使用目的にそぐわないときには、まるで何んの役にもたたないというわけで、登山靴でテニスをするのは不便だし、長グツでマラソンするのも不便だし、ハイヒールでサッカーするのも不便だし、スキーブーツに至っては、まるで歩くことを無視して作られているという次第なのだ。さらにクツは、サイズによって細分化され、23.0cm のクツを 26.0cm の足のヒトは履けないし、26.0cm のクツを 23.0cm の足のヒトが履けば、まことに歩きにくく不便でしかないというわけである。
 ところがこれは、クツの本来の機能をより有効な利用価値の高いものにするために辿り着いてしまった自己矛盾であり、よりすぐれた機能は、機能そのものがその目的とそれにともなう使用者を選ぶことになり、何事においてもオールマイティーな使用価値などというものがありえないように、クツもまた、誰もがいついかなるときにでも利用できるというわけにはいかぬ不便なものになってしまったのだ。
 それは万能ではありえぬ人間が、限りなく広がる欲望を実現するために、様々の目的に応じて作り出した道具の当然の帰結と言わなければならない。
 したがってエリート化してしまったクツは、その目的性を支える常識・文化・制度を踏み出すことができれば、<何か>のみの目的に専有されることなく、<何>んの役にも立ちうる希望を拓くことができるが、ただしそれは長グツでパーティーに出たり、エナメル・シューズで畑仕事をしたり、あるいは登山靴で電車通勤するような、かなり非常識で不便な企みにならざるをえないのだ。
 だからもしヒトビトが、そんな心痛む非常識はできないけれど、それにしてももっと便利なクツを履きたいというのなら、目的の曖昧な何んの役にも立ちそうにない、それゆえに無目的に<何>もしないためになら履きこなせるはずの、つまりは生活様式が多様になりひと昔前なら<万能>という言葉を欲しいままにできたものが、<万能>と名乗ることによって自らの可能性を限定することになるというときに、たとえば日常的な履物であった下駄がいつの間にか浴衣を着たときだけの履物になってしまったように、使用価値の乏しくなった下駄的境遇のクツといったものを想定すれば、下町の繁華街の外れで売れないクツを後生大事に並べるクツ屋が、いつの間にかクツの博物館と呼べるほどにクツを愛しつづけ、いつまでも売りたくないと心に誓っているはずのクツを捜し出し、いやがるクツ屋を説き伏せて強奪同然に買い求め此見よがしに履いてみるというような不思議なことになるのかもしれない。
 それでなければヒトビトが曖昧な使用目的のままに、あるいはうかつにエリート化されたクツを履こうとしたときには、<履かれることを拒否するクツ>にクツづれや捻挫あるいは骨折などという思わぬ仕返しをされてしまうことさえ覚悟しなければならないといえる。
 すでにヒトビトの常識・文化・制度は、自分でクツを作る手段をとりあげてしまったために、目的のない無意味なクツを履く希望も生活も取り上げてしまったのだから、せめてヒトビトは、履くつもりのないクツをクツ屋さんにオーダーして<履かれることのないクツ>を鑑賞して遊んでみてはいかがなものか。
 でもわれわれは、無意味な戯れが無駄遣いという暴力に堕落してしまうことに心を痛めることになるから、エリート化したクツに生活を合わせるのではなく、ささやかなる生活場面にこそクツを合わせて履くしかないけれど、それは流用という手段による使用価値の横滑りを拓くことに他ならないのだ。
 ところがこの<流用>という手段は、「間に合わせ」という妥協的発想と癒着してしまえば精神的な貧困へと落ち込んでしまうから、あくまでも<クツの機能>を尊重しつつそれをエリート化している<物語>のみを脱落させて、「新たなる使用目的」の発見へと踏み出すものでなければならないのだ。
 たとえば「歩くことを拒否するスキーブーツ」は、その価格の高さに比べて極端なまでに使用回数の少ない怠け者だから、せめて<歩行拒否>の機能を尊重しつつ流用してやれば、あまねくヒトビトの歩行を拒否する欲望の意志表示たりうるのだから、「立っているものは親でも使え」という横着者にでも履かせてやることで道具冥利に尽きるというものだ。ハハハ

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5.時計とは何か!? あるいは「時計は時間を知らせない!!」

 ここに『絵空事シリーズ/NO.96-P.7('81.11.18)』がある。この<6F>の中で水色の文字(a)は、もともとメモ用紙に書かれた<時間の物語>であり、青色の文字(b)は<6F>にシャープペンシルで下書きをした<時間の物語>であり、紫色の文字(c)は色分けをして書き上げた<時間の物語>であり、黒色の文字(d)は仕上げの終わった<時間の物語>になっている。とりあえずそれを引用してみると

    81.11.18

 (a) いまこの6Fにおける表現行為の端初を、この位置で16:47とする。(b) ( 17:29 )  (c) 18:10
 (a) 部屋は薄暗く、作業机に60Wのスタンド照明がひとつ。(b) すでに天井に20Wの蛍光灯もついている。
 (a) 室温は約2m高で… 約16℃… 暗くてよく見えない。約50cm高で、11.5℃。FMラジオが流れる。バービー・ハンコックの何んとやら…。そしてあいかわらずの電波障害。(b) いまはアーネスティン・アンダーソン。刺激音なし。
 (a) ガラス窓はすべて霧のような露、白濁した視界に、ほとんど快晴のまま暮れていく高原。風もないようだ。気温はたぶん0℃くらい。ちょっとまって… いま外の寒暖計見てきたらピッタシ!! (b) もう−2℃だよ。(c) たぶん−4℃くらいだ。
 (a) この位置で16:56 (b) ( 17:44 ) (c) 18:17
 (a) さめたコーヒーを一口 (b) さめたコーヒーを一口 (c) さて熱いコーヒーでも入れるか…。
 (a) 実は、これは作品化することを意図した表現行為の似非「事件の現場」性としてある。なぜなら、ここは6Fではなく、メモ用紙にシャープペンシルで記入している。(b) ここは6Fさ、ただしシャープペンシルでね。(c) とりあえず、ここは事件の現場!!
 (a) さて、ここまで来たところで、負化されている作者が<負化されている>ために、何んらかの意味を書かれていないものとして充実させようとしていることが了解されるため、このメモ用紙における出来事を開放論的に反省的対自化すべく、つまりは6Fと表現者という関係をひとつの「事件」として露呈させるために、いわゆる本番としての6Fに向かわなければならないと思う。17:08 (b) ( 17:52 ) (c) 18:24
 (a) さあカーテンを閉めよう。誰かに見られている感じ。(b) たぶんそれを見ていたのは私。
 (a) 作品と対等にあるはずのものを<書く>という行為のみとすれば(いやいやこれを表現者の心意気とすれば)、「また文字だよ!!」といって読まれずに見過ごされることで、表現者の屈折した心情が、これを読んでしまった物見高い人によってわざとらしくもいまいましく喚起される。17:23 (b) ( 17:57 ) (c) 18:30
 (b) ラジオの時報が鳴る。18:01  (c) 18:31
 (d) 完了は18:35

 この<6F>で反省的な方法によって重層的に語られている<時間の物語>は、最後の18:01になって多分18:00と思われる時報が鳴ることにより、常識的な時間性から脱落してほとんど信用するに値しないものとなる。しかしそれによって<6F>は、<時間>という約束事を絵空事的欲望によって掠め取ることに成功し、<時間たりえぬ時間>によってこそ語りうる<時間の物語>を拓くことが出来たのだ。
 そもそもわれわれが日常的に<時計>で知ることができると臆断している<時間>とは、いつのまにか数学という神学によって出現することになった超越的で普遍的な<時-神>の言葉になってしまっていると言わざるをえない。その意味において<時計>とは、<時-神>の言葉をヒトビトに告げることのできる予言者なのだ。
 しかし予言者であるということは、神の忠実な下僕であることに他ならないから、<時計>が<時-神>そのものになることはできない。それは、どんなに厳密な<時計>であっても、限りなく<時-神>に近付きつづけるのみで、決して<時-神>学によって語られる<時間>そのものを体現することはできないのだ。
 ところがヒトビトは、<時計>が<時-神>の予言者にすぎないことを知りつつも、過去と未来を現在につながるものとして位置付ける統一的な遠近法的論理の明解さへの確信に身を委ね、いつのまにか<時計>によって語られる「言葉=目盛り」が、目に見ることのできぬ<時-神>の真実の言葉であると錯認してしまうのだ。
 すると<時-神>が、自らチクタクとつぶやいたり、あるいは何かの物質(鉱物)に憑依して規則的な周波数で囁いていると思念されることになってしまいかねないが、それも結局のところ<時計>が自らを権威づけるために<時-神>を捏造し、<時間>を受肉していると見せ掛けることによって、己の理想にすぎない<均質性><不変性><永劫性>などを語っているにすぎないといえる。もっとも<時>を掌る<神>が存在するとしても、その<神>は<時>を超越しているからこそ<神>たりうるわけであるから、どんなに気張っても<時計>はかりそめに<神の言葉>を語っているにすぎないことは明白なのだ。
 いいかえるならば<時計>は、永劫に動きつづけることができず、しかも永劫に誤差を孕みつづけるという己の揺らめきを隠蔽するために、「自然=宇宙」の摂理である「荒れるにまかせる力」から揺らめきを掠奪して、唯一絶対的なる<時-神>を偽造したということなのだ。
 それゆえに<時計>は、自らの理想とする<時間>になろうとしつつも<時間たりえぬ時間>というわけであるから、もしも<時計>が、<時-神>の受肉者として<時計たりうる時計>になりえたとしても、そのときには人間によって造られた機械でありながら、決して人間によって造られたものであってはならないという<時計たりえぬ時計>になってしまうのだ。つまり、強引に<時-神-計>なるものを想定してみても、「超時間的」に永劫に遍在するはずの<時-神>の出現とは、常に「いま」「ここ」を示すばかりで遠近法のない「時たりえぬ時=<何>化された時」を語るだけの<時計>にすぎないのだから、すでに<時計>であることの存在理由を失っていると言わざるをえない。 
 これを、<時計>が己の理想を<時-神>にしてしまったために背負うはめになった宿命にすぎないと見定めることができるならば、季節の移り変わりとか人の生死として語られる「荒れるにまかせる力である<何か>」のありもしない正体を<時-神>などと呼ぶこともなく、<時計>は、自らの性能である気ままなルールに従ってただひたすら静止に向かいつつ、とめどなくづれつづけていく<時間の物語>を語ればいいのだ。 
 それは<時間という何か>ばかりを語りつづけてきたために、それ以外の<何>も語ることができなくなってしまった<時計>に、<時間>以外の<何か>を語らせることにより、<時間>の何んたるかを明らかにしようという企みといえる。
 したがって<時計>が<時間>以外の<何か>を語りうる揺らめきに覚醒しえたならば、そのときに<時計>は、己の理想である「時間の普遍性」を喪失してしまうから、「<時>を語る表現者」によって拓かれた柔軟な遠近法で「<何>的時間」を語らざるをえなくなってしまうのだ。するとこの<時計>は、<時-神>を受肉することによって「<時>を語れなくなった<時計>」と同様に「時間の<何>化」を実現していることになり、<時>を語るものを常に「いま」「ここ」の<何>的事件へと誘うのだ。
 しかし、<時計>が常識・文化・制度によって<時計>でありつづけようとするかぎり、われわれは<時計>を覗くたびに、テレビ・ラジオによって矯正されつづけるという堕落した<時-神>の淫らな囁きと、永劫に不良品でありつづける屈辱の軋みを聞かされることになる。

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