(3) 日常生活の<何>景


1.ストーブとは何か!? あるいは「ストーブは何も燃やさない!!」

 いまさら取り立てて言うほどのことでもないけれど、ストーブは「何かを燃やして部屋を暖めるもの」といえる。たとえばガス、電気、灯油を燃やして部屋を暖めるが、ガス・ストーブはガスだけを、電気ストーブは電気だけを、石油ストーブは灯油だけを燃やし、それら以外の<何>も燃やさないことになっている。つまり<ストーブ>は、「<何か>以外の<何>も燃やさないことによってストーブたりうる」わけで、ストーブが燃料以外の家屋を燃やしてしまえば、自らをストーブとして意味づけている潔癖なまでの排他性(自己同一性)を堕落させ、単なる火災原因になりさがってしまう。
 ところが、燃料がひとつのものに限定されているストーブとは、ストーブの中でも貴族趣味的なエリートというわけであるが、それに対して<まきストーブ><ダルマ・ストーブ><暖炉><囲炉裏>などの伝統的なそれゆえに正統派ともいいうるものたちは、「とりあえず燃えるものは何んでも燃やす」ことができるのだ。
 そこでこれらのストーブを家の中に置くということは、自らも可燃物である家屋にとっては、新興貴族的ストーブを置くときとは異なりより厳密な意味において心を許すことができないことになる。そこで、これらに関してとりあえず言えることは、家の中で管理・制御されている<火>であることによってこそ<ストーブ>たりえているというわけである。それゆえに「燃やす何かを管理されている」ことがストーブとしての必要条件であるとすれば、<ストーブ>とは、「燃えてしまうものの中で、燃やしていものだけを燃やすもの」と言い換えることができる。とすれば、とりあえずはここでも「選ばれた<何か>以外の<何>も燃やさないことによってストーブたりうる」ことが確かめられたことになる。それは、焚火についても言えることで、「燃えている火」を管理する人がいてこその焚火であり、誰もいないところで燃えている火は単なる不審火にすぎず、まして管理しきれぬほどに燃え上がった焚火とは立派な火災と言うわけなのだ。
 ところで、ヒトビトが家にストーブを置くということは、燃料とする<何か>のみを燃やすことによって、何んでも燃やしてしまいたいという<火の欲望>を制御し、それ以外の<何>も燃やさせないというのであるから、ヒトビトの暖まりたいという欲望を充足させるために<燃やされる何か>とは、<スケープ・ゴード>というわけである。 
 言い換えるならば、ヒトビトは家という世界において<荒ぶる火の欲望>を宿す<ストーブ>という現世利益の<神>を信仰する者となり、神の御機嫌をそこねないように犠牲を捧げ、それによって神の祝福に温もっているというわけなのだ。
 思えば家の中で火を燃やすことが持つ宗教的側面は、あの密教の加持祈祷の手段である「護摩の火」にこそよく表れていると言うことができる。様々な儀式によって供物を燃やす火が密教的霊魂観で管理されてこそ抜苦・願望成就の法火たりうるのだから、霊的能力で管理しえぬ火ならば、それは家の中でするかなり危険な焚火にすぎないことになってしまうのだ。
 ところでヒトビトは、ひとたび十全なる管理者として<火>を制御しえていると思い込むうちに、かつての宗教改革を唱えたヒトビトが神からの自立をとなえ神の超越性を個々人のものとして相対化していったように、自らの<家=世界>を<ストーブ神>が出生する以前のものとして意識することになるが、そのときには<神であるストーブ>を自らに内在化させることになり、何んでも燃やしてしまわずにはいられない<神的な火の欲望>を自己愛の中に発見する宿命を背負うことになる。しかし<ストーブ>にしてみれば、その<家=世界>に置かれる以前から<ストーブ>としての自覚を持っていたはずであるから、誰にいかなる理由で占有されることになったとしても、<神的な火の欲望>を温存させるためには<誰か><何か>に憑依して生き延びてしまうために、生きつづけるかぎり回避することのできない「火による世界支配」という<私たりうる私>への熱い念いは、すきあらばいつでも<世界=家=私>をも燃やし破滅させずにはおかないという自己矛盾に陥ってしまう。
 したがって<ストーブ>とは、己の存在理由ゆえにいつでも自己崩壊せざるをえぬ自己矛盾の真っ只中で、切羽詰まった自己制御によってかろうじて<何>的欲望を燃やしつづけているというわけなのだ。それはまるで、自然的存在であるわれわれが、自らの自然的財産を「荒れるにまかせる欲望」で食いつぶしながら人類滅亡の現前で青息吐息であることと同じ姿なのだ。
 とりあえずここで、<ストーブ神>とその管理者たるヒトビトは平和的に共存しえているかのように思われるが、しかし<荒ぶる火の欲望>を管理しえているという臆断こそが単なる思い上がりいすぎないと言わざるをえないことは、われわれが「荒ぶる業火」で欲望を成就させればそこには人類滅亡しかないけれど、<荒ぶる火の欲望>としての<神>が自己を回復することは、人類滅亡の後でいつか再び生命を生み出す権能を手に入れることになるはずだから、<荒ぶる火の神>はヒトビトに対する「欲望の超越性」を解消してはいないと言えるからなのだ。より簡潔に言えば、宇宙の始まりが<荒ぶる火の欲望>であったのだから、自愛的欲望を人類滅亡へと誘う動機もまた<荒ぶる火の欲望>であるということなのだ。
 それゆえにヒトビトが、<ストーブ神>に救済を求めつづける苦悩者であることを自覚している限りは、<世界=家=私>の中に<神>の位置を確保しなければならず<荒ぶる火の欲望>のために犠牲の燃料を注ぎつづけるのだ。しかし<ストーブ神>の救済能力とは、とりあえず「温もりの祝福」が与えられることのみで十分な存在理由を獲得してしまうために、ヒトビトの勝手な思い込みによって<完全燃焼>としての<神>を望んでも<神>がそのようにあるという保証はえられないのだ。つまり<荒ぶる火の神>は、常に「温もりの祝福」という崇高さと同時に「排気物」という禍いの魔性を孕んでいるというわけなのだ。
 それは、両義牲の<ストーブ神>という役柄こそを解消しようとする涅槃寂静を求めぬかぎり回避することのできぬヒトビトの宿命であるから、とりあえずわれわれは、少し開けた窓が凍って動かなくなった部屋の中でささやかに燃えつづける<ストーブ>に、己の「荒ぶる業火」の尽きることのない高まりを辛うじて<何>化しえている努力精進を見詰めていることになるのだ。
 いま正に「ストーブは<何>として燃えつづける」のだ。

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2.マグ・カップとは何か!? あるいは「マグ・カップは何も満たさない!!」


 いま机の上にあるマグ・カップにはコーヒーが入っている。それゆえに、いまこのマグ・カップには、紅茶を、ココアを、緑茶を入れるわけにはいかず、ましてペン立てにするわけにもいかない。ここで「<何か>によって満たされているカップは、もはや他の<何>によっても満たされることがない」ために、とりあえずは「<何か>を満していながら空にされることを待ち望む器」なのだ。
 このときに「何かで満たされている=何かによっては満たされない」マグ・カップは、中身の<何か>が少しへるごとに<何か>によって補充される可能性を広げていくことになるが、あえて空になるのを待ちつづけるならば、いずれは「何によっても満たされていない=何かで満たすことができる」ことになる。
 つまり、マグ・カップは、空であろうと何かで満たされていようと「満たす=満たされない」関係になっているのだ。
 あらためて言うならば、マグ・カップは、<何か>で満たされているときには他の<何>によっても満たされないために、空にされることを期待しつづけるが、ひとたび空になれば、今度は<何か>で満たされることを期待しつつも<何>によっても満たされていないことになってしまうというわけである。それはマグ・カップが、<何かの入れもの>としてあるかぎり、決して安定した状況として「カップたりうるカップ」というわけではなく、常に「カップたりえぬカップ」として<何かを期待しつづけている>ということなのだ。
 この情況はマグ・カップに限ったことではなく、<器>と呼ばれる容器に共通して言いうることでもあるのだ。それゆえにマグ・カップでありながらコーヒー・カップと名付けられているエリートの場合には、そのプライドの高さゆえにミルクや緑茶あるいは甘酒なんかで満たされることがあれば、ヒトビトの無神経さに腹の中が煮えたぎる思いをしているはずなのだ。しかし、たとえコーヒーを満たしていても、そのままで居続けようとするならば「コーヒーを飲まれることを拒否するコーヒー・カップ」になってしまうから、結局はそれもつかの間の充足にすぎないというわけなのだ。
 したがって、われわれがもしも<何も期待することのない>マグ・カップを見定めることができるならば、そこにはもはや「容器たりえぬ容器」として<何の入れものでもない>マグ・カップを発見することになるから、この<何の入れものでもないもの=何かのいれもの>としてのマグ・カップを、さらに「<何>そのものの入れもの」へと変身させることができる。
 言い換えるならば、容器としての身分を解かれた「<何>そのものの入れもの」であるマグ・カップは、いかなる<何か>によって満たされていようとあるいは空であろうと、常にヒトビトの現前で容器として認知される以前に、単に容器として使用可能な<何か>にすぎないものとして「ねえ、これはいったい何に使うものなの?」と問われるようなものだから、たとえそれがマグ・カップと知られているにしても「おや、このマグ・カップって何なの?」(言い換えるならば、どうしてこんなところにマグ・カップがあるの?)、あるいは「こんなところに口紅のついたマグ・カップが有るということは、いったいどういうことなの?」というわけで、マグ・カップは容器としての目的を問われることもなく、たとえば「あとかたずけをしないこと」とか「有るはずのないところに有るもの」として非日常的な情況を暗示するものになったり、あるいは「居るはずのない誰かが居たことの存在理由」として発見されてしまうというわけで、そこでは「マグ・カップがマグ・カップでなければならない」理由などは無いに等しいと言わざるをえないのだ。
 いまここでは、誰が何を飲もうと飲み終わっていようとも、または意図的に置かれていようと置き忘れられていようとも、さらにはいかなる目的があろうといかなるドラマが語られていようとも、正体不明の<何か>がとりあえずの<マグ・カップ>として存在しているにすぎないというわけなのだ。
 それゆえに<何によっても満たされることのないマグ・カップ>は、その出生の段階から与えられていたはずの使用目的すら満足に務めあげられないために、いかようにもマグ・カップたりえぬ自らの存在理由に目覚めてしまえば、今まではたとえどのような使われ方をしようとも心密かに自らの拠りどころにしていた出生の秘密さえもが崩壊することになり、もはや何とでも呼ばれ何にでも使われる節操のない<何か>として、ヒトビトの勝手な欲望物語の真っ只中に放り出されてしまうのだ。
 したがって、ここでもしも「カップたりえぬカップ」に苦悶するマグ・カップがあるとすれば、それは自己崩壊の危機を回避するために神経症や精神病に掛かり、食器棚のすみで役たたずの汚名を背負い拭い去ることのできぬ屈辱を生きつづけることになってしまうかもしれないが、「カップたりえぬカップ」という出生の曖昧ないわく因縁を解き放されて広げられた自らの可能性に身を投じることが出来るならば、たとえ生きる道を間違ったとしても「マグ・カップであることを拒否するマグ・カップ」などとして、物見高いヒトビトの羨望を一身に集め<地位>と<名誉>と<絵実物もどきの価値>に満たされて、何百年か後の美術館や博物館のショーケースの中で安閑と暮らすこともできるはずなのだ。

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