4.<閃き>の論理

 「閃めき」、それはしばしば独断的な自己発見の感動なのだ。しかしそれは単なる「思い付き」による自己正当化の言い掛かりにすぎないと言うこともできる。そもそも<感動>そのものがいたって個人的な出来事であるのだから当然と言えばまったく当然のことでもあるのだ。
 では<知>の客観性を保証するとみなされる三段論法的な合理的思考といわれるものに、はたして独断的なあるいは臆断的な思い込みはないと言い切れるのか?
 つまり問題の設定時における論点の取捨選択、言い換えるならば「何と何によって問い掛けを始めるのか」というときに<論者=表現者>に選ばれた<何か>が被る期待とか価値判断に、はたして独断的・臆断的要因がないと言い切れるのか? ところがここで<そう言い切ってしまう>とすれば、そのこと自体が独断的であることを免れられなくなってしまうはずなのだ。
 そもそもいかなる<論理>も論理そのものは思考手段にすぎないのだから、その出発点において論証すべき<何か>を選び出すときの「閃めき」を抜きにしては、論理が成立しないのみならず新たなる発見へと踏み出すことはできないのだ。それゆえに<何>論者たるわれわれは、積極的なる「閃めきの論理」を引き受けるつもりであるが、しかしその「閃めき」こそが<反省的閃めき>でなければならないことに自覚的であることによって、かろうじて神の託宣のごとき「降って涌いた言い掛かり」であることを回避しえているのだ。つまり、われわれに言わせるならば、自己愛を限りなく武装させるために神の声を「閃き」として聞いてしまうことの不幸は、いかに合理的な思考によって語られようとも受け入れるわけにはいかないのだ。
 では<何>的反省としての「閃めきの論理」とはいかなるものであろうか? 
ところが<何>的反省としての論法とは、すでにみてきたように「とめどない循環論法」であり「語るに落ちる理論」であり、ことごとくが故の木阿弥になってしまう「相乗的弁証法」とも言いうるものであることが明らかであるから、ここでは「閃き」の意味・身分というようなことについて考えてみたい。もっとも「反省的閃き」の構造については、心の<風>景としてすでに『(1)-5「風の<何>景」』で語っているために、<何>論における「閃き」の意味・身分は「閃きの<何>景」として語られることになる。
 何はともあれ非常識なる<何>論のことだから<問題>は唐突に「やってくる?」のだ。いや、唐突にやってくるからこそ「閃き」と言うわけであるが、『風の<何>景』でみたように「閃き」にはそれがやってくる情況があると言える。つまり「閃きの情況」が、すでに先在的な問題の中に用意されていることによって、ただの<思い付き><降って涌いた言い掛かり>にすぎないものを「閃き」として位置付けることが出来るのだ。その意味においてわれわれの場合には、生きつづけるかぎり<何>的表現者でいようとする反省的視座が、<私たりえぬ私>という地平を拓きことごとくの<私>的自覚を「解放=開放」する主要な条件になっているというわけなのだ。
 そこで、「反省的閃めき」が「やってくる」とは言うものの「いったい何が来るというのさ?」と問い掛けてみると、ここにはいかなる問題が設定されているかが分からないのだから、「<何が>閃めくのか」については何とも答えようがないのだ。
 しかし<何>論者の立場ならすれば、「閃き」によって唐突に<何か>が与えられるであろうと、ヒトビトが勝手に了解ずみのこととして不問に付している<何か>の<何>景を見ると、「いま」「ここ」に<何か>がやってくるのを待ち望んでいるにもかかわらず、結局は「自分以外の<何>もやってくるはずがないという自覚」に他ならないのだ。より簡潔に言い換えるならば「やってくる反省的閃めき」とは、「やるべきことをやらず、してはいけないことをしつづけてきた」ことごとくの<私>を<私たりうる私>として臆断させている自愛的欲望が、一切の<私たりえぬ私>である衝撃的で超越的な<何か>によって揺らぎを与えられる事件に遭遇することなのだ。
 そもそも人間は「いかなる理由によりいかなる目的に向かって生きるべきか?」に回答するまでもなく、ほとんど無意識のうちに生まれ生き続けてしまっているのだから、ことごとくの表現者も自らの表現欲求さえ曖昧なままに何事かを問いつづけることができるというわけで、いやむしろ自らの根拠や存在が曖昧であるがゆえに何事かを問いつづけずにはいられないのだから、唐突に「やってくる反省的閃めき」は常に「<私(という事件報告)>が<自分(という事件)>としてやってくる!!」以外には<誰もこない>し<何も起こりはしない>ことが無言で語りつがれているというわけなのだ。
 つまり「やってくる反省的閃めき」とは、<私たりえぬ私>の中に衝撃的で超越的な<自分>の反省力を発見することなのだ。
 そこでわれわれは、<何>的反省のために<あなた>の「閃き」に期待しつつ「閃きの論理」を用意したいと思う。これは取りも直さず「閃き」が反省的な創造力であることを証明することになるはずなのだ。
 
 「いま、        が               とすれば、
         は、            でなければならない。たとえば          が           を             するとしても、           は                 だから、               を                 することは、                 でないかぎり              なのだ。
しかし、                   は                       だから、                                  を          つもりなら、          を            することで、              のときに         を                   のように                することはできるのだ。それにしても             は、                   を、ことごとく          してしまうから、もしも                  ならば、            は、                          のみならず、               によって         することで           を語るしかないのだ」

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5.「誤解」あるいは「幻想の戯れ」


 たとえば<自分>が<自分>でありつづけているつもりでも、いつの間にか<私たりえぬ私>になっている<自分>に気付くことがある。そしてその逆に<自分>が<自分>の立場を主張しえぬままに、いつの間にか<私たりうる私>になっている<自分>に気付くことがある。そんな曖昧な自覚によってしか<私>たりえないものが、何事かを<判断><表現>しようとすれば、当然のこととして<判断><表現>そのものに曖昧な揺らぎが生ずることになる。
 そこでいま<ダークブルー>と<ダークグレー>に見えるふたつの色があるとする。初めにほとんど「黒だと思われていたブルー」である<ダークブルー>と、同様に「黒だと思われていたグレー」である<ダークグレー>は、たまたま黒という「共通の幻想」を持ちうるということで、互いの相違性を見定めることもなく黒という幻想によってこその<私たりうる私>に安住しているか、あるいは互いの相違性を求めつつも得られぬ情況で「でもひょっとすると黒ではないのかもしれない」という幻想を抱えたままで<私たりえぬ私>に甘んじているのかもしれないのだ。
 それは同時に、「ブルーだと思われていた黒」にすぎない<ダークブルー>と、同様に「グレーだと思われていた黒」にすぎない<ダークグレー>が、たまたまそれらの置かれた情況では<ブルー>と<グレー>という見掛けの相違性に気を取られ黒という共通性を見失い、相違性という幻想によって<私たりうる私>に安住しているか、あるいは黒という「共通の幻想(思い)」を持ちえないにもかかわらず、「でもひょっとすると黒なのかもしれない」という幻想を抱えて<私たりえぬ私>に甘んじている情況であるかもしれないのだ。
 いずれにしてもわれわれに言わせるならば、<私たりえぬ私>のみならず何んらかの幻想を纏ってしか<私たりうる私>も主張しえないのだから、たまたまこの「幻想」を踏み外しその幻想性ゆえに足をすくわれて<私たりえぬ私>へと語るに落ちるにしても、それがすでに「幻想」を孕んだ<私たりうる私>(つまりは幻想たりうる私) の<行為>として「よくあること」と了解されているならば、それはいちいち真偽を確かめることもなくそのままやり過ごされていく日常的な<表現行為=経験>と変わるところはないはずなのだ。それゆえに「ずれてしまった表現行為=経験」が「誤解」として成立するためには、すでに「幻想たりえぬ私」としての<自覚(あるいはこれを臆断と言うこともできる)>が用意されていなければならないということなのだ。
 言い換えるならば、自愛的欲望によって武装している表現者が「<私>的行為たりえぬ<私>的経験」とか「<私>的経験たりえぬ<私>的行為」として遭遇する「誤解」を、失敗とか屈辱という苦痛として感じてしまうことが、自愛的欲望ゆえの悪循環であると了解されるならば、もともと幻想によってしか<私たりうる私>を自覚できなかったものをそれが幻想であったと知ることによって、ことごとくの「誤解」を快適な<私たりえぬ私>へと語るに落とす自己矛盾の楽しみにすることができるのだ。
 つまりここで「誤解」とは、すでに常に<何かでありつづける私>を<何でしかない私>へと発見的に覚醒させる<何>的幻想の戯れでもあるから、この「ずれつづける判断・表現」をわれわれの循環法で語るならば、まず、<何か>を「誤解する」ことが、やはり「誤解」として理解されるならば、<何か>は「誤解」されているが「誤解する」ことは「誤解」されていないことになり、<何か>を「誤解」することが、もはや「誤解」として理解されないのならば、<何か>は「誤解」されていないが「誤解する」ことは 「誤解」されていることになる。
 そこで、この<何か>を「幻想」に置き換えて「誤解する」ことの<宙づり>をしてみると、「幻想」を「誤解する」ことが、やはり「誤解」ならば「誤解する」ことは「誤解」されていないことになり、「幻想」を「誤解する」ことが、もはや「誤解」ではないのならば「誤解する」ことは「誤解」されていることになる。
 つまり、「誤解する」ことは「誤解される」ことによって、あるいは「誤解されていたもの」を「誤解する」だけならば、「誤解する」ことは<何も>誤解することもなく自らの欲望を解消してしまうのだ。
 言い換えるならば、ことごとくの<判断><表現>が「幻想」ぬきには<何>も語ることが出来ないと知ったあとでは、もはや「誤解する」ことは<何>も間違ってはいないことになり、むしろ<判断><表現>の可能性を拓いて「そのように在るはずのものとしては語らず、語られるはずのものとしては在らぬ」ように、あるいは「そのようには在りえぬものを語り、語り得ぬものを在らしめ」ることにより、自愛的欲望に鎧われた絵実物世界に風通しのいい<何>景を語ることができるのだ。

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