(2) 宙づりにされた欲望


1.宙づりにされた欲望


 a.何かをしつつ何もしない



 われわれは「荒れるにまかせる力」によって生まれそれによってしか生きえないために、日々の暮らしとは何事も思い通りにはならないと知りつつも、とにかく<何かを選び><何かを排除する>暴力関係によって生きなければならないのだ。
 ところが、あらゆる暴力に対して反省的であろうとする<何>行者は、何かを選択し排除する動機である<自愛的欲望>を無力化するために、この日々のささやかなる決断からも単に逃避するのではなく、自分が選択することで何かを排除することになる暴力でまず自分の欲望を排除し、自分が排除されることで何かが選択されることになる暴力をそのまま自分の欲望を排除するものとして引き受けることにより、選択し排除する暴力を<とりあえず肯定>しつつ、自分の暴力によって自分の<自愛的欲望>を否定しなければならないところへと追い込みながら、暴力的欲望を循環させて<自己否定的に宙づり>にするのだ。
 しかしヒトビトは「<選択する=排除する>=<選択される=排除されない>」ことによって<自愛的欲望>を満足させることができても、「<選択しない=排除しない>=<選択されない=排除される>」ときには自愛的欲望を満足させることが出来ないことになる。つまり「何かをすると何かになる」という因果関係においては、とりあえず<自愛的欲望>を「満足する」と<幸福になる>とすれば、「不満になる」ことが<不幸になる>というわけなのだ。ここでは、<自愛的欲望>を「満足すると幸福になれる」ときに「満足させないと不幸になる」とすれば、当然ながら「満足させないと幸福になれない」し「満足すれば不幸にはならない」ことになる。それは同時に「不満になると不幸になる」ときに「不満にならないと幸福になる」とすれば、「不満にならないと不幸にはならない」し「不満になると幸福になれない」ことになる。
 それに対して、「何かをしても何かにならない」という因果関係においては、「満足すると幸福にならない」ときに「満足させなくても不幸にならない」とすれば、「満足させないと幸福になる」としても「満足すると不幸になる」か、あるいは「満足させないで幸福にならない」としても「満足しても不幸にもならない」といえる。それは同時に「不満になっても不幸にならない」ときに「不満にならなくても幸福にならない」とすれば、「不満にならないと不幸になる」としても「不満になると幸福になる」か、あるいは「不満にならなくても不幸にならない」としても「不満になっても幸福にならない」ことになる。
 そこで、<循環する自愛的欲望>を欲望ゆえの悪循環へと埋没させることなく、反省的に宙づりにして「<何>になる」ために「何かをしても何かにならない」方法を探るとすれば、そもそも<何>行者とは「何にもならないものになる」ようなものだから、そんな無用の隠遁者は「何かをしても何にもならない=何かをしなくても何にもならない」という根性の座った否定的な<捻くれ者>として、結局「<何>になる」ためには「何かをしてもしなくても」とにかく<幸福にならない>ことと<不幸にならない>ことの狭間に踏み止どまらなければならないのだ。
 この「何かをしてもしなくても何かにならない」捻くれ者を肯定的に言えば、「何かをすると<何>になる=何かをしなくても<何>になる」というわけだから、<幸福にならない=不幸にならない>ことである限り「何かをしてもしなくても」<何>になるというわけで、これが<何>的欲望によって「何かをしつつ何もしない」ことなのだ。
 つまり、これを再び<自愛的欲望の宙づり>によって言えば「満足することが不満であっても不満であることが満足なのだ」から「満足することは不満であるが満足しないことは不満ではない」というわけで、「幸福であることが不幸であっても不幸であることが幸福なのだ」から「幸福になることは不幸であるが幸福にならないことは不幸ではない」ということになる。
 もはや<何>的反省によって「満足=不満」「幸福=不幸」であることにより、<宙づりにされた自愛的欲望>は「何とも言いようのない=何としか言いようのない」欲望として、とりあえずは無記の「荒れるにまかせる力」ということになる。ここで「何かをしつつ何もしない」ことは<何>的生命力を喚起することになり、<自愛的欲望>を「満足させずにいられない動機」と「不満のままにしておけない動機」は、<幸福>や<不幸>という目的によって抑圧されるのではなく「解放=開放」的に「行為=経験」されて解消されるのだ。

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 b.失業する表現者


 いま<私>は、いやすでに「とりあえず」にすぎない<私>は、そう思い起こすまでもなくずうっと長い期間にわたり積極的なスランプ状態にあるのだ。
 しかし<とりあえずの私>は、創作能力の減衰した芸術家ではなく、神仏の信じられなくなった宗教者ではなく、販売実績の上がらない営業マンではなく、まして打率の下がった四番打者でもないけれど、何はともあれ「やる気はあるのに仕事がない」ともいいうる失業者的な表現者なのだ。
 そもそも<生きること>がそのまま<表現すること>である<何>行者にとっては、生きつづけているかぎり「表現するものがない」などとは言えないわけであるから、<スランプ状態>とは<私たりうる私>を<私たりえぬ私>へと送り返す反省的な集中力の欠如というわけなのだ。しかし、たとえ反省力が減衰しているとはいっても反省的表現者としてしかありえぬ<とりあえずの私>は、そんなスランプ状態をも反省的に引き受けなければならないというわけで、なにがなんでも「積極的なスランプ状態」にあると開き直るしかないのだ。
 とりあえず<失業者的表現者>とは、聞こえているのに聞いていない音楽に新たな発見を聞き出すように、あるいは見えているのに見ていない物に隠されていた欲望を見抜けるような厳密な反省力を、いかにして回復するかということが問題というわけなのだ。それは「反省する対象を見失ってしまった反省的欲望」に反省の届かぬ<私>を提示することであるから、すでに「反省しつづけること」が習慣にさえなってしまっている<何>行者に、いつの間にか「反省すること」においてさえ<私たりうる私>になってしまっているという<反省的技術>に長けた表現者性を非情なまでの反省によって掘り起こすことでなければならないのだ。
 そもそも<私たりうる私>を自愛的欲望の構造によって言い換えると、「<私>は<私>のために<何か>を愛する 〜 <私>は<私>のために<何か>に愛されたい」あるいは「<私>は<何か>によって<私>を愛する 〜 <私>は<何か>によって<私>に愛されたい」というわけなのだ。
 それに対して<何>行者の<何>的反省を見てみると、「反省的私(何的私)は<私>のために<何か>を反省する 〜 <私>は反省的私(何的私)のために<何>に反省させられる」あるいは「反省的私(何的私)は<何か>によって<私>を反省する 〜 <私>は<何>によって反省的私(何的私)に反省させられる」ことになる。
 ところが絵実物的な地平におけるヒトビトの反省を見てみると「<私>は<私>のために<何か>を反省する 〜 <私>は<私>のために<何か>に反省させられる」あるいは「<私>は<何か>によって<私>を反省する 〜 <私>は<何か>によって<私>に反省させられる」というわけで、<愛>を<とりあえずの反省>にすり替えることにより<私たりうる私>を温存させてしまうのだ。
 そこで<何>行者のスランプを考えてみると、「<私>は反省的私(何的私)のために<何>に反省させられていながら、反省的私(何的私)は<私>のために<何>を愛している」あるいは「<私>は<何>によって反省的私(何的私)に反省させられていながら、反省的私(何的私)は<何>によって<私>を愛している」というような事態なのだ。ここでは<反省的私(何的私)>が<何>という反省的技術を<私物化>することと、<反省的私(何的私)>が反省的技術によって<私化>してしまうことが起こっているというわけなのだ。
 つまり、この「反省的技術が上達してしまう」ということこそが、<何>行者を<失業者的表現者>へと陥れるスランプ状態なのだと見定めるならば、それは「荒れるにまかせる力」をそのまま「反省的欲望」にすり替え得たと慢心する反省者に用意された「反省的欲望の落とし穴」というわけなのだ。それゆえにスランプ脱出を企るならば、反省者としての存在理由に反省のメスを入れなければならないのだから、集中力の散漫になってしまった「荒れるにまかせる欲望」を為す術もなく習慣になってしまった反省に委ねてしまうことなく、対象の曖昧な欲望のままに<宙づり>にしてみせるのもひとつの方法といえる。
 そこで「宙づりにされた欲望」をヒトビトの日常生活に探ってみると、たとえばエサの前でお預けをさせられている犬のようなものだから、それは身震いするほどの欲求不満に苦悩することになったり、あるいは、寝る時間もないほどに仕事に追われて「眠くてしょうがないけれど眠ってしまうわけにはいかない生活」を続けて病気になり、結局は健康よりも大切な仕事も出来なくなってしまうというわけだから、それは病気こそが仕事をしないことの唯一の言い訳けにすぎないという仕事病患者の姿としても、やはり不成就性の欲望を背負い込むことは容易ならざる非常事態といわなければならないのだ。 
 ところがそれにもかかわらず、<何>行者はスランプ脱出のショック療法とはいえ「荒れるにまかせる欲望」を<宙づり>にしようというわけなのだ。
 たとえば『絵空事シリーズ』のNO.165-P.18(85.9.9)を見ると、白い<6F>に一部分が白く切り抜かれた赤い紙が貼ってある。その切り抜かれた白い部分に赤い文字で「が欲しかった。」と書かれている。


85.9.9


 ここでわれわれは、とりあえず「この赤い文字は何が欲しかったのか?」と問うことができる。そこでまず、<赤い台座>の中では<赤い文字(視座)>がいかなるメッセージをたずさえていようとも、それが<文字>として存在しうるためには<白い地平>こそを不可欠のものとして「欲していた」ことが分かる。しかも、「〜が欲しかった。」というメッセージは、欲求の対象が<何>であれ、その<何>的事件を過去形の報告として語り、さらにその言及の形式が完了形として語られているために、欲求されていた<何か>は、この<6F>で何らかのかたちにおいて成就されるか、とりあえずは欲求自体が解消されているはずなのだ。
 とすれば結局ここで「<赤い文字>が欲しかったもの」とは<白い地平>以外の何ものでもないと言わざるをえないけれど、それは<赤い台座>が<白い地平>という回答を先取りしながら、その回答へと誘導する問いかけを後から用意するようなもので、すでに自らの存在理由として所有している<何か>を改めて正当化するために、「<私>は以前から欲しかったものを手に入れている」と言うのと同じことだから、この自己完結している欲求を隠しながら問いかける企みとは、回答する<表現行為><表現経験>の欲求が孕む悍しき「意味形成」「価値の創造・破壊」の野望をナンセンスへと掠め取るための戯れというわけなのだ。それゆえに、この<白い地平>を不可欠の反省的地平とする表現欲求が保証されているかぎり、<赤い文字>は「<赤い台座>が欲しかった」のであり、<赤い台座>は「<赤い文字>が欲しかった」といえるのだ。
 われわれは<6F>の中に「が欲しかった。」を見詰めることにより、「欲望が自らのために欲望する」にすぎない対象の曖昧な「正体不明の欲望」を発見し<欲望の宙づり>を語ったことになるが、ここで<失業している表現者>がスランプ脱出のために仕掛けた企みを検証してみたい。
 <失業している表現者>の問い掛けが、問いつづけることによってすでに「成就された欲望」として完結していることを発見してしまえば、たとえそれが「正体不明の欲望」に絵実物的回答をしようとするヒトビトの欲望をナンセンスへと解き放す戯れのつもりでも、「欲望を成就する回答」を得ることは「問いつづける表現者」の欲望を正当化するための反省的技術により、<表現者>を<私たりうる私>へと肉化させ<何>的反省を失業させてしまうから、ここでは回答が何であるかを知る以前にやはり「反省的欲望の落とし穴」に落ちてしまうのだ。
 しかし、ここで「欲望を成就する回答」が、<何>的表現者の「問いつづける欲望」によって捏造された<何か>でありながら、<表現者>を何かへと意味付けたり価値付けることもなく、ただ「問いつづける欲望」を満足させるのみで<回答たりえぬ回答>へと語るに落ちるために、<失業している表現者>が「何が欲しかったのか?」と問い掛けることは、もともと自分は「何も欲しくなかった」けれどただ問い掛ける欲望を<宙づり>にして、「<何>でもない=<何>でしかない」仕事にありつきスランプ脱出を試みたというわけなのだ。
 ところで、<赤い文字>の欲望と<何>的表現者の欲望を反省的な欲望の構造で語るならば、<人間みなスケベ>といいうる<赤い台座>で<スケベする>という<赤い文字>が、積極的なスケベで「自分とは何か」「いかに生きるべきか」へ反省的な対自化をつづけるためには、それを<スケベといいうる>常識・文化・制度という<白い地平>を必要とするのと同じだから、何事かを<スケベ>と意味づける常識・文化・制度が解消されないかぎり、「誰かが<スケベする>のは<人間みなスケベ>であるから」といい、さらに「<人間みなスケベ>なのは誰かが<スケベする>からである」といいうる戯れの循環論法へと語るに落ちることが出来るのだ。思えばあの釈尊でさえ、自らが生まれ育った常識・文化・制度の中では、自分のスケベさえ容易に克服できないと悟ったからこそ、様々の誘惑を退けて涅槃寂静への道を修行したのではなかったのか。
 そこでとりあえず「宙づりにされた欲望」を「成就されない欲望」といえば、「宙づりにする欲望」とは「成就されないことが目的の欲望」ということになり、ここでは<不成就性>という目的を成就した欲望というわけであるから、宙づりにされて苦悩する「成就されない欲望」は<不成就性の欲望>のまま快適に引き受けられてしまうのだ。つまり「宙づりにする欲望」は、ことごとくの<不成就性の欲望>を「欲望することのナンセンス」へと陥れて欲望することの戯れを生きさせるのだ。
 言い換えるならば「宙づりにされつつする欲望」である《欲望の宙づり》とは、あくまでも「儚ない望みに溺れて身を持ち崩す」ことではなく「望みの儚なさを知る」ことと言えるが、しかしスランプに陥った<失業者的表現者>のみならずヒトビトは「望みの儚なさを知りつつも望まざるをえない」という自愛的欲望を回避しきれないのだから、何はともあれ「<何かを望まざるをえない>欲望」を<欲望しつつ>も、その<何か>を<何>化する「<何って何!?>を欲望する」ことでなければ、「欲望の自愛的陥穽」という「苦悩的欲望の悪循環」から抜け出すことはできないのだ。
 したがって<何>行者として「望みの儚なさを知る」ことは、望みの儚なさを知りつつ儚なさを豊かに成就することでなければならないから、端的に言えば<失業者的表現者>に留どまって「儚ない望みを持つこと」ではなく、<表現者たりえぬ何的表現者>として「反省的に豊かな望みを生きること」なのだ。

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