(1) 何の肖像


1.オタマジャク神

 気がつけば、わけもなく大きなオタマジャクシがいる。とりあえずオタマジャクシはオタマジャクシなのだ。
 後足の出たかなり泳ぎの下手なオタマジャクシは、忘れたころに濁った水面に昇っては泡ひとつ分の息をして、そのまま泳ぐこともなく白い腹を見せてまるで藻屑のように舞い落ちる。元気がないのか、それとも狭い水槽で泳ぐことの<空しさ>を悟った覚者の泳法なのか、それはかなり滑稽ではあるがそれなりに見応えのある光景なのだ。普段はまるで黙想のオタマジャクシとして、ただ水槽の底で何をすることもなく、それゆえにあたかも<何>行者のごとく<何>そのものとして生息するのだ。
 そんなオタマジャクシの黙想もお構いなしに子供たちが水の交換をしているけれど、オタマジャクシもまたその大きさに見合ったおおらかさで、何日おきかの手荒いサービスを受け入れているのだ。そして子供たちが、いかにも得意そうに「ねえ、おじちゃん、このオタマジャクシ、去年からずっといるんだよ」と言う。<私>は「ほう、そりゃすごいな…」とは言ってみたものの改めて気付いてみれば、オタマジャクシは、もうまる一年、この小さなプラスチックの水槽の中で大きなオタマジャクシをしているのだ。このオタマジャクシは、いつまでオタマジャクシをしつづけるつもりなのだろうか。
 それにしても、ここで越冬するオタマジャクシを発見していることに気がつけば、この水槽の中では、カエルは生まれたときからカエルでなければカエルは存在しないことになってしまうのだ。しかも本来オタマジャクシはカエルの子供としてしかオタマジャクシでありえないのだから、その意味においてもこの生きものは、もはやカエルの子供ではないのみならずオタマジャクシでもない正体不明の<何か>と言わざるをえなくなってしまうのだ。  
 しかしいまは、この<何か>があたりまえにオタマジャクシをしているからといって、誰も不思議に思うことはない春の真っ只中ではあるけれど、彼はあたりまえに春をむかえることによって、まったくあたりまえたりえぬ不思議を生きつづけるはめになってしまったのだ。それは、同じこの日暮里の家で、台所の片すみのミソの入っていたポリ容器に、レタスでそろそろ3年も飼われているカタツムリの忍耐力とは次元の違う滑稽さで春を語ることによって、自らの存在理由を喪失するという戯けた<何か>なのだ。
 だからずっとオタマジャクシでありつづけることによって、もはやオタマジャクシたりえなくなってしまった彼の偉業は、たとえば高原の水溜まりであるがままに群生してつかのまの春を語っていたオタマジャクシたちが、子供たちの出来心で都会へ連れてこられたにもかかわらず、もうひとつの水槽で数え切れぬほどの大群のまま当たり前にカエルへと成長して、しかも唐突に荒川の水辺に放されてさえ立派なカエルとして生きつづけるであろうことを思うときに、そんな元気印のカエルたちが<荒れるにまかせる生命力>を己の<愛>と見定めて、何気ない彼の偉業を自らの無言の幸せに照らして称える知恵を持ちあわせているならば、彼はその愛の奇跡によってつかのまの当たり前のオタマジャクシたちに君臨する<オタマジャク-神>への変身を成し遂げたということになるのだ。
 しかし彼は、あたりまえのオタマジャクシたちに哀しくも神々しいオタマジャクシの定めを目覚めさせることもなく、静かにこのモラトリアムの中で<何>論者たるわれわれのために「オタマジャクシ-もどき」を生きつづけるはずなのだ。
 何はともあれ自らが<神>たりうることも知らぬオタマジャクシと、<オタマジャク-神>など存在することも知らぬオタマジャクシたちは、苦悩と救済の物語など語ることもなく穏やかな春の真っ只中である。
 そういえば高原のオタマジャクシたちが、思わぬ環境の変化にも拘わらず元気印のカエルへと変身しつづけていた昨年の今頃に、いまだ奇跡的な生涯を送る羽目になるとは思いもよらぬ大きなオタマジャクシが、ときおり小さな水槽の中で発作的に暴れていたことを思い出すのだ。
 今にして思えば彼のあの発作的なパフォーマンスは、仕事の忙しさにかまけてオタマジャクシの叫びに耳を貸そうとはしなかったわれわれに、彼が当たり前のカエルに変身するためには不可決の何ものかが与えられていないことを伝えようとして、果たされぬ要求を繰り返していたということではなかったのか? 
 しかしその要求が、カエルになるために身を横たえる陸地を望んでいたのだったとしても、われわれは、もうひとつの水槽で陸地もないままに次々とカエルに成長していくオタマジャクシの姿を、いたって当たり前のこととして了解することで解消してしまっていたのだから、後ろ足が出て次に出るはずの前足が出てこないことが彼の生活環境によるものと考えるよりも、むしろ彼自身の内的な事情によるものと見なしていたというわけで、彼の叫びを理解しえぬわれわれは、彼を<魚もどき>の水中生物として飼いつづけ、いつのまにかカエルの子供であることさえも忘れてしまっていたというわけなのだ。
 そして、おおかたのオタマジャクシが当たり前にカエルへと変身を済ませたころになっていたかもしれないが、彼がオタマジャクシでありつづけることを不思議に思うこともなく、<私>は家業のアルバイトを終えて高原へと引き返してしまったのだから、彼が奇跡の生涯を生き始めていることなど知るよしもなかった。その後<私>は、お中元とお歳暮の時期にデパートのアルバイトで東京の実家に出て来ていながら、誰もがいたって当たり前のこととして飼っている水中生物に奇跡を発見することはなかったのだ。 
 そんなわけで彼の奇跡的な生存が、外的な要因によるものかあるいは内的な要因によるものかは分からないけれど、何はともあれ今は老成したオタマジャクシとして悠然たる日々を送っていることを見定めるならば、いかなる事情を抱えていようともやはり常識外れを自認せざるをえないわれわれは、<何>をするために<何>もしない覚悟の<何>行者として、たとえヒトビトに社会的責任を回避したモラトリアムの隠遁者と非難されようとも、この偉大なるオタマジャクシにあやかって悠然たる醜態を晒しつづけたいと思うのだ。

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2.<何>の肖像

 <肖像>とは、『広辞苑』によると「特定の人物の容貌・姿態などをうつしとった絵・写真・彫刻。似すがた」となっている。そこでこれを<何>論的に言い換えるならば、とりあえず<肖像>とは、その出来不出来にかかわらず<誰か>の容貌・姿態などを<うつしとった作品>として提示されることが目的であるために「絵実物化された人物像」ということになる。
 それゆえに芸術作品と呼ばれるほどに美的価値によって「絵実物化された人物像」もあれば、アイドルスターのプロマイドのように幻想と知りつつも「騙したい=騙されたい」欲望によって「絵実物化された人物像」もあるけれど、<生身の誰か>を何等かの欲望によって「写し取る=抽象する」つもりの<人物像>とは、<誰>が<誰>によってどのように描かれ語られているかという内容を見るまでもなく、何等かの<価値>のために<作品>化されるというその構造的な存在理由によって絵実物的であると言わざるをえない。
 つまり<誰か>を「人物像」として描き語ること自体が<絵実物的行為>であるのだから、<誰か>に自らの「人物像」を描かせ語らせることも<絵実物的経験>であることを免れないのだ。そもそもわれわれの見地からすれば、正体不明の絵空事的存在にすぎない<誰か>を勝手な物語によって「絵実物=肖像」化することが、すでに抽象的「行為=経験」であると言わざるをえないのだから、いまさら薄汚れた「抽象=想像」的産物の「人物像」に<生身の誰か>を求めること自体が無理な相談というわけなのだ。 
 したがって、<人物>を<像>として描き語ることのみならず、ひとたび「見ること」においてさえ<表現者>としての反省的な自覚によって自己言及性に目覚めてしまえば、<人物像>あるいは<風景><光景>というものが単に生の現象そのものとしては有り得ぬものとして、創作あるいは脚色された<景色>ゆえに「語られた風景=語っているヒトの風景」でしかないことに気付かざるをえないのだから、この<反省的な表現者の風景>こそが、「語られていない物語=無意識化された物語」として不問に伏されたことごとくの<物語的欲望>を掘り起こしつつ<何>化していく「眺め」として、もはや「<そのもの>としてはありえぬ風景」を「<何>景」と呼び、同様に「<そのひと>としてはありえぬ人物像」を「<何>の肖像」と呼ぶことができたというわけなのだ。いわば「<何>景」も「<何>の肖像」も、「何って何!?」しか語らぬ<風景>と<表現者>のことであったのだ。
 そこで、(a)「人物像(事件報告)の<何>化」及び(b)「人物(事件)の<何>景化」を含めて「<何>景化された人物像(事件報告)」を端的に「<何>の肖像」といえば、(c)「<何>景を語る表現者の肖像」もまた「<何>の肖像」ということになるが、それは「取り澄ましたよそ行きの人物像」あるいは「作品化した人物像」としてはありえぬ<肖像>ゆえに、<肖像>としては「語りえぬ肖像」あるいは<肖像>を「語れぬヒトの肖像」として<何>しか語らぬ<肖像>のことといえる。つまり、「肖像としては語れぬ人物像」ゆえに<何>的生活者のごく日常的な風景にすぎない「正体不明者の肖像」というわけなのだ。したがって「<何>の肖像」は、どんなに厳密に具体的で細密・緻密な描写がなされようとも、その明晰さが絵空事的人格の正体不明性を失わせ「肖像たりうる人物像」へと埋没させることはないのだ。
 では、「<何>の肖像」とはいかにして語りうるものなのか。
とりあえず<誰か>を語るために「<何>の存在証明(アリバイ)」として語るのか、あるいは「<何か>の不在証明(レトリック)」として語るのかというふたつの方法を考えることができる。
 まず「<何>のアリバイ」を「<何として在るもの>を語ることによって<何かとしては無いもの>を語る」ことだとすれば、「<何か>のレトリック」は「<何かとしては無いもの>を語ることによって<何として在るもの>を語る」ことになるから、さらに「<何>のアリバイ」を「<何>の肯定的表現によって絵実物的自己を否定する」ことだとすれば、「<何か>のレトリック」は「<何か>の否定的表現によって絵空事的自己を肯定する」ことと言える。
 したがって、たとえば「<何>の肖像」を「<何>のアリバイ」として語るために、(a)「人物像(事件報告)の<何>化」によって「ネクラと言われている人がいつも気難しい顔をしているとは限らない」と言えば、(b)「人物(事件)の<何>景化」では「いま気難しい顔をしているからといってもネクラな人とは限らない」となり、さらに(c)「<何>景を語る表現者の肖像」では「その表情を気難しい顔と見なしたりネクラな人格を想定するのは<私>の勝手な思い込みにすぎない」ことになる。
 同様に「<何>の肖像」を「<何か>のレトリック」として語るために、(a)「人物像(事件報告)の<何>化」によって「ネクラと言われていない人も気難しい顔はするものだ」と言えば、(b)「人物(事件)の<何>景化」では「気難しい顔はしなくてもネクラな人はいるものだ」となり、さらに(c)「<何>景を語る表現者の肖像」では「たとえヒトビトがその人はネクラではないと言ってもあるいは気難しい顔はしていないと言っても<私>にはそのように感じられる」ということになる。
 それは、とめどない<引用>の繰り返しによって表現体験の<何>景を拓く<6F>が、たとえば初めに雑誌から人物像を<切り抜く行為>によって<6F>にコラージュするという<6F的引用論>を<経験>して、次に人物像を<切り抜かれた経験>を語るポートレートを再び<6F>にコラージュする<行為>によって、肖像という枠組みを外されて<人物像たりえなくなった人物像>と人物像を外されて<肖像たりえなくなった肖像>が、「切り抜く行為=切り抜かれた経験」によって「引用されつつ排除され排除されつつ引用される」こととして、「肖像あっての人物像=人物像あっての肖像」を「語る=語られる」欲望をなし崩しにしつつ、同時にそこで人物像を「読み取ろう」とするヒトビトの絵実物的欲望をもはぐらかし続けていたという<何>的「事件=事件報告」の構造として語ることができるのだ。
 つまり、切り抜かれた「事件」によって<空白の図>である「<何>んでもない誰か」と「事件報告」として背景の影にすぎない「<何>かとしての誰か」が、あるいはその逆に「事件報告」にすぎない<空白の図>としての「<何>かとしての誰か」と「事件」として背景の影である「<何>んでもない誰か」が、相互に排斥しつつ補完しあう表現体験によってとめどなく「私=あなた」について語り続けていく物語なのだ。ここでは、いま「誰がいるのか?」と問えば「確かに誰かはいるが、それが誰だかは分からない」とか「それに答える誰かはいる」としか答えようがなく、「誰もいないのか?」と問えば「確かに誰かはいないが、それが誰だかはわからない」とか「それに答える誰かはいない」というわけなのだ。
 では、そんな「正体不明の誰か」を語ることによって、いったい<何>が語れるというのかと問えば、そもそも<何>的事件においては、絵実物的欲望を満足させる<表現者>も<享受者>も成立しないわけであるから、誰がいかなる意図によって仕掛けたのかも分からない<何>的事件に、たまたま遭遇したにすぎないヒトビトが「正体不明の誰か」について語りうることは、その正体不明者をどのように語るのかという「享受的表現者」としての自らの因って立つ「台座=<常識・文化・制度>」への反省ということになるのだ。
 したがって、「<何>の肖像」がヒトビトに対して問い掛けていることは、「表現者=享受者」はどれほど自らの絵実物的欲望に対して<何>的反省をなしえているかということについてでしかないのだから、言い換えるならば、「<何>の肖像」によって<人物像>を語ろうとし、あるいは「<何>景」によって<風景>を語ろうとする絵実物的欲望は、ことごとくの欲望を<何>化されることにより、<何>を語ろうとも<何>も語りえぬ絶望の光景へと突き出されてしまうのだ。

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3.死者は死ねるのか

 さて、どうも思い通りにはならない仕事の痛みを抱えたままで、きょうもまた真っすぐには家に帰りたくない<あなた>が、2軒3軒と苦い酒を煽りあげくに駅前の屋台なんかで愚痴の仕上げをしなければ、すでに一家の主としての居場所さえ失われつつある家に帰り着く覚悟が整わないなんていうときに、朝ならそそくさと5〜6分で歩いてしまう道程を夜道とはいえ10分以上も掛けることになる<あなた>は、酔った自分の体たらくにほとほと呆れながら殆ど投げやりな気分になっていると、そんなときに限ってうかつにも何かにつまづいて転んでしまったりするのだ。しかも、闇雲に突いた手に何かがベッタリと付いてしまった感じにうんざりして、正に不愉快なときには不愉快なことばかりが続くものだと舌打ちしながらその手を見れば、それはどうやらただ事ではないと直感させる血糊なのだ。
 いささか酔っている<あなた>もギクリとして、つまづいた何かを振り向けば、遠い街灯の微かな明かりの中に、半身をブロック塀にもたれかけた男の足が突き出ているのだ。とっさに<あなた>はひき逃げ事件かと思い、その男の肩を揺すると男はそのまま崩れ落ちるのだ。「アアッ、このヒトは死んでいる!!」
 そこで<あなた>は、慌てて近くの交番へと駆け込むことになるが、われわれは警察官や検死官が来る前に、彼らが取り扱う事件とは違った意味において問い返さざるをえないのだ。「はたして<死亡している>のは誰か?」
 何はともあれ発見者である<あなた>は、「このヒト」は「死亡・を・している」と言うけれど、死者はずっと口を閉ざしたままなのだ。つまり、われわれに言わせるならば、死者は自ら「わたしは・死亡・している」とは言えないのだから、ひとたび死んでしまえば、たとえば「君ィ、今の死に方はいいね。迫真の演技だ!!」と演出家に称賛される戯けた死者として、役者が<物語>の中で「死・を・演技する」こと以外には「死亡・を・行為する」ことはできないのだ。もはや死者になってしまっては主体的に「死亡」すら「すること」はできないというわけなのだ。
 では、ここで「死亡行為=死亡的意味」を「経験する」ことができるのは、いったい誰なのか? すでに死者となりあたかも「物」と化したに等しい<誰か>は、もはやいかなる事件の経験者にもなれないのだから、「死亡行為を経験できる」のは発見者である<あなた>をおいて他には誰もいないのだ。
 すると<あなた>は、「私は生きているじゃないか!? 冗談はよしたまえ、私は断じて死んではいない!! 死んでいるのは<このヒト>で、私は<死んでいるこのヒト>を発見しただけなのだ」と言うかもしれないが、それならそれでわれわれに言わせるならば、<このヒト>に最初に「死の宣告」をした<あなた>は、<このヒト>を「死亡させた」責任から逃れられなくなってしまうはずなのだ。
 だからもしも<あなた>の発見した死体が、交通事故などではなく何かの鈍器で頭を割られたものであったとすれば、血まみれの第一発見者である酔った<あなた>は、刑事の疑い深い眼差しに晒されて何遍も繰り返される取り調べに、今さら語れない何か後ろめたいものを抱え込むことになるのだ。<あなた>は疑惑の酔っ払いとして曖昧な記憶を辿りながら、自分の血糊の付いた手に満足な身の潔白を証明することができるのか。ハハハ!!
 もはや<あなた>は、「死亡している」自分を自覚しつつ生きるか、あるいは「死亡させた」責任を背負いつつ人目を避けて、まるで幽霊のように生きていかなければならないことになる。それとも所詮は思い通りには生きられぬ俗世間を諦めて、崇高なる無実の犯罪者を生きてみるのもいいかも知れない。ハハハ!!
 それは、いずれにしても言葉の欲望に無頓着のまま自己言及性の矛盾という、<何>的事件の「鏡の間」に迷い込んでしまった<あなた>たちが、知らず知らずのうちに鏡の中の自分を殺してしまった者として味わう<表現者>の末路なのだ。
 それゆえに「死亡という事件報告」としてある<誰か>は、すでにその「誰かが誰であった」かを知るヒトビトに対してさえ、かつての<そのヒト>が担っていた<物語>の<記号>として存在するにすぎないことを見定めるならば、「死亡という事件」は、常に「表現行為=表現経験」の現場においてしか成立しない「物語的事件」として、「記号解読=解読的創造」にすぎないということになるのだ。

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