プロローグ




 この『<何>の肖像/日常生活の何景』は『「何って何!?」/ことばの何景』の続編にあたるもので、『風の<私>小説/冬の<何>景』と3部合わせて「<何>論」をとりあえず完結することになる。
 第1部としての『「何って何!?」/ことばの何景』においては「ビニールパッケージ論」「<何>論」「<何>的人格論」「<何>景論」についてその概要を語り、第2部としての『風の<私>小説/冬の<何>景』においては<何>行者の修行について語ってきたわけであるから、この第3部としての『<何>の肖像』においては<表現者>が<何>化しうる日常生活について語ってみたいと思う。
 そこでいま、前出の2冊に目を通していない読者のために、「<何>の肖像」を語る<何>的表現者の正体不明性についての予備知識を『冬の<何>景』から引用しつつ多少の加筆によって紹介しておきたい。
 まず<何>的表現者とは、表現者として<私たりうる私>でありつづけようとする自愛的欲望に反省的でありつづけるために、<私たりえぬ私>という自己矛盾に目覚め<とりあえず>にすぎない表現者性を自覚することなのだ。そして、この<とりあえず>としての存在理由を《絵空事》と言い<私たりうる私>と臆断している在り方を《絵実物》ということになる。無論われわれの言う<何>的表現者とは《絵空事的人格》としての曖昧さに身を晒さなければならないのだ。
 ここでは、<私たりえぬ私>ゆえに<私>が自分に対して担う<私>的役柄が曖昧になり、そのあげくにヒトビトとの関係において担っているはずの役柄までも曖昧になって、しばしば「人違い」されるに至る<何>的表現者とは、多分見事なほどにその<間違った誰か>のために<間違われた誰か>の役を演じながら<間違っている物語>の中でとりあえずの応答を心がけているというわけで、ヒトビトに期待されれば誰にでも成りうる正体不明者というわけなのだ。
 もっとも記憶喪失が苦悩でないのならば、あるいは記憶喪失の後に絵空事的な知見に目覚めていられるならば、<私たりえぬ私>は<私>の自分に対する正体不明性に迷うこともなく、たとえば涅槃寂静を求めた釈尊的ライフスタイルのパロディを「仏教者もどき」の<とりあえずの私>として、「苦悩者である<私>は誰であってもいい」といいうる正体不明性へと葬り去ることが出来るから、「誰かにすぎない<私>」と「誰でもない<私>」を楽しむ積極的な隠遁生活には、まことに都合の好い快感といえるのだ。
 いずれにしても<何>論によって語りうる正体不明者としての<ときめき>とは、記憶喪失になるまでもなく<何>的表現者として生きるときの「解放感=開放感」であるはずだから、それはお涙頂戴の世捨て人という敗北者や逃避者が挫折した<私>を抱えて行方不明になり、過去形の<私>に哀惜の涙を流しつづけるという女々しい倒錯的快感を貧ることではなく、何気ない<私たりうる私>がヒトビトの常識・文化・制度という体制的欲望と密かにツルんで、いつのまにか自己愛を体制的価値観で武装してしまうときに、そんな体制的暴力者に成り下がった自己愛に、非暴力的で無意味な反省を喚起する「がむしゃらな世間知らずの悪ふざけ」を仕掛けるという、自己否定性へと突き進む情熱の<ほてり>とも言いうるものなのだ。
 したがって<何>的表現者が、根性の座った正体不明者としてより快適な<何>行者へと踏み出すためには、どう転んでみても苦悩ばかりをしょい込むはめになる不都合に目覚めて、「私とは何か?」「いかに生きるべきか?」の問いを立てなければならないのだ。しかもそれは不都合な<私>を一時しのぎの快感のみにすり替えるのではなく、たとえば芸術によって回答を探ることが芸術家とは美醜的自己愛に呪われた苦悩者としてあることなのだと知るように、あるいは宗教によって回答を探ることもやはり宗教者とは聖俗的自己愛に呪われた苦悩者としてありつづけることなのだと知るように、いかなる救済も救済を求めつづけるかぎりは苦悩者にすぎないという矛盾の真っ只中で「問いつづける」ことでなければならないのだ。
 それは、たとえば「どうにもならない」自己矛盾の真っ只中で、「エエイッ、どうにでもなれ」と見定める努力を諦める前に、「どうにもならない事態」とは「どうにでもなりうる事態」だからこそ成り行きに身を任せることだと知れば、「どうにもならない」閉塞情況は「どうにでもなりうる可能性」の真っ只中で「どうしようか?」と思い悩むことにすぎないと気付くようなものなのだ。
 あるいはまた、「そうすれば好いとは思うけれど今は出来ない」という矛盾を抱えたヒトビトは、「事情が許さないのだ」と言い繕うことで「今はしたくない」という密かなる決意を温存させることが出来るのだから、ここで言う「そうすれば好い」には「そうしないほうが好い」という歯止めが掛かっているのだ。ところが「そうすれば好い」の便利さに慣れてしまうと、「そうしたほうが好い」はずのことも「確かにそうすれば好いとは思うけれど今は事情が許さない」と言って逃げてしまうのだから、どうせ後で苦労することが分かっているならば、今さらそんな姑息な言葉遊びでストレスを溜めていないで、「そうすれば好いと思うことはすれば好い」し「そうしないほうが好いと思うことはしなければ好い」と言える決断こそを引き受けるべきなのだ。
 何はともあれ「どうにもならない」自己矛盾に目覚めてこそ、苦悩する<私>は快適な<何か>になれるのだから、情熱的な自己否定的<私>として「してはならぬと思うことはやめ」「しなければならないと思うことをする」楽しみを拓かなければならないが、そんな寝た子を起こすようなことは出来ないと言うならば、どうあがいてみても<自然>として「荒れるにまかせる自己愛」によって生まれ生きるしかない<荒ぶる私>を、その欲望のままに身をまかせて所詮は幻想にすぎない真善美聖を踏み台にしてまで<私たりうる私>に成り上がらせることなく、あるがままの<私たりえぬ私>に踏み留どめて、あえて<とりあえずの私>として「どうせどれほどの役柄としてあるわけでもない<私>」に、「何?」を問いつづける<私>を生きさせることで十分なのだ。
 しかし、様々な自己矛盾の真っ只中で「何?」を問いつづけることは、「すること」「しないこと」の決意によって解消された矛盾の中に新たなる矛盾を掘り起こして、再び「何?」を問いつづける<私たりえぬ私>を楽しむことでもあるから、それは、<不幸な私>を面白がらずにはいられぬ糞面白くもないほどに<幸福な私>でありつつ、糞面白くもない<私の幸福>を面白がらずにはいられない<私の不幸>のように、とめどない反省者として「<何か>をしつつ同時に<何も>しないこと」を生きなければならないというわけで、結局は「<何?って何!!>の<私>を生きる」しかないところで、<問うこと>が即<回答>であり、<回答>が即<問うこと>でしかない自己矛盾を「無意味な<正体不明者>」として生きることになるのだ。
 つまり、「<何って何!?>をするためにいかに<何>もしないで<何>をしつづけられるか?」こそが、<何的私>の積極的な隠遁生活に課せられた問題なのだ。言い換えるならば、いつのまにか生まれ生きつづけてしまっている<私>が、<私>については無明無知であるからこそ「何?」「なぜ?」「どうして?」をとめどなく繰り返してきたのだから、<問うこと>によって始められた<私>とは、どのようにしたら<問いつづけられるのか>に回答することでかろうじて<私>であることこそが最もふさわしいということなのだ。


 

 目次 / 次へ