21.ハゲ


 「この人は、わしよりもハゲとるじゃろ…」
 テレビを見ていた老父が突然振り返り画面の人物を指している。しかし、見れば画面の人物は頭のてっぺんはハゲているものの、まだかなりの黒い髪の毛が残されている。私は老父の軽い冗談だと思っていたら、勝ち誇ったような顔で言う。
 「ほれ、この人なんか、頭のてっぺんがすっかりハゲとるもんなあ…」
 「なに、寝言いってるの? おじいちゃんなんか、ほとんどの毛がないんだから、比べようがないでしょう。おじいちゃんは、もうほとんどツルツルですよ」
 私が大いに呆れた顔をしていると、老父は耳の上の白く細いわずかの髪の毛をつまんでいる。
 「そんなことはないじゃろう、わしなんか、ほれ、この辺りにはまだこんな長い毛があるじゃないか」
 「ま、テレビを見て何を考えようと、おじいちゃんの勝手ですがね…。とにかく鏡でも見てみたら…」
 私は、もうお相手は結構とばかり仕事を再開したら、老父はまだ納得できない様子でしばらくはテレビを見ていた。
 「ほうかなあ…、そういえばこのニンゲの方が、髪の毛が黒いかもしらんな」
 そんなわけで、この間も、老父が、水を浴びた後の私のすっかり薄くなった頭をしげしげと見ながら言っていたことがある。
 「フフフ、あんたも、わしに似てハゲるなあ…」
 ひょっとするとこの時も、老父のハゲ加減は、薄くなりかかった私の頭を白髪にした程度と思い込んでいたのかもしれない。こうしてみると毎日あの気持ち悪い顔で鏡を覗いている老父とは、いったい鏡の中に何を見ていたのだろうか?
 ここでとりあえず言えることは、見栄っ張りな自愛的欲望による<希望的心像>でしかなかったはずだということなのだ。現に先日は、老父が風呂上がりに鏡で頭を見ながら湿疹に軟膏を塗っていたが、よく見ると湿疹に塗るというよりも頭全体に塗っている。そのうちに、案の定おかしなことを言い始めた。
 「わしの櫛はどこへやったかな?」
 「何? 櫛? おじいちゃんはもう何年も櫛なんか使ってないじゃないの。その毛のない頭で何に使うの?」
 すると「何を言っとるんじゃ、わしがいつも使っとったのがあるじゃろ」と引かない。 「とにかく、ここにはおじいちゃんの櫛はありませんよ。頭に軟膏なんか塗ってるうちに、チックでも塗っているつもりになっちゃったんじゃないの?」
 多分、老父が迷い混んでしまった幻想を解説してみると、老父は平然と言う。
 「ほうだよ、チックを塗ったんじゃから、櫛がなければとかせないじゃろうが」
 「今、おじいちゃんが、そのテカテカの頭に塗っているのは、チックなんかじゃないでしょう? よく見てみたら…」私は改めて念を押した。
 「ありゃりゃ、ほうか!!」
 結局、老父がこの日も鏡の中に見ていたものは<希望的心像>とも言いうる幻想にすぎなかったのだ。
 つまり、<自己認識>を<反省的対自化>と言い換えるならば、<自己認識>とは正に<反省的知見>でもあるのだから、反省力の退化による事実判断、情況判断の曖昧化こそがボケを進行させていると考えざるをえないということなのだ。
 ところで、われわれは記憶によってこそ<私たりうる私>という自覚を維持しえていると考えることができるが、ボケによる記憶量の衰退とは<私たりうる私>を維持する情報量の減少でもあるはずだから、この先細りの情報で事実判断をし情況判断をしなければならない<自己認識>とは、次第にデフォルメされたり歪曲されつつ短絡的に簡略化されたものにならざるをえないのだ。
 しかも、この記憶量の衰退とは、先細りの情報で<私たりうる私>に固執させることになるが、そのことがさらに反省力を退化させてしまうというわけだから、自愛的欲望に取り付かれ<私たりうる私>に固執すればするほど<私たりうる情報>を衰退させて、自己喪失へと追い込まれてしまうのだ。
 ここで、再びわれわれがボケの防止に対して言いうることは、<私たりうる私>に関して事実判断と情況判断にどれほど多くの情報を収集しうるかということによって、ボケの検証が可能であるということなのだ。
 これをボケの防止のみならず、<何論的視座>により積極的に明晰なる知見によって死を迎えることとして言い換えるならば、どれほど多くの情報による事実判断と情況判断によって、<とりあえずの私>を<私たりえぬ私>へと送り出すことができるかということになる。それは、生き続ける限り続けられる<消去法の自己認識>というわけだから、ここにいう生き続けることは、「何って何!?」という自問自答に至るまで<消去法の問題>を提起し続けることなのだ。
 そもそも何論的発想の消去法で「私は何故〜ではないのか?」と問い続けることは、究極においては「何んでもない自分を問い続ける自分とは何んなのか?」に回答し続けることになるのだから、私がこの問い掛けによって目指しているものは、<私たりうる私>に固執することによって不本意ながら自己喪失に撞着してしまうボケ症状に対して、<とりあえずの私>を<私たりえぬ私>へと送り出すことによる<明晰なる静寂>への到達といいうるものなのだ。
 つまり、ここにいうボケが事実判断と情況判断を曖昧化させることにより、<無垢の自愛的欲望者>に回帰してしまうのに対し、われわれのいう<何的反省>とは、とめどない反省によって事実判断と情況判断を明晰化させることにより、自愛的欲望こそを「解放=開放」して<無垢の生命力>に回帰しようというわけだから、<何的反省>によって暴力化することを望まれぬ生命力は、静かに燃え尽きることによってこそ<永劫の静寂>へと解き放されることになる。
 もっともこの<永劫の静寂>へと解き放された者は、すでに<者>ではありえないはずだから、ここには永劫も静寂さえも存在しないというわけで、結局のところ、われわれが<言葉>で語るならば「何もないところにこそ何んでもありうる=何んでもあるところには何もない」ということになり、いまわれわれがこの明晰なる知見を現実問題として<生きる=ある>とすれば、これを引き受けて「より多くの<私的何か(自愛的欲望)>を<何化>して、<何にでもなりうる私>=<何んでもない私>」として「何って何!?」と自問自答する<何的表現者>になることでなければならないのだ。
 ところが、ボケた老父とそんな老父ゆえのとめどない反省者であるにすぎない私は、正にこの親にしてこの息子ありと世間様に言われても、いかようにも反論する根拠のない親子だから、所詮は世間様には親子揃っての役立たずというわけなのだ。しかし、老父共々の役立たずとは言え、もしもここで私が、この<何的表現者>としての自覚を失ってしまったなら、それは一日じゅう何も為すこともなく長椅子にベッチャリとへばり付き、すえた体臭をムンムンさせて腰が痛いの膝が痛いの、あるいは足首がはれて死にそうだと騒ぐ程度のことで、後は寝ぼけ欲ぼけて夢と現を彷徨するだけの老父と、「生命そのものの暴力的意味への反省」という人間の存立に拘わる最重要課題において区別がつかなくなってしまうのだ。
 言い換えるならば、私はこの「生命そのものの暴力的意味への反省」を<無垢の生命力>として体得するということにおいてのみ、老父のみならずヒトビトに対する<何行者>としての反照的な存在意義を主張しうると確信しているのだ。これは、己の死が万民の罪を贖って余りあると思い上がることもなく、あらゆるヒトビトがあらゆるヒトビトに対してごく自然に貢献しうる生き方なのだ。




22.サルマタ



 「洗濯物があったら、遠慮しないで出して下さい。僕の物と一緒に洗いますからね。どうせ機械だから、手間はかからないんで、心配はいりませんよ」
 そう言っても、老父はなかなか洗濯物を出さない。
 もっとも老父は、夏でもウールの下着上下を着ているし、夏のほんの一時を除いてはウールの背広地でつくったカッターシャツを着ているというわけで、ほとんどがクリーニング店の世話にならなければならないのだから、私が洗って上げられる洗濯物はどれほどの量でもないのだ。そんなわけで、ついでのときには、無理やりにでも下着などを交換させて洗ってしまうけれど、老父の場合は、かつてのエエカッコシの名残なのか、未だに自分の着るものに関しては、サルマタから背広に至るまであれこれと気を配っているようで、それなりに洗濯や交換の時期を考えてはいるらしいのだ。
 だから「もう、そろそろ寒くなってくるから冬物の上着を送ってもらわにゃいかんな」とか「ここにおるなら、喪服なんかは持ってこなくてもええじゃろうな。喪服なら、夏物と冬物と両方揃っとるけどな…」、あるいは「わしが、この間まで着とったシャツは、いま洗濯屋へ行っとるのか」というわけで、普段から何かと着る物についての関心は高いといえる。したがって、老父が私に洗濯を頼んだことを忘れているにしても、干してある洗濯物を見て「あらら、あんたも、わしのによく似たシャツを着とるんじゃなあと思っとったんじゃが、それはやっぱりわしのじゃったのか。わしのによく似てるはずじゃ」というわけで、それなりに監視の目は行き届いているといえる。
 それにしても老父が、サルマタを洗濯に出したがらない理由とは、インキンがただれているので汚してしまうということらしい。
 「あんたに洗ってもらうのは気の毒だから…」なんて言いながら、風呂の残り湯などで自分で洗っている。
 それでも私がたまに老父のサルマタを洗濯機で洗うことがあるが、確かに汚れてはいるがそれが老父のいうインキンの屈辱的な醜態であるのか、それとも締まりのなくなった排泄器官からの無念の残尿であるのかは知る由もない。
 そういえば東京の家では、老父が風呂から上がってしばらくした後に、必ずインキンに薬を塗るのだとかいって部屋を締め切り、何やら卑屈そうにゴソゴソしていたのを思い出した。それにしてもここへ来て以来、そんな手入れをする個室がないのでその習慣を止めにしてしまったのか、それとも治ってしまったのか、いずれにしてもインキンの手当てをしている老父の姿を見たことはなかったのだ。
 そんなわけで、私が寝ている午前中にはしばしば老父が風呂場でサルマタを洗っているわけであるが、この話を東京でママさんにしたら、やはり東京でも同じ事だといっていた。ただし東京では2階にいる老父が1階の風呂場にいくのを面倒臭がって、しばしばすぐそばの台所の流しで洗濯をするらしく、炊事の用具をサルマタの洗濯に使われてしまうことが、ママさんの頭痛の種でもあったようなのだ。それにしても人目を忍んでサルマタを洗う老父の習慣とは、母が病気で家事が出来なくなって以来のことであるようだから、汚れた下着を他人に見られたくないという羞恥心から出たものとでもいうべきかもしれないが、老父のこの場合の羞恥心は、「たとえ90になろうとも、わしゃ、まだ下の世話を他人に見てもらうほどにボケちゃおらん」と言える見栄っ張りの意地によって支えられているようにも思われる。
 つまりここで言いうることは、老父が、これこれの事をするようになったらボケた証拠だと自覚しているような事には羞恥心も働くが、ボケ症状をことごとく「三回倒れた」という脳細胞の不慮の機能障害に擦り替えて、ただ闇雲に「わしゃボケていない」と自己逃避するだけでは、羞恥心も機能しないボケへと埋没するばかりになってしまうということなのだ。
 ま、何はともあれ雨の日には、風呂場の洗濯機の影に衣紋掛けに吊された老父のサルマタがひとり濡れたまま挫折していたり、乾かき切らなかったサルマタがキッチンのはずれでわけもなく2〜3日の駄眠を貧っていたりすることがある。
 ところが先日は、目を覚ましたばかりの私が寝ぼけまなこでカーテンを開けてみると、真昼の強い木漏れ日の中に何か得体の知れないものが二つ揺れているのだ。
 なんとそれは衣紋掛けに吊されたサルマタではないか。しかも地面に直接立てられたテレビとFMのアンテナに下げられているのだ。1本の支柱に上下2段に取り付けられたアンテナの先に、それぞれ一つづつのサルマタが引っ掻けられて、まことに愉快そうに風に揺れているのだ。なんとも不思議に滑稽な気分にさせる光景に、老父も木漏れ日の中で愉快そうにサルマタの乱舞を楽しんでいるようであるが、良く見れば、サルマタとはいえ水分を含んだメリヤスは、細いアルミの素子を接続部で水平より30度余りの角度でねじまげるには充分の重さなのだ。
 「おじいちゃん、駄目ですよ。サルマタをアンテナなんかに引っ掻けちゃ駄目ですよ」 
 「ほうで、テレビの映りが悪くなったかな。これでも落ちないから、ええかと思っとったんじゃがなあ…」
 老父はこんな調子だから、ほとんどアンテナの軋みには無頓着なのだ。
 「そうじゃなくて、アンテナが折れちゃいますよ」
 「ほうか、これだけしなりがあれば折れっこないと思うがなあ」
 老父は相変わらず自分のアイデアに惚々している。私は、そんな老父の反応が不愉快に思われて、かなりきつい調子で叱り付けた。
 「とにかく、駄目です。そんなに風で揺らしておいたら、壊れちゃうじゃないですか。外してください!!」
 老父は私の思わぬけんまくに驚き、アンテナから外したサルマタを持ってウロウロしながら、手近な小枝に引っ掻けては失敗していたが、今度は頭上の枝に渡されたアンテナコードに引っ掻けた。
 私は老父の後ろを指さして「そんなところに引っ掻けないで、そっちの洗濯物の専用のロープに掛ければいいじゃないですか」とい言ったものの、改めて見ればロープは先日焚火をしたときに炎が当たるので外したままになっていたのだ。
 「ああ、そうか、ロープは外したままだったんですね、すんませんね。今ロープを張りましょう」
 老父を叱り付けたもののどうやらこちらにも落ち度があったようなのだ。
 そんなわけで、90歳の老父共々多少はくたびれたサルマタ2枚は、改めて誰に非難されることもない居場所を与えられ、若干の気恥ずかしさをまといながらも精一杯風に揺れて遊んでいるのだ。
 ところがどうしたことか、夏の終わりになって、老父が3枚しか持ってこなかったサルマタが1枚不明になってしまったのだ。2枚では、いささか洗濯のローテーションに支障を来すというわけで、老父とともにあっちこっちの引き出しを開けて探したが、どうしても見付からない。
 どうやら老父は、「わしは、あっこのロープの太い木の方に吊しとったのに、仕舞忘れてしまったんじゃな。それで誰かがこっそりと持っていったんじゃろう。こんな山の中じゃから、大丈夫だと思っとったのに…」という盗難説に辿りついてしまった。
 「おじいちゃんね、女の子のかわいいパンティを盗む奴はいてもね、年寄りのヨレヨレのサルマタなんか盗む変人はいませんよ」と言ってやった。
 それでもなかなか盗難説を捨て切れぬ様子の老父と、再度、家じゅうを探し回ったが、やはり行方不明のサルマタは発見されなかった。ここでわれわれの妥協案とも言うべきとりあえずの結論を出すことになったが、それは老父にしてはかなり冷静な判断によって語られるところとなった。
 「汚れたサルマタを、あんたに見付けられると洗濯されてしまうから、わしは、自分で洗濯しようと思って、どこかへ仕舞込んでしまったんじゃな」
 ところが、その日も、いつものように夜中から目覚めてしまった老父は、正体不明のサルマタに目くるめく思いを馳せてそのまま朝を迎え、私が老父の朝食を作り始めたころには、すっかり起き出して何度目かのサルマタ探しを始めていた。そのあまりにも異常なほどの執着ぶりに、かなり不安なものを感じさせた。
 「おじいちゃん、そんなにサルマタひとつのことで、一晩潰すほど思い悩むことはないんじゃないの?」
 「ふむ…、そうなんじゃが、サルマタを無くして、ボケたなんて言われるのがいやじゃから、なんとか探してやろうと思って…」
 「そんなことは気にしなくたっていいんじゃないの。おじいちゃんがサルマタを無くしたなんていうことは、たいした事件じゃないけれどね、そんなサルマタのことばかり考えて必死になっているおじいちゃんっていうのは、やはり、ちょっとおかしいと思いますよ。多分、そうやって何かに執着していなければ居られないということが、おじいちゃんの病気かも知れませんね」
 はたして老父がどんなことを言い返してくるかと思っていたら、「そうかなあ…」と一言いっただけで、予想外におとなしかった。私の言葉は、かなり強烈な反省性を呼び覚ましたのであろうか、それ以来、私の前ではサルマタ探しをすることはなくなった。
 その後、老父はひとりで町まで行ってサルマタを2枚買ってきたが、それでひと安心して気が緩んだのか、サルマタを交換するたびに、「やっぱり、サルマタは盗まれちゃったんじゃなあ」とつぶやいている。
 そんなわけで、老父にとってサルマタとは、唯一反省的視座を確保しうる手掛かりになるのだから、願わくば、この期に及んでボケに対する空元気の言い繕いにばかり執着しないで、サルマタひとつで暮らせるほどに元気になってくれることを祈るばかりなのだ。




23.取り越し苦労


 老人はあまり寝ないなどということを聞いたことがあるけれど、うちの老父に限って言うならば9〜10時間ぐらいはベッドに入っていて、それ以外の時は、食事をしているかテレビを見ているかであるが、そのどちらもしていないときはほとんどうたた寝をしていることになる。
 どうやら1日のうち15〜18時間ぐらいは<寝ぼけ>の中をさまよっているようなのだ。もっとも、後の残されたわずかの時間にも<欲惚け><惚け><自惚れ>を抱えた老人性の<まだらボケ>で過ごそうというわけだから、多彩なボケの使い分けは、そんじょそこいらの役者やパフォーマーなんぞには太刀打ちできない才能の豊かさといえる。
 そんな老父が、たまたま夜中に目を覚まし、横で仕事をしている私にとりとめのない事を言い始めることがある。ところがそんな時にかぎってかなり明晰なのだが、その明晰さもボケという地平を踏み外すということがないのだから、どうやら「わしは、今はちっともボケてなんかいない」という<寝ぼけ>た状態にあるのかもしれない。
 先日は三日ほど続けて夜中に目を覚まし、思わぬ討論会が続けられることになった。まず第1日目は、「わしも、もう先が何年もあるというわけではないんじゃから、今のうちに、わしが死んだ後のことを考えておかにゃならんと思うんじゃが、わしが遺したものが少しでも多くあんたの方に残るようにしたいと思うんじゃが、やはり何か書いたものを作っておかにゃいかんのかなあ」というわけなのだ。
 今さら遺言を書くほどの財産があるわけでもないのに、老父はいったい何を考えているのかと思った。
 「おじいちゃんねえ、僕はいま商売をしているわけでもないし、女房子供があるわけではないんだから、今のままで充分なんですよ。おじいちゃんの遺産は、そのままそれを引き継いで商売をしている兄貴にこそ遺してあげなければならないんじゃないのかな。あの程度のわずかの遺産を分割してしまったら、兄貴は、あそこで商売することも出来なくなってしまいますよ。
 とにかくね、僕がいまここで、やらなければならないと思っていることは、金儲けなんかじゃないんですよ。僕は、このままで、何んとかしたいことが出来て食っていけるんだから、これでいいんです」
 「じゃが、ハルヨシの奴は、いまじゃすっかりあの嫁に頭が上がらんのじゃから、だらしない。もうなにもかも押さえられてしまっとるんじゃから、気を許しとったら全部あいつに取られてしまうよ。ああ、あの嫁は、気の許せん奴じゃからな。わしは、あいつだけには一銭もやりたくないんじゃ」
 老父は相変わらずの肉化された妄想の中をさまよっているのだ。もっとも、老父が認識したところの兄の立場というものが、そもそもは己の妄想による嫁いじめに原因があるということには思い至らないのだから、その妄想のみならず反省のなさという意味においても、やはり老父はボケの真っ只中なのだ。
 もはや、この妄想によってしか<老父は老父たりえない>といいうる状態になってしまっている以上、妄想や勝手な思い込みを解消させることは老父の人格崩壊でしかないのだから、ここでは遺産相続におけるわずかの基礎知識を解説することで発展的未来を語るしかないのだ。
 つまり「おじいちゃんね、法律でいうところの遺産相続というのはね、通常は妻が1/2、残りの1/2を血縁のある子供たちが分割するわけだから、うちの場合は僕らが全体の1/4づつ貰うことになるわけですよ。つまりね、おじいちゃんが心配するところの A 子さんには、相続の権利はないんですよ。だから、そんなことのために遺言なんかは書かなくたっていいってわけです」
 「ほうか、ほんならええんじゃな」
 老父は思いのほかすんなりと納得した様子なのだ。結局は、単なる無知による取り越し苦労というわけであるが、そういえば以前にはこんな話をしたこともある。
 老父が「わしも、もうこの歳になってまで、死んだあとで (ここまで生きながらえたのに、この歳で死んで今さら)、あんたに迷惑をかけたからと言うて恨まれたりしたらかなわんからな。わしは、あんたに何か遺してやらにゃならんと思っとるんじゃが、そういうても、わしも今はこれというて財産があるわけじゃないから、わしが死ねばいくらかでも保険が下りると思うんじゃが、それをあんたのために…」というわけなのだ。
 「そうですか、いろいろと気を使って頂いてありがたいとは思いますけれどね、実はね、もうおじいちゃんが死んだからといって、一銭にもならないんですよ。おじいちゃんの入っていた保険は、もう何年か前にみんな<ご長寿おめでとうございました>で終わってしまっているんですよ。どうやら終身の保険というのにはひとつも入っていなかったようですね。ま、90まで長生きしたんだからいいでしょう」
 私は改めて老父の無知に呆れながら解説したわけである。
 「ありゃりゃ、ほうで、そんなことがあるのか? わしは、葬式代ぐらいのものは出るんだと思っとったんじゃが、ほうか? そう言われてみると、なんか以前にそんなことをハルヨシが言っとったような気もするなあ…」
 本当に思い出したのか単なる言い繕いなのかは知らないが、とにかく己の長生きについてひとつの認識を獲得したわけなのだ。
 そこで「ま、そんなわけで今さら死に急いだって一銭にもならないんですから、せいぜい長生きを続けてください。おじいちゃんが心配しているところの葬式代は、兄貴が積立をしていますよ。このところ商売の調子も悪くて、満足に給料も出せないっていってるのに、そういう積立もしてくれているんだから、あまりわがままを言って兄貴を困らせるようなことはしないほうがいいんじゃないの?」
 「ほうか、ハルヨシが積立をしとるのか。あれも何も言わんからなあ。しかし、わしは何も知らんかったなあ…。だけど、そうならそうと、誰か言ってくれればええのに、保険のことなんか、誰も教えてくれなかったからなあ…」
 いささか息子の思いやりに胸熱くなる思いをしている様子であったが、ここに至ってもやはり責任回避の言い逃れをしなければいられない体質はいかにも老父らしく、発育不全の一生を生半可な悟りなんかでは決して終わらせないであろう筋金入りの無知を保証しているようにさえ思われて楽しい。
 何はともあれ無知こそが老父の老父たる所以であるのだから、今さら賢者ぶられてはわれわれも立場がないということなのだ。だからこそ、それは徹底した俗物として自愛的欲望に正直でありつづけたひとりの小心者として、己の気まぐれで50近くになって結婚し、さしたる将来の見通しもないままに子供を持ち、すべてを自分がわがままを言うためにだけ利用して生きた老父として、これからもボケ続けてくれることこそが、われわれとしても今さら生半可な悟りなんかで偽善者ぶられるよりは、いわゆる反面教師という反省的対象性として頼もしいほどの訴求力を発見しつづけられるというわけなのだ。
 さて深夜の討論会第2日目は、「あんたは、いま働いているわけでもないのに、これからどうやって生活していくつもりなんじゃ?」と、とりあえずは親らしい心配の繰り返しなのだ。
 ところが、すでに私の隠遁生活については様々の情況において解説済みであったのだから、いまもっともらしい顔でこの件を引っ張り出そうとする魂胆が、ボケの仮面の下に隠されているはずなのだ。
 そこでいろいろと問い詰めてみると「あんたにも、まともな収入がないような生活なのに、そこへもってきてわしの手持ちのものも少ないときてるから、いまわしが、病気で入院するようなことにでもなったら、さっそく困ってしまうんじゃないかと思って心配なんじゃ」
 「おじいちゃんね、病気でもしたらなんて言ってるけれど、おじいちゃんはすでに病気ですよ。本来なら入院して手術しなければならない情況の胆石なんですよ。自分の病気を忘れちゃ困りますよ。ただ高齢だから薬で散らせるならその方が好いでしょうというので手術しないだけなんですよ。いいですか、おじいちゃんは、前も言ったように黄疸が出て熱が上がったら緊急に入院しなければならない状態なんですから、僕たちはいつでも入院させられる態勢でいるんですよ。ですからね、今ここで、おじいちゃんがお金の心配をしなくったって大丈夫ですよ」
 老父は私の情況説明に改めて自分の病気を発見したという様子なのだ。
 「そういえば、わしは石が溜まっとるからというようなことを言われとったんじゃな。普段は全然痛まないもんじゃから、すっかり忘れとったよ」
 「忘れとった、なんてのんきなこと言ってるけれど、一日三回飲んでいる薬が何んの薬だか分からずに飲んでいたってわけですか? ま、とにかく僕たちは、おじいちゃんがいつ入院してもいい覚悟でいるんですから、どこか気になるところがあって入院したいっていうんなら、どこの病院へでも入院させてあげますよ。でもねえ、いま薬を飲んでいる限りでは特別に悪いところがあるわけじゃないんだから、無理に入院してなけなしのお金を使うこともないでしょう。ま、せっかくここまで来たんだから、あの世に行くときは、少しでも多くの金を懐に入れていったらいいんじゃないの?」
 所詮、欲惚けた老父のことだから、言われるまでもなく無駄金を使いたくないのは山々なのだ。結局、老父の言わんとするところは、自分のなけなしの金は使いたくないから、入院するようなことにでもなったら、われわれに負担してもらわなければならないのだから、金の心配をしなくていいように充分稼いでおいてくれというわけなのだ。
 ところが、老父は自分が<欲惚け>てしまったために私との共生が始まったということと、しかもそのことが私の労働を拘束しているという事情を実際の生活の現場において納得することが出来ないのだ。
 つまり「わしは、若い時分から長いこと自炊しておったんだから、あんたが仕事で出たって心配することはないよ」とは言うけれど、目の前でやかんのお湯が沸騰しているのを15分以上も知らずにいるような状態なのだから、それはただの心意気として理解するに止どまるということなのだ。
 そんなわけでこの日の討論会は「とにかくねえ、おじいちゃんが元気なうちに、僕が先に死んでしまうような失敗はしないように努力しますから、安心してください」という摩訶不思議な冗談で終わることになった。
 そしていよいよ第3日目。夜中の老父は、多少なりとも前日の討論を踏まえた質問を心がけることが出来るほどには明晰なのだ。
 「あんたは、それで1年に幾らぐらい稼いどるんじゃ?」
 そこで私はアルバイト生活のスケジュールを説明することになった。
 「ま、今年はおじいちゃんが来てることだから、例年通りに稼げるとは思っていないわけですよ。でもね、おじいちゃんが受け取る年金を一部食費に回してくれれば、おじいちゃんの持ち物も減らさずに充分やっていけますよ。それにねえ、このことは兄貴の方でも了解していることですからね、もしもおじいちゃんの面倒を診ることで僕の収入が減って足が出てしまうようなことがあったら、いつでも援助しますからと言ってくれているわけですから、そんなに心配しなくったって大丈夫ですよ。
 でもね、確かにおじいちゃんが言うように稼げるときには稼いでおいたほうが好いに決まってるわけですから、いま考えていることがあるんですよ。それはね、僕もデパートのアルバイトなら1ケ月間のお歳暮で40〜45万ぐらい稼げるわけですから、もしもおじいちゃんが、その1ケ月間だけでも草津あたりの病院で温泉治療でもしていてくれれば、そのアルバイトがいつも通り出来るってわけなんですよ。無論、40〜45万稼げば、おじいちゃんの入院費を考えても充分に採算が合うってわけですね。
 ところで、どうしてこんなことを考えたのかって言いますとね、実はこの間のお中元のアルバイトのときに、おじいちゃんと一緒に東京へ行ったでしょ。その時に感じたことなんですけどね、やはり、今のうちの情況からするとおばあちゃんがあんな状態ですから、僕たちが二人でお仕掛けたんじゃ、ママさんも子供の世話から店番もして炊事洗濯に僕たちの面倒ってわけですから、それではちょっと無理が過ぎると思ったからなんですよ。
 やはり、どこかに無理があると、つまらないことでいさかいが起こりますからね。ま、そんなことなんですが、どうですか?」
 「ああ、わしは、ええよ。あんたが、それで仕事になるんなら、わしは、そこに入院しとってもええよ。まあ、そんなところなら、誰か碁でもできる人もおるじゃろうしするから、碁でもやって遊んどるよ」
 ここで私が語ったことのそもそもの発想は、真夏に綿のシャツに純毛の長袖シャツを着て、その上にワイシャツとナイロンのトレーニングシャツを着ていられる老父には、この高原の真冬の寒さには到底耐えられないだろうと考えられたので、真冬に緊急非難を兼ねた入院などという方法について思案していたためなのだ。それにしても、この日は老父の自分の家に対する執着が思ったより緩和されてきているということに、大いなる僥倖を見る思いがしたのだ。
 もっともこの計画は、3ケ月余りも先のことだから、はたして計画通りにいくかどうかはまったく分からないが、何はともあれ老父が静養と健康管理をかねた入院について、その可能性を示してくれたことは、私にすれば従来からの収入源が確保されることになるのだから、限られた条件の中でわずかの収入を求めて、悪あがきをしなくても済むかもしれないという希望が見えてきたことになるのだ。




24.わしは帰る


 午前4時ごろにトイレへ行くために目を覚ました老父が、その日はトイレから戻り再びベッドに潜り込んだ後に、どうやら寝付けない様子なのだ。横で仕事をしている私に、やれ足のむくみが取れないとか、三度倒れて口がきけなくなったとか、いつもの常套句を次から次へと並べていた。
 そのうちに、とめどなく繰り返されるいくつかの話の辻褄が合わなくなり、いつものように時代背景に様々な矛盾を来したが、それが老父を狂気へと誘う原因に肉化されていくように思われたので、私は、そんな勝手な思い込みを遮断するために、それをひとつひとつ訂正していった。それは、老父にしてみれば、忘却された30年分の記憶にメスを入れられることに他ならなかったのだが、そこで断片的に摘出される記憶はさらに老父の話を混乱させた。
 そして、私がこの高原へと引っ越すにあたっての一切の情況が忘却されたまま、いつもの常套句を引っ張り出して、老父は自分の意向を無視したのみならず、黙ってこんなところに来てしまうような息子は、いまさら自分の子供とは思えないと言い張り、あれよあれよという間に真っ赤な蛸入道になった。
 「わしは、帰る!! こんな、情のない子供のところに厄介になっているわけにはいかない。あんたが、そういう人間だと分かれば、長居は無用じゃ。わしは、帰る!!」
 老父は、興奮のあまり散逸してしまった言葉を掻き集めては次々と言い捨てて起き上がり、身支度を整え始めた。私は老父の言葉を聞き流し黙って様子を見守った。そんな老父の喜々とした様子を見ていると、「わしは帰る」と言い出すきっかけは何んであるにせよ、やはり「帰りたい」という気持ちがいつもわだかまっているというわけなのだ。
 それにしても、再びこの高原へ戻ってくるにあたっての様々ないきさつがあったわけだから、私もとりあえずは老父の死を看取るつもりで引き取ってきた以上、「はいそうですか」といって東京へと送り出すわけにもいかないのだ。もっとも放っておけば、ひとりで東京へ帰れるはずはないと高を括ったところもあったけれど…。
 当然のことながら老父は何がどこにあるかも分からないのだから、私が手伝うことになるが、そそくさと身支度が終われば、こんどは荷造りである。なんだかんだと衣類を出せたのちに、今度はこれを入れる鞄がないから紙袋をくれという。あとは、かまっていてもしょうがないので、私は老父の朝ご飯をつくりに台所へと立った。
 食事の支度は6時前に終わったが、老父がそれを食べるのはどうせ8時半を過ぎるころなのだ。そこで、私はしばらく老父の帰り支度を眺めていた。するとこちらへ来てから作った信用組合の預金通帳を取り出し、エエカッコするときのいつもの顔で言う。
 「これは、いままで世話になった分として置いていくから、すきなように使ってくれ。と言うても、そうか…、これも印鑑がなければ金にならんのじゃな。じゃ、銀行が開くまで待つことにしよう」
 そこで私は「そんなものは、要りませんから、どうぞ持ってかえってください。あとで、通帳を取られたなんて思い違いされても困りますからね。でもね、どうしてもお金を置いていくつもりなら、まあ、半月分の食費として、10,000円ほど置いといてくれれば結構ですよ。とにかく、それだけで結構です」と突き放した。
 しかし「うんにゃあ、わしは、これを置いていく」と言い張り、通帳を机の上に置いて後へは引かない。老父はそのまま再び荷物をいじり始めたが、興奮のあまり手に付かない荷物を、ふと、置いて言う。
 「このへんに、運送屋があるじゃろ、そこに連絡をとって荷造りをしてもらってくれ」
 「残念ながら、このへんには荷造りをしてくれるような運送屋はありません。運送屋なんか頼まなくたって後で僕が送ってあげますよ」
 「ほうか、それじゃ、この通帳だけじゃ足らんから、運賃も置いておかなくちゃいかんな」というわけで、さんざん預金の残高を確かめているにも拘わらずわずか1,000円程度の運賃の価値が分からないという始末だから、すでに金銭的感覚そのものが曖昧になっているようだった。
 それからも、老父は興奮冷めやらぬままにそわそわと部屋の中を掻き回していたが、私は手を貸すこともなくそんな様子を眺めて楽しみながら言った。
 「まあ、おじいちゃんみたいな、そういう性格では、こういう静かなところでは、到底生活はできませんよね」
 老父はそれには一言も答えなかった。そこで私は、老父の荷造りは無視して、黙って布団に潜り込んだ。さて、見てくれるヒトがいなくなって張り合いのなくなった老父は、ベッドの上でモジモジしている。
 「まだ、銀行が開くまでは時間があるな。それじゃ、わしも少し横になっておくか」
 洋服に着替えたままベッドに入ったが、しばらくは興奮の治まらぬままに激しい息遣いが聞こえていた。
 私はそのまま昼の12時頃まで寝たが、私の目覚めに気付いた老父がそそくさと台所からやってきて、恐縮しながら言った。
 「きのうは、だいぶ騒がせたようじゃが、すまんかったな」
 それに答えて私は軽く受け流した。
 「いやあ、心配しなくてもいいですよ。それよりも、たまには大いに騒いでみるのもいいんじゃないですか? そのほうが、イライラがたまらなくていいでしょう」
 老父は照れ臭そうにヒヒヒと首をすくめていた。
 その後も、老父は相変わらず一日中うたた寝をしているような生活だから、夜中にトイレに立つたびに、やはり寝付けなくなって苦労している様子なのだ。布団の中で目をパッチリと開き何やらブツブツ言っていたり、目をつむっていてもとめどない取り越し苦労にのめり込んでいたり、あらぬ妄想の肉化に自己愛を積み重ねているという次第なのだ。
 そんなときに、私が仕事の手を休め「どう、また眠れないの?」なんて声を掛けてしまえば、待ちに待った話相手の出現に、老父のいつもの常套句がとめどなく繰り返されることになる。
 無論これを無駄話として聞き流してしまえばそれだけのことであるが、やはり老父の論理的矛盾や記憶違いが狂気へと続く妄想になっていれば、無駄と知りつつも修正を迫ることになる。ところがひとたび興奮してしまえば、もはや人の言っていることなぞ全く理解出来なくなってしまうのだから、老父は自己崩壊の現前でいつもの常套句なのだ。
 「わしは帰る!! こんな情のない子供のところに厄介になっているわけにはいかない。あんたが、そういう人間だとわかれば長居は無用じゃ。わしは帰る!!」
 そんな未明の爆発も今回で3回目であるが、あまりのくどさにいささか閉口ぎみで不機嫌になっていた私は、一切の不愉快さを払拭するかのように突き放した。
 「そんなに自分ばかりがいとおしくて他人が信じられないのなら、自分のしたいようにしたらいいですよ。現にそうやって90年を生きてしまったんだから、今さら僕がとやかく言っても仕方ないでしょう。まあ、とにかく自分のしたいように勝手にしてください。東京に帰りたいんなら、好きなようにしてください」
 老父はベッドからはい出してきた。
「ああ、そうか、あんたがそういう気なら、わしは帰る!! もうこれで3回目じゃから、わしも今度は我慢できない。そんならわしは帰えらせてもらう。今から支度すれば、間に合うじゃろう」
 まずは引き出しを開けて手提げ袋を取り出し、いつものように興奮に震える手で預金残高の確認である。
 「わしは、500円はあると思ったのに、150円はかないのか?」とか「通帳は二つはかないが、まだいくつかあったはずじゃがな」というわけで、もう金銭感覚も何もかもめちゃくちゃになってしまうのだ。そのうちに自分の貰うはずの老齢年金が盗まれているとか言い出して、次々と猜疑心の同道巡りを始めるのだ。
 「あした帰ったら、さっそく銀行回りをして、わしの印鑑を交換してこにゃならん」
 いつものように時間の浪費と思いつつも老父の財産情況を解説することになるが、そのうちに解説によって己の非を言い立てられることになれば、いよいよ逆上することによって自己回復を計るしかない老父は、さらに支離滅裂になり食ってかかるのだ。
 「この間は、何とか言うて、あんたはわしの預金からいくらか出しておったようじゃが、その金はどうした?」
 そんな猜疑心に満ちた醜悪な老人の顔を見ていて、いささか胸糞が悪くなった私が逆襲する。
 「この野郎、ふざけんじゃないぞ!! いいか、僕はあんたの金なんか一銭も盗んじゃない。何遍の言ったように、あんたの食費として月に20,000円貰っているだけだ。それ以外の金は、いまだかつて一銭も貰っちゃいない。食費以外にいくら取ったって言うんだ? 言ってみろ」
 どうせこれに答えられる老父ではないのだから、結局あとは、しどろもどろになってしまう。それでも2冊の自分の預金通帳がどこの銀行のものであるかが、私が執拗に繰り返す説明で了解されれば、多少は正気を取り戻すようなのだ。
 「わしは、ここであんたに何日世話になったか知らないが、とにかく世話になったんじゃから、いくらかでも置いておかにゃならん。あした、この預金をあんたの名義にしてやるから、一緒に銀行へ行ってくれ」
 やはり、いつもの常套句へと辿り着くのだ。当然私の方もいつも通りに言い返すことになる。
 「いいえ、おじいちゃんのものは一切いりません。あなたのものなんか貰ったりしたら、後で何を言われるか分かりませんからね。東京へ帰って、改めて通帳を見て、預金が少なくなっているのに驚き、必ず僕に盗まれたと騒ぐのが分かり切っているんですから。とにかく、いりません」
 そこで私は話の立て直しを図った。
 「そうやって、あんたが毎日のようにヒトを疑ってしか生きられないことの原因っていうのは、結局は、自分のなけなしの財産が盗まれはしないかという不安なんだろう? それは何遍も言っているように、あんたが自分のハンコをしっかり持っていれば守れるんだよ。ところが、あんたが東京にいてハルヨシがなんだとか、嫁がなんだとか言って大騒ぎをすれば、結局は東京の家庭は崩壊してしまうんだから、あんたの家業であった運動具屋は止めざるを得なくなり、金に代えられない在庫を抱えた残務整理では、土地も建物も手放さなければならなくなるってわけですよ。分かりますか、だから、あんたが自分の財産を守りたいのなら、そのハンコを握ってここに居ればいいんだよ」
 ところが老父は言う。
「なあに、ハルヨシに任しとったら、あの嫁に何もかも取られちまうようになってしまうんだよ。今でさえ、ハルヨシはあの嫁に頭が上がらないんだから、いまにどうされちまうか分かりゃしない。だらしないんだから」
 「おじいちゃん、あんたは、どうして兄貴が A 子さんに頭が上がらなんいだと思ってるの? おじいちゃんには、到底理解できないことだろうから説明してあげますよ。それはね、あんたのようなボケて訳の分からなくなってしまった年寄りの面倒を診させているからですよ。
いいですか、あんたは、 A 子さんに向かって預金通帳を盗んだとか、きさまのような奴は出ていけと、あんたが思い付くかぎりの悪口雑言を、子供たちの前でさえ怒鳴り散らしてきたんですよ。そんなことがなければ、今までは仕事が忙しくたってやってきたんだし、おばあちゃんが寝たきりになっても何とかやってこられたんですよ。それが今やっていけないというのは、つまりは、あんたが最悪の原因だってことですよ」
 自分に不都合なことは一切忘れて逃げつづける老父に、私は責任回避を許さぬクサビを打ち込んでやったつもりだった。
 しかし「うんにゃあ、おまえのように、こんなところにひとりで住んどって、家の事情など知りもしないものが、何を言うか。だいたい、おまえのように40にもなって妻帯もできないで、こんなところでしか暮らせないような奴に、何が分かるっていうんだ。おまえは、自分で見てきたような事を言っとるが、わしがそんなことを言ったのを、実際に聞いたことがあるとでもいうのか? そんな自分に都合のいいことばかり言ったって、誰が本気にするもんか」と相変わらずの逃げの一手なのだ。
 「おじいちゃんね、あんたこそが、自分に都合のいいことばかり言ってるんですよ。そうやって都合の悪いことはみんな忘れたじゃ通らないんですよ。僕は、あんたが東京の家で大騒ぎをするのを、何遍も見ていますよ。だからこそ、あんたを連れてここへ来たんじゃないですか」
 私は止どめを刺したつもりだが、やはり老父は不死身なのだ。
 「うんにゃあ、おまえの作り話だ。とにかく、わしは帰る。ハルヨシが出ていくんなら出ていけばいいんだ。わしはひとりでも、やっていける。それに、誰か近所の者だって面倒ぐらい見てくれるさ」
 ここまでくれば私も「まあ、やっていけるもんなら、やってみるがいい。勝手にしてください」というわけで打ち切りなのだ。
 そんなわけで、未だ興奮のさめやらない老父が、布団の中でグズグズいっているのを無視して仕事を続ければ、とりあえずは夜明け前の一時の静寂が得られるのだ。私はいつものように6時ごろに老父の朝食を用意して、早々に寝てしまった。
 多分8時か9時ごろであったと思うが、老父が私の寝ている頭上の引き出しをガタガタいわせながら、「起こそうかな…」とか「そうじゃ、帰りの旅費も下ろしておかにゃいかんのじゃ…」とか此見よがしな独り言をいっていたが、私は寝返りを打ってそのまま寝入ってしまった。
 私が目を覚ましたのは午後1時近くであったと思うが、起きると同時にいつも感じていた老父の煩わしさがないのが快適で、全くしばらく忘れていたものを取り返したような気分だった。つまり、二間だけの小さな家を見渡せば愉快なことに老父がいないのだ。確かに普段ならあるはずの老父の上着もなく、ハンチングもステッキもなく、東京から履いてきた靴もないけれど、その外の荷物がそのままなのだから、どう考えても体一つで東京へ帰ったとは思えなかった。
 まして何やらしばらくぶりの解放感ですっかり楽天的になっていた私は、老父がしきりに私にいくらかの金を置いていかなければ顔が立たないとか言っていたことからしても、どうせ銀行辺りへ行ったのだろうと思いたいして心配にはならなかった。だから、もしもそれが見当外れであったとしても、老父の外出とはせいぜい私を驚かせるつもりの見え透いた演技に違いないと考えた。
 そんなわけで、いつものように老父の朝食の後片付けをしていると、唐突に、数人乗った見慣れぬワンボックスカーが入ってきた。車が停まりドアーの開く音と同時に、華やいだ老父の声がする。
 「ああ、お世話になりました。ほんとうに助かりました!!」
 さて、どこまで行って迷子になったものやらと思っていると、行き止まりの一本道で切り返しをしようとする車に「ハア、オーライ、オーライ」と、どこにいるのか分からない老父のほとんど情況判断を無視した勝手なリードが始まっている。
 私は、思わぬ御足労を掛けてしまったはずの親切な人たちに、とりあえずの礼を言いに出なければと思ったが、そのことが老父に、私が心配のあまり思わぬ帰還を歓待して迎えに出たと取られかねないと感じられて踏み止どまってしまった。
 そこで外の様子を伺うと、切り返しの終わった車に向かって話し掛ける老父の声が聞こえる。
 「あの、ちょっと寄ってお茶でも飲んでいってくださいな」
 しかし、車はそのまま走り去った。ようやく老父の姿が現れたが、その姿は、日本海を進んだ台風の後で思わぬ残暑の振り返した中を、ハンチングを被り白いワイシャツにネクタイをして、普段着のグレーのズボンに革靴を履き、左手に上着を抱え右手でステッキを突きながら汗みずくのゆで蛸になっている。その様子からすれば、当然このひと夏そうであったように、ワイシャツの下は綿の半袖シャツに純毛の長袖の肌着を着ているはずだし、ズボンの下にもモモシキを履いているはずなのだ。
 老父はあえぎながら勝手に道と決めた下草の中に分け入り、キッチンの流しの窓越しに見える私の姿をしきりに気にして、いつもそうであったように何かばつの悪いことに遭遇したときの言い分けめいた顔をしている。当然ながら私の突き放した表情に、老父はいかなる冒険談も通用しないことを感じているはずだから、私は迎えに出ることもなく、そのまま洗い物を続けた。すると、先程の華やいだ声とは別人のかなり演技過剰と思われる老父が、ヘエヘエというあえぎとともに玄関の戸を開けた。ハンチングの下でヨレヨレにゆで上がった蛸は、私が口を切る以前に勝手にしゃべり始めた。
 「ハア、歩いた、歩いた。町まで薬を買いに行ったんじゃが、どこをどう行ったのか、すっかり道に迷ってしまって、なんだか広い道を、ずうっと上の方まで行ってしまって、いつのまにか橋のところまで行ってしまったもんじゃから、これは間違ったと思って、また引き返してきたりしたもんじゃから…、そしたら、わしの後を付いてきた車に呼び止められて、お乗んなさい、道に迷ったんなら、一緒に探して上げましょうと言うてくれて、ほれで、そこの坂に出たんで、思い出したんじゃ。いやあ、歩いた歩いた。あれで、呼び止められなかったら、まだ歩いとったな。よほどびっこ引いて歩いとったんじゃろうか、親切に言うてくれたもんじゃから、すっかり助かった。親切な人たちじゃった。3人乗っとったかな、テニスのラケット持っとったから…」
 老父は、ここまで一気に話すと、ようやく靴を脱ぎ捨てて奥の部屋に辿り着いた。
 私が聞きもしないのに、どういうつもりで老父が「薬を買いに行った」と言い分けじみたことを言ったのか分からないが、どうせせっかちの老父のことだから、多分いまや遅しと待ち受けて信用組合の開店時間を目掛けて出掛けたはずだとすれば、かれこれ4時間近く炎天下をさまよっていたことになるのだ。
それにしては、このあえぎが演技と勘ぐられるほどの元気さなのだから、90を過ぎた老父の潜在力には驚かされるばかりなのだ。
 洗い物を済ませて老父のところに行くと、老父は長椅子にワイシャツと純毛の肌着を広げ、半袖シャツひとつになって、ささやかなる冒険談を反すうしながら、しきりに足首の腫れ具合を気にしている。
 「結構歩いたのに、ほれ、あんまり腫れてないんじゃ。すっかり良くなったんじゃろうか…」
 何か拍子抜けの様子なのだ。無論、この日の壮烈なる苦闘の証として見るも哀れに腫れ上がった足を期待していたのであろうが、その期待を見事なほどに裏切られて、ひとり東京に帰るつもりの老父が、老人の一人旅の悲惨さを演出する手だてを失ってしまったということになる。
 私は、いつものように水を浴びてから、昼食の支度をしたが、老父はあまりの疲労にすっかり食欲を失っているのだ。それでも欲しくないとは言うものの、大きなどんぶりでおかゆ1杯は十分に食べた。しかし老父の食事のペースが遅かったので、私は老父の終わるのを待たず勤行を始めた。勤行が終わると、すでに食事の終わった老父が、ようやく落ち着いたという表情で、長椅子に横たわりすっかり寝入っているのだ。
 私は寝ている老父をそのままにして、新聞とクリーニング屋にいっている老父の洗濯物をとりに出掛けた。ところが帰ってみると、すでに老父は長椅子から下りて日の差し込まぬ暗い部屋の床に座り、いかにも内緒事をしているという様子で、長椅子に向かって頭を垂れ背を丸めて札束を数えていた。しばらくは、預金通帳と幾つかに分けた札束を、手提げ袋とズボンのポケットの中に入れたり出したりしていたが、そのうちに私のほうへ振り向いて言う。
 「わしは、あんたとこに、どれくらい世話になっとったかな?」
 「そう、今回は40日ぐらいですね」私は新聞に目を通しながら答えた。
 老父は、またしばらくは札束を数えていたが、銀行の袋に入った札束を出した。
 「それじゃ、これは世話になったお礼の気持ちじゃ。受け取っとってください」
 「何遍も言ったように、おじいちゃんの金は、一切いりません」
 私は、私の仕事机に乗せた袋を老父に投げ返した。
 「とにかく、わしは帰るから、これは世話になったお礼の気持ちじゃ。そんなに投げたりせんで、受け取ってくれ。わしは、もう怒っとるわけじゃないんだから、これで気持ち良く帰ろうと思っとるんじゃ」
 どういうけか老父がやけにしおらしいのだ。しかし私は突っぱねた。
 「これからおじいちゃんが、何をしようと勝手にやって頂ければ結構なんですから、僕のことは気にしないでください。とにかく、おじいちゃんのお金だけはいりません!!」
 ところが、老父は再び袋を机の端にのせて、もはやお金のことは変更のきかないことだという顔で言う。
 「あんた、駅かどっかに電話して汽車の時間を聞いてもらえませんか…」
 「電車の時間表ならありますよ」
 私は草軽バスと吾妻線の2枚の時間表を素っ気なく投げた。老父は、しばらくは黙って見ていたが、ふんまんやる方ないという顔で、私の方を見る。
 「ちょっと、見てくれよ。こんなもん、二つ投げられたって、遠も近こうもこんなものは見たことがないんだから、何が何だか分からんのじゃ。そんな意地悪をしないで、教えてくれよ!!」
 そこで私は、仕方なしに北軽井沢から長野原までのバスの手順と、長野原から上野までの電車の手順を説明し、時間表の読み方を説明した。
 「そうすると、幾らかかるんじゃ?」
 「そう、片道約5,000円だね」
 「ほうで、わしは、せいぜい高くても2,000円ぐらいじゃろうと思っとったのに、そんなに高いのか…。そうすると、ここで大阪までの切符を買えばええんじゃな?」
 私はからかい半分に言った。
 「ここから大阪までじゃ20,000や30,000はかかるんじゃないんですか。それで大阪からどこへ行くつもりなの?」
 老父はほとんど合点がいかぬという顔をしている。
 「ああ、そうか、東京じゃ、東京じゃ。ほんなら、東京までの切符を買えばええんじゃな。それで特急料金はどうやって払えばええんかなあ?」
 「いいですか、バスはバス、電車は電車で別々に切符を買うんです」
 老父は、これから遭遇することになるであろう細々とした手続きに、ほとんど無理難題を押し付けられた困惑の様子なのだ。
 私は再び机に戻り、スケッチブックを広げて仕事を始めた。そんな様子を横目で見ながら、老父は無念の不愉快虫になっている。
 「わしは、おかあちゃんが死ぬまでぐらいは、どうせ面倒を見てもらうつもりで来ておったのに、あんたが帰れというから、帰るんじゃ。それなのに、もうちょっと親切にしてくれたって、ええんじゃないのか」
 「ほら、また始まった。いいですか、そもそもは、おじいちゃんが、おまえのような情のない子供には一日だって世話になりたくないと、勝手に思い込んで帰ると言い出したんですよ。だから、それなら勝手にしなさいと言ったんですよ。僕が、あんたを追い返すわけじゃないんですよ」
 「うんにゃあ、あんたが好きにしろというのは、結局は、帰れと言っとるようにしか理解できないじゃないか」
 「いいですか、よく聞いてくださいよ。もしもあなたが東京へ帰るとすれば、僕はすぐに東京の家に電話をしますよ。そうすれば、もう、おじいちゃんの面倒は見られない、一緒には暮らせないといっている兄貴たちは、おじいちゃんが行くまでには荷物をまとめて家を出ていってしまいますよ。いまさら東京へ帰ったって、面倒を見てくれるヒトは誰もいませんよ。
 それに、おじいちゃんは近所のヒトが面倒見てくれるなんて思っているかもしれませんがね、いいですか、東京であなたは、パトカーが3台もくるような大騒ぎをしているんですよ。近所のヒトはそれをみんな知っていますよ。いかなる理由があれ、逆上して息子に怪我をさせて殺してやると騒ぐような者は、もう誰もまともな付き合いはしてくれませんよ。言うならば、そんな親を持った兄貴は、すっかり世間さまに肩身の狭い思いをして生活するはめになってしまったってわけなんですよ」
 私は老父の泰平楽を並べたてる世間体に先制攻撃を加えてやった。ところが、老父はまったく聞く耳を持たないのだ。
 「うんにゃあ、今さらヒトが何を言おうとわしは知らん。誰に面倒なんか見てもらわなくたって、わしはひとりでやっていける。とにかく、荷物をまとめるのに何か箱にでも入れたらええんかな? 箱でもあったら、分けてくれんか? それとも、どこかに荷造りしてくれる運送屋でもないのかな?」
 「さあ、知りませんね。勝手に探したらいいでしょう」
 私は老父を無視して雑誌の切り抜きを続けていたが、今度は泣き落としなのだ。
 「あんたらが二人して相談してからに、わしには何も言わせないで、準備すらろくにさせもしないで、強引にこんなところへ連れて来たんじゃから、帰るときぐらい優しくしてくれよ」
 「とにかく、僕は、兄貴との約束で、おじいちゃんが死ぬまで面倒を見る約束で連れて来たんだから、おじいちゃんが勝手に帰るのに、手を貸すわけにはいきません。とにかく、帰るのはあなたの勝手です。僕は一切、手を貸しません!!」
 私は、老父との不毛なやり取りを遮断すべく最終宣告を言い渡した。すると、老父は何か口ごもっていたが、ようやく言葉を探し当てたという顔なのだ。
 「わしは、何も帰りたいわけじゃない。あんたが、もう面倒を見ないというから、そんならわしは、帰るはかないと思っとったんじゃ。あんたが、わしが死ぬまででも面倒を見てくれるというんなら、わしには帰る理由がない。そんなら、もう一度おいてくれ。お願いしますよ」
 そしてさらに「わしも、これからは気持ちを入れ換えて、なかよくやっていきたいと思うから、仲直りの記しに、今晩は何かおいしいものでも食べよう。わしが払うから、何がええか言うてくれ。牛のええところでも買ってくるか?」
 そんなわけで、何はともあれ老父のために寿司の出前を取って再出発することになった。缶ビールを1本抜いて二人で飲んだが、わずかのビールにも酔うようになった老父は、そのささやかなる酔いのせいなのか、しばらく忘れていた食事時の敬語を初めていた。

 老父の3度目の「わしは帰る」が一段落したその日の夜、東京の兄から電話があった。老父のためにお米を10kgとたか菜のお新香などを送ってくれたということであった。そのとき私は、老父が気分を改めてここにいる覚悟を決めたということを、老父に変更されることのない可能性の中に組み込まれていると印象づけるために、聞き耳をたてている老父を意識して話した。
 「それでね、おじいちゃんがね、僕が働いていないと何かのときにお金が入り用になっても困るからっていうんで、僕に冬のアルバイトに行ったらどうかと言ってくれているんですよ。それでね、その間おじいちゃんは、草津辺りの病院か施設に1ケ月ぐらいなら入院していてもいいよって言ってくれているんですよ。
ですから、保健所の太田さんに草津辺りの病院か施設を探してもらって頂けませんか。こちらにも、老人問題の相談所はあるんですけれども、群馬県民じゃないので、なんとなく押しがきかないような気かしてね」
 そして、さらに老父の越冬準備のためにダウンのヤッケとズボンも探して欲しいと付けくわえた。もっとも老父に、私の意図がどれほど伝わったかということになると皆目見当がつかない。
 その後、老父は、「わしはお金を下ろす時に、田舎に帰るからと言うてほとんど全額下ろしてしまったんじゃが」と言って、昼間難儀して引き出してきた預金を再び銀行(信用組合)へ入れてきて欲しいと現金を私に預けた。
 このことはボケてしまって以来、老父の事実判断、情況判断あるいは<決意(何はともあれ死ぬまで面倒を見てもらうという…)>などというものが、ことごとく信用できないものになっていたのであるが、ここで自発的に現金を元に戻すという<覚悟>は、少なからず老父の自覚的な行為として、その<決意>を辛うじて裏付けるものと判断できた。
そして、その際、私は老父から預かった現金の中から9月分の食費として20,000円を受け取った。
 ところが、翌日は、老父も前日の疲れが出たのかかなり寝坊してしまったため、昼食の支度が遅くなり、午後3時までに信用組合へ行くことができなかった。老父は、現金でたくさんのお金を置いておくことに多少の不安があったようであるが、取り立ててどうこういうことはなかった。
 夕方になり、東京からの荷物が、いつものように J さん宛でホテルの方に届いているのを取りに行ってきた。
 老父は「ほう、これは重いもんじゃなあ。あんたは、こんな重いもんを担いできたんか。それはご苦労さんじゃったな。それで何を送ってきたんじゃ? ふうん、お米か。どこから送ってくれたんじゃ?」
 すでに昨日の夜の兄からの電話のことはすっかり忘れているのだ。
 「ほうで。なんだって、ハルヨシのところから、こんなにたくさん送ってよこしたんじゃろうか」
 この事態をどのように理解していいものか考えあぐねているようなのだ。
 「それはね、兄貴にしたところで、おじいちゃんを僕のところへ預けたとはいうものの、おじいちゃんのことを忘れてしまったわけじゃないんだから、いろいろと気を使ってくれているんじゃないですか。僕だけなら、そんなにお米もいらないけれど、おじいちゃんはご飯が好きだから、たくさん送ってくれたんですよ」
 とりあえずの説明をしておいたが、どうやらこの説明が老父を大いに喜ばせたようで、非常に上機嫌であった。ところが、このことが同時に、少なからぬ里心をうずかせてしまったようであったが、私はまったく気がつかなかった。
 さて翌日は、私は水浴びと勤行だけを済ませて早々に信用組合へ行き、老父より預かった現金を再び預金してきた。家へ帰り、老父に通帳を渡すときに、私は後日の誤解を未然に防ぐためにと思い、通帳に記載されている金額についての説明をした。
 「おじいちゃんね、一昨日引き出した金額より、今回入金した金額が20,000円少なくなっているのは、僕が食費として貰った分ですからね。はい、よく見ておいて下さい」
 ところが何を思ったのか、老父は寝首を掻かれたような顔をして言う。
 「あらら…、ほうで。あんたが、そんなにたくさん引いてしまったら、もう後いくらも残っておらんじゃろうが」
 「何を言ってるの? 20,000円ですよ。20,000円!!」
 私は念を押して確認したが、どうやら勝手に200,000円と思い込んでいるようなのだ。それは多分、先日の騒ぎのときに、私に断られながらも置いて帰るつもりだった金額と混同しているようなのだ。
 「あんた、1ケ月の食費で20,000円も取るのか? そりゃあ驚きだ。そんなひどい話は聞いたことがない。ええ? 親戚に面倒見て貰ったって、そんなに金を取るところはないだろうに。するとおまえは、商売でわしの面倒を見とったってわけか。おまえは、死ぬまでわしの面倒を見てくれるなんて言いおって、金を巻き上げることが目的じゃったってわけか。こういう、親を親とも思わぬような奴のところじゃ、もう一日たりとも面倒を見てもらうわけにはいかない。東京ならわしの家なんじゃから、一銭だって取られることはないんじゃ。わしは東京へ帰る。ハルヨシだって、気を使ってなにかと物を送ってくれたりしておるんじゃから、わしの面倒だって見てくれるさ。そうと決まれば、さっそく帰らねば…。おばあちゃんの様子も心配だし、はやく帰ってやらにゃ…」
 アッと言う間にいつものゆで蛸になり、さらに自分の言葉に興奮を募らせて、もはや老醜をさらけ出した自己愛の塊にすぎなくなってしまったが、それでも帰れる口実をとうとう見付けたとばかり喜々としているのだ。
 しかし、老父は帰るとは決めたものの、あまりに興奮しすぎていて何をしていいのか分からないらしく、ただうろうろするばかりだった。
 もうここまで一気に興奮してしまえば、何をいっても興奮を増長させるばかりなので、私は老父には構わず昼食の支度をした。老父に食前の薬を飲むように言ったが、それには目もくれず引き出しからいつもの手提げ袋を取り出し、何やら出したり入れたりしている。私は早々に自分の食事を済ませ、老父には拘わらず新聞を読み始めた。
 しばらく後に、老父も食事を始めたが、当然ながら興奮のためにいくらも食べられなかったようであるが、それでもそそくさと食事を済ませた。
 「荷物は置いとってくれ。後でハルヨッチャンに取りに来てもらおう。それで、いくらかでも持って行けるものは持っていくとして、カバンがないから風呂敷がいるな…。おお、それと洗濯屋にいっとる物があったはずじゃな、洗濯屋はどこなんじゃ?」
 「銀行の先ですよ。洗濯屋へ行くんなら、預かり証を持っていかなきゃ駄目ですよ」私は預かり証を手渡した。
 「銀行の先言うても、どれくらい先なんじゃ?」
 「行けば分かりますよ」
 「んん? ほうか、向こう行って聞けば分かるな…。そうか、そうすると風呂敷と、ついでじゃからキップを買っておかにゃ…」老父はそそくさと立ち上がった。
 「おじいちゃん、これから銀行へ行くつもりなら、もう銀行は終わってますよ。3時過ぎてますからね」老父は私の忠告に虚を衝かれてたじろいだ。
 「ありゃりゃ、ほうで、銀行は終わっとるのか…」とは言ったものの、未だ興奮が治まらないのだからじっとしてはいられない。
 「ほんなら、風呂敷とキップだけでも買いにいこう」
 一日中降ったり止んだりのどんよりとした天気の中を、老父はハンチングを被りステッキを突いてうろたえながら出ていった。そんな様子を見ていると、普段もあの元気で散歩でもしていれば、こう年中イライラウジウジとした揚げ句に、爆発ばかりしていなくても済むものをと思わずにいられないのだ。
 何はともあれ老父が外出して、私には、たぶん2時間ぐらいの貴重な解放感が約束されることになったが、こう立て続けに興奮ばかりしている老父のことを思えば、そううかうかと遊んでいるわけにもいかないのだ。しかしまあ、とにかく老父の混沌とした未来のために、スピーカーで鳴らす久し振りのモーツァルトを選りに選って『レクィエム』に決定し、情緒不安定と記憶の混濁によるボケ症状の未来について考えてみることにした。
 とは言え、私のところで面倒を見切れなくなれば、後は施設へでも入れるしかコヤ家の家内安全商売繁盛がないのだから、ここで言いうることは、はたして私がいつまで老父の面倒を見続けられるのかと自問することになる。言い換えるならば、どこで見切りを付けることになるのか、その見極めの時期をどのように見定めたらいいのかということでしかないのだから、結局は、老父に対する何論的反省の挫折という意味を踏まえてもなお、老父と決別するための心の準備について検証することになるのだ。
 そこで、ここ2〜3日の老父の情況変化について、とりあえず東京に電話を入れておくことにした。しかし、老父が死ぬまで面倒を見る約束で連れて来ている以上、未だどうなるか分からないことで一々心配をかけることはないとも思われたが、先日の兄からの電話のときに、病院か施設を探してもらうように話をしていたので、その話の延長で何かの解決策を探ることも可能ではないかと考えたのだ。
 電話にはママさんが出たので、とりあえずの近況を連絡するだけに止どまったが、老父の情況からすれば、やはり近い将来に病院か施設へ入れるという方法を取らなければならないのではないかと考えていることを語った。その電話が終わってから10〜15分して、今度は兄から電話があった。兄は、先日の電話があってすぐのことだから、かなり当惑していた様子であったが、兄には、いま O さんに頼んでいる件の回答がきたときに、改めて老父の症状にあった病院なりを探してもらうようにと頼んだ。
 それにしても、兄の言うところによれば、「まだおじいちゃんの件については、ママも、いままでの傷口が癒えていないからね、さっきの電話があっただけで、もう険悪な状態になっているんだよ。ママは始めから言っていたんだけど、おじいちゃんは北軽にはいられないはずだから、きっと帰ってくるはずだって、ね」というわけで、心配した通りの悪い結果を招いてしまったようであるが、われわれは、いかなる事情があれ老父を東京の家に近付けてはならないということの確認を取り交わしたのだ。
 ところで雨が降ったり止んだりのこんな日は、まだ5時半だというのにすでに薄暗くなっていた。老父が家を出てからそろそろ2時間になるので、どこかで道に迷ったとしてももう帰ってくるころなのだが、どうやらその気配がないので迎えに出ることにした。もう30分もして帰らないようなことがあれば、日も暮れて遠目が効かなくなってしまうから、どうせ迎えに出るなり探しに行くのなら今のうちということになる。
 とりあえずうちに帰ってくるには2本の道があるので、たぶん老父が行きに通ったはずのバリケードをくぐる横道を途中まで行き、国道までが見通せるところで老父の姿がないことを確認した。そして、その場所から行き止まりになった後ろの斜面を降りて、もうひとつの道の窪地になった底に出た。と同時に人の気配がして見上げると、ヨレヨレになった老父が小わきに小さな紙袋を抱えグラグラとステッキを突きながら、息も絶え絶えに降りてくるのだ。老父はおぼつかない足元ばかり見ているので、どうやら道の途中へ突然駆け降りてきた私には気がついていないのだ。
 「どうしました、ずいぶん遅かったですね」
 私が声をかけると、老父は想像以上にびっくりして、ようやくの安堵感にもまして自分の奇跡的な幸運に驚きを禁じ得ないという様子なのだ。
 「ああ、やっぱりこの道でよかったのか、また迷ってしまって、どこがどこやら、すっかり分からなくなってしまったもんじゃから…。ああ、よかった。でも、あんたはどうして、わしがここに居ることがわかったんじゃ?」
 「うん、いまそっちの道を見たらいなかったもんだからね。それに、道に迷ったにしてもそろそろ帰るころだと思ってね、いま迎えに出てきたばかりですよ。今日は、どこまで行っちゃったんですか?」
 「風呂敷を買って店を出たら、何んと言うたかな、ほれ、いつもわしが行きつけの病院があったんで…」
 「おじいちゃんの行きつけの病院は東京ですよ。ここは北軽井沢なんだから、女子医大なんかはありませんよ。多分おじいちゃんが風呂敷を買った店の向かい側は、銀行ですよ」
 「ほうか、病院じゃなかったかなあ…。ほれ、この診察券のところじゃよ」
 ズボンのポケットから預金通帳を引っ張り出している。
 「よく見てごらん、それは診察券じゃなくて、銀行の預金通帳でしょ?」
 「あら、そうか? わしは、診察券じゃ診察券じゃと思っとったのに…」
 預金通帳を見ながらも、まだなかなか納得できないようなのだ。
 「それで、銀行からどっちへ行ったの?」
 「ほれ、道路の電気がチカチカついてるところがあるじゃろ、そこでまた迷って、それから左のほうへ上ってから、どう行ったんじゃったかな、そうこうするうちに、今日もそこの川の白い橋のところまで行ってしまって、ああ、そうだ、この川の手前じゃと思い出して、また戻ってきたんじゃ」
 「ははは、それはご苦労さまでした。ま、暗くならないうちに帰れて良かったですね」
 われわれは、一緒にゆっくりと歩きながら坂を下りそして上り始めたが、それでも老父は「わしは、もうフラフラじゃ、もっとゆっくり歩いてくれ」とステッキを突きながら泣き言をいっていた。
 私は、「勝手に家を飛び出して行ったんだから自力で帰りなさい」という意味のペナルティーのつもりでいたから、老父が手を貸してくれと言い出すまでは、決して手を貸そうとはしなかった。ところが老父にしても、先程は私の世話にはなりたくないと言い切って家を出た手前、今さら手を引いてくれとは言えなかったらしく、ついに意地を張り通して坂を上り切った。
 坂の上で一息ついた老父は、目の前に私の家を発見して「ありゃりゃ、もうここまで帰っとったんじゃな、ああ、よかったよかった」というわけだから、普段なら見忘れることのないこの陥没した地形でさえ、はっきりと認識できていなかったというわけなのだ。
 興奮したまま家を飛び出して以来、日暮れと小雨に追い立てられた迷走の果てに不安を募らせていたはずの老父にとっては、突然の私との遭遇は、それまでの異常な緊張感を一気に喪失してしまう事件であったはずだから、その大きな脱力感ともいうべきものが、老父のささやかなる情況判断の能力までも停止させてしまったのかもしれない。
 何はともあれ家に辿り着き、老父は下草の滴で裾を濡らしたままのズボンで、紙袋も投げ出して長椅子にへたりこんでしまった。それでも、自分の帰ってきた道を未知との遭遇のごとく繰り返し説明していたが、迷ったままでここまで辿り着いてしまったようなものだから、それを聞いていてもどこをどう歩いてきたのかやはり見当がつかなかった。
 そして、「風呂敷を買うところまでは、途中で聞きもってでも行くことは行けたんじゃが、帰るところが分からなくなって、それで途中で聞いたんじゃが、あんたどこへ行きたいんですかと聞かれても、どこへ行ったらええもんやら、それが言えなくてみんなに笑われてしまった。あんまりみんなが笑うもんじゃから、仕方なしに自分の思う方へ来たんじゃが…」というような事があったらしいのだ。
 それでもひとしきりしゃべり続けると「病院じゃったかな、わしが行ったことのあるのは? ああ、銀行か、あそこまでは行ったことがあるから、あしたは大丈夫じゃ。銀行は帰るときに寄って行けばええんじゃからな…」
 老父は自分に言い聞かせるように独り言をして、うたた寝に入ってしまった。
 老父は一気に深い眠りに入ってしまったが、かなり疲労したらしくて顔色が悪かったから、そう思って見れば黄疸の気が出かかっているようにも見えた。30〜40分してから、私は食前の薬を飲ませるために老父を起こした。どうやら顔色も元に戻り先程までの興奮状態もかなり治まっているようなのだ。
 「さっきは、あんたに会うまでは、どうなるもんかと思っとったから、あんたの顔を見たときは、嬉しかった…」なんて、改めて安堵感を確かめている様子なのだ。
 そして「あんた、わしの金は、あっこの銀行に入れとってくれたんじゃな…」
 昼過ぎの騒ぎなんか、まるで無かったような口ぶりなので、私は改めて預金通帳の件を納得させる時だと思った。
 「どうですか、少しは落ち着きましたか。ちょうどいい機会だから、ちょっと説明しておきましょう」
 私はメモ用紙を取り出し、毎月貰っている食費は20,000円で1日当たり700円足らずであること、しかもそれは老父が1年間に貰う老齢年金で賄ってなおかつ余りがあるということ、そしてわずかながら老父が出資している会社からの配当金もあり、その上に月遅れではあっても兄のところからそこそこの家賃も貰っているのだから、老父がここに居る限りは預金が増えることはあっても決して減ることはないということについて説明した。
 「いいですか、おじいちゃん、よく聞いてくださいよ。おじいちゃんは、ここに居る限りは、何もしないでそこに寝転んでいるだけで、預金が増えていくようになっているんです。現に、よく見てください、この通帳も初めの金額からみると、わずか100,000円ではあるけれど、ほれ、確かに増えているでしょ。おじいちゃんは、僕が貰ってる食費の20,000円を、200,000円と勘違いしていたんじゃないんですか?」
 「ほうか、わしは、このままじゃいっぺんに預金もなくなってしまうと思ったもんじゃから、それじゃあんたとこでは面倒を見てもらうわけにはいかないと思って、ハルヨシとこへ帰った方がええと考えたんじゃ。だけど、お金の心配がないと言うのであれば、何もハルヨシとこへ帰る必要はないんじゃ。あんたとこで、世話になるよ」
 「とにかく、おじいちゃんは、そこでうたた寝していれば、少しづつでもお金が増えていくんだから、ここでのんびりと長生きをしていればいいんですよ。長生きすればするほどお金は増えるってわけですよ。つまりね、おじいちゃんにはお金の心配がないからこそ、こうやってたいして働きのない僕でさえ、おじいちゃんが死ぬまででも面倒を見られるってわけなんですよ」
 これで、ようやく本日の騒ぎは一件落着したことになる。
 そこで老父が言うことには、「変なことがあるもんじゃねえ、わしは、すっかり興奮して風呂敷を買いにいったもんじゃから、ああやってみんなに寄ってたかってワイワイ言われると、余計に何もかも分からなくなって、自分が誰であったかも分からなくなってしまったんじゃからなあ。まるでバカになってしまったようで…、はは、ボケとればバカも同じことじゃけど…、とにかく不思議なことがあるもんじゃなあ。今なら、あそこで聞かれたことにも平気で答えられるのに…」
 「どこで道を聞いたの?」
 「風呂敷を買って、さて帰ろうと思ったら、どこへ行ったらいいのか分からなくなってしまって、それで店のご主人に聞いたんじゃ。わしは帰るところが分からなくなってしまったんですが、どっちへ行ったらいいんでしょうかって。
 そしたら店の人はなかなか体格のええ、どっしりとした親切な人で、いろいろと優しく聞いてくれたんじゃが、どうしても答えられないんじゃ。団体でいらしたんですか、個人でいらしたんですか、と聞かれて、わしは、どうも団体のような気がすると言うたもんじゃから、それじゃ旅館かも知れないというわけで、わしもここが旅館のような気がしておったから、どっちから来たんですかと言われても、それも分からなくなってしまって…。
 今思えば、せめて親戚のうちにでも来ているとでも言っておけばよかったんかも知れんのじゃが、それも出ないもんじゃから、そうこうしよったら、店にいたお客が笑うし、そしたら買い物に来たのでもなさそうなのまでが入ってきて笑うもんじゃから、わしは、はずかしいやら興奮しとるやらで、余計に何も分からなくなってしまったんじゃ。
 表に出て、あっちからですか、こっちからですか、と言われても、次々と人がたかってきて、みんながてんでにいろんなことを聞くもんじゃから、わしは、この診察券を出したり入れたりするばかりで、どうしたらええもんやら分からなくなってしまったんじゃ。
 誰か、この診察券でも見て前の病院に行って住所を確かめてくれさえすれば、わしの帰るところが分かりそうなもんなのに、誰も笑うばかりで、何もしてくれないし、誰も、わしの覚えのありそうなところまででも、付いてきてくれるというようなことを言ってくれる親切な人もいないので、とうとうわしは、この病院は何度が来たことがあるようじゃから、たぶん自分はこっちから来たと思う言うて、自分の思う方へ来たんじゃ。
 まったくボケてしまうというのは、恐ろしいもんじゃなあ。なんにも分からなくなってしまうんじゃからなあ…。まだ、ボケてしまうには早過ぎるよ」というわけなのだ。
 買い物に行った先でボケ症状を他人に笑われた老父は、どうやら自分の小賢しい言い繕いでは逃げ切れぬ老いを引き受けざるを得なかったようであり、しかもいつでも誰かが助けてくれるという安易な依存心が、まったく根拠のないものであることも思い知らされたようなのだ。
 多分そんな思いによる挫折感と新たな緊張感が、私への敬語というあの不自然さになっていたのかもしれない。風呂から上がっても「ああ、お先に頂きましてありがとうございました。本当に結構な湯加減でした。わたくし、少しぬるくして入りましたので、あなたがお入りになられるときには、すこしぐらい沸かされたほうが好いかと思いますが…」という有り様だから、二日ほどは借りてきた猫のようにおとなしかったので、とりあえず兄には、老父の緊急入院の必要はなさそうであることを連絡しておいた。
 翌日の月曜日夜に兄から電話があり、冬の私のアルバイト期間における老父の短期入院の可能性について連絡があった。まず現段階で老父が入院可能な病院として松本市にある上条記念病院というのがあるということ、草津温泉にはリハビリの病院は数あるが老人専門の病院がないということ、老人施設の場合は、東京近辺にはほとんど空きがないが、地方の場合は東京に比べればかなり余裕があるということ、ただしこの群馬近辺にしても、住民登録を移動させなければ地元の施設には入れないということであった。まだ先の話であるから、引き続き条件の合うところを探してもらうことにした。
 この話をあらためて老父に話したが、老父にとっては東京行きのあらゆる策略が退けられてしまったものの、東京行きを諦めたわけではないのだから、私が東京へ行くという絶好の機会を逃す手はないと考えている様子なのだ。
 そこで「あんたが、仕事をするから言うて、なにも、わしが病院へ入らくてもええんじゃないかなあ…。わしがあんたと一緒に東京へ行ったからというて、わしが余計なことをしゃべらなければええんじゃろうから、そうすれば、いままで通りうまくいくはずじゃよ」
 やはり自分に都合のわるいことは全部忘却されたことになっているのだ。
 「だめだめ、普段はそのつもりでも、何かがあればすぐ興奮して見境がなくなってしまうんだから、駄目です。だいいち、東京ではもうおじいちゃんの面倒は見られないと言っているんだから無理ですよ」と、いつものように取り合わなかった。
 「自分の家内があんな病気になって寝たきりだというのに、もう2ケ月にもなるというのに、顔も合わしていないんじゃから、わしだって顔を見てやりたいよ。あれで、おかあちゃんは長いこと連れ添って、一生懸命働いてくたんじゃから、面倒を見てやりたいと思うよ」
 何はともあれ母を引き合いに出すことだけが、老父にとっては東京行きを主張しうる最後の理由なのだ。しかし、老父を東京へ連れて行っても、今までがそうであったように耳が遠くてボケによる情緒不安定の老父と、パーキンソン氏病のボケが進行中で尚且つ身体が動かず言葉をしゃべれない母とのあいだには会話が成立せず、老父の勝手な思い込みにさえ母が応答できなければ、もうそれだけで老父は逆上してしまうのだから、「もう、おじいちゃんとは一緒に暮らしたくない」と意志表示をしていた母の寿命を縮めることにしかならないはずなのだ。
 したがって、老父の自分勝手な夫婦愛と、それに伴う某かの心情はそれなりに分からないわけではないが、老父の最後の切り札は、これらの諸般の事情を克服するだけの説得力は持ちえないのだ。まして母の食事の面倒すら見られぬ老父は、不自由な母に自分の面倒を見ることさえ強要しかねないのだから、母の面倒を見たいなどという都合のいい口実を語るまえに、母の善意をねこそぎ貧って生き延びた者としての反省に目覚めないかぎり、老父の切り札はただの紙切れ同然でしかないのだ。しかし、そんな反省がないからこそのボケ老人である老父には、母の積年の痛みを解説してみたところで、また新たに逆上させる原因をつくることにしかならないのだ。
 ところが、私が老父のゲームに参加せず、せっかくの切り札もやり過ごして仕事でもしていると、「まあ、あんたのように、こんなところでこういう生活をしとるもんには、人の情というものが分からんのじゃろうけれど…、わしは、おかあちゃんが死ぬ前に、もう一度東京へ行ってやりたいんじゃよ」と言っている。
 そういえば、誰に言われるまでもなく私の生活とは、正に「こんなところでこういう生活」と言いうるものにすぎないのだが、そんなところの居候にすぎないくせに自分の言葉にも責任を持ちえぬ老父の大きなお世話が過ぎるから、先日は、私の「こんな生活」の心意気について一言だけは語っておいた。
 「僕がこんなところでこういう生活をしているというのも、元を質せばあなたのような親を持ってしまったからですよ」
 そのときにも私が言わんとしたことは、縁あるヒトビトすべての善意を貧ってしか生きえなかった老父が、無垢の自愛的暴力者として以外には何も為しえなかったことに対し、私は心ならずも貧っていた縁あるヒトビトの善意に感謝しつつ、己の自愛的暴力性に反省を喚起しつつ何も為さずに生きたいということであったけれど、老父は相変わらず「ふんにゃあ、勝手なことは言うな」ですべて事足りてしまう忘却的暴力者なのだ。
 何はともあれこの親にしてこの息子ありと言いうるわれわれは、二人合わせてなんとか欲望の帳尻を合わせようわけだから、世間様には用無し者どうしの親子というわけで、正に「こんなところのこういう生活」こそが誠にふさわしい生活というわけなのだ。
 いずれにしても、自己認識の中に客観性という視座を獲得することもないままに老化してしまった発育不全者の老父は、かつて私が、20〜23年前に肉親相克と慣れぬ家業の重みにあえいでいたときに、これでもかこれでもかとキャンバスの中で父を殺し続け、兄を殺し、母を殺して肉親の返り血を浴びていたということには目もくれず、とりあえずは家業の後継者としての私に、仕事をしない父親のとめどない猜疑心を解消しつつ尚且つご機嫌をとってくれて、まだ仕事は満足とはいえないものの変わったおもしろい絵を描く息子という一面ばかりを見ていたのだから、その意味においても、己の延命のために利用したわれわれの痛みには知らんぷりの老父でしかなかったというわけで、ずっと反省的視座の欠落したボケ老人を続けているし、ずっと勝手な現状認識で生き続けてしまった自愛的暴力者でしかなかったということなのだ。




25.寝ぼけ


 夏の終わりに長雨が続いて、早くも山桜の葉が紅葉を始めようとする雑木林の中では、この山小屋も終日薄暗い日が続いた。老父にとっては多分肌寒く感じられたはずのそんな天候が影響したのか、朝食を済ませた老父は再びベッドに潜り込み、しばしば朝寝をしていたので、私が起きる昼過ぎまで寝ていることが多くなった。
 しかも、老父が4月にここへ来たときには、東京での生活と同様に7時半には朝食を取っていたのに、夏になってこの高原へ戻って来て以来いつのまにかその時間も遅くなり、最近では11時から12時ごろに朝食を取ることも珍しくなくなった。私も慌てて起きて老父の昼食を用意する必要がなくなったため、私の起床時間も次第に遅くなり、極端な日には昼食が4時から5時ごろになることもあった。当然ながらそんな日には、夜の食事は10時前後になってしまうのだ。
 ま、それはかなり変則的な日ということになるが、そこまでにならない日でも、最近は4時からの『水戸黄門』の再放送が終わってしまったためか、それとやはり天候の影響によるのか、老父は昼食から夜の食事の間もほとんどうたた寝をしていることが多くなった。しかも以前から、夕食の後は必ずうたた寝をしていたのだから、結局のところ、最近の老父は三食と風呂の時間以外は、ほとんどうたた寝をしているかベッドの中にいることになるのだ。
 そんなわけで、まずは老父のうたた寝に垣間見られる夢と現実の錯綜した<寝ぼけ>を探ってみたいと思う。先日も、老父は昼食の後にすっかり寝込んでしまったが、ほとんど日が落ちる直前になって目を覚ました。
 「きょうは、どういうわけか頭がすっきりしている。こんなに気持ちのええのは、ここに来て初めてじゃ。だんだん頭のほうも元に戻りつつあるんじゃな。さて、今のうちに朝ご飯の薬でも飲んでおくかな…。あらら、きょうも雨が来るのかなあ、朝からへんな天気じゃなあ」なんて薄暮の空を眺めている。
 「まだ夕方ですよ。つまりね、これから食べる食事は夜ご飯です」
 「うんにゃあ、これから夜が明けるんじゃ。そんな人をバカにしたようなことは言わんでくれ」
 老父は何んでもお見通しというような顔で突っぱねてしまう。
 「だってそうでしょう、朝なら、目覚めたときにはベッドの中にいるはずでしょう。それなのに、いま目覚めたそこは長椅子の上ですよ」
 老父は苦虫を噛み締めたような顔で不愉快の塊になるだけだから、すでに日もとっぷりと暮れて、ナイター中継を見ながら夜のご飯を食べていてもまだ納得しない。
 「わしは、まだ、どうしても朝のような気がしてしょうがないんじゃ…」
 たぶん老父の場合は、本人が明晰に目覚めたとしても、その目覚めたところが茫漠たるボケの地平でしかなかったというわけだから、単にボケ症状への覚醒をボケ症状からの覚醒と思い込んでいるだけなのだ。
 その後、秋も深まり涼しさも増して、老父には寒いと感じられるころになり、机と本棚を移動して早々にコタツを置くことになった。老父はすっかりコタツでのうたた寝三昧に耽っている。その日も老父は、昼食の後にすっかり寝込んでいたが、私は仕事(<6F>)が手間取り8時10分前になってようやく夕食の支度にかかるところだった。そこで、老父がムックリと起き上がった。
 「わしは、もう夕食はいらんよ。もう今日は遅いから食べない!!」
 「体の具合でも悪いんですか?」
 「うんにゃあ、こんな遅くになって食べると、もう消化せんからな」
 「ああ、それはすいません。今日はちょっと遅くなっちゃったからね。でも遅いって言ったって、まだ8時前だから、急げば8時半には食べられますよ」
 「うんにゃあ、もう遅いからいらん。歳を取ると、どうしても消化するのに時間がかかるからな。でも、あんたが、どうしても食べろと言うんなら、何か、うどんでもあれば少しくらいなら食べてもええよ」
 「うどんは無いから、ホットケーキでも焼いてあげますよ。すぐ出来るし、これなら消化もいいはずだからね」
 何はともあれ老父に食前の薬を飲ませ、私は炊飯機にセットするはずの米を磨がずに内釜に入れたままして、ホットケーキの準備を始めた。すると老父はコタツの中で<独言>を言っている。
 「どんなに遅くとも、せいぜい10時か11時ぐらいまでに食べなきゃ遅すぎるよ」
 そこで私は、「おじいちゃん、まだ8時なんですよ。それなのに、簡単なもので済ましちゃっていいんですか?」
 「ああ、ええよ。もう遅くなっちゃったからな」
 この段階で、老父がまだ<寝ぼけ>ていることは明白であったが、本人が好いというものを無理やり変更させる理由もないので、私はそのままホットケーキを作り始めた。老父は、そんなわずかの時間も待ち切れぬ様子で、すでに食卓に来て内釜に入れたままの米をいじっていた。
 「あんた、これは米か?」
 「ええ、それが毎日食べているお米ですよ。それは東京から送って貰った分ですよ」
 「ほうで、こんなに細かい米があるんじゃなあ。米とは思えんな、まるでお菓子みたいじゃ。こんなに粒が揃って、奇麗じゃもんな。これなら、うまいじゃろう…」
 内釜の中に手を入れて、米を掬ってはサラサラとこぼし、いつまでも遊んでいた。
 間もなくホットケーキが焼き上がった。
 「これは、柔らかくて、おいしいもんじゃなあ」
 老父は、いつものように昼過ぎに入れてあげた飲み残しのコーヒーを飲みながら、ホットケーキ1枚にシロップをかけて食べた。
 そして、老父が食後の薬を飲むまでには、沸かし直しの風呂が沸いていたので、老父はそのままタイミング良く風呂へと入った。風呂から出てもまだ目の覚め切らない老父は、寝間着に着替えてからもストーブの前でまたうたた寝を始めてしまったが、それから30〜40分して急に目を覚ました。
 「ええと、わしは、ご飯を食べたかな…」
 「食べましたよ。でも、簡単でいいと言うから、ホットケーキでしたけどね」
 「ほうか、もう、済んだんならええんじゃが…。ホットケーキって何んじゃったかな?」なんて言いながら、やはり老父は、何か物足りなさそうであったけれど、そのままベッドへと入った。
 こんな調子だから、たぶん老父がこの日に食べたホットケーキは、夢であったのか現実であったのかと問い正しても、まずは意味のない質問になってしまうはずなのだ。
 先日は、<寝言>でごちゃごちゃと何か言ってるなと思っていたら、ムックリと起き上がった。
 「それなら早く、寝間着を着替えにゃいかんな」
 そして、手際よく寝間着を脱ぎはじめた。私は、また<寝ぼけ>ているなと思った。
 「どうしたの?」
 老父は渋い顔で半分目を開けて言う。
 「ん? あんたが火事じゃ、と言ったんじゃないか」
 「どこが火事なの?」
 「ほれ、そこまで燃えてきているんじゃないのか?」
 老父は北側の牧草地辺りを指さしながら怪訝な眼差しなのだ。その眼差しに答えて私が笑い返した。
 「ありゃりゃ、わしは夢を見とったのか、すっかり火事だと思った」
 老父は照れ笑いしながらトイレへと立った。いや、むしろこの時は、自分で火事かどうかを確かめに行ったと見るべきだったかもしれない。
 そういえば、<寝ぼけ>た話には、こんなのもある。
 昼食後にストーブにあたりながら長椅子でうたた寝をしていた老父が、<寝言>は言わないもののしきりにズボンのベルトを外そうとしていた。私は、また食べすぎで気持ち悪いのかと思っていたが、それほど切羽詰まった気配ではないものの何遍かベルトをまさぐっていた。そんなことを繰り返しながら2時間余りも寝ていたが、ふっと目を覚まして、座ったままかなり苦労してズボンを脱ぎ始めた。
 「あの、あんた面倒なことをお願いして悪いんじゃが、このズボンのポケットが破れとるんで、繕っとってもらえませんか」
 人の都合はどうであれ、せっかちでわがままな老父のことだから、言い出したら待ったが利かないというわけで、私は老父のズボンを受け取り修理を始めたけれど、結局のところ老父が寝ながら気にしていたズボンとは、このことだったのかと思っていた。
 ところが、何かゴソゴソしていた老父が急におとなしくなったので目を上げて見ると、サルマタと腹巻だけになった老父がシャツを羽織った姿でコタツに入り、昼寝に入る前に出してあげた梨を無心に食べているのだ。
 「あれれ、おじいちゃん、そんなかっこでどうしたの?」
 「ん? あんたが、風呂が涌いたから、早よ入れと言ったじゃないか…、じゃから、梨を食べて…」
 そんなことを言いながら、老父自身も何か納得のいかない顔をしている。
 「お風呂は、まだ涌かしていませんよ。だいいち、まだ夜のご飯は済んでいないじゃないですか」
 「ご飯がまだでも、もう風呂が涌いとるんじゃないのか?」
 「いいえ、まだですよ。それに、梨を食べるんなら、なにも裸になってから食べなくたっていいでしょう。裸になる前に食べればいいじゃないの? 風邪ひくよ」
 「そうなんじゃが、あんたが、早く入れ、早く入れ、と言っとっから…」
 「それは夢じゃないんですか?」
 「ありゃ、そうか…、わしは、夢を見とって裸になってしまったのか…」
 そんなわけだから、寝てはいなくても<寝ぼけ>て言う言葉は<寝言>と変わらないし、<寝ぼけ>てすることも夢の行動と変わらないというわけなのだ。
 ところで、いくら老父がよく寝るとはいっても一日に16〜7時間も寝れば充分であろうから、朝昼晩のうたた寝で7〜8時間も稼いでしまえば、ベッドに入っている12時間余りのうち4時間ぐらいは寝られない時間を過ごすことになるのだ。特に最近では夜中の2〜3時ごろから目を覚まし6時ごろまでは寝付けないでいる様子なのだ。しかし私が寝る午前7〜8時ごろにはよく眠っているから、そんな日には多分そのまま私が起きる直前までは眠っているようなのだ。
 そして、いま正に問題となるのは、ベッドの中で目覚めている約4時間についてなのだ。それはすでに語った「わしは帰る」に至る妄想の時間帯でもあるのだが、老父にとっては<寝られないという意識>が、ボケ症状へと明晰に覚醒してしまったときと同様に、どうやら<頭脳明晰>であるという錯覚を起こさせているようなのだ。
 なぜなら、私が仕事をしながらそんな老父の様子を見ていると、本人が寝られないといっている時にもしばしばいびきが聞こえるのだから、頭脳明晰どころかかなり混沌とした状態であるはずなのだ。
 そんなときに、よく小声で<独言>をいっていることがあるが、それが時には3〜4時間も続くこともあり、時折途中でうなったりすることもあるのだから、それがどこまで<独言>でどこから<寝言>であるのかは分からない。もっとも、もともと<寝言>ははっきり言う老父のことだから、かえって何を言っているのか分からない言葉は<独言>というべきかも知れない。
 そもそも自分の言っていることは、いつでもどこでも誰かが聞いていて「そうだそうだ」と相槌をうってくれるものだと思い込んでいる老父は、ここでは一度しゃべり始めれば私の都合には構わずに、仕事をしていようが、本を読んでいようが、時にはトイレに入っていようが、すでに常套句になった物語を延々と繰り返しながらしゃべりまくるのだ。この覚醒時における呆れるほどの同道巡りに比べて<寝言>のほうは、同じように勝手な思い込みによって語られるにしても、かなり変化に富んだ物語を聞かせてくれる。
 そんなわけで昔からかなりはっきりと、しかも大声で<寝言>を言いつづけてきた老父は、いま夜通し起きている私の横で、ほとんど一晩中しゃべりつづけているのだ。
 ところで、すでに30年前から老人をしている老父を語るのに、決して忘れてはならない有名な<寝言>の話がある。これは10数年も前のことであるが、食後うたた寝をしていた老父が、突然大声で吠えだしたのだ。その犬のような吠え方に驚いた母が、その異様な雰囲気に気後れしながらも慌てて起こした。
 「どうしたんですか!? どうしたんですか!? 変な声を出して…」
 「ありゃりゃ、わしは、いま吠えとったかな…。ああ、いま犬になっとったんじゃ」
 老父は正に犬となり、怪しいとにらんだ誰だかに向かって、決然と吠えていたというわけなのだ。
 そんな変幻自在なボケの延長線上で、いまここで語られる<寝言>は、老父がトイレのために起きたときにその内容を聞いてみると、たいていは起きているときには思い出すこともない<失われた30年>に属する時代背景で語られているのだ。
 たとえば「あんた、それはこっちの方がええ。そう、少なくとも、これくらいの長さがなければ、だめじゃ」と言いながらスキーの板を選んでいたり、「スキー手袋は、この指の間が肝心なんじゃ。ここをしっかり縫ったものでなければ、だめじゃ。うん、これならいい」とか言っている。
 または、相変わらず大声で母を呼んでいたり、「あんたが、そう思うんなら、勝手にやってみるがええ、わしゃあ、賛成しかねる」なんて渋いところを見せたりもする。
 あるいはまた、「わしは帰る」の大騒ぎのあとでたわいもなく寝入った夢の中で、さっそく帰途についたようであるが、どうやらバスのターミナルか、それとも駅でどれに乗ったらいいのか迷っているようなのだ。老父は、それまでにかなりの苦労をしてきたらしくて疲労の色を隠せないようだから、ふて腐れた大声で呼び掛けている。
 「ちょっと!! お尋ねします!! お尋ねします!! どうしたんじゃろう…、聞こえんのじゃろうか。ああ、なんだ、姥さんか。あんな姥さんじゃ駄目だ。
 ああっ、ちょっと、ちょっとお尋ねしますが、ええと…、東京じゃったかな、わしの住んどったところに行くのには、どれに乗ったらええんでしょうか? …ええっ? なんだ、分からんのか…、しょうがないなあ…。誰も分からんのかなあ…」
 ここで<寝言>は終わってしまったのだから、多分、夢の中でもひとりで東京へ帰るのは、よほど至難の技だと覚悟したのかもしれない。
 それにしても、夢がはっきりと中断されるか終わってから目覚めれば、とりあえずの正気には戻るけれど、夢の延長でそのまま目覚めたときは面倒なことになる。
 「またネズミが騒いどる」老父は憎々しげな顔で目覚める。
 「夢を見てたんですか?」
 「ほれ、ネズミが騒いどるじゃろうが」天井を指さしている。
 「ここには、天井で暴れるようなネズミはいませんよ」
 ところが老父は、まったく納得しない。
 「うんにゃあ、ネズミはいるよ」と言って寝返りを打ってしまう。
 たぶんここで私は、老父の夢の中にしか存在していなかったのかも知れない。
 先日は、トイレへ行く気配で起きた老父が、たまたま私と目が合って、急き立てるように言う。
 「あんた、さっきの書類は、どうしたんじゃ」
 「ええっ、書類って何んですか?」
 「何んですかじゃないだろう、さっき、わしが書いとったやつじゃ」
 老父はコタツの上に置いてある囲碁の本などを覗いている。
 「また、夢でも見たんじゃないですか? おじいちゃんは、もうかなり長いこと書類なんか書いていませんよ」
 「うんにゃあ、さっき書いたばかりじゃないか」
 「それじゃ、どんな書類なんですか?」
 「ん? 何んじゃったかな…。そうそう、複写になっとるやつじゃ」
 老父はそう言ったまま我慢しきれずにトイレへと行ってしまった。トイレから出てきても、またコタツの上の新聞から切り抜いた囲碁の譜面をめくっている。
 「やっぱり、夢じゃないの? もう一度眠れば思い出しますよ」
 老父は、私の言葉に賛成しかねるとばかり、首を横に振ってベッドへと入った。
 すると間もなく、軽い寝息が聞こえるか聞こえないかというときにポツリと言った。
 「ああ…、夢じゃ。夢だった」
 どうやら、夢の中に帰ることによって、いままで夢を見ていたことに気付いたというわけだから、その夢は、老父の虚ろな現実に比べれば、かなり反省的で自覚的な現実であったはずなのだ。
 あるいは、「あんたは、それをどうするんじゃ」なんて言いながら老父が目覚める。
 話の見えていない私に、さらに気張った怪訝な眼差しで言う。
 「わしが、どうせいと言うわけにはいかん」
 「何か、夢でも見ていたんですか?」
 「うんにゃあ、夢じゃないよ。それを、どうするのかと聞いとるんだよ」老父は目を三角にしていたが、この時も、このまま眠ってしまった。
 これも同じような話であるが、老父がムックリと起き上がると同時に言っていた。
 「あんた、専門店会の会合は、銀座じゃったな? そうすると、昼のご飯はてんぷらでええんじゃろうか? それとも何か他のものがええんじゃろうか?」
 「てんぷらですか? また、寝ぼけてるよ。きょうは、てんぷら屋さんですか?」
 すると老父は、おまえこそ何を<寝ぼけ>てるんだという顔で言う。
 「ああそうだよ。専門店会の出前じゃないか。あんた、どっちがいいのか、確かめとってくれな。銀座じゃと言うとったからな」
 老父はそのままトイレへと行った。ところが、トイレから出てきてもまだ言っている。 「それで、人数を確かめとかにゃいかんよ。あんた、はっきりとしたところを、急いで聞いとってくれな」
 老父は、ヘラヘラ笑っている私にムッとしていたが、そのままベッドに入った。そして今度は捨て台詞のように言う。
 「ええな、ちゃんとしておけよ!!」
 「はいはい。ご安心下さい。心配しないでお休み下さい」
 どうやら夢の中でも他人任せの性格は変わらないようだけど、老父がてんぷら屋をしていた頃には、私など生まれる予定さえなかったのだから、正体不明の私なんかを頼りにしていて良かったのだろうか? ひょっとすると、再び夢の中に帰った老父は、「わしが、あんなに言うとったのに、なんにもやってないじゃないか」と、ひとり慌てたりうろたえていたかも知れない。それにしても、やはりその当時には存在していなかった専門店会が語られているということは、夢の中でもボケていたのかもしれない。
 ところで、ちょっと前には、私が目覚めるのを待ちかねたとばかり、何事かを納得しかねている老父が話し掛けてきた。
 「今朝は、わしが起きたら、水がドットと溢れている音がするもんじゃから、これは大変じゃと思って、流しへ行ってみたら、流しは締まっているし、便所へ行ってみても水は出てないし、それでも水が流れる音がするもんじゃから、それなら外だろうと思って、外の水道管のところへ行ってみたんじゃが、やはりどこも水は出てないんじゃ。不思議なことがあるもんだねえ」
 「どんな水の音なんですか?」
 「水道管が破裂して水が出てるようなんじゃ…」
 「まだ、水道管が破裂するような季節じゃないからねえ…。それは、耳鳴りだったんじゃないの?」
 「うんにゃあ、耳鳴りなんかであるもんか。はっきりと聞こえるもんじゃから、わしは、何遍も外に出てみたんじゃ」
 「それなら、その裏の地蔵川の音でも聞こえたのかな…」
 私は、そんなことを言ったものの、耳の遠い老父に川の流れが聞こえるはずはないと思ったが、そうとでも言わなければ、まるで引き下がる気配がなかったのだ。
 「そうか、川の流れじゃったのか」とりあえず、この場はこれで収まった。
 ところが、それから十日もして、今度は夜中にトイレへ行って戻ってから、そそくさとベッドに潜り込んだ老父が、再び体を起こして言う。
 「ありゃりゃ、水の出とる音がするな!! わしは、トイレの水を止めずに出てきたんじゃな…」
 「おじいちゃん、うちのトイレは、水洗じゃないから、水の心配はいりませんよ。だいいち、水の音なんかしてませんよ」
 「ほうか、そんなことは無いじゃろう。まだドットドットと水が出とるじゃないか。すまんが、ちょっと見てきてくれんか」
 私は、とりあえず流しと風呂場の水道を確かめたが、当然ながら、何んの異常もなかった。
 「ご心配には及びませんよ。どこからも水は出ていません。ひょっとすると、いま僕が使っているワープロの音じゃないのかな? どうですか?」
 「うんにゃあ、そんな音じゃない。おかしいなあ…」
 そう言いながら、老父は再びベッドから抜け出して、トイレへと行く。
 「やっぱり、違うようじゃなあ…」
 「ねえ、おじいちゃん、両方の耳に指を突っ込んでみたら? それでも聞こえているようなら、それは立派な耳鳴りですよ」
 ところが老父は、ほんのちょっとだけ耳を押さえ首を振りながら言う。
 「違うなあ…」
 「おじいちゃん、そんないい加減な押さえ方じゃなくて、もっとしっかりと押さえなきゃ分からないでしょう?」
 しかし老父は、ただ首を振るだけで、意固地なほどに耳鳴りであることを認めたがらないのだ。そんなわけで老父は、それから2回、ベッドに入ってはまたトイレへと見に行くなんてことを執拗に繰り返していた。私は、もういつまでも老父に付き合っていてもしようがないと思い、自分の仕事を続けた。するとしばらくして、老父は、今度は何やら<寝言>を言っている。
 「おかしいなあ…、こんなに大きな音がしとるのに…、聞こえんのかな…」
 こんなわけだから、この水の音がたとえ耳鳴りだとしても、それは夢から現実へ、そして現実から夢へと流れ続ける妄想の泉から聞こえてくるのだ。
 こんな有り様だから、「わしは、口が利けなくなった」とか「ハルヨシがとなりの M と息子の何んというたかな、その二人を連れてきてここを売ってやってくれと言われたときに、売られちゃ大変だと思って必死で売っちゃいけないっと、この一言がようやく言えたんだ」なんていう常套句は、誰もがその事実関係を知らない出来事によって構成されていることを思えば、たぶん誰にも訂正されずに肉化してしまった夢物語から出来ているのかもしれないのだ。
 そんな夢物語に対して、先日、老父がベッドの中でとりあえずの正気で語るところによれば、「わしは、いままで、どれほど虐待されようとも、口が効けなくなったり記憶がなくなってバカにされようとも、じっと我慢してきたんじゃから、わしを虐待してきた奴らに、なんとか仇をとりたいと思っとったんじゃ。ところが、わしも、もう90になりあっちこっちに病気もある身なんじゃから、そういつまでも生きられるとは思わんから、いっそのこと死んでから仇を取ってやろうと、いろいろ考えとったんじゃ。
 それでわしは、化けて出てやろうと思っとるんじゃが、ただ化けて出たっておもしろくないから、みんなが怖がるような所で、震え上がるような恐ろしい顔をして出てやらにゃならんと思っとるんじゃ。わしもこれまでに、2度も3度も死にはぐって、頭の中が空っぽになるような目にあっとるんじゃから、死ぬときには、みんながゾッとするような恐ろしい顔だって上手に出来るはずなんじゃ。それで、<わしが死んでからは、暗闇には注意せよ、化けて出るからな>と言っとってやれば、よけいに恐ろしくなるじゃろうからな。なんとか仕返しをしてやろうと思っとる奴が暗闇にきたら、その顔で化けて出て思いっきり脅かしてやるつもりなんじゃ」と得意になっていた。
 そこで、「そんなことを考える暇があったら、今までに世話になった人たちのために、草葉の陰から健康と安全を願ってあげるほうが、よっぽど世のため人のためになるってもんじゃないの?」
 「うんにゃあ、化けて出てやらにゃ、気が済まない!!」
 この一言で、私のお節介はいとも簡単に片付けられてしまった。
 いずれにしても、そんなことをほとんど大真面目に話していられるというのだから、どうやら老父の夜中の覚醒とは、ボケ症状という地平への覚醒にすぎず、同時に、とめどない妄想へと続く夢物語への覚醒はもともと勝手な思い込みにすぎないというわけで、老父にとってはボケと夢物語の中にしか覚醒はなく、正気の時には<寝ボケ><欲ボケ><トボケ>に覆われていて目覚める時がないという有り様なのだ。
 ま、何行者としは、今さら老父に化けて出られては、私の何的解脱も先送りになってしまいかねないのだから、とにかくボケはボケなりに妄想という現実の真っ只中で、生命の炎は燃焼し尽くしてもらわなければならないということになる。




26.ひとりで東京へ


 10月11日午前7時ごろ、私がこれから寝ようと思い長椅子のベッドに潜り込むと、同時に向かい側のベッドの中で、すでに目を覚ましている老父が起き上がり、いま寝られてしまっては困るとばかり声をかけてきた。
 「あんたに渡した100,000円の受け取りをくれ!!」
 「やぶからぼうに何んですか。僕がおじいちゃんから貰っているお金は、食費としての20,000円だけですよ。また、何か夢でも見ていたんじゃないの?」
 「20,000円? 20,000円だけか?」
 「そうですよ。20,000円です。いまだかつて、おじいちゃんから100,000円なんてお金は、貰ったことはありませんよ。夢と現実を混同しないでくださいよ」
 私は言うことだけ言って、老父に背を向け眠りの態勢に入ってしまったが、老父はまだ納得できないようであった。
 「20,000円じゃったかなあ…」
 私は、そのまま午後2時ごろまで眠ってしまったが、目を覚まして早々に老父と目が合うと、老父は待ってましたとばかり話しかけてくる。
 「わしは、どうも納得でけないことがあるんじゃが、一度ハルヨシとよく相談してみたいと思っとるんじゃ。それで、これからハルヨシとこへ行こうと思う。おかあちゃんも、その後、寝た切りじゃというし、わしもコマコに合ってみたいんじゃ。わしは、ひとりで行くから、あんたは構わんでくれ」
 またしても呆れ返るほどに憂欝な一日が、バカバカしいほどの現実として始まっているというわけなのだ。口を利くのも難儀だと思わせるほどの不愉快さであるが、こんな不愉快に埋没していては、老父の滑稽なる死を期待して生き続けようという、私のささやかなる願いも見失ってしまいかねないことになる。そこで、不愉快のまま未だ目覚めようとはしない不機嫌を脳みその隅に押しやって、せめて口を開く元気を捏造しなければならないのだ。
 「どういうことだか、僕は知りませんけどね、東京では、おじいちゃんの面倒は見られないと言ってるんだから、東京へ行ったって、しょうがないでしょうよ」
 「うんにゃあ、あんたには、関係ないことなんじゃから、わしの好きなようにやらせてくれ」
 「ふうん、まあ、何を考えているんだか知らないけれど、僕は手を貸しませんから、勝手にやってください」
 私は、そう言って、いつものように老父の朝食の後片付けを済ませてから、水浴びを始めた。そのままなんとか昼食が終わり、私が勤行を始めようとすると、まだ食事中の老父が、東京の電話番号を教えてくれと言っている。
 もっとも今の新しい電話機では、かけかたも分からないと言っていた老父のことだから、電話をすると言ってもどうせ口だけだろうと思い、私は電話番号を書いたメモと電話機を机の上に置いたままにして勤行を始めた。たぶん時刻は3時半ごろだと思うが、老父は私の勤行の最中に、どうやら方法を探り当て東京へと電話をしていた。
 「ああ、アッちゃんか? わしじゃ。今日、これから、あんたとこへ、寄らせてもらってもええか?」
 どうやら、電話は兄に替わったようなのだ。
 「ん? ノリヨシは、いま神さまをしとる。途中でやめると、初めからやり直さなければならないそうじゃから…。
 わしは、これから、あんたとこへ行こうと思っとるんじゃが…。それとも、あんたが、迎えに来てくれんか? 
 ありゃりゃ、もう、そんな時間か…。そうか…、それじゃ」
 さて、私の勤行が終わるのを待ちかねていた老父が、のっけから本題を突き付けて迫ってくる。
 「ハルヨシが、あんたに相談しなけりゃ、迎えに来られないと言うとるから、ちょっと電話してやってくれ」
 「おじいちゃんね、東京からは、どんなに急いだって、車で4時間はかかるんですよ。それなのに、さあ、来てくれと言ったって、むこうにも都合があるんでしょうから、おいそれとは来られませんよ。電車にしたって、同じことですよ。いまから支度してたんじゃ、最終のバスにも間に合いませんよ」
 「ええっ? ハルヨシのとこまでは、そんなに離れとるのか? わしは、あんたなら、自転車でも行ける程度のところじゃと思っとったもんじゃから、電車で行けば、すぐだと思った。それじゃから、わしは、日帰りする予定しとったんじゃ。
 ほうか…。すると、わしは、知らぬ間に、ずいぶん遠いとこまで、連れてこられしまったんじゃなあ…。わしに準備をする時間もくれないで、あんたらが、無理やりに連れて来てしまったんじゃからなあ」
 「おじいちゃんね、どんな理由で東京へ行くつもりか知りませんけどね、何か不満があるんだったら、僕に直接、はっきりと言ってください。僕とおじいちゃんとは、親子とは言っても、50歳も離れているんだから、なかなか相手が何を考えているんだか分からないことばかりなんですよ。だから、不満があるんだったら、はっきりと言ってもらったほうが、僕はやりやすいんですよ。おじいちゃんがひとりでネチネチと思い悩んでいたり、勝手な勘ぐりで不機嫌になられていると、僕としては、どうしていいものか分からないんですよ。
 それというのもね、たとえ、おじいちゃんがここに居るとは言っても、僕と一緒に暮らしているというこの生活しか知らないわけだから、おじいちゃんは、僕が今までも、このように生活していたと思っているかも知れませんけどね、僕がひとりで生活していた10年間というものは、こんなのんきなものじゃなかったということですよ。
 おじいちゃんも知っているように、僕は一日二食ですが、いまのように毎日、肉だとか、加工品にしても魚だとか、あるいは欠かさずに何か果物があるなんてことは、まったく無かったということです。まあ、この程度は世間並であるかも知れないけれど、普段働かない僕としては、贅沢すぎる贅沢というわけです。
 それに、おじいちゃんはお風呂が好きだから、毎日入れるようにしていますけれどね、僕がひとりのときは、一度もお風呂なんか沸かしたことはないんですよ。僕は、毎日水を浴びていますから、そのときに体も洗って間に合わせていたんですよ。ストーブにしたって、おじいちゃんがいれば、9月からでも焚いていますけどね、僕だけなら、11月までは焚きませんよ。
 それにね、毎年1月の6日ごろから寒の明ける2月の節分までは、毎日滝行に行ってるんですよ。それは雪が降ろうが、吹雪になろうが、氷点下10度でも15度でも、行くと決めて行をしているわけですから、絶対に止めるわけにはいかないんです。
 つまりね、僕がここでこういう生活を10年間も続けてきたということは、自分の目的を達成するための手段だったということなんです。ですからね、毎日描いている絵にしても、夜中にワープロを打っているのも、みんな修行というわけなんです。とにかく、修行ということは、自分に対して甘えなんてもんがあっては成立しませんから、何かにつけて厳しく生きようとする習慣がついてしまっているんですよ。
 ですから、僕の場合は、いつのまにか人にも厳しいことを要求してしまっているってことがあるのかも知れないんですね。そんなわけで、おじいちゃんも、そんなとばっちりを受けていたのかも知れませんがね、これからは、そんなことが無いように注意しますから、ま、この点については、勘弁してください」
 こんな話は折りに触れて語ってきたことであるが、自分の欲求不満以外に僕の生活なんてことには、たいして興味のない老父のことだから、私の修行など聞いたあとから忘れてしまうというわけで、今改めて驚いた顔をしている。
 「しかし、何んじゃな、そんな生活は、ニンゲじゃないね。わしゃ、まっぴらじゃ」
 「そうねえ、人間じゃないなんて言い方からすれば、僕は、友達や仲間からは、仙人とか行者とか呼ばれているわけですよ」
 「そうすると、わしは、とんでもない息子を持ってしまったというわけじゃな」
 「ま、そういうわけです。その意味においては、誠にご同情申し上げますよ。ハハハ。ところでね、おじいちゃんは東京なんかへ行く気になっていたようですけどね、そんなことよりも、この間から僕が言ってたように、あしたは、長野原の役場まで印鑑登録しに行く予定になっていたんですよ。おじいちゃんのハンコを、実印にしておかなくちゃいけないんでしょ?」
 「ああ、そうじゃった。役所へ行かにゃいかんのじゃったな」
 これで、この日に突然、東京へ行くと言っていたことは忘れてしまったようで、寝るまでに東京のことを言い出すことはなかった。ただ寝るときになって、明日の予定を確認するかのように言う。
 「あしたは、どこへ行くんじゃったかな…」
 「印鑑登録に行くんですよ」
 「ほうか、そうすると、あした行く警察は、どこなんじゃ?」
 「印鑑登録は、警察じゃなくて、長野原の町役場ですよ」
 「町役場か…」
 こんな調子でこの日は終わり、翌12日は午前9時ごろに家を出て、 J さんで車を借り老父を長野原の町役場まで連れて行った。われわれは11時半ごろに帰ってきたが、老父は、まだ昼食までは時間があるからと言って栗拾いに出かけた。
 昼食後、老父は疲れたと言ってコタツに潜り込み、そそくさと昼寝に入ってしまった。それから夕食まで、すっかり寝込んでしまったが、食前の薬を飲ませるために起こすと、またしても老父は、朝と勘違いをしていた。はたして、老父がどれほど現実へと回帰していたのか知る由もないが、とにかくは夕食をすませ、食後1時間ほどのうたた寝の後に風呂に入った。
 老父を風呂に入れて一段落した私は、冬のアルバイトの間老父を預かってもらう二之沢病院に出す問診表を書き始めたが、いつもなら40分くらいは入っている老父の風呂が、この日に限り20分そこそこで上がってきた。そして、サルマタに腹巻のままベッドの端に腰掛け、すでに妄想の人となった気難しい顔で話し始めた。
 「わしは、どう考えても納得がいかんのじゃが、ハルヨシの奴は、どうしてわしのところへ挨拶に来ないんじゃろうか。わしが、ここへ来て以来、あれは、一度だってここへ来たことがないもんなあ。店が忙しくて、来られないんであれば、手紙のひとつだってええんだ。菓子折りのひとつも添えてくれば、それだけでもわしは納得でけれるのに、どういう考えをしとるんじゃろうか?」
 「またまた、何を言ってるの? おじいちゃんは、ここへ来るときも帰るときも、いつだって兄貴に送って貰ってたじゃないの? それに、おじいちゃんの薬や着るものを送って貰うときに、なんだかんだと気を使って御菓子も入れてくれてるじゃなか。このあいだは、おじいちゃんのためにと言って、わざわざお米まで送ってくれたじゃないか」
 「うんにゃあ、それは、こっちから送れと言うたから送ってきたんじゃ。それに、わしが送って貰ったことがあると言うたって、ハルヨシが何んかの用事でこっちへ来るついでに乗せてきてくれただけじゃ」
 「それは、違うでしょう。兄貴は、わざわざ仕事を休んで送ってきてくれるんですよ。だいいち、どうして兄貴が、挨拶に来なければいけないの?」
 「どうして、と言うことはないだろう。わしが、ここへ引っ越してからは、あれが家族を連れて来て、わしの家を全部好きなように使っとるんじゃから、挨拶があって当然なんだよ。あの家は、わしのもんなんじゃから」
 「あの家が、おじいちゃんの物であることは間違いのないところですがね、兄貴は、おじいちゃんがあの家に居るときから、一緒に生活していたじゃないですか。兄貴がずうっと一緒にいて、おじいちゃんの面倒を見ていてくれたじゃないですか。兄貴は、おじいちゃんの後を継いで運動具屋をやってきたんだから、あの人は、一度もあの家を出て生活したことなんかないんですよ」
 「うんにゃあ、そんなことはない!! そんな勝手なことを言うな。この間、わしがハルヨシのところへ電話したときにも、ハルヨシはおまえと相談しなきゃならんと言うとったから、おまえ達が、ふたりして勝手なことをしとるんだ。
 だいたいは、おまえが、ひとりいい顔をしようとしてやったことなんじゃ。だから、おまえがあの家からわしを引っ張り出して、その後でハルヨシを引き入れたんじゃ。すべては、おまえが計らったことなんじゃ。とにかく、おまえが勝手に連れて来たんじゃから、連れて帰ってくれ!! わしは、自分の家に帰るんじゃから、あんたらにとやかく言われることはないんじゃ!!」
 「何遍も言うようにね、僕は、兄貴に頼まれて、おじいちゃんが死ぬまで面倒を見ることになっているんだから、僕が、おじいちゃんを東京へ連れて帰るわけにはいかないんです。それよりも、そんな格好で興奮してると風邪ひきますよ。とにかく、いまおじいちゃんは、興奮していて何を言っても分からないんだから、後で、もっと落ち着いてからにしましょう」
 「うんにゃあ、わしは、興奮なんかしてるもんか。おまえらが、そういうつもりなら、わしは、あのうちを整理して、区のほうにでも寄付してしまうつもりなんじゃ。あんたらみたいな情のない子供らに譲るくらいなら、あかの他人ににでもやってやったほうが、どれだけ喜ばれるかも知れない。それに、区に寄付すれば、その金で、わしら夫婦ぐらいはどこの養老院にだって入れてもらえるさ。そのほうが、なんぼかええ。とにかく、あんたらが、ごねるようならば、わしはすぐにでもあのうちを寄付してしまうつもりなんじゃ。そのことだけは言っておく!!」
 「おじいちゃんね、おじいちゃんは勝手に養老院へ行くなんて言ってるけれど、この間も言ったように、東京では、2〜3年は待たなければ養老院にも入れないんですよ。だけど、僕らの世話になりたくないっていうんで、養老院に入りたいのなら、僕が好いところを探してあげますよ」
 「うんにゃあ、養老院に入るのに、おまえなんかの世話になるか!!」
 このあたりで体が冷えてきたらしく、老父は妄想の人のまま寝間着を着込んで夢の人になってしまった。そんなわけで、このまま老父の情緒不安定が続くのならば、私のアルバイトも諦めなければならないのだから、せっかく書き始めた二之沢病院に送る予定の問診表も、しばらくは見送ることになった。
 13日の朝、私が寝ようとするころに、老父は私に聞かれることを十分に意識した独言を言っていた。その中ではっきりと聞き取れるところは、次のようなものなのだ。
 「そうじゃ、わしは、警察へ行こう。このあいだの預金通帳のことがあるんじゃから、警察でよく話をして調べてもらえば、わしの言っとることも信用してもらえるだろうし、そこで今後のことも、よく話をして保護してもらおう。とにかく、保護してもらうのが先じゃからな。そうすれば、あいつらが何をしようとしても大丈夫じゃからな」
 また、訳の分からないことを言っているなとは思ったが、私は相手にしないで眠ってしまった。ところが、私が寝てまだ間もないころに、老父は私の枕元のタンスを開けて、何やら手当たり次第に引っ掻きまわしていた。
 「ズボンがない、よそ行きのズボンがないなあ…。洗濯はしてあるはずなんじゃが…」 私は起きることもなく、そのまま寝返りを打って知らんぷりをしていた。それから、どれほどたったのか、今度は老父にはっきりと呼ばれて起こされた。
 「あんた、寝とるとこ悪いんじゃが、わしのええほうのベルトを知らんか?」
 「ベルトですか? いま、おじいちゃんのズボンに付いているベルト以外には知りませんよ」
 私は、大いに不愉快な顔で答え、時計がちょうど10時であることを確かめて、さらに不愉快さの正当性を確保した。しかし、そんなことにはお構いなしに、老父の性急な質問が降り懸かるのだ。
 「ここにあるのは、二本とも悪いほうじゃ。もっとデボコベのついたやつじゃ。わしは、あんたに貸したように思うんじゃが、どこにある? 出してくれ」
 老父は、散々探しあぐねたところなのか、すっかりいらだっているようで、まるで私に意地悪でもされているような調子なのだ。
 「僕は、おじいちゃんにベルトを借りたことなんか、ありません。だいたい僕は、ベルトを使うようなズボンははいてませんよ。おじいちゃんの言ってるそのベルトっていうのは、トカゲだかワニのベルトのことなんでしょ? だいたいねえ、そんな悪趣味なもの、僕は頼まれたってしませんよ。
 …ああ、そういえば、この間、夏に戻ってくるときに、これはよそ行きだから、しまっておこうなんて言って、自分で東京の家の洋服ダンスに入れてたじゃないですか」
 「ほうか、そうすると、ハルヨシに貸したんじゃな。そんならええんじゃ。寝とるところ、悪かったな。わしは、これから東京へ行ってくるが、何か、ハルヨシに伝えることはないか?」
 どうやら、私の言っていることも上の空で聞いているようだから、結局のところ、ベルトの行方よりも、私を起こして出発宣言することが本来の目的であったのかも知れない。それにしても、私は、そんな老父の思い込みで一々安眠妨害されてはたまらないので、即座に「ありません」と言い捨てて再び夢の中に潜り込んだ。
 私は午後1時ごろに起きたが、どうやら老父の姿はない。そう、今となってはこの解放感こそが貴重なものとなってしまったのだ。何はともあれ快適な目覚めを検証すべく辺りを見回せば、洗濯物を取り出したあとの破られたポリ袋が二つと、ちぎられた洗濯物の整理番号が無造作に床に捨てられて、新しい毛のズボン下が入っていたビニール袋が一つコタツの上に放り出され、ごみ箱の紙屑の上にバナナの皮が一本分、老父の背広に掛けてあるポリ袋が無理やりにめくり上がっているのが二つ、不様に中身の抜かれた背広のポリ袋が一つ、普段よりは乱雑に掛けられたベッドカバー、茶碗と小皿と箸は流しの水桶に浸けてあるものの、食い散らかしていったと感じさせる朝食の跡、そんなところが、老父の出発時における大騒ぎを物語る痕跡というわけなのだ。
 それにしても老父の荷物はそのままだから、預金通帳の入った手提げ袋一つで出掛けたようなのだ。老父の出発を10時ごろとすれば、そろそろ3時間になるころだから、いつものようにこの近所で迷っているならば、新たなる冒険談を抱えあえぎながら帰ってくるころなのだ。しかし、バスにでも乗ったとすれば、迷走はまだまだ続くはずなのだ。
 そこでバスの時間表を確かめた。北軽井沢発、長野原行きのバスは、9時50分以降、13時30分まで無いのだから、午前10時過ぎに出た老父がバスに乗るつもりなら、延々3時間も待たされてなお、いまだバスターミナルにいることになるのだ。そんなわけで、待ちくたびれた老父が東京行きを諦めて舞い戻れば、さっそく昼食になるはずなので、私は早々に老父の朝食の後片付けを済ませ、さらに水浴び、勤行を済ませた。
 ところが、午後2時を20分ばかり過ぎても老父の気配がないので、どうやらバスに乗ってしまった可能性も出てきたが、14時10分に長野原に着いたとしても、接続の列車は14時57分発の特急草津6号というわけだから、老父の迷走をさらに遅延させる条件が整っていることになるのだ。そんなわけで、たとえ長野原の警察あたりから迷子になった老父の照会があるにしても、それはまだまだ先のことになりそうに思われたので、私は、第一回目の食事を済ませ、早々に新聞を取りに行くことにした。
 そこで私は、新聞屋に行く途中でバスターミナルに寄り、はたして老父がバスに乗ったどうかを確かめようと思った。
 「あの、すみません。ちょっとお伺いしたいんですが、今日、ちょっと変な年寄りが、一人でバスに乗りませんでしたか? ハンチングを被って、ステッキを突いた…」
 私が切符売り場のおばさんに尋ねると、思わずおばさんの顔に同じ話題を共有するものの親しみが輝いた。どうやら老父は、北軽井沢を脱出してしまったらしい。
 「ああっ、90いくつとか言ってたおじいさんなら、乗ったわよ。11時35分発の軽井沢行きにね」
 「そうか、まだ軽井沢行きがあったのか…。いや、実はね、僕の親父なんですが、気が付いたら見当たらないもんですからね、どこへ行ってしまったのかと思って、探してたんですよ」
 「そう、あなたのお父さんだったの…。あたしは、家の人に断って出てきたもんだと思ってたもんだから、どこへ行きたいんですかって聞いたら、東京だって言うもんだから、それなら11時35分発の軽井沢行きがあるって教えてあげたのよ。でも、様子をみてたら、ちょっとおかしかったのよね。いくら教えてあげても、何遍も同じことを聞き返すもんだから、ああ、このおじいさんは、普通じゃないなって思って、それで、そのままにしておいたら、どこかに行ってしまいそうだったから、この事務所のなかに入れて、ここに座らせておいたのよ。でも、普通にお話しをしているときは、なんともないのよねえ。お茶をだしてあげて…、40分くらい待ってたかしら…、いろんなお話しをして…」
 「そうでしたか、それは大変ご迷惑をお掛けして、すみませんでした。このところ、すっかりボケてしまいましてね、ああいうのをマダラボケと言うんだそうですがね、正気とボケが区別つかないほどに混ざっちゃってるんですよね。それで何か気に食わないことがあったりすると、興奮したまま家を飛び出しちゃうんですよ。それにしても、本当にお世話になりまして、ありがとうございました。そうすると、軽井沢では、何時ごろの列車に接続するんですか?」
 「12時44分発の浅間14号なのよ。それでねえ、あたしも心配だったから、運転手にもよく言って、このおじいさんを軽井沢まで乗せたら、駅の改札口まで連れて行ってあげてねって、念を押しておいたのよ」
 「そうですか、本当にありがとうございました。そうすると、もう3時15分だから、そろそろ東京に着いているころですね」というわけで、老父は上野駅辺りで迷子になることがあっても、何はともあれ東京までは行き着いているはずなのだ。
 私は、老父が私の管轄範囲といいうるところを出てしまったように感じられたので、老父に何事かが生じたとしても、誰かが老父の身元を名刺などから手繰るとすれば、緊急の連絡は東京の家になるだろうと思った。そんなわけで、今まで欝々と持続していた緊張感がプツリと切れて、しばらく忘れていた「本日は日曜日」という心弾む思いを味わった。 思わぬ僥倖に浮かれた私は、ささやかなる自由意志を実践すべく、新聞屋からの帰りには農協のAコープに寄り、明日の老父の処遇に思いを馳せることもなく、ただ平穏な日常の持続のためにヨーグルトとリンゴを買い求めた。
 さて、老父が東京まで辿り着いてしまったとすれば、そんな情況を兄に連絡しておかなければならないのだから、私もささやかなる日曜日感覚に浮かれてばかりいるわけにもいかない。そろそろ午後4時になるころであったが、とりあえず東京へ電話を入れた。
 ところが老父は、すでに東京の家に到着しているとのことだった。まず私は、当方の不手際を兄に詫びたものの、兄にしてみれば、突然の老父の出現に大変な驚きであったようなのだ。
 「ふむ、とにかくまずいよ…」
 「それで何時ごろ着いたんですか」
 「30分位前だ。それで…、今、いろいろと話をしている最中なんだ。本人は、すぐにでも帰るような口ぶりなんだけど…、どうなるか分からんな。それに…、薬も何んにも持たずに来ちゃったらしいんだ。まずいよ。薬を飲まないと、また興奮してこの間みたいなことに成りかねないからな…」
 兄の重い口ぶりとブッキラボウな言い方から、兄の当惑と不機嫌は容易に想像できるところであるが、それは、また繰り返されるであろう老父の妄想による大騒ぎへの不安であると同時に、老父の面倒は見られないというママさんの穏やかならざる心情を思うあまりの憂欝であったはずなのだ。それにしても、目の前に老父がいる様子なので、あまり突っ込んだ話が出来ないもどかしさが、兄の対応をより不機嫌なものに感じさせたのだ。
 そんなわけで、このまま兄に、老父を高原へと送り帰して貰う手だてを頼み込む情況にもないと思われた。
 「それじゃどうしましょうか、薬だけでも先に送るとしても…、そうか、宅急便しかないから、結局は、僕が持って行ったほうが速いか…。そうすると、これから迎えに行きましょうか。ちょっと待ってください、まだ間に合うバスがあるかなあ…」
 何はともあれ老父がグズグズ言ったり暴れ出すことがあれば、老父を宥めるのは私の役どころなのだから、安全装置の外れた爆弾は一刻も速く回収するか、とりあえずの安全装置を掛け直さなければならないというわけで、不発弾として投下されてしまった老父は、爆弾処理班の私が後を追わなければならないのだ。私は、北軽井沢17時00分発の最終バスに乗り、長野原17時52分発の特急草津8号に乗ることになった。
 すでに午後4時10分になっていた。17時00分のバスに乗るには、遅くても午後4時45分までに家を出なければ間に合わない。あと35分で支度をしなければならないのだ。
 まず旅費はあるか? おおっと、手持ちの現金は10,000円弱だから片道の旅費だけはなんとか間に合う。帰りの心配は行ってからのことにした。ところで、老父はあしたにも戻ってくるという話っぷりだそうだが、老父のことだから、あしたのことはあしたにならなければ分からないというわけで、私の荷物は、とりあえず最悪の事態を考えて1週間分としてまとめた。
 しかし、生ごみを捨てにいく時間もなく、冷蔵庫の食料を整理する余裕もない。まして保温炊飯器の残りご飯を処理する時間もない。そこで冷蔵庫はそのままにして、保温炊飯器はスウィッチだけを切り、老父が拾ってきた栗がドンブリ一杯ゆで上がっているのを袋に入れて、リンゴ三個とともにバッグに詰めた。結局まとめた荷物は、1ケ月のアルバイトで出掛ける時とたいして変わりのない大荷物になってしまった。
 とにかく、戸締まりを済まして家を出たのが午後4時43分、荷物を抱えてようやくバスターミナルに到着した時は4時55分だった。これでなんとか今日中に東京へ着くことができると一安心したが、どうせ東京へ行くのならばと思う様々な用事や買い物が思い出されるのに、まさかそれも叶わぬ片道だけの旅費で、慌てて東京へ行くことになろうとは思いもよらぬことだった。
 私が東京の家に着いたのは、ちょうど午後9時ごろだった。老父は、すでに夕食を済まして不発弾のまま何事もなくうたた寝をしているところであったが、家族は、爆弾処理班を自認する私の到着で、とりあえずは一安心というところなのだ。私は挨拶もそこそこに、老父が東京に来てからの情況を兄から聞いた。
 老父は、帰ってくるなり「今日は、あんたと喧嘩をしにきたんじゃない」と切り出して、事務所の椅子に座り込んだそうなのだ。それと同時に、列車の中で昼食を取り損なったとかで、うどんでもいいから出前を取ってくれと言ったようであるが、何かの都合でそれは果たされなかったらしい。
 とにかく老父の言うところは、「はっきりした話を聞かせて貰いたくて来た」ということなのだ。そして、初めは兄も、老父が何を言おうとしているのか理解できなかったようであるが、老父は私を長男だと思い込み、兄を次男と勘違いしていて、おまけにわれわれの名前を思い出せない様子だったというのだ。
 「山の中のあんたの兄が、働きもしないで、わしの面倒を見ると言っとるが、そんなことが出来るはずがない。あんたが、山の中の兄にお金を送っておるようじゃが、わしは、東京から送ってもらった金を、一度も自分で受け取ったことがない。みんな、あんたの兄が持っていってしまうんじゃ。それで、あんたが、いままでに兄のところへいくら送ったかを教えてほしい」
 兄の解説によれば、老父のこの言い掛かりは、兄が老父の財産を切り売りして、私のところへと送金していると思っていたらしいということであった。そこで、兄が、私のアルバイトによる生活情況を説明し、北軽井沢の老父宛に送った家賃は二〜三回で、老父が思っているほど頻繁なものではないことも付け加えたそうなのだ。
 それで、とりあえずの了解はしたようであるが、やはり東京で暮らしたいという思いを断ち切ることのできない老父は、私のことはさて置いて、自分の面倒を見る気があるかどうかと兄の心情を問い正したらしいのだ。兄は、まず初めに、もはや妥協する余地のない偽らざる心境を語ったという。
 「あんたのはっきりとした気持ちを聞かせて欲しいと言うから、僕は、おじいちゃんとは一緒に暮らせないと、はっきり言ってやった。そしたら、どういうわけで三人と言ったのか分からないが、とにかくおじいちゃんは、三人で気を合わせて、ここで暮らしたいと言うことだったらしいけれど、出鼻を挫かれてしまったら、いつもの<ここを売り払って…>という話を繰り返してたよ。だけど、どうしてだって言うから、それはまず第一に、金銭的問題なんだって言ったんだ。おじいちゃんの面倒を見る余裕がないって…」
 確か私は、このように聞いたつもりでいるが、兄が老父と一緒に暮らせない理由として、第一に金銭的問題を上げたというところに、下手な感情的もつれを引っ張り出して老父を逆上させたくないという兄の思いを感じたのだ。
 いずれにしても、ここで老父の思い込みが妄想にすぎないとして退けられ、おまけに老父のはかない望みが無理難題であることを知らされていたのだから、とりあえずの上京の目的をことごとく挫折させて、かなり意気消沈していたことになる。そんなやり場のない思いを、荒涼としたボケの真っ只中で自らが被ることになる屈辱を、なんとか言い繕うとしたはずの老父は、ボケの地平に覚醒した者のボケゆえのしたたかさで、他人行儀に言ったという。
 「あした、すぐに帰るから、きょう一日、泊めてくれんか?」
 この言い方から推察すれば、ここで老父は「なあに、わしは、あんたらの世話になりたくて帰ってきたわけじゃないんだ」と言わんばかりの、とりあえずの見栄は取り繕えたことになるのだ。
 それにしても、ママさんの言うところによれば、「おじいちゃんは、わしは、すっかり疲れてしまって、あんたと喧嘩する元気もなくなってしまった、なんて言ってましたよ」というわけだから、自分の猜疑心を満足させるいかなる収穫も得られず、ただ疲労感のみで東京の夜を過ごしたのかも知れない。
 ところで老父は、東京の自宅に帰りたい一心で来たものの、ようやくの思いで自宅に辿り着いてみると、そんな想像を越えた疲労感と緊張感の解放によって思わぬ虚脱感に陥って、そのまま茫漠たるボケへと放り出されてしまったようなのだ。
 「わしは、もう一軒寄るところがあったのに、ここへ先に来てしまったもんじゃから、どこへ行く予定をしておったか忘れてしまったんじゃ…。それが、どうしても思い出せないんじゃ」
 兄は、老父の予定していたというもう一軒とは、いったいどこだろうかと気にしていたが、それを聞いて私は、老父が今朝、起きがけに言っていたことを思い出した。
 「ひょっとすると、それは警察かも知れませんよ。今朝、どういう訳かは知らないけれど、<わしは、警察へ行って保護してもらおう>なんて独言いってたから…」
 兄は、私から老父の独言の情況を聞かされて、行き先不明のもう一軒を納得していたが、しかし私は、自分で警察のことを言いながらも、ひょっとすると老父のことだから、家に着いてから何遍も繰り返していたというこの台詞には、何か他の意味があるようにも感じられた。
 つまり、それは、どれほどの用事でもないのに東京へ帰りたいという思いだけで出てきてしまった自分を、あたかも他に目的を持つ旅人であるかのように擦り替えることにより、女々しい奴だと笑われることのないように取り繕うための、予防線として言っていたのかも知れないということなのだ。
 では、何故こんなことが言えるのかと言えば、不意に遭遇した自分の不都合を言い繕うために、自分の存在理由を他の目的へと横滑りさせたり、あらかじめ予防線を張っておくなどという姑息な発想は、私が子供のころに宿題を忘れて学校へ行ってしまったときにしばしば使った手法でもあるというわけだから、私が無意識のうちに身に着けているそんな小賢しくも悍しい体質を反省的に検証するたびに、やはり老父の悍しさに辿り着かざるを得なかったという事情からなのだ。
 ところで私が、食後のうたた寝から覚めた老父に、テーブルに用意しておいた薬を指して「薬を飲んでおいて下さい」と言っても、老父は返事をしてうなずいてはいるものの私の存在に何んの反応も見せない。老父は言われるままに薬を飲んでも、まだウトウトしていたが、脇にあった袋の中に、私が持ってきた老父の着替えがあるのを見付けて不思議そうな顔をしていた。
 「ありゃりゃ、何んで、わしのこれが、こんなところにあるんじゃ?」
 「僕が持ってきたんですよ。おじいちゃんが、薬も何も持たないで、体ひとつで東京へ出てきちゃったというから、僕が、とりあえずの必要なものを持って、迎えに来たんですよ。何日のつもりで出てきたんだか知らないけれど、普段着がなければよそ行きのズボンがしわになっちゃうんじゃないの?」
 「ああ、ほうか…。わしは、あんたも、このうちのものだと思っとったもんじゃから、別に何んとも思わなかったんじゃが…。ほうか、それにしても、これが、変じゃなあと思ったんじゃ」
 そう言って、老父はさっそく着替えの袋を掻き回している。
 「わしは、電車の割引券を忘れて来たもんじゃから、えらい損をしてしまった。あれがあれば、2,000円や3,000円は違うからなあ…」
 「おじいちゃんね、おじいちゃんの言っている割引券っていうのは、都電やバスの割引券のことじゃないの? おじいちゃんが持っている割引券では、今日乗ってきた電車の割引は出来ないんですよ」
 「うんにゃあ、わしは、ほれ、病院へ行くときに…、そう、尾久の病院へ行くときに、あれで乗っとるんだよ」
 「ええ、そうですよ。あれが都電なんですよ。あれは割引になるけれど、国鉄は安くならないんですよ。もっとも今ではJRって言うそうですがね、JRなんてものになれば、尚更ですよ」
 老父もこれでどうやら納得したようであった。そこで、私は老父の明日の予定を聞いてみた。
 「それで、おじいちゃん、いつまで東京に居るつもりなんですか?」
 「ん、わしは、あした帰るよ。久し振りじゃったが、おばあちゃんの顔も見たし…。しかし、おばあちゃんは、顔だけ見とったんじゃ、ちっとも病人とは分からないもんなあ。元気そうで、わしゃ、安心したよ。これでもう少し、足腰がしっかりしてくれば、すぐ元通りになるよ」
 夏に一度、東京へ戻ったときもそうであったが、老父がおばあちゃんのことを気遣うのも、最初のほんの2〜3日のことだから、なんとか機嫌よくしているうちに東京を引き上げるのにこしたことはないのだ。
 「おじいちゃんは、山の中でも、しきりにおばあちゃんに会いたいと言ってたけれど、おばあちゃんの元気な様子を見て安心したでしょ。おばあちゃんは、東京で兄貴とママさんが面倒を見てくれているんだから、大丈夫ですよ。
 それじゃ、安心したところで、あした帰るとしましょうか。そうするとね、上野発14時11分までの列車に乗らないと、あした中には北軽に辿り着けなくなっちゃうんですよ。ですから、そこの M 駅から乗るとすれば、出発は昼の1時半ぐらいかな」
 それで納得した老父は、進められるままに風呂に入ったが、そこで兄が、北軽まで車で送ってもいいと言ってくれたけれど、私は、老父がひとりで東京へ出てくるということの苦労を実感してもらうためにも、断固電車に乗せて帰るつもりであることを伝えた。
 老父が風呂から出てから、たまたま話の都合で老父と母と兄にママさんと私の5人が顔を揃えた時に、老父はいかにも嬉しそうに言っていた。
 「ああ、珍しいことに、これで5人の家族全部が揃ったんじゃなあ」
 老父を除いたわれわれは、母の大いなるうなずきに口を揃えて「そうですね」とは言ったものの、老父がここでたまたま味わっている幸せに執着してしまっては、また大変なことになるという不安を抱いていたのだから、老父が求めてやまぬ幸せも、あるいは老父が無反省に自らを確信しえた幸せも、所詮は、老父の勝手な思い込みに任された、見せ掛けだけの<笑顔で取り繕いうる>程度のものでしかなかったということなのだ。
 そう考えてみるならば、老父とわれわれが約50年という隔たりを持つ一世代抜けた親子関係であることが、この<笑顔で取り繕いうる>安心感だけでは、いかようにも幸せを確信しあうことの出来ない隔たりになっていたというわけなのだ。
 言い換えるならば、子供であるわれわれには、ボケ老人ふたりを笑顔で丸抱えできるほどの精神的・物質的な余裕もなく、老父にしてみれば、老後の生活保障などには全く無知のまま生き延びてしまったのだから、その不足を補いうるはずの、日常的に笑顔で安心感を共有できる世代との繋がりさえも持ちえなかったということなのだ。
 いずれにしても、ここは、笑顔で快適なあしたが迎えられるのならば、われわれはどんなに空々しいと言われようとも、この部屋を笑顔で埋め尽くす覚悟だったのだ。
 さて14日の朝は、いたって平穏無事に明けた。
 老父は、夏以来ほったらかしにしていた植木をいじって過ごしていたようであるが、これももともとは、気が向いたときに偏執狂的にいじくり回していたにすぎないのだから、植木いじりもただ単にかんしゃく虫のはけ口にしていただけだとすれば、この日われわれが心配していた老父の心変わりは、しばしの休息に安閑としていた植木たちが、正に身を切られる思いで引き受けてくれていたというわけなのだ。
 老父と私は昼食を済ましてから東京を発つ予定にしていたが、何かと気を使ってくれたママさんが、われわれへの手土産をも考えて買い物に出掛けたときに、通りがかった魚屋でたまたま老父の好きなカワハギを見付けたとかで、老父のために昼から煮魚のおかずを用意してくれた。山の中ではめったに旨い魚など口に出来ないのだから、このときの老父の無邪気な喜びようは、突然の老父の出現によって不安の中でテンテコマイさせられてしまったママさんには、せめてもの感謝の気持ちとして伝わったかも知れない、いや、私としては、そう願わずにはいられないのだ。
 何はともあれ、私は兄から10,000円の旅費をカンパしてもらい、老父を連れて予定通り上野発14時11分の特急草津5号で帰途についた。老父は、列車の中では缶コーヒーを飲み、アイスクリームを食べて終始ご機嫌であった。長野原に16時47分に着き、大きな荷物で両手のふさがった私は、昇りと下りの長い階段に難儀していた老父に手を貸すことは出来なかったが、「慌てなくてもいいですからね、一段一段しっかりと昇ってください」などと言いながらも、しかし「休んでいるとバスに乗り遅れちゃいますからね」と励ましながら、それでも途中からは、私が先に行ってバスに待ってて貰うように頼んだりしたが、ようやくの思いで16時51分発の北軽井沢行きバスに乗り替えることができた。
 北軽井沢に着いたのは、ほとんど定刻の17時31分であったから、辺りはそろそろ夕闇に包まれようとしているころだった。私はバスから降りて、一瞬タクシーに目をやりながら、これから老父を連れて暗闇を歩くことの苦労を思ったが、老父の足では30〜40分の道程もタクシーに乗れば2〜3分で行き止まりになってしまうのだから、やはりタクシーに乗るのは気が引けた。
 ところが、老父は10分も歩かないうちにあえぎ始め、バスターミナルからようやく国道の信号まで出たときには、もはやギブアップの演技なのだ。しかし私は、ここで老父が遭遇するいかなる苦労にも、老父の一人旅に対するペナルティーの意味を考えていたのだから、今さらタクシーまで引き返すことなど出来ない相談なのだ。そんなわけで、だましだましではあったけれど、ようやく行程の三分の二まで来たときには、秋の早い夕暮れはすっかり暗闇になっていた。
 これからは、いよいよ雨で流されて車の立ち入りを許さぬ惨状となった最大の難所なのだ。私は、右肩に掛けて右手で抱え込んでいた大きなバッグを、今度は首を通して右肩から左脇に掛け替えて、大きな紙袋を下げた左手でバッグを支え、自由になった右手を老父の左の脇の下に入れて老父の体全体を抱え上げて進んだ。
 「わしは、こんなにひどいところだとは、知らなかった」とか、「こんな、真っ暗な中で、放り出されたら、わしらは、どこへ行ったらええかも分からんのじゃから、死んでしまうよ」、さらには「あんたが、わしの体を支えてくれるから、歩けるようなもんの、それでなかったら、わしは、もう一歩も歩けない」などと立て続けにしゃべっていた。
 老父にとっては、雨でえぐり取られて深い溝になり、大小様々な火山弾が露出してもはや道とは言えぬ崩壊した道を、目隠しで歩いているのと同じことだから、そんな地獄の責め苦に耐えるには、やはりおしゃべりによる自己演出がなければならないというわけなのだ。それにしても、口もきけないほどに疲れたと言いうる状態からすれば、口をききすぎて疲れたはずの老父は、噛み合わない入れ歯にもめげずしゃべり続けなければ、何の因果か納得しかねる理不尽な惨めさに耐えられなかったということなのだ。
 「あんたは、大きな荷物を持っとるのに、わしを抱えて大変じゃろうが、それなのに、この暗闇の中で、どうして右だ、左だとか、そこは危ないとか分かるんじゃ?」
 「それは分かりますよ。10年もここに住んでいれば、この辺りは、自分の庭も同然ですからね。それに、まだ闇夜ってわけじゃないんだから、そんなに大騒ぎするほどの難所ってこともないでしょう」
 「ほうか、わしには、あんたがいてくれなきゃ、何が何んだかさっぱり分からんよ」というわけで、「死ぬ思いじゃ、死ぬ思いじゃ」を繰り返しながら、ようやく家に辿り着いたときには、ちょうど農協のチャイムが6時の時報を鳴らしたところだった。
 この日は、早々に簡単な夕食を済ませ、老父は風呂に入る元気もないということで、かなり早めにベッドに入った。
 老父は一晩ゆっくりと眠り、翌日は思ったより元気であった。
 しかし、昨日の夜は「死ぬ思いじゃ」を繰り返して必死の思いで帰ってきたのだから、ある意味においては、単にくたびれ儲けでしかなかった13日から14日にかけての突然の東京行きを、老父がどのように総括するのか、私は楽しみにして待っていた。老父は、昨日はひどいめに合ったが、もう今日は落ち着いたという顔で、昼食の後に聞かせてくれたところによると、それは次のようなものなのだ。
 「ハルヨシは、今どこかに勤めとるんじゃろうか? わしが行ったときも、ちょうどどこかへ出掛けるところじゃったが、あれが、慌てて何か言いもって出て行ってしまったけど、わしには、何を言ったのか聞き取れなかった。そんなんで、あれが、あんまり素っ気ないもんじゃから、わしは、子供らに小遣いをやって、それから、あれの女房に会っただけで帰ってきたんじゃ。わしが、昼を食べてないと言うたら、それなら、ウドンでも取りましょうかと言うとったのに、それもそのままで、出してくれなかった。わしは、あんまり冷たく扱われたので、泊まりもしないで帰ってきたんじゃ」
 正に、これこそが老父のボケによる無敵の戦略なのだ。
 そして翌日には、どのような妄想をくぐり抜けて来たのか知らないが、いつものように目を三角にして興奮しながら言っていた。
 「わしも、いつまでもあんたんとこに、世話になっとるわけにもいかんから、いつ東京に帰るやも知れん。あんたも、そのつもりでいてくれ!!」
 ま、そんなわけで、老父に言われるまでもなく、以前よりは周到な情況判断によって老父に対峙しなければならなくなったわけであるが、老父はどれほどボケようともボケにめげることもなく元気にボケ続けてくれるはずだから、私もめげずにボケの鱗を剥がしながら自己検証の日々を続ける覚悟なのだ。





27.山荘購入の提案


 老父を東京から連れて帰った翌日、つまり10月15日の夜、兄より電話があった。その内容は、兄が資金援助をするので、いま私が J さんから借りている山荘を買い取ってはどうかということなのだ。
 「今なら、なんとか金を出せるんで、僕が出すから、どうだろうか、 J さんにそこを売ってもらったらどうだろうか。そうすれば、そこは、ノリヨシクンの方で自由に使って貰っていいんで、改装するなり増築するなりは、ノリヨシクンの方で、自由にしてもらったらいいんだ。僕の方は、お金だけは出すけど、口を出すつもりはないから自由に使って貰いたいんだ。そうすれば、ノリヨシクンの方も、家賃を払わなくてすむから、その分だけでも楽になるんじゃないかと思ってね。これは、ママとも相談してのことだから、心配しなくてもいいんだ」
 そもそもこの話は、一昨日、私が老父を引き取りに東京へ行ったときに、夏以来の老父の行状を、私が面白おかしく兄やママさんに報告し、重ねてそんな老父の記録をワープロで整理していた下書きを見せたことが発端になったようなのだ。つまり兄にしてみれば、私と老父との共生におけるボケ騒動が、ボケられてしまった者の痛みを知る者として、ただの笑い事では済まされないと思えるほどに深刻なものとして感じられたらしいということなのだ。
 そこで兄は、狭い山荘で私と老父が一日中顔を突き合わしているという息の詰まるような情況を改善することが、これから何年続くか分からないわれわれの共生を少しでも快適なものにする一助になりはしないかという提案なのだ。せめて老父のために、自分の部屋を用意してあげることが出来れば、テレビの騒音問題にもかなりの改善が望めることになるというわけで、この山荘を買い取ることが出来るならば、その後にプレハブで増築するなり改築するという方法を考えてみてはどうかというわけなのだ。
 そして、その資金は、金を借りてくれとせっつく地元の金融機関から借りる予定をしているが、毎月10万円の返済で3年くらいの期間なら、現在兄が本業の外にしているアルバイトの収入で賄うことが出来るというわけなのだ。それが、兄としては、老父の面倒を私に任せっきりにしていることへの感謝の気持ちだということであった。私は、そんな兄の思わぬ申し出に感激したが、しかし、兄がアルバイト代で毎月10万円の返済をするという、私にとっては途方もない計画を聞いていささか気が引ける思いがした。
 そもそも兄が本業の外にしているアルバイトとは、本来の頑強な身体と運動神経にものを言わせた名人級のバイク乗りであるという特技を生かし、金曜土曜の二日間がバイクによる競馬新聞の配送であり、そして火曜から土曜までの早朝に4時起きして丸の内界隈に食品関係の業界新聞をバイクで配送し、さらに金曜と日曜の夜9時から午前1時まで近所のコンビニエンスストアーへ手伝いに行くという超人的スケジュールなのだ。無論、午前9時から午後8時までは、ごく当たり前に本業のスポーツ店に携わり学校役所へと外商に回っているというわけなのだ。
 したがって、もともと横着でずぼらで、おまけに面倒臭いことが大嫌いだったという兄が、一日の睡眠時間を3〜4時間に削り大車輪で働いているというこの事態が、尋常ならざることであるのは衆目の一致するところであるのだから、本人も言うように、こんな無理はせいぜい3〜5年が限度だろうというところかもしれない。しかし、兄としては、自分の身体に無理が効く限りはどんなことをしてでも稼ぎ捲り、ボケてしまった両親の面倒を診切れるだけの生活費を捻出しなければならないという覚悟なのだ。
 つまり、ここで兄が兄の為しうる最善の方法において全力を尽くし、それによって私に山荘の購入を進めるということは、すでに老父の遺産相続を辞退している私に対する兄の返礼でもあった。
 もっとも、老父の遺産となるべきものと言っても、東京下町の15坪ほどの土地とそこに建つ4階建の家屋にすぎないが、たまたまこの異常なる地価高騰によって坪当たり400万とも500万とも言われるようになったため、十分に相続税の係る資産にまで膨れ上がってしまったというわけなのだ。それゆえにこの事情を知る知人に言わせれば、ゆくゆくは兄が相続するはずの全財産からしても、今回購入予定にしている300万か400万の山荘なら贈与されてしかるべきものだということになるのかもしれない。しかし、いくらの相続財産であれ、それは現金ではなくいま営業に使用し住居として使っている物件にすぎないのだから、いずれ払うことになる相続税のことも考えてみれば、たとえ1坪に満たない金額であれそれを調達するのは並大抵のことではないのだ。
 そんな事情を考えればこその相続辞退であるのだから、私としては、そんな兄の善意を評価の対象にするつもりなど持ち合わせてはいないのだ。そもそも私が独り身の気軽な隠遁者であるうちはこんな問題も起こらなかったわけであるから、これも老父を引き取るという緊急措置ゆえの思わぬ波紋ということになる。
 そんなわけで、私は兄が背水の陣を張りわざわざ申し出てくれた誠意をにべも無く断るわけにもいかず、結局は、私もなるべく兄の負担が軽くてすむように協力するということ、つまりは、いずれ私に何がしかの資金調達のめどがつけば、そのときには兄から山荘を買い取ることにするというわけであるが、しかし、実際のところはまだまだ隠遁者のつもりでいる私には、はたしてそれがどこまで実現可能なことであるかは問わないことにして、何はともあれ兄の提案を受け入れることになった。
 さて、それから二日後の10月17日、山荘購入の件について J さんに相談をしてみた。 「 J さん、今日は、ちょっとお願いがあって来たんですけどね、すこしばかりご無理を聞いて頂けませんかね」
 「んん? なあに…」
 「実はね、今、僕がお借りしているあの家をね、譲って頂けないかと思いましてね。どうでしょうか?」
 「んん! ふむ、今は売る気はないね。だってさ、今べつに金に困ってるわけでもないしね。それにさ、どれくらいのことを考えているんだか知らないけど、コヤくんが思っているような端た金ってわけにもいかないぜ」
 「いや、金額のほうはね、それなりに計算してもらったらいいんですよ。適正価格ってやつでね。実はね、 J さんもご承知のように、僕のところで親父を預かっているわけですがね、どうも、あの狭いところで一日中顔を突き合わせていると、やはり何かとうまく行きませんでね。それで、前にもご相談したように、もう一部屋ぐらい増やしたいと思ったわけなんですよ。
 現に、13日の火曜日には、面白くないことがあったらしくて、ひとりで東京まで帰ってしまいましてね。いや、びっくりしましたよ。まあ、あれは、たまたま親切な人たちに出会ったための奇跡みたいなもんだったんですけどね。
 そんなこともありましてね。ま、それにしても、親父を預かるといっても、もうあの歳ですからね、いつまでのことか分かりませんからね、今のように借りたままで増築しても、先日計算してもらったように、僕としては、あまりメリットがないもんですからね、せめて使った金が無駄にならないような方法はないものかというわけなんですよ。
 それでね、実は、親父を預けた兄のほうにしても、今さら親父を引き取るわけにはいきませんのでね、なんとか金の工面をしてくれるというわけなんですよ。僕としては、ただ金を出して貰うだけなら、このまま家賃を肩代わりしてもらっても同じようなもんなんですけどね、まあ、せっかく兄が金を出してくれるというわけですから、なんとか形の残るものとして使ってあげたいんですよ」
 「ふむ。そういう事情ね。それじゃ、僕のほうとしても、とりあえず考えてみるよ」
 そんなわけで二三日内に答えを出しておくということになった。
 私が家に帰ってみると、またしても老父の様子がおかしいのだ。
 「わしは、いつまでも、あんたとこに世話になってはいたくない。わしは、いつ帰るやもしれん。じゃから、あんたも、そのつもりしとってくれな」
 いつもの苦虫を噛み潰したような顔で、ありとあらゆる妄想を巡ってきた様子なのだ。それは多分、兄が山荘購入の提案をしてくれたということに端を発する妄想であったのかもしれない。
 老父は、この一言を宣言すると、それからはだんまりの一手だったから、その意図するところは推測するしかないが、私が兄の提案をビッグニュースとして伝えたにもかかわらず、老父の表情が今ひとつ浮かぬように感じられたことは事実なのだ。ひょっとすると、老父は、私が力説する兄の奮戦ぶりを軽く受け流していた様子だから、この山荘購入の資金にしたところで、どうせ自分の財産を切り売りして調達するにすぎないとでも勘ぐっていたのかも知れないのだ。
 そんなわけで、折りがあるごとに、私は兄の提案の趣旨を老父に説明することに努めたが、なんとなく浮かぬ表情のまま二三日が過ぎた。
 そして10月22日、私はホテルの方に J さんを尋ね、その後の回答を聞いた。
 「僕としては、やっぱし売るつもりは無いということなんだ。だいたいさ、今は、ちょっと時期が悪いんだよ。これだけ地価が高騰してるしさ、それも、軽井沢辺りの地価が凍結されるかもしれないっていうんで、余計にこの辺りの地価が上がってるからね。そんなときに、売り急ぐ必要は無いってことなんだ。
 それにさ、たとえばあそこの50坪を5万で売ったとしても、せいぜい250くらいだからね。その程度の金額なら、今じゃ、このホテルの一日分の売上に過ぎないからね。だいいち、あの土地を5万で買うんじゃ、僕としても、あまり良い買い物とは思えないしね。その上、まだ水道の権利なんかに金が掛かるぜ。
 まあ、僕としても、今さらあの家屋では金を取ろうとは思わないけどね。
 それに、あれを改装するなんて言ってるけどさ、もしも古谷くんが言っていたように、あれに二階なんかを乗せるんだとすれば、結局は建て直しになっちゃうんじゃないの。それに、急ぎなんだろう。だとすれば、無理だよ。この辺りでも、いま建築業界が好調だからね、大工が不足してて、いまからじゃ、早くても半年から一年ぐらい待たなけりゃ工事に掛かれないぜ」
 ま、だいたいの趣旨はこんなところなのだ。
 それにしても話の初めに「どうしても50坪でなきゃ駄目なの?」なんて言っていたことからすれば、どうやらホテル建設のときに受けた融資の担保に入っていることが、未だに足かせになっているということかも知れない。もっとも、この山荘が建っている辺りの土地を実際に持っているのは J さんの父親ということになっていて、実際的な管理運営は母親が握っているという話なのだから、結局は母親の承諾が得られなかったということなのかもしれない。
 そんなわけで現在の山荘にこだわることなく、 J さんのつてで近所に中古の別荘を探してもらうことにしたが、これも話の成り行きであったから、多分兄が援助してくれるはずの分に私が協力できる範囲のものも加え、とりあえずの予算を400万として提示してみることになった。しかしこの話も付き合いの広い J さんに期待してのことであるが、それにしても全く人任せのことだから、おいそれとこちらの希望にあった出物に巡り会えるとはかぎらないのだ。




28.入院の準備


 二之沢草津病院に、老父の入院を電話で申し込んだのは10月7日であった。その後病院から送られてきた問診表は、老父の情緒不安定が続いていたために出しそびれていた。
 しかし老父と私のより快適な共生のために、兄の協力により私が住み替えを考えているということを、ボケていないときの老父が納得できるようになったため、資金不足を補うためのアルバイトが重要であることも理解されるようになり、とりあえずは私の冬期のアルバイトも具体化することになった。そんな冬の予定がなんとかつくようになったので、17日になってようやく問診表を返送することが出来た。
 ここに、その問診表に添付した手紙を引用してみたが、このような内容こそが老父を語るのに適した簡潔な現状報告というわけなのだ。

 「前略 この度は、ご面倒なことをお願いして申し訳ございません。特別のご配慮を頂き心から感謝致しております。ありがとうございます。
 遅くなりましたが、本日『入院患者問診表』をご返送申し上げます。
 ところで、老父の健康情況について、思い当たることを少し申し上げたいと思います。 日ごろ腰が痛いとか膝が痛い、あるいは足首の<むくみ>が取れないなどと言っておりますが、これらの症状によって日常生活に支障を来すことはありません。しかし、本人は足首の<むくみ>をかなり気にしておりますので、症状に応じて診ていただければ幸いでございます。
 それから、最近は夢と現実を混同することがしばしばあります。寝ぼけとボケの境界が曖昧になっているのかも知れません。以前に<まだらボケ>だと診断されたことがありますが、記憶の混濁と寝ぼけを抱えたまま覚醒しているとでもいう状態です。
 その関係で、本人は「3回倒れたので、すっかり頭の中が空っぽになってしまった」とか「とうとう3回目には、口がきけなくなった」などということを言いますが、それは事実ではありません。確かに高血圧症では以前に一度だけ入院したことがありますが、あとは薬の飲み間違えとか食べすぎによる不調を、後の脱腸の手術による入院と、胆石症による入院とに混同しているようです。なお、口がきけなくなったという事実は全くなく、非常におしゃべりな老人と言ったほうがいいと思います。
 老人ですので、始終うたた寝をして寝ぼけたりしておりますが、それ以外は非常に元気です。ただあまり元気なので、どこまでが正気でどこからボケているのかが、判別しにくいというような状態です。
 ところで、今年の7月に東京へ老父を連れて行ったときに、以前から診察して頂いている東京女子医大に参りましたら、最近数回の血液検査の結果、どこかに癌が発生している可能性があると言われました。しかし高齢でもあるということで、苦痛を与えかねない精密検査をすることもないであろうという判断により、そのままに放置しております。
 現在、東京女子医大より、高血圧症と胆石症の薬と同時に、ボケによる情緒不安定のための鎮静剤を頂いて毎日飲ませておりますが、こちらの二之沢病院に入院させて頂く間は、どのようにしたらいいでしょうか、ご指示を頂きたいと思います。
 なお、老父が入院中には、私も東京へ出掛けてしまいますので、北軽井沢の自宅は留守になり連絡が取れません。誠に申し訳ございませんが、何かご用事がございましたら下記へご連絡下さいますようにお願い申し上げます。             敬具 」

 以上のようなわけで老父の入院予定日は、11月24日の連休明けということになった。ところが、10月25日(日)の夕方になって二之沢草津病院より電話があった。
 「先日は、ご丁寧なお手紙を頂きましてありがとうございました。入院の準備を整えてお待ち致しております。個室を用意致しましたので、いつでもいらして下さい」
 どうやら病院では、1ケ月ほど予定を間違っていたのだ。しかも、いま特別に体の不調があるわけではない老父の入院というわけで、病気をホテル代わりに使いたいという当方の意向を汲んだ病院が、気を利かして個室を用意してくれていたのだ。そこで、入院の予定日を再確認した後に、さらに病室の変更についてもお願いすることになった。
 「実は、以前に東京の病院に入院したときに、一度個室に入ったことがあるんですが、話相手もいない状態で年寄りをひとりにしておきましたら、かなり情緒不安定に陥りまして、妄想に取り付かれたりして、かなりボケが進んでしまったことがあるんです。ですから、できれば話相手のある大部屋の方へお願いしたいのですが」
 どうやら病室の変更に支障はないようなので、とりあえずは老父の入院が、確実な予定として組み込めることになり、滞りがちであった入院の準備を進めることになった。
 ちょうどこの日、東京より荷物が届いた。それは、私が先日老父を東京へ迎えに行った際に持ち帰れなかった荷物であるが、それと一緒に老父の冬物の衣類、さらに長椅子のベッドで越冬することになる私が使う予定のシュラフが入っていた。
 老父のためには防寒用のグランドコートが入っていたが、これは、病気の母が、まだ夜の散歩が出来た去年の冬に使用したものなのだ。東京の冬なら、あの寒がりの母でさえこれで凌げたわけであるが、この高原で真冬を迎えることになる老父には、このグランドコートで凌げる時期はいくらもないはずなのだ。それと老父のためのオーバーズボンが入っていたが、これはウエストが90cmあるにも拘わらず、老父がたくさん着込んでいるためにはけないというので、後日ウエストが110cmのものに交換してもらうことになった。
 それにしても老父自身も酷寒の冬を乗り越えるために、いろいろと着るものの心配をしていたわけなのだ。
 「ここでは、そんなんを、着るのか。わしは、わしが北海道に行っとったときに着てた、ええオーバーがあったんじゃ。わしは、あれを、送って貰った方がええように思うんじゃがなあ」
 「北海道へ行ってたころのオーバーですか? もう40年くらい前のことですよ。そんなものが、まだ残っているかどうかは分かりませんよ。それよりね、もっと軽くて暖かいはずのダウンヤッケを買ってあげますよ。その方が、こんな山の中で暮らすには便利だと思いますよ。もう、そのつもりでね、僕が、注文してありますから、心配しなくてもいいですよ。でもまあ、今のうちは、まだそんなに寒くないから、今日届いたこのグランドコートで十分じゃないの」
 すでに老父の越冬準備のために、中軽井沢の店にダウンヤッケを注文していたのであるが、これが12月の末にならなければ入荷しないと言われていたのだ。ところが、この日の新聞の折り込み広告によると、同じ品物が中之条の別の店からも出ているのだ。そこでさっそくこの店へ電話をしてみると、なんといま現物があるというではないか。そんなわけで、この店から明日宅急便で送ってもらうことにして、早々に中軽井沢の店はキャンセルすることになった。
 「おじいちゃんね、真冬になってから着る予定にしていたダウンヤッケが、あした届きますよ。ですからね、こんど草津の病院に行くときは、このダウンヤッケを着て行けるわけですよ。それと下はね、東京から送ってくれたこのオーバーズボンね、これも入院の時までにはサイズを交換しておきますからね。もう、これで上下を揃えておけば、絶対に大丈夫ですよ」
 翌日の昼過ぎにはダウンヤッケが届き、老父はさっそく腕を通して喜んでいた。しかし、何かと一言なければ収まらない老父のことだから、次々と思い浮かぶことを語り続けていた。
 「しかし何んじゃなあ、こんな大袈裟なものを着なきゃならんのかなあ。かっこは、大袈裟なように思うが、でもわしは、こんな色は好きじゃなあ。これはええ色をしとるもんな。それにしても、なんだか、あんまりかさ張るようじゃから、わしは、きにょう送ってもらったこっちの軽い方が、ええように思うがなあ」
 「ああ、どっちでも好きな方にしたらいいですよ。いずれ寒くなれば、おのずと答えは出ますよ」
 「ほうで、ここは、こんなもんを着なきゃならんほど寒いのかなあ…」
 それからしばらくは手で撫でて表地や羽毛の感触を確かめていた。
 「なあ、ノリヨッチャン、雨でも降ったときには、これでええんじゃろうか。こんなもんで濡れないのかなあ…」
 そういって取り外し自在の大きなフードを被っては、何か照れ臭そうな、そして不安な顔をしている。
 「それを着るころには、この高原では雨なんか降りませんよ。何か降るものがあるとすれば、さらさらの雪だけです。だから雪に降られたら、そのフードを被ればいいんですよ。もしも心配なら、あとで防水液をかけておいて上げますよ」
 「ほうで。そうして貰えば、安心じゃな。でも、年寄りが、こんなんを着とっても、おかしくないかなあ…」
 「昔の重いオーバーコートなんかを着るよりも、ずっといいんじゃないの。なかなかスポーティでいいじゃないですか。結構、似合いますよ」
 「ほうか…」
 なんとなくしっくりといっていない様子ではあったけれど、まんざらでもないらしく、衣紋掛けに掛けた後も、いつまでも眺めていた。たぶん現実には行くあてのない妄想の彼方で、ちょっとは浮いた感じのダウンヤッケを着た老父は、行き当たりばったりの友人知人を引き留めて、こんなものを着るはめになった事情について、クダクダとおしゃべりをしているのかもしれない。
 10月29日、老父と私の移転届けによって老父の老齢年金の手帳が新しく発行されたので、私は農協の前にある第十区事務所という役場の出張所へ行って貰って来た。ところが、古い方の手帳にはビニールのカバーが付いていたのに、新しい方にはそれが付いていなかったことが老父にはかなり不満であったようなのだ。
 そんな不満をシンネリムッチリと弄んでいるうちに、突然こんなことを言い始めた。
 「なあ、あんたは、わしが使っとった古い手帳を知らんか。わしがもう、長いことずっと使っとったやつじゃ」
 「どんな手帳ですか?」
 「どんな、言うて…、戦争前から使っとったやつじゃ。あれには何もかも書いてあったんじゃ。仕事のとことやら、大切な住所なんかも書いてあったんじゃ」
 「大きさとか、表紙とかは、どんなものなの?」
 「大きさ言うて、普通の手帳じゃよ。色は、ビニールで緑色しとったと思ったがなあ」
 「おかしいな、ビニールの表紙だとか、ビニールのカバーがついた手帳なんていうのは、戦前にはめったになかったんじゃないの? それは、ひょっとすると、この間まで使っていた健康手帳のことじゃないのかなあ?」
 そこで、東京に居るときに使っていた古い方の健康手帳を出して見せた。
 「おじいちゃん、これのことじゃないの? 表紙が緑色で、ビニールカバーが付いているよ、どうですか」
 「うんにゃあ、そんなんじゃないよ」
 「そうすると、僕はね、もう10年以上もおじいちゃんが手帳を使っているのを見たことがないから、僕には分かりませんねえ」
 「ほうか、そんなことはないじゃろう」
 「だって、もうおじいちゃんが店に出なくなってからは、20年以上になるんじゃないの? 仕事をしなくなってからは手帳も使ってないんじゃないのかなあ?」
 「おかしいな、そんなはずはないんだ。わしが使っとった手帳があるはずなんだ。それが無いというのがおかしい…。なあ、あんたは、何んでも整理してしまってしまうが、わしの手帳もどこかにしまっとるんじゃないのか? どういうつもりか知らんが、もしもあんたが隠しとるんなら、そんな意地の悪いことをしないで返してくれよ。あんな手帳なんていうもんは、他人が見たってしょうがないもんじゃろうになあ…。あんたが、隠したって何んの価値もないだろうに…」
 「そんな勝手な思い込みは止めてくださいな。僕が、おじいちゃんの手帳を隠したって、何んの徳にもならないじゃないですか」
 そこで私は、老父の貴重品をいれてある袋を取り出して、中のものを老父の目の前に並べた。
 「いいですか、おじいちゃんの貴重品は、これで全部です。老齢福祉年金の手帳、これが古いほうの健康手帳、これが新しい方の健康手帳、それにこれが健康保険証、そして銀行の預金通帳が二通、手帳らしきものは、これで全部ですよ」
 無論、老父はまだ納得できない顔であったが、とりあえずは静かになった。それからしばらくは、何かブツブツ言いながら目の前に並べられた手帳と通帳をめくっていた。
 さて11月10日、この日はそれほど寒いとは思われなかったのに、夕食前に首までコタツに潜り込んでかなり寒そうにしていた老父が、食卓に付くなりワナワナと震え出した。そこで、老父のすぐ脇にストーブを持ち出したが、ほとんどその効果もなく、まるで手が震えて箸が持てないのみならず、満足に椅子に腰掛けていられないほどなのだ。私は、その突然の大袈裟な様子に戸惑いを感じつつも、やはり過剰な演技に呆れていた。
 「あんたは、わしが、わざとやっとるように思っとるかも知らんが、わざとじゃないんだよ。わしは、寒くてじっとしてられないんじゃ。どうも、わしは、あんたとは一緒に冬を越せない。あんたは、体を鍛えとるからええが、わしはもう90じゃからな…。
 あんたは、起きると同時に、あっちこっちの窓を開けてしまうが、それもいつまでも閉めようとはせんのじゃから、わしなんかは、凍えてしまうよ」
 「だったら、早く言ってくれればいいのに。いつだって、すぐに閉めますよ。僕はね、一晩中つけてあったストーブが、不完全燃焼して臭くなっているから開けるんですよ。おじいちゃんには、臭いませんでしたか?」
 「うんにゃあ…」
 そう言ったまま震え続ける不愉快虫になってしまい、食事も食べられない様子なのだ。どうやら風邪らしい。そこで食事を諦めさせて風邪薬と栄養剤を飲ませ、早々に寝かせつけた。熱を計ってみると、午後の9時には38.4℃、そして午前2時になってもまだ38.3℃はあった。平熱の低い老父には、かなり応える高熱だったのかもしれない。
 そして11月11日、昨日の大騒ぎがまるで嘘のように老父は元気一杯なのだ。朝食もいつものように食べ、ほとんど普段と変わるところはなかった。いや、むしろ昨日の発熱が、寒さへのハードルをひとつ飛び越える儀式であったと感じさせるほどに生まれ変わっているのだ。
 ところでこの日は再び東京より荷物が届いた。今度は、老父の入院のために用意された品々なのだ。タオル、バスタオル、サルマタ、スポーツシューズ、スリッパ、さらには交換のオーバーズボンなどであった。なぜか老父は、その中でも紺のスポーツシューズが気に入ったようで、部屋の中で何遍も履いてみたりして大層ご機嫌であった。そこで私は、今までに揃った物をひとまとめにしてダンボール箱に入れた。
 すると「ほほう、まるで嫁入りの支度みたいじゃな、ヒヒヒ」を繰り返し得意になっていたが、それは多分、子供のような無邪気な喜びを何んらかの形で語らずにいられない自分への照れ隠しであったのかもしれない。しかも夕べの発熱が大事には至らず、すでに平熱に戻っていることが予想以上の平安を保証しているようなのだ。
 「これでもわしは、みんなが気を使ってくれるから、幸せじゃ」
 よほど入院の日が待ち遠しいのか、まるで遠足気分のように何回も予定日の確認をしていた。ところが、それがあまりくどいので、いささか呆れた顔で応対する私に突き放されて、そんな大人気無い様子に自分でも気付いたのか、今度は、現状がいかに緊急入院を要する事態であるかということについて、老父得意の思い込みの言い繕い作戦が始まった。
 「それにしても、どうしてなんじゃろうか。なんだか、体中が腫れてきよるように思うんじゃ。初めのうちは、ほれ、見てご覧、足のここだけじゃったのに、それがどうした訳か、このごろでは、だんだんに、この腫れが上へ上へと上がってくるようなんじゃ。
 これは、何かひどい病気じゃないのかなあ。どうもわしは心配じゃから、早く病院へ行きたいんじゃがなあ。早くええ病院へ行って、どこもかしこもすっかり診てもらわにゃいかんのじゃないかなあ。なあ、ほれ…、ここなんか、なあ…」
 「その腫れは、僕が子供のころからあったじゃないですか。僕は、子供のころに、そのおじいちゃんの水ぶくれを押して遊んだことがありますよ」
 「うんにゃあ、そんなことはあるか。あんたは、ひとの体だからだからというて、そんないい加減なことをいっとるが、自分の体のことは自分が一番よく分かっとるんじゃ」
 そのうちに、自分の言葉に取り付かれてしまった老父は、今にも死ぬような口ぶりで声が震え出し、すっかり重病人になってしまった。見れば当代随一の幸せ者であった老父は、あっという間に不幸のどん底に転げ落ちてすっかり老醜の不機嫌虫に成り下がり、ドロドロの欲求不満でコタツ板の上を徘徊している。こうなっては興奮が収まるまで待つしかないが、しかし老父が早く入院してくれれば、私としてもその分だけ早く東京へ出られるのだから、それはそれで結構なことには違いないのだ。
 そんなわけで私はさっそく病院に電話をかけ、連休明けの24日に予定していた入院を、連休前の21日(土)の午前中に変更してもらうことにした。




29.ベエベエ泣く


 11月15日の早朝、ワープロを打っている私の横で老父が突然に起き上がった。
 「おおっ、もう朝じゃ。こうしちゃおれん!!
 40にもなって、毎日働きもしないで、くだらんものを書いとるだけのくせに、90になるわしに、毎月20,000円も出させるような奴を頼りにするわけにはいかん!!」
 「んん? また、何か夢を見てたんじゃないの?」
 「うんにゃあ、夢なんかであるか。90を過ぎた親に、小遣いをくれるというのなら話は分かるが、わしから金を取るというのは、どういうつもりなんじゃ!!
 とにかく、こうなったら、ハルヨシとこにも連絡を取って、何もかも徹底的に調べてもらわにゃならん!!」
 そう、確かに老父の顔は寝ぼけているというよりは、延々と妄想をくぐり抜けてきたときの硬直した表情なのだ。
 「どうせ毎月の20,000円だけじゃなしに、わしのものに手を付けとるんじゃろうから、税務署と警察に調べてもらわにゃならん。ま、ハルヨシの店の方も、一緒に調べるようになるじゃろうが、ハルヨシにはかわいそうじゃが仕方ない。とにかく、徹底的に、洗いざらい調べてもらわにゃならん。
 ま、いい気になってやっとったんじゃろうが、あんたも覚悟しておけよ。
 自分で独り立ちできるようになるまで育てて貰ったくせに、その上、自分で働きもしないで、90を過ぎた親の金を充てにして暮らそうというんじゃから、ろくなもんでありゃしないんだ!!」
 どうせいつものボケ騒動とは分かっていても、超然たるパワーで食って掛かられれば、平静は保っているもののあまり好い気持ちはしない。
 「駄目駄目!! そんな寝言いったって駄目だよ」
 「駄目とは何んだ!! おまえにそんな偉そうなことが言えるのか!?」
 「ああ、偉いか偉くないか知らないけどね、とにかく、おじいちゃんが興奮している間は駄目だよ。とにかく、そんな訳の分からんことを口走ったって駄目だ。ボケてるんだか寝ぼけてるんだか知らないけど、それじゃ話にならんよ!!」
 すでに老父の目は吊り上がり真っ赤な逆上仮面になっていたので、私は、早々に老父から離れるために仕事を中断して、老父の朝食の支度で台所へと立った。
 ところが、老父は台所まで私を追ってきた。
 「おい、きさま、わしから盗んだ金を出せ!!
 わしは、ボケてなんかいるか!! きさま、人を馬鹿にしたようなことを言うな!!
 おまえは、毎月20,000円づつも取っとったんじゃから、もう、わしのものは無くなっとるんじゃ!! 取った金を返せ!!」
 両手に握り拳を作りワナワナと震えている様子からすれば、このまま私が老父を無視し続けても冷静さを取り戻すことは到底不可能に思われた。そこで老父のボケに一括を入れるべく、私は老父のヒステリックな高音を粉砕するのに十分な大声で怒鳴りつけた。
 「うるさい!!」
 老父も条件反射のように奇声を上げた。
 「むむっ、なんだ!! きさまなんかに、馬鹿にされてたまるか!!」
 目の吊り上がった寝間着の老父が仁王立ちになって全身を震わせている。しかし、どうやらそのまま体が硬直して動けないようなので、私はもう一言付け加えた。
 「寝ぼけていつまでもグチャグチャ言うな!!
 おじいちゃんのお金なら、そこの引き出しに入ってるでしょうが。そんなに心配なら、勝手に出して見りゃいいでしょう!!」
 私は老父を無視して食事の支度を続けたが、しばらくして興奮の冷めた老父は、そのまま諦めて引き出しのところへと行った。
 私が食事の支度を済ませるまで、老父は手提げ袋から預金通帳を引っ張り出して無心に見入っていた。はたしてどこまで冷静に現状の把握が出来たのかは知らないけれど、老父は再びベッドに収まっている。それも何か身構えるような恰好で布団を引き上げて、いつもの内緒事をしたときの顔をしている。
 部屋に戻った私が寝間着に着替え始めたのを見て、またしても知ったかぶりの絵画論をぶち上げてきた。多分これが私へのささやかな反撃なのだ。しかも悪がきが弱い者いじめをしているような言い方なのだ。
 「あんたは、あんな下らんものはか描かないくせに、自分が世界一うまいと思っとるんじゃろうが、自分だけでそう思っとるだけなんじゃ。あんなもんは、いくら描いたって何にもならんのだ。40にもなって、自分だけいい気になっとったって、しょうがないんだ。もっと世間に認められるようなものを描かにゃ何んにもならないんだ」
 話が急に絵画論になっているところをみると、どうやら金を取られたという妄想からは目覚めたようであるけれど、私は老父の顔をみることもなく、まして話を聞くこともなく、そのまま長椅子のベッドに潜り込んだ。
 さて、どれほどたったのか、私は老父の突然の大声に起こされた。
 「うおおい、あんた、もう2時だぞ!!」
 時計を見るとまだ1時だった。私が時間を確かめて寝返りを打つと、そんなことにはお構いなしに、老父が早速、今朝の続きなのだ。
 「あんたは、ひとりこんなところに暮らしてとって、いい気になっとるようじゃが、結局は、東京の奴らにだまされとるんじゃ。それも知らんと、40になってまでしょうもないことをしとって、どうするんだ!?」
 当然、私はそのまま無視して2時まで寝た。
 またしても老父の声に起こされる。
 「おい、今日は、ええ天気じゃぞ!!」
 煩わしい老父の声に憂欝な目覚めを迎えたが、老父はまだ何か言っている。
 「ま、あんたの今の仕事も、見とると、使う色によって絵がクラックラッと変わってびっくりするんじゃから、わしらが見とっても色の研究だということは分かるから、それも大事なんじゃろうが、やはり、人が喜んで買ってくれるようなものを描かにゃしょうがないよ」
 まだ絵画論が続いたいたようであるが、どうやら先程と違うところは、相変わらずの勝手な解釈ではあるけれど、今度は私の立場を認めてから改心させようという魂胆であるらしいということなのだ。
 「まったく、うるさいんだから…」
 私はそのままトイレに立った。
 老父の物言いたげな目が部屋に戻った私のすることをずっと追っている。私は、すでに25℃まで上がっている室温を確かめて窓を開け、いつものように布団をベッドの上に片付けて、老父の朝食の後片付けを始めた。
 その後、私は水浴びを済ませ、まったくいつものように昼食の準備をする。話相手のいなくなった老父は、たいして見る気もないままに大音量のテレビで女子マラソンを眺めていたが、それでも私の進める食前の薬を黙って飲んだ。それから20分ほどして私はいつものように声を掛けた。
 「はい、ご飯出来ましたよ」
 老父は、あまり気乗りのしない返事を返し、何か沈欝な表情で食卓についた。
 「ああ、ちょっと、おかゆが多いかなあ…。まあ、朝だからえか、食べちゃえ」
 「これは昼ごはんですよ」
 老父は黙ったまま欝々とした様子で食べ続けていたが、私は、いかにも食欲が無いという老父の過剰な演技には目もくれず、いつものように先に食事を済まして勤行の準備を始めた。
 どうやら老父は食事をしたままでまた妄想に迷い込んで行きそうだったので、私は余計なトラブルになるのを嫌い大音量で鳴っているテレビには手を付けず、そのまま耳栓をして勤行を始めた。それにしてもテレビの音は、耳栓をしているにもかかわらず、私が普段聞いているのと変わらない音量で聞こえていた。
 テレビの大音量に負けない集中力を維持しつづけてなんとか勤行が終わり、私が老父の昼食の後片付けのために台所へと立った。すると、すでにコタツに入っていた老父の横を通り過ぎるところで、入れ歯の安定剤をいじっていた老父が声を掛けてきた。
 「あ、あの、ちょっと聞いて欲しいことがあるんですが…」
 私は、その改まった言い方が気になったけれど、老父の声はテレビの大音量に掻き消されて聞こえなくなってしまったので、そのまま食事の後片付けを始めた。ところが、片付けが終わって振り向くと、老父はまだ何かブツブツ言っている様子なのだ。
 私は老父のところへ行った。
 「何か用事ですか? それにしても、テレビの音が大きくて話もできないから、ちょっと小さくしますよ」
 「ええ、結構ですよ。それでねえ、わたしは、これからどうしたらいいものか分からなくなってしまったもんですから、あなたに相談にのって頂きたいと思ってるんですが…」 どうやら妄想の果てに別人へと変身してしまっているのだ。
 「んん? 何が分からなくなっちゃったんですか?」
 「わたしも、もう頼りにしている者に、次々と死なれてしまったもんですから…。このところ、不幸が続きましてねえ。今じゃひとりになってしまって…。ここにおっても、誰が見舞いに来るわけでもないし、もう、心細いやら、寂しいやらで…」
 そう言ってはボロボロと涙を流し始め、そのままとめどなく泣き続けた。
 「そうですか、それで誰が亡くなったんですか?」
 「ええ、わたしの家内と…、あら、家内じゃなかったかな…。いや家内のような気がするな…。それに、ええっと…、ほれ、兄弟じゃったかな…。いや、子供のような気もするし…、とにかく…、頼りにしとるもんが次々に亡くなったもんですから…」
 「おじいちゃん、うちではね、もう30年くらいになるけれど、その間に死んだ人は誰もいませんよ。ずうっと昔にミツオバアチャンという人が死んで以後、みんな元気ですよ」
 「そうですか。ここでは皆さんお元気なんですか。そうそう、わたしの家内は、何という病気でしたか…、そう、パーキンソン言うたかな、そのパーキンソンという病気なんですが、あれは変な病気なんですねえ。見た目には、そんなに病人のようには見えないんですが、しゃべりませず、手足も効きませんから、もうほとんど寝たきりなんです。
 でも、食べるものはよく食べるもんですから、あれでなんだかんだ言うて、まだ元気なんですよ。でも、自分では、何をしようにも自由が効きませんから、かわいそうでなりません。あれでまだ、わたしなんかよりは十も十いくつも若いんですがねえ。
 いま、家内は、息子が面倒を診てくれてますが、いま商売がよくありませんから、なかなか大変なようです。昔は、どこにでも広場がありましたから、運動具屋もよかったんですが、最近では、どこにもみんな家が建ってしまいましたし、学校なんかも、学校だけではか使わせませんから、野球やるにしても場所がなくなってしまいましたからねえ。
 それでほとんど店売りというてありませんから、いま商売は、学校回りで息をついている状態です。ところが、学校も、今は競争が激しいですから、みんな入札になってしまいましたから、なかなか取れないようですよ。それも原価より1割も損をしてでも出さなければ取れないそうですから、それでは立ち行きませんので、事務の先生に頼んで、支払いを早くしてもらって、自分とこの払いを遅らせて、その間に金を融通して商売をしているというような状態ですから。なかなか忙しくて見舞いにも来られないんでしょうが…」
 老父のこの勝手な思い込みの数々によって織り上げられたとめどないおしゃべりは、やはりとめどない涙を拭きながらではあったけれど、終始私の目を見て話すことがなかったのだから、どうやら私に聞かせるというよりも、むしろ自己確認の儀式と言いうるものに思われた。
 「ところで、わたしは、どうして、あなたに面倒を診ていただくようになったんでしょうか? なんと言う病院でしたか、あの病院から言われてここへ連れて来られたんでしょうか?」
 「ここは、病院なんかじゃありませんよ。ここは、僕のうちですよ」
 「ああ、そうですか。そうすると、わたしは、どうしてここへ来たんでしょうか? あなたには、何から何まで面倒をお掛けしているんですが、どうしても、自分がなぜここにいるのか分からないものですから…」
 「そうか、すっかり分からなくなっちゃったんですね。それじゃ説明してあげますよ。いいですか、まず初めにね、僕の兄貴が、おじいちゃんの面倒を診られないというので、僕が、兄貴に頼まれておじいちゃんを預かっているんですよ。忘れちゃいましたか?
 東京で、おじいちゃんが暴れて、ハサミで兄貴を刺してしまったもんだから、警察が来たりして、大騒ぎになったことを…」
 「そうですか。そう言われてみると、そんなことがあったような気がするんですが、わたしも、倒れてから何もかも忘れてしまったものですから…。そうするとあなたのお兄さんと言うのは、東京にいらっしゃるんですか?」
 「そう。僕の兄貴は、東京で運動具屋をしてるじゃないですか? 運動具屋をしている僕の兄がハルヨシです。どお、思い出しましたか、おじいちゃんの跡を継いで運動具屋をしているのがハルヨシです」
 「あら、そうですか…。ああ、そうそう、ハルヨシというのは私の息子です。そうすると、あなたも私の息子ですか?」
 「そうですよ」
 「そうですか…。そう言われても、私は、どう考えても、あなたが私の息子だとは思えないんですがねえ…。でもここには、あなたと、もうひとりいらっしゃるでしょう? その人の関係で、ここへ連れて来られたようにも感じるんですが…」
 「ここには、おじいちゃんと僕だけしかいませんよ」
 「そうですか!? 変だなあ…、そうすると、この間、私が何やらをしたときに、私はひどく叱られたんですが、あの時、私を叱ったのは、あなたですか?」
 「そうですよ。この間は、おじいちゃんが興奮して、訳の分からない事を何遍も何遍も繰り返して騒いでいたもんだから、僕が怒鳴ったんですよ」
 「ほうで。そうすると、あなたは、私の息子なんですかねえ…」
 まだ老父は、自らの正体のみならず私の正体も納得しかねているようであったが、あとは冷静さを取り戻すための時間が必要なだけなのだ。
 「ところでねえ、僕は、ちょっと新聞を取りに行ってきます。早く行かないと日が暮れちゃうからね」
 「ああっ!? 新聞を取りに行くんですか? そういえば、うちでも新聞は取りに行くんですよ。そうか、そうすると、やっぱり、あなたは、私の息子なのかなあ…」
 「そうですよ。僕はノリヨシです。思い出しましたか?」
 「そうですか。そうするとノリヨシいうのがわたしの息子だったんですね。そう言われても…、私は、すっかりボケてしまったんだなあ…」
 「とにかくねえ、僕は、ちょっと行ってきますから、そんなに心配しないで、相撲でも見ててくださいな」
 そんなわけで私が新聞と買い物を済ませて帰って来たころには、老父もかなり落ち着きを取り戻していた。ところが
 「私は、どこぞに、働きに行かなければならなかったんじゃないでしょうか?」
 「働きに行くのは、僕の方です。僕が働きにいっている間に、おじいちゃんには、草津温泉の病院に行って貰う予定になっていたんですよ。もう90を過ぎているんだから、今さら働きに行かなくてもいいでしょう」
 「そうですか。ここに、まとめた荷物もあったりしたもんですから…。これを見とったら、何かそんな気がしたもんですから。そうすると、私は草津の病院へ行くんですか。そういえば、私も体のあっちこっちが腫れたりしていますからねえ。
 私も、もうこの歳ですから、すっかり弱気になってしまって、死ぬときには、やはり自分の家で死にたいと思っていたもんですから…。できれば、そんな病院に行くよりは、やはり自分の家に帰りたいんですよ」
 「はいはい、その気持ちはよく分かりますよ。でもねえ、いまは、まだまだ元気なんだから、そんな心配はしなくてもいいじゃないですか。確かに、おじいちゃんとしても自分の家にいるにこしたことはないんでしょうけれど、兄貴の方で、おじいちゃんの面倒を見る余裕がないというのだから、残念でしょうけれど、まだしばらくはここで頑張って欲しいんですよ。ま、元気を出してください」
 「ええ、それはいいんですよ。私は、息子には何もないんですが、嫁がだいっ嫌いなんですよ。顔を合わせるものいやなんです。嫁もあれで、忙しいから大変なんでしょうけれど、私の家内の世話なんかも、厭な顔一つしないで下の面倒までよく診てくれているんですが、でも何だって、私に食って懸かってくるんでしょうか?
 とにかく、嫁とは顔を合わせたくないですから、ここでいいんですよ。しかし、私がいつまでも、ここでばかり世話になっていたんでは、あなたも結婚もできないでしょうから、ご迷惑をお掛けしてしまいますので…。それで私は、どうしたらいいものか考えていたもんですから…」
 「そんな心配はしなくていいんですよ。僕は、おじいちゃんの面倒を、死ぬまで見るつもりで引き受けてきたんですからね。ところが、今回は、僕が仕事で東京へ行かなければならないので、申し訳ないんですが、その間だけ、おじいちゃんには静養を兼ねて草津の病院へ入院して貰う予定にしているんですよ」
 「そうですか。私もボケてしまって、すっかり忘れとったんですね」
 そんなわけで、次第に正気に戻りつつあったが、夕食のときになっても老父の私に対する丁寧語は続いていた。
 「あなたには、毎日、こうやって、私の好きなものばかり出して頂いているのに、どうも、あなたのことが誰だか分からなくなってしまって…。それにしても、きにょうでしたか、あなたに叱られて、私は悔しいやら情けないやらで、自分がどうしたらいいのか分からなくなって…、悲しくなって、私は泣いてばかりいたもんですから、すっかり疲れてしまったですよ」
 その後、いつものように老父の金銭的な心配事が取り越し苦労であることを説明して、どうやらこの日は、老父いわくの一日中泣き通してしまった悲しみが、ボケによる思い違いであることを了解したようであった。
 「私は、もう誰も信用できる身内がいなくなってしまったと思ったもんですから、東京で商売しとる息子にも、私の預金を取られはしないかと心配して、ここへ通帳を隠しておいたんですよ。預金いうても、いくらもあるわけじゃないんですが、死んだ時の葬式代ぐらいは持っていませんと、人に笑われてしまいますからねえ」
 そう言って、老父はベッドマットの下に隠してあった手提げ袋と、枕の中に巻き込んであった年金の通帳を取り出して見せた。どうやら今朝ベッドの中で見せた老父の身構えた表情がこれだったのだ。
 「せっかく、そこへ隠したんだったら、病院へ行くまで、そこに隠しといたらいいでしょう。それにしてもねえ、おじいちゃんの葬式代は、兄貴がそのための積立をしているから、心配しなくても大丈夫ですよ」
 これでどうやら一段落した老父は、「あなたを、初めのうちは息子と思っとったんじゃろうが、いつの間にか他人のように思っておったんじゃなあ…。ボケるというのは、不思議なもんじゃなあ…。つくづく自分が情けなくなってくる。
 それでもまあ、わしも草津へ行くんなら体を鍛えて、しっかりと働けるようにしとかにゃいかんな」
 「あらら、おじいちゃんね、草津へは働きに行くんじゃないんですよ。草津は病院ですよ」
 「ああっ、ほうで、わたしは、働きに行くんじゃないんですか」
 「おじいちゃんは、もう、その歳なんだから、いまさら働かなくたっていいの。働くのは僕に任せてください」
 「ハハハ、わしは、すっかり働くつもりしとった」
 何はともあれ、老父のこのボケに対するかなりの自覚が、それ以降の数日間においては、予想以上の平安を保証してくれた。







  30.いよいよ入院



 様々な思惑の行き違いはあったけれど、私がアルバイトをする間の老父の入院が、いよいよ現実のものとなる日が来たのだ。
 11月21日(土) この日、私は午前4時を過ぎたころに寝たので2時間足らずの睡眠しかとれなかったけれど、とにかく午前6時に起床した。早々に水浴びと勤行を済ませ、続いて老父の食事の支度に取り掛かる。私は老父が食事をしている間に車を借りておこうと思い、午前7時40分には家を出て J さんのホテルへ向かった。
 早朝は今年一番の冷え込みで−7℃ぐらいまで冷え込んだため、高原はこの冬になって最も鮮やかな霧氷の華で飾られていた。私が車を借りて戻って来たときも気温はまだ氷点下だったから、午前8時ごろになっても防寒具を纏う老父が車を停めてあるバリケードの外まで行く道は、凄烈なまでの蒼空を寒気の聖霊たちが覆い尽くし、山影から離れたばかりの淡く低い輝きが凍土を流れ、そのまま凍てついた枯木林を駆け抜けていた。
 もともと火山灰地の高原は、どれほどの霜柱が立つこともなくすぐに凍結してしまうけど、輝きに誘われて振り向けば、まだ光が勢いを持つことのない白い大地は、立ち枯れた下草を抜け牧草地を越え遥か後方の山並みに至るまで、見渡す限りのほんの一時を目に刺さるほどの繊細な輝きに委ねている。
 しかし、老父はそんな景色を見ることもなく、私に手を引かれたおぼつかない足元に白い息を吐き続けている。すでに老父の心は入院することの期待と不安に奪われていたのかも知れない。
 「どう、高原の霧氷っていうのは奇麗でしょう」
 私の言葉にも無言でうなづくだけで、それもほとんど上の空だったのだから、そんな景色の美的装いはおろかチリチリと差し込む寒気にも気を取られている暇はなかったようなのだ。
 「寒くないですか? 大丈夫?」
 こんな私の問い掛けにも、老父は「ああ」と面倒臭そうに答えるだけなのだ。
 それにしてもそんな老父が纏う緊張感とは、やはり無言の寒気に急き立てられてのいたたまれなさでもあったはずだから、老父はとめどない緊張感を高めても決して癒すことのない寒気に追われて草津へと向かったことになる。
 そんなわけでぜん息気味の白い煙を吐く車は、十分な暖房が効いてくるまでには草津に着いてしまったから、老父の凍てついた緊張感とそれを丸抱えの私には、病院の暖房が驚くほどの暖かさに感じられた。
 われわれは広いロビーの温もりの中でも、未だに解けない緊張感のまま大きなクッションに埋没してしまうほどの冷気を纏って座り、9時までの30分間をまんじりともしないで過ごすことになった。
 温泉街にある小さなホテルといった感じのこの病院は、それだけでも東京辺りの病院とはかなり違った感じを与えるのに、気が付けばロビーには大きなポットにお茶が用意されていて、すでに常連と思われる4〜5人の老人たちが、お茶をすすりながら渋い顔で病気の品評会をしている。それにしてもあの東京女子医大なんかの早朝からの混雑ぶりからすると、なんとものんびりしていて穏やかな雰囲気なのだ。
 「どお、おじいちゃん、お茶でも飲みますか?」
 「んん? いらん」
 老人の緊張感はまだまだ解けるまでには至っていないけれど、私は早朝からの緊張感が次第に解けて、今度は眠気を催すほどに体じゅうが火照ってくるのを感じていた。さて、老父は緊張感が解けぬまま今度は興奮状態に入ってしまったのか、眉間の中心から赤味がさして私とは違った感じで紅潮し始めていた。そんな様子を気に掛ける間もなく9時になり、私は早速入院の手続きを済ませた。
 われわれは3階の病室に案内されたけれど、さらにこの病室の暖房に圧倒されてしまったから、老父はすっかり紅潮した顔でしきりに「気分が悪い、また倒れそうだ…」を繰り返していた。
 その後、間もなく入院に関する簡単な問診が、ナースセンターの看護婦さんによって行われたが、その時も老父の「わしゃ、なんだか、倒れそうじゃ」が繰り返された。
 「ここは病院だから、心配しなくてもいいですよ。自分で倒れそうだなんて思い込まないほうが、いいわよ」
 どうやら年寄りの扱いに慣れている看護婦さんに任せておけばよさそうなのだ。
 老父は問われるまでもなく勝手に「3回倒れ」たりしていたけれど、看護婦さんからの問診も、結局は先日事務局宛に送付した問診表の内容と同じことの繰り返しになった。そして、とりあえずは12月28日に迎えにくる予定であることを伝えた。
 それから3階の一般病棟より2階の老人病棟の8人部屋に移された。私は老父の荷物をロッカーとサイドテーブルに別けてしまった後に、老父から貴重品を受け取り事務局の H さんという人に預かってもらうことにした。
 初め H さんは、事務局での貴重品の預かりはしていないということであったけれど、誰もいない留守宅に貴重品を置いておくわけにもいかず、ましてボケの始まっている老父に持たせておくわけにいかないが、しかし貴重品を身の回りに置いておかなければ心配でならないという老父の事情を説明し、なんとか無理をお願いしたわけなのだ。
 病室に戻ってみると、老父は紅潮したままの顔ですでにうたた寝を始めていた。病室に入った時に渡された入院案内のパンフレットは、その内容をよく読んで老父に説明するように言われていたが、老父のうたた寝はしばらく続いた。
 それにしてもボケた老父のことだから、遠からず貴重品を探して大騒ぎするであろうことは想像に堅くないので、「貴重品は事務局の H さんに預けました」というメモを書いておくことにした。
 しばらくして老父は水を飲みたいと言って目を覚ました。老父に水を飲ませた後に、さっそく貴重品についてのメモを説明し、入院案内の概略についても説明した。さらに、すでに私が家で書いてあげた今後の予定表を取り出して、12月28日に迎えに来ることを改めて説明した。
 「うん。ほうか、ほんなら、あんたが迎えに来てくれるまで、ここにおったらええんじゃな。分かった」
 はたして言葉ほどよく分かっているかどうかは分からないけれど、あとは老父の頑張りに期待するしかないのだ。そこへ先ほどの看護婦さんがやってきた。
 「ねえ、おじいちゃん、どこかに調子の悪いところがあるの?」
 そんな看護婦さんの問い掛けに、老父は待ってましたとばかり奇声を張り上げた。
 「ええ、ほれ、ちょっと見てください!!」
 そそくさとベッドに起き上がり、靴下を脱ぎながら足首を示して訴え始めた。
 「ほれ、ここんところです。ひどいでしょう? こんなに腫れてしまって、それから、今では、この腰のあたりまで痛み出して…」
 それまで新参者を遠慮がちに品定めしていた部屋中の年寄りたちが、老父の突然の奇声に興味津々のあらわな眼差しを送ってきた。
 「ああ、そう。そうねえ、多少むくんでるみたいね。それと、腰の方も痛いのね。それじゃ、今のうちにレントゲンを撮っておこうか?」
 それから看護婦さんは私の方に向いて言った。
 「それではねえ、診察の前にレントゲンを撮っておきましょう」
 病院から宛てがわれた揃いの寝間着を着た老父は、もはや押しも押されもしない病人然とした雰囲気でヨタヨタと歩き、そのまま看護婦さんに連れられてレントゲン室へと向かった。私は老父のいない病室にいても、何か老人たちの眼差しが重く感じられて居心地が悪くなり、なんとなく廊下へと出た。
 廊下の突き当たりにはテレビが置かれ、2〜3人の人達がたいして見る気もない様子で見ている。それにしてもこの病院には、おびただしい数の絵画が飾ってあるのだ。玄関のロビーは言うに及ばず、最初に入った3階の廊下にも、そしてこの2階の廊下にも、それは見るも無残な駄作の群れなのだ。この病院を何か重い感じにさせるものがあるとすれば、それは唯一この薄汚れた駄作の群れをおいて外にはないと言える。
 もっともこの駄作の群れについては、すでにこの病院を紹介して頂いた SA さんに伺っていたことではあったけれど、これほど徹底した駄作の品評会になっているとは思わなかった。 SA さんの奥さんの言われるところによると、この体たらくは次のような事情によるのだ。
 「コヤさんねえ、あんまり下手な絵ばっかり飾ってあるから、あたし、あの院長に聞いてやったのよ。どうして選りによってあんな下手な絵ばかりを集めたんだって、そしたらねえ、俺のせいじゃねえよなんて言ってるの、アハハ。あれはねえ、院長のお父さんっていう人が、昔っから絵が好きで、それで集めたんだって。それもどこだかの画材屋へトラックで乗り着けて、倉庫に転がしてあったようなのまで引っくるめて買ってきたっていうじゃない、呆れっちゃうわよねえ」
 そんなわけで必然性の希薄な表現行為の前にたたずみ、創造力と想像力にことごとくの幻滅を確認するばかりではあったけど、それでもわずかの暇潰しにはなったのだ。
 ところで、老父が戻ってこないうちにそろそろ11時半になっていた。するとどうしたわけか言葉の少ない病室の患者たちが、互いに誰の顔を見合わせるわけでもないのに揃ってそそくさと起き上がり、何かに引き寄せられるようにゾロゾロと病室を出て行くのだ。これは何事かと廊下に出てみれば、どの病室からも何かに取り付かれたような老人たちが、ほとんど私的意味に埋没した表情で言葉もなく出てくる。
 私は老父の病室に戻り、改めて病院の入院案内をめくった。どうやらこの老人たちの大移動は、昼食のために3階の食堂へと向かう出来事だったのだ。それにしても何か無気味なものを見たという感じに捕らわれてしまったが、これは多分、病気を抱えた老人たちが、それでも問答無用に生きざるをえないという無言の欲望を、食欲というものによって露骨なまでの無垢な姿で見せていたということであったのだ。
 しばらくして先程の看護婦さんが、老父はレントゲン室から直接食堂へ行ったことを知らせにきてくれたけれど、その時に聞いた予定によると診察は午後からになるとの事であった。私は時間の都合で昼過ぎまで付き添っていられないことを伝えた。看護婦さんは別に付き添いがなくてもいいと言ってくれたので、私は家から持ってきた老父の食前と食後の薬の管理をお願いするとともに、老父のボケによって多少なりとも余計な手数を掛けることになるかもしれないという心苦しさを語った。看護婦さんは、たいして気にする様子もなく軽く笑っていた。
 私は帰り支度を整えて、老父に帰りの挨拶をするため食堂に向かった。食堂では、どうやら病院生活であまり楽しみがないと思わせる多くの老人たちが、正に無垢の欲望を剥き出しにして待ち兼ねた喜びへとせわしなくむしゃぶりついている。ところが老人ばかりではないはずなのに揃いの寝間着のせいなのか、どこを見ても同じような老人ばかりに見えるヒトビトの中に、なかなか老父の姿を探し出すことが出来ないのだ。
 食堂の入り口で茫然と立ち尽くす私に、気が付けばすぐ手前に座っている老人が手招きをしている。そういえばその人は老父と同室の患者さんなのだ。私が2〜3歩進むと、その人は食事をしている老人たちの頭越しにテーブルの反対側を指さしてくれた。その指先を辿っていくと老人たちに紛れ込んだ老父が、まるで周りに急き立てられるように、相変わらずの紅潮した顔で無心に日本そばをつついている。
 私はその患者さんに会釈を返してから、老父の後ろに回り込み、そっと肩をたたいて声をかけた。
 「おじいちゃん、僕は、時間がないので、そろそろ帰りますからね」
 「おお、あんたか。わしは、どうやって帰ったらええんじゃ?」
 相変わらず周囲の年寄りたちが目を見張るばかりの興奮状態なのだ。特に周りのおばあさんたちが、アングリと口を開けたままわれわれを見詰めている。
 「ん? 帰るときは、僕が迎えに来ますから心配しなくたっていいですよ」
 「うんにゃあ、そんなことは分かっとるよ。さっき寝とった部屋だよ。わしの部屋は、どこじゃったかな? すっかり分からなくなってしまったんじゃ。どうやって部屋に帰ったらええんじゃ」
 「2階の210号室ですよ。もしも分からなかったら、僕が同室の方に、連れていって頂けるようにお願いしといて上げますよ」
 「ほうか。じゃ、そうしとってくれ」
 老父は、そう言うと同時に興奮したままの勢いでそばをつつ始めていたから、私の帰りの挨拶にも虚ろだった。家では日本そばなど見向きもしなかったのだから、ひょっとすると興奮している老父は、自分で何を食べているのかさえ分かってはいなかったのかもしれない。そんな様子を見ていると、老父がこのままボケの妄想へと突き進んでしまうのではないかと心配になった。しかし昼までには戻ると言ってきた J さんの車を、このままいつまでも借りておくわけにもいかないので、私は先程の同室の患者さんに老父を頼んで病院を後にした。
 この病院は年寄りの多い病院とはいえボケ専門の病院ではないのだから、たとえ一ケ月余りのことでも、ボケを引きずった老父を預けっぱなしにしてしまうことに多少の不安が残った。それにしても夏の殺人未遂事件というあの大騒ぎから考えてみれば、こういう状態で老父が入院できるようになるということは想像もしていなかったのだ。
 とにかく私にとっては、老父から解放されるという安堵感の方が大きかったのだから、4ケ月前にはほとんど絶望的であったアルバイトが出来るという喜びと安心感が、私を東京へと駆り立てた。思えば、かつてこれほどアルバイトが待ち遠しく思われたことは無かったのだ。
 私は家に帰ってから大掃除を済ませ、翌日の22日(日)に東京へ発った。

 

 


 

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