31.隠されていた物語


 11月24日から始まるアルバイトは例年通りのお歳暮の宅配である。デポのメンバーは、前回の私の事情から推測しても今回の就業は諦めざるをえないと思っていたので、なんとか例年通りの戦力になれたことを大いに喜んでくれた。
 ところで東京に行って以来、兄やママさんとの話題は専ら老父がどこまで病院生活に我慢できるかということに集中したが、その話題は当然のように今後の生活環境の改善へと移行し、そのまま山荘購入の話へと展開していった。そんなわけで山荘購入の件も J さんに頼んでおくばかりではらちが明かないということになり、雑誌などを買い込んで情報収集に務めることになった。
 そんな情報源として『月刊リゾート物件情報』という雑誌に巡りあった。それによると北軽井沢にもわれわれの希望する条件に合致するめぼしい中古の物件がありそうなのだ。そこでこの物件についての詳しい情報を、この雑誌の出版社である「白馬ライフ」より取り寄せた。いろいろと検討してみた結果、どうやらその物件に一見の価値がありそうに思えたため、なんとか都合をつけて北軽井沢へ行ってみることになった。
 私としては、酷寒の地における老父の越冬を考えたときに、暖房の問題ひとつを取っても現在の家ではやはり様々な支障が起こりうると予想していたため、出来れば老父を退院させる予定の年内に新たな転居先を見付けられれば好都合だったのだ。
 それにしても北軽井沢に住んでいながら、わざわざ東京に出てきて北軽井沢の物件を探すというのもおかしな話であるが、これが情報の過疎地における現状というものなのだ。もっとも10年間も住んでいながら、私がこの北軽井沢のヒトビトにとって正体不明者であるということが、地元の情報すら満足に入手できない情況に置かれているということの証明になっていると考えてみれば、これはこれで当然のことかもしれない。
 アルバイトは始まっているとは言うもののまだ12月の初旬までは暇だから、今のうちなら一日くらい休んでも支障はなさそうに思われた。そこで12月1日、仕事が終わってから最終列車で北軽井沢に向かい、その晩は北軽井沢の自宅に泊まる予定で出掛けることにした。
 「白馬ライフ」の担当者に、物件の内部を見られるように現在の持主と管理事務所に連絡を取ってもらうように頼んだが、どうしても先方に連絡が取れないということで間に合わなかった。そこで担当者は、夜になって再度先方に連絡を取り、明朝改めて北軽井沢の自宅に電話を入れてくれるとのことであった。
 ところで長野原までの直通の最終列車である特急草津7号に間に合わなかったため、新幹線と普通列車を乗り継いで行くことになった。まず上野 19:22 発の新幹線で高崎20:15着。高崎 20:57 発の吾妻線普通列車で長野原 22:14 着。この時間では、すでに北軽井沢行きのバスが無いためタクシーに乗らなければならない。ところがタクシーは予約車のみで空の車は一台もないのだ。さらに突然の降雪により運行が遅れ、結局は10時40分までタクシー会社の待合室で待たされることになった。
 そんなわけで思わぬ降雪の後の冴々とした高原の夜空に凛々と輝く満月を望みながら、月明かりに白く浮かび上がる浅間に霊験なる美の厳しさを感じつつも、うっすらと雪化粧した北軽井沢に着いたのは11時であった。このぶんだと明日は好い天気になると思われた。タクシー代は4,470円。
 翌朝8時ちょうどに「白馬ライフ」の担当者からの電話で起こされる。結局、持主に連絡が取れなかったということ。ま、家屋の内部が見られないとしても、とにかくは物件の状態と環境を見ておかなければならない。早々に行動開始なのだ。
 すでに厚地のカーテンが高原の朝日にその欲望を空しくさせられている。私は勢いよくカーテンを開けた。すると目に飛び込んできたのは、なんと真冬の雪景色なのだ。雪は上がっているが、高原は見渡す限りの銀世界に変貌し、賑々しいほどの朝日に冬の到来が祝福されている。どうやら朝方になって、今度は本格的に雪が降ったようであるが、しかしこの時期に、こんなに雪が降るというのは珍しいことなのだ。
 水浴びと勤行、そして簡単な朝食を済ませ、9時50分にとりあえずの目的地であるパルコール村の“せせらぎの森"へ向かう。徒歩で約30分の行程。この高原にいま太陽を遮るものは何もないが、ただ時折吹き抜けていく風が真冬の地吹雪を思わせる。
 10時20分 予定通りに“せせらぎの森"に着く。ちらほらと永住の人もいるようであるが、それよりもこの狭い所に小さな山荘が密集しているのには驚かされた。これでは東京郊外の新興住宅地と変わらないのだ。地元にいながら普段出歩かない私は、この辺りの変貌ぶりを全く知らなかったのだ。
 目当ての物件は2件で、それらは道を隔てた区画に位置していたが、それなりにしっかりした建物であったけれど、なにせこの混雑ぶりには閉口させられた。しかも、初めの物件を見に行ったときには、たまたま背中合わせになっている山荘に人が来ていたが、どうら家の中からは家庭内暴力の現場を想像させるほどのヒステリックな罵声が上ったり、床を踏み鳴らす音がして何やら騒然たる様子なのだ。
 ところが、後になってこの声の主が外に出てきたのを垣間見たところ、すでに中年のおじさんなのだ。しかも罵声を浴びせ掛けている相手は、自分の子供とも思えるほどに年の離れた女性なのだ。それも子供の失敗を叱り付けているというようなものではなく、ただ単にわがままや無理難題を言ってひとり興奮しているだけなのだから、どうやらここにも悍しき発育不全者が暴力的に存在するというわけなのだ。
 こんな情況がこの高原の当たり前の姿とは思えないけれど、ここにたたずむ限りにおいて言うならば、現在私が住んでいる辺りはなんと閑静なところなのだろうか。そんな感慨が今回の下見に問答無用の回答を用意させることになったのは当然のことといえる。それは、一度家を買ってしまえば当然予想される老父の死後も引き続き私が住むことになるというわけで、残された私の隠遁生活が何よりも静寂を求めるものである以上、これを無視してまで早計な結論を出すわけにはいかないのだ。
 しっかりした家屋には多少の未練もあったけれど、こんな凄まじいばかりの勢いで開発されていく北軽井沢に少なからぬ幻滅を感じながら“せせらぎの森”を発ったのは11時ごろだった。
 途中で J さんの自宅の前を通り掛かったときに、テニスコートの奥に J さんの車が見えたので、ちょっと寄ってみる気になった。ところが J さんは不在で奥さんの H 子さんだけが在宅だった。東京に行っているはずの私が突然に現れて H 子さんはびっくりしていたが、何はともあれ久し振りに H 子さんと雑談の時間を持つことになった。そして、ここで思わぬ面白い話を聞くことになったのだ。
 それは去年の夏が終わるころに、しばしば町中で H 子さんと擦れ違うたびに「ねえ、とっても面白い話があるのよ。今度、時間があるときにね」というわけで、そのまま聞き損なっていた話なのだ。
 去年の夏、 SI さんのおばあさんが、今年は9月の8日ごろまで滞在する予定だと張り切って言っていたのに、何故か8月の中頃にそそくさと帰ってしまったことの原因が、実は老父に付きまとわれて閉口してのことだったというのだ。
 老父が毎日のように現れて SI さんの山荘に上がり込み、初めのうちはボケた年寄りのたあいの無いお遊び程度のこととして、「ちょっと手を握らせて頂いてもよろしいですか」と言っていたものが、次第に性的な欲求へとエスカレートしていく気配だったというのだ。それ以来 SI さんは玄関に鍵をかけて居留守を使ったりしていたようであるが、それでも毎日のように訪れて、時には家の周りを徘徊することも珍しくなかったそうなのだ。
 しかも老父が SI さんの家へ日参していたのは、どうやら私が寝ている午前中のことであったらしく、私は全く気が付かなかったのだ。それにしても SI さんには、もっぱら一人暮らしの隠遁生活をおくっている私が、突然に老父を引き取ることになっているという事情にも某かの察しが付いていただろうし、おまけに私の生活習慣はすでに承知のことだったのだから、私に気兼ねして直接に善処を求めることをためらっていたのだ。
 そこで SI さんは、ご家族はもとより近所の知人に相談して回っていたのだから、この事情を知らなかったのは私だけだったのだ。しかし SI さんのこの切実な思いも、部外者にとっては滑稽なボケ話にすぎないというわけで、はかばかしい解決策も見い出せないまま SI さんひとりが気味の悪い思いをさせられて、結局はいたたまれなくなって帰ってしまったというわけなのだ。
 しかし今になって振り返ってみると、当時何を言っているのか分からなかった老父の言葉が、隠されていた物語を説き明かすものとして納得されるのだ。
 たとえば、クッションにあごを乗せてぼんやりと外を眺めていると、何か思いあぐねた様子でしかも親しげな思いを込めてつぶやいていたことがある。
 「あの SI さん言うのは、ああやってひとりでおるんじゃろうが、寂しくないんじゃろうか? あれも気の強いニンゲなんじゃなあ…」
 そうかと思うと、唐突に後ろめたそうな表情で「あんた、 SI さんが何んか言うとったか?」なんて言い出したりしていたのだ。
 しかし、私はいつもの気のない返事で「 SI さんは、静かなところが好きなんじゃないの」とか「別に…」というわけで、ほとんど取り合わなかったのだ。
 あるいは、ひとり納得しながら「あの SI さんいうのは、決して美人じゃないけど、あれで憎めない顔しとるよなあ…」
 そこで私が「美人じゃないなんて、本人が聞いたら怒るよ」とペナルティを課したが、老父は「ヒヒヒ」と満更でもない顔で悦に入っていた。ひょっとするとそれが憎からず思うという意志表示であったとすれば、まぎれもないラブコールであったのだ。
 さらに私は、老父が何かやけ気味にしかも憎々しげに語っていた言葉があったのに、その深意を詮索することもなく、どうせボケによる情緒不安定と決め付けてしまっていたのだから、より明確に隠されている物語を解き明かす手掛かりになっていたものまでも見落としてしまっていたのだ。
 「このあいだは、あの人が帰るときに、そこで大きな声をして、わざとわしに聞こえるように、コヤさんは息子さんは好い人なのに、どうもあのお父さんが悪いんじゃなんて言うとったからな。あの SI さんは、わしのことを嫌っとるんじゃ」
 「何を言ってんの? なんで SI さんが、わざわざうちの前まできて、此見よがしにそんなことを言うの? そんなことを言う理由が無いじゃないか。また、夢でも見たんじゃないの?」
 「うんにゃあ、夢じゃない。わざわざわしに聞こえるように言いに来たんじゃ」
 「どうしてさ、それともおじいちゃんが、何か、そんなことを言われるようなことでもしたのかい?」
 「うんにゃあ、そんなことはない…」
 この時の会話はこれで終わってしまった。
 ところが11月の始めごろの夜中に、 SI さんの F 君が、山荘の冬支度のために来たときに、めずらしくうちに寄ってお茶を飲んでいった。そう、正に今考えてみれば午前0時ごろのことだから不自然と言えば不自然だし、おまけに「どお、ちょっと上がっていかない?」と声を掛けられるのを期待していたようでもあったのだ。しかし彼は、そんな気配とは裏腹に何か自分から語りかける話題があったわけでもなく、ただ私が面白おかしく話す老父のボケ話を興味深げに聞いていただけなのだ。
 そんな老父のボケ話も、結局は近いうちに生活の改善のために引っ越しをする予定であるという私の計画を語ることで終わったのであるが、それは老父との共生における私の決意表明でもあったのだ。
 「まあ、それにしても、あの調子だと、うちの親父はまだまだ10年ぐらいは生き続けるような気がしますよ。そんなわけで、これからはかなり根性を据えて面倒を見る覚悟をしておかないとね」
 私の言葉に、困惑の様子で F 君がつぶやいた。
 「あと10年ですか…」
 そういえば彼のこの言葉が、やけに気に掛かったことを思い出した。
 ところが、こんな話をしている最中に、寝ていた老父がトイレで起き上がり、 F 君と顔を合わせることになった。老父に SI さんの次男であることを紹介したが、翌日になって老父がこんなことを言っていた。
 「きにょうは、夜遅くに、 SI さんとこの息子が来とったようじゃが、あれは、わしの様子を調べに来たんじゃないのか?」
 「どうして、彼が、おじいちゃんの様子を調べに来るの?」
 「ん、わしが、いつまでここにおる気か調べに来たんだ」
 「だから、どうしてさ。おじいちゃんが居ようと居まいと、 SI さんには関係ないじゃないか? 彼は、山荘の冬支度で来たんですよ。水道管や湯沸かし器の水抜きとか、いろいろあるんじゃないの…」
 「ほうか、ふむ…。ほんなら、ええんじゃ」
 そんなわけでいま思い返してみれば、これらの老父の様々な気掛かりは全く当然のこととして理解されるのだ。それにしても老父は、私が本当に何もしらないと思っていたのか、それとも私が老父の思惑を否定すればするほどいつもの猜疑心が働いて、 SI さんを自分から遠ざけたのは私の差し金であるとでも思っていたのではなかったのか?
 ところで私は、 H 子さんにこの話を聞いてどんな気がするかと尋ねられたが、老父が自分の父親のお妾さんと20年近くの夫婦生活をして、あげくにその人を母親がわりに仕立て上げてあらたな嫁と同居できるという人格を思えば、老父の色ボケを忘れていたことのほうが不自然であることを語った。しかし H 子さんのこの質問がいかなる意図でなされたのかは知る由もない。とにかく私は老父の色ボケについては全くの無防備だったのだ。
 それにしても、当然有って当たり前といいうる老父のイロボケの話は、私だけが知らなかったことになるが、後日、 SA さんのご夫婦とこの話が出たときにご主人がこんなことを言われた。
 「コヤさん、それは色ボケというよりも、老人の人恋しさというものじゃないでしょうか。むしろ非常に浄化された愛情みたいなものだと思いますよ」
 誠に心優しい解説ではあったけれど、私は老父に関して言う限り、どんなにボケても最後の最後までいたって現実的な欲望者であり続けるであろうと確信していたのだから、思わずこんな話を語ってしまった。
 「あの、実は、僕の友人の話なんですが、彼の父親がかなり高齢でしかもパーキンソン氏病なんです。ところが、このお父さんがどうやらイロボケているらしいんでよ。病院に入っていると、看護婦さんにちょっかいを出してしょうがないんだそうです。それも看護婦さんが回診に来るたびに、ベッドからスルリと手を出して看護婦さんのお尻を撫で回すんだそうです」
 「ハハハ、それは、まるで外国のコミック誌に出ているひとこまマンガみたいですね。それは傑作だ」
 「どうやらこれが日課になっているらしくて、いくら言っても止めないんだそうです。友人は、看護婦さんに申し訳けなくて顔が合わせられないなんて言ってましたけど、この話は恥とか外聞なんてものを感じさせないだけ余計に滑稽ですよね。多分、親父の場合も、自分の欲望という点に関してはもともと純粋な人ですから、友人のお父さん同様にボケて世間体ってものが歯止めにならなくなっているんだと思うんですよ」
 そんなわけで、私は山荘購入の件については思わしい結果が得られなかったけれど、それよりも老父の知りえなかった一面を知ることができたというわけで、何的反省論においては貴重な旅行となった。
 帰宅したときはすでに12時になっていた。慌ただしく東京への出発準備を済ませて家を出る。 J さんに会えなかったので、今度はホテルの方に立ち寄った。ここで、 J さんより金融機関関係の物件に出物がありそうだという話を聞く。かなり期待のできるルートだというので、その方法についてもお願いをして帰ることになった。
 ホテルを出たのは12時50分であったが、長野原の役場に寄る予定があったので、バスで行っては帰りの列車に間に合わなくなるためタクシーを利用することにした。しかし、空きのタクシーがなくて1時20分までバスターミナルで待たされてしまった。
 1時45分に町役場に着き、用事を済ませた後に長野原駅までは歩くことにした。しかし、北軽井沢からのタクシー代が3,910円であったから、今回の旅行が急ぎとはいえ滅法足代のかさむものになってしまった。正に情報を稼ぐということは大変なことなのだ。
 2時過ぎに長野原駅に着く。その後の老父の状態が気に掛かったので駅から二之沢草津病院に電話をかけた。老父は結構落ち着いた様子で、しかも話の内容も十分に理解できるので、なんとか病院生活に順応しているように思われた。
 「ノリヨシです。具合はいかがですか?」
 「ああ、あんたか。べつに変わったことはない。何か用か?」
 「別に特別な用事は無いんです。いま、病院のそばの長野原駅まで来てるもんですから、ちょっと様子を聞こうと思って電話してみたんです。どうですか?」
 「ああ、べつに変わったことはない」
 「僕はね、これから東京へ帰るところなんですけど、ちょっと時間があったので電話したんです。実はね、前にもちょっと話をしたことなんですけどね、どこかに好い家があったら引っ越そうって言ってたでしょ? それでね、いま住んでる北軽井沢の家のそばにね、手頃な物件があると言うので、東京から見に来たんですよ」
 「ほうか。それでどうだったんじゃ?」
 「うん。建物はね、しっかりしてるんだけどね、どうも環境があまり良くないんですよ。特に背中合わせで立っている家に、ちょっと変な人がいるんですよ。なんですか、わけもなく大声を出して騒いでいるんですよ。ひょっとすると、この家が売りにでているというのも、こんなことが影響してるのかも知れませんね。そんなわけでね、これは諦めたんですが、 J さんの方に、よさそうな物件があると言うので、その方を探して貰うように頼んできたんですよ」
 「ほうで、それは残念じゃったな」
 「ところで、何かいるものがありますか? 欲しいものがあったら言ってください。宅急便で送りますよ」
 「いや、いまは何もない」
 「それじゃ、僕は帰ります。何か用事があったら東京の方へ電話してください」
 老父の応対は何か素っ気無いものだったけれど、電話をして里心を起こさしてもいけないかと思っていたから、その素っ気無さがかえって安心材料になった。
 しかし、その素っ気無さが何かを思い込んでいるときの症状であれば、これは不安材料に外ならないのであるが、この際そんな一切の不安はことごとく病院にお任せということにして、私は14:57発の草津6号で東京へ向かった。




32.長居は無用じゃ


 12月6日(日) 午前9時、私がちょうどアルバイトに出掛けようとするところへ老父より電話あった。始めに電話を受けたママさんは「おじいちゃんからなんですけど、何を言っているのか分からないんです」と言っていた。
 さっそく電話を代わったが、ママさんが言うように、なんだか要領を得ないのだ。
 「わしは、何もかも分からなくなってしまって…。
 そう言うたら、先生が、ここへ電話をしてみい、言うもんじゃから、ほれで電話してみたんじゃが…。わたしは、どうなっているんでしょうか?」
 「おじいちゃん、どうかしたんですか?」
 「ああ、病院の先生が、ここへ電話してみいと、言うもんじゃから…」
 「んん? 先生に言われて電話してるんですか?」
 「ああ」
 「それで、どこから電話してるんですか?」
 「どこ言うて…、ここは病院じゃないのか?」
 「ん、病院ならいんですよ。それじゃ、事務所からなんですね?」
 「ああ、そうなんだ。そうなんじゃが、わしは、何もかも分からなくなってしまったもんじゃから、先生にどうしたらええんでしょうかと言うたら、ここえ電話してみい、言われたんじゃ。わしは、どうしてここにおるんでしょうか?」
 「ああ、そうか。僕は、息子のノリヨシですよ。僕がね、おじいちゃんをその病院へ入れてあげたんですよ。分かりますか?」
 「はあ、ほうですか…」
 「いいですか、僕は今、仕事で東京へ来ているけれど、この仕事が終わったら、すぐにおじいちゃんを迎えに行きますからね。もう少し待っててください。月末の28日には迎えに行きますよ」
 「ああ…、ほうすると、あんたがわしの息子なんですね。それで、あなたに、この病院へ入れてもらったわけなんですね」
 「そうですよ。おじいちゃんが電話しているここは、東京なんですよ。僕の仕事が終わったら、すぐに迎えに行きますからね」
 「すると、迎えが来るまでここにおればええんですね」という調子なのだ。
 どうやらここで老父がしきりに先生と言っていたのは事務局の職員であるようなのだ。多分病院でも老父の対応に苦慮して緊急の連絡先である東京の電話番号を教えたものと思われる。
 それから午後1時過ぎになって、再び老父より電話があったそうであるが、そのときは正気に帰っていたという。そしてそれは朝の電話で余計な心配をかけたことの断りの電話であったというのだ。
 12月10日 老父より東京の家へ私宛の手紙が来る。手紙は12月7日の日付。文字はかなりヨレヨレであるが、なんとか読めるといった状態のもの。だたし、「二之沢草津病院」という部分は看護婦さんにでも書いて貰ったのか、ここだけがしっかりした別人の文字になっていた。
 「拝啓 過日は大変御心(配)お掛けしてすみませんでした。此度 元気になりつつ食物もおいしくなって来て居ります。今の気持ちは一日も早く帰って来て下さる事を望んで居ります。やっと字も少々は書ける様になったらしいです。皆々様によろしく」
 それにしても、しばらく文字など書くことのなかった老父にしては、たいした出来栄えであると思えた。
 12月14日 兄は老父の見舞いを兼ねて入院費用の月末決済分の支払いのため、日帰りで草津へ出掛けた。兄にしては始めての電車利用であるが、最近の寝不足を考えてみれば当然のことといえる。老父は相変わらずのグズグズを言っているようであったが、なんとか予定日まで持ちこたえられそうに感じられたという。しかし、せっかく見舞いに来るのなら子供たちを連れて来ればよかったのにと不満を語っていたというのだ。
 ところで兄が病院に着いたときに、老父はちょうど温泉から上がってきたところだったようであるが、「誰かと思ったら、あんたか…」というようなわけで、用事もないのに何しに来たのかと言わんばかりの素っ気なさだったというのだ。
 あるいは、しきりに「ノリヨシの奴は、わしから家賃を取るというのだから、とんでもない奴だ。あれは、こすいからなあ…。気を許しとったら、何をされるか分からない」と言いつつも、突然「ノリヨシはよく面倒を見てくれるんじゃ」と言って感謝していたというのだから、相変わらず好い奴としてのノリヨシと悪い奴としてのノリヨシが別人として存在していることになるのだ。
 その後、12月22日に再び老父からの手紙が届いた。前回と同様にヨレヨレの字ではあるが、今回は病院の住所が老父の字で正確に書かれている。前回は私宛であったが、今回は兄の名前で届いた。ふたりの息子の名前が分かっているのだから、どうやら冷静さを取り戻しているらしい。
 「拝啓 先日はわざわざお越し下さった(の)に失礼致しました。其時お願ひ致そうと思って居ましたに忘れてしまいました(ところの)女子医大の皮ふのくすり(を)又お願ひ下さい。お願い致します。?? 皆様によろしくお伝え下さいませ   十二月十九日  少しづづ字も書けるようになりました」
 老父が希望していたこの皮膚病の薬は、退院も間近なので、私が北軽井沢へ帰るときに持っていくことなった。
 12月27日(日) 計算によれば予定した収入よりは一割ほど少なかったけれど、なんとかお歳暮宅配のアルバイトは無事に終わった。肉体的にはかなりきつい仕事でも、私にとっては解放感を満喫できた東京暮らしであったから、気の重い明日からの老父との共生を考えてみても、なんとか次の目標まで辿り着ける英気は十分に養えたことになる。
 ここで言うところの次なる目標とは、例年通りなら3月中旬には家業の手伝いで再び東京へ出なければならないという予定のことなのだ。無論、この計画が無事に実行されるためには、またしても老父の処遇という難問が解決されなければならないけれど、ま、それは帰ってからのこととして、何はともあれ老父に負けない元気を身に纏い北軽井沢へ向かうことになった。
 ところで、老父の越冬準備として食堂に置くためのストーブやこたつマットなどを新たに購入したり、近所の友人からパソコンを一式借りたりして、かなりかさ張る荷物が出来てしまったため、帰りは兄に車で送ってもらうことになった。もっともこれは老父を草津まで迎えに行くという大仕事をも考慮してのことだったのだ。
 われわれは夕方に家を出たが、私は途中でデパートのデポに寄って給料を受け取り、次に上野の松坂屋に寄って老父の退院の際に同室の患者さんたちに送る挨拶の品と、 J さんへのお歳暮、さらには老父のためのおせち料理などを買うことにした。
 デパートは年末で大変な混雑ではあったけれど、なぜかおせち料理を見付けるのに難儀した。そこでお総菜売り場の人に聞いてみると、なんとおせち料理の売り出しは明日の28日からだというのだ。しかし、わざわざ予約して北軽井沢まで送ってもらうほどのこともないので、おせち料理の見本として置いてあった折り詰めを買って済ませることにした。われわれが松坂屋での買い物を済ませようやくの思いで北軽井沢に向かったのは、だいたい午後6時ごろであった。
 積雪が心配された二度上峠にもほとんど雪がなかったため、われわれは予想通りの時間で順調に走り9時半過ぎには北軽井沢に到着できた。しかし荷物が多かったため、なるべく家の近くまで車を入れようということで牧草地へ回る凍結した雪の道に侵入したが、結局は途中で立ち往生してチェーンを取り付ける羽目になってしまったから、 SI さんの山荘裏に乗り付けて全部の荷物を運び終えるまでには、それからまた小1時間を要した。
 翌 28日(月)午前9時、北軽井沢の自宅より二之沢草津病院に電話を入れ、老父の退院の手続きを頼んだ。ところがなぜか、女子事務員は戸惑った様子で「あれ、今日ですか?」なんて言っている。
 「ええ、入院をお願いしたときから、12月の28日に退院ということでお話しをしてあったんですが」
 それでも何故か先方は怪訝な様子であったけれど、何はともあれ入院費の精算をしてもらうように頼んで電話を切った。
 われわれは10時前に病院に到着し、さっそく同室の患者さんたちに退院の挨拶を済ませ、ナースセンターにも挨拶に出掛けた。しかしナースセンターには看護婦さんがひとりしかいなかったけれど、何か素っ気ない無愛想な感じだった。とにかく11時までには会計も済ませて退院できることになった。
 私は病室を出るときに老父に声をかけた。
 「おじいちゃん、忘れ物はありませんか?」
 「ああ、忘れ物なんかあるもんか。こんなところに長居は無用じゃ」
 老父はすでに「帰る」という目的だけの人になってしまっているようで、同室の患者さんたちにさえろくな挨拶もしないで廊下へと出た。私は老父のそんなぶしつけな態度を取り繕いかねて、なんともばつの悪い笑いで一礼して病室をあとにした。
 ところが事務局の前を通り掛かったところで看護婦さんに呼び止められた。担当医師から話があるというのだ。私は老父の荷物を兄に渡し、老父と先に車まで行って貰うように頼んだ。ほんの数分待たされて診察室に入るなり、医師の後ろに立っていた狐顔の看護婦に金切り声で怒鳴られた。
 「コヤさんは、誰が、退院の許可を出したんですか!! 先生は認めていませんよ。どういうことなんですか? 説明してください!!」
 このヒステリックにして高慢な、つまりは無礼千万な対応に驚かされたが、事情の分からぬ私はいたって率直に対応した。
 「ええ!? 何んですか?」
 すると、今度は若い大柄な医師が、自分の出番だとばかり口を開いた。
 「コヤさんは、まだ治療の途中ですから、私は退院の許可を出していません。どういうことですか?」
 「と、言いますと、それは、どういう意味ですか?」 
 「なぜ、急に退院させるのかということです」
 「なぜって、11月に入院をお願いしたときから、12月28日に退院の予定ということになっていたんですよ。だいいち、どこかが悪くて入院したんじゃなくて、僕が親父と二人暮らしなもんですから、僕が東京に行っている間だけ、面倒を見て頂いただけなんですよ」
 「ああっ、そうすると、事務局のほうでは分かっていることだったんですね」
 「そうですよ。それは、一番始めにお願いしたときから、そういうことになっていたんですよ」
 「そうですか。それでは、当方の連絡ミスです。それでは結構です。
 いや、コヤさんは、整形の先生が診ていたもんですからね…。それでまだ、その先生が退院許可を出していなかったもんですから。そういうことであれば、外には、別にどうということも有りませんから、退院して頂いて結構です」
 どうやらここでは治療よりも事前の約束が先行していることになる。では、この看護婦さんがあれほどのけんまくで言い立てていた退院許可とはどれほどの意味があるのか。それほど退院させられない病状ならば、われわれの家庭の事情など二の次にされてしかるべきなのだ。どうやら、ただ怒鳴られて突き放されてしまっただけのようであった。
 とにかく私は腹を立てる以前に、この不可解な病院の対応に戸惑うばかりだったのだ。しかしこの不可解さは、老父が病室を出るときに吐き捨てた言葉と何かが対応しているようにも感じられたのだ。
 「そうですか、それで、何か、特別に注意することはないんですか?」
 「有りません」
 しかし、どう考えてみても注意事項が何もないはずはないのだ。改めて言うまでもなく、それではあの退院許可が出せないほどの病気はどこへ行ってしまったのか?
 ま、そんなことを言い立ててみても、どうせ詰まらぬ思いをするだけではあるけれど、私は、老父が1ケ月余りの入院生活でかなりやつれたと感じられたことが気に掛かったのだ。
 「実は、以前から東京女子医大で診て頂いているんですが、血液検査によると癌の可能性があると言われているんですが、その心配は有りませんか?」
 「大丈夫です。心配はいりません」
 そんなわけで、どこかをつつけば、どうせ病気のひとつやふたつには突き当たる老人の体を巡り、入院治療とは何ぞやと問い正してみても、結局は病院の経営事情が先行するのか、患者の家庭の事情が先行するのか、それとも純粋に治療が先行するはずであるのかについてさえ、明確な回答など出してもしょうがない老人医療の曖昧さを露呈してしまうだけのことだから、語れば語るほど互いの矛盾が見えてしまうというわけで、ただ看護婦や医師と不愉快な会話をしてしまったことが残念に思われた。
 それにしても、これがこの病院の体質に由来することであれば、私はこのいい加減とも言える体質に便乗してこそ養老院代わりに利用させて頂いたに過ぎないのではあるけれど、しかし入院疲れとはおかしな表現になるが、やはりやつれた感じのする老父を見れば、38日間の入院生活に何か釈然としないものを感じないわけにはいかなかった。
 そして、その釈然としない思いのひとつとは、3月に予定している計画に再びこの病院を利用しようという勝手な思惑が、今日の気まずい出来事により実行しにくくなってしまったということでもあるのだ。
 私は、はからずしも心残りを引きずって帰途につくことになったが、この日は高原の12月とは思えぬほどに暖かく穏やかな天気であったから、正に晴れて退院の老父は天気ともども至って上機嫌であった。
 「暮れが来るというのに、だんだん雪が少なくなっていくんだから、驚いたもんじゃ。わしは、雪が降り始めて、これから寒くなったらいやじゃなあと思っとったもんじゃから、本当に助かるよ」
 そして「これから、わしは、どこへ帰るんじゃ?」
 「いやだなあ、北軽井沢ですよ。僕の仕事が終わったら迎えにくるよって言っていたじゃないですか」
 「ほうか。わしは、本当は、あんたとこには帰りたくないんじゃがなあ…」
 そんな老父の思いは、快適に草津道路を下る車の勢いとポカポカ陽気によってなし崩しにされていった。それにしても雪を被った浅間の雄大さと広大な高原の眺めには、ウジウジした想念など似合うはずはないのだ。
 家に着く前に北軽井沢のスーパーによって正月用の食品を買い込み、続いて郵便局に回って老父の老齢福祉年金を受け取った。そして今度は、昨日車を入れるのに苦労した牧草地側の道を避けて、途中までしか行けないことは覚悟の上で崩壊した道の方に乗り入れた。この道も予想以上の積雪があったけれど、三人乗っているという車の重量に任せてかなりの奥まで侵入することが出来た。
 三人で軽い昼食を済ませた後に、兄は老父に家賃の一部として言い訳程度ではあるけれど3万円ほどの現金を渡し、「また、余裕があったら、なるべくたくさん送るようにしますからね」と言って、東京へと帰ることになった。
 さて、老父は玄関の外まで兄を送りに出たが、私は車のところまで送りに行った。先程から、われわれは車を奥まで入れすぎてしまったのではないかという不安を抱いていたのであるが、残念ながらこの不安が現実のものになってしまった。
 軽くなった車はスリップばかりしていかようにも身動きがならないのだ。そんな様子を遠くから見ていた老父が何やら叫んでいたが、われわれには全く聞こえない。私は、来なくてもいいという合図を手で示し再び車を押し始めた。車はスリップしながら右に左に移動はするものの、なかなか真っすぐ後退してくれない。ひと休みして振り向くと、今度は老父が何か長い板を持ちフラフラしながら崩壊した雪道を下ってくるのだ。
 家を出るときに、私は草履で外へ出ようとする老父に、雪があるから靴に履き代えるように進言したのであったが、老父はいつものように意固地になってそのまま外に出てしまったのだから、多分草履でベチャベチャの雪の上を歩いているはずなのだ。
 「おじいちゃん、足元が悪いから、来なくていいですよ!!」
 私は大声で叫んだが、老父には聞こえないようなのだ。老父のほうでも何やら叫んでいるが、やはりわれわれには聞こえない。多分、老父の言わんとするところは、手に持っている板を車の下に敷けということであろうと想像はできるが、老父が持っている程度の板では、到底車の横滑りは防げないと思われた。
 そんなわけでわれわれは老父の板にこだわるよりも、チェーンを巻くかどうしようかと思案しつつ、それでも手抜きしうる可能性に望みを掛けて再び車との格闘を始めた。しばらくして振り返ると、老父は陥没した道の底に先程の板を抱えたままたたずんでいた。何度目かの機会に、車は露出している土に足掛かりを得てかなりの距離を稼いだが、それでもまだこの難所を脱出するまでには至らなかった。しかし、その位置からでは、老父の姿が見えないため、われわれは老父に気を取られることもなくそのまま作業を続けた。次第に雪道での車の操作に慣れてきた兄は、どうやらチェーンなしで脱出できるところまで漕ぎ着けた。結局、兄が無事に帰途につくまでに20分余りもかかってしまったが、私が道の陥没したところまで戻った時には、すでに老父の姿はなかった。
 私が家に着くと、老父が待ってましたとばかり話し掛けてきた。
 「いやあ、わしは、あっこで3度も倒れてしまって…。えらい、難儀したんじゃ」
 「ええっ、転んだんですか?」
 「ああ、あんたらが苦労しとるようだからと思って、よさそうな材木を、あっこで拾って、持っていってやろうとしたんじゃが…」
 「やっぱり靴に履き替えておけば良かったでしょう。で、どこか打ったり、怪我は無かったんですか?」
 「いや、どこも傷めたりはしなかった。けど、3度も倒れたりしたもんじゃから、もうあそこを登る元気がなくなって…。いやあ、長いこと病院で寝とったもんじゃから、すっかり足が弱くなってしまったんだなあ。明日から、少しその辺を回って、足を鍛えにゃいかんな」
 「そうね、無理をしないで、少しづつやったら良いんじゃないの」
 「ところで、あっこからは、左の方へ出られるんじゃな。車が左の方へ曲がって見えなくなったもんじゃから、ああ、車は横道の方へ出しよったんじゃなと思って、それで帰ってきたんじゃ。やっぱり、あっこには、左の方にでも出る近道があるのか?」
 「ん? 坂を登ってすぐのところには、今は車の出られる道はありませんよ」
 「ほうか、でも、左の方へ曲がって行ったじゃないか?」
 「いや、車がスリップして左の方へ移動しただけですよ。結局は、バックのまま押していって、入って来た道をそのまま戻って出したんですよ」
 「ほうか、わしはまた、横道へ行ったもんだとばかり思っとったよ」
 そんなわけで思わぬ運動をしてしまった老父は、疲れとともに病院から引きずっていた緊張感も解けたのか、さっそくうたた寝に入ってしまった。




33.食欲のない正月


 兄が東京へ戻ってからは、また老父との二人だけの共生が始まったわけであるが、こたつの下に新しいマットを敷き、老父の背もたれ用に大きなクッションが入り、食堂に新しいストーブを置き、部屋の隅にはパソコンが置かれているというわけで、部屋の様子がちょっと変わったためか、それともまだ老父が病院の生活リズムを引きずっているためか、私は、老父の存在感になんとなくしっくりいっていないものを感じていた。
 それは老父にとっても同じことで、病院なんかにいつまでも居る気はないものの、さりとて不自由な山小屋なんかに居る気もないのだから、多分そんな老父の居心地の悪さを私が感じ取っていたにすぎないのかもしれない。
 昼食は間に合わせの支度しか出来なかったので、夕食には老父の好物であるおでんを用意したが、何故か老父に食欲はなかった。しかも、老父が得意になって食べていた<たか菜>のお新香を刻み、いつものようにレタスも刻んで出してあげたけれど、あまり食べようとはしなかった。いや、むしろレタスを食べあぐねているようにさえ見られた。
 「これには、何かかけるんじゃったかな?」
 「あれれ、食べ方を忘れちゃったんですか? レタスは、そのお新香と混ぜて食べていたじゃないですか」
 「ほうか? そうじゃったかなあ…」
 気のない返事をするばかりで、それでも混ぜて食べようとはしなかった。
 思い通りの食事が出来なかったことが原因なのか、食後になって、さっそく老父のとめどないグズグズが始まった。
 「わしは、本当は、ここへ帰ってくるつもりはなかったんじゃ。だけど、あんたらが、二人で迎えに来てくれて、気持ち良く退院させてくれたし、おまけに何もかも手筈を整えてやってくれたもんじゃから、わしは、まあ、しばらくは我慢するかという気持ちになっておったんじゃ」
 さらには「しかしどう考えてみても、親から家賃を取るというのは納得でけないんじゃ。だいたい、あんたのすることは、ちょっと、親子の間ですることとは考えられないんだよ。親子というもんは、そんなもんじゃないよ。まあ、あんたは、早くから家を出て、親子の愛情というものを知らんから、そんなことが出来るんじゃろうが、親子というもんは、そんな水臭いもんじゃあないよ。
 とにかく、わしは、あんたが何んと言おうと、金を出す気はない。もしも、それがいやなら、わしは、あんたとこで、世話になるつもりはない。それだけは、よく覚えとってください。
 もしも、きょう、わしが言うたことで、あんたの気に触ったり、腹が立つようなことがあれば遠慮はいらない。言うてください。わしは、すぐにでも自分の家に帰るからな」
 いつものように老父から私が貰っている金が食費にすぎないことを説明しても、すでに妄想の人である老父は聞く耳を持たなかった。
 「まあ、おじいちゃんが、一銭の金も出したくないというなら、それでも結構です。おじいちゃんのしたいようにして下さい。いいですか、ただしね、これからは僕の賄える範囲でやっていくしかありませんから、これからは、僕がしてあげることには一切文句を言わないで頂きたい。いいですね!!」
 「なんだ!! おまえは、わしに喧嘩を売る気なのか?」
 「おじいちゃんに喧嘩なんか売りませんよ。まして、おじいちゃんから喧嘩買ってたんじゃ高くついてしょうがないですよ」
 「なんだ、その言い草は!! わしは、何も、あんたを怒らせるために言うとるわけじゃないんだ。きょうは穏やかに、わしの気持ちを言うとるだけなのに、おまえがそういう気なら、わしにも覚悟はあるぞ。いいか、わしは、もうあんたの世話になんかならんからな。すぐにでも帰らせてもらう」
 「ああ、勝手にしてください。ただしね、これだけは言っておきますよ。おじいちゃんには何遍説明しても、自分の置かれている情況が分からないようだから、もう一度説明しておきますよ。いいですか、東京の家と土地が、おじいちゃんの物であることは誰もが承知していることですがね、そんなこととは関係なしに、いま兄貴のところでは、寝たきりのおばあちゃんの世話で手がいっぱいで、おじいちゃんの面倒までは診られないと言っているんですよ。だから、まだまだ元気なおじいちゃんは、もうしばらくここで我慢するしかないんですよ」
 「うんにゃあ、それはあんたらの勝手な理屈だ。わしは、自分の家に帰るというとるんだから、あんたにとやかく言われる理由はない」
 それでも老父はまだグズグズ言っていたが、私が老父の相手を切り上げてしまった。
 それから間もなくして風呂が沸き、老父はまだ欝々としていたが、そのまま風呂に入った。ところが15分ほどして、風呂場で何かを倒したような大きな音がした。それと同時に何やら老父が騒いでいる。私は、急いで風呂場に飛び込んだ。
 「どうしたの?」
 「おお、助けてくれ!!」
 老父は、裸のまま洗濯機を腹の上に抱えて仰向けに倒れていた。
 「どこか、打たなかった?」
 私は、老父の頭を抱えて少し起こした。
 「ああ、頭は大丈夫だ。それより、これじゃ…」
 私は、倒れている洗濯機を元に戻しながら聞いた。
 「本当に大丈夫ですか?」
 「ああ、どこも打ちはしなかったが、ちょっとフラづいたら、そのまま倒れてしまった。なんだか、すっかり足が弱くなって…」
 老父を抱えて風呂から出したが、聞くところによると、体を拭いているときにフラフラっとして、たまたま洗濯機の端につかまったら、そのまま洗濯機ごと倒れてしまったというのだ。それにしても洗濯機を抱えていたので、それほど急激に倒れずにすんだということかもしれない。
 「もう出るところだったんですか? いつもよりずいぶん早いんじゃないの?」
 「ああ、きょうは、まだ体がはっきりせんから、ざっと浸かっただけじゃ」
 もともと長湯の老父してはちょっと変だとは思ったけれど、病院で毎日入っていたという温泉の感覚だったのかも知れない。
 思わぬ出来事があったためか、老父は、先程までの欝々とした不機嫌を忘れていた。そして湯上がりの頭の汗を拭きながらしきりと感心している。
 「あの草津の温泉いうのは良く効くんじゃなあ。ほれ、あんた、ちょっと見てみい、これ、なあ?」
 「ん? ああ、頭の湿疹ですね。奇麗になったじゃないですか」
 「ああ。いままで塗っとった薬がなくなってしまったもんじゃから、なんの気なしに温泉で洗ってみたんじゃが、そうしたら、ほれ、いつの間にかこんなに奇麗になってしまって、なあ。あの温泉はええんじゃなあ…。あんなに効くと分かっとったら、わしは、もっと早くから使うんじゃったよ、惜しいことをしたと思っとるんじゃ。早くから使っとけば、もう今頃はすっかり治っとったのにな」
 「うん、草津の湯は、特に皮膚病に好いんじゃないのかな…」
 何はともあれ3月の計画がある以上、老父に草津温泉への興味を持ってもらうことは好ましいことであったのだ。
 翌 29日、老父は、朝のうちに散歩に行ってきたんだと得意になっていた。
 ところが、昼食の途中で気分が悪いと言い出し、そのまま箸を置いてしまった。しばらくコタツに入っていたが、その後になってトイレに行っても便秘をしているらしく、なかなか気分が良くならないようだった。
 狭いコタツを嫌ってベッドに入ったが、それから間もなくゲェーゲェーと吐き始めた。そのまま夜まで何回となく吐き続けた。何が原因なのか不明。食欲もなく、たいして食べてもいないのに便秘をしたりおう吐したりで、どうやら生活のリズム変わってしまったのか、なんとなく入院疲れという感じを引きずっていた。
 12月30日 老父に頼まれてカンチョウ剤を買ってくる。今までのように食費を貰っていれば、以前と同様に老父の細々とした買い物は全部私が負担するのであるが、今回からは、すべて本人に払ってもらうことにした。
 カンチョウをして気分が楽になってから、しばらくコタツでうたた寝をしていたが、カンチョウで排便しきらなかったものがあったらしく、老父は下痢のような状態でサルマタを汚していた。しかし夕食にはいつもの食欲が回復していて、水炊きにはたまたま老父の好きな鱈がなかったにも拘わらず喜んで食べていた。
 今日は機嫌が好いので、東京から老父のために買ってきたおみやげを出してみた。相手が子供ならばこの逆で、おみやげやプレゼントなどは不機嫌な時こそのご機嫌取りというわけであるが、こと老父に限って言うならばいかなる善意の意志表示であれ、それは老父の機嫌の好いときを選ばなければ全く通じないのだ。つまり、不機嫌で不愉快虫になっていたり興奮したり妄想の人になっていては、人が何を言おうともまったく聞く耳をもたないからなのだ。
 このおみやげとは縦50cm横75cmという大きなジグソーパズルなのだ。これは、善きにつけ悪しきにつけ何事かに執着せずにはられない老父の性格を考慮して買ってきたものなのだ。もともと東京の家にいるときから、暇潰しに小さなジグソーパズルをやっていたのを思い出して買ってきたわけであるが、こんなものにでも熱中していてもらえば多少なりとも鎮静効果が得られるのではないかという思いからだったのだ。
 「おじいちゃん、これは兄貴と僕からのクリスマスプレゼントです。ちょっと遅くなってしまいましたけれど、どうぞ。ま、子供だましみたいなもんですけど、暇潰しにこのパズルでもやってみて下さい」
 「あらら、ほうで。そりゃそりゃ。しかし、これは大きなもんじゃなあ…。なんだってまた、こんな大きなものを買ってきたんじゃ? これじゃ置くところにも困ってしまうじゃないか」
 「うん、まあ適当に置くからいいですよ。大きい方がやり甲斐があっていいんじゃないかと思ってね。どうせ時間は一杯あるんだからのんびりやって下さい。どうですか、いま開けてみますか?」
 「うんにゃあ、まだ体の調子が本調子じゃないからな、もうすこし落ち着いてからにしよう。しかし、そんな大きなんがあるんじゃなあ…」
 しかし実際のところ、この大きさからすると老父の生きているあいだに完成できるかどうかも疑わしいのであるが、老父のことだから尋常ならざる力を発揮して冥途のみやげとやらに5〜6枚のパネルを抱えて行くことになるかもしれない。
 12月31日 老父は、退院して以来、何故か便秘をしたり吐したりで、どうも体調が整わない。そんなわけで以前のような安定した食欲がないのだ。
 「わしは、どうして下痢なんかしたんじゃろうか? どうも、下痢をしてから、あのときに食べたものは、どうしても食べたくない」
 それ以降おでんには箸をださなくなった。病院の生活が長かったので、食べるものが変わってしまったということなのか。入院する前の一ケ月間というものは、ほとんど毎日、しかも何か別の物を出しても自分から催促をしてまで一日三食おでんを食べ続けていたのだから、この変化はかなり特筆すべきことのように思われた。もっとも、いささか食べ過ぎて飽きてしまったと考えられないことはないのだが…。
 「おじいちゃんね、下痢をしたのは、カンチョウをしたからですよ。何か悪いものを食べて下痢をしたわけじゃないんですよ」
 「ほうじゃったかな…。そんなことは、すっかり忘れとったよ。しかしなんじゃ、わしが、食べたものを吐すなんていうことは、始めてじゃからなあ…」
 「何を言ってるの? ここへ来てからも、食べ過ぎては年中吐してたじゃないか? もう5回目か6回目くらいになるんじゃないの?」
 「ほうか、わしは、何もかも忘れてしまったんじゃなあ…」
 いずれにしても老父の食欲が減少すると同時に、いままで貧るように食べていたものを食べなくなり、いままで決して食べなかった梅干しなんかを欲しがったり、食事のときには飲まなかったお茶を欲しがった。もはや、あれほど得意になっていた<たか菜>のお新香を忘れ、おでん三昧の日々を嫌い、煮豆にも<でんぶ>にも興味を示さなくなってしまったのだ。
 それにしても食生活の変化が原因なのか、病院から帰って以来何か気分が優れない様子で始終グズグズと文句を言っている。無論グズグズ言うときのあの執念深さしつっこさには些かの衰えも感じさせないのだから、体調が悪くてグズグズ言うのか、それともグズグズ言うので体調が整わないのか分からないほどなのだ。
 しかし後になって気付いたことであるが、入院前にはあれほど大騒ぎをしていた足の腫れについては一言も口にすることがなかったのだ。しかも足の腫れこそが退院許可のネックになっていたのだから、やはり老人の病気は本人の自覚症状を頼りにするかぎりは、まるで捕らえ所がないという感じになってしまうのだ。いずれにしても現在の老父は、食欲不振に係る不快感こそがすべてであるといえるのかもしれない。
 '88年1月1日 穏やかな正月。このまま暖冬が続いてくれるならば、老父の越冬という大きな課題にとっては、まことに結構なことなのだ。
 私も、今日は元日を老父と共に祝うため早く起きた。私が作ったのはせいぜい雑煮ぐらいだったけれど、何はともあれ東京から用意してきたおせち料理をテーブルに並べることで、とりあえずの体裁は調ったといえる。見た目の楽しさに老父も上機嫌であった。
 「明けましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いいたします。
 おじいちゃん、ここでは、何んでもおじいちゃんの言う通りしてあげるというわけにもいきませんが、ま、せいぜい僕も頑張って面倒みますから、おじいちゃんも元気を出して、この冬を乗り切ってください」
 「ああ、あんたには、迷惑かけるけどな…」
 「それじゃ、まね事だけですが、一杯どうですか?」
 「ほほう、わしに一杯、御馳走してくれるのか。それじゃ、正月だから飲んでみるか」
 「どうですか、飲めそうなら、まだいくらでもありますよ」
 「うんにゃあ、歳を取ると、そうたくさんは飲めない。ん、こりゃ旨いなあ。久し振りじゃからかなあ。うむ、今日は、すこしぐらい飲めるかな…」
 しかしお酒はふたりで一合半ほど飲んだだけで、老父の食欲もあまり思わしくはなかった。雑煮の餅は、最近のパックされた餅ではあまりおいしくないからというわけで、わざわざママさんが用意してくれた伸し餅を、かなり小さめに切って出したけれど、その一口分の餅もせいぜい二つ食べたぐらいで、あとは持て余していた。もともと老父の餅好きは異常なほどで、ママさんから聞いたところによれば、去年の正月あたりは普通の切り餅の大きさだと5〜6個は当たり前で、黙っていると10個くらいでも食べる勢いだったというのだから、この変化はいまだに体調が調わずという感じなのだ。
 しかし、体調が調わないとは言うものの、何も元気がないわけではないのだ。いつものように何かの折に不愉快虫に取り付かれてしまえば、あのシンネリムツチリとした愚痴や厭味をいつまでもたらたらと続け、揚げ句には勝手に興奮して妄想に入ってしまうというわけで、そのパワーには微塵の陰りもないのだ。そんなわけで、夕食の時になって、また私の絵についての中傷非難を蒸し返していた。
 「ところでねえ、おじいちゃんは、そうやって、何んでもかんでも金にならなければ無意味とばかり大騒ぎするけどさ、おじいちゃんにとっては、お金より大切なものはなかったの?」
 「ん、そりゃそうじゃ。何をするにしたって結局は金じゃろうが」
 「そうかな? 確かにね、金儲けを人生の最大の目的にしてる人もいるでしょうけどね、みんながみんなそうだとは限らないですよ。つまりね、すべてのヒトビトの努力の結果が、必ず金で報われなければならないなんてことは言えないし、まして、金をかけなきゃ何も出来ないなんてことも言えないってわけですよ」
 「うんにゃあ、それは金のない奴の言うことだ」
 「しかしねえ、金がなくたって自分のしたいことが出来て、生活が出来れば、それで十分じゃないですか」
 「ま、あんたは、自分だけ生活が出来ればええなんてつもりだろうが、それじゃしょうがないだろう。いつまでも妻帯しないわけにはいかんのじゃから…」
 「ん、まあ、妻帯するつもりはありませんがね。しかし、曲がりなりにも、おじいちゃんの面倒は見られるんだから、それでいいでしょう」
 「まあ、どういう考えしとるんだか知らんけど…」
 こんなところで、この話は終わったけれど、金がすべての老父にしたところで90年以上も生き延びていながら、かつてのコヤ家再興は言うに及ばず人に誇れるほどの財産も残し得なかったのだから、ここで自らの生涯をいかに総括しているのか聞いてみたいと思ったけれど、どうせまあボケた老父を怒らせるか、つまらない言い繕いを聞かされるだけなのでそんな愚問は差し控えた。そこで、病院での生活の様子について聞いてみると、やはり退院についての誤解が終始トラブルの元になっていたようなのだ。
 「わしは、あんたに貰ったメモがあったから、それを見せて、12月の28日に退院するんだと言うとるのに、病院の奴らは、誰が退院の許可を出したんだなんてグズグズ言うとったよ。看護婦なんかが、うるさく言うもんじゃから、おまえらは分からんのじゃから、余計な口出しはすなと言ってやったんじゃ。病院の都合で退院させたくないのかどうか知らんが、そんなことは、わしには関係ない、ほっといてくれ、言うてやった。
 ほうしたら、ひとりの奴は、先生が何も言わんのに、先生を差し置いて、でしゃばりおって、なんだかんだと偉そうに言うもんじゃから、わしは、貴様は医者でもないのにでしゃばったことは言うな!! と言ってやったんだ」
 「ハハハ、それで、どうなりました?」
 「ん、膨れっ面して出て行きおった。わしは、先生に退院の日を書いて貰ったメモを、ちゃんと持っとったからな、こっちは、これがあれば間違えっこないからな、つべこべぬかす奴がおると、それを見せてやったんじゃ」
 どうやら老父が入院するときに私が書いてあげたメモを、老父は医師に書いて貰ったものと勘違いしていたようであるが、そのメモはすでに老父にとってのお墨付きというわけで、水戸黄門よろしく何か事ある度にそれをかざして得意になっていたのだ。
 しかし、こんなことの繰り返しがあって、老父もすんなりと退院できるとは思ってはいなかったようなのだ。いや、そんなことが繰り返されればこそ人一倍猜疑心の強い老父のことだから、この事態は自分を隔離するために、われわれによって仕組まれたことであると感じていたのかもしれない。
 多分そんなことがあったからこそ、老父は「手筈を整えて気持ち良く退院させてくれた」と思うことで、東京へ帰りたいという気持ちを納得させていたというわけなのだ。
 1月2日 夕食の時にたまたま兄のアルバイトの話が出る。兄が正月早々からアルバイトに行っているという話から、寝る間もなく働いているということ、そんな苦労は兄だけに留どまらずおばあちゃんの世話をしているママさんも同様であること、そして今回は兄が資金を融通するから家を買ったらどうかと言ってくれていることへと話が進んだ。
 老父は、非常によく話を理解し、今回の家を買うという話には自分の預金を使ってもいいなどと言っていた。
 1月3日 老父の朝食にいつものように用意してあった<おかゆ>とみそ汁には手をつけず、なぜか炊飯ジャーのご飯を食べていた。
 「わしは、あんたが、おかゆを温めてくれてるんだと思って食べてみたら、堅くて堅くて難儀したんじゃ」
 「おかゆは、こっちに置いてあったんですよ。いつものようにしてあったのに…」
 どうやら、いままで老父の目に付かないところに置いてあった炊飯器を、昨日配置替えしたために老父の目に止まり、それに興味を示したということらしいのだ。そして、空になった炊飯器に電気を入れたままで、何故か飲み残した牛乳がグラスのままその中に入れてあった。
 夕方、コタツでうたた寝していた老父が、急に起き上がった。
 「うおおっ、しまった!! 寝過ごしたな?!」
 「どうしたんですか?」
 「わしは、すっかり寝過ごしてしまって、ご飯を食べそこなってしまった。もう、何時になるかな?」
 老父は、うろたえながら眼鏡を額に押し上げて時計を覗いている。
 「ご飯は、これからですよ。病院に居る夢でも見たんじゃないの?」
 「ん? ああ、ほうか、ここは、あんたとこじゃったな。わしは、食堂へ行きそびれてしまったかと思った」
 「ねえ、病院では、寝過ごしてご飯を食べそこなったなんてことがあったの?」
 「ああ、あったよ」
 「ふうん、誰も起こしてくれなかったの?」
 「ああ」
 「誰かが、持って来てくれるってこともなかったの?」
 「ああ」
 「ずいぶん、不親切だったんだね」
 「ふむ、んん…」
 なんだか気のない返事だったところを見ると、みんなに不親切にされてしまうほどの厄介者だったということなのか? それとも、相変わらず誰かに親切にしてもらっていながら、それを当たり前としか思わずに気が付かなかったということなのか?
 夕食後、またしても私の絵に対する不満を蒸し返し、結局は「わしは、自分の家に帰りたい」というわけで、それは私の絵に不満があるというよりも、何かに不満を持たずにいられない老父がいるというだけのことなのだ。もはや、昨日の話のよく分かる老父の面影などどこを探しても見当たらないのだ。
 ところで、私は例年通り6日からの滝行を予定しているが、行と老父の世話との両立を計るためには、生活を朝型に直さなければならないので、なるべく今のうちから早く寝る習慣をつけることにした。
 1月4日 午前4時ごろ、私は急に気分が悪くなって起きる。まさか老父の不愉快虫がうつったわけでもないのに、これは一体どうしたことかと考えあぐねてしまったが、間もなく嘔吐と激しい下痢に伴って多少のめまいがあったので、どうやら食中毒らしいと結論した。心当たりの原因は、多分野菜スープで煮たロースハムと思われる。すでに異臭が出ていたものを、煮直してまで食べた続けたのが悪かったのだ。
 老父の口癖ではないけれど、私がここへ来てからの10年間は、食中毒や食あたりなんかで戻すということはほとんど無かったのだから、老父の予定分としてあった正月食品が老父の食欲不振によって残ってしまい、多少は悪くなっていると知りながらでも、「もったいないから…」などと言いつつ食べてしまうようなこの生活は、やはり変則的なものと言わざるをえないのだ。
 この日はようやくの思いで勤行と<6F>を済ませると、ほとんどまる一日嘔吐と下痢を繰り返して寝ていたため、満足に老父の食事の準備が出来なかった。老父は、いろいろと心配してくれるのであるが、その心配も結局は自分の食事の心配へとつながっているようであった。
 「あんたが、おかゆを食べるんなら、わしがおかゆを作るときに多めに作ってやるからな。ん? ああ、心配せんでもええ。わしは、長いこと自炊しとったから<おかゆ>くらい作れるよ」とか、「きょうは、何も買い物なんかせんでもええよ。有り合わせのもんで食べたらええんじゃからな」
 あるいは「まだ、胃の中のもんが出んのなら、この下剤を飲んだらええんじゃ。この薬はよく効くからええんじゃがなあ…。わしは、この薬飲んですっかりよくなったじゃ。あんたも意地を張ってないで、言うことを聞けばええのに…」
 そんなわけで老父の心配も下痢をしているという私の病状にはいたって無関心なのだ。 この日は、酷寒の地でしかもこの時期にしては珍しくみぞれが激しく降る天気であったが、老父の言葉だけの気配りは別にしても、たまたま買い出しに行かなければならない日に当たっていたので、すでに老父の夕食に出すおかずが無かったし、たまたま脱水症状気味の私が無性にリンゴを食べてみたいと思っていたので、すでに暗くなった午後4時半すぎに買い物に出掛けた。5時過ぎにようやく戻って来たが、やはりめまいがして体調が悪かったので、私は老父の食事におかゆを作っただけで、あとは買ってきたマグロの刺身を出して済ませた。
 その後、私は正露丸を飲み続けてなんとか嘔吐と下痢を抑えたが、気分が楽になったのはようやく5日の早朝になってからだった。







34.神様の病院



 午前6時ごろ、私の下痢と嘔吐がなんとか治まり、少しは落ち着いて眠れるかと思った矢先のことだった。今度は老父がおなかが痛いと言い出した。
 「うおおっ、どうしたんじゃろうか、おなかが痛い!! あんた、ちょっと桶を持ってきてくれ。もどしそうだ!! 早く!!」
 私は老父の突然の大声に急き立てられて風呂場からプラスチックの桶を持ってきたが、老父はそれを引ったくるようにして桶の中に顔を埋めた。
 それからしばらくはびっくりするほどの大声でゲーゲーやっていたが、騒ぎのわりにはたいして出るものもなさそうなのだ。ところで私が食事をしなかった昨日は無論のこと、一昨日にしても老父と私とはほとんど違う物を食べていたのだから、老父の症状が私と同じ食中毒とは考えられなかった。
 初めの大騒ぎが一段落して、しばらくは小康状態であったが、それでも老父の不快感はなかなか治まらないのだ。そのうちにベッドの上に起き上がり今度は背中を丸めて再びゲーゲー始めた。
 「ありゃりゃ、どうしたんじゃろう? 変な色のものが出てきたぞ!!」
 私は、また老父が何か訳の分からないことを言い出したのかと思っていたが、実際のところは、私もまる一日食中毒で苦しんで憔悴し切っていたところだから、どうしても体を動かすのが辛くって、おいそれと老父の面倒を診る元気が出てこないのだ。私は横になっていた長椅子に身をお越して、しばらく様子を見守った。
 「あんた、何か胃の薬はないか? あったら分けてくれ」
 突然に胃の薬と言われても、私はここに引っ越して以来消化器系の病気とはほとんど無縁になってしまっていたのだから、常備薬としては昨日まで暇を持て余していたはずの下痢止めと老父のために買ってきた下剤しかないのだ。それにしても老父はここへ来て以来しばしば嘔吐を繰り返していたのだから、胃腸薬くらい買っておけばよかったのであるが、いままでは大騒ぎでゲーゲーやっていても翌日にはたいていケロリとしていたので、つい買いそびれていたのだ。
 そこでほとんど開店休業ゆえに在庫の乏しい救急箱を覗いてみると、以前にも飲ませたことのある試供品の胃腸薬が一回分だけ出てきた。さっそくその錠剤を二粒与えたが、それが溶けて効いてくるまでのわずかな時間を待つこともなく、たちまちもどしてしまった。
 「わしは、こんな緑色のものを吐いたのは始めてじゃ。これは大変だぞ!!
 あんた、ちょっと見てくれ。ほれ、こんなんが出とるんだ。これは大変だ!!
 これはきっと大変なことになっとるんじゃ。あんた、どこぞの胃腸の専門医へ連れていってくれ!! 専門のところでなきゃ駄目じゃ」
 「胃腸の専門医ですか? そんなものこの辺にあるかな…」
 「無いのか? ほんなら…、なんじゃったらどこでもええ、大きな病院ならええんじゃ。どこか大きな病院へ連れて行ってくれ!!」
 「かなり痛むんですか?」
 「ああ、急いでくれ!!」
 「さて、それじゃどの病院へ行ったらいいのかな…」
 「あんた、何をグズグズしとるんだ!! 早よ、救急車でも呼んでくれよ!!
 そうじゃ、わしゃ、東大病院がええ、東大病院へ連れて行ってくれ!!」
 「おじいちゃんね、ここは山の中だから、東大病院なんかないんですよ。救急車って言ってもね、すぐには間に合わないんですよ。とにかく急ぎなら、この間まで入院していた草津の病院へ行きましょう」
 「東大病院がない? そんなことがあるか?!」
 「おじいちゃんね、ここは東京じゃないんですよ!!
 とにかく、車の手配をしなきゃいけないな…、ええっと、タクシーを呼ぶか、それとも J さんに行くか?」
 「タクシーなんか、外へ出れば、いくらでも走ってるじゃないか!!
 何をグズグズしとるんだ、早くしてくれよ」
 「ここは東京じゃないんですよ。タクシーだって、電話で予約しなきゃ無いんですよ」
 「きさま、何んで、そうやってグズグズしとるんだ!!
 早くせんと、わしゃ死んでしまうぞ!! きさま、わしを殺す気か!!」
 「それじゃね、僕は、これから J さんのところへ行って車を借りてきますから、おじいちゃんも、着替えをしておいてください」
 「ああっ、そんなことは言われんでも分かっとるわっ」
 私は、どうせ老父のわがままだろうと思っていたが、一度言い出したら後には引かない老父のことだから、ここはひとつしょうがないと諦めて、だるい体を持ちあげシブシブ着替えを始めた。ところが、それを見ていた老父が、忌々ましげに悪態をついてきた。
 「ええか、おまえが、グズグズしとって、わしが死んだら、恨んで出てやるからな!!」 そこで私も、元気の出る起爆剤にでもなればと思い売り言葉に買い言葉なのだ。
 「ああ、出られるもんなら、勝手に出てください。楽しみにしてますよ」
 そう、どうせ無明を生きて無明に帰るはずの老父のことだから、死んで迷子になられるよりも、いっそのこと化けてでも出てくれたほうが所在がはっきりするというわけで、私としてはかえって成仏のさせようもあるというものなのだ。
 「それじゃね、とにかく、僕は車を借りて来ます」
 時刻はまだ7時15分だった。私は、健康保険の証書と老人健康手帳を持ち、病み上がりのボサボサ頭と髭面で顔も洗わずに飛び出したが、朝日のまぶしさに多少の目まいを感じたけれど、問答無用の寒気が気持ち良かった。
 はたしてシーズンオフのこの時間に J さんが起きているかどうか分からないけれど、とにかく早起きの J さんに期待しつつ、とりあえずはホテルの方へ行ってみた。ところが、どうやら期待外れなのだ。玄関にはまだ鍵が掛かっている。仕方なしに2〜3度叩いて呼んでみたが応答がない。
 さて、残された方法はバスターミナルまで行ってタクシーを頼むか、それとも J さんの自宅まで行って H子さんから車を借りてくるか、その二つに一つなのだ。ここからバスターミナルまでは4〜5分、 J さんの自宅までは6〜7分、当然バスターミナルへ行ったほうが近い。ところがバスターミナルに早朝からタクシーがあるという保証はない。無ければ15〜20分は待たなければならない。ましてここに公衆電話はないのだから、どちらの方法を取るにしても歩いていかなければ確認はとれない。結局は、確実に車を借りられそうな J さんの自宅へ行くことにした。そうと決めて私がホテルの駐車場を出かかったときに、玄関の開く音がした。
 「コヤくん、何?」
 「ああっ、助かった。おはようございます。朝早くからすいません。実は、今朝になって、親父が急に腹痛を起こしまして、大騒ぎしているもんですから、ちょっと病院まで連れて行きたいと思いまして…。車をお借りできますか?」
 「ああいいよ。どんな様子なの?」
 「暮れに退院してきてから、どうも食欲もなくて調子が悪かったんですけどね、今朝になって、今度はおなかが痛いって言い出して…、もともと大袈裟な人だから、はたしてどんなもんだか、よくは分からないんですけどね…」
 「そりゃ大変だね。どうぞ、使って下さい。ああ、そうそう、今朝はかなり凍ってるから、四駆にしたほうがいいよ」
 そんなわけで車を借りて家に戻ったときには、老父はすでに着替えを済まして玄関まで出てきていた。車は、いつものようにバリケードの外側に停めてあるため、老父を歩かせなければならない。ところが、どうも足取りがおぼつかないのだ。
 「おじいちゃん、苦しければおぶってあげますよ」
 「ああ、そうしてくれ」
 老父は至って当たり前とばかり伸し掛かってきたけれど、まだまだ60kgは十分にあるはずの老父は、病み上がりの私にはいささか重たかった。なんとか手前のバリケードまでは辿り着いたけれど、老父を背負ったままでバリケードをくぐることが出来ない。
 「おじいちゃん、すいませんけどね、ここは降りてもらえませんか?」
 「ああ…」
 自分でバリケードをくぐった老父は、私の肩を借りてはいるもののかなり足早に歩いた。何はともあれ老父を乗せて草津の二之沢病院へ行くことになった。時刻はすでに7時40分を過ぎている。しかし、走りだしてほんの5〜6分したところで、老父が苦り切った不機嫌さをあらわにした歪んだ顔で言う。
 「まだ、着かんのか? あんたは、わしを、どこへ連れていくんじゃ?」
 「大きい病院が良いって言うから、この間まで入院していた草津の病院へ行くんですよ」
 「ええっ? 草津? あんたは、えらく遠い病院へ連れて行くんじゃな…。もっと近くに、いくらでもあるじゃろうが」
 「ありません。ここは東京じゃないんだから、大きい病院なんて、そんなにたくさんはありませんよ」
 「ほうか、わしは、とんでもないところへ連れて来られたんじゃなあ。あと、どれくらいかかるんじゃ?」
 「そう、あと15分か20分くらいですよ」
 「ええっ、まだそんなにもかかるのか?! 早くしてくれよ…」
 隣の老父から目をそらせば今日も浅間連峰が美しい。快晴の深く広い空に白い脊梁が走る。こんな雄大な光景を背負いながら闇雲に高原を下りつつ思うことは、痛いとか辛いとか不愉快などという人の営みが何か悍しいほどの滑稽さに見えてくるということなのだ。高原を下る道が急カーブの連続になると、老父は体を左右に揺すられて激しくゲーゲーいいはじめた。道幅のあるところに車を停めて老父の体を半分ほど外に引っ張り出したが、ゲーゲーいうだけで出るものは何もない。
 「なんで停めるんじゃ? グズグズせんで早よ行けよ…」
 「大丈夫なんだね?」
 「ああ、余計な心配する暇があるんなら、早よ行け」
 私は呆れて言葉もないままティシューをまとめて老父に渡し、再び走りだした。
 病院に着き受付を済ませたのは8時30分ごろだった。まだ正月早々だということか、待合室の広いロビーには2〜3組の人がいるだけで閑散とした感じだった。老父を待合室のソファーに座らせたが、辛くて座っていられないというので長椅子の方へ寝かせた。ところが、間もなく気分が悪くて戻しそうだと言い始めた。私が、看護婦さんからステンレスのトレーを借りてくるやいなや、老父は病院中に響き渡るほどの大声でゲーゲーやりだした。たまたま通りかかった事務長さんが、老父の様子に驚いて駆け付けてくれた。
 「おじいさん、どうしました?」
 私はとりあえずの症状を話した。
 「そうすると外来ですね。それで受付は済みましたか?」
 「はい」
 「そうですか、それではすぐに診て貰いましょう」
 すぐに看護婦さんが車椅子で駆け付けてくれた。診察室に運ばれた老父は、さっそく着ているものを脱がされて診察台に乗せられたが、何人かの看護婦さんが老父の顔を覗きにくるたびに声を掛けていく。
 「あら、コヤさんじゃないの? どうしちゃったの?」
 「あら、コヤさん、家に帰ったらお正月で食べすぎちゃったのね」
 「どうしたのかしらねえ、この間、帰ったときは、あんなに元気だったのに…」
 そんな具合だから、老父はかなり疎まれつつも顔の知られた存在として入院していたというわけなのだ。
 「ええ…、おじいちゃん、ずいぶん着てるんだねえ」
 医師が呆れるほどの手間をかけて最後に腹巻をめくったときには、その中から分厚い封筒が出てきたが、医師は一目で貴重品と分かるそれを無言で私の方へ差し出した。中を覗いてみると、これは今までタンスの引き出しにしまってあった預金通帳と年金証書なのだ。どうやら、私が J さんに車を借りにいっていた間に老父が封筒に入れ換えて持ってきたというわけなのだ。さすがに金しか信じないという老父の面目躍如といえる。
 老父の着てきたコートを丸め脱衣篭に入れようとすると、ポケットの中に何か堅いものが入っている。不審に思ってそれを取り出してみると、小さな瓶の中に老父が家で嘔吐を繰り返していたときの緑色の吐瀉物がどんよりと入っている。
 「あ、あの、先生、これは、父が是非先生に診て頂かなければいけないと言って持ってきた物なんですが、今朝、家で戻していたときの緑色の吐瀉物なんです」
 「ふうん。まあ、それはいいよ」
 医師はたいした興味を示すこともなく気のない返事だった。あとで分かったことであるが、この若い医師がこの病院の医院長先生で外科が専門であるということだったから、あまり専門外のことに首を突っ込むのを敬遠したということなのかもしれない。
 思い返してみれば院長先生は老父の腹を全体的にさすり、さらには老父が痛いというあたりを丹念に触診していたけれど、それがなんとなくぎこちないものに感じられたということも専門外ゆえの所作であったためなのか。老父は腹を押されて一度だけ嘔吐感に襲われていたが、それもたいしたことはなく、すでに病院へ来たという安心感ですっかりおとなしくなっている。院長先生は多少渋い顔はしているけれどどれほどの感想を述べることもなく、看護婦さんの持ってきた老父のカルテに目を通していた。
 「コヤさんね、おじいちゃんは、歳も歳だしするから、ちょっと入院して様子を診てみようか?」
 「そうですか、よろしくお願い至します。どうでしょうか、長く掛かりそうですか?」
 「そう、1週間か10日もすれば退院できるんじゃなのかな」
 そして看護婦さんに指示をする。
 「それじゃ、とりあえず心電図を取っておいて…、ああ、ついでにレントゲンも撮っておこう」
 老父は診察台に寝たままで心電図の測定を済ませ、次にレントゲン室に向かうことになった。ところが、すっかり脱力状態になった老父はなんとも重くてままならず、私は看護婦さんの手も借りて三人掛かりでようやく車椅子に乗せる有り様だった。老父は首をガックリと前に落として車椅子に沈み、いかにも病人然とした様子でレントゲン室に向かった。私にはやはり演技過剰に思われたけれど、ま、その方が大急ぎで草津まで駆け付けた私の努力も報われたことになるのだから、それはそれで結構なことなのだ。
 しばらく診察室の外で待っていたが、老父の病室が202号室に決まったと知らされて病室の方へ回った。病室は2階の6人部屋であったが、今日か明日のうちに退院する予定であるという青年とおばさんがひとりなので、老父を入れて3人だけなのだ。
 そろそろ午前9時を過ぎるころであったが、老父がベッドに入り一段落した後に、私は東京へ電話を入れて老父の突然の入院について報告をした。しかし、いまだ詳しい病状が分からないため後程改めて報告することになった。
 老父の症状はそのまま平静さを取り戻しているようであったが、そんな老父の横にボサボサ頭の髭面で所在無く座っている私は、一昨日の夜からの不本意なる症状を引きずったままだったのだから、そんなものを払拭するためにも、一刻も早く家へ戻りせめて水浴びと勤行だけでも済ませて出直して来たいと考えていたのだ。
 私は、老父に入院の支度をして改めて出直してくることを伝えたが、なんとなくもうろうとした状態で要領を得なかった。しかし腹巻に入っていた貴重品については、私が預かっていることを知らせておかないわけにはいかなかったので、耳元で2〜3度声を掛けてみたが、老父は目を閉じたまま「うん、うん」と首を振るだけで、なんともたよりない反応しか返ってこなかった。このままではどれほど理解できているのか不安であったけれど、とにかく一度帰宅することにした。
 私は北軽井沢に戻りさっそく J さんに情況報告をしたが、そのまま入院ということになってしまったので午後から再び病院に行かなければならない事情を話し、もう一度車を貸してもらうように頼んだ。
 ところで、老父を引き取って以来、私が J さんから車を借りる機会が増えてしまったため、去年の10月ごろに J さんよりの申し出があり、車の借り代を決めることになった。私としても、その方が借り安いということもあり、片道約25kmの草津行きを1,500円、片道約20kmの長野原行きを1,000円ということにしてもらったのだ。
 そこで J さんには、この日の2回分の車代3,000円を渡したが、彼は思わぬ小遣い稼ぎに気を良くしたのか終始ニコニコしていた。
 私は家に帰って早速水浴びと勤行を済ませ、さらに簡単な食事をした。もっとも昨日一日はほとんど食事をしていなかったのだから、いま下痢と嘔吐が止まっているとは言っても、それが食中毒の完治を意味するとはかぎらないというわけで、この食事はかなり控え目なものになった。
 老父の入院の支度は、先日退院してからまだ間がなかったため、ほとんどのものがそのまま使用できる状態になっていた。それにしても老父を入院させることが、ここから運び出される老父の荷物によって象徴されるように、老父的意味の解消がこの小さな山荘にこれからしばらくの平安を保証することになるというわけで、私が老父に対して知らず知らずのうちに身構え気負っていたものが、わけもなくじんわりと溶解していくのを感じるのだった。無論、まだ先のことは分からないのだから、何事も条件付きのとりあえずの解放感にすぎないのではあるけれど…。
 そろそろ出掛けようかという時に、 SA さんからの電話があった。
 「コヤさん、お茶でも飲みにいらっしゃいませんか?」
 私は、せっかくのお誘いを断らなければならないことを詫びて、老父の入院の顛末について語ることになった。すると SA さんは「もしも、車が必要なときはいつでも言ってください」と申し出てくださった。
 私は、この日は J さんに借りる手筈になっていることを伝え、 SA さんの親切に感謝しつつ電話を切った。さて、私は昼過ぎに再び J さんに車を借りて、夕方には戻るという約束で草津に向かった。
 私が病院に着いたときは、老父の症状に変わったところは無いように思われたけれど、気が付けば何故かサイドテーブルの上に、老父の小さなビニール表紙の手帳が広げたままで出ていたり、脱ぐはずのない毛糸の腹巻がベッドの下に落ちて、しかも腹巻に入れてあるはずの実印が床に転がっていた。私が留守の間に何があったのかは分からないけれど、老父があれほど執着していた実印への注意力が全く途切れてしまっていることに、何か不安なものを感じさせた。
 そうそう、そういえば先日老父が探していた手帳とは、ひょっとするとこの手帳のことであったのかもしれない。老父もボケたついでに戦前からの持ち物であるようないいかげんなことを言っていたが、これは病院の診察券とか都営交通機関のフリーパスを入れていたごく最近のものなのだ。私もうっかりとこの手帳のことは忘れていたのだ。
 そんなことを思いながら、とにかく腹巻と実印を拾いあげ、さらに持ってきた荷物の整理に取り掛かった。ところが、そんな様子をぼんやりと見ていた老父が私を枕元へ呼び寄せて、しかも声をひそめた渋い顔で言う。
 「あんたは、どういうつもりか知らんが、そんなに荷物を持ってきたってしょうがないじゃろうに…」
 「どうして? しょうがないって言ったって、入院したんだからしょうがないでしょ」
 「うんにゃあ、わしは、すぐにここを出るから、そんなに荷物を持ってこんでもええんじゃ。そんなことしてないで、すぐに帰る準備をしとってくれ」
 「すぐに帰るって言ったって、まだ病気の具合がどうなのかも分からないのに、帰るわけにはいかないでしょうよ。だいいち、おなかの痛いのは治ったの?」
 「うんにゃあ、わしは、ここにおったら治らんと言うとるんじゃよ。だいいちあんたは、なんだって、わしを、こんな病院へ連れて来たんじゃ。こんな病院じゃ、治りっこないよ」
 「どうしてさ?」
 「どうもこうもない。ここは神様の病院なんだ。神様の病院なんかじゃ駄目だ。普通の病院でなきゃ駄目なんだよ。早く普通の病院へ連れていってくれよ」
 「おじいちゃん、神様の病院って何? ここは普通の病院だよ」
 「うんにゃあ、そんなことはあるか!! ここは神様の病院じゃ!!」
 「なに言ってるんだよ、神様の病院って何んなの?」
 「ん、ここはあんたの信仰しとる神様の病院じゃろうが。この病院じゃ、先生や看護婦が親切に次から次から来てくれて、どこが痛いんですかと言うてはくれるんじゃが、それも言うだけでちっとも治してくれないんだからたちが悪いよ。確かにあんたみたいにお祈りはしてくれるんじゃが、お祈りをするだけで誰も痛みを取ってくれないんだから、こんなところじゃ駄目じゃ。お祈りをしたぐらいじゃ治りっこないよ」
 「そんなことは無いでしょう。この病院は、この間まで、おじいちゃんが入院してた普通の病院ですよ。それにねえ、病院に来たからといっても、すぐに痛みが取れるとは限らないじゃないか」
 「ほうか、ここは普通の病院か? そんなことは無いだろう…。じゃったらなんでお祈りなんかしてくれるんだ?」
 結局のところ老父の言う神様の病院とは私への欝積した不信感の表れであったのか?
 「お祈りはどうか知らないけれど、ここは、おじいちゃんがこの間まで入院していた草津の二之沢病院ですよ」
 「んん? わしは、ここに入院しとったことがあるのか?」
 「そうですよ。退院してから、まだ十日もたってないんですよ」
 「ほうか、本当に普通の病院ならえんじゃが…。わしは、さっき、帰るつもりじゃったから、事務の先生に預けてある貴重品を返して貰おうとしたんじゃが、返してくれないんだ。あんた、ちょっと行って、返して貰ってきてくれんか」
 「おじいちゃんねえ、さっき僕が帰るときに言ったじゃないか、おじいちゃんが腹巻に入れてきた貴重品は、僕が預かっていますからねって」
 「あらら、ほうか。あんたが預かってくれとるんなら大丈夫だ」
 そんな話しをしているうちに、看護婦さんが何か検査があるといって老父を連れにきた。まだ脱力状態のままで重くなっている老父を、看護婦さんと二人掛かりで車椅子に乗せたが、老父が連れていかれると、それまで黙っていたとなりのベッドのおばさんが、待ち兼ねたとばかり話し掛けてきたのだ。
 「さっきは大変だったんよ。もう暴れるんよ…。なんだか、貴重品を返せって言ってるんだけんど、分からないんね…。東京へ帰るって言うんよ。だけど…、看護婦さんにさんざん調べて貰ったんだけんど、それでも分からなかったん。それでも貴重品は確かに預けたんだから、無いはずはないって…。それで看護婦さんに、きさまが盗んだのかなんて、凄いこと言うんね…。
 看護婦さんに怒られたあん、そしたら興奮したんよ、暴れだしたんだけんど、物凄い力なんよ、看護婦さんが三人も来て抑えたんだけんど、その廊下まで出ていって、盗んだ物を返せって怒鳴ってるんだから…。
 それで、きさまらの勝手にされてたまるか!! おまえらがそういう気ならこっちにも覚悟があるぞって。とにかく警察を呼べ!! だって、物凄く大きな声なんよ。きっと病院中に聞こえたんと違うんかいね。
 みんなでようやく取り押さえてベッドに入れたんだけんど、それでも、今度は、東京の息子に連絡を取るから電話番号を調べろって騒いで…。看護婦さんが、結構調べてくれたみたいだけんど、分からなかったみたいなんよ。おじいさんは、分からないはずはないって言うんだいね。自分の息子は、東京で仕事をしてるからすぐに連絡がつくはずだって…。とにかく凄いんねえ、さっき聞いたら、もう90歳を過ぎとるんねえ、とにかく元気…」
 「そうでしたか、それはお騒がせしてすいませんでした。とにかくわがままなもんですから、家でもだいたいそんな調子なんですよ」
 「へえ、そうかい。でも看護婦さんの方が、困ったと違うんかい。それにしても元気だわ。あたしなんか到底敵わないわ。さっき、あたしが、そう言ったんね、あんたはわしの歳の半分ぐらいなんだろうに、そんな元気のないことじゃしょうがない、なんて言われてしまったけんど…。あんなに元気なん、やはり自分で仕事しとったからかいね。看護婦さんといろいろやりやってたん聞いてたんだけんど、このおじいさんは、かなり手広く仕事しとった人だと思ったん。それで元気なんかいね」
 「いやあ、もうあの歳ですから、かなり前から仕事なんか何もしてませんよ。兄が親父の後を継いで仕事してるもんですから…」
 そんなわけで看護婦さんと大立ち回りが出来るというのに、いまのあの脱力感とは一体なんであったのか? ひょっとすると鎮静剤でも打たれていたのかもしれないが、それにしてもどうやら相変わらずの演技過剰が付いて回っているのだ。
 どうやらこれで腹巻や実印が散乱していた情況が納得できたわけなのだ。
 老父が留守の間に私はナースセンターに呼び出されて、担当の医師より病状報告を聞かされたけれど、やはりこの時に、看護婦さんからはあまり暴れるためこのままでは面倒を見かねると言い渡された。そこで、とにかくこの日は私が付き添いで泊まるように指示されることになった。
 ところで、レントゲン写真によって説明された老父の病状は胸膜炎ということで、肺の中に水が溜まっているということだった。それは、12月に入院していた際のレントゲン写真と比較しても、その違いがはっきりと分かる情況であった。この原因として考えられることは、まず癌によるもの、次に外部より侵入したばい菌によるもの、さらに何等かの機能障害によるものの三つであるというのだ。それにしても年令的なこともあり、余病の併発も考えられるので予断は許されないと言われた。
 しかし、いま老父の病状を説明してくれている医師こそが、一週間前に退院するときに「大丈夫です。心配ありません」と言っていた当の本人なのだから、どんなつもりで言っているのか聞いてみたい気がしたけれど、そんなことを言い立てたところで、相手を不愉快にさせるだけであろうから百害あって一利なしということになる。そんな私の思いが通じたのか医師はこんなことを言っていた。
 「とにかくねえ、1ケ月前の写真がこれでしょ、それで急にこれですからねえ、わたしもびっくりしてるんですよ」
 「それでは、おなかが痛いというのも、それが原因なんですか?」
 「そうねえ、胸水が溜まって、それで外が圧迫されてということもあるけれど…、まだ外の検査の結果も見てみないとねえ…」
 胸水を取ってみればとりあえずの情況判断が出来るということであったため、すでに病室に戻っている老父に胸水の検査が行われることになった。胸水を抜き取った後で廊下に出た医師は、太い注射器の中に吸い取られた濁った液体を眺めながら、多少の安堵の表情で語った。
 「ふむ、この色からすると、たぶん癌ではないと言えそうなんですが、でも、やはり詳しく調べてみないとねえ…」
 いずれにしてもしばらくは安静にしていなければならないということであった。
 病室に戻ると老父が何気なく聞いてきた。
 「ほれで、病気の具合はどうなんじゃ?」
 「ああ、肺に水が溜まっているそうですよ。だから、あんまり暴れると呼吸困難になるってさ。絶対安静なんですよ」
 「ほうか。でも、なんだっておなかが痛かったんじゃろうか?」
 「うん、まだはっきりと調べてみなきゃ分からないそうだけど、たぶん、その肺に溜まった水がどこかを圧迫しているからかも知れないし、ひょっとするとその痛んでいる何かが原因が水が溜まっているのかも知れないんだって。どっちにしても、もっとよく検査してみないとはっきりしたことは分からないようですよ」
 私はかなり好い加減なことを言ってこの場を取り繕ってしまったが、老父の病気の原因は何んであれ、それが原因でひどく苦しむということがなければ、高齢者の病気はそれでめでたしと言いうるものと考えていた。老父の方も、ほとんど気のない返事でやり過ごしてしまったからこの話題はこのままになってしまった。
 それからしばらくは老父もおとなしくウトウトしていたが、気持ちよさそうに目覚めて両手を上に延ばし大きな伸びをした。
 「ああ、よく寝た。すっかり気分も良くなったから、そろそろ帰ろうか」
 「ん? 帰ろうかって、まだ病気は治ってないよ。だいいち今朝入院したばかりじゃないか」
 「んん? ほうか…。でもわしは、すっかり元気になったがなあ…」
 「元気なのは結構だけど、病気は治しておかなきゃ駄目ですよ」
 そのまま納得したのかと思っていると、またしばらくしてまた新しい朝を迎えたような顔をしている。
 「さあて、それじゃ元気を出して散歩でもしてくるかな」
 「ええっ、どこへ行く気なの? いま絶対安静ですよって言ったばかりじゃないか」
 「ん、ちょっと港を見に行くだけだよ。それぐらいは大丈夫だ!!」
 「何言ってるの? ここは草津温泉ですよ。この山の中には港なんてありませんよ」
 「ほうか、ここは草津か…」
 「そうですよ。寝ぼけてちゃいけませんよ」
 「ほうすると、床屋のミッチャンはどうしてるかなあ…」
 「床屋のミッチャン?」
 「ああ…」
 「どこの床屋さん?」
 「どこの言うて、角の…」
 「おじいちゃん、どこの話をしてるの?」
 「ほれ、港に出る手前にあったじゃろうが…」
 「おじいちゃん、それは田舎の話じゃないの?」
 「ほうだよ」
 「ここは草津ですよ」
 「ん? ああ、そうか…」
 「子供の頃の話なんでしょ?」
 「ああ。ほうか、そうすると、もうみんな死んでしまったんじゃろうなあ…」
 「そうね、おじいちゃんほど長生きした人はいないんじゃないの…」
 「ほうかなあ…。あんたは、いま絶対安静とか言うたな?」
 「うん…」
 「ほんのちょっと港を見に行くぐらい大丈夫じゃと思うんじゃがなあ…」
 「おじいちゃん、ここは山の中だから、港はありませんよ」
 「ほうか…」
 「とにかくね、絶対安静なんだから、散歩なんか駄目ですよ」
 そんなわけで老父は再びうたた寝に入ってしまった。
 ところが J さんの車を、このまま借りっぱなしにしておくわけにもいかないので、もう一度北軽井沢に帰り改めて泊まりの支度をして出直してくることにした。
 私は、病院から再び東京に電話を掛け、今日の情況を報告したが、どうやら老父の入院が長引きそうなので、毎日 J さんの車を借りるわけにもいかないため、東京で使っていない方の車を都合してくれないかと相談した。兄は、今なら子供たちが冬休みなので子供を連れて見舞いに行けるから、2〜3日内に車の都合をつけるとのことであった。
 私はナースセンターに挨拶をして再び家に戻った。今度は一日一画の<6F>を済ませ、やはり簡単な夕食を済ませてからもう一度草津に向かうことになった。しかし、一日に三度も J さんに車を借りるのは気が引けたし、まして今回は泊まりになるため些か遠慮することにした。
 そこで今回はタクシーで行くことにしたが、たまたま手持ちの現金が10,000円少々しかなかったので帰りの交通費に不安が残った。そんなわけで日々の勤行の際の供養金2ケ月分が約600円あったものまで引っ張り出してバッグに詰めた。とにかくタクシーを午後8時半に頼んだが、車が家まで入れないため営業時間の終わったバスターミナルで待ってもらうことになった。
 この日の夜は、ようやく高原の冬らしく−10℃まで下がっていた。私はごみを捨てながらバスターミナルに回ったが、雪のない正月の夜はかえって閑散とした感じがつのり、未だ全快とはいえぬ体調に何か緊張したものを抱かせた。
 結局、心配したタクシー代は5,870円、それに往復の有料道路代400円がかかった。残金は約4,000円となった。
 この日三度目に病院に着いたのは消灯の直前だった。老父は点滴をしていたが、その左手は添え木をして包帯で固定されている。となりのおばさんに聞いてみると、やはり普通の方法では暴れて点滴の針を勝手に抜いてしまうため、今度はこのような状態にされているというわけなのだ。
 私が病院に着いて間もなく、老父は便所に行きたいと言い出して、この堅く巻かれている包帯に指をこじ入れてほどき始めた。いくら止めても聞かないばかりか、次第に意固地になって取り掛かることになった。
 「こんなものは、ここから指を入れていけば、外れてしまうんじゃ」
 「おじいちゃん、それをほどいちゃったら、点滴か外れちゃうよ」
 「ああ、こんなものは、外したからというて、別にどうということはない。あんたは、人のことにかまってないで、黙っとりゃええんじゃ」
 もうすっかりいたずらに熱中している悪がきの顔になっているのだ。
 老父の膀胱には尿の量を計るためのパイプが通されているので、便所へ行く必要がないのであるが、その不快感に耐えられないのと同時に、年中おしっこをしたいという感覚に襲われているためなのか、どうしてもじっとしていられないのだ。
 ところが、老父にその状態をいくら説明しても、おしっこをしたいという感覚ばかりが先に起つためになかなか理解できず、ほとんど便意の条件反射のようにして便所へ行きたがるのだ。そこで、排泄器官からパイプが出ているのを老父の右手で触って確認させるけれど、それがどのような事態であるのかが分からないようなのだ。
 「おじいちゃんねえ、おしっこは、自然にこの袋の中に溜まるようになっているんだから、わざわざ起きてお便所に行かなくてもいいんですよ」
 「そんなことを言うても、わしは便所へ行きたいんじゃ」
 「おじいちゃんは、いま絶対安静にしていなきゃいけないんだから、動き回っちゃいけないんですよ。ほら、そんなに動くから、鼻に入れてる酸素のチューブが外れちゃうじゃないか」
 そのうちに私の制止を振り切って、とうとう左手の包帯を外してしまった。
 「おじいちゃん、そんな勝手なことしてたら、治る病気も治らなくなっちゃうよ。いいんですか?」
 「ああええよ。わしは、自分のしたいようにやるだけさ」
 私は仕方なしに看護婦さんに連絡した。
 「ああ、やっぱり取っちゃったあん。どうせ外されちゃうとは思っていたけれど、やっぱり駄目ね。じゃ、もういいわね」
 どうやら、看護婦さんも覚悟のことなのだ。そのまま点滴は中止されてしまった。それから老父は、頻繁に便所へと行くつもりになって起き上がった。
 「さて、今のうちに便所に行っておくかな…」
 「おじいちゃんねえ、何遍も言うように、今はおしっこがしたいという感じがしているだけでなんですよ。だから、トイレへ行かくなくてもいいの!!
 おしっこは、自然にこの袋の中に溜まってるんだから…、ほら、よく見てご覧!! このパイプを通しておしっこが出てるんですよ」
 「ほうか…」
 しかし、何分もしないうちにまた起き上がる。
 「やっぱり、便所へ行っておこう」
 「おじいちゃん、トイレには、いかなくてもいいようになってるんですよ」
 「うんにゃあ、こんなところで漏らしでもしたら、みっともないじゃないか」
 「そのままでいても、漏れないようになっているんですよ。ほら、パイプが通ってるでしょう。それにおむつも当たってるんだら、何も心配することはないんですよ」
 「そんなおむつなんかで、おしっこができるか!! わしゃ、便所へ行く!!」
 「おじいちゃん!! 絶対安静なんだから、歩き回っちゃいけないんですよ!!」
 「うんにゃあ、あんたに、おしっこの面倒まで診てもらわなくたって、わしゃ自分でやるさ」
 「とにかく、病人なんだから、言うことを聞きなさいよ!!」
 そんなわけで、なんとか寝かし付けてもやはり10分と持たないのだ。
 「さて、そろそろ便所へ行って寝るかな…」
 またしても同じ事の繰り返しになってしまうのだ。そのうちに、いくら寝かし付けてもすぐ起きるようになり、一度起きてしまうとどうしてもトイレへ行くといって聞かないのだ。しかも、ベッドの上で毛布を跳ね除けて、ベッドのてすりを乗り越えようとする。
 もはや、私が言葉で言ったのでは聞く耳を持たないのだから、結局は老父の寝間着の襟首を引っ張って寝かし付けることになる。
 「うおおっ、きさま、何をするんだ!! わしが、便所へ行くというのに、なんであんたがそんな事をするんだ?」
 「おじいちゃん、外の人達が寝てるんだから、静かにしなさいよ。言うことを聞かないと、ベッドに縛り付けとくよ」
 「おまえが、余計なことをしなきゃええんだ。わしが便所へ行くというとるんだから、わしの勝手にさせてくれればええんじゃ」
 「おちんちんにパイプが付いてるのに、勝手なことが出来るんですか? ほら、よく見てみなよ」
 「うんにゃあ、なにがどうなっとろうが、わしは、便所へ行く!!」
 仕方無しに私が老父をベッドに押し付ける。すると、尋常ならざる力で抵抗し、私の腕を振りほどいてまで起き上がる。そして、今度は素早い身のこなしで早速ベッドのてすりに足を掛ける。それを私が引き戻す。2〜3度繰り返すと、些か老父も疲れて、しばらくは静かにしている。しかし、それもせいぜい15分程度のことで、またしても同じことが繰り返される。
 「おじいちゃん!! 言うことを聞きなさいよ。そんなことして暴れてたら死んじゃうよ。僕は知らないからね」
 「ああ、あんたの知ったことじゃない。わしは、便所くらい、自分のしたいようにするだけだ」
 相変わらずの素早い身のこなしで、ベッドから身を乗り出す。場合によっては、力が余って乗り出した上半身が、そのままベッドの下へと落下することがある。ベッドのてすりに引っ掛かり、宙に浮いた足をバタバタさせている。この滑稽さに笑ってもいられないから、やはり寝間着の襟首を引っ張って引き上げる。時には、私も力余って、老父が裏返しになるほど引き戻してしまうことがある。まさに老父の好きなプロレスをほうふつとさせるリングサイドの格闘なのだ。
 「きっ、きさま、なんてことをするんだ!! おまえなんかに、わしの便所の世話をやいて貰う理由はない。放せ!!」
 そんなわけで結局のところ、消灯の9時を過ぎて間がないころから、翌日の午前6時ごろにかけて、15〜6回もプロレスもどきの大乱闘を繰り返したのだ。
 そして、とうとう大乱闘の末にベッドから飛び出した勢いで倒れ込み、ボウコウに入れてあったパイプが抜けてしまった。
 「うわっ、痛ったった!!」
 それと同時にどす黒い血が噴き出して見る見るオムツを血に染めて、そのままドロリと床に流れ出した。私は、もう呆れて言葉も出ないほどであったけれど、気を取り戻して老父に言った。
 「おじいちゃん、そこにじっとしてなさいよ。いま、看護婦さんに連絡してくるからね」 私は急いでナースセンターに行き、夜勤の看護婦さんに情況を説明した。
 ところが後ろを見ると、茫然とした老父が私の後に付き、ボタボタと血の滴るオムツのまま病室から赤い流れを引きずって、まるで赤子のような足取りで裸足のままペタペタと歩いてくるのだ。
 「うおおい、きさま、なんてことをするんだ。わしは、こんなに血だらけになってしまったじゃないか…。どうしてくれるんだ」
 「何を寝ぼけてるんだよ、自分で暴れて外しちゃったんじゃないか」
 そんな様子を見ていた看護婦さんが老父のところへと駆け寄っていった。
 「あらら、コヤさん、どうしちゃったの?」
 そしてそのまま便所へと連れていかれた。しばらくして、傷口の処置も済ませたのであろうか、新しい寝間着に着替えおむつも新しくなった老父が、今度は二人の看護婦さんに連れられて戻ってきた。老父は、そのまま二人の看護婦さんに押さえ込まれるようにして寝かし付けられたが、そこで目の前にいる私に気付いて騒ぎ出した。
 「ああっ、きっ、きさまだな、わしがこんなにたくさん血を出すような目に会わせやがったのは…、いいか、覚えておけよ!! わしは必ず復讐してやるからな!!」
 看護婦さんが唖然とした顔で驚いている。そして、ひとりの看護婦さんが老父をたしなめるように言う。
 「コヤさん、何んてこと言うの!? 自分の息子さんでしょ」
 「うんにゃあ、誰だろうとかまうもんか。わしを、こんな目に会わせる奴は、許しちゃおけない。貴様、覚悟しておけよ!!」
 「コヤさん、なんてひどいことを言うの? 恐ろしいことを言うのね…」
 看護婦さんは、老父の毒気に当てられて悲壮な顔をしている。
 「いやあ、いつものことですから、構わないんですよ。もともとねえ、自分に不都合なことだとか不愉快なことがあると、その原因は、必ず自分以外の誰かにあるはずだと決め付けてしまうんですよ。いつも自分は被害者にすぎないと思い込んで90年を生き延びてしまったんですから、それでいいんですよ。もう、今になって、そんな性格を変えるわけにもいきませんからね」
 すると、老父をたしなめた方の看護婦さんが呆れた顔で言う。
 「へえ、それじゃ、コヤさんは、被害妄想なんだ!!」
 「いや、被害妄想とはちょっと違うと思うんですがね…」
 私は、それ以上のことは言わなかったが、看護婦さんたちも、そのまま帰っていった。 そんなわけで、1月の6日は老父と一晩中格闘しつづけているうちに夜が明けてしまったのだ。老父は、そんな一晩の疲れが出たのか、朝になってウトウトし始めていた。
 同室の患者さんは、おばさんも青年も溜め息とも同情とも付かない様子で「大変だあ…」を連発していたけれど、私は、とんだ大騒ぎで安眠妨害をしてしまったことを詫びるばかりだった。
 間もなく、私は同室の若い患者さんに誘われて食堂へと向かった。考えてみると、私は4日の早朝に食中毒で苦しみ始めて以来、食事らしい食事を取ったは初めてだったのだ。私が食事を終わって病室に戻ると、ちょうど老父もうたた寝から覚めたところだった。おかゆを病室へ運んで食べさせたが、昨日一日の禁食の後にも拘わらず、やはり思わしい食欲はなかった。




 35.何はともあれ滝行なのだ


 なんとか老父の食事も一段落して、私が食堂へ食器を下げてにいって戻ってくると、看護婦さんから連絡があり、院長先生が何か話しがあるからナースセンターへ来てくださいということだった。
 この病院の院長先生は、ちょっと見たところ私と同年輩という感じで、まだ人との対応にぎこちないところを残していた。そんなシャイでぶっきらぼうなところは、ひょっとすると子供のころの人見知りを引きずったままに地位と名誉を与えられて、未だになじまぬ役柄を意味不明の笑いで取り繕っているのではないかとさえ思わせた。
 院長先生は、昨日内科担当の医師が見せてくれたレントゲン写真を見ながら、やはり昨日聞いたことのおさらいをしてくれたが、検査の結果とか診察については何も新しいことはなかった。そんなわけで私が呼ばれたことの本題は、結局のところ、こんな調子で老父が騒ぎ続けるのならば、誰かが付き添わない限り病院では面倒を診かねるということだったのだ。
 「どうもねえ、この病状じゃ、いま病院を変わるわけにもいかないし、だけどあの状態じゃ、看護婦さんも診きれないと言うんだよね。このままというわけにもいかないんで…、どうしようか?」
 「どうしようか、と言いますと?」
 「ふむ、これからは、あなたが毎日付き添ってもらえますか? そうでないと…」
 「ああ、そういうことですか。でも弱ったなあ、僕は、夜だけ泊まりにくるのなら、なんとか出来るんですけれど…。一日中というわけにはいかないのですが…。実は、午後の3時ごろから6時ごろにかけて、どうしても抜けられない用事があるんですよ…」
 「ふうん…」
 「それが、たまたま今日から1ケ月間のことなんです。普段なら別に問題はないんですが…。あの…、実は、僕は、ちょっと宗教的な修行ということで、寒中の滝行というのをやっているんです。それが、たまたま今日、6日の寒の入りから始まって2月の節分までなんです」
 「滝行って、これ?」
 そういって院長先生は、不慣れな手つきで合掌してみせた。
 「はい。そういうわけです。今年で10年目になるんですが、今さら中止するわけにもいかないもんですから…」
 「へえ…。それじゃどうしようかなあ…」
 院長先生は、どうやら持て余しぎみの話題に直面して、要領を得ぬままに苦笑いをしていた。
 「僕は、いま親父とふたりだけですので、あと誰かが付き添いにくるとすれば、東京の兄のところから来てもらうしかないんですが、兄のところでも、いま母がパーキンソン氏病で寝たきりなもんですから、おいそれと誰かが出てくるというわけにもいかないんですよね」
 「へえ、お母さんは、どこに入院してるの?」
 「いや、現在は自宅療養です。ですから、兄嫁が掛かりっきりなんですよ。そんなわけですので、なんとか、ご無理がお願いできるものなら、もうしばらくこちらで面倒を診て頂きたいのですが」
 「ふうん、それじゃ、なんとか考えなきゃならないな…」
 「申し訳ございませんが、なんとか宜しくお願い致します。
 それと昨日の様子を見ていて感じたことなんですが、親父が今朝まで大暴れしていた原因は、膀胱に通してあった管だと思うんですが、どうも、あれが不快で居ても立ってもいられないという感じなんですよね。ですから、もし外の方法があるのなら、あの管を中止して頂ければかなりおとなしくなると思うんですが」
 「ふうん、そうねえ…」
 そんなわけで病院の方から、付き添いの家政婦さんを付けてはどうかと提案された。しかし、家政婦さんを付けるとすれば、現在の私の経済力では賄い切れないことになりかねないと思われたので、何はともあれ東京の兄に相談してみなければならないのだ。しかし出来ることなら兄に迷惑を掛ける前に、なんとか私の都合を付けて老父の面倒を診られる方法はないものかともう一度考えてみることにした。
 もっとも私が滝行を断念すればそれですべて解決というわけであるが、今年で10年目を迎える滝行をいまさら断念する気にはなれなかったのだ。いや、むしろ老父がいかなる病状であれ、私は滝行こそを先行すべきものと考えていたのだ。
 しかしそれは、私の滝行が老父の病気平癒を祈願して行われるということではなく、病気平癒の祈願などではかえって救済しきれぬ老父の自愛的欲望を生き延びさせるだけだと見定めて、むしろ闇雲な生への執着を解除して平安にして安楽な未来を用意することのためにこそ不可決といえるものなのだ。言い換えるならば、神仏など糞食らえと唾も吐き掛けかねない老父の不信心にこそ、永劫の救済に向かわせる糸口を見付け出そうという企みであり、これはあくまでも<6F>とリンクした<何行>として実践されるべきものなのだ。
 つまり、老父がいつも不愉快な思いで見詰めていた<6F>が、自己否定的表現者と言いうる私の<何行者>としての生活そのものであるように、まるで戯れのこどき無目的性こそが目的であるとも言える<6F的滝行>は、今さら老父の病気平癒を祈願するという新たな目的性を持つまでもなく、すでに<何行>が老父と私との間でしがらみとなっている因縁こそを浄化しようという問題を抱えていることを見定めて、この与えられてしまっている因縁のど真ん中で、今こそ無目的性ゆえの自己完結に徹する覚悟なのだ。
 この自己否定的表現者の無意味性によってことごとくのしがらみを解きほぐそうということは、たとえば老父の不信心が「わしはいらん、救われたければあんたらが勝手に救われたらええ」という形で無言のうちに望んでいるものがあると見定めて、この老父の不信心があぶり出したヒトビトの救済願望にこそ、私の修行によって老父が当然享受しうるはずの救済力を還元して、老父が望むと望まざるとに拘わらず老父に徳を積ませてしまおうというからくりなのだ。だから、もしも老父があからさまに救済を望んでいるとしても、それは老父の勝手ということになり、私は老父の救済など望んでもいない見も知らぬヒトビトの救済を祈願するというささやかな積徳によってしか、その手助けをするつもりはないのだ。
 つまり私の<何行>において考えている<救済>とは、神仏の霊力を受肉する願望成就として救済されるものと、自愛的欲望を制御し浄化することによって得られる平安というものを想定するときに、所詮これらが不離不即の関係にあるとしても、とりあえずは浄化力の方に重点をおいていこうという立場なのだ。
 したがって、<何行>がヒトビトとの欲望関係の真っ只中における無目的的な自己完結性として実践されるとすれば、私にとっては<とりあえずの反省力>になりうるけれど、ヒトビトにとってはまったくの無記ともいえる浄化力であるにすぎないというわけで、この浄化力にいかなる意味を与えようとも、それは係るヒトビトの人生観に任されることになるのだ。ただし<何行>によってもたらされる無記の浄化力は、所詮自愛的欲望を無力化する性質のものだから、老父と私のように互いに相手あってこその自分という関係を考えるならば、私の反省力が老父の自愛的欲望の無力化に影響を及ぼして当然というわけで、私が老父に対して意図的働きかけるまでもなく、これは反省的意味における救済力として常に用意されているということになるのだ。
 いずれにしてもそんな積徳は、すべてのヒトビトにあまねく降り注いでいるはずの利他の救済力が、たまたま何かの障害により不幸にして具現化することが出来ないという時の、マイナス要因を解消するささやかな手助けになるというだけのことにすぎないのだから、とめどもない欲をかいては、すでに与えられている救済さえも見落としてしまうという程度のものなのだ。
 そこで私は、この草津に行をしうる滝があれば、この病院に泊まり掛けでもなんとか行を続けられるのではないかと考えたのだ。たまたま家政婦さんを付けるについての説明をしてくれた看護婦さんが通り掛かったので、ちょっと尋ねてみた。
 「あの、ちょっとすいません。突然、変なことをお尋ねして申し訳ないのですが、この辺りに滝はありませんでしょうか」
 「ええ? 滝ですか? 滝っていいますと…」
 「はい、水の流れている滝です。あ、あの、草津の温泉公園の滝じゃまずいんです。凍っていてもいいんです。中に冷たい水が流れていればいいんです」
 「さあ、どうなんでしょうか、この辺に滝なんてあったかしら…。すいませんけど、あたし、よく分からないです」
 「そうですか、それはどうも。余計なことをお聞きしましてすいませんでした」
 看護婦さんは、突拍子もない質問にかなり戸惑っていた。
 ところが、そんな立ち話を病室から首を長くして聞いていた同室の若い患者さんが、私が部屋に帰るなり声を掛けてきた。
 「滝ですか?」
 「はい」
 「車で20〜30分ぐらい行けば有りますよ」
 「車で20〜30分ですか、ちょっと遠いいなあ…。それだと、今の条件と変わらないんですよね。せめて歩いて20〜30分ぐらいでないと…。この草津温泉の界隈にはありませんかねえ」
 「滝って言っても、大きくなくちゃいけないの? 小さいのはほとんど凍っちゃってるからね」
 「あの、実は僕ね、滝行って言いましてね、滝に打たれる修行してるんです。入れる滝なら、凍っていても氷を割って入るからいいんですが、でも行の出来るぐらいの大きさがないとね…」
 「ええっ、滝に入るの!! そんなことしたら死んじゃうよ」
 「いや、もう今年で10年目になるんです。毎年1月の6日から2月の3日まで、だいたい1ケ月間になりますが、その間は毎日なんです。僕は、いま北軽井沢に住んでいるんですが、北軽には修行できる大きな滝があるんです。浅間大滝ってご存じですか?」
 「いいえ、知りません」
 「今年は、親父がこんな調子ですので、滝行に行ってこちらへ来てというのが、ちょっと無理なんですよ」
 「あの…、滝行って、どうやるんですか?」
 ここで、すでに定型化された私の滝行物語を語ることになったが、唖然とした表情で聴き入っていた青年が、さらに好奇心を起こして聞いてきた。
 「あの、お仕事は何をやってらっしゃるんですか?」
 「うん、無職。ただね、絵を描いたり文字を書いたりはしてるけどね」
 「じゃ、絵かきさんですか?」
 「絵はね、滝行と同じで、修行ということになってますのでね、一日一枚づつ描いてますけど、それは売り物ってわけじゃないから、やはり絵かきじゃないですね。だいたい売れるようなものは描いてないんですよ」
 「へえ、じゃ、どんな絵なんですか?」
 「絵に興味がお有りですか?」
 「いや、そういうわけじゃないんだけど…」
 「それじゃ、絵の話になると長くなるから止めときましょう」
 「でも、生活はどうしてらっしゃるんですか?」
 「うん、無職とはいっても自由業ってわけでね、たまにアルバイトしてますよ」
 「たまにですか!! たまにじゃ食っていけないでしょう?」
 「そうね、でも、お金を使わなければ結構やっていけるんですよ」
 「へえ…」
 もともと私は「あなたは何をしている人ですか?」と聞かれやすい体質ではあるけれど、最近ではそれに慣れてしまったために、かえって「私とは一体何者でしょう?」と反問することになる回答でヒトビトの常識的臆断を翻弄して楽しんでいるのだから、そんな私のいたずらに取り込まれた青年は、不思議なおじさんに遭遇していまだ納得できないことだらけで困惑しているのだ。
 それにしても滝行と老父の看病が両立しない以上、東京へ電話をして今後の看病について相談しなければならないのだから、いつまでもこの青年の好奇心に付き合って遊んでいるわけにもいかないのだ。私は急いで廊下の公衆電話へと向かった。
 電話では、老父の昨晩の顛末を報告し、家政婦さんを付けなければならない事情を説明した。先程の看護婦さんの説明によると、家政婦さんは患者二人で一人付けるようにすれば、一日当たり約5,000円で済ませることが出来るということだったので、とりあえずは老父の病状がもう少しはっきりするまでの間、この方法で家政婦さんを頼むことにしようということになった。
 そして兄はこちらに車を持ってくるついでに子供たちを乗せてくるつもりであるが、どうせなら早いほうがいいというわけで、今日の昼過ぎに東京を発ち午後7時ごろに直接病院の方へ来る予定にしているとのことであった。私は、もっと先の予定になると思っていたのでびっくりしたが、実は子供たちの冬休みが明日の7日までしかないため、もし子供を連れて来るとすれば、今日一晩北軽井沢に泊まり明日の昼過ぎに電車で帰るという予定にしたほうが都合がいいということなのだ。
 看護婦さんに、家政婦さんをお願いする旨伝えると、さっそく今日の昼過ぎから家政婦さんが来てくれることになった。そこで老父に、今晩、兄が子供たちを連れて見舞いに来ることと、家政婦さんを付けたことを知らせた。
 「ほうか、子供らが来るのか。そりゃ楽しみだ。ところで、きにょうは、何んだってあんなに血を出したんじゃったかなあ…」
 「おじいちゃん、あれは今日、夜明け前のことですよ。おじいちゃんが暴れたので、おちんちんから膀胱に入れてあったパイプが抜けてしまったんですよ。無理やりに抜いてしまったもんだから、血が噴き出してしまったんですよ。おとなしくしてないと、治りませんよ」
 「ほうか…。えらくたくさん出たもんなあ…」
 どうやらボケてはいるものの、だいぶ落ち着いているようなので、私は、一度、北軽井沢へ帰ることにした。ところで今日から家政婦さんを二人付けで頼むことになったので、いままで同室だったおばさんが部屋を変わり、老父と一緒に家政婦さんを頼むことになるおばあさんがやってきた。私は、老父との大乱闘で一晩中迷惑を掛けてしまったおばさんに申し訳がなくて、おばさんが部屋を変わるときには一緒に荷物を持って次の部屋までお共したのだ。これがせめてものお詫びのしるしであった。もう一人の青年の方は、すでに午前中に退院の予定だったので、今日この病室は老父とおばあさんの二人だけになることになった。
 ナースセンターには夕方再び戻ってくることを伝えて、私は病院を後にした。
 ところで帰りの交通費は約4,000円しかないのでバスを乗り継いで行かなければならないのだ。草津温泉午前9時50分発のJRバスで長野原駅に行くことにしたが、バスは正月休みを終わったスキー客で混雑がひどく、何本か後の各駅停車に乗らざるをえなかったため、結局長野原駅に着いたのは、10時半ごろだった。
 ところが北軽井沢行きのバスが午後1時23分までの3時間に亙って無いのだ。つまり、3時間後にこのバスに乗ったのでは、今日から始まる滝行の準備がまだ出来ていないため、滝行が間に合わなくなってしまうのみならず、再び病院へ戻ってくることについてさえ様々な支障を来すことが予想されたのだ。そんなわけで無為に長野原駅で3時間も過ごすわけにもいかず、なんとか午前中にでも北軽井沢にたどり着ける方法を考えなければならなくなった。しかし、手持ちの現金はバス代620円を使ってしまったため3,000円台になっていたので、長野原からタクシーで帰るという5,000円以上かかる方法は断念しなければならないのだ。
 そこでよく調べてみると、長野原発11時11分の大前行きという下りの普通列車があり、万座鹿沢口に11時26分に着けることが分かった。この万座鹿沢口駅から北軽井沢まではタクシーしかないが、タクシーで20分くらいの道程は、長野原から北軽井沢までのタクシー代の60〜70%くらいのはずなのだ。つまり万座鹿沢口までの電車賃220円を払っても、残りの約3,800円があればなんとか帰り着ける計算になる。
 さて、40分ほど待って大前行きの下り列車に乗り午前11時26分に万座鹿沢口に着いた。ここからは、やはりメーターを気にしながらのタクシーではあったけれど、昨日からの慌ただしさを振り返る余裕を取り戻して北軽井沢へ向かうことになった。春のように暖かい快晴の空に、雪は少ないとは言うものの雄大な浅間連峰が立ち上がる姿に見取れながら20分余りの時間を過ごした。結局タクシー代はなんとか2,550円で収まり、ちょうど1,000円ぐらいの金を残こすことが出来た。家に着いたのは12時の10分くらい前であった。
 まだまだ今日の予定はびっしり詰まっているのだから、北軽井沢に戻ったからといってのんびりしているわけにもいかないのだ。何はともあれ銀行に急がなければならない。銀行からそのまま買い物を済まして家に帰る途中、AS さんの家の裏を通り掛かったときに、ちょうど SA さんの奥さんが2階の窓を開けたところだった。牧草地越しに窓から声を掛けられて、私も素通りすることが出来なくておじゃますることになった。
 昨日はせっかくお茶のお誘いを頂いたにも拘わらず失礼してしまったことの詫びを言い、さらに老父の入院という大騒動について語った。そして、今日もまた滝行から帰ったら再び病院に行く予定にしていることを話すと、SA さんが草津まで送って下さると申し出てくださったのだ。それには私も気が引けて辞退したのであるが、それは今度 SA さんが乗り換えた新車の試運転を兼ねているということだったので、なんとなく私の方も気が軽くなりご好意に甘えることになった。
 さて、なんとか本日の予定が整ったところで私は水浴びと勤行を済ませ、さらに本日よりの滝行の準備に取り掛かった。午後4時ごろになってようやく浅間大滝に向けて出掛けることが出来た。例年からすると約1時間ほど遅くなってしまったが、この時間でもまだ薄明かりの5時ごろまでには滝に入れるはずだから、それほど支障はないと思われた。
 それにしても滝行の往復2時間の行程で歩きながら考えたことは、老父の病状がこのまま持続するにしても、なんとしてもこの行を貫徹しなければならないということであったのだ。それは、すでに病床にある母の病気平癒さえもまともに祈願することのない、いわばヘソ曲がりとも捻くれ者とも言われかねない私の<何行>とやらの自己検証の歩みなのだ。
 そもそも私の<何行>とは、芸術的な美的価値だとか宗教的な神聖さに纏わり付く真実なるものへの懐疑的な反省的視座を手段としているのだ。それは芸術的価値や宗教的真実によって感動し救済されるということが、そもそも排他的なあるいは独善的な差別的営為であると見定めざるを得ないという、とめどない反省的立場によるものなのだ。
 たとえばいま宗教的救済について考えてみるならば、宗教によって救済されるという行為と経験は、信仰の対象を絶対化すると同時に自己同一性を獲得するという構図の中でしか語ることが出来ないわけで、そこで「救われる自己」とは「救われるために努力する行為者」でありつつ「救われていると実感する経験者」なのだ。この救済を行為と経験によって獲得する者が、信仰という<何かを何かとして確信させる働き>のみによっての自己正当化に埋没してしまうならば、それは信仰の対象を絶対化すると同時に「救われる自己」をも絶対化することになってしまうのだ。
 ところが、すでにわれわれは、この地球上に数限りない民族が存在し彼らがことごとく彼ら自身の神話や宗教を育み、おまけに数限りない神話や宗教がことごとく世界の始めについて何事かを語っているという事実を知ってしまっているのだから、いかなる神話であれ宗教であれ、もはや世界や宇宙の始源について言及する権利も権能も持ち合わせていないことを知っているのだ。つまり、いかなる信仰の対象であれ、それがこの世界に君臨する唯一絶対神たりえぬことを知っているということなのだ。したがって、科学的視座が自らの合理的思考によって宇宙を包括する統一的なる原理を発見しこれを神と名付けるにしても、私はその科学的地平をも反省の対象にしていかざるをえないのだ。
 いずれにしてもヒトビトが救済を信仰というものによって獲得しようとする限りは、ことごとく相対化されていかざるを得ない関係の中で、独善的に自己と神を絶対化しつづけるという迷いの中に埋没してしまうのだ。言い換えるならば、「信ずる者のみが救われる」というその排他的な独善性こそが宗教的救済の発想であるのだから、信仰によってしか獲得されない宗教的救済とは「信じない者は救わない」という排他的な差別性によってこそ保証されているというわけなのだ。
 それゆえにこそ信仰者たちが布教活動によって語る言葉は「目覚めよ、あなたはすでに神により仏により生かされていることに目覚めよ」ですべてなのだから、ヒトビトの無関心にも拘わらず、彼らの言う「信じない者」は<迷える者>とか<無明者>として自らの宗教観の中へ救済可能性として取り込んでいかざるをえないのだ。しかし彼らがいかなる情熱を持って布教活動に専念しようとも、彼らは相対化された真実によってしか自らの救済論を正当化しえないのだから、彼らが自らを絶対化すればするほどヒトビトから相対化されつつヒトビトを排斥して、自らの存在とその目的を空しくしてしまうのだ。
 つまり、私の言う宗教的真実への反省とは、この独善的な排他性と差別性にこそ向けられるものであるのだから、<何行>を宗教の地平で語るとするならば「信じない者こそが救われる」べきであると言える宗教的営為でなければならないのだ。したがってこの<何行>を徹底するならば、いずれはとめどない欲望ゆえに滅亡せざるを得ない人類がまたいつかどこかで欲望を動機として生起するときに、「何かが何かでありつづけようとする力」の均衡と崩壊によって始まるはずの宇宙的営為にこそ照準を定めて、宇宙の現象化を阻止するために、ほとんど取るに足らない浄化力になれるかもしれないという程度の惚けたものにしかならないのだ。
 しかし私には、この惚けた発想によってしか仏教がその最終目的とする涅槃には到達しえないという思いがあり、しかもそれが『スッタニパータ』や『ダンマパダ』を拠所として釈尊の言説を辿っていったときに、霊的世界観の迷いを踏まえた宗教批判であったはずという素朴な思いを実践していく道にもなっているのだ。
 したがって、私は宗教へのとめどない反省を貫くことによってしか宗教者たりえないのだから、いまさら老父や母の病気平癒を願ったとしても、それは「信じない者こそを救いたい」という祈願にしかならないのだ。
 そんなことの検証を進め猛然とスピードアップして歩いた甲斐があったのか、6時ちょっと過ぎには帰宅できた。行衣などの後始末が終わるとすでに午後6時半、私は食事をする時間もなく AS さんの新車で草津まで送って頂くことになった。
 東京より、兄が子供たちを連れて病院へと来る予定になっているが、 AS さんは、もしも兄たちが東京から来なかったときの私の帰り足までも心配してくださって、兄たちが来るまで待っていて下さったのだ。
 兄は寒冷地装備の不十分な車のため凍結の予想された倉淵からの峠越えを回避して、多少は迂回になるけれど安全な渋川からの道を来たそうであるが、夜の慣れない道であったので途中で迷ってしまったと言っていた。そんなわけで兄たちが病院に着いたのは、ほとんど8時近くになっていた。
 老父は、すでに寝入っていたので、子供たちが来てもかなり虚ろな反応しかなかった。われわれは、今日から来てくれた家政婦さんに、また明日午前中に改めて来ることを伝えて病院をあとにした。暖冬にしては珍しくここ2〜3日は−10℃まで冷える日が続いているが、東京の子供たちにとっては感動的な寒気の中を午後9時半ごろになって北軽井沢に到着した。車を奥まで入れてまた出すときに難儀してはいけないと考えたわれわれは、車を J さんのホテルに置き深々と迫る寒気と冴々とした星空に抱かれて牧草地を抜けた。たぶん子供たちは、言葉にならない厳粛な夜の霊気に戸惑いつつも、その得体の知れぬ活性力に目を見張る未知との遭遇に、意味不明のVサインで「ヤッタネ!!」を示してしたのかも知れない。
 この日の夜の食事はかなり遅くなってしまったが、私の家にしてはめずらしく四人でテーブルを囲む賑やかな食事になった。しかも食事は、私に余計な心配を掛けぬようにというママさんの心使いにより東京から用意してきたもので賄われた。食事が遅かったので風呂を沸かして入る時間もなく、子供たちはベッドの電気毛布が暖まるのを待つほどの余裕もないままに、一つのベッドで得体の知れぬときめきを抱えて早い眠りについた。
 兄はコタツに入ると同時に日ごろの疲れがどっと出たのか、グラスのウイスキーもそのままですっかり寝入っている。私は慌ただしい一日の終わりになってようやく<6F>の時間を確保することができたが、それにしても4日からの3日間というものは、私本来の平穏無事な日々に比べれば、何ケ月分にも当たるほどの忙しく変化に富んだ日々であったというわけなのだ。




36.横綱になれない


 翌 7日、私は8時に起きる予定をしていたが、うっかりと9時まで寝過ごしてしまった。みんなも疲れていたのか私が起きるまでは同じように寝っていた。われわれは予定より少々遅れてしまったけれど、それでもみんなで遠足気分の朝食を済ませ、そして町の雑貨屋さんに寄って家政婦さんから頼まれた洗い桶と果物ナイフを買い込み、なんとか11時までには病院に向かって出発することができた。
 老父はかなり元気で、昨日と一昨日に比べると体調の方も見違えるほどの回復ぶりなのだ。老父は子供たちが来てくれたことを非常に喜んでいたが、子供たちは年寄りだけの病室ではしゃぐわけにもいかなくて、何もすることのないまま手持ち無沙汰の様子であったけれど、老父にとっては孫がそばにいるというだけで何か気が晴れる思いをしていたのかもしれない。
 私は、家政婦さんに夕べの老父の様子を聞いてみたが、このときは「ええ、大丈夫でしたよ」と軽い笑顔を返してくれた。どうやら膀胱にパイプを通していないだけでも気分が楽だったのかもしれない。
 日当たりの好い広い病室は老父ともうひとりのおばあさんだけだから、われわれは食堂で買ってきた缶ジュースやコーヒーを飲みながら空いているベツドに横になったりして、かなりのんびりとした時間を過ごした。たまたま病室の窓の下に、病院の正面玄関で昼休みを目当てにした行商の車が店開きしているのが見えて、われわれは物珍しさと同時にしたたかな商法に感嘆の声を上げた。それは病院の職員を顧客としているというよりも、むしろ入院患者を当てにしているような品揃えにも思われた。
 私は窓から子供とともに覗き込み、「あの、黄色いのは何んだろう?」とか、「あれ、見てご覧、お菓子なんかも売ってるよ」というわけで、なんとものどかな一時だった。私は子供たちに、老父と家政婦さんのためにみかんを買ってくるように頼み、何か自分たちの欲しい物があったら買ってもいいと言ってお金を渡した。子供たちは、みかんとビニールパックされたとうもろこしを買ってきたが、どうやらそのとうもろこしが、さっき見ていた黄色い物の正体だったのだ。
 ところで、兄は長野原発14時57分の草津6号で帰る予定をしていたため、2時ごろには病院を発つつもりであったが、私は、せっかく子供たちを連れて来たのだから、草津のスキー場くらい見物していったらどうかと提案した。子供たちもその意向であったため、草津見物の時間を取ることにして午後1時半ごろに病院を出ることになった。
 われわれは、老父のために何か特別なことをしてあげたわけでもないけれど、2時間余りのわずかな時間は、多分老父にとっては何ものにも代えがたいのんびりとした団らんの時であったはずなのだ。老父は、すっかり好々爺の風情で帰り際の子供たちを呼び寄せて、それぞれにしっかり勉強するようにというメッセージなどを与えていた。
 私は、兄と子供たちと共に天狗山スキー場に回り、それから湯畑へ下り温泉街を一回りしておみやげ屋などを覗いた後に国道へ出た。先日 SA さん宅に伺ったときに、草津の亀屋さんという温泉まんじゅう屋さんを紹介されていたので、われわれはここに寄って東京へのおみやげを買った。私はこの亀屋さんから、 SA さんへのおみやげとして野沢菜の漬け物を言づかった。
 長野原駅に着いたのは午後2時20分ごろであった。14時57分発 新特急草津6号の改札まではまだ時間があったけれど、私はこれから北軽井沢に戻って滝行に行かなければならないため、見送ってあげられないことを詫びてここで別れることにした。
 私は、みんなが乗ってきた車をそのまま借り受けて北軽井沢へと戻った。車は家まで入れられないため、しばらくは J さんのホテルに置かせて貰うことになった。
 この日、滝行に出掛けたのは普段よりも40分遅れて3時40分ごろになってしまったので、滝から戻ったのはほとんど6時を過ぎて真っ暗になっていた。それにしてもこのまま暖冬が続くようでは、何か緊張感の乏しい行に終始してしまうような気がするが、そんな緊張感を補うわけでもないけれど何かと時間に追われてせわしなくて、しかも老父の病状によってはいつ中断することになるか分からないという不安の付きまとう滝行になりそうな気がしてならないのだ。
 1月8日、11時ごろに家を出て J さんのホテルに寄り、東京から持ってきた車で病院に向かった。多分これからしばらくの間は特別な大雪にでもならないがぎり、この時間にこの車で草津まで通うのが日課になるであろうと思われた。
 家政婦さんは、老父が毎晩暴れてしょうがないとこぼしていた。
 「もう、一晩中なの。こっちは寝る時間がなくなって…」
 「そうですか、申し訳ございません。実は、僕が泊まり込んだ初日もそうでした。そのときは膀胱にパイプを通していたものですから、それが厭で、大暴れしたんです。最後には、もうプロレスまがいの乱闘になってしまったりしてね」
 よく話しを聞いてみると、家政婦さんを頼んだ初日にもかなり暴れていたようであったが、家政婦さんは、われわれが大勢で押し掛けていたので、なんとく言いそびれていたようなのだ。しかし、いずれにしても家政婦さんの言わんとする情況が、私には手に取るように分かるため、家政婦さんには想像以上の迷惑を掛けてしまったことを詫びなければならなかった。
 老父が暴れる原因というのは、どうやら昼間寝てしまうため、余計に夜中に目覚めてグズグズ言うそうなのだ。そしてそのグズグズの主な原因は、酸素吸入機をつけているため絶対安静でなければならないにも拘わらず、オムツが厭なのでトイレへ連れて行けということなのだ。
 ところで主治医よりの病状の説明があった。それによると先日の胸水の検査及び血液検査の結果からすると、診断はやはり癌であるということだった。
 「そうですか、去年の4月ごろから悪性腫瘍の可能性があるとは言われていましたから…。やはり、そうだったんですね。でも、どうしてなんでしょうか、ほとんど痛みなんてありませんでしたからね。もともとかなり大袈裟な人ですから、ちょっとでも苦しければ大騒ぎをしたはずなんですがねえ…」
 「ううん、どうしてかなあ…」
 「歳を取ると鈍くなるってことなんでしょうか?」
 「まあ、そういうこともあるかも知れないなあ。それで、患者さんは、お歳もお歳ですから、いまおなかを開いて苦しめるよりも、このままでなんとか持ち応えられるようにして差し上げる方が好いと思うんですが…。ま、はっきり申し上げて、これで万が一のことがあったとしても、やはり寿命ということではないでしょうか」
 「はい、そう思います」
 「それで、もともとの原因になるところは、胆嚢か膵臓辺りの癌ということだと思います。それにしても検査の結果によると、癌の存在を示す値が異常に高いもんですから、多分、この状態ですと、おなかの中はほとんどの部分に転位しているんじゃないかと思われます」
 「そうですか。そうしますと、先日は、緑色のものを戻したりしていましたから、やはり膵臓辺りが悪かったというわけなんですね」
 「緑色のものですか…。誰に言われました?」
 「いや、以前にそのようなことを聞いたことがあるもんですから…」
 「ふむ、そうねえ…。どうなのかなあ…」
 それにしても、東京女子医大における去年の4月と6月の血液検査の結果から癌の可能性が言われてから、せいぜい7〜8ケ月のことで手の付けられない状態であるというわけで、それから考えてみると、老父の場合は90歳を過ぎていながら壮健な体格を維持していただけ癌の方も元気だったということなのかもしれない。
 そもそも始めに癌の可能性が言われたときでさえ、この歳なら癌との共生ともいうる状態が考えられるのだから、何もしなくても2年や3年、場合によっては4年、5年と存命の可能性があると考えられていたわけで、このことからしても逆説的に老父の体が歳不相応に頑健であったということになるのだ。
 家政婦さんを付けたとはいうものの、老父がおとなしく入院していてくれるという保証はないのだから、結局は、予想したように私が毎日様子を見にいかなければならないようなのだ。
 9日、私が病室へ行ったときには、老父は何か検査があったようでベッドに居なかった。 しばらくして老父は看護婦さんに押された車椅子で戻ってきた。顔見知りの看護婦さんが、私が来ていることを知って老父に声を掛けた。
 「ああっ、コヤさん、誰か来てるわよ」
 「ああ、あんた来とったのか。看護婦さん、これが次男なんですよ」
 老父の言いかたが、まるで好々爺を気取り、しかも看護婦さんに甘えるような態度だったことが、いかにも老父らしい見え透いた演技に思われて滑稽であった。
 この日は体調も良かったのか、かなりご機嫌であった。ベッドに入ってからも、毛布から両手を力強く突き上げて握り拳を作り、内側にねじったり外側にねじったりしていた。やはりこのところの食欲不振が応えているのか、ほんの少し腕が細く感じられた。
 「どうじゃろうか、痩せたかなあ…」
 「んん、たいして変わらないよ」
 「そうかなあ、それならええんじゃ。このところ、すっかり弱ってしまったからなあ…」 それも、悲壮感などとは無縁のもので、いずれはすぐに元通りに回復してみせるさという自信に満ちたものなのだ。
 しかし、この元気で夜中にわがままを言ったりボケられてしまっては、付き添いという仕事も並大抵のことでは済まされないはずなのだ。だから老父がここで元気を誇示すればするほど、私は家政婦さんに合わせる顔がなくなる思いがした。そんな肩身の狭い思いが続くので、この日は病院行く途中で亀屋さんに寄って温泉まんじゅうを買っていったので、いろいろと迷惑をかけている家政婦さんにお詫びのしるしとして置いてきたのだ。
 北軽井沢に戻ってから滝行まで少々時間があったので、亀屋の温泉まんじゅうを持って SA さん宅に寄った。話はもっぱら老父の入院生活におけるボケ話に終始したが、それゆえに私は病院に行くたびに、迷惑を掛けてしまう回りのヒトビトに気兼ねして日に日に身が細る思いであることを語った。しかし、 SA さんの奥さんが言われるように、老父の病気がはっきりと癌であることが判明したにも拘わらず、激痛に襲われて大騒ぎをするということがないだけ、まだ救われているということなのだ。
 ところで SA さんの奥さんが、11日の月曜日にやはり二之沢草津病院に定期検診で行かれるということだったので、月曜日には私も SA さんの新車に同行させて頂くことになった。
 10日、この日は北軽井沢は好い天気なのに、ここから見る限り低い雪雲に覆われた草津方面はかなりの降雪であることが予想された。東京から持ってきたノーマルタイヤの車では危険なので病院行きを中止する。もっともチェーンはあるのだから行って行けないことはないけれど、草津道路だけチェーンを付けるのが面倒に思われて、そのことが余計に気の重い病院行きを中止させる要因となった。それにしても、今年は近年まれにみる暖冬ということでこの辺りにはたいした積雪もなく、主要幹線道路にはほとんど雪のない状態なので、たとえ今日草津辺りに雪が降ってもまたすぐに溶けてしまうというわけで、まったく積雪対策のない東京の車でも十分に活用できる次第なのだ。
 11日、約束の午前11時半に SA さん宅に伺い草津まで同乗させて頂いた。
 老父は、この日、私がいる間もずっと夢うつつでしっかりしない状態だった。ちょうどレントゲン検査に行くところであったが、ほとんど体に力が入っていないため、重い体を抱えてようやくの思いで車椅子に乗せる。
 病室に戻ってから、やはり難儀してベッドに寝かせてみたが、老父はまるで何事も無かったかのように依然として眠り続けている。私はそんな顔をしみじみと見詰めていたが、入れ歯を外しているためか頬骨がやけに高くなり、おまけに伸びっ放しになった白い髭面はやはり病気にさいなまれた老醜を感じさせるように思われた。しかし、そんな私の思いとは裏腹に昏々と眠りを貧ぼる老父の様子は、老醜さえも何か下心あっての演技に思わせるほどのんきで悠々たるものだった。私は多少のいたずら心も手伝って、あたかも老醜の仮面を剥ぐように寝ている老父の髭をそっと電気カミソリで剃ってみた。
 老父はそんなことにもお構いなしに懇々と眠っている。家政婦さんに聞くと、このように昼間に寝てしまうため、やはり夜中に起きて何だかんだと無理難題を言って大騒ぎをするそうなのだ。
 「ほんとに、夜もこうやって静かに寝てくれればいいのに…」
 家政婦さんはちょっとすねたような口調で言いながら、老父の腰のあたりをポンとたたいた。どうやら気のよさそうな家政婦さんも、仕事と割り切ってはいるものの些か持て余しぎみに思われた。
 ところでこの日、病院からの帰りに SA さんの奥さんが、いつもの元気でこんなことを語ってくださった。
 「コヤさんねえ、今日は、あたしが、あの院長に良く言っといてあげたわよ。コヤさんて言うおじいちゃんは、あたしのお友達のお父さんなんだから、ちゃんと面倒診てあげなきゃ駄目よって。だからねえ、もう心配しなくったって大丈夫だからね。そしたら、院長が、ああ、ちょっとボケちゃってるおじいさんだろうって言ってたよ。だから、そうだって言っといてやったの」
 そもそも私が、この草津の二之沢病院を始めに教えて頂いたのは、 SA さんの奥さんからだったのだ。 SA さんの奥さんは、すでに大病で二度も大手術をされた体で、その影響からいま片方の足にかなりの浮腫みが出ているため、温泉治療を兼ねたリハビリでこの病院へ通っているのだ。そしてその飾り気のない性格で、それでいて人を引き付けてやまない人柄は、さっそく若い院長を掌握して御するに至ったというわけなのだ。もっとも院長は、画家である SA さんの奥さんから無償で立派な作品を頂いているのだから、今さら文句の言える立場にはいないのだ。しかも外科医である若き院長にとって、 SA さんの奥さんの以前の大手術は、それぞれ当代屈指の名医の執刀によるものであったのだから、その完壁なまでの仕事の跡は、見事な生きる教材という意味において近寄りがたい存在であったということなのだ。
 12日、私が病院へ行くと、家政婦さんがかなり憔悴した様子なのだ。老父の無理難題とわがままが過ぎるようで、些か手に負えないということなのだ。昨日と一昨日の夜は、かなり大暴れをしたという。
 多分老父にとっては病気による痛みが不機嫌にさせると言うよりも、なんとも身の置き所のない倦怠感がいたたまれない思いにさせているようなのだ。そんなわけで、誰彼なくかんしゃくを起こして当たり散らしているというわけなのだ。聞くところによれば、先日は先生にも食って懸かっていたそうなのだ。
 「貴様、わしを殺す気か!!」
 そう言って先生に掴み懸かっていったというのだ。
 しかもこのところ食欲がないというから、老父にとっても、そんな自分がいらだたしいのかもしれない。ところで食欲のない老父のために、なんとか牛乳でも飲ませようとして家政婦さんもかなり意固地になっていた。
 「ほら、おじいちゃん、ご飯もあんまり食べないんだから、牛乳ぐらい飲みな…」
 それでも老父はもうろうとしていて牛乳を飲もうとはしない。
 「牛乳の方が栄養があるから、牛乳を飲ませようと思うんだけど、どうしても飲まないのよねえ…。それでも水だと飲むのよねえ…」
 そこで私が老父の様子を見ると、口の中が粘りついた唾液でいっぱになっていて、呼吸さえもガボガボいわせている有り様だから、老父にしてみれば牛乳など飲める状態ではなかったようなのだ。私は老父の頭を抱えて起こし、ティシューを口の中に押し込んで粘った唾液を掻き出した。すると老父は、私が差し出した水をうまそうに飲み始めた。
 「おじいちゃん、水の方がいいの?」
 「ああ…」
 老父は家政婦さんの挫折感を尻目に満足げであった。そこで私は、家政婦の善意を取り繕うために言葉を掛けた。
 「どうやら本人が、水の方がいいと言うんだから、仕方ないみたいですね。もう無理して牛乳を飲ませなくてもいいんじゃないのかな…」
 「そう、みたいね。じゃ牛乳は片付けちゃおうね」
 意固地になっていた家政婦さんも些か諦めたようであった。
 ところで最近は殆どオムツで用を足しているようであるが、やはり老父にとっては、それが耐え難い屈辱になっているのだ。そんなわけで家政婦さんにも十分な手当をさせないらしく、かなりひどいおむつかぶれになっていた。
 「ここの温泉は皮膚病によく効くはずだから、風呂場から温泉を汲んで来ましょうか」
 「ああ、そうなんですか…。じゃ一度、温泉で拭いてみましょうか」
 私は大きめの洗い桶に一杯の温泉を風呂場から汲んできたが、無論一度や二度温泉を使ったからといってただれた部分がすぐ治るとは思われないが、すべて家政婦さん任せで何もすることのない私には、何かしなければいられない気持ちだった。
 家政婦さんの話によると、昨夜はおしっこをするからと言って、オムツをしているにも拘わらず「便所へ連れていけ」と騒いでトイレに行ってくると、今度は帰ってくるなりオムツをする前にベッドで大便をしてしまったというのだ。しかも、それさえ十分な後始末をさせないというのだから、寝間着からシーツ、毛布に至るまで糞まみれの大惨事であったというのだ。よく見れば、まだあっちこっちには染みが残っているのだから、その様子からして昨夜の惨劇はかなりのものであったと想像できるのだ。
 それと同時に、老父の左腕にかなり大きな欝血の跡があったので家政婦さんに聞いてみたら、それは点滴の針を勝手に抜いてしまったため、血管に入らなかった液体が皮膚の下に溜まり大きく腫れ上がったためのものであるというのだ。それは取りも直さず、こんな大きな欝血になるほど放置されていたということの証明でしかないのだから、もはや家政婦さんの手には負えない情況になっていると言えるのかもしれない。
 13日 老父とおばあさんだけだったこの六人部屋もいつの間にか一人二人と増えて五人になっている。この日から入院したらしい患者さんとその家族が、廊下側の左のベッドに集まり、まだ緊張感の解けぬ顔で額を寄せて話をしている。これから始まる闘病生活への不安を払拭するオリエンテーションなのかもしれない。
 家政婦さんに聞くと、老父は相変わらず夜中になると騒ぐらしい。普段口数の少ない家政婦さんが、この日はかなり持て余しぎみで語ってくれた。
 「とにかく言うことを聞かないのよねえ、わがままなのね。何をしてあげても厭だって言うし、気に入らないと、人のこと蹴っ飛ばしたりするの。おじいちゃん、なんてことすんのって、叱ったら、きさまなんか出て行けですって。もう、面倒診てあげないよって言ったら、ああ結構だだって…」
 「そうでしたか、申し訳ございません。せっかく面倒を診て頂いているのに、すいませんです」
 「いいえ、あたしは、仕事ですからいいんですけれど、でも、こういう性格っていうのは、損なたちですねえ」
 結局、わがままがひどくて面倒を診る甲斐がないということなのだ。それゆえにこそある程度は放ったらかしにされても仕方ないということになる。だからといって、私はそれに異議を唱える立場にはいないのだ。
 「きのうなんか、ひどくグズルもんだから、どうしたらいいんだか分からなくて、じゃ勝手にしなさいって言ったの。そしたら、きさま、わしの言うことが聞けないのか、もしもわしがこのまま死んだら、恨んで化けて出てやるからななんて言うの…」
 「そんなことを言ったんですか、申し訳ございません。実は、家でも自分の気に入らないことがあると、いつもそんな調子なんです。かなりボケているってこともあるんでしょうが、わがまま一杯に自分勝手に90年間生きてしまったもんですから、一度興奮してしまいますと、何を言っているのか分からなくなってしまうんですね。いまさら治る性格というわけでもないものですから…。でも本当にすいませんでした」
 「いや、ご家族の方が分かっていらっしゃるのなら、私も多少は気が晴れるんです」
 いくら元気な老人であれいつ死んでもおかしくない老醜の身であれば、明日にでも現実のものに成り兼ねない呪いの言葉を投げ掛けられたのだから、たいていの人は身の凍る思いがしたはずなのだ。まったく家政婦さんには合わせる顔がないというわけなのだ。
 そんな身の細る思いをしている私に、寝ぼけた老父の悍しい声が響いた。
 「うおおいっ、早く起こせ」
 「んん? どうしたの?」
 「んん? あんたか…。ああ、ちょうどええ、ちょっと起こせ」
 そうは言うものの、まだ寝ぼけている様子なのだ。
 「起こせばいいんですか?」
 「ああ。早くせえよ!!」
 「お便所なの?」
 「違う!!」
 「じゃ起きなくったっていいじゃないか。何がしたいの?」
 「何がしたいって…、早よ起こさにゃしょうがないじゃろうが…」
 「しょうがないって…、何が? どうして起きたいのさ?」
 「つべこべ言わんと起こせばえじゃないか!!」
 「絶対安静なんだから、寝てなきゃ駄目でしょうよ」
 「きさま、わしが起こせと言うとるんだから、わしの言う通りにすればええんだ」
 「だから、何んで起きるんだよ?」
 「いま起きにゃ、しょうがないじゃろうが…」
 「だから、どうしてなの?」
 「いま起きにゃ、横綱になれないじゃないか!!」
 「ヨコヅナ?! なんでまた、横綱なの? もう、おじいちゃんは90歳だよ、その歳で、いまさら横綱になんかならなくたって良いでしょう」
 われわれのやり取りを聞いていた同室の患者さんたちが、思わず噴き出していた。
 「うんにゃあ、何を言うとるんだ。わしは、一刻も速く横綱にならなきゃならないんだ。そんなことは、分かっとるじゃないか。ほら、早よ起こせ!!」
 「おじいちゃん、どうして横綱なんかにならなきゃいけないの?」
 「あああっ、ぐずぐず言わずに早よせえよ」
 「じゃ、おじいちゃん、起こせばいいんだね? 起こせば横綱になれるんだね?」
 「そうだよ。何をぐずぐずしとるんじゃ。わしは、1分だって早くしなきゃならないんじゃ。この時機を逃したら、もう横綱になれないじゃないか」
 「どうして、そんなに急いでいるの?」
 「どうもこうもないじゃろうが。わしにはこんなにたくさん弟子がいるのに、いま横綱になれなきゃ、みっともないじゃないか。速く起こせよ!!」
 いままで家政婦さんの切実な訴えに緊張していた病室の空気は、もうすっかり弛緩してしまっていた。
 「じゃ起こすよ。これでいいの?」
 「ちがう。何をしてるんだ。わしは起こせというとるんだ!!」
 「だから起こしたんじゃないか…」
 「うんにゃあ、違う、そうじゃないんだ、元通りにしろ!!」
 「じゃ寝せればいいんだね?」
 「……、どうしたんじゃ。どうして起こさないんだ。わしは起こせと言うとるんだ」
 「いま起こしたら、違うと言ったじゃないか」
 「きさまら、わしの言うことが分からんのか。こっちを向いて起こすんだ!!」
 「それじゃ、こうかな? どうですか?」
 「ちがう。元通りに起こせばええんじゃ!!」
 「何を言ってるんだよ。元通りにしたらまた寝ることになっちゃうよ。いいの? 元々は寝てたんじゃないか」
 病室のどこからか含み笑いと同時に溜め息ともとれる声が聞こえる。
 「ああ、それは、大変だ…」
 どうやら私へのいたわりの言葉にも聞こえた。
 「ええから、元通りにしろ!!」
 「はいはい、じゃ、寝せるよ」
 「ああ」
 それと同時にさんざん動き回ってはだけた毛布を整えると、老父はそのままおとなしくなった。気が付けば老父はずっとムッツリとした顔で目を閉じたままだったのだから、どうやら私は、老父の夢に突き合わされていたのかもしれない。思わぬお惚けですっかり弛緩させてしまった病室の空気が、やはり家政婦さんの表情にもゆとりを持たせているのが感じられた。
 「まったく、何んの夢を見てるんだか知らないけれど、いまさら横綱はないですよね。寝ぼけてまで大騒ぎするんだから…。やっぱり毎晩こんな調子なんですか?」
 「そう…。それに力もあるのよねえ」
 気が付けば廊下からは大相撲中継のテレビの声がしているのだ。まさか、こんな小さな音が耳の遠い老父に聞こえたはずはないのにと思ってみれば、何か言葉にならない感覚の共時性みたいものを感じて不思議な思いがした。
 しばらくして、また老父がごそごそと動き始めたと思ったら、仰向けに寝ている老父が毛布の外に出している両手を胸元で合わせ、2〜3度軽く振った。
 「カミサマ…、ああ、神様、ありがとう。ありがとう」
 ほんの一瞬のことだった。そのまま手を戻すとまた元通りに寝息をたてている。ただ違うことといえば、いままでしかめっ面していた老父の表情が何かしたり顔でニコニコしていることなのだ。どうやらめでたく横綱にでもなれたのかもしれない。




37.エンゼル


 1月14日午前11時半ごろだった。そろそろ病院へ出掛けようかと思っているところに病院より電話が入った。電話はナースセンターに回されて、看護婦さんが出た。
 「今朝になって急に病状が悪化したんです。すでにチアノーゼも出ているのでICUに移されましたから、大至急来て下さい」
 「あ、あの、すいませんが、チアノーゼって何ですか?」
 「ええっ、そう…、原因は多分、呼吸困難によるものと思いますけど、足の方に紫色の斑点が出てきているんです」
 「それが出ると悪いんですか?」
 「ええ、良くありません。多分、酸素の回りが悪いわけですから」
 「はい、分かりました、それじゃ、すぐ伺います」
 そんなわけで早速病院へと向かった。
 冬の高原は擦れ違う車もまばらだから、いつものように快適に走れたし、まして穏やかに晴れ渡った暖冬の高原はまるで春のように心を和ませてくれるから、老父の危篤という知らせにも何か穏やかな覚悟みたいなものを感じさせてくれるのだった。ただ予想外だと思われたことは、老父が、あの持て余すほどの元気を抱えたままで、まったくあっけないほどの短期間で死と対峙する情況になっているということなのだ。それゆえに、もしも老父がこのまま死に至るとすれば、それはどう考えてみてもボケゆえの戯れのように感じられてしまうということなのだ。
 老父は、テープで固定された酸素マスクで猛烈な音を起てて呼吸をしている。
 老父のベッドの横には、いままでの病室のロッカーに収めてあった荷物が、すでにバッグにまとめられて置いてあった。このことが、もはや帰る部屋のない病状を語っているようにも思われた。
 私の到着を知って、担当医が入ってきた。
 「今朝になって急に悪くなったんですね。急にこんなに悪くなるとは思わなかったんですどね。チアノーゼも出ているんだけど、ひょっとすると、これは癌によるものかも知れないね。やっぱり癌でも、こういうふうに出るんですよ。さっきの血液検査では、酸素はけっこう回ってるみたいだったからね」
 「呼吸は、こんなものなんですか?」
 「ふむ、そうねえ、どっちかって言うと強すぎるぐらいかな…」
 「強すぎるって言いますと?」
 「いや、普通なら、この状態ですと、もっと弱いはずなんですよ」
 「そうすると、まだかなり持つということなんでしょうか?」
 「うむ…、それは何んとも言えないけどなあ…」
 「この状態で、急に駄目になるということは有り得るんですか?」
 「ええ、それは十分にあります」
 とりあえずの病状を報告するために、東京へ電話をする。兄は、たまたま老父が長いこと懇意にしていた同業者の H さんの葬儀で出掛けるところだと言っていた。兄も老父の病状悪化という連絡を受けて同じように感じていたようであったが、ひょっとすると老父は、この H さんに付いて冥途まで行ってしまうかもしれないと思われた。兄はもしものことを考えて、いくらか現金を用意しておこうかと言っていたが、私は、現在小康状態だから、しばらくはこのまま持つのではないかと答えた。
 ところで老父の病状が急変してICUに入ってしまったため、いままで面倒を診てもらった家政婦さんは本日で終了ということになった。
 「あんまりお役に立てなくてすいませんでした」
 家政婦さんはそう言ってくれたけれど、聞くところによれば、夕べもかなり大暴れをしたようであったから、しばしば家政婦さんが「夜になると起きてきて、わがままを言うのよねえ。このところ毎晩なもんだから寝る時間もなくて」と言っていたことを思い起こすまでもなく、さんざん迷惑を掛けてしまったのはこちらの方であったのだ。
 「きのうも、結構わがまま言ったりして元気だったんですよ。でもあんまり暴れたりしたんで急に悪くなっちゃったのかしらねえ」
 そんな状態だから、危篤と言われても夜と昼を取り違えて寝ているいつもの老父とそれほど違ったところは感じられず、ただ部屋が違うということと酸素マスクがテープでしっかりと固定されているということだけがいつもと違うだけなのだ。
 私は老父の病状が小康状態であるならば、東京の病院へ移したほうが好都合であることを担当医に相談してみたが、現在はそのような情況ではないということだった。
 夕方、病状も安定しているようなので私は一時北軽井沢へ戻り、日課になっている<6F>を済ませ、泊まりの支度をして再び病院へ戻った。どうやら10年目を迎えた滝行も老父の危篤という事態にひとまず中断せざるを得ないことになった。
 どれほどの長期的な滞在になるのかは見当もつかなかったけれど、老父を入院させた初日の泊まりと同様に洗面具にウォークマン、それと文庫本を入れ、今回は魔法瓶にコーヒーを入れて持ってきた。
 夜、再び東京へ電話を入れる。小康状態は変わらないので、何か変化があったらまた電話することにした。兄は、明日は早朝のアルバイトが休みだから、いつ電話してくれても大丈夫とのことであった。
 老父は相変わらず猛烈な音を立てて呼吸しているが、このICU室にはこの音も気にならない老人がもう一人寝ている。この老人は老父が前回入院したときに同室だった人で、歳は92歳とか言っていたが、老父いわく「ありゃあボケとるんじゃ。歳を聞いても明治32年生まれで92歳なんて言うとるんだから、自分の歳がよう分からんのだ。あんなにボケちゃ、もうおしまいだな」というわけで確かな歳は分からない。(因に昭和63年1月の時点では、明治30年生まれが90歳で、92歳ならば明治28年生まれになる)
 この老人はもと新潟の方で小学校の校長さんをしていたという人物で、その無表情な老人然とした風貌からは到底壮年期の厳しい顔など想像しえないのであるが、でもどこかに知的な面影を残している。無論老父と同様に明治生まれの頑固一徹であるが、老父のようにわがままを言って暴れるほどの元気はなく専ら欝々としているだけだから、そのおとなしい分だけ老父なんかよりは看護婦さんにかわいがられているという感じなのだ。
 食事の時などは看護婦さんが入れ代わりに来て面倒を見ているが、看護婦さんが食べさせようとすると「構うな」と首を振り、そのくせそのまま寝入ってしまう。そして次に来た看護婦さんに起こされる。
 「あらら、寝てないでごはん食べて…」
 「ああ、食べた」
 「ううん、ちっとも食べてないよ…」
 「いや、食べた」
 「だって、ほら、こんなに残ってるじゃないか…」
 そんなことを何遍か繰り返しているうちに、ふっと目覚めた拍子に今度はベッドの中で何かを探し始める。そばにいた看護婦さんが不審に思って尋ねる。
 「どうしたの?」
 私には聞こえなかったけれど、看護婦さんがびっくりして声を上げる。
 「ええっ、たばこを落としちゃったの?! 火がついてたのね…」
 看護婦さんが慌てて毛布をめくってたばこを探し始める。そこで私が、たばこなんか吸っていなかったことを教えてあげて一件落着なのだ。
 「なんだ、たばこなんか吸ってなかったって。びっくりするじゃない、夢見てたのね」 ま、そんな具合だから、ここは集中治療室とは言うものの、緊張感の中で切羽詰まった命が運命の脊稜を渡る戦いを繰り広げているわけではなく、もっぱらこの病院における高齢者のナンバーワンとナンバーツウの専用ルームといった感じなのだ。
 老父は終日点滴を受けていたけれど、昏々と眠り続けるばかりで病状には何の変化もなかった。夜になりチアノーゼは多少引いてきたようにも感じられたが、太もも辺りに新しく欝血した毛細血管が多数見られた。医師の言うところによれば、これも癌性の症状であるらしく、血液の凝固を阻止する機能が低下しているための症状だということであった。この宿直の医師は、昼間老父の症状について説明してくれた人ではないけれど、やはり同じようなことを言っている。
 「この状態だと、おなかを開いても、たぶん癌が全体に転移していて手が付けられなくなっていると思うよ」
 そう言われてみると、私としても返す言葉がなくて、またしても紋切り型の了解事項を語ることになってしまうのだ。
 「そうですか。もうそんなに悪くなっていたんですか。去年の4月ごろから、東京の女子医大では、血液検査の結果によると癌の可能性があるとは言われていたんですが…」
 「癌だと分かっていたのに、どうしてこんな山の中に連れてきちゃったの?」
 「いや、その時も、女子医大の先生ともいろいろ相談したんですが、もうこの歳ですからね、万が一癌だとしても進み方も遅いでしょうし、それに検査、検査で体をいじくりまわして、辛い目に合わせることもないんじゃないかということになったんですよ。それに、ちょっと家庭の事情もありまして、東京に置いておけなかったもんですからね…」
 「ふうん、まあ、年寄りの場合はね、抗生物質の副作用なんかで死んじゃうってこともあるしね。ま、結局は、寿命ということになっちゃうね」
 老父は相変わらず猛烈な音を立てて呼吸をしている。ところが、苦しそうな表情ひとつ浮かべるわけでもないのだから、ただマスクと顔との隙間から漏れる呼吸音が、不本意ながら静かな病室に響き渡っているだけのようにも思わせる。ひょっとすると、あれほど自己顕示欲の強い老父のことだから、この時とばかり呼吸困難を誇示して遊んでいるようにも感じられるほどなのだ。
 このところ毎晩のように夜中になっては起き出して大暴れをしていたというのだから、確かに、夜になっても起きることもなく昏々と眠っているとすれば、これが尋常ならざる事態であることは理解できるけれど、ここには死と対峙する病人の切迫した緊張感は存在していないのだ。これは、周りの者が病人の年令に対して抱く何等かの諦観であると同時に、約束された命が約束を果たすべく燃え尽きようとするときの、命そのものの持つ説得力とでも言うべきものかも知れない。
 たまに検診に回ってくる看護婦さんが老父に声を掛けていく。
 「コヤさん!! コヤさん!!」
 老父は目を開けることはないけれど、「んん!?」とかいかにも面倒臭そうに「ああ…」と答えるだけであるが、そんな様子を端で見ていると「何か用事か、用もなかったら、ひとが寝とるのに起こすんじゃない」とでも言いたげなそぶりなのだ。
 14日の夜、私は老父の隣に簡易ベッドを準備したが、老父の呼吸音が確認できる程度の音量にしてウォークマンを聞いていた。そう、キース・ジャレットの『サンベアー・コンサート』が、隣のナースセンターから差し込む明かりに浮かび上がったICU室で、老人たちの無言の郷愁が形作っているはずの後戻りするしかない時空間の環を、穏やかにそして限りなく静かに巡り、私のわずかな記憶では到底辿り切れぬ物語のその果てにまで誘うのだ。そして老父の息遣いが、いま生きていること以外にはいかなる目的をも必要としない快適さで充実していた。
 私は隣のベッドの電気スタンドを使ってもいいという看護婦さんの許しを得て、自宅から用意してきたコーヒーを飲みながら本を読んで過ごした。その後午前3時ごろからウトウトしていたけれど、看護婦さんと医師の回診があるたびに気になって起き上がった。
 15日の朝方、たぶん午前4時ごろから少し眠ったようであるが、5時ちょうどに点滴終了のブザーが鳴って目が覚めた。気が付けば老父の呼吸が今までに比べるとちょっと弱くなっている。看護婦さんに聞いてみると、脈拍も夕べは120くらいあったものが今は60くらいになっているという。容器に溜まっている尿の量を計っている看護婦さんに聞いた。
 「この状態だと、どれくらい持つもんでしょうか? 場合によっては、東京へ連絡しなければならないもんですから」
 「うむ、どうなんでしょうかねえ…。どれくらいと言われても…」
 そんな会話をしているうちに老父の呼吸がいつの間にか静かになった。そのとき、もうひとりの若い看護婦さんが血圧を計り始めていた。このころが午前5時15分ごろだった。
 「あれ、あれ…、計れない!! どっ、どうしたのかしら…」
 血圧計の赤い柱はピクリともしない。そこで年長の看護婦さんに替わったが結果は同じだった。その看護婦さんは老父の呼吸音が止まっているのを確かめて、若い方の看護婦さんに当直の医師を呼びに行かせ、急遽老父の胸を押して人工呼吸を始めた。
 間もなく現れた医師の指示により、点滴に強心剤などが混入されたようであったが、たいした効果はなかった。続いて医師もしばらく人工呼吸を続けたが、やはり結果は思わしくない。
 「どうですか?」
 「ふむ、心臓はまだ動いているんですが、呼吸がねえ…」
 医師は再び人工呼吸を繰り返した。それからもしばらくは聴診器を当てたり、まぶたを開いて瞳孔を覗いたりしながら人工呼吸が続けられた。
 何回目かに聴診器をあてた後で医師が顔を上げた。
 「どうしましょうか、今なら手術をして機械をつなげれば少しくらいは持ちますが…」 「どれぐらい持つんでしょうか? 出来れば、東京へ連絡して兄を呼ぼうかと思うんですが…」
 「どれぐらいかかるんですか?」
 「そう、速くても、4時間くらいでしょうか…」
 「ああ、それは無理です。このぶんだと、持たせても、30分くらいかな…」
 「そうですか、それが無理なら仕方ありません。このままで結構です」
 そう簡単に言切ってしまったものの、私が老父に死の宣告を与えるようなものだと思えて、一瞬、背筋に冷たいものが走った。
 「そうですか。では、残念ながら、ご臨終です。ええっと、時間は…」
 看護婦さんがちょっと戸惑っていたので私が答えた。
 「今、5時40分ちょうどです。さっき、呼吸が止まったのは、5時15分ごろでしたが…」 「はい。それではご臨終は5時40分です。ご愁傷さまでございます」
 こう改めて言われてみると、私が老父に与えた死の宣告がいたって妥当な判断であると承認されたような気分になって、一瞬の大きな緊張が溶けた。
 「いいえ、たいへんお世話になりました」
 いたって穏やかに澄ました顔で寝ている老父は、もう一度やり直しのきくリハーサル風景のように曖昧な弛緩しきった瞬間の中で微睡みを貧っているのだ。
 「そうしますと、直接的な死因は何んなんでしょうか?」
 「そう…、やはり癌性の胸膜炎ということになります。たぶん、全体に癌が転移しているという状態だと思いますが…」
 私はこの情況を兄に報告するため公衆電話へと急いだ。時刻はそろそろ午前6時になるところだった。私はまず、兄に老父の死を看取らせることが出来なかったという情況判断の誤りを詫びた。兄は別に気にすることはないと言ってくれたが、このとき、ちょうどママさんがおばあちゃんのオムツを交換しているところだったので、突然の早朝の電話を不審に思っていたおばあちゃんにも、おじいちゃんの突然の死を教えざるを得なくなってしまったということだった。兄は、すっかり気弱になっている母に訃報を伝えることが辛いと言っていた。
 兄はさっそく互助会の方に連絡を取り、とりあえずの葬儀の手順を手配してから電車に乗るつもりであるということだった。私は今なら吾妻線の上野発7時11分の新特急草津1号に間に合うことを連絡した。長野原着が9時47分、そしてJRバスで草津着が10時15分ごろだから、多分兄が病院に着くのは10時半ごろになるはずなのだ。
 ICU室に戻ってみると、死体処置ということで、看護婦さんがエンゼル用と書かれた道具箱などを抱えて忙しく立ち働らいている。改めて老父の顔を見てみれば、入れ歯を外してすっかり老いさらばえた感じなのだ。それは老父自身が最も嫌ったところでもあるのだから、これから始まる葬式というセレモニーのことを思えば、生前と変わらぬ顔にしてあげることこそが老父の望むところであるはずなのだ。
 「あの、看護婦さん、入れ歯を入れてあげていいですか?」
 看護婦さんは一瞬きょとんとした顔をしていた。
 「ええ? ああ、はい。結構ですよ」
 「やはり、この顔よりもね…」
 「あの、あたしがやってよければ、やりますよ」
 そんなわけで入れ歯は看護婦にお任せということになった。そして入れ歯の入った顔に看護婦さんが剃刀を当てて、ちょっと不器用に髭を剃り始めた。
 「よかったら、これを使ってください」
 私は老父の使っていた電気剃刀を差し出した。
 「あ、すいません。お借りします。あの、あとは私たちでやりますので…、ここにいらしても結構なんですが、まだいろいろと処置がありますので、出来れば外でお待ち頂いたほうがいいかと思うんですが…」
 「そうですか、それじゃ、宜しくお願いいたします」
 私はICU室の外に出た。
 間もなく死亡診断書のことで医師に呼ばれ、ナースセンターの奥へ入った。
 「コヤさんは、こんなに早く悪くなると思っていなかったんですがねえ。なんだか、みんな後手に回ってしまったようですね。
 でも、まあ、やはりお歳がお歳でしたからねえ…。この間の血液検査では、癌を示す値が異常なほど高かったですからねえ。結局、もともとの原因は、胆嚢か膵臓辺りに癌が有ったということでしょうねえ」
 老父の死亡に関するこの説明は、すでに何回か聞いていたことで別に新しい事はなにもなかったが、それにしてもあの元気な老父が、胸膜炎とやらで胸に水が溜まったくらいのことで死んでしまうことが何かあっけなくて、「そう、あっけないからこそ、これで良かったのだ」と語っただけではまだ埋めることのできない虚脱感のようなものが残った。
 いま唐突に時間のエアーポケットに陥って何もすることのない私は、廊下に出た後もなんとも居心地の悪い虚脱感の中でとりとめのない思いを浮遊していた。
 エンゼルかあ…。エンゼルねえ…、はたしてエンゼル以外には何んとも書きようが無かったのだろうか。しかしこの意味不明というか、この曖昧さがいいということなのかもしれない。つまり人間ではないが死という臭いがしない存在ということになる。要するにこの病院で死ねばエンゼルというわけなのだ。それにしても90歳のエンゼルは、あの重さで飛べるのだろうか。
 もっともわれわれは老父を仏教徒として葬る予定なのだから、無駄な空想は時間の浪費にすぎないけれど、いま浪費せざるをえない時間の真っ只中に放り出されていれば、老父のエンゼル姿さえも想像してみる価値はある。ではツンツルテンの前のはだけた浴衣姿のじいさんに、禿頭の上で共光りのサークラインは滑稽で良いとしても、どうやらあの肥満体に背中の翼では笑う元気も萎えてしまいそうだから、やはりエンゼルは頂けない。しかし、こんな空想を働かせた程度ではどれほどの暇潰しにもならない。
 そう、そういえば、いまわれわれの為すべきことは、老父があれほど執着していた葬式を滞りなく済ませることなのだ。葬式、葬式…。はたしていかにすべきか…。しかし葬式を取り仕切ることなど、われわれにとっては初めての経験なのだから、想像だけではどれほどの具体的な姿も浮かび上がってこない。結局、先細りの空想はいま遭遇した老父の死についての検証へと向かわざるをえないのだ。
 それにしても老父の死はあっけないほど静かなものであり、特別に感情を移入する隙間もないほどの明晰な光源のもとで、病院におけるごく在り来りの出来事として経過していった。それは悲しみとか喪失感と言いうるものを、つまりは苦痛や苦悩の残映を引きずった壮絶な悲壮観などに埋没することもなく、ましていかなる宗教的な意味を与えられることもなく、単に生理的な意味における生命の停止と言いうるものにすぎなかった。
 言い換えるならば、そんな明晰な出来事には老父の死出の旅立ちを霊的意味において想像するという、つまりは異次元世界を垣間見る妄想の陰りなど微塵たりとも入り込む隙間がなかったということなのだ。多分、老父と私にとっては、こんなあっけない死の瞬間こそが望んで得られるものの中で最良の別れであったはずなのだ。
 午前6時半ごろ死体処置も終わり、老父はわれわれの手で冷え切った霊安室へと移される。私は、老父のベッドもすでに無くなんとも身の置き場のないICU室で、まるで老父の死など知る由もなく昏々と眠り続ける窓際の老人を眺めながら、「おじいさん、あなたの勝ちだね。ん? いや、ひょっとすると早くゴールに入ったほうが勝ちなのかな?」などと思いながら、所在なくウォークマンをかけてマーラーの『復活』を聞いた。
 いまさら老父の<復活>を望む理由などありはしないが、いやいや、むしろ老父的無知の<復活>こそを一番恐れていたのだから選曲が悪いと言わなければならないが、しかし味気無いほどの老父の死に、かえって何か宗教的な彩りを添えてみたいというそんな気分があったのかも知れない。
 しかし理由はなんであれ今更『復活』などを語ることもなく、単に時間の空白を埋めるためにマーラーの『交響曲第2番』としてこれを聞くことに徹するならば、このシノーポリ指揮のフィルハーモニア管弦楽団の音楽は、衝撃的なまでに鮮烈であるのは当然のこととしてもなんと優しく甘美なのであろうか…。それはまぎれもない快感の豊かさなのだ。そういえば快感原則こそが老父のすべてではなかったか…。
 そこで不意に、どうせ老父のことだから、どこをどう迷って妄想世界へと入り込んでしまうかもしれないと感じられて、今さらながらではあるけれど至上の快感へと誘う成仏への引導を渡してやらねばならないと思い立った。
 たぶん7時半ごろであったか、私はウォークマンをバッグにしまってから、一度、霊安室へ行ってみたが、すでに鍵が掛かっていたのでナースセンターに鍵を借りに戻った。もっともナースセンターにいた看護婦さんは、「おやじに、お経を上げてあげようと思いまして…」という私の唐突の申し出に何か戸惑っていたようであったけれど、そんな戸惑いの理由を詮索するまでもなく、私は再び霊安室に向かった。
 まさか経典を持ってくるほど、あからさまな死への準備をしてくるわけにはいかなかったのだから、ここでは昨日魔法瓶に入れてきたコーヒーだけを携えて霊安室に入った。つまり老父の死に水とやらは、好物であったコーヒーということにしてこれで唇を湿し、さらに祭壇にもコーヒーを供えた。行法次第は経典がなかったのでとりあえずは自己流で進めることになったけれど、何はともあれ霊的世界に不作法にならない範囲で、しかも自分で納得できる勤行の時間が持てたのだから、これでとりあえずの引導を渡すことが出来たと感じられた。




  38.わしゃ腐ってしまうぞ


 ところで老父の前日までの元気を考えてみると、今朝の唐突な死とは、大暴れの果てのうたた寝なのにうっかりと見た死ぬ夢に取り付かれ、ついその気になって死んでしまったようなものだから、今にも「うわわ、あんたらに任しといたら、わしゃ殺されてしまうよ」なんて言いながら、うろたえて霊安室から転がり出てくるかもしれない惚けたボケ話に思えてならないのだ。
 現に、今朝ICU室の前で時間を持て余していた私が、老父の昨日までの元気を知る同室の患者さんに声を掛けられたときは、こんな具合だった。
 「おはようございます。どうですか、おじいちゃんの具合は…」
 その患者さんの表情からは、「あなたも大変ねえ。あの元気さだと、まだまだこれからね、頑張ってください」とでも言っているようにさえ感じられたのだ。
 だから「いや、どうも昨日まではお騒がせしてすいませんでした。実は、まったく突然だったんですが、親父は今朝早くに亡くなりました。どうも、いろいろとお世話になりまして有り難うございました」
 「ええっ!!」
 見るからに顔色の悪いそのおばさんは、そのまましばらくは声がなかったほどだから、人の命のはかなさに驚くとともに、老父ほどの元気も発揮しえぬ自らの病を憂いていたのかもしれない。
 「そうですか、それはどうも…」
 なんとなく虚ろな返事が返ってきたが、私がお辞儀を返すと、その患者さんはプッツリと黙り込んで廊下の椅子に座り込んでしまった。老父の元気という端迷惑な毒気に当てられていささか自らの病気を重くしていたのかも知れない患者さんに、私は聞かせなくてもいいいたわりのない言葉を語ってしまったのかも知れない。そんな自分のうかつさが悔やまれた。
 ま、そんなこともあったわけで、老父の前日までの元気を知るならば、誰もがその急変ぶりに驚かされたに違いないのだ。
 だから医師に「ご臨終です」なんて言われたときも、私は自分の見え透いた親切が老父のいつものお惚けにはぐらかされたときのように、なんともやり場のない苦り切った笑いを我慢しながらこんな言葉を噛み締めていたのだ。
 「ほらほら、おじいちゃん、先生もご臨終ですなんて言ってますよ。いいんですか、いつまでも寝ぼけて死んでると、本当に死んじゃうよ。いいんですか? 僕は知りませんからね」
 つまり、それは「死ぬのはおじいちゃんの勝手なんだから、好きにしてください。僕は一向に構いませんよ。ただし、死んでまでグズグズ言うのはなしですよ」というわけで、ボケられた者が言わずにいられない滑稽なほどのお節介の追い討ちなのだ。
 もっとも、どうせ老父のことだから、死んでもグズグズ言うのは覚悟の上だとすれば、それゆえの追善供養における成仏こそが、とりあえずは私の<何行>の世間体とも言いうる宗教的課題というわけなのだ。
 所詮、死体は何も語らないのだから、老父の死に何んらかの意味を与えるのはわれわれの役目ということになるが、老父もまた突然に死体として出現したわけではなく、われわれの物語における<欲ぼけた発育不全の老人>として生き延びたすえの死であったのだから、追善供養のみならず老父との因果関係の中で反省的に生きようとするならば、老父の死はわれわれに様々な思いを喚起してやまないのだ。
 老父にお経を上げて霊安室から戻ってきたのは8時10分ごろだった。
 今さら言葉にするほどのこともない、つまりは老父の寝ていたベッドが無いというだけの在り来りの欠落感の中で再びウォークマンを聞き始めたときに、病院付きの家政婦さんから声を掛けられた。
 「付き添いさん、食事の用意が出来てますよ」
 そう、いま老父が居ないという欠落感の中で、なんとなく居心地の悪い思いをしていたもののひとつが実はこれだったのだ。患者が死んでしまったら、存在理由のなくなった付き添いさんの食事はどうなるのだろうかというわけで、親父譲りの惚けた欲望を弄んでいたことになる。
 つまり、親父を亡くした傷心の息子でなければならない私が「はいはい、今日も元気に朝ご飯!!」では、なんとも世間体が整わぬと思ってみたりもしていたのだ。
 もっともごく日常的な営為について、こんなことを考えるということ自体が、未だに言葉で埋め尽くせぬ虚脱感を抱えているためだというわけで、私が老父の死をいかに捕らえようとも、やはり人の死を看取るということが尋常ならざる出来事であるということに外ならないのだ。
 いずれにしても患者は好き勝手なときに死ぬのだから、毎日決められた食事という欠くべからざる日課は、いつものように滞りなく進められるのだ。とにかく私の勝手な思い入れとは関係なしに、病院というシステムの中では、死は食事と同様にごく日常的な生理的現象であるにすぎないのだ。このあっけらかんとした軽さが、ややもすれば厄介な無明を引きずりかねない老父の死にとっては真に快適なのだ。何はともあれ、はっきり言って腹が空いていたのだ。
 食堂からICU室に戻って来ると、待ち受けたとばかり看護婦さんに呼ばれた。
 「あの、すいません、下で事務長が諸手続きについてご説明したいと言ってますが」
 さて、話しの主な内容は、老父の遺体をどうするかということなのだ。
 私は、老父をお棺に入れて自分の車で運ぶつもりでいたが、聞くところによると、葬儀屋はお棺だけというわけにはいかず、結局は葬儀屋の手配する霊柩車で東京まで行くことになるだろうということであった。まして病院の寝具のまま運んでくれる病院専属の車はないということなので、老父の寝具を用意して自分の車で運ぶことになった。
 そこで老父の寝具を取りに、私はひとまず北軽井沢へ戻らなければならないのだ。いま午前8時半であるが、予定では兄が病院に到着するのは10時半ごろだから、2時間もあればそれまでに病院へ戻って来られると思われた。しかし持って帰る老父の荷物を整理したりして思わぬ時間が掛かり、結局病院を出たのは9時ごろになってからだった。
 応桑のバイパスを過ぎ、真正面に雄大さを誇示してはばからない明晰すぎるほどの浅間が望まれた。この壮快感はいつ見てもいい。それにしても人の死に遭遇するということは、それが誰であれ厳粛な事件であることに変わりはないはずであるが、だからといってそれが悲しい出来事でなければならないという理由はないのだ。
 いま私がこの壮快感の中でひたすら噛み締めるものは「とうとう終わったのだ!!」という身震いするほどの解放感なのだ。しかし老父の90年余りが終わるべくして終わったとしても、やはりそれが唐突な出来事であったことは否めない。それは、すでに10年前に私が自ら望んでこの地へと出奔したその自発的な解放感にくらべれば、やはり不意に与えられた開放感への戸惑いを引きずっているということになる。そんな戸惑いが予期せぬ感動を喚起してやまないのか、今朝の浅間はなんとも美しい!! 
 それは気の重い病院通いという不測の出来事によってこそ毎日のように見られるようになった景色ではあったけれど、ここを通るたびにしみじみと感じたことは、何んとも快適な解放感に満ち溢れているということであったのだ。それが今この季節外れの暖かさとそれでも冬の明晰さの中で、いままで調子の悪かったこの車さえあくまでも軽く速いと感じさせるのだ。
 思えば言葉で埋め尽くすことのできなかった虚脱感は、この高原の美しさと「とうとう終わったのだ」という思いによってこそ満たされるべきなのだ。そしてそれは「これで良かったのだ」という言葉によって語り尽くされることになるのだ。だから、もしも老父の死に対峙するときに何か不手際があったとすれば、それは兄に老父の死を見取らせることが出来なかったということだけなのだ。
 北軽井沢に着いたのは9時半ごろだった。浅間の霊性に清浄観を喚起されたわけでもないけれど、私は老父の最後の旅にしては泥だらけの車が気に掛かったので、ガソリンスタンドに寄って洗車し同時に給油も済ませた。
 ガソリンスタンドから家に向かう途中で J さんのホテルに寄り、老父の死に至る経過報告をした。やはり老父の死は、 J さんにも唐突な出来事として受け取られた。しかし、思わぬ解放感に浮かれ過ぎていたのか、つい老父の死を面白おかしく話してしまった私は、いささか J さんにも「それは、不謹慎じゃないの」と言われる有り様だった。
 続いて、SA さん宅に寄る。何よりも SA さんのご夫婦は老父の病院における快適なボケぶりを知っておられたのだから、その分だけ余計にびっくりされていた。
 「それで原因は何んだったの?」
 奥さんは驚きの眼差しを大きく見据えていた。
 「ええ、やはり、このあいだお話ししました癌性の胸膜炎ということでした。先生も、多分おなかの中は、もう手がつけられないくらいに転移してるだろうとおしゃってたんですけれど、でも癌にしては、あの元気ですからね…。死ぬ前の日も、家政婦さんには悪態をつくしわがままは言うしで、本人は夢にも癌だなんて思ってなかったと思うんですよ。だいいち七転八倒の苦しみなんていうのは有りませんでしたからねえ。ただなんと言うんでしょうか、ここ2〜3日は、自分の身体を持て余しているという感じはありましたけれど、とにかく最後は、僕の見ている目の前で、あれれ、いつのまにか呼吸が止まってるぞ、という感じでした。まったくあっけないほどでしたから、やはり寝ぼけて、うっかり死んでしまったという感じじゃないんでしょうか」
 「そう!! でもねえ、年寄りっていうのはそういうものなのよ。それで、最後は、あなたが見取ってあげたのね?」
 「ええ」
 そう言って私は、今朝の出来事を再びおさらいすることになった。
 「そう、あなたが見取ってあげたんなら、それが一番良かったわ。コヤさんねえ、それは立派な大往生よ。それにねえ、私には分かるのよ、おじいちゃんの大往生はねえ、あなたの信心のおかげよ。私、それだけは、はっきりと確信できるわ」
 私にとっては、まるで予期していなかった、つまりは密かに私だけのこととして確信していたことを不意に突かれた思いがした。
 老父の救済を望むことが、取りも直さず救済さえも望まれぬありとあらゆる老人たちの安楽と平安を望むことによってしか実現されないという私の宗教観ゆえに、たとえ直接的に老父の救済を願ったとしても、それは老父に独占させることもなくより多くの老人たちへと還元されていたはずだからなのだ。言い換えるならば老父の救済を願わずにはいられなかったからこそ、排他的に老父だけが救われればいいと願う「仏の霊的な救済力にはすがりたくない」という私の思いが、「老父の救済」こそを不問に付することによって確信できていたというわけなのだ。
 そんなとめどなく欝屈した自己愛の涙壷が、 Sa さんの奥さんの一言によって、いとも簡単に割られてしまったのだ。私が「信ずること」に対してどんなに懐疑的であろうとも反省的であろうとも、あるいは間接的にしか老父を救済しえないにしても、結局は「老父の救済」こそを最優先の目的にしていたというわけで、ごく当たり前の一突きは思わず言葉を失わせ、とめどなく溢れ出る涙を我慢できなくさせてしまったのだ。
 すでに SA さんは、私が胸に一物の宗教的な修行者であることを十分承知だったのだから、客観的にいま私が病の老父を抱えた信仰者であるという図式こそが、老父の死を語るのに十全たる方法であると確信されていたことになる。それゆえに老父の穏やかな死に対しては私の信仰心こそが、ごく当たり前に評価の対象になったにすぎないのだ。
 それでも「決して信仰者なんかには堕落しない」という私の思いの中を、「あなたは立派な信仰者である」と宣告する言葉が突き抜けた後に、何故か熱い涙がとめどなく溢れ出るのだ。しかしいま、老父の死が悲しいわけなどあろうはずはないのだ。
 そもそも私の救済論が老父に対して「不問に付したこと」とは、「おじいちゃん、あなたがどんなに無明無知を生きようとも、僕はあなたを成仏させるよ」ということであったのだから、私が老父を引き取って面倒を見るということがたとえ老父に不自由を強いることになったとしても、老父自身の救済であるという私の確信は揺らぐものではなかったのだ。
 しかし老父にとっては、私がどんなに老父の喜びそうなことを言ったとしても、老父の救済論自体が老父に不自由を強いるものでしかなかったのだから、それによって私自身が反省的な浄化を進め、同時に兄の現実的な救済になっていると知ることになれば、老父にとっては到底納得しかねる矛盾になってしまうのだ。その意味においては、老父がしばしば語ったところの「それはあんたらの勝手な論法だ」という言葉は、それなりに重い言葉であったのだ。それゆえにこそ、老父の救済が老父に不自由を強いることでしかないという矛盾は、当然「不問に付されなければならない」ことであったのだ。
 しかし老父になんと言われようとも、老父との共生こそが老父の救済論であることに変わりはなく、これこそが不問に付されていたのだから、のんきな一人暮らしを10年も続けていた私が、事情はともあれ突然に老父を引き取ることになる日常的な煩わしさによって、互いに黙っていても日々の軋轢として相手を傷付けることになるという、この無言のうちにも演じてしまう「面倒を見てやっている」「それはおまえの勝手だ」という愚かしさの因果関係においては、私の方から老父の救済を言い立てる立場にはなかったのだ。むしろ私にとっては、この当たり前すぎる己の自己愛ゆえの愚かさにこそ、反省的な救済論の警鐘を打ち続けなければならなかったのだ。
 しかし、私が自分に対して何だかんだと庇理屈を並べたてる以前に、すでに欝屈とした自己愛の涙壷は、問答無用の簡単明瞭な回答で破られてしまったのだから、私はただ「これで良かった」と己の感動を引き受けるのがようやくという女々しい涙にむせるばかりなのだ。
 思い返すまでもなく、働き盛りという歳になりわざわざ隠遁者に成り下がってしまう虚者には、誰に何んと言われようとも自分の確信に基づいてしか生きる術がないというのが当然なのだから、今さら誰に叩かれても泣き言など言えるはずはなかったのに、そんな片意地張った熱い念いは、そのまままともに引き受けてくれる優しさの前で、まるで意気地のない体たらくだったのだ。
 それにしても唐突と言いうる涙にむせってしまった私に、 SA さんご夫婦は思わぬ戸惑いさえ感じていたはずなのだ。しかし、どんなに平静を保っていても人の心は計り知れないものだというわけで、直前までは笑顔で老父の死を語っていた私に『おんぶにだっこにかたぐるま』的苦闘ゆえの愛憎からむ親子の情を感じていたのかも知れない。
 ところが、私が老父との共生を『おんぶにだっこにかたぐるま』という文章にまとめ、去年の秋に SA さんのみならずごく親しい友人知人に読んでもらおうと考えたこと自体が、たとえ老父の救済者たらんとする私の念いを語りたいということであったとしても、それはすでに消えかかった愛憎の痕跡を追体験として掘り起こす作業にすぎなかったはずなのだ。だからいま明晰さの中で迎えた老父の死は、あの狂おしい青年期にキャンバスの中で老父を殺し続けなければ生きられなかったと思い込むほどに、己に執着し老父に執着せずにはいられないなどという事件にはなりえないというわけで、いまさら自愛的欲望の危機を言い立てて<私たりうる私>の崩壊とそれゆえの喪失感や欠落感を、涙で語らなければならない心身問題などはどこにも発見することは出来ないのだ。
  SA さんには、これから再び病院に引き返し老父の遺体を連れて帰ってくるという予定を話し、私は止まらぬ涙を振り切って家に向かった。1月だと言うのにまるで春の真っ只中かと思わせる好天気が続いていたけれど、裏の牧草地に入る道の日陰には消え残った雪が溜まっていた。アブノーマルになったノーマルタイヤの車はチェーンも付けずに、 SA さんのところから引き受けて乗り込んだ涙の昂揚感で一気に乗り切ってしまった。
  SI さんの裏手に着けた車に大急ぎで老父の寝具を運び、車の中にとりあえずのベッドを作り、早々に草津へと引き返した。すでに時刻は10時を15分ほど過ぎていた。
 車はスピードを上げて高原を下り、その勢いにまかせて「不問に付すべきもの」がさらに溶解し、闇雲なまでに自己検証の思いが沸き上がった。
 それは自己否定を貫徹することによって立ち現れる「否定者としての自己」に目覚めるということ、言い換えるならば因縁解脱とは因縁という問題の「否定的な空-化」によってもはや「解答を必要としない回答者」になることであったのだから、この自己否定者が否定という手段によって「不問に付していること」があるとすれば、そこにとめどもなく肯定されている正体不明の何かこそが救済された者の姿であるという思いなのだ。それは「生きつづけているかぎり何かを表現せずにはいられない者」の体質ゆえに、「救済という経験」をあからさまな目的にする以前に「救済という行為」そのものを目的にすることによってしか、「救済という経験」を享受できないという切実なる思いなのだ。
 「解答を必要としない回答者」あるいは「それは何かと問いつつしかも問いつづける限り満足すべき解答に辿り着けない質問者」として、つまりはいつものように「何って何!?」の<何行者>たる私は10時40分になって病院に到着した。すでに到着していた兄が玄関へ迎えに出てきた。
 兄は霊安室の老父にいま対面してきたところだと言っていた。
 「今おじいちゃんに会ってきたけれど、あの顔を見てると、いまにも目を開けて起き上がってくるみたいな感じだね。何か不安になっちゃって、指で頬っぺたを突っついてしまったよ。それで動かないもんだから、ああ良かったなんて思ったりして…、ハハハ。良かったってことはないんだろうけどね」
 老父の死が老父に不自由を強いることのない唯一の救済であるとするならば、この救済もまたわれわれの救済を同時に成立させるものでもあるのだから、やはり嘘偽りもなく「これで良かった」と言わざるをえないのだ。
 われわれは早々に会計を済ませて死亡診断書を受け取り、医院長先生や看護婦さんそして事務長などに送られて病院を後にした。老父の荷物整理と私の東京行きの準備があるため、再び北軽井沢へ戻ることになる。
 雄大な浅間高原を昇りつつわれわれが交わした会話も、結局のところは「どうやら、これで一件落着ということですね。あとはお葬式だけだ!!」「ああ、ノリヨシクンには、本当にお世話になりました」これですべて良しであったのだ。
 北軽井沢に戻ったのは11時45分だった。 SA さんは、家の前を通り過ぎるわれわれの車に気付いたからといって、ご主人がわざわざお香典を持ってきて下さった。老父を乗せた車は SI さんの裏の牧草地に置いておいたが、あまりの好天気に老父がブツブツ言っているようにさえ感じられるほどだった。
 「うおおい、あんたらは、何をグズグズしとるんだ。こんなに暖かくっちゃ、わしゃ腐ってしまうぞ!!」
 しばらくして、今度は SA さんの奥さんが来られ、老父のためにといって鉢植えの大切な蘭を切って供えて下さった。
 ところで地元の信用組合に預けてある老父の預金を解約して行こうと思っていたが、たまたま今日が成人の日の祭日に当たるため、それが出来なかったのみならず私の預金も下ろすことが出来なくて、わずかの手持ちの現金だけで東京へ行くことになってしまった。しかも銀行は、明日が第3土曜日の休日なので今日から日曜までが3連休なのだ。このことが、これから葬式をしようというわれわれにとっては思わぬ誤算になってしまった。
 そんな誤算はともかくとして、われわれは午後2時に北軽井沢を発ち、途中で長野原町役場に寄って死亡診断書を提出した。祭日ではあるが役場の戸籍係には休みはないと聞かされて立ち寄ったのであるが、われわれの到着と同時に職員が休日のストーブに点火するのを見て、これは時間の掛かる手続きなのだと気付いた次第なのだ。おまけに老齢福祉年金などの解約などがあり、さらに諸手続きに手間取ってしまった。またしても老父の声が聞こえるようではないか。
 「うおおい、あんたらは、何をグズグズしとるんだ。こんなに暖かくっちゃ、わしゃ腐ってしまうぞ!!」
 結局は役場で1時間ほどかかり、改めて出発したのは午後3時20分だった。
 老父の死という思いがけぬ出来事によって滝行は中途半端になってしまったけれど、どうせ行とは一生の仕事なのだから別に焦ることもなく、また帰ってから続ければいいのだ。多分老父の葬儀が終わって帰るころになれば、去年の春に老父が北軽井沢に来て以来、老父の自覚以前に、すべてが老父にとっては好都合であった異常気象も終わり、冬は冬らしく元通りの酷寒になると思われた。そのときにこそ、また隠遁者にふさわしい行が出来るというものなのだ。

 


 

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1988年6月