11.怪鳥


 「なんだろう、あのギャーコ、ギャーコ鳴いてるのは? まるでカラスがいじめられてるみたいだなァ。さっきから、この家を遠巻きにして鳴いてるんですよ」
 「ほうで、それじゃカラスの子供が猫にでも襲われたのかな? わしには、まだ聞こえないがな…。そういえば、この間から、カラスの子供が来とったからな」 
 昼食をとりながら老父と私がそんなことを話しているうちに、ちょっと前から別荘に来ていた SI さんが、お客さんを連れてタクシーで帰ってきた。 SI さんは6月の8日ごろまでひとりで滞在だと言っていたが、やはり誰かに遊びに来てもらわなければ暇を持て余してしまうのだろう。
 窓越しに斎藤さんと目が合った私は、挨拶をしようと思い玄関の戸を開けた。
 「コヤさん、いまね、タクシーの運転手さんが、そこに、大きなキジがいるって教えてくれたのよ。その辺よ…」
 「キジですか? いやあ、さっきから変な鳴き声がするから気にしてたんですけど、キジだったんですか!? それにしても、変な鳴き声をしてますね」ということになった。そこで食卓に戻った私は、老父に変な鳴き声の主がどうやらキジであるらしいことを伝えた。 「ほうか、でもキジは、ケンケンって鳴くもんじゃがなァ…」
 老父は怪訝な顔をしていた。
 「そうですね。やはり、怪我でもしてるのかな?」なんて言っているうちに、となりの別荘の影を異様な大きさの鳥が横切った。あまりの偉容に私は度肝を抜かれた。
「キジだ!! キジかな? やけに大きいな。あれがキジだとすれば、あんなすごいのは、初めて見るなァ」
 「どれどれ、ほお、あれはキジか!? すごいな!! あれはオスかな、オスにしても、ちょっと羽根の色が違うみたいじゃな。こいつはキジに比べると尾がすごいな」
 そんなわけで、双眼鏡を取り出して見れば、新緑が5月の風に輝きはじめた雑木林が途切れ、そこから広大な牧草地になる縁に立ち、はるか白根山を望んではあの壮烈な奇声を上げている。その威風堂々たる様は、そんじょそこいらのキジどもが束になってかかっても到底太刀打ちできぬ風格だから、正に浅間高原のキジどもに君臨する王者にふさわしいと感じられた。
 「キジだとすれば、あの大きさだから、かなり歳を取っていることになりますね。それであんな鳴きかたをするのかなあ?」
 「ああ、そうじゃろう。あれだけでかければ、はかなり歳をくった奴じゃな。ここにはあんな凄いのがおるんじゃなあ」老父はしきりに感心していた。
 「それにしても、この辺に、こんな凄い奴が野性のままで棲息できるほどの自然があるのかなあ?」
 そんなことが気にかかったが、気がつけば、うちの開け放した窓からはFM放送でマーラーの『交響曲第1番』がガンガン鳴っているというのに、この怪鳥は、そんなヒトの気配に脅える様子もなく、唐突に奇声を発しては何やら餌になりそうなものをついばみながらしばし虚空をにらみに、また気を取り直してこちらへと近付いてくる。私が思わぬ緊張に身構えたときに、めずらしく電話が鳴った。電話は、近所の SA さんであったが、先方からの用件もそこそこに怪鳥の出現を知らせた。
 「いま、ものすごく大きなキジがいるんです。いやキジというよりは七面鳥ほどの大きさとでもいいましょうか…、とにかくすごいんです。見にいらっしゃいませんか。でも車で来て脅かしてもいけませんから、できれば歩いて頂いたほうがいいと思いますよ」
 間もなく SA さん夫妻がやってきた。
 怪鳥は、ちょうど行き止まりになった道の真ん中で何やらついばんでいたが、その様子を見るなり SA さんは、元新聞記者としての豊富な知識の一端をごくありふれた常識のように示してくれた。
 「あれですね!? コヤさん、あれはクジャクですよ。クジャク!!」
 「クッ、クジャク!? クジャクですか!! いやァ、どうりですごいと思ったんですよ」 私は己の非常識に呆れながらも、思わぬ正体を現した怪鳥に改めて驚かされたが、ではなぜこんなところにクジャクがいるのか、これに明確な回答を用意しなければならないことになった。
 ところが私は「あれがクジャクだとすれば、まさか野性ってことはないですよね?」なんて間の抜けた質問をしてしまった。
 「クジャクは、インドの熱帯雨林が原産ですよ」
 SA さんはまたしても明確なる回答なのだ。とすれば、このクジャクは逃亡者以外には考えられないのだ。そこで、私は SA さんに尋ねた。
 「どこから逃げ出したんでしょうかね? この近所で、クジャクを飼っているなんて話をお聞きになったことありますか?」
 「聞いたことないなあ…」 SA さんも当惑した表情なのだ。
 「でも、クジャクなら、あのまま放っておくわけにもいきませんよね? どうせ、どこかで飼われていたんでしょうから…」
 そこで駐在さんにでも、ここら辺りでクジャクを飼っているヒトがいないかどうか聞いてみることにしたが、電話をした駐在さんはたまたま留守で、奥さんが、本署の拾得物扱いの会計係へ掛け直してくれないかとのことであった。
さて本署では、クジャクを捕まえたのなら拾得物として扱うから本署へ届けてくれとか、いや、そんなものを持ってこられても困るから、そちらで飼っていてくれないかと言ってみたり、やはり引き取ることにしようというようなわけで、かなり対応に苦慮していたが、こちらとしてはクジャクを飼う気はないし、ましてあの大きな鳥を捕まえられるかどうかもわからないというわけで、とにかく近所でクジャクを飼っているヒトを探してもらうように頼んで電話を切った。
 電話のあいだ AS さん夫妻は、クジャクならヒト慣れしているはずだから、なんとか捕まえられるだろうと追っ掛けまわしていたが、それほど必死で逃げる様子もみせないけれど、でもクジャクにしてみれば何も捕まる理由がないというわけで、追われるままに林の中を巡り、結局は地蔵川の方に逃げ込んでしまったので AS さんも捕獲を諦めることになった。そこに老父が現れ、いつの間にか切れたまま木に巻き付いていた物干し用ロープを外してきて、 AS さん相手に講釈を始めていた。
 「わしは、いろいろと生き物を扱ってきたが、鳥は、そんなに追っ掛けまわしちゃ脅えてしまうから駄目じゃ。それよりこのロープで、こういうふうに輪をつくって、これを首にかけなきゃ、捕まりっこないですよ」
 老父は演技を交えた講釈を何遍となく繰り返していたが、その幼稚にして姑息な手段を斥けるまでもなく、誰もが老父の尋常ならざるしつっこさに呆れ無言で身を引いてしまったので、クジャクの捕獲は新たなる展開もないままに断ち消えになってしまった。
 しばらくして再び戻ってきたクジャクのあとを、私は捕まえる気もないままに付いて歩いてみたが、クジャクは私から2〜3mの距離をたもち、別に逃げるという気配もなく新緑の雑木林を威風堂々と回遊した。
 さて、お客さんを連れてきた SI さん宅に、怪鳥を見にきた SA さんの奥さんとともに呼ばれて上がり、お茶を頂いたが、そこで SI さんは懇意にしている開拓村の K さんが、キジの剥製を作ったりしているのを思い出し、たぶん鳥の扱いに慣れているはずの K さんにクジャクを捕まえさせてあげようということになった。 SI さんが電話をすると、間もなく K さんがやってきた。
 しかし、クジャクの大きさを予想しえなかった K さんは、捕まえたクジャクを入れて帰る予定の小さなプラスチックの箱を持ってきただけだったので、結局は素手で再びクジャクを追い回すことになり、やはり捕まえることはできなかった。
 そんなわけでみんながクジャクを持て余しているところへ、再び老父が現れ、物干し用ロープで輪を作ってみせながら、ほとんど興奮のあまり老人ソプラノにまで上ずった声でさきほどの講釈を何遍となく繰り返し始めた。気の好い K さんは、老人の言うことを闇雲に否定するわけにもいかないと思っていた様子で、いささか持て余し気味に、そして私に向かいちょっと遠慮がちに、ロープよりは針金で輪を作り、それでクジャクの足を引っ掛けたほうがいいのではないかと提案した。
 すると老父は、「そうじゃ、このロープで、こうやって輪を作って、これで足を引っ掛ければ大丈夫だ。こうやって、この輪の中に餌を置いといてやれば、鳥はきっと食べにくるから、そしたら、これを引っ張れば必ず捕まえられるんだよ」
 今度はすっかり K さんのお知恵拝借にも拘わらず、ほとんど己の独創的発想に出処進退を賭けると言わんばかりの情熱で、とめどなく奇声を上げつづけた。すっかり老父の毒気にあてられた K さんは、夕方になって鳥の目が利かなくなるころに、改めて道具を揃え、誰か仲間と一緒に出直してくることにしようといって帰っていった。
 それを契機に、どうやらこの界隈から逃げる様子のないクジャクはひとまず放っておいて、私はいつものように町へ新聞を取りにでかけた。途中で家畜病院の前を通り掛かったときに、たまたま獣医さんが表に出ていたので、それまでは特別な面識はなかったけれど、この辺でクジャクを飼っているヒトはいないかと尋ねてみた。
 「そうか、警察へ電話をしたのは、お宅さんでしたか」というわけなのだ。
 すでに警察から連絡があったので、クジャクを飼っていた開拓農家の人に連絡を取ったということだった。それにしても、突然警察から電話があって驚いたと言っていた。
 そこでクジャクについての事情を聞いてみると、実は2〜3日前にその開拓農家から5羽のクジャクが逃げたということだった。そして2羽のクジャクはすぐにその場で捕まえたけれど、あとの3羽に逃げられてしまったというわけなのだ。そう言われてみれば、いま国道を渡ってくる直前の林の中でも、あの「ギャーコ」という奇声を聞いたことが気に係っていたけれど、たぶんそれは逃走者の仲間だったのかもしれないと納得できた。
 ところが、警察からの電話では、私が知らせたクジャクの逃げ込んだ場所を、農協のガソリンスタンドの後ろと言うべきところを前だと勘違いしたらしく、まったくの反対方面を教えてしまったため、獣医さんと開拓農家の人は無駄足を踏んで帰ってきたところだったのだ。
 私が新聞を取って戻ってくると、うちの東側の牧草地を抜ける林の入り口に見慣れぬ2台の車がとまっていたが、こんな時間にこんな所へ車を入れる地元の人はめったにいないはずだから、当然クジャクを探しにきた開拓さんだと推測された。ところが人影は疎か当のクジャクも見付からない。そこで、さっそく家に戻り『水戸黄門』を見ていた老父に、その後の事情を尋ねてみたが、もはや目付きは葵のご紋になっていてらちが明かないのだ。 そんなわけで、当てのない雑木林を探し回っているはずの開拓さんに、なんとなく通報者としての責任を感じた私もまた、静まりかえった雑木林の中を徘徊することになった。しかし、この界隈なら勝手知った自分の庭のようなものだから、この辺りで居るはずのヒトが見えない場所の見当は付くというわけで、雑木林の外れの地蔵川へと下る辺りにヒトの声を聞き付けた。
 私が北側の牧草地から回り込んだときには、すでにクジャクを抱えた開拓さんと獣医さんが現れたところだった。
 「やあ、とうとう捕まえましたね。どにで捕まえたんですか」
 「ああ、コヤさんですか、ご連絡ありがとうございました。そこの木の上に止まってたんですけど、足を捕まえて引きずり下ろしてやったんですよ」 開拓さんは、造作のないことだったという様子なのだ。
 「へえ、こんな大きいのが、木の上へ上がるんですか」
 獣医さんが、まったく呆れたもんだねと言わんばかりにうなづいて笑っていた。聞いてみれば、10〜20mは平気で飛ぶということだった。
 「いやあ、僕らじゃ、そばにきてもどうやって捕まえたらいいものか、要領をえなくて駄目でした。とにかく、大きんだもの…」
 獣医さんは、とんだ大捕物だったよという様子で笑っていたが、開拓さんは手慣れた仕草でおとなしく観念しているクジャクを抱えながら、「こいつは、まだ去年生まれたばかりのヒナなんですよ。うちに、もっと大きな奴がいますから、是非見にきてください。ここからちょっと下ったところです。すぐ近くだから、是非来てください。でも、今日は驚きました。突然、警察から電話があって、何か悪いことしちゃったのかなあなんて思って、驚きましたよ」と言っていた。
 われわれの話声を聞き付けて、何か言いたそうな老父が出てきた。
 「ほお、捕まえたんですか…」
 「おじいちゃんね、こんなに大きいのに、これは、まだヒナなんだそうですよ」
 「ほうで、これでヒナですか。それで、何か、足にでも引っ掛けて捕まえたんで…」
 老父は、相変わらずの方法にこだわっていたが、私がとりあえずの情況を説明した。
 すると「木の上に登るんですか。さっきは、みんなして追っ掛けるもんじゃから、逃げられてしまって…」
 そんなわけで、とんだクジャク騒動は一件落着したわけだが、私は夕食時に、老父相手に本日のクジャク騒動の総括を試みた。
 「おじいちゃんね、開拓さんからは、初め5羽のクジャクが逃げたそうですよ。2羽は逃げてすぐ捕まえたそうですがね、3羽が逃げていたんだそうですよ。そのうちの1羽は、そこでようやく捕まえたわけだけど、まだ捕まらない2羽のクジャクはどうなりましたかね。僕は、さっき新聞を取りに行くときに、国道の脇の林の中でギャーコという鳴き声を聞いたんだけどねえ」
 「ほうで。さっき捕まえたのはヒナだとか言っとったが、それとは別に、わしがそこで見た大きな奴は、もうかなり歳をくっとったようじゃが、それはみんなに追われて川のほうに逃げてしまったからなあ。あとの1羽は、あそこの木の上にいて、そこから向こうへ飛んでいくのを見たぞ、あんたの言う国道の方へな」
 「ほんとですか? おじいちゃんは、クジャクが飛ぶのを見たんですか?」
 私は、また老父の勝手な思い込みが始まったなと思ったが、老父のこの言い方からすれば、これはボケというよりは単なる嘘つきと言うほうがふさわしいように思えた。
 「ああ、見たよ。大きな奴が、あっこの木の上に、おったよ。あんたら騒ぐから、みんな逃げちまったんだよ。そこで捕まえたのは、ヒナだとか言っとったが、最初にそこへ来とった奴は、大きな奴じゃったよ。あれはあの大きさからすれば、かなり年をとっとるんじゃろうな」
 「ほんとですか、あとの2羽も、この辺りへ来てたんですか? そうすると、逃げた3羽が全部この辺りに来ていたことになりますよ。でも、それはちょっと変だな。また何か勘違いをしているようですよ。いいですか、さっき捕まえたのが、昼間っから追い掛け回してた奴ですよ。あれもかなり大きかったけれど、あれでヒナだったってわけですよ。そして、もう1羽が向こうの国道の方にいたらしいということですよ。そして残りの1羽は、まったくの消息不明です」
 ところが、私の説明も、もう手遅れだった。
 「うんにゃあ、昼間っから追い掛け回して奴は、とうに逃げちまったよ。わしは、ずっと見とったんだよ。鳥は、臆病だから、追い掛け回しちゃだめだ。だから紐みたいなもんで、首か足をしばらなくっちゃ、捕まえられっこないよ」
 後は、老父の姑息な悪ガキ的捕獲論が振り返すだけなのだ。つまり、老父にとっては、とうに逃げてしまった1羽と、捕まえられたヒナ1羽と、それからクジャクが木の上にいたという捕まったときの情況と、クジャクも飛ぶことがあるという鮮烈な話が混同されて1羽となり、国道沿いの林へと飛んで逃げてしまったというわけなのだ。
 何はともあれ、捕まったクジャクが1羽、逃げたクジャクが2羽、老父の主張も私の主張も数の上では違いがないのだけど、それぞれのクジャクが担う<物語>は、これから語り返されるたびに、さらに捕らえ所のないものになってしまうはずなのだ。




12.逆上する


 わがまま尽くしの食生活の果てに「わしゃ、好き嫌いのない方じゃろう」と言い、満足に働きもしないのに過大に自分の取り分ばかりを貧りつづけ、ほんのわずかの身体の失調にも、いま死に行く者ほどの不安と苦痛を訴えてなお「わしゃ、これでも病気負けせんほうじゃからなあ」と公言してはばからない老父のことだから、自分の発言に責任を取らされるようなことにでもなれば<言い換え><言い逃れ>は当たり前で、揚げ句の果ては「わしゃ知らん。それはおまえたちが勝手にでっちあげたことだ」と本気で思い込めるほどに自己逃避的性格は筋金入りなのだ。それゆえに、この性格の矛盾だらけの自己愛を糾弾されたときの逆上ぶりは、まさに無明無知によって理性を崩壊させる小心者の爆発的狂気を露呈することになる。
 そんな老父の逆上劇に遭遇することは、私にしてみれば、己の愚かさを見せ付けられているのと同じことだから、何も好き好んで自己嫌悪に落ち込むために老父を逆上させて遊ぶつもりはないが、それでもあまりに老父の自分勝手な言い分が過ぎれば、さらに不愉快な思いをすることも覚悟の上で、私は老父の一番いやがるところを糾弾してしまうのだ。そんなわけで先日は、老父があまりにも得意満面に自ら数限りない苦難を乗り越えて、なおかつ元気な90歳を誇示して疑わない風であったから、この時とばかり、私は長いこと腹に据えかねていたことを言ってしまった。
 「おじいちゃんね、あなたはいつも自分の気に入らないことがあると、立場の弱い者を見付け出しては有らん限りの悪口雑言を浴びせ掛け、自分の欲求不満だけを解消していい気になってるけれどね、それがどれほどヒトの心を傷付けているか反省したことがありますか?」
 老父も面と向かって言われれば、いささか腹も立つであろうから、たちまち目を三角にしたゆで蛸になり、90歳とは思えぬ爆発力で拳を振り回して暴れ出すのをみることが出来るのだ。しかも、どんなに興奮しようとも血圧の降下剤が効いているためなのか、そのまま脳の血管がはじけて一件落着ということには決してならない。
 「おじいちゃんね、あなたは、僕らが物心付いたころからすでに30有余年、ほとんど働くこともなくわがまま三昧に暮らしてきたんですよ。その間おばあちゃんをこき使い、僕らのみならず縁のあるヒトビトすべての善意を貧りつづけてきて生き延びたにすぎないんですよ。それを忘れたことにして、よくも平気でそんなことが言えますね。いまおばあちゃんが、あんなふうにほとんど寝たきりになって満足に口もきけないようになってしまっているというのも、結局はおじいちゃんが、おばあちゃんの元気を吸い取って生き延びているにすぎないってことでしょう」
 老父は、紅潮してブルブル奮えながら開き直った。
 「うんにゃあ、勝手なことを言うな。おまえなんかにわしの苦労してきたことが分かるか。だいいちコマコはわしの女房だ。おまえらにとやかく言われる筋合いはない」
 いつもならこの辺りで引き下がっておくのだけれど、この日はべつに急ぎの用事もなかったし、ましてこのままにしておけば増長するばかりだと思えたので、さらに続けた。
 「おじいちゃん、自分の女房なら、何を言ってもいいって言うんですか。あなたは、先日も、病気で体が不自由なおばあちゃんに、自分の言う通りにしないといって怒り、勝手にヒステリーを起こして<おまえのような奴の面倒はもうみたくもない。死んでしまえ!!>と言ったんですよ。寝たきりで口もきけない病人にですよ。おばあちゃんがどんな気持ちだったか考えたことがあるんですか」
 ここで一気に逆上した老父は、精一杯の力を込めて仁王立ちになった。
 「嘘を言え。わしが病人に、そんなことを言うわけがない。貴様でたらめを言うと承知しないぞ。わしをバカにするにも程がある。わしもここまで歳をとれば、<死んでしまえ>などと言われることの辛さが分からないわけがない。そうだろう、それともおまえが、わしがそう言ってるのを聞いたとでも言うのか」
 「ああ、聞きましたよ。かわいそうにおばあちゃんは、僕のところにきて泣いていましたよ」
 私もそれだけのことは言ってやったが、いささか興奮していたので、母がようやく言葉をみつけては、しばしば兄嫁に漏らしていたという「生きていて何もいいことはなかった」の一言で止どめを刺すことを忘れてしまった。すると老父は、そこで案の定息を吹き返してしまったのだ。
 「おまえらは勝手なことを言っておるが、わしは、いつだっておばあちゃんを元気付けるために叱り付けとるんだ。ああいう病気は、まわりで甘い顔を見せれば余計にボケてしまうんだ。だからこそ折りをみて叱り付けてやらなければならないんだ。おまえらは、そういうことも分からずに、勝手なことを言っとるんだ。だいたいおまえは、いつだって口が過ぎるんだよ。そうだろう90のわしに向かって、まるでおまえの子供にでも言って聞かせるようなことを言っとるが、チャンチャラおかしい。世間の誰に聞いたって、おまえの言ってることは、90の父親に向かって言うべきことじゃないと言うさ。黙っといてくれ。だいいち、おまえのような妻帯していない者に、夫婦の間のことが分かるか」
 いよいよ老父の得意とするとめどない逆襲なのだ。
 ところが、老父のいう夫婦関係も所詮は病床の母が涙ながらに言う「生きていて何もいいことはなかった」の一言で押して知るべしであるが、そんな悔いを残してしか生きえなかった母が、先日は、ようやく言葉を見付け出して「どうするの? どうするの?」と私に尋ねてきたことがある。
 「何が? それとも何を?」聞き返す私に、母は涙で歪んだ顔で言った。
 「死ぬとき、死ぬとき…」
 それは、曲がりなりにも宗教の勉強をしているという息子ならば、何等かの回答を与えてくれるはずだという思いからであるにしても、母にしてみれば自分の意志をはっきりと伝えられる期間が、もうどれほども残されていないと感じたからこその切羽詰まった問い掛けであったはずなのだ。結婚して以来44〜5年に亙り誠心誠意良妻賢母を生きつづけてきたはずの晩年に、無念にも力尽きて病床にありながら、たとえボケてしまった夫とはいえ、その生きざまのすべてを頭っから否定されてしまう屈辱を浴びせ掛けられている母に、はたして何が言えるというのか? まして私は、世間にいう立身出世からは縁のない隠遁者にすぎず40を過ぎても妻帯しない親不孝者というわけだから、母の言葉の重さに返す言葉を探しあぐねてしまうのだ。
 それにしても私の<何>的隠遁生活とは、そもそも仏教にいう因縁解脱を踏まえた生きかたであるのだから、いま貧りの延命のためにだけ生きる老父の自愛的暴力性を、ことごとく無力化させるためにこそ生きる私は、家族のみならず自愛的欲望で結ばれたことごとくの関係の真っ只中においてこその浄化力を担うとすれば、当然ながら暴力的老父の反照的存在である母の屈辱的な挫折感をも解消させることになるのだ。その意味においては、常識を逸脱した何的反省者としての私にも、常識的な回答をする足掛かりを見い出しうるのだ。
 「おかあさんね、いま突然に死ぬことを心配しなくったっていいんですよ。人間の死というやつは、いつどこにやってくるか誰も知らないんですからね。いま元気にしている若者が、あした突然に死ぬことだってあるっていうわけですよ。だからね、おかあさんは、いま死ぬことなんかでクヨクヨしないで、どっしりと構えていればいいんです。ま、もしもの時が来たとしても、ほんの一眠りするつもりでいればいいんですよ。でもね、なんというか、いざというときの心構えみたいなものがなければ心配でならないというのであれば、誰かに何かに恨みつらみを遺していくのではなく、お世話になった人達に感謝しつつ、尚且つ遺された家族の健康と安全を願ってあげればいいんですよ。そういうことだから、何も心配はいらないんですよ。どっしりと構えていればいいんです」
 そんなわけで老父の逆襲が、今度は私のごく個人的な生き方に拘わる問題へと発展したために、私は母の死に至る痛みを思いつつ、私の何行者たる見解において反撃する機会を得たことになった。
 「駄目駄目。おじいちゃん、あなたが言ってることはどれもこれも言い逃れでしかないんですよ。自分が言ったりしてきた不都合なことを言い繕っているだけですよ。いいですか、あなたのようにしか生きられない者が妻帯すれば、結局はこの有り様なんですよ。あなたは好いかもしれないが、周りの者はみんな迷惑をしているんだ。だからこそ、僕はあなたのようになりたくないからこそ妻帯はしないんですよ。分かりますか?」
 とは言ったものの、いまここで私がこの隠遁生活において、死に損なって醜態を晒す老父を引き取って面倒を見ることが、結局は生きているかぎり付きまとう私自身の自愛的な欲望の醜態を暴いて、反省のくさびを打ち込むことに他ならないということを、私の因縁解脱の方法論としていることなど解説のしようもないのだから、いまいち老父を説き伏せる力は持ちえないのだ。
 なぜなら、老父の醜態を己の問題として引き受けることが私の生きがいであると教えてしまえば、いつも爆発していたい欲求不満者としての老父は「おまえがわしを狂わせたのだ」とばかり、発育不全の老害を撒き散らすだけのただの暴力者に成り下がってしまうからだ。
 さて逆上しつづける老父は全身を震わせながら、身の置き場を失って「もう貴様のような奴の世話にはなりたくない。わしは帰る」と家を出たが、どこへ行くあてもなく林の中で怒りを持て余し、両手をズボンのポケットに突っ込んで80年ぶりの悪餓鬼を気取りながら再び逆上のおさらいをしている。まあ、あとは冷却するのを待つだけだからこの辺りが潮時と見定めて、私は老父の同道巡りから身を引いて早々に部屋の掃除を片付け、新聞を取りに出掛けた。途中で、しばらく行きそびれていた床屋を思い出し、時間稼ぎにはもってこいとばかり軽いうたた寝を楽しんだ。
 そんなわけで1時間余りして帰ってみると、まるで借りてきたネコのようにおとなしくなり、一回り小さくなって長椅子に座っている。私が何事もなかったかのように振る舞えば、老父もわずかに残されていた緊張を解消して、正に好々爺の風情なのだ。
 一度爆発してしまえば後はケロリとしているのはいつもの常だけど、普段の何倍かの勢いで逆上していたことを思えば、自分のためにいかなる結末で老醜の自己愛を言い繕ったのか気に掛かったけれど、後に、東京で兄嫁に聞いたところによれば、私のところでは、どこを見てもまるでヒトの気配のない雑木林だから、ひとりで留守番をするときの心細さには耐え難いものがあると言っていたというわけで、ひとりになってみれば逆上していた分だけ余計に反動的な寂しさにさいなまれていたのかもしれない。




13.絵


 私は何的隠遁者の修行として一日一画という表現方法を日課としているが、それは、いかなる自己否定も否定者たる自己は否定しえないという見地から、自己否定の届かぬ否定者を<表現者>と見定めて、とめどない自己否定的反省者としての<表現者>を生き続けようという魂胆なのだ。そんな日課もすでに4,000日余りになり、現在の表現体験の現場では、もっぱら雑誌を引っ張り出しては切り刻み、<6F>というサイズのスケッチブックに張り付けているという次第なのだ。
 そんな様子を怪訝な顔で見ている老父は、しばしば両手をズボンのポケットに突っ込み、身体を前後に揺すってかかとの上下運動で調子をとりながら、まさか自分が煩わしい存在として思われているなどとは想像もつかない当て付けがましい顔で、私の仕事机の前に立ちはだかるのだ。
 「あんた、それはどこかへ売るのか?」
 「これは、売るつもりでしている仕事じゃありませんよ。だいいち、こんなものが売れるはずないでしょう」
 「それじゃあんたは、なんで食っておるんじゃ?」
 この問いも、すでに何回となく繰り返されてきたものにすぎないが、そのたびに回答していかなければ老父の機嫌を損ねることになる。
 「デパートのお中元とお歳暮の配達してるじゃないですか。あとは、臨時に家の仕事を手伝ったり、 J さんところの店を手伝ってるでしょう。つまりね、一人暮らしで無駄金を使わなければ、そんなにムキになって働かなくったって食っていけるんですよ」
 すると、この日は一層不機嫌そうな顔で言う。
 「あんたも、もう40になるんじゃろ、だったら、もうすこし身を入れて絵でもかいて、世間に認められるようにでもならなきゃ、しょうがないじゃろうが。いつまでも妻帯しないってわけにもいかんじゃろうに…」
 どうやら世間並みの親らしい小言を言ってみたりする。ま、このへんで話が終わっていれば、老父も不肖の息子を持った親としてとりあえずの体裁が整うことになる。ところが、老父がいつまでも仕事机の前を離れずに苦虫を噛み潰したような顔で立っていれば、私もついわずらわしさに一言付け加えてしまうのだ。
 「とにかくね、妻帯するつもりも、売れる絵を描くつもりもありません。今やっている仕事は、僕が17〜8の頃からもう20年以上も抱えていた問題に徹底した回答をしつづけているということなんです。そのためにこそ、僕はここへ引っ越してきたんですよ。今どき、自分のしたいことをしようと思ったら妻帯なんかしていられますか」と突っぱねてやることになる。
 もっとも、私が20年以上も抱えている問題とは、発育不全のまま初老になって妻帯した愚か者の息子として生まれた私が、肉親相克の関係でしか生きえなかった苦悩を<表現行為=表現経験>によって救済し解消することだったのだから、いまその<表現行為=表現経験>がすでに隠遁者としての生活によってしか実現されないと自覚されれば、なんで妻帯などという愚かな道を歩むことができるのか。
 まして兄夫婦の関係を見るまでもなく、仕事に追われながらボケ老人を二人も抱えてしまえば、もはや家庭が破綻するのは当然の成り行きなのだから、ボケた親が心置きなくボケていられる家庭とは、40を過ぎても妻帯しない親不孝者によってこそ維持されるべきなのだ。それゆえに、いまボケた親が自分の死を子供に看取ってもらうことが親の望む親孝行だとすれば、そんな親孝行は不肖の親不孝者によってしか実現されないということになる。
 いくらボケているとはいえ、このように言えば「どうやら、結婚については、あんたとは考え方が違うようじゃな」と引き下がる。ところが、仕事机の前からいつまでも離れようとはせず、おまけにコラージュという絵画的手法も納得しかねる老父は、手当たり次第に切り抜かれてズタズタになった雑誌を見てしゃべり続ける。
 「ほほう、それは、そうやって切り抜くための本なんじゃな」
 「そんな本があるわけないでしょう。在り来りの雑誌を適当に選んでるだけですよ」
 「ほうで…。でもなんじゃな、どの本に何が出ておったか覚えておかにゃならんから、これも大変な仕事じゃな」
 「そんなこと、いちいち覚えていられますか」
 「しかし、何を選んできたらいいのか決めにゃならんのだから、それも大変じゃ」
 「出たとこ勝負ですよ。だからこそ毎日続くんじゃないですか」
 結局のところ、老父にとっては、この<6F>におけるコラージュという手法について、何か知りたいと思えば思うほど迷路へと入り込んでしまうことになる。しかし、それでも何か言わずにいられない老父は、取り留めのないことを言っている。
「ほほう、奇麗な絵だと思っとったら、それは写真か。しかしなんじゃね、いまの雑誌というのは、どれも奇麗なもんなんじゃねえ…」
 ところがフッと気が付いたように、結構ピントの合ったことも言う。
 「そうやって、ヒトの写真を切り抜いて使ったりしても、問題にはならんのか?」
 「そうねえ、どこから引用したかを明記すれば大丈夫だね。ところが、僕の場合は、数が多すぎて、何をどこから引用したかが、ほとんど分からない。もっとも発表する気がないんだから、そんなことは気にすることはないけどね」
 老父はまた聞きたくない回答へと辿り着いてしまったことになる。老父は、苦り切った顔はしているけれど、まだ机の前を離れようとはしない。そこで、ここはひとつ根性を据えて掛からなければ、不愉快虫の老父を退散させることは出来ないと覚悟して、「何って何!?」の絵画的方法論について解説することになった。
 「ま、それにしても、何かの具合で、この<6F>を発表する機会が全く無いとは言い切れないとすれば、いまおじいちゃんの言った著作権や肖像権の問題は、無視できなくなるってわけですね。では、そこでどうするのか…」
 これに回答することは私の意図する<6F>という表現形式そのものについて説明することにもなるのだ。
 「まずは、絵の中で、いわゆる著作権とか肖像権に拘わりそうな、つまり<それがそれと分かる部分>を黒く塗り潰すことで十分なんですよ。しかもそれは<著作権や肖像権に拘わるために塗り潰しました>と誰にも分かるように、例えば無様に、不手際に、あるいは間に合わせの臨時の措置として行われれば一層いいってわけです。
 どうしてかと言えば、このようにすることによって、僕がこの<6F>という方法論によって表現していることが、実は、作品を作品として価値づけるためのヒトビトの約束である制度によって、隠蔽され抹殺されようとしているということを反照的に主張することが出来るからなんです。じゃ、そんなことを言って、いったい何になるのか? これが、この<6F>の狙いってわけです。
 つまり、僕は因縁解脱の方法論として<6F>という表現活動をしているわけですから、この表現活動によって<何が何んでも私でなければならない私>になったり、<何が何んでも意味や価値の分かる作品でなければならない>というように、自己愛とか様々の欲望によって<私>と<6F>を武装させてしまっては、自愛的欲望の解消を目指す因縁解脱が成り立たなくなってしまうからなんです。
 そこで、<6F>は自らの意図するものを制度的に主張しえないにも拘わらずに、ヒトビトの制度に則って展示されることにより、所詮は<作品たりえぬ6F>でしかないものを、いま改めて<作品もどきの6F>にすぎないものとして白状することになる。それは、ヒトに見られなければ何事も問題にならないものを、わざわざヒトビトに見られることによって、<だから皆さん、これは作品ではないと言ったでしょ。わざわざ見なくてもよかったんですよ>と宣言しえたことになるってわけですよ。
 この<6F>は、人を小馬鹿にしたような、つまりはヒトビトの見ようとする欲望をはぐらかすような役立たずの事件になることによって、はじめて僕が意図した目的を担って存在できるってわけですね。無論、一目で<チェッ、くだらねえ>と言ってくれる人があれば、そのときには、僕がわざわざシャシャリ出て<6F>の存在意義などについて説明するまでもなく、<6F>は本来の無意味性とか無価値性を獲得しているってことになるってわけです」
 こんな話は、老父のみならず大方の健全なる社会人には、得るところのない敗北者の愚痴のようなものだから、因縁解脱とか無意味性とか無価値性なんてものについて、役立たずの興味を持つ暇人ぐらいにしか聞いてもらえない無駄話ということになる。したがって、老父もたいていはウンザリして退散するはずではあったが、ほとんど何を言っているのか分からなかったはずの老父は、結局は何も聞いていなかったと同じわけで、何んのダメージを受けることもなく、正に私の話を<6F化>していたというわけなのだ。
 そこで老父は、平然と食い下がってきた。
 「そんなことをしていないで、もっと絵を描いたらどうなんじゃ」
 「そうね、巷で芸術家なんて呼ばれる絵かきにでもなっていれば良かったのかも知れないけれど、ところがねえ、あまりに精神誠意を尽くして絵を描いていたもんだから、とうとうこうなっちゃったんですよ、ハハハ」
 老父は「そんなはずがあるか」という顔で、カチカチと入れ歯を鳴らしている。いささか老父を持て余した私は、それならしょうがないというわけで、とりあえずは8〜9年前の絵を見せた。するとたまたま一番始めに見た絵が気にいった様子なのだ。
 「これは、すごい。ええなあ、わしは、こんなんが好きだなあ!!」
 ところがどういうわけか、その最初の一枚の印象が強烈であったためか、それ以降の絵には「これもええが、初めの方がええ」、そのうちに「初めのように、もっとじっくりと腰を据えて描けば、これなんかも良くなると思うんじゃがなあ、惜しいなあ」となった。しまいには、どうやら私の方法論である一日一画を苦々しく思っているようなのだ。
 「どうして、こんなにたくさん描かにゃならんのじゃ。もっと数は少なくたってええじゃないか。こうやって先へ先へと焦るから、次々と行き詰まってみんな中途半端になっちゃうんじゃないのか?
 惜しいなあ。こうやって行き詰まっては、次々と仕事を変えておるんじゃろうが、焦ることはないじゃろうが。こんなことしとって、何んになるんじゃ」
 このことがあって以来、老父は私が<6F>に取り掛かっているのを見るたびに、闇雲に目を三角にして説教をすることになった。
 「あんたは、どういうつもりか知らんが、こんなところに埋もれておったって、何んにもならんじゃろうが。おまけにそうやって、毎日描いたものをしまっておいたって、あんたが死んでしまえば、ただの紙屑として捨ててしまわれちゃうんだよ」
 ま、このしつっこさも老父の病気と諦めれば腹も立たないというわけであるが、それにしても、私が死んだ後にただの紙屑として捨ててしまわれかねないようなものならば、老父が希望するように<6F>を世に出すことなぞ到底為しえぬことなのだから、いつものように語れば語るほど語るに落ちる不手際に気が付かぬまま、とめどなく続けられる老父のご高説には、ただただうんざりさせられるだけなのだ。
 後日、それでもまだ何か言わずにいられぬ老父が、朝5時ごろに目覚めたときに、たまたまこれから寝ようかと思っていた私と目が合ってしまった。
 「わしも、もうそんなに先のある身じゃないから、これだけは言っておく」で始まる先日来のご高説が、ウダウダと1時間以上も続いたことがある。もっぱら聞き役の私は、そのまま寝ていたのであるが、気が付いてみたら1時間たってもまだしゃべり続けていたというわけなのだ。ところで、その趣旨は、大方次のようなものなのだ。
 「わしは、あの岡本太郎と懇意じゃから、あんたにその気があるんなら、わしは紹介してやる。わしは岡本さんにでも、あんたの絵を見てもらって、世に出られるような方策を教えてもらえばええと思う。岡本さんなんかが、あんたの絵を見たら、おもしろいと言ってくれるはずじゃ。こんど東京へ行くときに、ここにあるスケッチブックを、10冊でも20冊でも持っていったらええんじゃ」
 ところが、そもそも老父のいう岡本太郎との面識も、元を正せば20数年前、変な絵を描く青年として、老父のある知人が私を岡本太郎に紹介してくれたことを言っているにすぎないのだから、たぶん老父の擦り切れた記憶の中では、岡本太郎との面識とは私の付き添いにすぎなかったことが忘却され、そのときに「うん、これは君独自のものがあって、いい。とにかく、君はまだたくさん描かなきゃだめだ。また描けたら、持ってらっしゃい」と好意をしめしてくれたことを、そのまま自分の喜びとしてのみ記憶し続けたということであるらしい。
 まあ、老父の様々なる批判も、社会的評価などという私にとってはどうでもいい一面に対しては、あながち的外れというわけでもないのだ。しかし、<6F>は、すでに20数年来の試行錯誤の結果ようやく辿りついたものであり、いまさら取り下げるわけにはいかない主義主張というわけで、作品論として語るに及ばない無意味な<作品もどき>であることこそが身上なのだから、いよいよけじめの一発を見舞うことになった。
 「ご批判は、大いに有り難くお受けいたしますよ。でもねえ、いいですか、おじいちゃんは何か勘違いをしているんですよ。これはおじいちゃんが思っているような美術や絵画なんかじゃないってことです。
 これは、もともとは宗教的な発想で始められたわけですがね、もはや宗教や芸術なんかである以前に単なる<表現の思想>と言うべきものになっているんですよ。つまり<自分とは何か><いかに生きるべきか>に対する回答として描いているにすぎないのです。
 ですから、今おじいちゃんが言っていたような作品としての出来不出来はまったく問題にならないのです。とにかく、はっきり言わせて頂くならば、僕の<表現の思想>を知りもしない素人のくせに、大きなお世話でゴチャゴチャと口を出さないでもらいたい!!」
 そもそもタンカを切ったり捨て台詞を言うのが大好きなエエカッコシの老父には、グウの音も出ないタンカをくらわしてやるのが一番効果的なのだ。それ以来、何はともあれ私の絵についての老父の説教は解消されたのだ。




14.いよいよ東京へ


 いよいよ私の夏のアルバイトが近付いてきた。いつものことだが1ケ月余りも留守にするため、冷蔵庫の中はもとより保存の効かぬ食糧品を残さぬように心がけておかなければならない。ひとり暮らしの頃は、東京行きの日が決定すると4〜5日前から食糧品の整理を始めるという情況であった。ところが今回は、それほど増えていない在庫に対して片付ける方が口二つであるために、予想以上に在庫整理がはかどりかえって出発日までに不足を出さないようにすることに気を使うことになった。
 ところで、老父が毎食欠かさず食べているものに煮豆があるが、これが高原滞在もあと3日という日に、最後の食事まではどうやら間に合いそうにない量になっていた。
 そこで私は「東京へ行くまであと3日ですから、これだけ食べてしまったら終わりにして、あとは買わないことにしましょう。新しいのを封切って無駄になるといけませんからね。とにかく、あと3日で食べ終わるようにしてください」
 ところが老父は「あ、ほうで、分かりました」と答えていたのに何を思ったのか、その日の夕食までにこの煮豆を全部食べてしまった。
 「あれ、おじいちゃん、全部食べちゃったんですか。どうしてそんなに無理してまで食べちゃったの、もう、この豆はないんですよ」
 「ありゃりゃ、あんたは、まだ3袋もあるから急いで食べてくれと言ったじゃないか」 老父はまるでだまされたと言わんばかりの顔をしていた。
 そしてその次の日に、やはり毎食欠かさずに食べていた<でんぶ>が、こんどはちょっと残りそうだったために「これも、残しちゃったら悪くしてしまいすから、帰るまでに片付けちゃってくださいな」と言っておいたら、これも何を思ったのか、その日のうちにみんな食べてしまった。
 そこで「あれ、おじいちゃん、これも全部食べちゃったの?」
 「ありゃりゃ、これもまだいくつか有ると言うとったじゃないか…、違うんか?」という次第なのだ。
 そんなわけで老父の場合は、いつも何事につけ自分で勝手に「そうなっているはずだ」と思い込んでいる先入観が用意されているから、まずはいかなる情報もいま現在拘わっている先入観によってしか処理されないというわけなのだ。
 それはいま現在の即自性に固執するあまり、その即自たる自己の意識という事実性が、いかなる地平においてのみ正当であるかを見失ってしまい、テレビに映し出された事件や出来事や物語に感情移入して興奮しているのか、それとも夢や幻想や妄想の中でとめどない猜疑心や不安にさいなまれて苦悩しているのかを、冷静に検証する反省的対自としての視座を喪失してしまうことになる。
 だから、ひとたびテレビや夢や幻想と現実との混同が起こってしまえば、もはや事実判断や情況判断という反省的知見は衰退して先入観に頼ってしまうから、そんな状態で遭遇する様々な矛盾や軋轢は、それを検証せずにやり過ごしてもそれほどの重大事とは感じられなくなってしまうのだ。
 たとえばテレビの天気予報を見ているときに、アナウンサーが「明日の東京は、最高気温も27度ぐらいまで下がりますから、久し振りに涼しい一日になるでしょう」なんて言うのを聞いていても、「ほうか、明日の東京は涼しい言うても、まだ80度もあるそうじゃから、ここに比べたら暑いんじゃなあ…。ここにおったら暑さ知らずじゃからなあ」と言っている。それは大音量で聞いていてのことだし、テレビの画面を間近に見ていてその有り様だから、たんなる聞き間違え見間違えというよりも、どこかで気温の単位を取り違えて思い込んでいると見なさなければならないのだ。
 現に先日は、玄関の庇を支える柱に掛かっている温度計を見て、不思議なことを言っていた。
 「今日は30度はかないんで、涼しいのか…」 
 「おじいちゃん、30度もあったら、涼しいなんて言えませんよ。この辺じゃ大変な暑さですよ。それは温度計の見間違えじゃないの?」
 私は、どうせ見間違いだと思い訂正を迫ったが、老父はなかなか引かないのだ。
 「うんにゃあ、わしは、いま見てきたんじゃから、間違えっこないよ」
 そこで温度計を持ってきて改めて見せ、赤い柱が20度で止まっているのを示した。
 「おじいちゃん、これは何度に見えますか?」
 「ほれ、やっぱり30度じゃないか」と得意になっていた。
 そんな状態だから、「おじいちゃん、これは20度ですよ」と教えても、しばらくは合点がいかぬ様子だったが、私の冷ややかな眼差しを感じてボケていると思われるのがいやだったのか、「ほうか、さっきは斜めに見たんで、そう見えてしまったんじゃな」なんて言い繕っていた。
 そこで、このような事態から、今回の煮豆とでんぶに関する老父の<思い込み>を探ってみると、どうやら「何事も用意周到なあんたのことだから、わしの好きなものは、いつだって不足することのないように用意されているはずだ」という、例の<おんぶにだっこにかたぐるま>論によって武装されていたということに尽きるのだ。
 さて、当初の計画では、6月20日の土曜日14:40のバスに乗り、長野原発14:57の特急草津6号で東京へ行くことになっていた。暑い中荷物を持って老父をバスのターミナルまで歩かせ、さらに駅の階段を上り下りさせるのは相当に困難なことだとは思っていたが、まあなんとかなるさと高をくくっていたら、やはり老父は兄に迎えに来て欲しいというわけなのだ。そこで兄に連絡をとり都合を聞いてみたが、21日の日曜日になら来られるというので、われわれはさっそく計画を変更することにした。
 今日は午前9時ごろまでに、兄が東京から車で迎えに来てくれる予定なのだ。計画の変更はすでに決定していたことではあるが、あまり早くから細かい予定を老父に知らせると、そのことばかりに執着して余計な取り越し苦労を始めるので、迎えに来てくれる予定の時間は前日まで内緒にしていたのだ。
 そんなわけで、昨日の夜になって老父が寝るときにその旨を伝えておいたわけであるが、もう迎えに来てくれるという期待と喜びに興奮ぎみの老父は、たぶん兄が東京を発つ予定の4時半か5時ごろから起きて今や遅しと待ち構えていた。そのうちに待ちくたびれてウトウトしていたが、私は兄が来るまでに少しでも寝ておこうと思い少し早めに横になったが、老父は7時半ごろから再びベッドの上に起きあがり、窓のカーテンを引いて雑木林の中に飲み込まれてしまう道をにらんでいたようなのだ。
 私は、突然入り口の戸がドスンと閉まる音に驚いて目を覚ましたが、間もなく寝間着姿の老父が息を切らして部屋に入ってきた。そのままベッドに上がり残念そうにまた窓の外をにらんでいる。私は時計がまだ8時前であることを確かめて声を掛けた。
 「どうしたんですか? まだ兄貴が来るには、早いんじゃないのかな…」
 「いや、今あっこに車の影が見えたと思ったら、それがしばらく停まっていたのに、また向こうへ行きよったから、わしは、ハルヨシが道に迷ったと思って引き返しよるんじゃと思ったもんじゃから、ここでええんじゃと知らせてやろうと思って、いっそいで飛んでいったら、車じゃなかった。慌てて行ったもんじゃから、寝間着のままで寒かった」
 「そんな心配しなくったって大丈夫ですよ。兄貴は何回も来ているんだから。道に迷うなんてことはありませんよ」
 「ほうか、ハルヨシは何遍も来たことがあるのか…。わしは、そうとは知らんから、慌てて知らせに行ってやったんじゃが…。あんたが、きにょうは、8時ごろに来ると言うたもんじゃから、もう来るころだと待っとったのに、なかなか来んから…。どうしたのかと思って…」
 老父は、まだ興奮冷めやらぬ様子なのだ。いくら老父が朝早くから待っていたとしても、そのことによって兄の到着が早まるわけではないのだから、何んとか老父を宥めておくにこしたことはない。
 「ま、遅くても9時ごろまでには来てくれますよ。それに、兄貴が来たからといって、すぐに帰るわけじゃないんだから、今から慌てることはないんですよ」
 すると老父は「それでハルヨッチャンはどこから迎えに来てくれるのかな?」と問いつつも、自分で「ああ、岡山じゃなくて、ええと大阪じゃったな。大阪から来るんじゃ大変だなあ…。かなりあるもんなあ…」ひとり納得しているのだ。
 「大阪じゃなくて、東京からですよ」
 「ええ? 東京? 東京か、それならわけはないな」
 こんな調子だから、はたしてどこまで帰るつもりだったのかと考えてみれば、どうやら行き先不明としか言いようはないが、結局は老父の頭にはただ<自分の家>というものがあるだけでその所在はどこでもいいということになるのだ。
 まあ、老父がどこへ帰ろうとも私の知ったことではないが、結局はわれわれが連れて帰る限りでは老父がどのように思い込もうとも実害がないのだから、この程度のことは、老父の好きなように思い込ませておけばいいということになる。




15.預金通帳


 東京に戻って2〜3日は、なんとか機嫌の好い老父であったから、自分が留守の間に母の面倒を見てもらったお礼だといって、ママさんに時計を送ってあげたり、あるいは孫にお小遣いをあげてエエカッコをする余裕もあったけれど、一段落して自分の家にどっぷりと浸かっていると、またしてもいままでの妄想に取り付かれてしまうのだった。しかも、まる2ケ月間も高原でのんびりとしていた反動のように、いや、のんびりしすぎてボケが進んだということなのか、そんな妄想に取り付かれることが頻繁になり、同時に執着の度合いも深くなったように思われた。
 唐突に、やはり朝から老父に呼ばれて行ってみれば、早朝よりありとあらゆる妄想の中を巡りに巡ってきた老父の欝屈した顔が苦虫を噛み潰したような表情で、他に誰か家の者に聞かれてはまずことだとばかり、猜疑心に取り付かれた声をさらに潜めて言うのだ。
 「わしの通帳が盗まれた。あんた警察へ電話してくれんか」
 私は「またか」とばかりウンザリして、いささか投げやりに言った。
 「ええっ、どこかに仕舞い忘れちゃったんじゃないんですか?」
 ところが、それまでは平静さを保っていたつもりの老父が、またしてもバカにされていると思い込んだのか、またたく間に蛸が1匹ゆで上がった。それにしても、そんな老父の様子は、憤慨しているところを誰かに見せるために無理矢理に興奮しているようにも見えるが、理由や動機は何であれ一度興奮してしまえば、後は見境のない自己愛に覚醒し暴力者に成り下がってしまうということに変わりはないのだ。
 「うんにゃあ、仕舞い忘れたりはせん。わしは、ここに通帳を二つ重ねて仕舞っておいたんじゃ」
  老父は、いつも自分が背にしている整理タンスの書類入れに使っている一番下を開けて憤然としているのだ。
 「そういえば、通帳はバッグの中に入れていたんじゃなかったでしたっけ? 山から持って帰ってきたバッグの中に…」
 私はバッグを引き寄せて覗いてみたが、通帳は見当たらない。
 「その中には、ありっこないよ。わしは、ここに入れたんだから」
 「そうすると、山から帰ってきたときには、確かに有ったわけですね」
 「わしが、ここで盗まれたといっておるんじゃから、帰ってきたときには、有ったさ」 老父は当たり前じゃないかと言わんばかりなのだ。
 「でも、何かの拍子にどこかへ入れてしまったってこともあるかもしれないから、ちょっと探してみましょうよ。どうですか、おじいちゃんのその腹巻の中にでもありませんか?」と聞いてみたが、やはり見当たらない。
 そこで、今度は腰を据えて通帳探しに取り掛かることになった。老父専用の引き出しから、鏡台の引き出し及びその下、床の間の戸袋、押し入れ、タンス、テレビの下、テレビ台の中などなど、小心にして姑息な手段に拘泥してしまう老父がかつて通帳を隠したり、ちょっとまとまった現金があるときに、しばしば隠していたと思われるあらゆる場所を探してみたが見付からないのだ。
 改めて私が老父の後ろの整理タンスを覗くと、老父は台所にいるママさんをわざわざ意識して此見よがしに言う。
 「わしが、留守にしているあいだに、この中がすっかり整理されているんじゃ。どうも誰かがわしのものを調べているようなんじゃ。わしは、おかしいおかしいと思っとったんじゃ」
 そうは言うものの、私が見た限りでは2ケ月前と変わってはいないのだ。
 「そうかなあ、この中は、このあいだ僕のところへ行こうというときに、おじいちゃんが整理しておきたいって言うんで、僕が立ち会って整理してあげたときのままじゃないですか」
 老父は突然声量を上げた。「うんにゃあ、そんなはずはない。あんたに整理してもらったことなんかない。いいかげんなことを言うな。そんなことで、わしはだまされない。とにかく、あんたんところから、帰ってきてみたら、こうなっとったんだ。わしは、これを、こんなふうに置いた覚えはない。とにかく、誰かがこの中をいじっておるんじゃ。いよいよ通帳が出てこないとなれば、警察に来てもらわなきゃならん」
 自分の忘却している部分を刺激されることの不愉快さに我慢がならないということなのか、何があろうとも自分で整理したことだけは絶対に認めないという様子なのだ。
 「ところでおじいちゃん、自分の印鑑は有るんですか?」
 どうやらそれは有るらしいのだ。
 「それなら、たとえ通帳がなくなったにしても、お金を引き下ろされる心配はないんじゃないのかな。ま、警察も結構だけど、まずは、銀行に電話してお金があるかどうか確かめてみたらいいでしょう」
 「そんなら、ちょっと銀行へ電話してみてくれ」
 やはり銀行では、2ケ月以上に亙って自動振替以外には現金の引き出しはないというわけで、何はともあれ以前の通帳を紛失扱いにして再発行してもらうことにした。ところが老父は、あくまでも盗難の疑いを解消しようとはしなかった。
 「ほうすると、誰かが隠したんじゃな。隠したりしたって、しょうがないじゃろうが」 老父にちょっとでもまともな反省力があれば、老父に騒がれて一番いやな思いをするのは、ママさんでありわれわれであることはすぐに分かることなのだから、そんなことは考えられるはずがないのだが、どうもそうは問屋が卸さないのだ。
 「おじいちゃん、とこかくねえ、銀行へ行って、紛失届けを出さなくちゃいけませんよ。そうすると、4〜5日後に銀行から再発行の通知が来るそうです。そしたら、それを持っていけば新しい通帳をくれることになってますからね」
 私は、このままいつまで付き合ってもしょうがないと思い、もう一度念を押して部屋を出た。しかし老父は、ひとりになってもまだ、兄かママさんが盗んだという思い込みをエスカレートさせていた。
 「隠したりせんで、黙って出しさえすれば、なにも警察沙汰にまでしなくったっていいものを…。子供もおることだし、親が犯罪者だなんてことにでもなったら、子供たちがかわいそうじゃろうが…」
 それからも毎日、老父は兄とママさんを盗っ人と決め付けた態度でよそよそしく、しかも盗っ人の証拠をつかんでやるとばかり疑い深い眼差しで過ごしたが、そうこうするうちにようやく銀行から再発行の通知が郵送されてきた。それをママさんから受け取った老父は、今度こそ盗まれてはなるものかと仕舞込み、やはり仕舞込んだところを忘れ、今度はママさんが盗んだといって騒ぎ出した。
 盗っ人呼ばわりされたママさんが、いよいよ堪忍袋の緒が切れたとばかり怒り、老父の世迷い言を憤然と跳ね付けたそうなのだ。そのけんまくに気後れしたらしく多少の冷静さを取り戻した老父は、自分で仕舞忘れていたことを思い出して、このとき初めてママさんに「わしが悪かった」と詫びを入れたという。
 しかし、ここでママさんに反論されたことが老父にとってはよほど悔しかったのか、自分が反論されるに至る原因は、結局のところ自分にあるということは一切忘れて、嫁のくせに親に食ってかかる礼儀をしらない不届き者だという、ママさんの人物像を確立してしまったのだ。
 それ以来は「あの嫁は、うちへ来て以来、一度もわしのことを、おとうさんと呼んだことがないような嫁じゃからなあ…。ああいう性格の悪いニンゲは、気が許せない」という常套句を作り上げて、様々な妄想へと発展する足掛かりにしてしまった。
 ところが結局のところ、老父は、この大騒ぎをした再発行の通知も再び紛失してしまったようであったが、今度は騒ぎ立てることもなくひとりで銀行に行き、息子夫婦に自分の財産が狙われているため、いくら再発行の通知を郵送してもらっても自分の手元に届かないと言って、その場で通帳を貰ってきたそうだ。
 この間の様子を見ていると、どうやらボケている自分に気付いてはいるようであるが、それが原因で通帳を無くしてしまったとは絶対に認めたくないと決心しているらしい。そもそも己に降り懸かる一切の不幸不都合は、断じて自分の責任によって引き起こされたものではないと思い込みつづけて90年を逃げ延びてきた老父のことだから、これしきのことで己の非を認めるほどの柔な反省者に成り下がることはできないはずなのだ。だから、人前でボケたと認めるくらいなら、誰に何をいわれようとも「うんにゃあ、わしは知らん。勝手なことを言うな!!」の一点張りで逃げ切る腹なのだ。
 私は、しばしば、老父のこの論理的思考のかけらも感じさせない自愛的暴力者としての姿を見ていて、それは自分の肉感的思考だけでヌメヌメと生き延びてしまったババアのようだと感じたものだ。
 そういえば、われわれが子供の頃に、わがままを言ったり優柔不断でグズグズしているときに、よく「うるさい、女の腐ったのみたいに、いつまでもウジウジすな!!」という、老父の常套句で叱られたことがある。この<腐った女>とは、取りも直さずババアというわけだから、われわれが自己嫌悪するに至る<女の腐ったのみたいな老父の性格>こそが、実は老父が子供の頃に祖父に言われ続けた常套句であろうと推測されるというわけで、コヤ家歴代随一の発育不全者であったこの祖父もまた、事あるたびに曾祖父によって叱られ続けた常套句であったはずなのだ。そう考えてみれば、そもそもは母系的家系といいうる体質の伝統ゆえに担ってきた優柔不断の女々しさこそが、コヤ家という淀んだ血筋の彩りというべきものなのだ。
 そんな宿命をまったく無反省に担った老父のことだから、己の優柔不断や女々しさを言い繕うためならば、いかに他人にとっては奇想天外な思い込みであれ、あるいは不都合で不合理な態度決定であれ、そうしなければいられない自分を無反省に誇示してはばからないというわけのだ。
 そういえば、まだ母が元気であったころにも、老父が相変わらずの思い込みによる無理難題を言っていたときに、これが荒唐無稽な妄想であるがゆえに受け入れられない母に向かい猛然と逆上していたことがある。
 「おまえは、自分のことはか考えていないから、こうやって家の中が不愉快なものになってしまうんだ。わしが、これをしてくれと言うとるんだから、おまえは黙ってすればええんじゃ。なんだって、おまえは、わしに逆らうんじゃ!!」
 老父にとっては、まさか自分が家中の不愉快の原因であるなどとは思ってもみたことがないのだろうから、「自分のことしか考えていない」のが<自分>であるはずはないというわけで、誰に何んと言われようとも、まずはそのように宣言しまえばすでに天下無敵なのだ。
 これは、単にバカと言ってしまえばそれまでのことであるが、それにしては<おんぶにだっこにかたぐるま>とはいえ、とりあえずの三段論法で自愛的欲望の正当性を語ることが出来るというわけだから、結局は<おんぶさせられて、だっこにさせられて、かたぐるままでさせられた人>の不幸や痛みを反省的に知ろうとはしない発育不全者であるというべきなのだ。
 それにしても、その後も行方不明の預金通帳は出てこないのだから、老父のいう預金通帳盗難事件が、兄夫婦を困らせてやろうとする老父の狂言であったのか、それとも自分の不注意による紛失を言い繕うための狂言であったのか、あるいは単なるボケによる仕舞忘れにすぎなかったのかは分からない。




16.殺人未遂


 私の夏のアルバイトもいよいよピークを向かえ、このまま一気にラストスパートに入ろうとするころだった。7月12日、この日は日曜日で会社関係の配達が出来ないとはいえ、午前中に南千住方面で96件の配達が済んでいたから、まあ順調な方だといえた。いつものように昼食のために直接自宅に帰ってみると、すでに事件は起こっていた。
 店は休みなので裏木戸から入りそのまま2階へ上がろうとすると、私の物音に気付いたママさんが、何か切羽詰まった情況を抱えて踊り場まで降りてきた。
 「はい、僕ですよ。ただいま…」
 「あっ、おじちゃんが、ようやく帰ってきた。お帰りなさい。それで、連絡ついたんですか? 電話したんですけど、なかなか連絡がとれなくて…。今朝から、ずっと待ってたんですよ」
 「ええっ、そうだったの。全然知らなかったなあ…。それで何かあったの?」
 「ええ、大変だったんです。今朝、おじいちゃんが暴れて…、パパが刺されて…」
 それだけ言うと、ママさんは、急いで二階へと戻った。
 私は、すぐには脱げない編上げの靴をほどきながら、「とうとう何かやらかしたな」と思いつつも、どうせ情緒不安定な老父のことだから何んらかのトラブルは充分に予想しえたはずだったというわけで、「やっぱり駄目か」といういつもの思いと同時に「いよいよ決定的な決断が下される時が来たのか?」などという、良くも悪くも期待されていた事件へと踏み込む昂揚感を抱えて2階へと駆け上がった。
 ところが、2階は確かに殺気立った気配に満たされてはいるものの、それほどの大乱闘があったと思わせる混乱した情況ではなかった。しかし、奥の座敷で母が布団の上に起き上がり体を硬直させて、私が上がってくるのを今や遅しと待ち構えていた。
 私がそのまま座敷に飛び込んでみると、テーブルを挟んだ母の向かい側に、布団の上で組み合っている兄と老父が、ふたりとも箪笥を背にして母の方を向き身動きもままならない格好で座っていた。左側で立て膝をついた兄は汗だらけのランニングシャツを胸元から血に染めて、右側の老父に肩で覆いかぶさるように老父の両腕をつかみ、老父の左腕をつかんでいる兄の左腕で老父の身体を後ろの箪笥へと押さえ込んでいるのだ。
 「どうしたの?」私は、兄に向かって声を掛けた。
 「ああ、ようやく帰ってきたか。まったくしょうがないんだ。暴れやがって…」
 「で、傷はどう?」
 「いや、たいしたことはない。それよりこの手を放すとすぐ暴れだすんだ。いやあ、まったく、参ったよ」
 兄は老父の腕を握っている両手を少し上げて示した。すると押さえ込まれている老父がもがきながら吐き捨てる。
 「ちくしょう、きさまのような奴は、殺してやる!!」
 そこで、後ろからママさんが解説を加えてくれた。
 「ハサミで刺したんです。もう、朝から、なかなかおじちゃんに連絡が取れなくて、それでさっき、デパートの配達所まで呼びにいったんだけど、もう出た後だったもんだから…。それで、どうしたらいいのか分からないもんだから…」
 「もう、3時間以上になるかなあ、ずっとこうやっているんだ」
 兄は、老父が暴れないように取り押さえているだけで手一杯だから、今は何を為す術もなく途方にくれているのだ。老父は、押さえ込んでいる兄の力が緩むとすぐ逃げるそぶりをするが、それは叶わない。そしてすでに逆上して冷静さを失っている老父は、次から次へと込みあげてくる盲目的な激情に身を震わせ上ずった声で叫んでいる。
 「きさまのような奴は、生かしておいたってしょうがない!! わしが殺して、わしも死んでやる!! 家じゅうの奴らを皆殺しにして、死んでやる。わしは、やると言ったら絶対にやってやる!! 親をこうやって押さえ付け、暴力を奮うような奴は殺してやる!!」
 どうやら老父は、私の顔を見て、また改めて興奮する元気を取り戻してしまった様子なのだ。病気をして以来、すっかり弱気になった母は、この尋常ならざる老父を目の当たりにして、言葉の出ない口を歪め「ノリヨッチャン、なんとかして」とばかり私の腕を握るのだ。
 「ああ、大丈夫だよ。心配しなくたっていいよ」
 私は母を宥め、改めて兄のほうへ向き直って聞いた。
 「どうですか、まだ暴れそうですか」
 兄は半ば呆れた様子で言う。
 「ああ、ちょっとでも手を緩めると、手を振りほどいて、その辺のものをつかんで襲い掛かってくるよ。まったく油断できないんだ。興奮してるせいかな、年寄りとは思えない力だよ。とにかく、油断できないんで、さっき刃物はみんな片付けさせたんだ。トイレへ行かせろとか、もう暴れないとか言ってるけど、全部、嘘なんだ。
 さっきは、どうしてもトイレへ行きたいって言うから、一度連れて行ってやってドアのところで見張ってたら、トイレの中で何か凶器にでもなるようなものを探したり、この窓からじゃ逃げられないなあ、なんて身を乗り出してブツブツ言ってたから、引っ張り出したんだ。まったく目が離せないんだ。
 それで、何を言っても離してもらえないと分かったもんだから、今度は、もう暴れないけれど、このままじゃ腹の虫がおさまらないから、テレビでも何んでもいいから壊させてくれ、そうしたらおとなしくするなんて言ってるんだ。なんとか手を放させようとして、いろんなことを言い出すんだけど、とにかく、じっとしている間に武器になりそうなものを狙っているから、ちょっとでも気を許すと、すぐそれを取ろうとするんだ。まったくずる賢いんで、呆れちゃうよ」
 現に未だ興奮状態から覚めぬ老父は、まったく病気を抱えた90歳とは思えぬ元気を、すでに3時間以上も維持しつづけているわけだから、それは単なる興奮状態というよりも、むしろ尋常ならざる狂気に取り付かれて、見境のない復讐鬼へと変身していると言えるほどなのだ。そんな老父は、邪悪な霊気を纏った堅い仮面で呪いの叫びを上げる。
 「ほら、放せ!! きさまは親に向かって何んということをするんだ!! 放せ、放せと言うとるんだ!! 早く放さんと皆殺しにするぞ!!」
 しかしそれは、逆上している老父が、いつものように逆上してしまったことを取り繕うために、逆上という盲目的な即自性によって一切の反省を無化しようという演技にも思われた。そこで、私は口にはしなかったけれど思わず「身動きままならぬほどに押さえ込まれているくせに、いまさら皆殺しもないもんだ」なんて揚げ足を取り、ひとりニンマリと心の軋みを楽しんでしまったけれど、私はちょっとママさんの方へ振り向いて尋ねた。
 「いったい、どうしてこんなことになっちゃったの?」
 「この間の通帳のことがあって、あたしがちょっと言い返したでしょ。やっぱりそれが気に食わなかったんだと思うんだけど、今朝ね、あたしに、おまえはわしをどう思っているんだって、何遍も言ってたんですよ。また、喧嘩になってもいけないと思ったから、あたし、何も言わなかったんです。知らんぷりしてたの。そしたら、それが余計に気に食わなかったらしいのね、またいつものが始まっちゃったんです。
 それでおばあちゃんが、止めに入ってくれたんだけど、おじいちゃんにはおばあちゃんの言おうとすることが分からないもんだから、おまえは口もきけないくせにでしゃばるんじゃない、黙っとれって、おばあちゃんの胸倉つかまえて怒鳴り付けて殴ったんですよ。それがあんまりひどいもんだから、パパが見兼ねて飛んで来てくれたんだけど、そのときに突き飛ばされたんで逆上しちゃったんです。それでそこにあったハサミで…」というわけなのだ。
 「どうしようか、このままにしてるわけにもいかないしなあ…。もう朝からずっとだからねえ…」
 血みどろのランニングシャツを汗でベトベトにした兄は、脂汗の浮いた顔でかなり持て余しぎみなのだ。兄にしてみれば「さんざんわがままを聞いてやって面倒を見てきてこの有り様だよ」と、言わずもがなの積年の思いが抑え切れない様子なのだ。しかし、唐突に殺人未遂事件に遭遇してみれば、私にも名案があるわけではなく、ただ途方に暮れるばかりなのだ。
 「そうね、どうしようかと言っても、この状態だと、どうしたらいいかなあ…。女子医大に連れて行くにしても、どうなのかなあ…。このままじゃ連れて行きようがないしね。だいいち何科へ行ったらいいのかなあ? ああっ、そうか、きょうは日曜だっけ、じゃ病院ってわけにはいかないか…」
 私は、自分で勝手に病院行きを断念してしまう有り様なのだ。少なからず全員が興奮状態にあるために、おいそれと名案が浮かぶわけでもなかったが、兄の絶望的な焦燥を見かねて、私は、さきほど心ならずも期待した何か決定的な解決策を探るべく、しかし、どれほどの確信もないままに、とりあえずの回答を無理やりに手繰り寄せた。
 「そうすると、交番にでも行ってお回りさんにでも来てもらうか」 
 「まあ、そうだなあ、このまま手を放したら何をするか分からないからな。この状態だと、思い込んだことは必ずするよ。俺たちなら、なんとかねじ伏せられるけれど、目を放した隙に、おばあちゃんやママにでも襲い掛かったら止められないからな。とにかく、かなりすごい力だよ」
 しかもママさんの言うところによれば、「パパが、謝らせようとしたんだけど、全然駄目なんです」というわけなのだ。
 そして兄は「とにかく、何を言っても駄目なんだ。おじいちゃんが騒いだり暴れたりすることで、どれだけみんなが苦労して辛い思いをしているかを言ってやっても、わしゃ知らん、だからね。もう自分のしたいことをするだけだっていうんで、自分だけよければ後はどうなってもいいって、はっきり言うからね。呆れちゃうよ」
 それを受けて卑屈なほどに老醜の悍しさをあらわにした老父が、得意そうに言う。
 「ああ、おまえらのことなんか、知るか。こうなったら、わしは、思うようにやってやるだけだ!!」
 私は「じゃ、仕方ないから、そうするか」とは言ったものの、お回りさんに来てもらったからといってどうなるのか、警察から精神病院にでも放り込んでもらうことになるのか、それとも何か緊急避難的に隔離して冷静さを回復するまで面倒を診てもらうようなところを紹介してもらえるのか、いっそ殺人未遂でブタ箱にでも入れてもらうことになるか、などととめどないことを思い描いたけれど、だからといってやはり他に名案があるわけではなかったので、結局は警察へ電話することにした。とにかく、内弁慶で外面の好い老父のことだから、誰か他人に入ってもらうことが、冷静さをとりもどすための最良の方法であろうと結論づけたわけである。
 それにしても老父の前で電話するには何かはばかれるものを感じたので、私は1階へ降りて110番へ電話をした。内容は、たいした傷ではないが老人が逆上して暴れ出し怪我人がでた。今は取り押さえているが未だ興奮状態から覚めず皆殺しにするといって騒いでいる。どうしたものか考えあぐねている。そんなわけで、とりあえずお回りさんにでも来てもらいたい。ついてはサイレンなど鳴らしたパトカーで来られると、老人が余計に興奮しかねないので静かに来て欲しい、といったところであるが、最後の注文はパトカーなどが来て大騒ぎにでもならなければいいがという思いがあってことだから、ささやかに世間体を気にしての言い繕いにすぎない。
 さて、それから10分余りもしてからだったと思うが、遅いので私が家の前まで迎えに出たところへ、サイレンを鳴らさないパトカーが1台やってきた。私は二人の警察官にだいたいの事情を説明し2階へと案内した。
 警察官は血にまみれた兄の怪我の状態を確かめた後で、どうしたものかと思案していたが、まだ老父が暴れかねないという情況を見て、さらに2台のパトカーを無線で呼んでいた。おまけに騒ぎを聞き付けた交番からも警察官がやってくることになり、本日休業のスポーツ店は、物見高いヒトビトの中で何かヒトビトの知りえぬ大事件の現場へと変貌していった。
 そんなわけでわれわれは、次々と2階へ上がってくる警察官の数に戸惑いながら、彼らが一様に困惑した表情で入れ換わる中で、新たに現れる担当官に説明を求められ何度も同じ話をしているうちに、5人、6人と警察官が増えるのとは反対に部屋を包んでいた緊張感はすっかり弛緩してしまった。
 老父の様子を見ていた警察官が、兄に「もう、離してやっても大丈夫じゃないの」と言い、「どお、おじいちゃん、少しは落ち着いたかね」と老父を引き受けてくれたことにより、兄も大勢の警察官の出現に戸惑いながらも長い緊張から解放されていた。
 多分この日、大勢の警察官の出現に驚いたのは、病気して以来すっかり弱気になった母であったらしく、後で聞いたところによれば、騒ぎを知って駆け付けてくれたアキちゃんのおばさんに「おじいちゃん、連れていかれた、どうしよう…」と、たどたどしい言葉を拾い集めてはすがりついて泣いていたということだった。
 老父もまた大勢の警察官の出現にすっかり緊張を解き、まるで自分が救出された被害者気取りなのだ。
 「何を勘違いしたのか、この息子がわしを抑え付けて…。ありゃりゃ…、お回りさん見て下さい。これ…、この腕、両方の腕がこんなになるまでこいつが抑え付けて…。わしが、家内を叱り付けて、ちょっと頬を掠るぐらいぶっただけなのに、こいつが…」
 老父は、延々3時間に亙る闘争の後が、黒々と欝血している様に新たなる怒りを込み上がらせていた。警察官は、老父の欝血した部分を見ていたが、別に骨に異常のないことを確かめて「ふうん、おじいちゃん、あんた病気の奥さんをぶっちゃったの?」
 老父は、まったく一瞬にして好々爺に変身し、かなりしたたかに対応しているのだ。
 「いいえ、ぶったと言っても、かっこだけですよ。ほれ、これの頬を見たって、後も残ってないでしょう。わしだって、病人を傷つけるようなことはしませんよ」
 何はともあれ警察官も大勢来てもらったことだし、老父も落ち着いたようだということで、とりあえずの事情聴取のために荒川警察署まで行くことになった。老父の呆れ返るほどのしたたかさに、ぶ然とした表情ですっかり疲労感の中に埋没していた兄に、ひとりの警察官が軽い笑顔で言った。
 「あ、あのお兄さん、その血の付いたシャツは着替えたほうがいいな。そのまま、表にでたら近所の人が驚いちゃうからね」
 さて、兄と私がパトカーに送られて警察署に着いたときに、一足先に警察署に着いていた老父は、防犯課の椅子にひとり好々爺を気取って座っていた。われわれは、われわれの到着を待っていた担当の警察官に、老父からは離れた奥の来客用の椅子に案内された。
 それにしても、老父共々案内されたところが防犯課であるということが、警察の対応にも困惑の色があったことを感じさせたが、同時に、老父の逆上劇も所詮は警察の介入する刑事事件たりえぬことを示しているように思われた。
 ところで初対面の警察官に、兄が何か挨拶をするかと思っていたが何も言わないので、とりあえずは私が口火を切った。
 「いや、どうも、とんだことでお騒がせしちゃって、申し訳ございません」
 すると、人懐っこい小太りの警察官は、探していた言葉を見付けたとばかり、腰を下ろそうとした姿勢から身を乗り出して言う。
 「そ、そうなんだ、内としては、まったくとんだことで呼び出されてしまったようなわけですよ。ま、どうぞ、お掛けください。それで、いったいどういうことなんですか。私としては、よく分からないんですよ」 
 そういえば、この警察官は、テレビの8チャンネルだったか10チャンネルだったかのアナウンサーで陣内某という人がいたが、そのアナウンサーにそっくりなのだ。私はそんな名前を思い出すのに無駄な時間を費やしていた。
 ところで、私がちょっと兄の方に目をやると、兄は今後予想される老父のとめどない醜態のエスカレートに思いを馳せているようで、それによって被る被害と心の負担に取り付かれ、すっかり滅入ってしまっているのだ。そこで私が続いて語ることになったが、私は「とんだことで呼び出された」と言っている警察官は、すでにこの事件のことを充分に知っていると思った。
 「ええっと、情況は現場の方から聞いていらっしゃいますね」私が尋ねると
 「いいえ、あまり余計なことを聞きますと先入観を持ちますから、聞かないようにしています」というわけなのだ。
 私は「それでは何が一体とんだことだったのか」と言わずにいられない不可解なものを感じたので、何はともあれ警察官という立場の持つ無意識の先入観こそを問い正すべきではないかなどという、つまりは本件に拘わりのないことに拘泥してしまいそうになったけれど、とりあえずは語り尽くされたはずの事件の概要を説明することになった。
 そして警察官は、「いやあ、とにかくね、この逆の話しは聞いたことがあるけれど、こんな話しは初めてですよ。よくね、覚醒剤をやっている息子が暴れ出して、年老いた親が殺されそうだから助けてくれっていう話しはあるんですよ。ところが、今回の場合は、聞いてみれば立派な働き盛りの息子さんが二人もいるって言うしね、年寄りが暴れたぐらいで、なんで警察なのかと思いましてね」われわれの顔を覗き込んだ。
 私は「確かに、ぼくらも警察を呼んだものかどうしたものか、迷ったんですけどね、親父は、うちの者の顔を見ている限りは冷静になれないと思いましたし、たとえおとなしくなったとしても、ボケによる勝手な思い込みが逆上させるわけですから、あの人の性格からすると、やはり押さえ込まれたことの仕返しをしなければ、どうしたって収まらないと思ったんですよ」
 「だったら、寝間着の紐でもなんでもいいから、縛っておけばいいんですよ。結局はそうするしかないんだものね」警察官は身を起こして人懐っこい顔で笑っている。
 そのときに兄が、忌々しげに言った。
 「やっぱり誰か殺されるかしなきゃ駄目ですか」
 「いや、そういうわけではないのですが、相手は年寄りですからね…」
 警察官は、いたって歯切れが悪いのだ。われわれにしてみれば、現実的な日常生活では、いつ逆上するかもしれない老父を、あらかじめ縛っておくわけにもいかないことぐらい分かり切っていることだから、あまりの短絡的回答に私は聞き返した。
 「縛っておくんですか? 縛っておくっていったって、実際には座敷牢みたいなものでもなければ無理だと思いますよ。親父は、復讐すると言ってるわけですから、いつ襲いかかってくるか分からないわけですからね」
 「縛れないとすれば…、まあ、それは皆さんが優しすぎるってことなんだな」
 警察官は、われわれが父親を縛りつけるという行為の惨さに戸惑っているとでも勘違いしたのか、私の予想しえぬところへと横滑りしてしまった。そこで警察官は改めて言う。 「それで皆さんは、どうしたいと思っているんですか」
 この段階で兄は「それではこのままお帰りください」という事態になることを感じていたのか、もしもそういうことにでもなれば、それでは何んの解決にもならないことを憂慮している様子だったけれど、すっかり滅入った気分に埋没していて口を開こうとはしないのだ。
 そこで「とにかく、このまま家に連れて帰っても、また同じことを繰り返すと思うんですよね」
 私が言うと、それを引き受けて、兄がほとんど独り言のようにつぶやいた。
 「ああ、それじゃなんにもならない…」
 私は、そんな兄の気分を積極的に引き受けなければならないことになった。
 「実は、オフクロも今はほとんど寝たきりの状態ですし、われわれは、ほとんど一日中家を留守にしている状態ですから、ここで親父が目を放せないということになれば…」ここで、警察官は私を制止した。
 「ちょっと待ってください。どこでも忙しいのはお互い様なんだから、忙しさを理由にするのは止めにしましょうよ。ボケ老人を抱えたところでは、どこでも大変ですよ。みんな仕事が手に付かない状態で頑張っているんだから…。ひどいところでは、生活保護を受けているような家庭で、ボケ老人を抱えているなんていうところもあるくらいですから…。あなたがたも、ボケ老人を抱えているということの重さをしっかりと自覚されないと、やっていけませんよ」
 われわれは見事なほどの先制パンチを食らうことになった。
 しかし、ここでわれわれは、「生活保護を貰っているならば、わざわざ働かなくていいのだから、働けない理由は措くとしても、それならそれでボケ老人の面倒を見る時間的余裕があるじゃないか」と言い返すこも出来たが、そんな揚げ足取りが空しいほどに、われわれはボケ老人を抱えるということの自覚の甘さを痛感していたのだ。だからといって、このまま帰るわけにもいかないのだ。
 「それにしても、このまま連れて帰っても、家に帰ればすぐ思い出して逆上するのは目に見えているんです。ですから、冷静さを取り戻すまで、どこかに隔離してもらうか、あるいはあの状態が病気なら、治療してもらわなければならないでしょうから、どこか病院にでも入れなければなりませんけど…。実は、病院へでも連れて行こうかとも思ったんですが、今日は日曜なもんですから…、それにどこの病院へ行ったらいいものかも分かりませんのでね」
 私はなんとか言葉は並べてはいるものの、正に警察に電話をするときに自問した回答のない問いを再び突き付けられてしまっているわけで、まったく要領をえないのだ。そこで警察官は、常識人としての責任をことごとく担っているかのような顔で言う。
 「隔離するっていったって、あなたがたは、平気で自分の父親を精神病院に入れてしまうつもりらしいけれど、普通は、どこの家庭でもそこへだけは入れないでくれって言われますよ。そんなに簡単に、自分の父親を精神病にしちゃっていいんですか?」
 そう言われてみれば、確かにそれが正論かなとは感じたけれど、最近の老父を見る限りでは、ただのボケ症状にしては性格の破綻が尋常でないと思わざるをえないのだ。さらに警察官は言う。
 「あなたがたに、お子さんはありますか?」
 「ええ、兄のところに女の子が二人います」私が答えた。
 「だったら尚更ですよ、お子さんが結婚するときに、家の中に精神病患者がいるというのは、大変なハンデになりますからね。まして、おじいちゃんが精神病だとすれば、隔世遺伝ということもあるし、それじゃ子供さんがかわいそうですよ」
 警察官は尤もらしいことを言うが、私は、この警察官の善意は別にしても、彼らが無意識に担う体制的常識的発想の偏見に触れた思いがして、いささか不愉快だった。まして私にしてみれば、「てやんでえ、こっちとら精神病や気違いが怖くて芸術や宗教をやってられるか!! いいか、よく聞けよ。もしもあんたらが芸術と宗教を美しく神聖なものだなんて考えてるんなら、そんな感動的体験ってやつこそが狂気の産物ってわけだ。よく覚えとけ!!」と言わずにいられない、そんな反動的うづきを呼び覚まされることになってしまったのだ。
 しかしわれわれに言葉がないのを感じて、警察官は思わぬ体験談を聞かせてくれた。
 「いや、実は、わたしの父親は去年86で死んだんですがね、やはり晩年はボケてしまいましてね、散々苦労したんですよ。
 実家は九州なんですが、面倒を見てもらっている兄夫婦とうまくいきませんでしてね、土地の謄本が誰かに書き換えられていると言い出して、私のところへ電話が掛かってくるんですよ。そのたびに飛行機で九州まで帰りましてね、登記所まで連れていって謄本を見せるんですが、これはおまえが来るのを知って誰かが書き直したに違いないと言い張るんですよ。謄本は登記が変わればそのたびに名前が残りますから、そういうことがあればすぐ判ることなんですが、なかなか納得しないんですね。それでも私が言えばなんとかその場は収まるんですが、東京へ戻ってくるとまた電話が掛かってくるんですよ。
 散々面倒を見てもらっているのは兄夫婦なんですが、年中顔を合わせている家族じゃ駄目なんですね。それでよく僕が呼ばれたわけなんでしょうけど、でもまあ、今となっては、やはり死なれてしまうと寂しいですよ」と思わぬ体験談を聞かせてくれた。
 われわれは、ものの言い方や発想はどうであれ、この警察官がわれわれに対して示す何等かの親しみの正体を知り、おおいに打ち解けることになった。と同時に、人の心を開かせるというこの対話の組み立てを顧みて、私はよくテレビ映画などに見る刑事の尋問シーンにおける老刑事の泣き落とし戦術なるものを思い浮かべてしまった。
 何はともあれそれからはボケ老人談議になってしまったが、警察官によれば、老人による犯罪を見ていてはっきり言えることは、彼らがことごとく<反省>というものをしないということであった。
 たとえば、何かの妄想に取り付かれて自分の女房を3階だか4階の窓から捨ててしまった老人の場合も、あるいは、寝ていて突然の発作に隣に寝ていた奥さんの首を締めて殺してしまった老人の場合にも、とんでもないことをしてしまった自分への反省は希薄で、そうしなければならない自分を正当化するだけであったというのだ。
 「ですからね、今回の場合も、あなたがたがお父さんに謝らせようとしても、それは無理だと思いますよ。たぶん、あの調子だと、お兄さんに押さえ付けられたということしか覚えていないんじゃないのかな。とにかく老人の場合、自分でしたことよりも自分がされたことしか覚えていないんですね」
 ここでわれわれは、警察官がボケ老人に対する認識が充分であることを知って何か肩の荷が降りるような感じをうけた。
 それにしても、ここで私が一番興味深く感じたことは、「<反省>のないことがボケの証拠だとすれば、反省的生活者であることの自覚はボケないための生き方を示している」と言いうるテーゼを見い出したことなのだ。これは正に私の言わんとする「何って何!?」の<何的反省論>を老人問題へと展開する可能性を見い出したことになるからなのだ。
 警察官は、ボケ老人の事件は世間から蔑視されかねない「異常者を抱えた家族」という重荷を背負って解決するよりも、多少の苦労ならより社会的許容量のある「ボケ老人を抱えた家族」として、ボケと対峙するほうが得策であることを語った。そして保健所の老人問題専門の相談員に相談してみることを進められた。さらに、この警察官が以前葛飾の方にいたときに、ボケ老人の問題で何度か世話になった病院があるということだった。この病院では、かなりのボケに有効な治療を行っているとのことで場所は教えてくれたが、少し前のことなので病院の名前ははっきりとは覚えていないということであった。
 しかし兄は、老父をこのまま家に連れて帰えってしまったのでは、何の解決策にもならないことを憂慮していたから、「やはりそうか」と言わんばかりに苦渋に満ちた顔で沈黙していた。
 警察官は、「お兄さんが、そういう顔をしていたんじゃ先が思いやられるなあ。もっと元気を出してくださいな。ここでお兄さんがしっかりしないと、家庭が成り立たなくなってしまいますよ。とにかく、今日のところは、また暴れだしたらしょうがないから縛り付けておくなりして、あした保健所の相談員に連絡をとられたらどうですか。警察から病院を紹介するわけにもいきませんからねえ… とにかく、鉄格子の入ったようなところへ入れるよりは、その方がいいですよ。じゃいいですね、それじゃお父さんをこちらへ呼びましょう」
 そして警察官は、それまでひとりにさせられていた老父を呼び寄せた。老父は、われわれが警察官にお仕置きでもされていたと思い込んでいたのか、すっかり勝ち誇った素振りでやってきた。そこで、警察官が年寄りの扱いは任せてくださいとばかり、あたかも老父を手玉に取るかのようなおどけた様子で言う。
 「ねえ、おじいちゃん、あなた90歳なんだって? 元気だねえ」
 「へへへ、そうですよ」老父はいかにも得意そうに好々爺の風情なのだ。
 それにしてもわれわれには、老父が警察官の調子に合わせた応答がかなり臭い演技に感じられたほどだから、もしもわれわれが、老父にこのような扱いをすれば「おまえたちは、わしを、子供扱いするつもりか」ということで、またつまらない騒ぎになるのは免れえないはずなのだ。その意味においても、老父との交渉事は第三者の介入こそが有効であることを再確認したのだ。
 警察官は老父の膝に手を掛けて、さらに親しみの情を表すかのように顔を覗き込む。
 「どうして暴れたりしたの?」
 「いゃあ、わしは、そんなつもりはないですよ。これが、何を勘違いしたのか突然上がってきてわしを突き飛ばしたもんですから、わしは怒って…、ほれ…、これですよ。こんなになるまでわしを押さえ付けるもんですからね。わしは、いままで喧嘩に負けたことなんかないのに、この歳になって、こんなひどい目に遭うほど自分の子供に押さえ付けられたなんて思うと、もう我慢ができないんですよ。ほんと殺してやろうと思ったのに…、ハサミがもうあと一寸も長ければ、しそんじなんかしなかったんですが、それを思うと残念でなりませんよ。ま、今度こそは一思いにやってやろうと思っていますが…」
 しだいに老父は己の言葉に興奮していくようであった。
 それにしても正当防衛による英雄気取りの老父は、しきりに兄を指さして身構え得意になっている。
 「これなんか、殺してやらなければ腹の虫が治まりませんよ」
 警察官は困ったもんだねと言わんばかりの顔をわれわれに向け、それから再び老父に向き直り話を続けた。
 「おじいちゃんね、そういうことを言うと、お回りさんとしても安心できないんだよ。そういうふうに興奮するから、みんなに心配をかけるんだよ。いまね、お回りさんがお茶を入れてあげるから、お茶でも飲んで機嫌をなおしてよ」
 警察官はお茶を入れに席をたった。
 「ここの若いもんが、いつもお湯を熱く沸かしておいてくれるもんだから…、やけどしないように注意して飲んでね」と、慣れない手付きでお茶を運んでくれた。
 それからはもっぱら警察官と老父とのやり取りになった。
 「ねえ、いま聞いたら、おじいちゃんは社長なんだって?」
 「へへへ、そうですよ。でも社長いうても、いまは商売の方は、すっかり長男に任せっきりですから、わたしは、べつに何もやってないですよ」
 「そりゃまあ、そうでしょう。もうその歳なんだから」
 「だから、給料というて幾らか貰うわけでもないし、たまに店に余裕のあるときに家賃を貰うだけなんですよ。それも本当は毎月きちんと貰わくちゃいけないんですけれど、このところあまり店の調子がよくないのか、たまにしか貰っていないですよ。それでもわしは、一度も催促というてしたことはないですよ」といつもの常套句になった。
 すでに年寄りとの無駄話に興じている警察官は、われわれがうかつに聞けば喧嘩に成りかねない事柄を、第三者の気軽さでズバリと聞いてきた。
 「なんだ、おじいちゃん、それは立派な催促じゃないか。そうやっていつも催促してるのか。だけどさ、おじいちゃんは、いまお金を貰って何に使うの?」
 いま老父の金の使い道と言えば、こそこそと隠し事をしているかのような素振りで、宝くじを大量に買いにいくだけだということをわれわれは先刻承知だから、老父が何んと答えるか楽しみにしていたら、老父はちょっと返答に詰まってテレ臭そうな顔をしていたが、まるでわれわれの予想しえぬ尤もらしい回答を用意してみせた。
 「わしだって、たまには、何かおいしいものでも食べにいきたいですよ」
 どうやらボケたとはいうものの老父は、この歳にしてもなお見栄や外面の良さを取り繕うとする社会性は喪失していないのだ。
 そこで警察官は、このあたりが潮時とばかり話の切り上げを図った。
 「じゃさあ、帰りにでもどこか寄って、おいしいものでも食べていったらどお。もうだいぶ落ち着いたようだから、大丈夫だよね」
 これでわれわれは席を立った。兄は、たとえいま老父の機嫌が直ったとしても、またすぐ逆上することは目に見えていると思うあまり、自分たちが家を出るか老父が家を出るかの二者択一による解決しかないと確信していたものが、先送りになっただけであることに落胆の色を隠さなかった。
 それにしても、ここへ来て早々に警察官に先制パンチを食らったように、いま兄の落胆をわれわれの甘さとして語るまでもなく、ボケ老人を抱える者としてのわれわれの認識不足は、誰に指摘されても仕方のないものとして引き受けなければならないのだ。しかも、われわれにしてみれば「自分の親だから、病気だから、ボケてしまったんだから、今さら何を言ってもしょうがない」などと言い捨てる妥協において、辛うじて親子関係を維持してきたにすぎなかったのだから、たとえば親密な親子のように、「親であり、病気であり、ボケであるからこそ、根性を据えて面倒を診なければならない」と思う関係など望むべくもないというわけで、こんなめでたい親子関係を前提にして非難されれば、われわれには全く反論の余地は無いと言わざるを得ないのだ。
 しかし、われわれの認識不足が誰に糾弾されようとも、あえてそれを受け入れて尚且つ「まあ、われわれの親子関係などせいぜいそんなものさ」と開き直っていられるということは、今日に至るまでわれわれが老父に対して抱いていた20数年来の思いというものが、自己嫌悪に追い詰められるほどの不信感に他ならなかったからというわけなのだ。
 だから、いよいよ以て私が、根性を据えて自分の<何論的解脱>のために反照的自己の拠り所として、老父を抱え込んでいかざるをえないと考えるような酔狂であることを別にすれば、すでに離婚の危機から家庭の崩壊を突き付けられている兄にとっては、もはや老父を回復する見込みのない病人として抱え込むゆとりなど、どんなに知恵を絞っても作り出せるはずはないのだから、兄のとめどなく滅入るほどの不機嫌さはしごく尤もなことに思われた。
 そんなわけで、明らかな殺意をもってヒトに怪我をさせておきながら、それを警察で主張すればするほど宥められて帰されてしまうというわけで、すでに満足な社会人としての人格も認められない老人とわれわれは、玄関まで見送りに出てタクシーを停めてくれた警察官に、親切なるカウンセラーとして尽力してくれたことに感謝の意を表し、それぞれの思いを秘めて家路についた。




17.東京都立養育院


 老父の殺人未遂事件は警察署へ持ち込まれたが、われわれにとっては解決策を先送りにしただけのことだから、結局は安易に期待した回答は何も得られなかったことになる。ところが、老父にとってはお茶を一杯御馳走になって来ただけのことだから、何も後ろめたい気持ちを抱えて戻ったわけではなく、むしろ復讐のチャンスを保証されたことになり満足すべき結果に終わったのだ。
 われわれが警察から帰ってみると、騒ぎを聞き付けて心配したアキちゃんがおばさんと共に来てくれていた。とりあえずの満足感に今は落ち着きを取り戻している老父が、2階に上がるのと入れ換えにアキちゃんが降りてきたが、われわれはアキちゃんという第三者の情況判断を取り入れる機会を得てそのまま店の事務所に留どまり、これからの対策について相談することになった。
 ところで、後にママさんから聞いたところによれば、老父は2階に上がるなり「警察でハルヨシが詫びを入れたから、わしは許してやったようなものの、本来なら許せるようなことじゃないんだ」と言っていたという。どうやらこれは、警察沙汰の大騒ぎをして戻ってきた老父が、アキちゃんところのおばさんという他人を意識しての言い繕いに出たことは明白であるが、言い逃れ名人の老父のことだから、このように宣言してしまうことにより母とママさんに対するバツの悪さをも取り繕っていたのだ。
 われわれは、警察官から聞いた病院をだいたいの検討から電話帳で調べてみたが、どうも分からなかった。たしかに警察官が言っていたような名前の病院が葛飾区にはあるのだが、電話をしてみると老人関係の医療を専門にしている科はないということだった。
 それにしても、お上の御墨付きを貰った復讐者として元気100倍の老父をこのままここに放置して、老父が誰かを殺すまで待ち、そのときになって初めて強制的に精神病院へと隔離するというわけにはいかないのだから、早々にどこか老人専門の精神科にでも治療して貰うべきだというところへと落ち着くことになった。
 そこで、結局はいま掛かり付けの東京女子医大で診てもらうのが好いだろうということになったが、ちょうど翌日の月曜日がその担当医師の診察日に当たるため、とりあえずは兄が店を開ける前に病院へ行き、老父の症状を詳しく話して今後の問題について相談してみることにした。
 私は警察に行く前に、午後からのアルバイトが出来ないかもしれないということを配達所の所長に連絡しておいたが、この日は兄が家にいて老父の監視が出来るというので、とりあえずの後始末のために夕方から再び配達所へ出掛けた。
 配達所の所長は、私が配達に出掛けている午前中に、めったにない私への呼び出し電話があったり呼びに来たりで、おまけに私からは「ちょっと、野暮用で警察へ行かなきゃならないので…」なんていう電話を受け取っていたもんだから、私が何か面倒な事件に拘わっているものと思い、人手の足りない繁忙期の真っ最中だというのに、明日からの仕事に支障を来すのではないかと心配したようであった。そんなわけで同僚のひとりは、冗談まじりとはいえ半ば本気で「よく帰ってこれましたね。どんな嘘付いて逃げてきたの?」なんて言っていたぐらいだから、そもそもデパートの宅配というアルバイトにしては、かなり年期が入っているとは言うものの、何年付き合っても得体の知れぬ違和感と影のある存在であったということなのだ。
 さて、次の日、兄は早朝から病院へ出掛けたが、それから間もなく老父がまた騒ぎだした。私が2階へ降りていくと、すでに老父はゆで蛸になり目は三角に吊り上がって拳を握った両手をテーブルに叩き付けているのだ。整理整頓の全く出来ない老父のテーブルは、そのくせ誰にも触らせないのだから、老父が力任せに叩くたびに訳の分からぬガラクタどもがヒステリックに踊り上がっていた。
 ま、この段階なら、かなりうるさいのはしょうがないとしても、発育不全の老父の場合は、欲求不満のガキが誰にも相手にされなくて騒いでいるのと同じだから、好きなようにさせておけばいずれはおとなしくなるはずなのだ。
 私は茫然としている母を寝かし付け、しばらくは老父が騒ぐままにさせて黙って見守った。老父がテーブルを叩きながらまくし立てているところによれば、その内容は、昨日押さえ付けられて欝血していた部分が一晩たって拡大し、さらに痛みも増して広がったことが不愉快でならず、無性に腹が立ってしょうがないということなのだ。
 「ハルヨシの奴はどこへ行った!! こそこそと逃げおって…。わしは、この痛みが消えないかぎり必ず復讐してやる!! そう言っておけ!! わしを怒らせたら、もうこの家をめちゃくちゃにしてやる!! どうせわしのもんだ、わしはやると言ったら、徹底的にやってやる。いいか、覚悟しておけよ、火でもなんでも付けてやるからな」
 この日は、最後の火付けの下りが耳新しい部分であるが、それに付随していつもの不平不満と愚痴と不信が勝手な思い込みによる常套句となって噴き出し、そのとめどなく続く念いに自ら興奮し続け、もはや治まりがつかないという次第なのだ。とにかく、その執念深さと大騒ぎし続けられるパワーというものは、90年という歳月の半分以上をほとんど何事を為すこともなく、ただわがままだけを言って生き延びてしまった怠け者ゆえの、使い切らなかった生命力によって保証されているのだから、謹厳実直に一生を働き通してしまったそんじょそこいらの善良な老人なぞ、到底問題にならない爆発的潜在力と言わなければならない。
 ところが、何をするにも誰か相手がなければ何事も立ちいかない老父のことだから、ひとりで小一時間も騒がせておけば自然に爆発力も減衰させて、空回りした激情を抱えたままで尻つぼみになってしまう。
 どうせ小心者特有の自愛的欲望をナルシシストとして人格化した老父のことだから、病気と怪我にはまったく意気地がないというわけで、何でもかんでも大袈裟に言い立てるところを汲み取って、まるで子供の怪我におまじないをかけるのと同様に、昨日の傷にアンメルツなどを塗ってあげれば、案の定老父の激情はさらに落ち着きを取り戻すことになる。しかし、それで痛みが解消されるわけではないのだから、何かの拍子にうっかりと肱をテーブルにでもぶつければ、再び怒りの炎がくすぶり始めるのは否めない。
 そのうちに小さなハサミを取り出して棒状の小さな油研石で先を研ぎ始めた。それは私の目を意識した狂気の演技であるにしても、どこか子供の無心な復讐劇を見るような滑稽さと残忍さが感じられるものなのだ。
 「このハサミじゃ小さいんじゃが、これでも先だけでは研いでおけば、刺したときにちょっとでも深く入るようになるからな。今度こそは失敗するわけにはいかんからな」
 老父が自らを鼓舞しつつハサミ研ぎに専念している様は、やはり異様な光景と言わざるをえないのだ。次第に呼吸が乱れてとりあえずの興奮状態に上り詰めるころにはその作業も一段落するが、次はそのハサミでガーゼを切って20センチ四方ほどのものを2枚作り、1枚でハサミを包みもう1枚は二つ折りして、「これは、もしもわしが怪我をしたときに手当をするのに必要じゃから」と独り言をいいながらズボンの左ポケットへ押し込んだ。そしてガーゼに包んだハサミをどこへ入れようかと思案したあげく、結局はズボンの右ポケットに仕舞込んだ。
 「そんなところへハサミなんか入れて、自分の足を刺したって知らないよ」
 私が冷ややかに言えば、まったく知らん顔で大きなお世話だと言わんばかりにズボンの上からハサミを撫でている。どうやらそれで一安心できたらしく、興奮していた緊張の糸が切れてたわいもなくうたた寝に入ってしまった。
 私はこの日、午前中は仕事を休むことにして老父の様子を見ることになったが、兄は午前中いっぱいかかって戻ってきた。兄の報告によると、病院のほうでは担当の医師が精神科の医師を呼んでくれて相談にのってくれたとのことであった。その精神科の医師とは、母がパーキンソン病で診てもらっている医師だったそうで、私の素人考えでは精神科と神経科とは違うはずだと思ったが、何はともあれ家の事情をよく分かっていてくれたので親身になって相談にのってくれたそうだ。
 その結果、老父の場合はボケによる症状であるにしても、刃物を持って暴れるようになってしまったということが、ひとつの自制心の喪失、崩壊と見なすことができるということであるらしく、やはりこのまま放置しておくわけにはいかないということなのだ。そこで老人専門の精神科がいいということで、病院から荒川保健所の老人問題の相談員に連絡をとり、緊急事態であることを説明して敏速なる措置がとれるように頼んでくれたそうだ。兄はその足で荒川保健所へ回り、紹介された相談員に会ってきたが、老父の状態を一度診なければならないが、どうしても今日は時間が取れないというところを無理に頼み込み、今日昼休みの時間に来てくれることになったというわけなのだ。
 それから間もなく保健所から O さんという相談員が来てくれた。 O さんは、老父を刺激しない形で自分と引き合わせる理由をどうしようかと心配していた。
 「ところで、私は、どのように自己紹介したらいいですかね?」
 「警察から紹介があって来てくれたことにしていいですか。それでよければ、僕が、そのように話しますよ」
 私は O さんの了解を得て2階へと上がった。
 「おじいちゃん、昨日の騒ぎがあったので警察の方で心配してくれてね、老人関係の事件について、専門にいろいろと相談にのってくれる方を紹介してくれたんですよ。いま、ちょうどみえたところだから、ちょっと話をしてみたら…」
 老父にしても所詮は老人特有の疎外感にさいなまれているわけだから、相手が誰であれ自分の話を聞いてくれる人があれば、とりあえずのご機嫌は取り結べるというものなのだ。太田さんは、昨日の事件について改めて本人からの説明をもとめ、つづいて現在の身体の具合について尋ねた。
 老父はすでに常套句になっている「ハルヨシの奴が何を勘違いしたのか…」で始まる定型の物語によって事件の動機と、そして屈辱的なほど痛め付けられたこと、それゆえの復讐の決意について語ったが、細かい点についての質問に回答出来ないことがあると、そのたびに「私も、三回倒れましてね。それ以来すっかり頭の中がカラッポになってしまいまして…」の言い分けを繰り返していた。 O さんは老父に自己紹介する際にも、自分は医者ではないのですがと断っていたにも拘わらず、老父は今飲んでいる薬にも目を通した O さんを、すっかり医者として思い込んでしまったようなのだ。
  O さんのとりあえずのカウンセリングが終わったあとで、われわれは店の事務所で事後対策について話し合った。 O さんが老父を診たところによると、私の説明により60歳以降の約30年分の記憶が曖昧になっているとはいっても、現在の意識がはっきりしているところから、俗にいう<まだらボケ>という症状のように思われること、そして、直前まで興奮していたためかかなり表情が堅いということ、勝手な思い込みは老人特有のものであるにしてもそれが原因で暴れるようならば、やはり老人専門の施設に入れてみてはどうか、ということであった。
 そしてその場で所沢の大生病院に連絡をとり入院可能であることを確かめてくれた。しかし、先方のソーシャルワーカーも病人の詳しい情況を直接聞きたいということであり、同時にわれわれにも病院の情況を見て老父に合っているかどうかの判断をしてほしいということであった。しかも緊急であれば、今日午後3時までに誰か様子を見に病院に来てもらえれば都合がいいということであったため、兄は朝昼の食事をする間もなく急遽バイクで所沢まで出掛けることになった。
  O さんが帰った後も、どうやら老父の発作的な激情は治まっているようだった。ママさんは何かあったらアキちゃんか隣の誰かに手助けをしてもらうから仕事に出てくださいということだったので、私は午後から仕事に出掛けた。
 私が早めに仕事を切り上げて帰ると、兄もまた所沢から帰ったところであった。そして兄の報告によれば、どうも老父の症状には合わないようだという感想なのだ。
 つまり大生病院では、大方が重度のボケ症状の患者ばかりであるため、ほとんど患者同志のコミニュケーションもなく、<私>という自覚を喪失してしまった患者が殆どという状態であったそうだ。兄は案内されていろいろと病院内を回ってみたが、老人ばかりの中に異質な外来者である兄にも何んの反応の示さない患者ばかりだそうで、<私>という自愛的欲望に取り付かれた老父の場合とは、あまりにも情況が違っているように感じられたということなのだ。その旨を病院のソーシャルワーカーに話したところ、先方でも同意見であったそうだ。それでも緊急ということであれば受け入れるということであったため、明日午前中に改めて返事をさせてもらうことにして帰ってきたそうなのだ。
 そこで、警察でも言われたように元気過ぎるのが仇と言いうる老父をここへ入れたときのことを考えてみると、他人に無視されたときの老父のヒステリーは想像に難くないのだから、相手の情況に拘わりなく会話の成立しない相手に無視されたと思い込めば、無抵抗の患者相手に弱いものいじめの虫が騒ぎ、多くの患者さんに迷惑を掛けてしまいかねないことが憂慮された。そんなわけで結局はこの大生病院は諦めざるを得なかったので、明日再び O さんに連絡をとることにした。
 さて翌14日、今日はいかなることが原因であったのか、老父はまた早朝から逆上していたが、それも何んとか9時ごろまでには静かになったので、まずは荒川保健所の O さんに連絡をとり、大生病院では病状に合わないと思う旨を伝えた。すると O さんは、板橋区にある養育院の精神科で診てもらうことにしようと提案してくれた。しかし養育院は現在掛かっている病院の主治医の紹介状がいるために、紹介状が取れ次第改めて連絡してほしいとのことであったが、女子医大の主治医は明日が診察日になっていたので、明日紹介状を貰ってきたときに改めて連絡することになった。とりあえず大生病院には断りの電話を入れておいたが、 O さんに相談して養育院へ行ってみるつもりであることを話すと、先方でもその方が良いだろうと言うことであった。
 ところで、女子医大へ紹介状を貰いに行くにしても老父の診察券がいるのであるが、診察券は老父がいつも自分の手帳に挟んでいるために、それをどうやって借り受けるかが問題であった。兄は、自分で老父から診察券を借り受ける自信はないと、ほとんど消極的になっていた。
 「おじいちゃんが、黙って診察券を出すかい? だいいちどうやって説明するんだよ」 そこで早朝からのひと騒ぎが一段落したところで、私は改めて老父のご機嫌伺いに2階へと上がった。
 「おじいちゃん、昨日、 O さんていう保健所の人が来てくれたでしょう? 覚えてますか?」
 「ああ、覚えとるよ。いろいろと様子を聞いて行ったじゃないか。それがどうした?」 老父は、それほどボケちゃおらんわいとでも言いたげな顔をしている。
 「その O さんがね、いろいろと心配してくれてね、一度老人専門の病院で診てもらったらどうかと言って、板橋区にある養育院という病院を紹介してくれたんですよ。どう、一度診てもらったらどうですか。女子医大は老人専門ってわけじゃないから、養育院っていうところで専門の先生に診てもらったらいいんじゃないのかな。僕は、その方がいいと思うよ。このところ、ちょっと普段と様子が違うようだからね」
 老父は半信半疑の様子で、それはおまえちがそうさせるからだと言わんばかりの顔をしていたが、最近は、すっかり病院好きになっている老父のことだから、新しい病院と聞いて興味がないわけはないのだ。
 「そんなんがあるのか?」
 「ええ、年寄りは年寄りで、専門の病院があるそうですよ。でもねえ、その養育院へ行くにはね、いま掛かっている女子医大の S 先生の紹介状がいるんだそうですよ。だからね、もし診てもらう気があるなら、あした紹介状を貰ってきてあげますよ。どうですか」 「ふむ、あんたが、そのほうがええと言うんなら、行ってもええよ」
 「じゃ、そうしましょう。ところで、 S 先生の紹介状を貰ってくるには、薬を貰うのと一緒で、おじいちゃんの診察券がいるんですよ。ちょっと貸してくださいな」
 そんなわけで、兄が心配するほどのこともなく診察券を手に入れた。
 翌15日の早朝より、老父はまた興奮してひとり大騒ぎを始めていたが、兄は女子医大へ紹介状を貰いに出掛けた。とりえず私が老父のご機嫌とりに付き合った。
 「ねえ、おじいちゃん、どうしてそうやって毎日、朝早くから騒ぎ出すの?」
 「ん…、わしは、早く目が覚めてしまうんじゃよ。それでいろいろと考えとるうちに、無性に腹が立ってくるんだ。ありゃりゃ、ほれ…、だんだんと腫れがひどくなっていくようじゃな…。しかし、何んだってこんなひどい目に合わしたんだろうか…。ハルヨシの奴も自分の思うようにならんから、それでじゃろうな」
 老父は、とめどない妄想を繰り返しているうちに、次第に両手に握り拳を作り小刻みに震えながらテーブルに押し付けて、テーブルを叩く準備を始めるのだ。そこで私は、一気に爆発しようとする老父の短絡的欲求をはぐらかせるために、いつものように欝血した部分にアンメルツを塗る。
 「おじいちゃん、これがいけないんですよ。こうやって握り拳をつくるから余計に興奮してくるんですよ。そうそう、そうやって指を延ばして、そう、力を抜いて…」
 私はアンメルツを塗りながら、老父の握り拳を指先でつつくと、多少は照れ臭そうな顔をする。ところが、又しても妄想に入り込んでは握り拳を作るので、私はそのたびに指先でつついてやると、しぶしぶ指を延ばす。そんなことを何回か繰り返した。
 「おじいちゃんね、この間警察に行ったときにね、おじいちゃんは、わしは殺そうと思って刺したんだって言ってたけどね、本来なら殺意があって起こした傷害事件なら、問答無用に殺人未遂ってことになるんですよ。それなのに、警察官に、まあまあなんて、宥められてしまう歳なんだから、そんなに気張って無理することはないんじゃないの?」
 私は、老父の老いを強調して、老いに対する自覚を促すつもりだった。
 ところが「そうだよ。だからわしは、もう何をやっても罰せられない歳なんだから、これからは何んだって出来るってことじゃ。死刑だって何んだって恐いものはない!!」
 ここでは高齢ゆえの社会的な責任能力の欠如も、見事なほどに老齢者特権へと横滑りしているのだ。そんなわけで欝血した部分を気にしているうちに、だんだんと募る不愉快さに溺れてしまうのだ。
 「あんたは、どうしてそんなところにおるんじゃ? 仕事にいかにゃいかんのじゃろ? もう、放っといてくれ!!」
 「仕事は午後から行くからいんですよ。それより、おじいちゃんの様子がいつもと違うから放っとくわけにもいかないでしょうよ」
 老父は勝手にせいとばかり横を向いてしまう。
 「どういうつもりだか知らんが、あんたらが、そうやってわしを病人扱いするから、わしは余計に変になってしまうんだ。もう、わしには、構わんでくれ!! わしは自分の好きなようにやるんだから、おまえらの言う通りになんかなるか。おまえに貸してやった診察券も返してくれ!!」
 「診察券は、いま病院に持っていっちゃってますよ。もうそろそろ紹介状を貰ってくるころだから、もうちょっと待ってください。とにかく板橋の養育院っていうのは、このあいだ様子を診にきてくれた保健所の O さんが進めてくれたんだから、行ったほうがいいと思いますよ。それにね、いままで行っていた女子医大の S 先生の紹介状を持っていくわけだから、これまでの経過を踏まえてより専門的に診てもらえるわけですよ」
 私はこのまま老父に拘わっていても、後はラチの明かない愚痴がグズグズと続くだけだと思い、ここを潮時と見定めて店に降りた。
 兄は女子医大でかなり待たされたと言い、帰ってきたのは昼近くだった。私は、さっそく保健所の O さんに連絡をとったが、出掛けていてすぐには連絡が取れなかった。その後、ようやく昼過ぎになって連絡が取れたが、 O さんは、養育院で荒川地区を担当してくれている精神科の医師の診察日が明日であるため、明日11時半までに養育院へ行き、 O さんよりの紹介である旨を伝えて直接精神科に行くようにということだった。
 そこで私は診察券を老父に返し、明日病院へ行く気があるかどうかを確かめた。
 「 S 先生の紹介状を貰ってきましたよ。 O さんに連絡したら、紹介してくれた先生の診察日があしただそうなんで、明日11時半までに養育院へ行ってくださいって言ってましたけど、どうしますか? 行く気があれば明日、僕が車で送っていきますよ」
 「ほうで、あんたが送って行ってくれるなら、行くかな」
 今度はすっかり病院へ行く気になっているのだ。
 「じゃ、明日9時ごろにでも出掛けましょう。おじいちゃん、あしたですからね、忘れないでください」
 「ああ、分かった」
 そして老父は独り言で「もしも、入院でもしろなんて言われたら困るから、今のうちに入れ歯の薬を換えておくか…」と入れ歯安定剤の交換を始めた。どうやら、場合によっては入院させられてしまうかもしれないという覚悟はしているようであった。
 さて7月16日、快晴、まだ梅雨も明けていないというのに朝から暑い日だった。思えば老父のこのところの情緒不安定は、多分にこの空梅雨による猛暑が影響していたのではないかとさえ感じられた。高原ではまだ肌寒い陽気だったのだから、この猛暑が老父の情緒不安定を助長しないわけはないのだ。
 われわれは、だいたいの地図を見当に出掛けたが、なぜか養育院という名前から勝手に私設の老人病院を想像していた私は、養育院裏の道に入り込んで探していたときも、交通整理の婦警に尋ねて、後ろの大きな敷地にある立派な建物がそれだと言われても合点がいかなかったほどなのだ。しかも正面の門に回ったときに「東京都立養育院」という立派な表札があるのを見て、初めて都立病院であることを知った次第なのだ。
 駐車場が満車だったため、警備員に指示されるまま中庭の職員の車がおいてある辺りの路上に停めた。まばらながら街路樹があるとはいうものの灼熱の太陽が照り付けていたので、老父は冷房の効いた車からでて突然の暑さに襲われたのと、これから待ち受ける診察への不安からか、受付のある「老人医療総合センター」の建物まで行く間に気分が悪いといっては何遍も立ち往生した。
 それでも私が手を引いて、なんとか受付まできたときには11時5分前になっていた。受付の案内をしてくれるおばさんが何やらせわしないと思っていたら、なんと外来の診察受付は11時までだったのだ。われわれは、かろうじて門前払いを免れたというわけなのだ。 そんなわけで諸手続きを済ませ精神科まで行ったときには、すでに待合室はいっぱいで診察の順番は一番最後であった。老父を精神科のまえの長椅子に掛けさせて、私は、精神科の受付で渡された診察の手引きにするというアンケートに回答を書き込んでいたが、このところの病院通いが続いてすっかり病院慣れしている老父は、いま自分の元気過ぎるほどの90歳という年令が、病院では水戸黄門の印篭のように権威あるもののように扱われることを知り尽くしているから、いまあえぎながら手を引かれてここまで来たことはすっかり忘れ、すでに待ちくたびれているおばあさん相手にさっそく印篭を振りかざして遊んでいた。その後何か冷たいものを飲みたいというので、自動販売機でコーヒー牛乳を買って少し飲ませたら、どうやら気分の悪いのも治ったようであった。
 この日は、たまたま初診の患者が多かったとかで、看護婦さんに診察が昼過ぎになる予定だから、食堂へいって食事を済ませてきてはどうかと言われたが、老父はたいして食べたくないというので、広い待合室に人影がまばらになるまで頑張ることになった。
 それにしても、この広大にして清潔にして静寂なる病院で見掛けるものは、車椅子の老人も移動寝台の老人も、すでに生きているのか死んでいるのかさえ見分けがたいほどの憔悴ぶりだから、どの患者も希望のない病に取り付かれていると思わずにいられないというわけで、老父は老人専門の病院のもつ一種異様なほどの静けさに、かなり居心地が悪いようであった。老父は、目の前の車椅子の老人がほとんど清楚な死者の顔で眠っているのを見ては、まるで自らを奮い立たせるかのようにつぶやいていた。
 「あのひとなんか、わしよりかなり若いんじゃろうが、ああなっちゃあおしまいだな。かわいそうに…。そうしてみると、わしなんかかなり元気なほうなんじゃな」
 次第に人影がまばらになっていく待合室で2時間ほど待たされて、ようやく診察室の中ので待つように言われたときは、「ずいぶん、待っちゃったわね」とざっくばらんに声をかけてくれた看護婦さんに、老父はようやく話し相手を得たとばかりさきほどの印篭を取り出してみたり三回倒れてみたりというわけで、堰を切ったように話し出した。私があっけにとられて顔を背けていると、いよいよ得意になって常套句の連発なのだ。もっとも話しを聞かされている看護婦さんも、どうせ精神科へ来る老人のたわごとぐらいにしか思っていない様子だから、適当な仕事を見付け出しては話しを中断して診察室を出ていってしまうのだ。
 多分食事をする間もなく診察を続けていたはずの小柄で痩身の医師が、忙しそうに診察室を出たり入ったりしていたが、老父よりも前に診てもらっていた患者さんを廊下に待たせておいて、大きな声を張り上げている。
 「弱ったな、どこか緊急で入れる精神病院はないの? どこでもいいんだよ、入院させられれば…、それでなくちゃ息子さんが仕事にも出られないんだよ。どこかあるだろう」 医師は、そんな調子でせわしなく看護婦さんに指示していた。それにしてもこの医師にとっては、患者はみんなボケ老人ばかりだというわけなのか、普通の病院では考えられないような杜撰な対応なのだ。
 医師はそんな忙しさを身に纏ったままで言う。
 「はい、お待たせしました。ここへ座ってください」
 そういわれて老父はさっそくシャツを脱ぎ始めた。
 「いやいや、シャツは脱がなくてもいいんですよ。そのままで結構です。それでね、どういうことなんですか、これでは何んだか分からないんですよ」
 医師は先ほどのアンケートと紹介状に目を通していた。私は「では、わざわざ貰ってきた紹介状とは、いったい何んだったのか?」という気がしたし、老父の前で、老父が認めたがらない惨状を説明することに気まずいものを感じた。それは、当然ながら好い結果にはならないという不安なのだ。そんなわけで、「おまえは勝手なことを言うがいい、しかし、わしは一切認めない」と言いたげな老父を横目で見ながら、改めて老父がハサミで兄を刺したという事件から、その日までの経過を簡単に話すことにした。
 「おっと、忘れないうちにメモしとかなきゃね」
 医師は、私の話を復唱しながらメモを取りはじめたが、事件の当日にはパトカーが3台も来たというところでは、「どうして3台も来たんでしょうかねえ、そうか傷害事件ってわけか…」なんて、なんだか要領の得ないことを言っていたが、その間、老父はかなり身構えた様子で、今度は不用意には口を開こうとはしなかった。
 ひと通りの話を聞き終わったところで、医師は老父に尋ねた。
 「刃物を振り回したりしたのは、初めてなんですね…。それで、あなたは、どうして息子さんを刺したりしたんですか?」
 老父は腕の欝血したところを見せて言う。
 「わしを、こんな目にあわせるような奴ですから、殺してやりたいと思いましたよ。あんな奴は生かしておくわけにはいかないから、わしが殺して、わしも死んでやるつもりでしたよ」
 ここで初めて情緒不安定な病人のような表情になった。
 そして「今回のようなことになるには何か原因があったんですか?」
 しかし、老父は自分からは何も言おうとはしなかった。そこで私が代わりに答えることになったが、それも老父を目の前にしてのことだから、かなり老父の毒気を去勢したものにならざるを得なかった。
 「60歳以降から30年分ぐらいの記憶がかなり曖昧になっているんですが、それとの関係もあるんでしょうけど、勝手な思い込みによる妄想が多いんです。そこへもってきていままで面倒を診てもらってきた兄嫁と相性が悪いのか、兄嫁をいじめてしょうがないんですよ」
 「ほほう、あなたは、息子さんのお嫁さんと相性が悪いんですか?」
 「ええ、わしは、あれがだいっ嫌いです」と一言。それから気を取り直して思い出したように続けた。
 「人を親とも思わないような奴は、わしだって嫁として認めるわけにはいかない」
 「ははは、はっきりしてるわ。そうですかお嫁さんが嫌いですか」
 医師はいかにも愉快そうに、「とにかく、動機がはっきりしてるね」と言いながら、私の方に向き直り、これは精神病ではありませんと言うようにうなづいている。さらに何遍もうなづきながら書類に目を通していた。
 「ん? あれ、そうすると、あなたはいま90ですか!?」
 医師はまったく予想外の出来事に遭遇したかのように驚いている。
 「そうですよ、ヘヘヘ」
 老父はいつものように得意そうな顔をして、先ほどからの緊張感をすこし和らげた。
 そこで、「そうですか、そうですか、それじゃね、これからあなたにはちょっとバカバカしいと思うかも知れませんがね、これは診察ですから質問に答えて下さい」というわけで、生年月日、氏名、年令、この日の年号、月日、曜日、そして現住所、現在の首相の名前などが質問されていた。そのうち16日を17日と言い間違えたことと、首相の名前を思い出せなかっただけで、あとは正解であった。
 「いやあ、はっきりしているね。これだけ分かっていれば、しっかりしたもんだ」
 医師はしきりに感心してみせた。そのままアンケートに目を通しながら、今度は珍しいことを見付けたとばかりに尋ねる。
 「ほほう、あなた、お生まれになったうちは回船問屋だったんですか、それじゃご出身はどちらです?」
 老父は聞いてほしいことを聞いてくれたという満足げな表情で答えた。
 「岡山です。わたしのオヤジの代まではかなり手広くやっていたんですが、オヤジが鉱山に手を出しまして、失敗してしまって、すっかり何もかもなくしてしまいました。もうちょっとやりようはあったんでしょうが、今となっては、惜しいことをしたなと思いますがね」
 私は、こんなに手際良く答えた老父を見るのは初めてだった。どうやら、いつもの調子で延々と常套句を並べたてないところを見ると、やはり下手なことを言ってはならぬという緊張が持続されている様子なのだ。
 そこで医師は、両手で老父の顔を支えて瞳を覗いたり口の中を覗いたり、あるいは首筋をさすりながら、私の方へ眼差しを流して言う。
 「それで身体の調子はどうなんですか? どこか悪いところはありますか?」
 「胆石と血圧が高いようです。きょうもこちらへ来る途中で気持ちが悪いとか、頭がフラフラするとか言ってましたので、血圧がまた上がっているんじゃないかと思うんです。このところ女子医大で貰っている薬を、かなりめちゃくちゃに飲んでいたらしいんですが…、どうも薬は人に渡さないものですから…」私が答えると、すかさず老父が言う。
 「わたしも、三回倒れまして、倒れたあとは、すっかり頭の中が空っぽになってしまって、言葉が出なかったんです。それというのも、これの兄が家を売るというのを、売っちゃいけないと一言出たことによって、これまで話せるようになっちゃったんです」
 「むむ、そういえばここに書いてあったな…」医師はアンケートを見直していた。
 「ああ、胆石と高血圧症ね、あれ…、倒れたなんて書いてないじゃないの?」
 「ええ、私はずっと父と生活しているわけではなかったので、詳しいことは分からないんですが、聞くところによるとそういうことは無かったということです」
 「ほう、でも本人が言うんだから、そういうこともあったのかも知れないな…」
 そして紹介状に目を通しながら私に尋ねた。
 「ん…、そうすると、結局、これはどうして欲しいの?」
 私は老父の前であからさまに聞かれたことに、いささかの戸惑いを禁じ得なかった。
 「うちも手がたりなくてみんな忙しいもんですから、ほとんど寝たきりの母の面倒も満足に診られない状態ですので、そのうえ家のものに復讐すると言って暴れる老父を放っておくわけにもいかないもんですから、できれば冷静な状態に戻るまででも入院してみたらどうかと思っているんですが…」
 医師はうなずきながら、いかにも妥当な回答だと言う表情で、今度は老父に尋ねる。 
 「いま、入院するのなら、ベッドは空いてますよ。夏はね、老人の病院は空いているんです。でも、私が、強制的に入院させることはできないですね。どうですか、あなたは、入院する気がありますか?」
 「うんにあ、わたしは入院なんかしたくないですよ」老父は背筋を延ばして答えた。
 「とにかく私としては、強制的に入院させることは出来ないのだから、それはそちらでご相談なさるしかありませんね。まあ、おとうさんを説得出来るかどうかですな」
 私は、初めから予想されていた不安の真っ只中へと突き放されてしまった。
 つまり、この医師の言うところによれば、老父の場合、物事の論理的な構造がしっかりしている以上、たとえインプットされる情報が狂っていても、それは単なるボケにすぎないのだから、あくまでも精神病として扱うわけにはいかないということになる。ここでは老父がいかなる妄想によって人を殺そうと思おうとも、それはボケ老人を抱えた家族の問題へと還元されてしまうのだ。明解といえば確かに明解であるが、本人の前でこの人をどうしたいのかと聞くような杜撰な問診に割り切れないものを感じつつ、私は、やはりボケ老人を抱えた家族としての自覚の甘さを痛感することになった。
 言葉のない私に、医師は「ま、しょうがないでしょう」と言わんばかりの様子であったが、忘れていたことに気付いたというように言う。
 「それとも鎮静剤でもあげておきましょうか?」
 「鎮静剤は、以前に女子医大で貰ったことがあるんですが」
 私が答えると、紹介状を覗き込み「ああ、書いてあるね、鎮静剤は飲んでいるんだ。それじゃいらないね」と話しを打ち切ってしまった。
 「そういうことですから、どこかその辺で、しばらく説得してみてください」
 医師は、それだけ言うと診察室を出て行ってしまった。
 結局、この日の診察は、老父に「あなたの息子さんたちは、元気なあなたを精神病にして入院させようとしていますよ」と認識させただけのことでしかなかったのだから、病院の廊下で老父を説得しようにも、老父はあたかも最終宣告を言い渡すとばかり先制攻撃なのだ。
 「あんたらは、どういうつもりか知らんが、わしはここには入院はしない。まして、ハルヨシやあの嫁なんかに、わしの家を勝手にさせるわけにはいかない。わしは、もうあんたのところへも行かんから、あんたは仕事が終わったらひとりで帰ってくれ。とにかく、わしはどこへも行かない。それがいやなら、あんたらは、勝手に出ていってくれればええんだ」
 私は、家族愛というささやかなる<もくろみ>が崩壊するのと同時に、家族愛などは所詮<もくろみ>にすぎないがゆえに愛憎の相克なのだから、<ボケられてしまった者>がボケの妄想に飲み込まれて自己喪失するか、<ボケた者>が妄想を自己実現して他者崩壊させるしかないというわけで、家族愛などというささやかな幻想に、わざわざ絶望を抱えて帰ることになった。
 だから、病院の玄関を出て炎天下を車まで行くのに、たちまち老父があえいでいる様に無言で手を貸しながら、かげろうの立つ彼方に老父の言うところの三回目の次というささやかなる僥倖を望んでしまう私を払拭することはできなかった。





18.再び高原へ


 とにかく事態は絶望的情況なのだ。養育院における診察は、病院という方法における解決を諦めざるをえないものにしてしまったのだから、兄たちの落胆を思うと私の報告も気の重いものとならざるをえなかった。しかし、このまま老父をこの東京の家に置いておくとすれば、それはすなわち家庭の崩壊を意味することでしかないのだから、老父と母の余生と次の世代を担う者たちの生活を守ろうとするのならば、何んとか老父を説得して家から連れ出さなければならないのだ。
 そこで、病院から帰って老父とともに遅い昼食をとった後で、また保健所の O さんに連絡を取り、養育院における診察の情況を報告した。私の感想としては、たぶん医師も昼食抜きで診察していたと思われるほど忙しそうであったが、そのためか老父に対する診察はかなり杜撰なものに感じられたということを語った。 O さんとしては、あの先生にかぎってそんなはずはないのにという思いを持っていたようであったが、精神科としての診察のみならず、老人医療におけるボケた患者と家族とが、様々な意味において<病>と苦闘してきているはずであるという危機的関係に対する認識、配慮が不足していると言わざるをえないのだ。
 つまり、患者を横に置いて家族のものに「この人は気違いです」とか「もうすっかりボケてしまいました」と言わせて、それに患者が反応しなければ病気といえるが、反応すればめでたく病気じゃないという診察方法にすぎなかったというわけなのだ。
 これでは病気ではないと診察された<病人たりえぬ病人>は疎か、自己不信と猜疑心に取り付かれた患者に対してさえ、家族に対して見捨てられたとか裏切られたという感情をお持ち下さいと言っているようなものだから、このような診察は、精神病にしてもボケにしても、<脳細胞の病気>である以前に<心の病>であることを無視した暴力行為にすぎないと言わざるをえないのだ。ここでは不安定な家族ゆえに崩壊させてしまった信頼関係は、所詮それぞれの家庭の事情というわけで一切おかまいなしという体のものなのだ。
 そんなわけで O さんには、すでに老父は、われわれが気違いに仕立てあげて病院なり施設なりへ送り込もうとしていると思い込んでいるはずだから、もはやこの方法では解決できないということを話し、なんとか説得してとりあえずは私が高原へと連れて帰るようにしたいと伝えた。
 さて老父の説得作業である。もしもこの作業に何んらかの希望があるとすれば、それはボケと情緒不安定ゆえに年中心変わりの真っ只中にいるということなのだ。
 「ねえ、おじいちゃん、この糞暑い東京で頑張ってないで、僕と涼しい北軽井沢にでも行きませんか。僕の仕事もそろそろ終わりですから、どうですか?」
 「その気持ちは嬉しいが、わしは、いまこの家を離れるわけにはいかない。あの親を親とも思わんような嫁がいる限り、わしはどこへも行かん。あんな奴にこの家を勝手にされてたまるか」
 老父の決意はいまだ変わってはいない様子なのだ。
 「それは、ママさんとおじいちゃんの相性が悪いからなんでしょう。ママさんには、仕事から炊事洗濯に子供の世話、それに病気のおばあちゃんの世話をも含めておじいちゃんも面倒みてもらってきたのに、おじいちゃんの機嫌が悪いからといっては、糞味噌に言ってママさんをいじめるんだから、ママさんにしたって立場がないでしょうよ」
 「うんにゃあ、ああいう、亭主を差し置いてでもでしゃばって食ってかかってくるような女はロクなもんじゃない。教養がないんじゃ。ろくに学校も出ないで早くから家を出ていたような女だから、親の愛情というものを知らんのだ。あれの親にしたところで、自分の子供が三人もおるのに皆東京へ出してしまうような親だから、親自体に愛情というものがないんじゃ。あんな親を親とも思わんような奴は畜生だ。それでも働くだけは働くようじゃから、これからは女中と呼んでやる。誰がうちの嫁だなんて呼ぶもんか。
 今度機会があったら、一度ギュウという目に合わせてやらにゃ気が治まらない。ハルヨシにしたって、実の親子というものは、この間のことにしたって、あれが警察で<わたしが悪かった>と一言詫びてくれたことで、もうすっかりわだかまりというものが消えてしまうんだよ。親子というものは、そういうものなんだよ。
 まあ、あれはなんと言ったかな、ハルヨシの嫁はなんじゃったかな、あれが<わたしが悪うございました>と謝ってこれからは打ち解けてやっていくというのなら、わしは、あんたのところへ行かないこともない」
 とりあえずここで、老父は条件付きながら家を出てもいいという気持ちがあることを示唆したのだ。
 ところが、すでにこれからは一切老父の面倒は見たくないと決心しているママさんに、この詫びを入れろという条件は飲み込めるものではなかった。何から何まで押し付けられて寝る時間もろくにないママさんにしてみれば、たとえ老父が病気であると分かっていても、面と向かって悪口雑言を浴びせ掛けられる日々が続けば、ズタズタにされた心の痛みを癒やす暇さえなかったのだから、やはりどうしても譲れない<私>というものにこだわらざるをえないのだ。
 もっとも老父のこのヒステリックな自愛的無知こそが、われわれの青年期における肉親相克の元凶であったとしても、すでに親を選べぬ子供として自己嫌悪で諦めるなり自己批判の根拠を見い出しうるわれわれならいざ知らず、後に縁があって家族になった人が、もはやこの家族関係に執着しないとすれば「なんでこんな人のために自分が犠牲にならなければならないのか」と自問することを回避できないことになる。
 そこで、私が今回老父を連れて帰るということは、何はともあれ老父が死ぬまで東京へは戻らないという覚悟であることを伝え、形式だけでいいからなんとか詫びを入れたということにして老父を送り出してくれないかと頼んでみた。しかし、いままでの辛い思いと老父の異常な執着による数々の屈辱的言動による心の傷は、なかなか癒しがたいものになっているのだ。ママさんも即答しかね、自分を納得させることが出来るかどうか少し考えさせて欲しいということになった。
 翌朝、兄から「どうも、ママさんは、納得できないようだな。まあ、ママのいうのも無理ないからね。だいたい、こういうことになるまで、放りっぱなしにしていた俺が悪いんだから、しょうがないよ」ということで、どうやらママさんの潔癖なまでの生真面目さはこの場を空言で取り繕う屈辱感には耐えられない様子なのだ。
 それにしても子供を学校へ送り出し、兄が仕事で外出し、店を開けてしまえば次々と仕事に追われることになってしまうママさんに代わり、私はアルバイトに出掛けることも出来ずに為す術もなく店番をすることになった。
 ところが、この日は夏休みも近付き学校関係の商売が何かと忙しい午前中であった。たまたま来客と電話が重なっているときに、さらにママさんからと思われる内線の電話が鳴ったが、もう一台の受話器を取ろうと思うまでにそれは止まってしまった。そこで私は来客の用事を済ませてから、2階、3階、4階へと呼び出しを掛けてみたが、いずれにも応答がないのが気にかかり、まだ午前中とはいえすでに灼熱の太陽に焼かれてオーブン同様になっている4階まで上がってみた。しかし、ママさんの姿が見当たらなくて、私は通り過ごした3階の締め切ってある表の部屋をそっと覗いた。すると背を向けたママさんが明らかに心労にやつれた様子で仮眠していた。
 早めに店に戻ってきた兄に事情をはなし、しばらくはこのままにして少しでも休養を取ってもらうことにしたが、何はともあれ母と老父に昼食を用意しなければならなかったので、私は店番を兄に頼み2階へと上がった。
 昼食の後に老父は「アッチャンは、病気なのか? ほれで様子はどうなんじゃ? ま、見舞ってやらにゃいかんのだろうが、わしゃあ、あれが嫌いじゃから行かんのだ」と言いながら、かなり気にはなっている様子だった。そこで私は、この機会を逃してはならないと思い、あえて老父が触れられたくないはずの部分を刺激した。
 「このところの暑さは尋常じゃないからね、洗濯物を干しに4階へあがっただけでも気分が悪くなりそうですよ。ま、それにこのところ忙しくて満足に寝ていないのに、おじいちゃんがいじめるもんだから、過労と心労ですよ、かわいそうに」
 老父は意地になって知らんぷりをしている。しかし、居心地の悪い何かを抱えているようでもあったので、私は「どお、だいぶ腫れも引いてきたみたいじゃないですか」と、老父の欝血した腕にアンメルツを塗りながら尋ねた。
 「だけどねえ、おじいちゃんは、どうしてそんなに毎日のようにイライラしたり、騒いだりするの?」
 「おまえたちが、そうさせてるんじゃないか!! おまえにしたって、ハルヨシと相談してからに、わしを気違い扱いしおって!! おまえたちがその気なら、わしは本気になって狂ってやるぞ!! わしが狂ったら何もかも全部めちゃくちゃにしてやるからな!!」
 老父は、またしても握り拳を作ってテーブルを叩き始めている。
 「また、そうやってすぐ興奮するんだから…。今さら僕は驚かないから、無駄ですよ」 浮足だった足元を掬ってやると、意外に早く我に帰り照れ笑いをしている。
 そして「あんたが、医者だとか病院だとか、いろいろと世話をやいてくれるから、わしは診てもらうものの、わしは、死ぬまでここは動かんからな」
 「でもさあ、結局のところ、おじいちゃんの心配事というのは、せっかく苦労して築いた財産を誰かに盗まれやしまいかということなんでしょ?」
 「そうだよ。あんたらは知らんだろうが、わしは、脳脊髄膜炎の弟をつれて東京へ出てきてから…」と始めたので、私はそれを遮り、老父の財産情況について何度目かのおさらいをすることになった。
 「その苦労話はよおく分かりますよ。何遍も聞いてるから。だけど、僕が前に解説して上げたことは忘れちゃったのかな…。
 とにかく、おじいちゃんは、いつも腹巻の中にいれている印鑑をしっかり持っていれば、この土地も建物も誰にも取られる心配はないってことなんですよ。どうですか、いま印鑑はちゃんと入ってますか? ああ、入ってればいいんですよ、いまは出さなくっても…。そうです、そうやって、おじいちゃんが自分の土地や建物をしっかりと握って、そのまま墓場まで持っていくことが、一番得策だって言うことなんですよ。
 いいですか、たとえば今、おじいちゃんの財産を兄貴がだまして名義変更してしまったとしますよ、そうすると兄貴は贈与税を取られることになってしまう。ところが、おじいちゃんが死んだ後に遺産として相続したとすれば、おじいちゃんの遺産は相続税のかからない範囲だから、無駄金を払わなくても済むというわけです。ですから、たとえ、おじいちゃんが思い込んでいるように、兄貴が財産を狙っているとしても、おじいちゃんが生きている間に手を出せば、結局は損をしてしまうんだから、そんなことはする訳がないってことですよ。
 とにかく、おじいちゃんは墓場まで自分のものを握っていけばいいんですよ。逆に言えば、今あげるって言ったって、いらないって言われてしまいますよ」
 老父は、いつものように今はよく分かっているという様子で言う。
 「すると、あんたは、なんだって、医者だとか新しい病院だとかいって、世話をやくんじゃ?」
 「それは、このところのおじいちゃんの様子がちょっとおかしいからですよ。現にこの間のことがあって、警察から連絡してくれて、保健所から O さんていう人がきてくれたでしょ? 昨日の養育院はあの人の紹介で行ったんですよ。
 それにね、このあいだ北軽井沢からこっちへ帰ってくるときにも言ったように、僕がひと月働いたらまた北軽井沢へ戻るんですよって話したでしょ? 僕は、おじいちゃんのためにもそのほうが好いと思っていたから、どこか調子の悪いところがあれば東京にいるうちに治しておいたほうがいいと考えてたんですよ。
 とにかく北軽井沢ではすぐ近くに病院がありませんからね。山の中へ行ってからでは、急にどこが痛いとかかゆいとか言われても、車もないことだし、おいそれとはいきませんからね。もっとも、山の中でも急ぎでなければ、草津温泉には老人専門の病院もあるそうだから、そこへ行って温泉治療でもして貰えますけれどね。とにかく、いくら普段は元気だっていったって、その歳なんだし、まして毎日胆石や高血圧症の薬を飲み続けなければいけない身体なんだから、東京にいるあいだによく調べておいてもらうことに越したことはないんですよ。そうでしょう?」
 「それなら、そうと、ちゃんと始めによく説明してくれればええんだよ。それもしないで、なんだかんだと世話をやくから、こっちはうたぐってしまうんだよ。それでなくたって歳を取れば、ニンゲは猜疑心が先に立ってしまうんだから、心配するんだよ。そういうことなら、わしだって、きのうはもっとよく診てもらうんだったんだよ。あの先生が、入院しますかって言ってくれたときも、あんたらが何かを企んでいると思うからこそ、わしは、いいやしません、というて断ってしまったんじゃ。それなら、わしは、またあしたでも、あの病院へ行ってくるかな?」と思わぬ展開となった。
 しかし、老父の場合は精神的な障害というよりも、もっぱらボケによる情緒不安定と言う情況のようであるが、養育院ではあの診察から想像してもこの症状に有効な治療は望めないように思われた。そこで私は、今度こそは根性を据えて老父の面倒を診にゃならんぞと自分に言い聞かせた。
 「うん、まあ、昨日の病院も総合病院だから、あそこでもいいんだけれど、もし、もう一度よく診てもらいたいと思うんならば、いままでの女子医大で、今度は内科のほうを診てもらったらいいと思いますよ。とにかく内科の方は、いままでずうっと診てもらっていた先生がいるんだから、それは女子医大でいいと思いますよ。ただ緊急を要するような時にね、もしも女子医大に入院できないようなことがあれば、昨日の養育院では今ならベッドが空いていると言ってましたから、また紹介してもらうなりして、あそこにでも入院したらいいですよ。ただね、昨日行った養育院は、ちょっと遠いいんでね、それが難儀なんですよ」
 「ほうか、それじゃ、女子医大に行ってみるかな…」
 老父はすっかりその気になっている。
 「それじゃねえ、僕の仕事もそろそろ終わることだしするから、早めに行っておいたほうが良いと思うんだけど…、そうか、今度の S 先生の診察日は20日の月曜日だね。どうですか、月曜日にでも行ってみますか」ということになった。
 そこでさらに「僕は、とりあえず明日で仕事が終わりますから、月曜日には僕が病院へ連れて行ってあげますからね。それで、まあ、特別に悪いところもないということであれば、どうですか、その日のうちにでも北軽井沢に戻りますか? 東京はこの調子で暑いから、出来れば早めに東京を脱出したほうがいいんじゃないかと思いますけどね」
 「むこうへ行くのは、あんたの都合でええよ。ほうか、切符を買っておかにゃいかんのだな…」もう気分はすっかり北軽井沢なのだ。
 「帰るときは車ですよ。いろいろと荷物もあることだし、電車じゃ駅の階段で苦労しなきゃならないからね。ま、兄貴に言っておけば仕事の都合をみて車で送ってくれますよ」 「ほうか、車なら楽なもんだ」とさらに遠足気分は高まっているのだ。
 もはやママさんからの詫びを取り付けるまでは動かんといっていたあの意固地な態度は、跡形もなく消滅してしまっているのだ。あとは、いま老父が納得している病院行きと北軽井沢行きを、月曜日まで忘れさせないようにすることが重要課題となった。私はおさらいを兼ねてさらに念を押しておいた。
 「じゃ、とりあえず月曜日に病院へ行くことにしましょう。おじいちゃんも忘れないようにね。それで、身体の方が順調なら、その日のうちにでも帰りましょう。どうですか、向こうへ行くときに何か持っていくものがあったら言っといてくださいね、用意しておきますからね。じゃ、とにかく、そういうことで予定しておきましょう」
 それまで絶望的な思いに沈んでいた兄に、私が唐突に「あのねえ、おじいちゃんが北軽井沢へ行くってさ」と伝えると、ほとんど信じられないという顔で生き返ったものの「本当か? 大丈夫なのかい?」としばらくは半信半疑だった。
 しかし、何はともあれママさんの詫びのことを持ち出すこともなく思い掛けず説得できたことに安堵し、後は月曜日まで老父の心変わりがないことを祈るばかりとなった。これで、とりあえずはママさんのメンツも保たれたことになり、われわれは辛うじて家内安全平穏無事が望めることに胸を撫で下ろした。
 それでもやはり、私が仕事に出ている間には、何遍となく独り言のように「わしは、なんで病院に行くことになったんだったかな…」とつぶやいていたそうなのだ。現に日曜日の朝には、私を待ちかねていたとばかり「わしは、あした病院へいかにゃいかんのじゃったかな?」という有り様だったので、やはり17日の説得内容をおさらいしなければならなかった。
 ところが、月曜日で学校の終わる子供たちが一泊でもいいからいっしょに連れて行って欲しいと言い出したのを口実に、子供たちも月曜日の北軽井沢行きを楽しみにしていますよというわけで、すべてが変更不可能なほどに期待されている計画であることを印象づける努力が為された。
 そんなわけで、月曜日には女子医大へ行き S 先生に養育院の診察の結果を報告し、結局は再び北軽井沢へ連れて帰る旨を伝えた。
 先生は「そうですか、それがいいでしょう」とは言いつつも、「また、大変ですね」と言わんばかりの渋い笑顔を投げ掛けてきたので、私はかなり割り切ったサバサバした感じの軽い笑いを返した。診察は、またしばらくは病院へ来られないからということで血液検査と尿の検査も行い、合わせて殺人未遂事件以来腰が痛いというので緊急のレントゲン撮影も行われたが、腰の方には骨の異常はなくたいしたことではないことが分かった。
 ところが、血液検査と尿の検査の結果は7月30日に出るということだったので、その結果にともなう診断は改めて兄に聞いてもらうことにして、われわれは、この日の昼過ぎに、家内安全平穏無事の願いを担い北軽井沢に向かって出発した。





19.薬


 何はともあれ老父を高原へ連れて帰ることになった今回の旅行には、明日から夏休みに入るナギサちゃんが同行することになったが、リエちゃんは明日からさっそく勉強塾が始まるということで、無念の涙を飲むことになった。しかし、長期滞在を狙っていたナギサちゃんも、私の方に余計な負担をかけるからという理由でママさんから許可が貰えず、残念ながら兄と一緒に一泊だけの小旅行となった。
 午後3時ごろに東京を出て、小雨の降る高原に着いたのは7時近くであったが、留守中の大雨によりかつてないほどの広範囲に亙って道が流されていたため、車を家まで乗り着けることが出来なくなっていた。われわれは、普段、車で侵入することのないバリケードのある横道に回りバリケードの手前に車を停めて、雨に濡れた下草の中を荷物を抱えて家まで辿り着いた。
 翌朝、老父は足腰の具合が悪いと言いながらも、雨で流された道の変わり果てた光景を見たいといってわざわざ見物に行ってきた。そして昼過ぎ、高原まで送ってくれた兄がナギサちゃんとともに帰る段になり、老父にとっては近くない距離を再び歩きバリケード脇の車まで見送りに出た。そんなことがあって夜になったが、当然予想された通りに老父は足腰が痛むといってグズグズ言い始めた。
 「きょうは、どういうわけだか腰とひざが痛い。いままでに、こんなことは一度もなかったのになあ…」
 いつものように、その日一日分思い悩むための病気を積極的に新発見しつつ、痛みによって保証された自己愛へと拘泥している。
 「どうして、きょうに限ってこんなに痛いんだろうか?」
 「このところあまり歩くことがなかったのに、きょうに限って、何だかんだと歩いたからですよ。それに昨日は、久し振りに車に乗ったりしたから、今日になって疲れが出たんじゃないの?」
 老父は「うんにゃあ、車に乗ったぐらいのことで、わしゃあ疲れたりするもんか」とまったく受け付けないのだ。そのうちに「そういえば、きょうは何だかあんたが言うように薬を飲んだけれど、どうも変なふうに薬を飲んだようじゃったがなあ…。身体の調子が悪くなったみたいなんじゃがなあ…」と言い始めた。
 「変なふうに薬を飲んでいたのは、東京にいた間ですよ。そのおかげで体調を崩していたんじゃないんですか。ちょっと暑い所へ出てはフラフラしたり、チラチラするテレビを見ては気分が悪くなっていたんじゃないですか。ここに戻ってきてからは、僕が見てあげているんだから、間違えるはずはありませんよ」
 「うんにゃあ、あんたが言うように薬を飲んだから調子が悪いんだ。わしは、いままで自分が思うように薬を飲んどったけれど、こんなふうに苦しむことはなかった。とにかく、あんたが言うように薬を飲んだのが悪かった」
 もう、このように思い込んでしまえば、後は何を言っても無駄ではあるけれど、だからといってそのままにしてしまえば、やはり勝手な思い込みは確固たるものに肉化してしまうから、やはり反論すべきものは反論しておいたほうが、思い込みを持続させないための足掛かりとして重要なのだ。
 「そりゃあ、おじいちゃん、言い掛かりというもんですよ。ただの歩き過ぎによる筋肉痛と、内科の薬にそんな因果関係があるはずないでしょうが。そういうむちゃくちゃな言い掛かりを言うのなら、あしたからは薬の面倒はみませんよ。自分で勝手にやってください。その代わり、調子が悪いとかなんだとか、おかしな言い掛かりは言わないでくださいよ。いいですね」
 私は、とりあえずの最期通牒を言い渡すことになる。後は老父が自分で判断して今後の態度を決定すればいいことなのだから、とりあえずは老父の思い付きによる言い掛かりが通用しないことを教えておけばいいのだ。それにしても、自分に降り懸かる一切の不都合には己の責任を認めたがらない老父のことだから、常に悪意の第三者を捏造しつづけなければ不幸の辻褄が合わないというわけなのだ。
 ところで、いま老父は、食前30分に2種類の漢方薬を1包づつ飲み、食後30分に錠剤を4種類で5個と粉薬を1包飲む。私はどの薬が何んなのか知らないが、想像しうるところによれば、血圧の薬と鎮静剤と化膿止めと利尿作用を促す薬と消化剤といったところで、あとは分からない。これだけの薬を一日三回飲むのであるが、食事をしたかどうかを忘れてしまったり、うたた寝から覚めて時間が分からなくなり、これから食べる食事が昼か夜か分からなくなってしまうということがしばしばの老父のことだから、「そろそろ薬を飲む時間ですよ」と声を掛けるだけでは、食前か食後か分からなくて勝手な方を飲んでしまうことになる。
 つまり、朝食のときに飲んだ薬を昼食のときに飲んだと勘違いするのは朝飯前だから、薬を飲んでいなくても飲んだつもりになることくらいはしばしばなのだ。さらに、テレビなどに気を取られていれば5分前に飲んだ薬を忘れ、「ああっ、わしゃ薬を飲むのを忘れとった」とうろたえて再び同じ薬を飲んでしまうこともある。
 そんなわけで薬の出し入れが頻繁に繰り返されているうちに、どの薬がどの袋に入っていたのかが不明になり、いつの間にか同じ薬を飲みつづけたり、飲むべき薬を飲み忘れたりすることになる。
 そのうちに「どうもこの薬は飲まんほうが調子がええようじゃなあ…」と、たまたま飲み忘れた薬を以後排除することになったり、「この薬はこれとこれと一緒に飲んどったんじゃが、どうもこれはこっちのと一緒に飲んだほうが良く効くような気がするんじゃ」と言い出して、結局は、飲み方を指定された薬も、老父の気分次第で飲まれるにすぎないといういい加減なものになってしまうのだ。
 これらのことは、ごく当然のこととして起こるべくして起こることなのだが、そのもともとの原因は、老父が薬の管理を絶対に人には任せようとしなかったということによるのだ。老父にすれば自分の命を守る大切な薬を、どうして信用のできない嫁や息子に渡すことが出来ようかというわけであるが、結局は人を信用できないばかりに己の命すら守りきれないという事態なのだから、それは自愛的欲望だけで自分勝手に生きてきた老父には分相応の顛末といえる。もっとも、老父のものに手を出してあらぬ疑いを掛けられるのを恐れて誰も手を出さないというのが実情なのだから、それは触らぬ神にたたりなしというわけで、正に老父は疫病神というところなのだ。
 ところが、この山の中に来てしまうと、身体の調子がちょっと悪いからといってすぐ病院というわけにはいかないのだから、老父の薬についても、やはりそれなりの管理をしておかなければならないことになる。かといって、薬を取り上げてしまえば老父は不安にさいなまれ要らぬ取り越し苦労を始めることになりかねないから、それは老父の目の届くところに置いておかなければならない。そこでそれぞれの薬を瓶に入れ別けて置き、老父が勝手に出し入れするとすぐ分かるようにして置くことになった。
 それでも、食後の薬を飲んだ後に「あら、わしゃ薬を飲んだかな?」と言い出すことがしばしばであるが、初めのうちは「いま飲んだじゃないですか」と言ってもなかなか納得しなかった。そこでごみ箱から空になった薬の袋を取り出して見せたりするが、それでも納得しないことが多かった。しかし、老父の場合はほとんど記憶にないのだから「飲んだ」「飲まない」で言い争っても百害あって一利なしというわけで、結局は、ここでも突き放してやるのが一番なのだ。
 「納得できなければ、好きにしたらいいですよ。そのかわり調子が悪くなっても文句を言わないでくださいね」
 そのうちに「ほうか、あんたが言うんじゃから、飲んだんじゃな…。どうも、すっかりボケてしまってしょうがないなあ」と一言あって終わってしまう。
 老父はひとたび薬の管理者から降りてしまえば、ボケてしまったからといってさほど実害があるわけではないのだから、老父にしたところで言葉ほどにボケてしまった自分に落胆している様子はサラサラないのだ。むしろ「わしは、もうすっかりボケてしまったんだから、あんたらが気を付けてくれにゃ、わしは立ちいかないんだよ」と言わんばかりの開き直りさえ感じられるのだ。
 ところで、薬に関する老父得意の思い付きの言い掛かりには、こんな話もある。
 高原に来て椅子の生活になったものだから、どうも東京の家にいたときに比べると足のむくみが気になるようなのだ。そこでその日の足の腫れ具合が、正に一喜一憂の大事件ということになり、その日腫れていればその悪しき理由を何かに求め、腫れが引いていればその吉兆を何かに求めるというわけで、その様々の理由として引っ張り出されるのが薬と飲み物なのだ。
 たとえば、毎日飲んでいるコーヒーとは別にオレンジジュースを飲んだときに、たまたま足の腫れが大きければ、それはオレンジジュースが悪しき原因となり、リンゴジュースのときに腫れが引いていればそれは正に吉兆に他ならないのだ。ところがオレンジジュースをまずいとは思っていないようなので後日出してみたら、その日は腫れが引いていたものだから、今度はオレンジジュースは足の具合にとてもいいということになった。
 万事がこの調子だから、今までミルクのたっぷり入ったコーヒーしか飲まなかったものが、ある日突然にコーヒーにミルクを入れたのが悪いと言い出したり、コーヒーとオレンジジュースを一緒に飲んだのが悪いというわけで、その日の気分次第でオレンジジュースでさえ毒薬から良薬にまで変身させられてしまうのだ。ここでは、たとえオレンジジュースであれうかつにオレンジジュースをしていると、いつのまにか<オレンジジュースたりえぬオレンジジュース>に成り下がってしまうことになる。
 つまり、ここでは老父がいくらボケても老父は老父であり続けることが前提にされているというわけで、老父に言わせればボケてしまったのはむしろオレンジジュースというわけなのだ。




20.オバアチャン


 「わしらには、ほんとうの親子の情というものがない。親子というのは、こんな水臭いもんじゃないよ。それというのも、オバアチャンがそういうように仕込んでしまったんだから仕方ない。いまさらあんたらを恨んだってしょうがない」
 老父が語るこの常套句には、まだ語られていない部分がいくらもあるのだ。そして、これを裏付ける常套句に次のようなものがある。
 「あんたらが、わしを蔑ろにするように育ってしまったのは、あのオバアチャンが仕向けたことなんだ。それというのもわしが、オバアチャンが店の若いもんと内通している現場を押さえて、別れさせてしまったことを根に持って、それで仕返しにあんたらを、そんなふうに情のない子供に育ててしまったんじゃ」
 この常套句は、老父が最近になって疎外感にさいなまれているときによく言い出す話であるが、この話が唐突に常套句として浮上してきた理由とは、とりあえずはボケによる記憶の退行によるものであるにしても、それはかなり以前の私の言動に起因するものと思われる。かつて老父と兄がしばしば意見の相違で衝突したときに、老父の兄に対する誤解を解こうとした私が、老父の闇雲な激情にささやかなる反省を喚起しようとして言ったことなのだ。
 「とにかくねえ、わがまま同士のおじいちゃんと兄貴は、所詮衝突しやすい関係ってわけなんですよ。だから、まあ、あまり我を通さずに穏やかにやってくださいな。つまりね、兄貴は昔のオバアチャンに溺愛されてわがままに育ってしまったけれど、おじいちゃんもまた、かなり頑固でわがままに育った人ってわけでね、わがまま同士で我を張り合うから収まりがつかないってことなんですよ。
 それにしても僕が思うところはね、おじいちゃんのわがままもまた、やはりあのオバアチャンの至れり尽くせりの包容力によってこそ育まれたものだと感じるんですよ。そう考えてみるとね、いまだにいざこざの絶えないこの家の騒動の元凶は、結局のところ、あのオバアチャンのとめどない包容力であったというべきなんだってね」
 この私の話が、何はともあれ嫉妬深く執念深い老父が盲目的な愛欲によって拘束していたオバアチャンにあっさりと裏切られてしまったという、すでに50年以上昔の心のわだかまりを思い起こさせたに違いないのだ。
 それにしても、今のようにボケてしまう以前にはオバアチャン信仰の敬謙なる信者と思われていた老父に対しては、誰も面と向かってオバアチャンを中傷してみせるものもはいなかったのだから、多分私の話が老父に与えた何等かの衝撃が、一気に老父を50年前へと退行させてしまったというわけなのだ。
 私が、老父に何回も聞かされたこの「オバアチャンの裏切り」という話は、老父がまだてんぷら屋をしていた戦前のことなのだ。もともと勝負事が好きで仕事に身の入らない老父が、それまでオバアチャンにとめられていた囲碁が急に許されたのみならず、夜になるとしきりに碁会所にでも行けばいいと言われたことを不審に思ったというわけなのだ。
 そしてある時、老父がいつものように早朝に河岸へ行くように見せ掛けて、こっそりと階段の下に隠れていたところ、オバアチャンが店の若い者を寝室に引き入れたので現場を押さえてやったということになっている。
 そこで即刻店の者に暇を出したが、この不祥事に腹の虫の治まらない老父はオバアチャンを実家へ帰そうと思ったが、オバアチャンが詫びをいれたので許してしまった、これが後々の失敗の原因であったというわけなのだ。
 当初、この話を聞かされるたびに私が不思議に思ったことは、われわれが子供の頃にオバアチャンと呼んだこの人は、所詮は老父の父親のお妾さんにすぎなかったのだから、たとえ老父にとっては、早くに両親を失った若き日の母親代わりであったにしても、そのオバアチャンも所詮は女だったのだから、オバアチャンが誰を好きになろうとも老父の知ったことではないはずなのだ。
 ところが、そのオバアチャンの内通の相手が使用人であったことが、老父に「寝取られた」という思いをより一層強く与え、それが発育不全で短気な老父を逆上させたとしても、その老父の「寝取られた」という思いへの異常な執着ぶりは、かえって、かつてより私が老父のオバアチャンに対する愛欲的感覚には、それを裏付ける肉体関係を想定せざるを得ないと思っていたことを十分に納得させるものとなったのだ。
 それにしても、その頃オバアチャンはすでに55〜6歳のはずなのだ。その当時ならばやはり老成してしかるべき年令で、色恋沙汰の当事者になるには遅きに失したと言えるはずなのに、その歳で20歳そこそこの若者をくわえ込むことが出来たというのだから、このオバアチャンにはそんな若者を捕らえて放さぬ魅力があったということになる。そもそもオバアチャンとは、筋金入りの芸者さんであったのだから、多分客あしらいがうまくてきっぷがよくて、おまけに艶っぽい美人であったというわけで、歳などまるで感じさせないやり手の女将ということだったのかも知れない。いずれにしても、この歳で、色恋沙汰の真っ只中に身を置いて頑張っていたのだから、あくまでも愛欲に身を焦がして悔いることのない情熱家であったことになる。
 そういえば私が小学生の頃に、オバアチャンに頼まれて雑誌を買いに行ったところが、それが発禁本であることを知らされて帰ってきたことがあった。
 その時本屋さんに「誰に頼まれてきたの? お父さんかい?」と聞かれた。
 「違うよ。オバアチャンだよ」
 「へえ、ずいぶん元気なオバアチャンなんだねえ、フフフ」なんて、何か陰湿な笑い方をされたことに不愉快な思いをしたことがあった。
 オバアチャンは、すでにこの時には75〜6歳であったはずだから、その後数年で死ぬことになったことを思えば、やはりオバアチャンは死ぬまで愛欲に身を焦がしたという筋金入りの迷い人であったのだ。
 それにしても、私が、老父のオバアチャンに対する愛欲的感覚を意識するようになったのは、このオバアチャンが死んで後のことであるのだから、その手掛かりはしばしば老父が語っていたオバアチャンの思い出話に見い出したというわけなのだ。現に、このオバアチャンが死んだ時には、老父は入籍していないオバアチャンのために、オバアチャンが懇意にしていた千葉の寺に「コヤ」の名を与えた墓を建て、後になってやはり老父が建てた岡山の「コヤ家の墓」に分骨して埋葬しているのだから、このオバアチャンに対する老父の異常なまでの愛情表現を無視できないとするならば、60歳から30年分の記憶が忘れ去られた老父が、今になってオバアチャンへの恨みつらみを言い出しても、それは単なるボケの世迷い言にすぎないというべきなのだ。
 そこで、老父が高原へと来て以来、老父のオバアチャンに対する異常な執着を探るべく、私がしばしば鎌を掛けて聞き出した物語によれば、それは老父が20歳そこそこのころに、鉱山で失敗して先祖代々の家督財産を潰してしまった祖父の死後、祖父のお妾さんであった34〜5歳の女性とともに、当時の岡山県の風土病であった日本脳炎で病後に不遇者となった弟を連れて、三人で東京へ出てきたところから語られなければならないのだ。
 何はともあれ生活のために日銭を稼がなければならなかった老父は、神田の救世軍の前で屋台のうどん屋を始めた。このうどん屋がかなり繁盛したため、老父はそれまで心に記していた鉱山業によるコヤ家再興の夢を実現すべく、学生アルバイトを二人雇って屋台を任せ、自分も日大の夜学に通っていたという。ところが、このうどん屋の繁盛が同業者を誘発させることになり、救世軍に迷惑だといわれてすべての屋台が立ち退かされる結果となった。
 そこで転職やむなしと悟った老父が、日ごろから、うどんに入れるてんぷらを仕入れに行っていたてんぷら屋さんに相談したところ、このてんぷら屋さんもまた先祖代々の家を潰して東京へ夜逃げしてきたという経歴の人であったため、その人が大いに同情してくれたというのだ。そして自分が、そこで一軒の店を張れるまでになるのに使っていたというてんぷらの道具一式を貸してくれたのみならず、どこだかの病院の裏手にある市場の中に小さな店を探してくれたというのだ。
 このときに老父はオバアチャンと店に出ていたので、ちょっと離れた借家にひとりにしてある弟が、田舎に帰ると言っては家を飛び出してしまうことにかなり苦労させられたという。つまり、老父いわく「不遇者の弟を抱えて商売をしていくことは、そりゃあ、並大抵のことじゃなかったよ。そんなことで苦労するうちにオバアチャンと関係が出来てしまったんじゃ。そりゃもう、オバアチャンには本当によくやってもらったよ」という関係が、結局は24〜5年も続いてしまうことになるのだ。
 そして、小銭を溜めてはより条件のいいところへと移り、今では取り残されたど下町にすぎないが、戦前には新宿よりも稼げたという現在の場所で、なんとか一人前に店をやっていけるようになったときのことなのだ。
 「わしは、オバアチャンをカアサンと呼んどったもんだから、わしが独り者じゃと知ったヒトたちが、それならいい人がいるからといっては、次から次から写真をもってきて妻帯しろと進められたんじゃ。店も立派になったことだし、そろそろ結婚したらどうかとも言われたが、オバアチャンとは関係があるとは言えないから、そりゃあ断るのに苦労したんじゃ。
 そのころは、わしも飲食店の組合の責任者をしとったもんだから、組合にいっても始終それを言われたもんじゃから、しまいにわしは、妻帯しないと世間へ出られないような気がして、ずいぶん悩んだんじゃ。ヒトによっては、オバアチャンとの関係に気付いた人もあったかもしれんが、いよいよ断り切れなくなって事情を話したら、その人なんかは、それならばこそ先々のことを考えたら、子供も早いほうがいいだろうしするから、ここで清算すべきじゃないかとさえ言われたよ。
 わしは妻帯したくないのに、周囲から責められたもんだから、随分思い悩んだんだ。それをオバアチャンに話したところが、オバアチャンは、わしがすぐ結婚すると思い込んで、<そういうつもりなら勝手にするがいい>と言うて、それからグレちゃったんじゃ。オバアチャンには苦労させたから、わしも辛かったんじゃ。そんなことがあって、わしに腹いせをしようと思って店のしっかりしとる若いもんを手懐けたてしまったんじゃ」
 さて、目には目をの仕返しをうけた老父の愛憎劇は、老父がオバアチャンの内通現場を押さえることによって新たな展開を迎えたのであるが、ここで老父は、そのころ存命であったオバアチャンの母親と義弟に「ミツ、キトク、シキュウコラレタシ」という電報を打って二人を呼び寄せ、オバアチャンを引き取ってくれと言い渡したという。
 ところがどちらも家庭の事情があって引き取れないというわけで、「なんとか、このまま面倒をみてもらうわけにはいかないだろうか」と泣き付かれ、ここで主導権を取り戻した老父は、「オバアチャンに、わしは結婚するが、それでもよければここに置いてやろうと言うたところが、それでいいと言うのでそのままになったんじゃ」という交換条件で、すでに50歳近い老父は、まんまと若い肉体へと乗り換えたのだ。
 もっとも若いとはいえ、すでに34〜5歳であったはずの結核から肋膜まで患った死に損ないの花嫁さんは、芸者上がりにして豊潤なる肉体のプロフェッショナルに愛欲的魅力において敵うはずはないのだから、老父がそのまま再びオバアチャンの肉体を求めなかったとは考えにくいのだ。もっともこのオバアチャンの性格からして、それが成立したかどうかは大いに疑問のあるところではあるが、ま、これが発育不全の小心者が語るとりあえずのスケベ物語なのだ。
 そこで老父いわく「オバアチャンも、本人はそれでええとはいったものの、やはり嫁を目の当たりにすれば、やはり面白くはなかったじゃろうよ」というわけで、われわれの母親にとってオバアチャンとは、知らぬ間に愛憎絡む恋仇であると同時に姑であったのだから、いかに二人の女が頭脳明晰同士であったとはいえ、口にはしえぬ女の情念の戦いがあったはずなのだ。
 そういえばかつて母の言うところによれば、「結局オバアチャンという人は、結婚ということを知らない人だったから、女が結婚するということは、実家を捨てたも同然なんだっていって、とうとうおかあちゃんのお父さんが病気のときも、一度も見舞いにさえ行かして貰えなかったよ」という、かなり陰険な確執があったそうだ。
 さらに「ここへお嫁に来たときに、よく知らない人に、てんぷら屋さんのお嫁さんでしょって言われて、お妾さんから家に入ったんじゃ大変でしょうなんて言われたことがあったから、近所の人は、おかあちゃんをお妾さんだと思っていたみたいだよ」
 つまり、母のこの証言を引くまでもなく、老父とオバアチャンの関係は、自己認識の甘い老父が思う以上に他人にはお見通しであったはずなのだ。
 もっともオバアチャンという人は、ひとたび腹をくくると毅然とした態度を貫く人であったようだから、老父いわく「その後になって分かったことなんじゃが、内通しとった若い者に暇を出したときに、オバアチャンはそれまで溜めていたかなりの預金と一緒に、大切にしていたものを全部やってしまったらしいんじゃ。わしは惜しいことをしたと思ったが…」というわけで、老父とともに築いたものを一切処分するという形で、老父の裏切りに対するけじめを付けたことになるのだ。
 そんなわけで、老父の義母に徹することになったオバアチャンは、はけ口を失った愛欲を孫にあたる老父の子供へと注ぎ、ここでは溺愛者であることをはばからぬ祖母という立場から、後には老父の分まで仕事を押し付けられて子供に目の届かぬ母親に代わり、われわれに対する義母といいうる立場までを獲得してしまったのだから、これが後に老父のいう「情のない子供に育ってしまった」原因として、「オバアチャンは、わしへの腹いせに、何かにつけて、わしに逆らうように仕向けて教育してしまった」と主張するところの正当性があるというわけなのだ。
 この「情のない子供」であるところの私は、老父いわく「何かといえば、親を理屈で追い詰めるような態度」の者として立ち現れることになり、老父が見境もなく逆上したおりには、隠遁者にすぎない私の居候であることはさておいて、老父のいう理想的家族を構成する条件である「親のためなら、口にするものでも我慢するような子供」たりえぬ者として糾弾されることになるのだ。
 ところで、ここでは二人っきりの山の生活なのに、すでに語ったように老父が私に対して「わしら」「あんたら」で語るもう一人の存在が、どうやら最近では、このオバアチャンに特定されてきたようなのだ。そんなわけで、老父が何か仕事をしている私を呼ぶときに、しばしば「あの、オバアチャン!! ちょっと…」なんて言うことがある。
 「僕は、オバアチャンなんかじゃありませんよ」
 「おお、そうじゃ。あんたをオバアチャンなんて呼んだら、叱られるな」
 そうかと思うと、先日は、私が、雨の中を新聞を取りに出掛けようとしたときに、こんなことを言っていた。
 「この内には、傘というても、あの小さいのが一つはかないのに、あんたはどうするんじゃ? 何かカッパみたいなもんでもあるのか?」
 「ん? この程度の雨なら、なにもカッパまで着ることはないでしょう。傘があれば十分ですよ」
 「うんにゃあ、そんなこと言うたって、あんな小さな傘じゃ、二人は入れないよ」
 「二人って? おじいちゃんも行くんですか?」
 「うんにゃあ、あんたらが行くのに…、ん? ああ、そうか!! わしは、オバアチャンが一緒に行くもんだと思い込んでいたもんじゃから、そうか。ここには、あんたと二人だけじゃったな。どうしても三人いるように思えてならんのじゃ」
 そして「このところわしは、毎日のようにオバアチャンの夢を見るんじゃが、どうしてわしにばかり付き纏うんじゃろうか? 成仏しとらんのじゃろうか?」
 ここでオバアチャンに付き纏われた老父を再確認したときに、私は、何行者としての隠遁生活がその宗教的意味において担っていたはずのそもそもの目的が、いつのまにか擦り切れてしまっていることに気付いたのだ。
 つまり、コヤ家という発育不全によって語り継がれてきた家族神話が、このオバアチャンを亡霊化した神的不在者として背負っている以上、オバアチャンの不成就性の愛欲を浄化しないかぎり、コヤ家の平安がないと見定めることによってこその何行であったのに、日々の勤行におけるオバアチャンの追善供養が、いつのまにかコヤ家の先祖供養によって肩代わりされていたということなのだ。
 その日以来、私は水浴びの時にオバアチャンの成仏を願って浴びる水を加え、勤行においても改めてオバアチャンの成仏を願う言葉を加えることになった。
 このことがあって以来、私が改めてオバアチャンの追善供養をしているということを、老父に話したわけでもないのに、なぜか、いや、老父にしてみれば、寝ては夢起きては現幻に現れるオバアチャンが気に掛かるからこそと思われるが、それまで私の勤行などには全く興味を示さなかったのに、「ま、あんたが、毎日拝んでくれとるから、大丈夫じゃろう」なんて言うようになったのだ。
 そこで、いま思い返してみると、その後、老父の日常的な逆上劇がめったに見られなくなったのだから、この物語を宗教的意味において面白く言い立てるとするならば、どうやらオバアチャンへの追善供養が、おじいちゃんを拘束していたオバアチャンの不成就性の愛欲を解消しつつあると見ることが出来るのだ。
 しかし、老父の様子を見ていると、夢にしても現にしてもオバアチャンに付き纏われているはずの日常生活で、うなされたり脅えたりしている気配が全くないのだから、むしろボケによる記憶の退行が、老父自身にオバアチャンの献身的な愛欲へと回帰したいという願いを呼び覚ましているとさえ思わせるのだ。
 ただ、オバアチャンの成仏を願う私としては、老父がボケによってこの念いにこだわることなく、ボケゆえにオバアチャンを忘却の彼方へと葬り去ってくれることを願うばかりなのだ。

 


 

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