1. 発端


 1987年3月から4月にかけて、私は例年のごとく家業のスポーツ用品店を手伝うために東京へと出掛けた。仕事は主に各学校の新入生のためにトレーニングウェアーなどを販売することであるが、この時期は同時に会社の決算期にあたるため、在庫の棚卸しなどを含めた帳簿整理を手伝うことになっている。
 普段は実家にいない私は、何はともあれ部外者として気楽な立場にあるわけだから、老父と折り合いの悪い兄が何か老父との面倒な交渉事があるときには、しばしば私が取り次ぎ役として引っ張り出されることになる。そんなわけで、今年は兄が長いこと懸案としていたことにとりあえずの回答を用意するために応援を頼まれたのだ。
 それは、田舎の知人に任せっきりになっていたコヤ家の先祖供養の様々な申し送りが、ここ4〜5年のうちに老父のボケ症状が進んで以来、老父の勝手な思い込みによるのか、それとも何かの行き違いがあってのことなのか、すっかり滞ってしまっていたために、たとえ老父がボケたとはいえまだまだ元気のある今のうちに、われわれの世代へと引き継いでおかなければならないということであった。そこで、出張販売も一段落し、そろそろ私の帳簿整理も先が見えてきた4月19日の日曜日に、老父と兄と私の三人は、コヤ家の本籍地である岡山の S まで日帰りで出掛けることになった。
 この岡山行きの小旅行は、老父にとっては自分の墓守りをしてくれる人をしっかりと見定めておくという意味において意義があり、われわれにとってはとりあえず引き継がなければならない先祖供養を、いかにして持続しうるかという実際的な手続きを確認することの出来た旅行であったのだから、それは、われわれが物心ついて以来、何かに付けて肉親相克のいさかいが続いた老父とわれわれの関係に、とりあえずの円満な終結を予想しうる画期的な出来事であったのだ。
 それゆえに、この物語の発端となる4月20日、つまりは岡山から帰った翌朝の事件は正に寝耳に水といった感じだったのだ。しかし、それは同時に、われわれには老父の日常的なボケ症状からは当然予想しえた悪しき結果への到達でもあったのだから、先祖供養という前世と来世を平安で繋ぐささやかなる善行に、はかない望みを抱いたわれわれの挫折感は遺憾ともしがたいとはいえ、「やっぱり駄目だったか」と言いうる諦めの思いでこの事件を受け止めていたということも事実なのだ。
 確か午前7時半ごろであったか、私は切羽詰まった叫び声に睡眠を撃ち破られて起き上がった。ヒステリックな激情により辺りを震撼とさせる老父の怒涛のようなソプラノが、そう、これはテノールなんていう生優しい高音ではなく情緒不安定な老人のヒステリック・ソプラノというべきものが、2階の部屋で何事かを訴えている。
 「どうしたの?」
 私が、そばの洗面台にいたママさんに聞けば、ママさんはいまだ動揺を押さえ切れぬ様子で言葉を失っていたから、原因は何であれ老父のいつもの逆上劇であることが予想された。ここ数年、老父の逆上劇が頻繁に繰り返されるようになり、そのたびに寝たきりの母ともども面倒を見てもらっている兄夫婦に「きさまら、出ていけ!!」と騒ぎ、ママさんには思い浮かぶ限りの悪口雑言を浴びせていたのだから、たとえ老父が病気であるとは分かっていても、こんな情況に立たされた兄嫁としての心情を思えば、もはや、あんな気違いじみたボケ老人とは一緒に暮らせないと言わずにいられない、そんな切羽詰まった情況であったはずなのだ。
 「また、何か、騒いでいるんです」
 ママさんは気を取り戻して、しかしまだ動揺を隠せぬ上ずった声で答えてくれた。
 私は寝間着のまま3階から駆け降りると、すでに老父は途中の踊り場まで上がってきて相変わらずの奇声を発しつつ階段のてすりを叩いている。
 「今日は店を開けてはならん。誰も店の物に手をつけちゃいかん。このままにしておくんじゃ。税務署を呼べ!!」
 老父は私に行く手を阻まれてもなお怒鳴っている。
 「おい、降りてこい。話しがあるんだから、降りてこい!!」というわけだから、たぶん兄に向かって何事かをアピールしていたのだ。
 「まあまあ、とにかく下へ降りましょう。どうしたんですか?」
  私は老父を宥めて2階の部屋まで押し戻した。老父はそれでもじっと座っていられないらしく、横にあぐらをかいて座った私に、覆いかぶさるような勢いで腰を浮かせて騒ぎつづけた。
 「きさまらが勝手なことをする気なら、出ていけ!! わしゃ、ひとりで結構だ」
 そして、いつものように逆上してしまったことをいいことに、今度は老父を宥めようとする私を取り込んで、「おまえは、この家におらんから、何も知らんじゃろうが、わしはこの歳になってまで、ハルヨシとあの嫁に、どれほど虐待されてきたかしれないんじゃ」と言い出す始末なのだ。
 老父は生来の癇癪持ちとわがままという、自分の性癖やボケゆえの歪んだ思い込みはすっかり棚に上げて、学校へ行こうとしていた子供たちの前で、到底90歳の老人とは思えぬあの怒涛のような奇声を発し、ママさんに向かって有らんかぎりの悪口雑言を浴びせかけた。しかも、老父は私の制止によってさらに逆上し、老父の異常なほどのけんまくとあまりにひどい母親への仕打ちに泣き出した子供には目もくれず、「貴様のような、教養もなく親子の情のないものは出ていけ」を繰り返していたのだ。
 この老父の陰湿にして執拗な嫁いびりとは、そもそも自分の女房にわがままを言い放題で暮らし、女房を母親代わりか女中代わりとしか思わなかった老父が、そんな女房が今まで無言でしてくれたことと同じように、自分を一家の主として<おんぶにだっこにかたぐるま>をしてくれないママさんを恨み、己の凋落ぶりの一切の責任を立場の弱い兄嫁に押し付けて、あらんかぎりの不平不満をぶつけているというわけなのだ。
 とにかく逆上している老父を宥め、私は本日の騒ぎの直接原因なるものを聞いてみた。 「ハルヨシの奴が店の金をごまかして好き勝手なことをしとるから、税務署に来てもらって徹底的に調査して貰わなければならないんじゃ。もう、ここで何もかも洗いざらい調べて貰って、この店を精算してしまわにゃならん。とにかく税務署を呼べ!!」
 「また、どうして突然に税務署なんですか?」
 「どうもこうもない、これを見てみろ、きにょうの岡山へ行った旅費なんかが、わしの預金から黙って引き出されているんじゃ。あいつに任しておったら、何をされるか分からない」
 そこで、老父の示した出金伝票を見ると、それは古谷家の菩提寺と墓守りのお寺への御香料と、いままで墓地の世話をしてくれた知人への礼金が、老父への未払い家賃への充当として支払われているものなのだ。その旨を説明してみたが、もともと簿記に関してはまったくの無知に等しい老父のことだから、その伝票はボケて以来の勝手な思い込みを爆発させるきっかけであったにすぎないというわけで、一度逆上してしまえば、それを正当化する理由を次々と並べ立てることぐらいは、責任回避の言い逃れで90年を生き延びた老父のことだから抜かりなどあろうはずはなかったのだ。
 「わしは、家賃なんか一銭だって貰っちゃいないのに、あれが勝手なことをしおって…。ハルヨシは、わしには何んにも相談せずにやってしまうんじゃ。とにかく、これがいい機会じゃ、これで店を精算してしまおう。あんた、ちょっと税務署へ電話してくれ」
 「まだこの時間じゃ税務署も開いてませんよ。それより店のことなら、税理士の Y さんに相談してからにしたほうがいいですよ」
 「 Y に電話すれば、止められるのは分かっている。だから直接税務署に電話しなきゃ駄目だ。あんた、ちょっと税務署へ電話してくれよ」
 「僕はお断りです。税務署へ電話したきゃ、自分で勝手にしてください」
 私は電話を突き付けて電話番号を教えた。すると老父は、案の定モジモジしている。
 「何課に電話したらええかな」
 「さあ、税務署で聞いてみればいいでしょう。自分で税務署がいいといったんだから」 私が取り合わずに知らんぷりしていると、老父は、しばらくは為す術もなく電話帳などをめくっていた。しばらくして「あんたらが教えてくれないんなら仕方ない」と言わんばかりに電話を引き寄せた。
 「とりあえず、Y に電話してみよう…」
 結局は、この日の税務署騒ぎも、なぜ税務署なのかと問われれば何んの根拠もないのだから、単なる老父の無知による勝手な思い付きにすぎなかったというわけなのだ。電話の様子からすれば相手は Y さんの奥さんと思われたが、その内容はだいたい次のようなものだった。
 「わしは、ハルヨシと別れたいと思うので、この店を整理して欲しい。この家が売れれば、わしはコマコをつれてどこか田舎へでも行く。もしも売れなければ、わしらは3階か4階にでも住んで、あとはヒトに貸してくらす。なあに、毎日の食事のことなら心配はいらない。わしは若い時分から寮生活で自炊してきたんだから大丈夫だ。おかあちゃんの面倒ぐらいわしが診てやる」と意気軒高なのだ。
 ま、旧制中学の寮生活とやら以来ほぼ75年間にわたって、ヒトの世話になりっぱなしだった発育不全の男が、そのまま90歳になったいま誰も満足な自炊が出来るなどと思う者はいないのに、その上ほとんど寝たきりの妻の面倒など診られるはずはないのだ。
 そんなわけで、老父は追って Y さん本人より連絡をしてもらうように頼んで電話を切ったが、それからはとめどなく増殖する被害妄想を繰り返し、普段なら口にすることもないであろう欝積した思いを言い出した。
 「あの嫁は、貰い物でもなんでもかんでも3階に持って上がって、上の冷蔵庫に隠しておるんじゃ。だから、わしには、くれようとはしない。高い物だとか、うまい物は、みんな隠れて食べとるんじゃ」
 どうやらこれが、いかに虐待されていたかということの根拠となっているのだから、その女々しさに開いた口がふさがらないのだ。
 そんなわけでこの日の顛末を整理してみると、すでに明らかなように老父の発作的な逆上の原因は、伝票の読み違いによってそれまで欝積していた猜疑心が触発されたことであるが、その欝積した思いとは、兄には何か魂胆があって老父の土地建物を隣の M さんに売ろうとしているという思い込みなのだ。事あるごとに兄に対するとめどない不信感を募らせていたわけだから、この日トイレに行ってから寝付けずにいて、たまたま見た伝票に兄の悪意に満ちた行為の布石を読み取ったということなのだ。
 そこで無用になった自分が追い出されてしまっては大変だとばかり、先手必勝を決め込んで、ハルヨシと嫁を追い出さなければならないと決意していたのだから、夜が明ける前からいつ切り出そうかと悶々としていたことになる。それが、たまたま寝起きにサイダーを飲もうと思ったときに、栓抜きが見付からないことに腹を立てて爆発したというのだから、これも呆れるほどのバカバカしさなのだ。
 さて、一時の興奮が治まるまでそばについて老父のとめどない妄想に付き合っていた私は、ようやく本日分の金銭的誤解の解消までは漕ぎ着けたわけであるが、老父の勝手な思い込みに始まる兄に対する不信感の数々は到底解消できるものではなかった。しかし、とりあえずは兄が、今日に至るまでの親不孝に詫びをいれれば「出ていけ」と言ったことは撤回するということになった。
 そもそも今日に至るまで老父が抱えている兄への不信感というのは、去年の11月に老父のボケによる不平不満が爆発していつものように「出ていけ!!」と騒いだときに、それ以前から延々と続いていた老父のとめどないわがままと猜疑心によるいやがらせに決別すべく、兄の家族が家を出ると決意したことに始まるのだ。そこで寝たきりの母を置いて出ていかれてしまっては大変だと慌てた老父が、今度は自分の土地と建物を兄の名義に書き換えることを条件に引き留めたというわけなのだ。
 ところが、後に老父から聞いたところによると、その手続きを税理士の Y さんに頼んだが、直前になって「いま、あなたの財産をハルヨシさんに譲ってあげても、隣の Y さんにでも売られてしまったら、元も子もなくしてしまうからおよしなさい」と言われたというのだ。これが老父に様々な妄想を抱かせる原因となり、「ハルヨシは隣の M に、わしの土地と建物を売ろうとしている」という常套句を形成するまでになり、以後これが脅迫観念のようになってとめどない猜疑心を兄に向けることとなった。言うならば、この妄想こそが、この物語のそもそもの発端なのだ。
 この Y さんの言葉を善意に解釈するとすれば、それは遺産の相続税が掛からぬ程度のものを、なにも焦って生前譲渡して税金を取られる必要はないということになるが、ところが、この妄想によりすでに何遍も繰り返されている老父の逆上劇に散々傷付いたママさんと、それを阻止しえなかった兄のふがいなさに、この夫婦の関係はすでに風前の灯であったのだから、老父を捨てても自分の生活を守らなければならない兄は、もはや老父とのいかなる和解をも受け入れる状態にはなかった。現に、私が老父の機嫌を取っている間に Y さんから折り返しかかってきた電話を取った兄は、「もう何を言ってもダメだから、オヤジの好きなようにやらせてください」と諦めと決別の意志を伝えたそうだ。そして、すでに臨時にでも引っ越しのできるアパートを探しに出掛けていた。
 そんなわけで己の置かれている情況にはまったく無知の老父が、まるでドラマの主役気取りで私に兄との和解調停を促したが、もはや情況は和解の見込みなど皆無だったのだ。しかし兄に声をかけないわけにもいかない私は、近所の不動産屋を回って帰ってきた兄に、老父との話し合いを進めた。3時間近くも老父ゆえの自己嫌悪に付き合わされていた私は、ほんの一時の解放感にすっかり気を許し、いずれにしてもボケの妄想相手には勝ち目のない戦いになってしまうのではないかなどと思案していると、兄は何分もしないうちに「好きなようにしてくれ」と言ってきたというわけなのだ。
 私の出る幕もないままに決裂してしまったことに唖然として、私は老父に呼ばれるまでもなく2階へ降りた。老父は苦々しい顔で私を待ち受けていた。
 「わしは、あんたを信用しているからこそ、間に立たせて話をまとめさせてやろうと思うとったんじゃ。それなのに、ハルヨシだけをよこして、なんであんたは一緒に降りてこないんだ。あんたがいなけりゃ、まとまる話もぶち壊しじゃないか。それとも何か、おまえは話をぶち壊すつもりだったのか」
 確かに私の不手際があったにしても、やはり予想された小賢しい言い繕いで、自分が逆上してしまったことの責任を回避しようという算段なのだ。揚げ句の果てには「あんたも、いろいろ修行もしたろうし、それくらいの役はこなせるだろうと思うからこそ、花を持たせてやろうと思ったのに、わしの見込み違いじゃった」というわけなのだ。
 ところで、なんとか子供たちを学校へと送り出し食事の後片付けを済ませたママさんは、3階の部屋に篭りっきりで一切の家事は停止してしまったために、朝食も取らずに興奮して腹をすかした老父は、私の目を意識してひとり台所に立った。
 「これからは、何んでも自分でやらなきゃならんからな。さて、食事にでもするか、それでは何を食べるかな…」
 わざとらくし鍋などを持って卑屈な顔で楽しそうな身振りをしてみせ、身動きもままならない母が居場所がなくて、すでに食卓にいたことに改めて気付き、まことに臭い演技なのだ。
 「これからは、わしとおかあちゃんだけだ。あんたは心配せんでもええんじゃ。わしが面倒ぐらい診てやるからな」
 それが「誰も、わしをそんな目に合わせるはずがない」と高をくくった老父の見え透いた演技であることは誰もが承知のことだから、「そんなことが出来るはずないでしょう」とでも言えば、またひとしきり老父の勝手な思い込みを聞かされるはめになってしまう。
 そこで私は、ほとんど無言のまま、ごく当たり前に立ち往生している老父に代わり、老父と母に遅めの朝食を用意して、しばしの冷却時間を確保することができた。
 「もう、おやじの面倒は一切みない」と決意した兄は、「たとえ家を出るにしても、まだ契約の完了していない仕事もあるし、仕入れ先の支払いのこともあるんだから、すぐに廃業ってわけにもいかないからな」と言って、とりあえずは急ぎの仕事で出掛けた。
 それにしても、いま、この発育不全者たちの自愛的欲望に呪縛された家庭が抱える苦悩の元凶とは、単に無明無知の餓鬼のままに、あらゆるヒトビトとの社会的関係を喪失してもなお90まで生き延びてしまった老父の存在であることが明白であれば、ここに実現しうる救済とは、兄が家族をつれて家を出る以前にこの欲ボケた老父をこの家から出すことによって獲得されるべきなのだ。崩壊の危機に立たされた兄夫婦が、いまさら欲ボケた老父の財産など一銭たりともいらないと腹をくくったとしても、それでは欲ボケた老父の妄想のままにいままでの苦労を水泡に帰してしまうことにすぎないのだから、いま優しさに似た自己逃避で老父から自立しようとしても、兄が抱える発育不全性が解消されないとすれば、やはりこの悍しき家系に流れつづけて来た発育不全を断ち切るためには、兄夫婦が決然と自らの生活を守り通すべきなのだ。
 そこでまず一番簡単な方法とは、私が老父を引き取り高原へ連れていくこと。しかし、老父が私のこの提案を受け入れるだろうかということが心配されたが、老父が妄想によってしばしば逆上することの原因を見定めてみれば、結局は自分の財産を兄夫婦に盗まれるという猜疑心であることが了解されるのだ。老父は食事が済んで、ようやく落ち着きを取り戻した様子なので、私は老父の猜疑心が単なる取り越し苦労であることを語った。
 「いいですか、おじいちゃんは、いま腹巻の中にいれている印鑑をしっかりと持っていれば、この家も土地も、絶対に誰にも盗まれることはないんですよ。覚えてますか? この間、僕がおじいちゃんと一緒に銀行へ行って、会社のはんこと個人のはんこを分けて登録してあげたでしょ」
 「ほうか、そうじゃったな。そんなことも、すっかり忘れとった」
 「だから、おじいちゃんは自分のはんこさえしっかりと持っていれば、どこにいても誰にもおじいちゃんの物は盗まれないってことなんですよ。だからね、この際、商売のことは心配しないで兄貴に任せ、しばらくは僕のところで静養したらどうですか?」
 「でも、あんたは、わしが行っても邪魔にならんのか?」というわけで、どれほども心配もなく老父を北軽井沢へ連れていくことを納得させることができた。
 当然、私と老父との話し合いのなかでは、いわゆる隠遁生活者である私には老父を丸抱えで面倒みるほどの経済力がないことを了解させて、とりあえずの食費だけは負担してくれるように取り決めたのだ。無論ここで老父が負担することになる何がしかの金額は、老父の老齢年金や手持ちの銀行預金さえあれば100歳以上になっても十分生き延びられるほどの負担にすぎないことを了解させておかなければならなかった。
 そんなわけで、兄夫婦は私に疫病神を押し付けてしまうことの心苦しさを気にしていたが、私自身の<何論>においては、自分の親の死を看取るに至る生活にこそ、自分を見定める絶好の反省的視座を発見しうるはずだという期待を語り、私は老父との共生ともいいうる新たなる隠遁生活を始めることになった。つまり、今われわれの未生以前の発育不全は問えないとしても、すでに肉親相克という様々の思惑によって語られてしまったわれわれの物語は、自愛的欲望で武装しつづけて90年余りを生き延びてしまった老父が、その悍しき自己愛をさらに生き延びさせるために何行者とともに浅間高原へと転居するという、とりあえずの結末を引き受けることによって唐突に語り起こされるのだ。



     2.黄疸


 急遽、老父との共生を始めることになった私は、未整理の決算の書類も抱えて高原へと帰ることになった。老父の寝具など細々とした荷物があったため、われわれは兄に車で送ってもらうことになり、4月22日の9時ごろに家を出て昼過ぎに北軽井沢に着いた。
 その日、ここまで送ってくれた兄と三人で簡単な昼食を取って以来、夕食からは、老父と私との二人だけの食事が続くことになった。ところが、この初めての夕食のときに、テーブルについた老父が突然小さく身構えて他人行儀に言った。
 「食事は、これから毎日のことですから、あまり気を使わずに、簡単にして頂ければ結構なんですよ」
 「はいはい。おじいちゃんこそ、そんなに気を使わないでください。どうせこんな山の中ですから、東京のようなわけにはいきませんけど、なるべくおじいちゃんの口に合うようにやってみるつもりですからね。それでね、僕は、おじいちゃんの好きなものがよく分かりませんから、注文があったら、どんどん言ってください。僕としも、言ってもらったほうが、はっきり分かるから、やりやすいんですよ」
 「いや、本当に心配して頂かなくてもいいんですよ。あなたが、普段やってらっしゃるようにして頂ければいいんですから。私も、若い時分には、ずいぶん自炊いたしましたので、毎日の食事を作ることの苦労はよく分かるんですよ」
 東京にいたときの老父からは、到底想像も出来ないことを平気で言ってのけるのだ。そしてチキンピカタをつつきながら、しきりに感心して言う。
 「これは、本当においしいですねえ。それにしても、あなたは、なんでもおいしくして食べてらっしゃる!! なかなか、こうはいきませんですよ」
 そうかと思うと「私の父は、四国で鉱山をしておりましたので、私も、よく山の生活を致しました」などと、これから始まる高原での生活に思いを馳せて、及ばずながら多少の心得はあるというところを披露した。
 続いて老父は、東京の家の家族構成を説明し始めたが、今さら老父に説明してもらうまでもないことの繰り返しに、いささか閉口した私は、「おじいちゃん、それは、説明してもらわなくても、よおく分かってますよ」と言った。
 「あら、そうですか。あなたもご存じですか。そうですか…」
 老父は、かなり怪訝な顔で感心していたから、どうやら私の正体を見失っていることは確かなのだ。それでこそ、老父が私に対して使っている敬語の意味が理解できるというわけであるが、そうすると、私とは、いったい誰なのか? 
 何はともあれ、老父との初めての夕食が想像を超えた形で円満に済み、いよいよ寝る段になって、今まで私が使っていたベッドに老父の寝具を整えた。
 「いや、そんなことをして頂いては、困ります。ここは、あなたがお使いください。私は、こちらでいいんですよ」
 老父は、恐縮しながら私の寝具を用意した長椅子に寝ようとする。
 さらに「私は、こっちの椅子に寝たほうが、いいんじゃがなあ…」を繰り返し、執拗なくらい恐縮していた。
 「おじいちゃんは、余計な心配をしないで、ここに寝てください。僕は、まだ起きてますから、おじいちゃんにはベッドで寝てもらって、こっちの椅子を空けてもらったほうが都合がいいんですよ」
 そこでようやく観念した老父は、「それでは、申し訳ございませんが、私、こちらで先に休ませて頂きます。もう、歳を取ると、だらし無くなっていけません。眠くなってしまいますと、待ったが利かないものですから…。じゃ、失礼します」
 私は、あえて老父の他人行儀な敬語を非難したりとがめたりすることなく、しばらくは老父の為すがままにまかせて様子を見ることにした。結局、老父の無気味な敬語は、その後4〜5日間は続いて、自然に解消された。
 多分老父にとって私とは、まず息子である以前に、これから面倒を見て貰わなければならない重要な誰かであったというわけなのだ。
 ところで老父としては、2日目から一日三食のペースを守りたいということだったので、とりあえず私は起床時間を8時半にすることにした。本来ならば私の起床後のスケジュールは、まず水浴びと勤行と決まっているのであるが、すでに5〜6時から起きて腹を空かしている老父のために早々に朝食の準備にかからなければならない。三食とも<おかゆ>でなければならない老父のために、朝食は<おかゆ>とみそ汁、それに東京から持たされたお新香とレタスにトマト、煮豆にでんぶ、あとは卵焼きとか卵豆腐、後になってからは前日の残りのおかずなどが用意されることになった。
 当初はかなり柔らかめの<おかゆ>を心がけていたものだから要領を得ぬままに時間ばかりが掛かかり、おまけにそれまでご飯による朝食を準備することのなかった私には、何かと不手際の重なる作業になってしまった。結局、初めの1週間くらいは老父が食べ始めるのが9時半ごろなので、食事が済めばそろそろ10時ごろになっていた。
 私は、老父が朝食を始めるのと同時に水浴びを始め、さらに勤行をすることになるが、勤行が終わるころには老父の食事も済んでいるので、早々に後片付けを済ませることになる。それから新聞を取りに出掛け、ついでに買い物などもして戻ってくると、そろそろ昼ごろだから、細々とした家事に追われて一段落すれば、もはや1時ごろなのだ。ここで私は自分のための最初の食事を準備することになるが、これは15分くらいで出来てしまうけれど、老父もついでだからといって昼食を済ませたいというわけで、私と老父がそろって昼食を始めるのは2時ごろになってしまう。
 ところが、まだここの暮らしに落ち着きかねている老父は、夕暮れとともにそわそわしはじめカーテンが引かれてしまうと、もう夜だとばかり夕食の心配を始める。そこで6時半ごろには夕食が始まるのだから、ろくに身体を動かすわけでもないのに食事と食事との間は4時間くらいしかなかったことになるのだ。
 それにしても老父の食欲は凄まじいもので、なんでもかんでも食べたがるのには驚かされた。ところが、老父が東京いたときにはこんなことがあった。
 人が何かを食べているのを見ては「話の種に一口くれてみないか」とか「冥途のみやげに一口くれてみい」というわけで、なんでもかんでもやたらと欲しがる食意地の張った老父が、しきりに周囲の同情心を煽っていた。
 「最近は、何を食べてもうまくないなあ…。そこへもってきて驚いたことに、人がおいしそうに食べているのを見ても、ちっとも欲しいと思わなくなってしまったから不思議だ。いよいよわしも先がなくなってきたんだな!?」
 それも所詮は、発育不全のまま老いさらばえた餓鬼が、自分の欲しいものを与えてくれないヒトビトに対する嫌みのポーズにすぎないというわけで、見え透いた老父のはかない企みも「また、いつものグズグズが始まった」とばかり、どれほどの反応も期待できないわれわれの薄笑いに解消されてしまっていた。しかし老父は、あたかもわれわれの無関心に反省の鉄槌を下すべく超越的に降臨する賢者を装い、得意満面に宣うのだ。
 「まあ、ニンゲは、ヒトの食べているものが、欲しいと思ううちが華だな…」
 「さあ、それはどうですか? たとえば立身出世に忙しいヒトビトや金儲けに忙しいヒトビトは、おじいちゃんが思っているほど、食べるものに執着している暇はないはずですよ。まあ、いかなる境涯であれそれぞれの人生に目的を持っているヒトビトは、食うや食わずでも充実して生きられるもんなんですよ」
 私が大いなる嫌みを込めてささやかに反論申し上げれば、老父は身体いっぱいの不機嫌で外れた入れ歯を噛み締めて言う。
 「うんにゃあ…、そんなはずはないだろう?」
 「まあ、おじいちゃんの場合は、旨いものを食べつづけることが人生最大の目的だったというわけだね」
 老父の90年を語る言葉は外にもいくらでもあるが、ここは何んとか当たり障りのないところで執り成せば、入れ歯をカチカチと鳴らしながらでもなんとか墓場までの面目が保たれたことになる。
 ところが、それもそのままにしておけば慢性的な金不足と人手不足で疲弊しきった零細自営業者の家族には、またしても連日のごとく「おまえたちは、90を過ぎたこの老人を虐待するのか」とばかり、ありとあらゆる善意と親切の強要を迫るのを是認することになってしまうはずだから、うかつにもこのままその気にさせておくわけにはいかない。
 そこで、老父の抱える永劫の欲求不満とは、まるで餓鬼がとめどなく没落者へと転生し続けるために、つかの間の棺桶でうたた寝を貧ぼることによって、死に損なった自己愛を生き延びさせるだけだと見定めなければならないが、でもそんなゾンビの無明無知の夢物語にさえ、ささやかなる反省を喚起しうるはずの僥倖を期待してしまう楽天家を気取った私は、すでに血縁的利害関係からは疎遠になりつつある気軽さで、もう一言ご進言申し上げた。
 「それにしてもね、おじいちゃんのいう旨いものを食いたいという欲望は、すでに地位も名誉も財産も手にいれて、もはや欲望のはけ口を失ってから200年近くもたつ古い家系に生まれ育ったものの<贅沢病>ですよ。ところが本来、幸福な病であるはずの<贅沢病>も、家が崩壊し総てを失ってもなお<贅沢>でありつづけたいという永劫の欲求不満であるときには、まったく悲惨な不治の病になってしまうってわけですね。まあ、おじいちゃんの場合は、これに当たるわけですよ」
 老人はひとり引きつった笑いに身を丸め、そそくさと席を立った。
 そんなわけで、勝手に思い込んでいられるうちは「ヒトの食べているものを欲しがらないはずの老父」も、いまここでは、私が口にするものすべてに大いなる関心の眼差しを投げ掛けている。おまけに食べ始まると同時に喉をゲポゲポといわせているのだから、まだ前の食事が消化されていないはずなのに、それでも食欲の方は一向に衰えないのだ。
 確かに母の場合をみていても、パーキンソン氏病の症候群である病気にアルツハイマー型のボケ症状がでてくると、自分の食欲をコントロールすることが出来なくなるようであるから、当然ボケ症状の始まっている老父の場合も食欲のコントロールがうまくいかないのかもしれない。ところが老父の場合はそればかりではなく、たぶん突然に寂しい山の中に連れてこられた不安が、何よりも自分が自分であることを強く感じさせる食欲によって不安解消へと向かわせたように思われるのだ。
 とにかくこの高原へ来てしばらくのあいだは、老父にとっては食べることがすべてであったから、いま食べていることの快感こそが、何にもまして現在の自分を正当化させる根拠になっていたということかもしれない。
 そういえば、初夏の東京からまだ冬の終わりとしか言いようのない閑散とした高原へ連れてこられて、すっかり季節感を失っていたことが影響したのか、いたたまれぬ寂しさを紛らわせる何かを体験せずにはいられない老父に、好物だというフラクフルトソーセージと豆腐を水炊きにして出した。
 「こう寒くなると、やはり鍋物が一番好いですねえ」
 老父は気味の悪い丁寧語なんかを操りながら至極ご機嫌だった。つまり、老父にとっては、鍋物をおいしく食べている今この時は、すでに冬でなければならなかったというわけだから、「おじいちゃん、これから暖かくなるんですよ」と言っても、ほとんど半信半疑で「ほうか…」と言っただけだった。
 そんなわけで、こんな生活が1週間ほど続いた4月29日になって、老父は昼食が過ぎてから、私の勤行の間は長椅子に横になってうたた寝をしていたが、私が新聞を取りに出掛ける時になって無念そうな口ぶりで言った。
 「きょうは、わしの夜のご飯は少な目にしてくれな」
 「どうしたんですか?」
 「ふむ…、食べんほうがええかも知れんな…」とさらに心細そうな様子なのだ。
 「どこか調子悪いの?」
 私が聞いても今度はなかなか口を開かない。そのうちにモソモソと起き上がった。
 「ちょっと便所へ行ってくるか…」
 身体を重そうに運んでトイレに入ったが、かなり長い間出てこなかった。その後、多少は楽になったという感じでトイレから戻り、また長椅子に横になった。
 「どうしました、戻したの?」
 「ああ、少しじゃったけどな」
 しかし、それでもあまり気分は良くなっていないということなのだ。
 「何か悪いものでも食べたのかな? …とすれば、僕も調子が悪くなるはずだもんね、だいたいは同じもの食べてるんだから…。やっぱり食べ過ぎかなあ」
 「なんだか、はっきりしないんじゃが、熱でもあるんかな…。体温計あったら貸してくれんかな」という具合なのだ。
 私は、またいつもの食べ過ぎか薬の飲み間違いではないかと思ったので、まあ、一食ぐらい抜けば大丈夫であろうと考えたけれど、熱があるのなら情況は違った局面を向かえるかもしれないと危惧された。しかし、隠遁生活に入って以来ずっと健康優良おじさんをしている私には体温計の持ち合わせがなかったので、新聞を取りに行っときに町で買ってくることにした。
 さて私が戻り、さっそく老父の体温を計ったが、どうした訳か二度計ってみても35.6℃しかなかった。あまり低いので目盛りが狂っているのではないかと考えて、私は自分の体温も計ってみたが、私の体温も36.0℃とかなり低いのだ。こうなっては、目盛りが狂っていると考えられないこともないのだが、われわれの通常体温が何度であるかを知らないのだから、疑って掛かれば結局はどちらとも言いがたいことになってしまう。それにしても健康な私よりは低いのだから、体温の低下によって心配される病気があるのかも知れないが、どうやらここで言えることは「熱は無い」ということなのだ。
 そうこうするうちに「どうも、調子がよくないから、わしゃ横になる」といってベッドの方に入った。それから夕方まではウツラウツラしていたが、再びトイレに行き幾らかのものを戻してきたという。そんなわけではかばかしい回復が見られなかったので、やはり夕食を抜くことになった。それから何度かトイレへ行っていたようであったが、そのたびに老父はわずかの異常を訴えていた。
 「なんだか、ばかにおしっこの色が濃いんじゃが、どうしたんだろう?」
 私はたいして気にもせず、どうせいつもの大袈裟が始まったんだろうと思っていた。ところが次第に顔色も精彩がなくなり、顔から頭全体にかけて何故か黄色く見えるのが気になった。
 「ねえ、おしっこの色って、どんな色なの? 血が混ざったように赤いの? それとも黄色の色が濃くなってるんですか?」
 どうやら濃い黄色には違いないようであるが、むしろ黒ずんで見えるということだった。 そのうちに老父は、トイレへ行くのが難儀になったらしく、自分で風呂場からプラスチックの桶を持ってきてベッドの枕元へ置いた。私が様子を聞いてみると、気持ちが悪くて戻しそうなのにあまり出ていないということであった。老父は何んでもいいから胃の薬が欲しいと言うので、私はサービスに貰った試供品の胃腸薬を飲ませ、桶の中に新聞紙を敷いて、もしものときのための準備をして寝かし付けたが、間もなく今飲んだばかりの薬と共に胃の中のものを激しく吐いた。それから夜半にかけてゲーゲー吐き続けた。私はそのたびに桶の中の汚物をトイレに捨て新しい新聞紙を敷き直したが、そんなときに老父は「すまんな」などと言いながら、切ない顔をしている。
 「やはり、こんなときには、女手があれば背中をさすってもらえたのになあ…。どうも男所帯じゃしょうがない」
 ところが私には、どうもその言い方が抱擁力のある女性のなまめかしい愛撫を要求しているように感じられて、なんとも気持ちが悪かった。
 「男手でよかったら、僕がさすってあげますよ」
 私は、冷やかしまじりにかなり意識的に無骨さをあらわにして背中をさすってみたが、どうやら老父が孤独な悪戦苦闘の中で無意識に待ち望んでいたものは、老父にとってはとりあえずの義母でありながら愛人であったはずの、われわれにとっては祖母であった女性のいたれりつくせりの愛撫であったように思われた。
 その後、熱を計ってみたが、先程よりは少し上がったとはいうものの36.0℃にすぎず、夜半から朝にかけてはかなり楽になってよく眠れたようであった。さて、朝になって顔色も良くなっていた。
 「どう、少しは楽になりましたか? 今朝のご飯はどうしますか?」
 「いやあ、きにょうは、難儀したなあ。あんまり苦しいので、体をどうしたらええもんだか、わからないほどじゃったからなあ…。でも、ぐっすり寝たんで、すっかり良くなったようじゃ。いつも通りでええよ」
 しかし、老父の回復宣言ほどには身体の調子は回復していないようで、いつもの半分くらいしか食べなかった。
 ところが「わしは、こんなまずいみそ汁を飲まされたんじゃあ、やっていけない。こんなダシもろくに出ていないようなもんを出されるんなら、これからは自分で材料を買ってきて作ったほうがええ」
 この唐突のカウターパンチは昨日一晩中てこずらされた後のことだから、私を怒らせるのには充分だった。
 「ああ結構です。まずかったら飲まないでください」
 私は老父の目の前でそのみそ汁を全部捨ててしまった。
 「それじゃ、これからは自分のみそ汁は自分で作ってください。僕は知りません。ところで言っておきますけどね、このみそ汁は、おじいちゃんが今まで旨い旨いといって飲んでいたものとまったく同じものです。もしも違うところがあるとすれば、それはおじいちゃんの舌が病み上がりで麻痺しているということだけです」と突っぱねてやった。
 この私の反撃はそれなりに有効であったようだが、老父は反撃されたことの悔しさに腹の虫が治まらないのだ。
 「わしは、二食はか食べさしてもらえないんじゃ、ここには居られない!!」
 老父は不機嫌の固まりになって逆襲してきたが、私もかなり意地になっていた。
 「二食ったって、それは昨日だけのことでしょ? しかも自分で欲しくないっていったから抜いたんですよ。それまでは一日三回食べ過ぎるほど食べていたじゃないですか。それが原因であんなことになったんじゃないの? あんなに一晩中ゲェーゲェー言うほど苦しんでいたのに、それでも昨日は、夕飯が食べられたんですか?」
 私は狙いすまして返り討ちにしてやった。それでようやく自分の言っている無理難題に気付いたようであったが、これをきっかけにしてこれ以降の食事の時間を変更することになった。
 つまり、このままのペースでは、私も一日中老父のおもりで終わってしまって自分の仕事が出来ないので、私の生活を以前のように夜型に戻し、朝方 6時ごろに老父の朝食を準備してから寝ることにした。おかゆとみそ汁は暖め直せるように鍋に入れたままコンロに乗せておくことになった。これで老父は以前のように7時半ごろに朝食を取れるようになり、私が12時ごろに起きれば遅くても1時半までには私の第一食と同時に昼食を食べられることになる。そして7時ごろに夕食にすればそれは私の第二食と同時に済ませられることになるのだ。
 私は一日二食であるから、これ以降はたまに煎餅やクッキーを食べる程度でのことで済ませ寝るまで食事は取らないことになるが、老父は早ければ10時ごろにはベッドに入ってしまうので、それから朝まではなんとか私の時間が確保されることになったのだ。
 それにしても、後になって私が夏のアルバイトのために老父を連れて東京へ戻り、しばらく掛かり付けの東京女子医大に行っていなかった老父を、私が初めて連れて行ったときに、それまでいい加減に聞いていた老父の石ころの病気が、初めて胆石であることを知ったようなわけだから、あの老父の食べ過ぎから来た大騒ぎが正に胆石による黄疸であり、それはかなり危険な状態であったことが了解されたという次第なのだ。
 医者の言うところによれば、老父の場合は脂っ気の多いものは控えること、これが大鉄則であるそうだから、老父が高原へ行って以来ずっと脂っこいものばかり食べていたことを思えば、あの大騒ぎは当然と言えば当然の成り行きだったのだ。とにかく尿が鉄分で変色した紅茶のような色になり、黄疸が出て、しかも熱が出てしまったら、緊急に胆汁を抜き取る措置をとらなければ命に拘わるとのことなのだから、私は期せずして老父の命の首根っこを押さえ込む方法を手に入れてしまったことになるのだ。
 つまり、野菜嫌いの老父が脂っこいものを食べるのはごく自然の成り行きだから、わがまま三昧で90年を生き延びてしまった老父の最後の自爆装置の信管を抜けるのは、私の献立次第というわけなのだ、ハハハ。
 とはいうものの、ここでは老父が「あんたの味付けは、わしにはちょっとしつっこいんじゃ」と言いつつ、鳥や豚肉のソテーに掛けるバターのたっぷり入ったソースを貧るように旨い旨いと言って食べ、東京では精進料理は味がなくてまずいと言い、そのくせちょっと甘辛く煮たものは「こんな田舎者の料理みたいな下作なものが食えるか」と言いながら、おかゆに牛乳を掛けてジャムを乗せておまけにお新香を混ぜて食べていたのだから、結局は食べ過ぎということがなければ、自分が好きだというものは何をどのように食べてもほとんど支障はないというわけで、すべてが歳不相応な元気の元になってしまうのが老父の食事法というわけなのだ。





     3.こんなところへ


 老父がこの高原へやってきたころは、4月の下旬とはいえ雑木林はまだ寒々とした裸木ばかりで、春を告げる桜の花も見られなかった。夏のうっ蒼と茂った雑木林しか知らない老父は、一面青い空に飲み込まれてしまった高原の閑散とした光景に驚き、とんでもない寂しいところへ来てしまったもんだと感じたようだった。そんな老父が人気のない雑木林を眺めながら言う。
 「あんたは、どうしてこんなところへ来たのかな?」
 「テンプラ屋のアキちゃんに J さんを紹介されて、ここに来たんですよ」
 どうも老父は、この答えでは納得していないようなのだ。
 「ここへは、あんたの古い友達に何んとかいうのがおったじゃないか? あれの紹介で来たんだとばっかし思っとったのに、違うのか?」
 「ああ、 Y くんですね。彼は関係ありません」
 「ほうか…、 J さんというのは、あの角で商売しとる人じゃろ?」
 「そうですよ。僕がちょこちょこと手伝いにいってる所ですよ」
 「わしは、どう考えてみても、あんたがここへ来たのは、あの Y くんの関係だと思えてならんのじゃが…。違うのか?」
 「ええ、違いますよ。でも Y もアキちゃんも J さんも、みんな大学は一緒だから顔なじみではあるけれどね」
 そしてさらに、「どうして、アキちゃんの紹介なんかでここへ来たんじゃ? わしは、 I さんとは近所だから顔見知りではあったが、だからというて、特別に親しいわけじゃなかったからなあ。…ああ、そこに自分の家があるんで、あんたを呼び寄せたんか?」
  「それは違いますよ。そのアキちゃんの山荘は、僕がここへ来てから建てたんですよ。いいですか、おじいちゃんがアキちゃんのおじさんと特別に親しくなくても、僕とアキちゃんとは、もう幼稚園のときからの友達ですからね。別に不思議なことはないでしょう」
 「しかし、いくらアキちゃんが友達だからというたって、こんな寂しい遠くまで来るようなことを、友達には相談できて、わしには一言の相談もないというのは、おかしいじゃないか」
 「あれれ、僕がここへ来るにあたっては、おじいちゃんにもいろいろ相談に乗ってもらったじゃないですか? 忘れちゃったの?」
 「うんにゃあ、わしに一言でも相談があれば、あんたをこんな寂しいところになんか、来させはしなかったよ。だいいち、あんたは、若い時分に家を出たっきりで、わしのところには寄り付きもしなかったんだから、わしが今度初めてここへ来て、こんなところに住んでいることを知ったんじゃないか」
 「なんだ、すっかり忘れちゃったんですね。僕がここへ引っ越してきてからも、初めのころは毎月月末には僕の関係している宗教団体のお寺に行くんで、東京へ行ってたじゃないですか。そのたびに東京の家に2〜3日やっかいになっていたんですよ。ですから、もう10年前からここに居ることは知っていたはずですよ。だいいち、おじいちゃんは、前にもここへ来たことがあるじゃないですか」
 「ああっ、ほうか、わしは、初めてじゃなかったんじゃな…。でも、前に来たときは、まさかこんなところとは思わなかったがなあ…」
 「まあ、夏と今頃とは景色が違いますからね。それにねえ、いいですか、もうすでにおばあちゃんは、5年前から僕のところへ静養に来ているんですよ。現に去年は7月から9月までほぼ2ケ月もいたんですよ」
 「あらら、あんたとこで、おばあちゃんが世話になっとったことがあるのか?」という次第なのだ。
 ところが、さらに「でも、あんたは、どうしてこんなところへ来たんじゃ?」というわけだから、結局初めの質問は、私がこの地を選ぶに至った経過や理由についてであるよりも、このような生活をすることになった理由を知りたかったということになる。
 「それは、第一には、僕は高校のときから運動具屋を手伝ったりしていたから、満足に大学も行かなかったんで、やはり後になって自分の勉強がしたくなったってわけですよ。 覚えてますか、僕が高校2年のときに、おじいちゃんは、もうわしは商売をするのがいやになったから、わしの後を継いで商売をやってくれんかと言ったのを…。それから僕は、8年間運動具屋をやっていたんですよ。もっとも終わりの2年間は、専門店会の地下でやっていたスナックと掛け持ちでしたけどね。ま、結局スナックは8年間やりましたよ。
 でも、やはり心するところがあってね、今度こそは、ひとり静かなところでじっくりと腰を据えて勉強しようと思ったわけですよ。もっとも30過ぎてから勉強しようってわけだから、それは今さら教養のためなんてもんじゃなくて、自分のライフワークのためなんですよ。これから死ぬまでに回答を出さなければならない問題のためにね。
 せっかくですから、その問題というのをお教えしますとね、まず<自分とは何か>そして次に<いかに生きるべきか>というわけです。もっともこれは、僕が運動具屋を手伝い始めたころからの23〜4年来の問題ですがね。つまり僕が絵を描き始めたときからの問題なんです。
 いいですか、僕は、この問題に回答するために絵を描いたり文字を書いたりしてるんですよ。つまりね、おじいちゃんには想像もつかないことかも知れないけれど、僕のこの生活っていうのは、もともとは宗教的な意味を踏まえた修行ってわけなんですよ。」
 「うんにゃあ、あんたは、いいかげんなことを言っとるが、今になって、そんな勝手なことを言うたって、わしは知らん。それよりなんとか言うたな、うちの店にも手伝いに来てくれとった娘がおったじゃないか、あんたがあれと結婚したいというのを、わしが反対したもんだから、それであんたは、わしに反感を持って家を飛び出しちゃったんじゃよ。それでわしには居所も知らせずにこんなところにおったんじゃ。
 わしは、ああいう女が大嫌いなんじゃ、どぎつい化粧しおって、あれの母親というのもいかにも水商売上がりという感じで、下作な女じゃったよ。わしは、どうしてあんたが、あんな女と結婚したいなんて言うたか、未だに分からんくらいなんじゃ」
 すでに老父の話は、妄想の世界で肉化してしまっているのだ。
 確かに私が自分のスナックを畳んでこの高原へと来たときに、私の店で長いこと頑張ってくれた娘を手不足の運動具店に紹介したけれど、結局のところこの娘との間には結婚話はなかったのだから、老父がうる覚えに語ったところの私の結婚の話とは、今から考えればすでに20年近い昔のことで、私がスナックを始めたころに、しばらくのあいだ同棲していた娘がいて、この娘との結婚の話がこじれてしまったときのことを言っているようなのだ。もっとも、その娘の名前を言っても「知らん」というわけだから、いまさら記憶の混濁についてとやかく言っても始まらない。
 それにしても老父が東京からこの高原へと引っ越してきた初めのころは、あまりに唐突な環境の変化に様々な戸惑いがあったというわけなのか、それがことごとくボケ症状に結び付くように思われた。それは、あの異常な食欲の原因と同様の事態であるが、東京の生活ではごく日常的な記憶であったはずのものが、どれほどの日数がたったわけでもないのに、ただ生活の環境が変化しただけで次から次へと喪失されていくのだ。
 たまたま、ほとんど寝たきりに近い母を風呂に入れる話が出たときのことなのだ。
 私が「東京の家ではね、おばあちゃんが寝ているのが2階でしょ、ところが風呂場は1階で離れてるし、おまけに手狭だから、ママさんの女手だけでは、なかなか大変だそうですよ。もう大人二人掛かりでなきゃ駄目みたいですよ」
 すると老父は「ありゃりゃ、わしは、自分の家の間取りが分からなくなっとるな。どうなっとったかな…」という次第だった。
 この頃は、この私の家でも、風呂から出た老父がこんなことを言っていた。
 「いま、わしは風呂に入っとって考えとったんじゃが、ここがどこか分からなくて難儀したんじゃ。どうも学生のころにおった寮の風呂場のような気もするんじゃが、違うような気もしたし、どこか旅館の風呂場のような気もしたりして、なんでこの風呂に入っておるのか、合点がいかなかったんじゃ。それで風呂を出たら誰かに聞いてみにゃいかんと思っとったが、今、あんたの顔を見て、ああ、ここはあんたのうちなんだと思い出したんじゃ。年を取ると変なことがあるもんなんだね」
 こんな調子だから、私が目覚めるのを待ちかねていた老父に、取って置きの強烈な一発を食らわされたことがある。
 「あんたは、誰じゃったかな?」
 私はまだ寝ぼけまなこではあったけれど、このきつい一発ですっかり目覚めた。そして、いよいよ本格的なボケの到来だなという予感を抱くと同時に、何か滅法愉快なものを発見したような気になった。
 「あらら、僕が誰だか分かりませんか?」私はほほ笑み返した。
 「わしは、今朝早くから目が覚めてずっと考えとったんじゃが、どうもあんたのことが分からないんじゃ。どうやらわしの孫のようでもあるし、息子のようでもあるし…、だいいち名前が思い出せないんじゃ」
 「ハハハ、名前はノリヨシですよ。でもまあ、僕が誰であってもいいでしょう。とにかくは、おじいちゃんの面倒を見る人ってわけですよ。それだけ分かっていれば充分じゃないですか」
 「ああ、そうかノリヨシか。そうすると、ほれ、岡山におるあんたの兄はなんと言うたかな?」
 「ハルヨシですよ。でもね、岡山じゃなくて、東京ですよ」
 「東京? そんなことはないじゃろう? わしが土地を買って家を建てたところじゃよ。ああ、大阪じゃったか…」
 「東京ですよ」
 「ほうか? そんなら東京のどこじゃ?」
 「ど下町の荒川ですよ」
 「荒川? 荒川なんか知らんな…、荒川のどこなんじゃ?」
 「 東日暮里ですよ」
 「ええ…、それは本籍じゃないのか」
 「本籍が岡山なんですよ」
 「ほうで…、ほうか S じゃ、それで S におるわしの家内はなんと言うたかな、自分の家内の名前を忘れてしまうんじゃから、情けないなあ」というわけだから、何をどこまで納得しているのか判断をしかねるのだ。
 かと思えば「東京におる孫の名前は、ナギサちゃんともうひとり誰じゃったかなあ…。あの子は、あれで努力家じゃから、学校の成績はええそうじゃからなあ…」
 「リエちゃんですよ」
 「ああ、そうか、どうもリエちゃんが出てこんのじゃ。それであんたらの名前も、ひとりづつ思い出そうとすると出てこないんで、ハルヨシにノリヨシと一緒に覚えておくことにしたんじゃ。ほうか、リエちゃんとナギサちゃんじゃな。一緒に覚えておけばええんじゃ」と得意になっている。
 ところが数日後には、やはり一人二人と名前が失われてしまうのだから、たぶん、この辺りの記憶が、老父にとってはもっとも激しい欠落の現場ということなのかもしれない。 いずれにしても兄と私が生まれ育った40有余年は、老父の忘却された過去の中に埋没してしまっているのだから、今さら勝手な思い込みを訂正させようにも手掛かりはないに等しいのだ。だから、いま老父の記憶違いを指摘し訂正させることに固執すれば、それは乏しい記憶という情報によって辛うじて人格を維持しているにすぎないものを、根底から覆すことになってしまうのだ。
 それにしても、老父の勝手な記憶の横滑りがひどく、それゆえの記憶の混濁による思い込みによって、ひとり興奮したり逆上してしまうことが続けば、その扱いに手を焼くことになる私は、いささか記憶違いについて指摘し訂正を迫ることになるが、そのたびに老父は、自分の愚かさを糾弾されていると言わんばかりのけんまくで逆襲してくるのだ。
 「あんたは、なんでもかんでも理屈で押してくるが、ニンゲというものはそうはいかないんじゃよ。あんたのように、早くから親を捨てて家を出てしまうような情のない奴には、親をいたわるという優しい心が欠けているんじゃよ。わしは、もうおまえのような奴とは、話もしたくない。わしに、構わんでくれ」
 もっとも、老父は、私を中傷する<うっぷん晴らし>という感情的手段で生き延びる道を獲得しようというわけだけど、この高原で孤立無援の老父は、いくら騒いでもしばらくは東京へは帰れないと観念しなければならないのだから、そんな自分勝手な言いたい放題の延命も、結局は、再び私に面倒を見てもらわなければ生き延びられないと知ることでしかないのだ。ところが、そこはボケたとはいえオトボケ名人の老父のことだから、さんざん騒いだ後に自分の立場を窮地に追い込んでしまうような不都合なことにでもなれば、何事もなかったかのような顔で忘れてしまったことにして、まったくの知らんぷりでやり過ごしてしまう。
 そんなことが何回か続き、老父も「自分のことは自分でしてください」なんて言われてしまうかもしれないという、墓穴を掘ることになる私への中傷は少なくなったけれど、だからと言って混濁した記憶と妄想を自由自在に生きられるわけではないのだから、話の途中で私の怪訝な顔付きに気がついたときには、いかにも尤もらしい前置きを付けるようになった。
 「わしも、倒れて以来、すっかり昔のことを忘れてしまって記憶が矛盾するようになってしまったが…」
  しかし、それによって老父の勝手な思い込みが修正されるわけではないのだから、単に社交辞令化した言い逃れにすぎないのだ。まして、脳溢血などで倒れたことなど一回もないのだから、自分のボケを認めざるを得ない屈辱感から逃避するための言い繕いというわけで、どこまでも逃げつづける覚悟なのだ。
 そういえばこの高原へ来てまだ一週間もたたないのに、老父は、どうも身の置き場がないという感じで尋ねてきた。
 「あんたは、もう東京へは行かんのか」
 そこで私が「こんど東京へ行くのは、お中元の配達が始まるころだから、6月の20日前後ですね」
 「ほうか、そうするとまだ50日以上あるんじゃな」深い溜め息をついていた。
 どうやら成り行きとは言え唐突に高原へと来てしまった老父が、そのあまりにも殺風景にして閑散とした枯木林の静寂に、ほとんどいたたまれないほどの不安を抱き、闇雲に東京へ帰りたいという焦燥に取り付かれてしまった様子なのだ。
 それにしても東京を発つにあたり、山と聞けば鉱山という定型化された連想によって、「わしは、若い時分には、おとうさんのやっとった鉱山で長いこと留守番をしていたこともあるぐらいじゃから、山の暮らしは好きなんじゃ」と得意満面に語ってしまった手前、今さら、しかも来て早々に「帰りたい」とは言い出せる情況にはなかったのだ。
 そんなわけで何か不安にさいなまれるような事があるたびに、ここに居ては何事も解決できないとばかり「今度、東京へ行くのはいつかな」と聞いてくる。初めのうちは問われるままに「6月の20日前後ですよ」と答えていたが、そのたびに残りの日数を数え上げていた老父は、いつの間にか帰りたいと思う気持ちばかりに急き立てられて、それがほとんど毎日の問い掛けになってしまった。
 当然この<問い掛けの日常化>とは、<問い掛け>によって求めていたものが、結局は<問い掛けること>によって解消するしかないという自己完結性へと横滑りしてしまうのだ。こうなってしまえば、もはやいかなる<問い掛け>も動機不明の常套句にすぎないという情況なのだ。
 そこで私は「ねえ、おじいちゃん、このところ毎日、もう20日間ぐらいになるかな、同じことばかり聞いてるけれど、僕の回答は忘れちゃうんですか?」
 「ほうか? そんなことはないじゃろう…」
 老父はまったく理不尽な言い掛かりだという様子だったが、それに問答無用の逆襲をするほどにはボケきってはいないというわけか、それからは常套句になった問い掛けを繰り返すことがなくなった。
 ところが、しばらくして何かの折りにたまたま思い付いたという顔で、「あんたは東京へ仕事に行かんといけないんじゃないのか」とか「あんたは、このままずうっとここにおるつもりなのか」なんて問い掛けてくるが、それも結局は「今度は、東京へいつ行くのかな」という<問い掛け>の言い換えにすぎないのだから、「20日ごろですよ」という私の気のない回答を待つまでもなく、<問い掛けること>によっていたたまれぬ高原での<何かを問い掛けずにはいられない不安>は解消されていくようなのだ。
 ところが、何日もたたないうちに、こんなことを言い出した。
 「あんたが東京へ行ったら、わしはここでどうやって食べていったらいいのかなあ。買い物するところも分からんし、それに、何より、物を売っとるとこまで行くのが大変じゃからなあ…」
 どうやら<帰りたいのに帰れない>と思っているうちに、いつの間にか村を出るに出られない過疎地あたりの<行き場のない老人>のように、おいてきぼりにされてしまうかもしれないという新たなる不安を抱え込んでいたのかも知れない。
 そんな老父の新たなる思い込みが、「あんたらみたいな若いものには分からんじゃろうが、年寄りというものは…」で始まる一切の苦悩の代弁者であるかのように、今さら何についてと言うまでもなく<すべてを苦悩せずにはいられない老人>へと変身させて、有り余る正体不明の不安を抱え込ませれば、もはやそれ以外には何も差し挟むことのできないという<老人たりうる老人>にどっぷりと安住させてしまうのだ。
 そんなわけで、とりあえずはどのような口論があろうとも、ここにまだ<生き延びなければならない老人>と<生き延びさせる人>がいることを、老父と私が認めつつ認められるという相互関係としてある限り、老父はいつものようにテレビが見られ、食事が食べられて、風呂に入れるのだから、何も文句を言うわけにはいかないということになる。
 つまり、老父が私をノリヨシと認めつつ、同時にノリヨシである私によって、面倒を見られる自分であることを認められているという、この相互関係を自覚出来ている時はボケていないのだから、当然ながら文句を言う理由は見当たらないというわけなのだ。
 言い換えるならば、老父の場合は、この相互関係を崩壊させてボケさせるのは猜疑心であり、同時に猜疑心はこのボケによってこそ喚起されるという悪循環になっているのだから、老父をボケさせないためには、いかにして文句を言う理由を解消し、猜疑心を起こさせないようにするかということこそが懸案なのだ。




    4.感動の日々


 <今さら>と<今こそ>の狭間で<何>を為すこともなく、ただ「何って何!?」と問い続ける<何か>のみを生きようとする何行者の平穏無事な隠遁生活においては、日々新鮮な感動を生き続けるということが、過酷なまでの自戒にも似た生き方でなければならないといえる。
 それは心の中に風の吹き抜ける場所を発見するという私の<反省の論理>によってすでに語ったところでもあるが、われわれの言う感動的な日々を生きつづけるためには、もはやすでに<何も>語ることのない表現者でありつつ、<何か>を語りつづけなければならない表現者として、永劫の反省の真っ只中に、<何>をしても自己矛盾に陥ってしまう自己を見定めていなければならない。ところが、生悟りゆえにことごとくが当たり前で腹が立つほどの無感動に埋没した何的表現者のみならず、あらゆる生活者の反省以前的場面における驚きと感動においてさえ、心の中に何んらかの意味において未だ無意味であったり無意識としか言いようのない、つまりはそれが何んであるかを未だ問われていない<何ものか>を、とりあえずは正体不明のままに前提にしておかなければ、いかなる驚きも感動も生起しようがないと言いうるのだ。
 言い換えるならば、われわれは、正体不明という言葉によって「<何が>知らない<何か>であるかを知っている」という<表現すること>の矛盾に身を晒しつつ、無邪気に<未知の何か>に感動しようというわけなのだ。
 そこで老父の場合を考えてみると、まずは妄想や勝手な思い込みという無知によって引き起こされる短絡的発想が、とめどない驚きと感動を保証してやまないのだ。その意味において、滑稽なほどに驚き続ける老父の日常は、ボケてしまったがための感動的な日々というわけなのだ。
 「山へくれば、なんでも動物が見られると思って期待してきたのに、ここには何んにもいないんじゃなあ」
 これが、老父がこの高原へ来ての一番初めの感想であった。
 ところが、この年の春から夏にかけては非常に雨が少なく毎日が晴天続きだったので、新緑まではまだ間があったものの高原は小鳥のさえずりで満たされていた。小鳥は夜明けとともに鳴き始め朝のうちは裸木の上を乱舞しているのだった。
 そんな様子を見ているはずの老父が、窓から身を乗り出してつぶやいている。
 「ここは、ろくに鳥もいないところなんじゃなあ…。おとうさんがやっとった鉱山に、わしが行ったころは、それはキジでもヤマドリでもサルからイノシシから何んでもおったがなあ…。ここは、こうしておっても鳥の声も聞こえてこんようなところなんじゃなあ、寂しいところだ」
 「おじいちゃんね、70年近くもの昔と現在じゃ比較になりませんよ。たぶん70年前なら、この辺りも動物たちの楽園だったはずですよ。だから、そんな比較を抜きにすれば、いま、これだけの鳥が鳴いているだけでもたいしたもんじゃないの? あれ、こんなに小鳥が鳴いているのに聞こえてないの?」
 「あら、ほうで、わしには何んにも聞こえないがなあ…。そうすると、わしは、ずいぶん耳が聞こえなくなっとるんだなあ」というわけだから、目の前に姿を現さない小鳥は存在していなかったのだ。
 そんなわけで、何はともあれわれわれ以外に生き物の姿を見ないことが寂しさの原因であるらしく、しきりに「何かこないかなあ」と一日じゅう外を眺めている。そこで小鳥のためにパンを小さく切って蒔いてみたが、老父がじっと見張っているためか、老父自身が言うように「普段見慣れない怪しい奴がおると思って警戒しとるんじゃな」というわけかどうかは知らないが、いつものようには食べに降りてこない。
 あまりに落胆の色が濃かったので「こうやって小鳥の餌を出しておくと、いまごろは、餌にありつけなかった野良猫がよく食べに来るんですよ」と教えれば、今度は今や遅しと野良猫の出現を待ち望む日々が続くことになるのだ。
 それからは、枯れ葉の中から突き出ている切り株を見ては猫が隠れているといって騒いだり、夕日の影が木の枝にかかり風にそよぐ様を見ては「あらら、ほれ見てごらんよ、あんな木の上のほうに猫がのっとるよ、あんなところで、何を狙っとるんじゃろうか」というわけで、いつの間にか高原は神出鬼没の野良猫天国になってしまうのだ。そのうちに夜中に通り掛かった野良猫が小鳥の餌を食べて行くようになり、しばしば明るいうちにも姿を見せるようになった。それは小さな野良猫であるが、その毛並みといい人間に対する警戒心を決して忘れない身のこなしは、私がここへ住むようになった10年前にすでにネズミというあだ名で野良猫をしていた変わり者の末裔のように思われた。
 ところが、この子猫は老父の前では餌を食べようとはしなかったために、老父にとっては警戒されていると思うことが腹だたしかったようなのだ。
 いつの間にか「あの野良猫がきよるから、鳥がよう降りてはこんのじゃな」とか、「この辺りじゃ、野良猫も餌がないから、鳥なんかをとって食べとるんじゃろうな」
 ついには「この辺りの野良猫が、鳥をとって食べるもんじゃから、すっかり鳥が少なくなってしまったんじゃなあ」ということになった。そして、まるで80年ぶりに目覚めた悪餓鬼のように、喜々とした顔でつぶやいている。
 「あの野良猫が、今度来たらとっつかまえて殺してやろうと思っとるんじゃが、どうやって殺してやろうかと考えとるんじゃ」
 もっともそれ以来、私が小鳥の餌を蒔かないようにしたために、野良猫の出現はまれになってしまったので、無益な殺生は起こさなくて済んだというわけなのだ。
 一事が万事この有り様だから、たとえば好天続きの毎日には、「山の中というものは、天気が変わりやすくて雨の多いいもんじゃと思っとったのに、ここは雨の少ないところなんじゃなあ」
 そのたびに「今年は特別なんですよ。普段はかなり雨も降るし、こんなに温ったかな日が続くということはまれなんですよ」
 ところが、実際に雨が降らないのだから、ほとんど老父を納得させることが出来ないのだ。そして、ようやく新緑の頃となった高原の雑木林で、それまで敷き詰められた枯れ葉の一枚一枚にいたるまで広大な蒼空に飲み込まれていたものが、日一日と優しい木陰に輝きと躍動を与えられ、新たなる生命の誕生を自然自らが祝福する至福の時をみせるのだ。そんなときに自然の変貌に目を見張っている老父が、大発見とばかり騒ぎ出す。
 「あらら、向こうの家には、いつの間にか誰か来とるんじゃな。ほら、見てごらん、カーテンが動いとるじゃろ、ほれカーテンの影に二人おるじゃろ。あら、2階にも誰かおるな…」
 ところが、それは裸木ばかりのときには見られなかった木漏れ日であることを何回説明しても、また翌日には同じことを言い出す始末なのだ。
 「そんなに気になるのなら、あそこまで行って確かめてきたら」
 すると老父は、見に行くほどのことではないと言いたげにしているが、それでも「そうかなあ、わしは、どう見ても、人がおるように思えてならないんじゃがなあ」と納得しかねているのだ。
 そんなわけで、今度は8月の中頃を過ぎて雨の日が続いても、雨の音が聞こえない老父には、なかなか雨が降らないのだ。
 「こうして見とると、いまにも雨が降りそうなのに、なかなか降らんのだなあ。山の中というものは、雨が降るというたら、いっぺんに降るもんなのに、ここは雨が少ないところなんじゃなあ。雨が降ったというても、未だにどしゃ降りというのは、一度もないもんなあ」
 「何言ってんの、今だってあんなに降ってるじゃないの。このところ、かなり強い雨が降ってるんですよ。雨の音が聞こえないからそんなこと言ってられるんですよ。それに、ここへ帰ってきたときに、あそこの道が雨に流されて岩だらけになっていたのを見たじゃないですか。たまたま、猛烈な雨があったときに居なかっただけなんですよ」
 「ほうか、わしは、ちっとも気が付かなかったなあ」
 老父はほとんど気のない返事でまたテレビに見入ってしまうのだ。
 ところで、老父はこの高原へ来て以来しきりに雷のことを気にしていた。
 「ここら辺りは、雷はどうなんじゃ?」
 「どうって、雷はこの辺の名物ですよ」
 「かなり鳴るのか?」
 「ええ、ここは高いのでね、雷雲の中に入ってしまうんですね。そうするとかなりひどいですよ。家の周りが雷だらけでね、目の前でビシビシ光って雷が横に走ったりしてね。まあ奇麗なもんですけどね。
 そういえば、雷がごく近い時は、そこのガスコンロに火をつけないほうがいいですよ。今のガスコンロの自動点火は圧電式っていってね、この中で小さな稲妻が出るんですよ。それが雷を誘発することがあるらしいんですね。一度ひどい目に遭ったことがあるんですよ。雷が目の前でさく裂してね、その網戸の上を稲妻が走りましたよ。手はしびれて、体じゅうがチカチカしましたよ。あれにはびっくりしましたね。
 そうそう、そこの電信柱にも落ちたことがありますよ。あれは奇麗だったですよ。花火と一緒ですよ。始めにドカンとしたっきり後はガーンとして音も聞こえなくなってね、火柱が立って、それが正に花火のように飛び散ってね」
 「ほうか、かなりひどいのが鳴るんじゃな…」
 「でもね、雷っていうのは当たり年と少ない年とがあるようですよ。今年はどうなんですかねえ…。とにかくね、この辺りは雷がよく落ちるのでね、雷が鳴り始めたらまずテレビとステレオと、それからこのワープロなんかのコンセントを外しておかないと、壊れちゃうんですよ。その外したコードもね、コンセントから40〜50cm以上放しておかないと、電気が流れちゃうっていいますからね。ま、雷が鳴ったら注意してください」
 「ほうで、雷はいやじゃなあ…」
 そういえば、老父が青年期に体験した四国の鉱山では、かなりひどい雷が鳴ったといっていたから、山で鳴る雷の迫力は知っているはずなのだ。それゆえに老父は、またこの歳になって再び雷に驚かされるのは難儀だと思っていたのかもしれない。でもそれは、ボケによって最近の記憶が欠落してしまったことの埋め合わせとして蘇った70数年前の記憶ということであれば、やはり闇雲に雷を恐れるという幼児性への退行と同時に、それに伴う無知性を引きずった短絡的発想ゆえに触発された感動的日々としての、雷に対する恐怖ということなのかもしれない。
 しかし、どんなにひどい雷が重低音で響き渡ったとしても、当然ながら老父には減衰して聞こえているはずだから、70数年前のようには聞こえていないというわけで、いま老父の雷に対する恐れというのは、雷にこだわらずにはいられないという幼児性を伴った短絡的発想によってのみつくられた思い込みにすぎないのだ。
 そんなわけで、梅雨に入る頃になりちょっと雲行きが悪くなるたびに「これは雷が来るかな」とそわそわしているのだ。もっとも明るいうちにちょっと離れたところで鳴る雷は、耳の遠い老父には聞こえないしまして稲光も見えないから、ほとんど気付かないといえる。つまり、暗くなってカーテンを閉めてしまえば、やはり稲光は見えないのだから、かなりの雷についても気付かないというわけで、老父にとって雷とは本人が心配するほどには大事件ではないのだ。
 だから、テレビに雷による電波障害がはいっても、それが雷だと教えなければ1分間に40〜50回も入る激しい画面の乱れが続いていても「今日は、何んだか映りが悪いんじゃなあ」というくらいのことで済んでしまうのだ。そこで、この画面の乱れこそが雷の到来を知らせる信号だから、電波障害がひどくなってきたらテレビを切るように教えても、テレビに夢中になっていればそんなことは全くおかまいなしになってしまう。そんなときに、老父が夢中になって見ているテレビを雷が来たからと言って切ると、今度は見たいものも見られない事態としての雷に改めて大いなる恐怖心を抱くようであった。
 したがって、余程ひどい雷でなければ「いま雷が鳴っているのが、聞こえますか?」と聞かないかぎり分からないのだから、たとえ雷が鳴っている最中でも、何か自分を納得させるかのような調子で感心したり、あるいは祈りにも似た独言をいっている。
 「これで、今年は雷の少ない年なんじゃなあ…」
 時には「山の中というのは、雷が多いいもんと思っとったのに、この辺りは、雷が少ないんじゃなあ」
 あるいはまた「山の中の雷いうのは、一度鳴り出すとたいていは2〜3日続くもんなんじゃが、ここら辺りでは、そういうこともないんじゃなあ」なんて言っている。
 そこで「さっきから、鳴ってるじゃないですか、聞こえなかったの?」
 「ほうで、わしは、随分耳が遠くなったんじゃなあ…」というわけで、老父は急に不安な顔になり、めっきり口数が少なくなってしまうのだ。
 そんなことがあってからは、不安の種である雷の動向を逃さず察知しようというわけなのか、老父は雲行きの怪しい空をにらんでいることがあるけれど、そんなときにさえすでに鳴っている雷に気付かずに、「きょうも雷がくるのかなあ」なんてかなり惚けた独り言をいってるのだから、どうやら雷が大嫌いであることは疑いのないところなのだ。そんな確信を私が抱くようになってからは、老父が見てもいないテレビをガンガン鳴らして、おまけにいつもの常套句でウジウジグズグズと始めてしまったら、何はともあれ一言つぶやけばいいのだ。
 「おや、雷が鳴り始めたなあ、これはひどくなるかな…」
 するとさっそく「あらら、ほうで。それじゃ、テレビを切らんと駄目じゃな」と身構えるほどだから、たちまちおとなしくさせることが出来るという仕掛けなのだ。
 そのくせ老父は、たまたま S さんのおばあちゃんが来て「あたし、カミナリが大嫌いなもんですから、あれが鳴り始めると、もう布団かぶって寝てしまうんですよ」なんて言っているのを聞きつけて寄ってくる。
 「いやあ、あたしも、子供のころは、アカンタレでカミナリを怖がりましたが、もうこの年になると、怖わいものもなくなりました」
 老父はこの調子で胸を張って見せるのだから、ここまでボケても見えっ張りのお惚けは忘れないようなのだ。
 先日は、物音が気になって私が目を覚ましたときに、たまたまベッドの端に腰掛けている老父と目が合ってしまった。
 「何かあったんですか?」
 「おお、今朝はあんまり不思議なことがあるので、あんたを起こして聞いてみようかと思っとったんじゃが…、よく、寝とるから、起こすのも悪いと思ってたところなんじゃ」 私が時計を見るとちょうど午前10時だったから、まだ寝てから2時間そこそこしかたっていなかった。
 「いったい、どうしたんですか?」私は布団にくるまったままで聞いた。
 「あんた、あそこは、牧草地とか言うとったな。あそこへ大勢の人が集まって来とるんじゃが、いったい何をやっとるんじゃろうか? みんな白いシャツを着て、傘をさした女たちなんじゃが、牧草地のところを囲むように並んどるんじゃ」
 老父は何か大事件に遭遇したかのように興奮しているのだ。
 私は急立てられて布団から抜け出しキッチンの東側の窓に立った。ところが雨は疎か大勢の人影なぞどこにもなく、ただ曇り空ではあるが緑に覆われた穏やかな高原の雑木林が、見慣れた光景として広がっているだけなのだ。
 「ねえ、どこに見えるんですか?」
 「ええっ? あっこ、あっこに、あんなにたくさん来とるじゃないか!!」
 老父は、確かに牧草地と雑木林の境目あたりを指さしているが、やはり人影は見当たらない。
 「何か、見間違ったんじゃないの? だいいち、雨なんか降ってないんだから、傘をさしている人なんかいるはずないでしょう」私はガラス窓と網戸を開けて老父に示した。
 「ほうか? あっこの草を刈った後ろが白く見えるじゃろうが、あれは人じゃないのかなあ?」
 「違いますよ、曇ってるから牧草地が白く見えるだけですよ」
 「そうかなあ、わしは、あれが人に見えてしょうがないんじゃがなあ…。わしはまた、あの牧草地で何かやっとるのをみんなして見物しとるのかと思ったんじゃがなあ…」
 老父にはまだ人影が見えているらしくて、なかなか諦められないようだった。
 そういえば、この見えないものが見えるという現象と同時に、われわれ二人の生活には老父の思い込みによってもう一人の誰かがいつも歴然と存在しているのだ。
 それも初めは居るはずのない母が居ると錯覚して「あら、オカアチャンは、いま風呂に入っとるのか?」と言う程度のことだったが、私が新聞を取って帰ってくると、うたた寝をしていた老父が「おお、あんたらは、帰っとったのか。わしは全然気が付かなかった」なんて言ったり、「わしらは、まだご飯は済んどらんのじゃが、あんたはもう済んたのか?」とか、風呂から上がった老父が「ああ、ええ気持ちじゃった。お先に頂きましたよ。どうぞ、あんたらも入ってください」と、ほとんど日常的にもう一人の誰かが存在するようになった。
 あまり気になるので、しばらくは老父が複数形で話をするたびに聞いてみた。
 「ねえ、おじいちゃんには、いまここに僕の他に誰がいると思ってんの?」
 すると、どうやら同一の人物というわけでもないらしく、その都度、母であったり、老父のすぐ上の N の叔母であったり、そのまた上の S の叔母であったり、かつて老父がカアサンと呼んでいた義母であったりというわけで、われわれの母を除いては、すべてがすでにこの世に存在しない人たちばかりなのだ。
 それにしても、以前に簡単な四柱推命で老父の運勢を占ってみたときに、確か老父には、いつも自分を支え援助してくれる女性に巡り会うことが出来るという全く結構な星があるのに驚いたことがあるが、どうやらそれは巡り会った多くの女性たちの死後も有効であるようなのだ。しかし、こんな結構な運勢も、それに溺れてしまえば、結果はこの発育不全という体たらくなのだ。とにかく、われわれのこの高原における静かな生活は、かなり多くの有形無形のヒトビトによって支えられた豊かな生活というわけなのだ。
 いずれにしても老父の場合は、無明無知に保証された短絡的発想というものがあるかぎり、それはボケによって磨きがかかることはあっても驚きと感動に陰りが生ずることはないといえる。そんな磨きのかかったボケを象徴する思い込みに時計の話がある。
 老父は「この時計は正確だあ、もう買って何年になるかなあ。それでいて、いままでに10秒と違ったことがないんだからなあ。この機械はええもんじゃ。
 それでもこのごろじゃ、たまにね、テレビの時報を見ていると、2〜3秒ぐらい違っていることがあるのに、2〜3日して気が付くと、またピタッと合ってるんだから、不思議なことがあるもんだねえ。あれは、テレビの方で時間を調節しておるんじゃな。そんなことが、チョクチョクあるよ。やっぱり、テレビなんかでも知らん間に1秒や2秒は、黙っとって調節するんだね」と宣う。
 どうやら、自己中心的な発想の無知も90年という歳月で磨きをかければ、これくらいのことは本気で確信できるようになるのだから、スゴイと言わざるをえないのだ。もはやここには、己の時計の正確さについて、最初にそれを認識しえた標準時などというものもないのだから、たとえ本末転倒であると非難されようとも、決してめげることのない独我論の楽園に到達しているのだ。
 そんなわけで、この楽園の食事風景は日常的な妄想的創造の現場なのだ。老父は、しばしばフランクフルトソーセージを食べながら、こんな言葉を繰り返している。
 「この辺のウインナーは東京のとは違っておいしい。東京にはこんなのは無いよ」
 私がいいかげんに返事をしていれば、いつまでもソーセージの品評会は終わらない。
 そこで「これと同じ物を東京でも食べていたじゃないですか。こんなメーカーものは全国どこへいったって同じですよ」
 「うんにゃあ、この方がずっと旨いよ。きっとこれは肉がええんじゃな」
 老父は私の反論にも拘わらず感動的に思い込んでいる始末なのだ。
 あるいはまた、プチトマトを食べながら、「これは何んというものなんじゃ」
 「プチトマトっていうんですよ」
 「ほうで、こんなんは、東京にはないね」
 「ありますよ。東京では、たまにしか食べなかったから忘れちゃったんでしょう」
 「うんにゃあ、東京には無いよ。こういうなんは、東京辺りでは作っとらんのじゃろう。ひょっとすると、取れないのかもしらんな。でも、ここじゃ、毎日食べられるんじゃから、この辺りじゃ、相当たくさん取れるんじゃな」
 「そんなことは無いでしょう。この辺りの名産が、プチトマトというわけじゃないんだから。まだこの時期には、ここのスーパーにはおじいちゃんの好きな熟れたトマトがないんですよ。だから比較的甘みのあるプチトマトを買ってくるだけのこと。だって、毎食トマトだけは欠かさないようにして欲しいと言ってたじゃないですか」
 ところが、やはり老父は、プチトマトはここだけのものであるという思い込みを取り下げる気配はなかった。しかし一度、東京へ帰って再び高原へと戻ってきたときに、今度はプチトマトを食べながら、すっかりプチトマト評論家に成り上がっていた。
 「このあいだは東京でもこれが出とったなあ。最近は、こんなんが売れるようになったんで、どこでも作るようになったんじゃなあ。こういうなんは、小さいからいっぺんにたくさん出来るんじゃろうなあ。それでどこでも食べられるようになったんじゃな」
 ここでは勝手な思い込みは持続されていたにも拘わらず、とりあえずはプチトマトの現状認識は獲得したというわけだから、これは奇跡に近い幸せな結末であったことになる。 こんな場合もある。老父が久し振りに豚肉のソテーをつつきながら、しみじみと感慨深げにつぶやいている。
 「最近は、すっかり豚肉が少なくなってしまったんだねえ…」
 とにかく私は、この唐突の断定に素直に驚いておけばいいのだ。
 そして「ええっ、そんなことはないでしょう?」と聞き返せば、驚きに値する短絡の構造がたちまち明らかになるのだ。
 「だって、そうじゃろう、この辺なんかでは、冬に飲食店の開いとるところがないんだから、残飯が出ないんで、豚を飼おうにも飼えないんじゃろうが」
 「確かに、この辺じゃ豚を飼っている農家はあまりないようですけどね、だからといってこの辺に豚肉が少ないとは言えませんよ。まして今時、豚を飼うのに残飯に頼っていたんじゃ商売にならないんじゃないのかな。だいいち養豚業者が残飯を買いあさるなんていう話は聞いたことがないけれど、ホテルなどの残飯を回収する業者が養豚業者に頼んで処置してもらうという話は聞いたことがありますよ。
 だからねえ、地元の養豚業と食肉の流通経路とは、そんなに一元的な関係にあるとは限らないんですよ。とにかくね、たまたま僕が豚肉を買ってこないだけですよ。いつも買っくる鳥肉に比べたらかなり高いですからね。それに、豚肉のほうが、当たり外れがあって不安定なんですよ」
 私が反論すれば、当然ながら老父は、意固地になって自らの正当性を主張しないわけにはいかないのだ。
 「うんにあ、豚は少なくなったはずじゃよ。わしの田舎なんかでも、あんな海っぺりなのに農業やっとるところでは、どこでも豚の2〜3匹は飼っとったもんなのに、いまじゃ豚なんか飼っとるところはないもんなあ…」
 「なんだあ、そんな小さな港町だけのことで、日本全国を語らないでくださいよ」
 私が短絡を指摘してやると、老父はすっかりトボケてしまう。
 「わしが子供のころは、よく近所の農家の豚が逃げて、町の中を走ってくるもんじゃから、よく追っ掛けていって遊んだもんじゃ。あいつは、ちょっとくらいいたずらしてやったって、噛むということがないから安心なんじゃ。鼻で押してくるだけじゃからな」
 ここまでトボケられてしまえば、私としては、はからずしもいま豚肉に不足がないということは、豚肉が残飯で飼われる豚の代わりに大手の養豚業者によって製造される商品になったという、目覚ましい農業の変革について討論したといいうる満足感を享受するしかないのだ。
 それにしても、この高原の気候に無知である老父は、雨上がりの新緑の輝きに目を見張り「奇麗じゃなあ、まるで透き通るようじゃなあ…」と感嘆の声を上げたり、都会では一日中部屋に篭りっきりでめったに落日など見ることのなかった老父が、高原の雑木林の中に鮮烈な炎となって沈んでいく様を見て「ほう…、あの夕日の奇麗なこと…。あんなすごいのは生まれてはじめてじゃ」と、90年の記憶を帳消しにしても惜し気のない表情で無邪気に感動しているのだ。
 そんなわけで、老父の言葉を注意深く聞いていると、何かに付けて「こんなんは初めてじゃ」「今までに食べたことはない」を繰り返しているのだから、老父にとっては、やはり記憶の欠落とそれによる情況判断の甘さが、何よりも感動的日々を保証する重要な要素になっているというわけなのだ。
 その意味から考えるならば、何行者たる私が生きるべき感動の日々とは、可能なかぎりの明晰な反省的知見に保証された感動でなければならないのだら、当然ながら老父の生きている感動的日々とは違うものであるはずなのだ。つまり、何行者として獲得すべき感動とは、明晰なる反省的知見を獲得することにより、その反省と明晰さの届かない領域を知ることで獲得されなければならないということになる。




     5.値段のついた食事


 老父は、現在のように記憶障害や精神障害をともなった顕著な<まだらボケ>症状になる以前にも、生来の性格破綻と発育不全による自愛的暴力者であったことに変わりはないのだが、それはまだ単に老人の<わがまま>といって済ませる程度のものであった。
 そしてその<わがまま>が顕著に現れるのは、いつも決まって食事に対する不満からなのだ。とにかく総入れ歯の老父にとっては堅いものはすべて<まずい>ものであるが、だからといって柔らかければすべて<旨い>というわけではないのは当然のことなのだ。それも高齢になるに従い味覚は鈍る一方であるが、自分の老化は認めたがらない老父のことだから、いままで<旨い>といっていた同じ物をだしても「どうしていつものおいしい方を買ってこんのじゃ」というわけで、老父の反応はその都度違うことになる。この反応の違いというのは、老父の場合、たいていは身体の好不調と機嫌によって決定されてしまうのだ。
 したがって、自分の抱える不愉快さをことごとく<おかず>の良し悪しに転嫁してはばからない老父は、もともと自分の稼ぎで家族を養うという世帯主としての責任を全うしたことのない人だから、かつては母の働きで家業を維持し、今は兄夫婦の働きで食わしてもらっているにも拘わらず、今度は<おかず>の良し悪しを世帯主としての待遇に摺り変えてはばからないのだ。
 「味も分からぬ子供にええところをやって、わしにまずいところをくれるというのは、どういう了見なんだ」
 目を吊り上げブルブルと手を震わして箸を投げたり皿をひっくり返したり、おまけにテーブルもひっくり返しかねないけんまくで逆上してしまうのだ。
 「おまえらは、生活費を切り詰めにゃいかんとか言うて、わしにはろくなものも食わせんくせに、わしに隠れてうまいものを食べとるんじゃろうが。わしは不愉快じゃから食わん!!」
 それが、われわれが子供のころには、老父も60そこそこの元気盛りだったのだから、単に発育不全の父親のヒステリーで片付けられたが、今となっては孫のおかずにまで文句を言って大騒ぎをするというのだから、このヒステリーにはボケによる情緒不安定までが加味されてしまったというわけで、事態は益々深刻になるばかりなのだ。
 そんなわけで、私がこの高原で老父の<わがまま退治>のためにしばしば繰り返して語ってきたことがある。
 「おじいちゃんね、いまは、旨い物を食べたいと思ったら、まずは金を出さなければ駄目なんですよ。自分の金も出さないで旨い物を出せって言ったって誰も相手にはしてくれませんよ。そのかわり金さえ出せば、いくらでも旨い物はありますよ。
 とは言うものの、僕の今のこの生活はね、ご覧の通りのこんな山の中ですから、そお、おいそれと旨い物があるはずもありません。言い換えるならば、僕は旨い物を食べるためにここにいるわけじゃないってことです。ですから、ここでは贅沢を言われても聞いてあげるわけにはいきません。
 まして僕の生活は、一切の生活費を切り詰めて無駄金を使わないことによって、金を稼ぐために費やす時間を削り、その分だけより多くの自分の仕事をする時間を確保しようというわけですから、生活費に関してはほとんど余裕というものがないということですね。そんなわけで誠に申し訳ないのですが、おじいちゃんには自分の食費だけでも負担してもらわなければやっていけないというわけです」
 ところが、すでに日常的な金銭感覚を喪失している老父のことだから、1房5〜6本のバナナが200円そこそこで買えるようになったということが、高いのか安いのかさえ分からない状態だから、老父にとっては高級品であったバナナが、老父にとっては日常のおかずにすぎないトロの刺身1人前に換算すれば、バナナ10〜15本分になるということとして説明しなければ理解されないのだ。だから改めて大根1本が高値のときには250円もしたということが鳥の胸肉80gにも相当し、その鳥肉は日常のおかずなら二人分になるということを知るのは大いなる驚きなのだ。
 「ほうで、わしは、野菜なんていうもんは、肉を買ったおつりで間に合うもんと思っとったが、肉よりも高いのか。わしは、子供のときから、野菜みたいなまずいものを食べておなか一杯になるんなら、肉を食べなきゃ損だと思っとったが、野菜もバカにならんのじゃなあ」
 そんなわけで、老父は嫌いな野菜の立身出世に肉の凋落ぶりを思い知らされて、何はともあれ食事の価値観を動転させられたのだ。
 それからしばらくは、食事のたびに原価計算が繰り返され、とりあえずの標準的な夕食はおかゆ1食分が約40円、みそ汁1杯が15〜20円、鳥のソテーにパイナップルのソースが掛かって1人前約200円、トマトとレタスのサラダ少々が15〜20円、みじん切りにしたたか菜のお新香が約5円、その他煮豆やでんぶなどが15〜20円というわけで、平均的な食事1日分は約 600円ということになるが、それにおやつとしてモモ1個120円、コーヒー1杯約15円が加われば締めて約735円になり、1日約700円の予算に対してはまあまあの成績であると説明することになる。そしてさらに、ここには買い出しに行ったり、調理をしたり、後始末をするという手間代がはいっていないことを強調して、とりあえずは調理士である私のサービスぶりを理解してもらうわけなのだ。
 まあ、これが功を奏したのか、この高原における私との共生においては、食事のことについて直接文句を言うことがめっきり少なくなった。しかし、老父がボケの真っ只中で食べたいものもろくに食べさせてもらえなかったと思い込んでしまえば、「わしが、いままでどれほど虐待されてきたかなんていうことは、こんな山の中にひとりでいるおまえなんかには、分かるはずがないんだ」と無情な子供たちに惨い仕打ちを受けている哀れな老人を演じることになる。
 「そもそも子供というものは、自分が食べなくったって、親に譲ってくれて当たり前なんだよ。それを、おまえたちは…」
 現に老父は、ずうっとそうして貰っていたにもかかわらず、そんなことが平気で言えるわけだから、当然、私との共生においても食事への不平不満がないわけではないのだ。もっともこの脅威のご託宣には、私も呆れ返っているばかりではらちが明かない。
 「おじいちゃん、一般常識では、それは逆ですよ。親というものは子供の成長のためになら、たとえ自分が食べられなくっても我慢するのが当然だというわけです。これは野性の動物にまで言えることなんだから、とりあえずは、こっちの方が正論です。そんなこと言ったら笑われますよ」
 たとえこの程度のことを、どんなにバカバカしいと思っても、しっかりと反論しておかなければならないのだ。なぜなら、この老父の発想は、あの『水戸黄門』という老人のおとぎ話に出てくる貧しい孝行娘が、病の老父をいたわるときの名台詞で「おとっつあん、あたしのことは心配しなくてもいいのよ。おとっつあんこそ、これを食べて早く元気になってもらわなくちゃならないんですもの…」と言うところのお涙頂戴の場面に感激して、それを常態と見なしてしまう手前勝手な本末転倒にすぎないからなのだ。
 まして老父のご託宣のごとき手前勝手な親孝行が世間の常識であるならば、疎外されて欝々とした老人たちが、はかない夢を抱きつつ溜飲の下がる思いで『水戸黄門』にかじりついていることが、まったく理解できなくなってしまうではないか。言い換えるならば、時の流れにも疎外されてしまう老人の求める親孝行が、永劫の欲求不満でるからこそ『水戸黄門』的なお涙頂戴が成り立つというわけなのだ。
 それにも拘わらず老父の場合は、相性は悪いがそれでも散々わがままを聞いて貰った兄がいたのだから、いまさら不愉快の塊になってご託宣を垂れるまでもなかったのだ。
 「おじいちゃんには、いまさら食べ物のことで、とやかく言われたくないから、ママも気を使って、何んでもみんなが食べるものよりは良いものを出してあげているんだけれどねえ、それが分からないんだねえ」
 兄を嘆かせてはばからない老父は、すでに多くの老人たちが求めてやまぬ孝行息子に恵まれていたのだから、それには目もくれぬ老父の貧りの体質とは、やはり欲ぼけた無明無知なる自愛的暴力者として、いつものように<おんぶにだっこにかたぐるま>を要求していたにすぎないのだ。
 そこで、老父がしばしば語っているところの甘えの構造を、老父の口調によって辿ってみると次のようになる。
 「あんたらが、今さら何を言おうと、わしは常に誰かに<おんぶ>されてなきゃならないんだから、あんたらが理屈を言って、わしを批判すること自体が間違ってるんだよ。そうだろう、考えてみるまでもない。わしがあんたらの父親である以上、わしはあんたらに<おんぶ>されることによってしか<父親らしい父親>になることができないんだから、あんたらは子供として、わしを<おんぶ>したら<だっこ>ぐらいしてくれて当たり前なんだよ。だから、誰に聞いたってそう言うじゃろうが、そもそも<親子らしい親子>というものは、結局は親を<かたぐるま>してくれたって当たり前なんだよ」
 そんなわけで、老父がしばしば不平不満をタラタラと述べたあとに、必ずと言っていいほどその締めくくりとして持ち出す悍しき常套句がある。
 「とにかく、あんたらには、親をいたわり優しい言葉をかけてくれるという気持ちが欠けているんだよ。しかし、なんだ、わしは本当に不幸な父親だったよ。まあ、今さらそんな愚痴を言ったってしょうがない、あとは何年生きられるか知らないけれど、これからは、あんたらに世話にならなきゃならないんだから、こころを合わせて<親子らしい親子>でいたいと思うよ」
 これを老父の発想法である三段論法の<親子らしい親子>で解釈するならば、結局は、これからも以前にも増して<おんぶ>に<だっこ>に<かたぐるま>を要求しつづけるつもりだから、もしもそれが出来ないというのであれば、それに代わる多少の無理難題や愚痴の一つや二つは因果と諦めて、文句を言わずにわしの面倒を見る覚悟ぐらいはしておけよという宣言に他ならないのだ。




      6.茶碗


 「ここのうちの茶碗は、小さいんだねえ。女の茶碗だな、これは…」
 老父が、初めのうちはどれほどの下心も感じさせない気配でさらりと言っていた。そのうちに大きなお世話としか言いようがないようなことを言い出した。
 「こんな小さな茶碗で食事をしていたら、お客さんでも来たときには、いやあな気持ちにさせるんだろうになあ…。まるでケチをしているように思われちゃうだろうに」
 そうかと思うと今度は「ここじゃあ、おかずが多くてご飯が食べられない」とも言い始めたが、私は「おかずが少ないよりはいいでしょう」と取り合わなかった。
 私は食事のたびに、老父が残さずに済む適量と見定めた小さな茶碗に山盛り2杯分のおかゆを用意しつづけていたが、それでもこんな台詞が食欲旺盛な老父の常套句になって食事のたびに繰り返されるようになった。しかし、私は、どうせ老父の世迷言と思っていたからたいして気にも留めなかった。
 「うちに食事をしにくるお客さんなんて、めったにありませんよ。それにね、僕のところへきて茶碗が小さいからといって文句を言うヒトはいません。1杯でたりなきゃ2杯、2杯でたりなきゃ3杯食べればいいじゃないですか」と言い放した。
 すると、老父が苦虫を噛み締めた顔で言葉に詰まっている様子なのだ。つまりは「居候の身では3杯もお代わりが出来るはずがない」とでも言いたげなのだ。普段は食事のたびに「旨い」「まずい」と口うるさくヒトの好意も善意も平気で踏みにじる老父が、はっきりとおかゆのお代わりも言えないような小心で逡巡する様がなんとも滑稽だったから、私はこの時とばかり憎々しげに言った。
 「何んですか? もっとおかゆが食べたいのなら、はっきりと言えばいいじゃないですか。そんな遠回しな言い方しなくたって…。あしたからおなかいっぱい食べられるだけのおかゆを作ってあげますよ」
 それからは少し小さめのドンブリでたっぷりと2杯分のおかゆを一日三回食べることになったが、その結果は、あまり米を食べない私が1年がかりで食べる20kgを、2ケ月足らずで食べ尽くす勢いなのだ。そのくせ「あんたは、なにかにと作ってくれるけれど、あんまり、わしに食べささんようにしてくれな」という始末なのだ。
 相変わらず自分の欲望管理も他人任せの無責任さに、いつもいつもうんざりしてきた私は、狙いすました一発を身長157〜8cmで65〜6kgは十分にあるはずの老父のボテ腹にくらわしてやった。
 「あのね、おじいちゃんね、いまサラリーマンなんかはね、自分の欲望を満足に管理できないような者はクズとされているんですよ。つまり一番動物的な欲望である食欲を管理できないデブは、いま心の貧困を語る象徴とされているんですよ。だから、そういう者は重役にもなれないってわけですね」
 しかし、「ヒィヒッヒヒ…」と首をすくめて笑っている老父は、相変わらず澄ました顔で言う。
 「それでもなんじゃなあ、わしは、ヒトが食べているものを横取りしてでも食べたくらいで、意地が汚いと言われるほど何んでもかんでも食べたもんじゃが、こう歳をとると食べられなくなるねえ…」
 「とんでもない、相変わらず何んでも食べたがるじゃないですか。現におじいちゃんの食欲は、働き盛りのヒトにも引けを取りませんよ」
 私もとりあえずの締め括りだけはつけておいた。しかし、所詮は自分に都合の悪いことはことごとく忘れてしまうマダラ惚けは、まったく動じないのだ。
 「なあ、わしなんかは、これで好き嫌いのない方じゃろう?」
 これくらいのことは平気で言ってのける。呆れた顔で「エエッ!」と老父の顔を覗き込んでやると、多少はしおらしく反省的なポーズをみせるが、それも所詮はポーズだけだから、さらに食い下がってくる。
 「まあ、確かに旨い、まずい、は言うけれど、なんでも食べるじゃろ?」
 「何言ってんの、野菜はトマトと大根、それにレタスの葉っぱを1枚、それだけを除いたらあとはほとんど食べないじゃないか」
 「そうじゃったかなあ…」
 ほとんど惚けた顔で他人事のようにやり過ごしてしまう。
 ところで、老父が自分に都合の悪いことをことごとく忘れてしまうにしても、これがボケ症状であればあながち故意の企みと決め付けるわけにもいかないのだから、それを老人特有の自己認識の甘さと言い換えるならば、それは老父の引きずる<無反省性>について語ることになる。この反省性の欠如によって、ごく日常的な生活の場面における老父の羞恥心の欠如について語るならば、何はともあれあからさまな幼児性への退行についても説明がつくというものなのだ。そんな老父の幼児性への退行が顕著に現れている話に、老父が好物としているお新香の話がある。
 老父が毎食欠かさずに食べるお新香とは、1パック\158のたか菜のお新香であるが、同じ物がこの高原では入手できないために、5個、10個とおりあるごとに東京から送ってもらっている。このたか菜ときゅうりの古漬は、総入れ歯で口の中がガタガタの老人に容易に噛み切れるたぐいのものではないので、その本来の姿が判別できないほどに細かくみじん切りにしなければならない。ところが、このお新香はこのまま食べられることはなく、たいていはレタスを千切りにしたものを漬け込んで食べるのだ。
 「この葉っぱは何んと言うたかな、おお、そうじゃレタス、レタス言うたな。ようやく最近になってこの名前が覚えられたんじゃ。そのレタスをここに入れて食べると、本当においしいんじゃ。これはねえ、いくら置いといても悪くならないんだから、不思議だねえ。よっぽど良く漬かっとるんじゃろうな。こうやって、おかずの残り物なんかも入れておくけれど、全然悪くなることがないんだよ」
 お新香の出来不出来に拘わらず問答無用に添加されている防腐剤を、そんなものが入っているとは知らぬ老父は、ただ単に良く出来ていると過信して、レタスの水が出たお新香に残り物のマヨネーズやドレッシングなんかを混ぜることになり、揚げ句にさんざん嘗め回した箸でつつき回してしまうから、結局は何日もしないうちに腐らせて捨てることになってしまう。それでも、悪くならないという信仰を取り下げるつもりのない老父は、「やはり、これも新しいうちのほうが、おいしいみたいじゃな」などと言いながら、いつの間にか腐敗臭に変わってしまった漬け物をそっと捨てている。そして、そんなささやかなる屈辱感を払拭するかのように言う。
 「こうやって、レタスを入れて食べるという方法は、東京でも、こんなにおいしいとは誰も知らないらしいんだね。だから、誰かヒトに教えてやってみんなが食べるようにでもなったら、このお新香も誰かに買い占められたり、値を吊り上げられたりしかねないからな、そうなったら大変だから、わしは誰にも教えないんじゃ、ヒッヒヒ。わしはアッちゃんにも、誰にも教えちゃいかんよと、よく言って聞かせてあるんじゃ。あんたも、人に言うたらいかんよ。真似されるからな」
 いかにも得意そうに子供じみた秘め事に無上の喜びを見いだしている始末なのだ。
 こんな老父のあからさまな幼児性への退行を、私が呆れた顔で見ていても、老父は一向に気にする気配もないのだから、ここには羞恥心のかけらもないということになる。その意味においてこの無邪気さとは、とりあえず老父の<無反省性>を表しているというわけなのだ。




     7.ヨーグルトコーヒー


 東京の家で昼食の時に、<おかゆ>に牛乳をかけイチゴジャムをのせて食べていた老父が、この高原へ来てからはオレンジジュースの入った甘いヨーグルトを<おかゆ>にかけて食べた。まあ、そんなこともあるサ、と思っていると、残りのオレンジヨーグルトをコーヒーの中に入れた。さすがに「旨い」とは言わなかったが、みんな飲み干した。たぶん歓迎される味とは思えないから、もうこんなことはしないだろうと思っていたが、翌日も同じことをしていた。
 しかし今日の昼食には、いささか<おかゆ>はそのままで2杯食べ、その後にコーヒーを飲み干して、食事の後片付けが終わるまでにはオレンジヨーグルトもそのまま飲み干していた。つまり、それぞれを別々に食べていたわけである。
 それから、いつものように何をするでもなくテレビをつけたり消したりしているうちに食後の午睡に入ってしまったが、しばらくして目覚めると同時に再びテレビのスウッチをいれて、今度は目まぐるしくチャンネルを回し続けた。
 「何か、わしが見るようなテレビはやっていないのかなあ…」
 ようやく『水戸黄門』を見付け、いつものようにヘッドホーンをかけて見ていた。その間に、おやつとして大きめのバナナ1本と、クッキーを5〜6個、甘い小さなせんべいを2枚、そしてコーヒーを飲んだ。
 老父は『水戸黄門』が終わってヘッドホーンをはずした後に、たいして見る気もないままにテレビをガンガン鳴らしていたが、いつのまにかどこかへと席をたったので、仕事をしていた私はうるさいテレビを消してFMの音楽に切り替えた。さて、しばらくして老父が部屋へ戻ったときに、テレビが消されていることが、口には出さなかったが不機嫌の要因であったのだ。
 ところでこの山小屋は面積が10坪しかないから、風呂場とトイレと台所兼食堂の他は10畳の部屋が一つというわけで、私一人の隠遁生活には充分過ぎるスペースではあるけれど、老父との共生となると、かさ張るものだけでもセミダブルベッドと大きな仕事机、長椅子と整理タンス二つ、本棚二つに飾り棚というわけだから、そこにコタツを広げる事にでもなれば、やはり手狭になってしまうのだ。そして老父との共生におけるトラブルは、死ぬという目的さえも失いかけて生き延びている90歳と、今の生き方にこだわり続ける40歳という世代の違いがあれば、当然ながらスペースの問題のみに止どまるはずはないのだ。
 いずれにしても、われわれの様々な軋轢の象徴としてあるのがテレビというわけで、耳の遠い老父と静寂に慣れた私との間には、音量が大きくても小さくてもそれぞれが暴力的意味を持って拘わってくるのだ。そんなわけで、私が6時のニュースを見ようと思ってテレビをつけた時に、15〜6分ほど黙って見ていた老父が、突然に奇声を上げた。
 「こんな小さい音じゃ聞こえない!! わしは、今まで何も言わなかったが、あんたはこれまでに、わしの見ているテレビの音を黙って二度も小さくした。そして、今度で三度目じゃ。ま、あんたも仕事しとってうるさいんじゃろうが、わしだって、テレビぐらい見たいよ。ま、あんたも迷惑じゃろうから、わしは自分のテレビを買って、こっちの部屋にでも置くかな…。テレビがうるさくちゃ、あんたも仕事の邪魔なんだろうから、後になって、わしが居て迷惑だなんて言われたんじゃいやだからな。やっぱりテレビを買おう。1万円くらい出せば買えるだろう。ここが狭ければ、そうじゃな、そっちの部屋にでも置けばいいんじゃからな」
 「なにも、テレビなんか買わなくたって、音を大きくして見たらいいじゃないですか。聞こえなかったら、ヒステリー起こすまで黙ってないで、言ってくださいよ。いくらでも大きくしますよ。こんな小さな家にテレビ2台はいらないでしょう」
 私の癇にさわる言い方に不愉快を募らせていた老父は、それからしばらくの間は欝積した愚痴をネチネチ言っていた。
 「もう、わしは先がないんじゃから、好きなテレビぐらい、自由に見たいよ。テレビも見られないんなら、東京へ帰るかなあ。東京の家なら、わしの家じゃからな、わしの好きなように出来るからな」
 こんなことをとめどなく繰り返していた。いつもの愚痴に付き合い切れないと思った私は夕食の支度に取り掛かった。
 それにしても今日の不機嫌に至る経過を思い返してみたが、それはまだ5月も初旬だというのに気温が25〜6℃もあった4〜5日前に、老父が来て以来、以前として終日焚かれているストーブの熱さに閉口した私が、寝苦しくて目を覚ましたときに始まったといえる。どうやら身体が熱くなりすぎて、鼻が詰まり喉が乾き頭が何倍かに腫れ上がったような感じだった。
 「ああ、暑いなあ。これじゃ暑すぎるから、ストーブ消してもいいですか?」
 「ああ、わしには関係ない。勝手にしてくれ!!」
 老父は、唐突にそう言い捨てて散歩に出掛けてしまった。老父がどういうつもりで、こんな言い方をしたのか分からないが、−15〜20℃の冬にこのストーブひとつで過ごしてきた私にしてみれば、灼熱地獄を我慢して5月になってまで灯油を買ってあげたことの善意は、いとも簡単に踏みにじられてしまったのだ。そんなわけで、翌日には少し気温が下がっていたけれど、ストーブが燃やされることはなかったのだから、老父にとってはかなり肌寒い一日であったはずなのに、それでも老父は負け惜しみを言っていた。
 「今日はストーブがなくても寒くないなあ」
 ところが夕食が終わって間もなく、まだ8時半だというのに寝間着に着替え始めた。
 「今朝は早く起きてしまったもんじゃから、なんだか眠たい」
 老父はそそくさと電気毛布のベッドに潜り込んでしまった。この日はいつもより遅く起きたのみならず、ほとんどまる一日ガウンにくるまってうたた寝をしていたのだから、寝付けるまでにはかなり長時間の寝たふりという努力を必要としたはずなのだ。
 もっともその翌日には、しきりと「からだの調子が悪いのか、寒いな…」を繰り返していたので、再びストーブは終日燃えつづけることになったけれど、このことが、老父の勝手な思い込みや聞き違いによる混乱とは別に、われわれの日々の生活における言葉の存在意義を希薄にさせるきっかけになったことは事実なのだ。
 もともと口から出まかせの多い老父も、それを母がなんとか引き受けてくれていたうちはいいけれど、ここで私を相手にして何かを言うことになれば、老父が老父らしく得意になって何かを言えば言うほど自分の立場を空しくしてしまうというわけで、そんな情況が、私にとっては老父の言葉を聞き流すことによってしか老父の欲望を見定めることが出来ないことになり、互いの不信感を募るばかりであったのだから、このことが老父の様々な思い込みに影響を与えないはずはないのだ。
 さて夕食のときになり、老父はほんの一口飲み残したコーヒーを持ち出して、慎重に味を確かめるように少し嘗めた。
 「コーヒーというのは、悪くならないもんなんだねえ」
 そして、そのミルクと砂糖の入ったコーヒーを<おかゆ>にかけた。
 「悪くならないって、言ったって、そのコーヒーはさっき入れてあげたばかりですよ」
 「うんにァ、これは昨日から残っているヨーグルトの入ったやつじゃ」
 「そんなこと言ったって、今さっき、コーヒーを入れてあげた僕が言うんだから、間違いっこないでしょう?」
 「うんにゃあ、これを飲んだわしが、ヨーグルトの味がしていると言っているんだ。どうしてあんたに、このコーヒーの味が分かるんだ!!」
 当然ながら、老父のこの言葉の影には「わしは、ボケちゃいない。人をバカにしたようなことは言わんでくれ!!」という意固地な念いが隠されているのだ。
 その後も、東京の家の4階の倉庫を改造してテレビを見るとか言っていたが、「とにかく東京へ帰って、ハルヨシと相談してみにゃ」と言いつつ食事を終わった。そして大音量で鳴っていたプロ野球の中継も終わった。
 「あんた、もっと小さくしてもええよ」
 老父は私の方を振り向いて、かなり当てつけがましく言った。
 「いや、いいんですよ。今まで通り好きなようにやって下さい。そうやって90年も生きてきたんだから。そのままでいいですよ」
 私はほとんど取り合わなかったので、老父は自分でボリュームを下げた。
 それからいくらもたたないうちに「どうも、からだの具合が悪いから、もう寝よう」とトイレへとたった。ちょっと気になったので様子を聞いてみれば、トイレで「ゲポッ!!」と、一口分の色の着いていない水を戻したということだったから、たぶんそれは食後の薬を飲んだときの水らしいのだ。ところが、不愉快そうな老父は、どうやら違うことを考えていたらしい。
 「やっぱり、コーヒーにいれたヨーグルトが悪かったんじゃな」
 そんな老父の解説はともあれ、夕食後に戻すということは、ここへ来てすでに2〜3度目のことであるが、その原因は、いずれも食べすぎと<わがまま>が通らなかった時などのストレスによる消化不良と思われた。しかし、そんなことを考える老父じゃないのだから、この老父の思い込みは並大抵のことで変更される代物ではないといえる。
 「このあいだもヨーグルトの入ったコーヒーが悪かったんじゃ。あれを飲んだ後で、やはり調子が悪かったからな。どうも、寝る前には、いかんのじゃな」
 ところが、老父が繰り返す言葉とは裏腹に、かつて夕食のときにも夕食後にも老父がヨーグルトの入ったコーヒーを飲んだことは一度もないのだから、老父が寝る前に食べたものを吐くということとヨーグルトコーヒーとは、直接の関係があるとは思えない。やはり欲求不満を解消しようとする食べすぎが原因だとみるべきなのだ。
 結局のところ、甘い物の好きな老父にとっては、甘いヨーグルトを出されるから食べるものの、まだ「旨い」と言うべきか「まずい」と言うべきか判断をしかねている状態であったはずだから、それは、敵なのか味方なのか分からない気の許せぬ者としての私と同じようなものだったのだ。
 そう考えてみるならば、いま食後の正体不明の不快感を払拭できぬ老父にとっては、そのすべての原因は正体不明のヨーグルトコーヒーでなければならないというわけで、同様に老父にとっての現在の不都合は、ことごとく正体不明者である私の陰謀であると思わなければ納得がいかぬということなのかもしれない。しかし、まだ借りてきた猫同然の老父のことだから、私を非難する余裕などあろうはずもないというわけで、ほとんど無意識のうちにヨーグルトコーヒーを悍しきものとして排斥することになったのではないか? 
 ま、こんなわけで、老父に対するヨーグルトコーヒーの正体を、とりあえずの口当たりはいいけれど、どうやら消化不良の原因にしかならない何ものかと見定めておけば、そんなヨーグルトコーヒーを飲んでみようとは思わない私は、老父に対する自分の正体不明性を抱えたままで、さらに語り続けることになる。
 無論、私と語り合うことによって引き起こされる老父の消化不良こそが、私が老父を引き込んで反省的に<いま>を生きようとする物語の修羅場なのだ。




     8.緊急避難


 老父の昼食、つまりは私の第一食が済み、いつものように私が新聞を取りに行くときには、すでにテレビは大音量で鳴っている。私が30〜40分たって戻ってくるころには、たいていうたた寝をしているが、そこでテレビを消したり音量を下げればすぐに目覚める。そんなわけで、老父とこの高原へ戻ってきて以来、夏になるまではコーヒーを入れてから、新聞と本を持ち隣のアキちゃんの山荘へとしばしの緊急避難に出掛けた。
 それも時には私の消息を知られぬように、あるいは此見よがしに大音響にいたたまれないという苦痛をあらわにして、時には、大いなる嫌みを込めて退散してみせるのだ。
 「さあ、僕は向こうに行ってますから、思う存分の大音量でお楽しみください!!」
 「ああ、ほうで…」
 老父の屈託のない返事を引き受けて、老父の老人ゆえのささやかなるわがままに見合った私の腹立たしさを掘り起こし、それに見合った自己嫌悪を抱えて行くのだ。
 そんな時には、私が避難先の山荘の半分開けたカーテンの影から、そっと老父の様子を覗いてみると、やはり老父の方でも長椅子の背から剥げ頭を覗かせてこちらの様子を伺っている。好い歳をした親子が向かい合った家に隠れて、かくれんぼなどしていてもしょうがないけれど、そんなことを何回か繰り返していれば、テレビの大音量の中でうたた寝から覚めて私の不在に気付いた老父は、どうやら「アキちゃんの山荘に行っとるんじゃな」と思い、ひとり捨てられてしまったわけじゃないと安心することが出来るのだ。
 もともと無精者で横着者の老父のことだから、景色よし空気よしの高原に来たにも拘わらず、散歩に行くのも難儀でじっとしていたい様子であるが、たまたまテレビに飽きて所在無い風情の老父が、何やら顔をしかめながら妄想の中に埋没してしまいそうな時には、あまり気の進まない私も声をかけないわけにはいかないのだ。
 「おじいちゃん、一日中家の中にばかり居ないで、ちょっとは散歩でもしてきたらどうですか。気分転換にもなって、いいですよ」
 ところが老父にとっては、私の言葉によって掘り起こされてしまった自分のそんな腑甲斐無さを、私の目の前に放置しておくわけにはいかないのだから、なんとか得意の言い繕いで逃げ切らなければならないのだ。
 「ふむ、そうなんじゃが、どうしても、歩くと悪いんじゃなあ。すぐに足が腫れてくるもんなあ。この辺りがな…。ま、この足がすっかり治るまで散歩は止めておこう」
 老父が言うところの足の腫れとは、別に痛いわけでもかゆいわけでもなく、すでに30年以上の付き合いである水の溜まったコブのようなものだから、今さら散歩を取りやめる理由にするほどのものではないのだ。
 そんなわけで老父は、私が子供のころから生理的に老父を好きになれなかった要因の、吐き気を催すほどの生臭い脂性の体臭をムンムンさせて、ベッタリと長椅子にへばり付いているというわけで、私の方も10年間に及ぶ隠遁生活においては、座敷牢に幽閉されてもほとんど気にならないほどに積極的に狭い空間に棲息してきたというわけだから、不幸にも老父と私は一日中顔を突き合わせることになってしまったのだ。
 したがって、テレビの大音量と共に私が老父の体臭を嫌ったとしても、すでにこの山小屋は次々と送り込まれる老父の衣類が増えるたびに、あるいは散歩に出た犬のマーキングのように、老父の生活圏が確保されればされるほど私の周りが老父の体臭に塗り替えられてしまうというわけで、こればかりはただ嫌っただけで解消できるものではないのだから、やはり諦めと慣れによって無意識化するしかないのだ。
 ところで、私の場合は青年期に自分の体臭を感じるということはあまりなかったが、現在に至る隠遁生活に入って以来の10年間は、体質が改善されたと言うべきかそろそろ脂の浮いてくる年頃になったと言うべきか、いずれにしても若年からの虚弱体質が克服されて、老父から引き継いでいるはずの体臭が、減衰されてはいるものの確かに感じられるようになったのだから、それを老父的な体質を反省的に引き受ける者として言うならば、正に自己嫌悪に値すべき物証として、私自身が己を制御しえぬ無明無知な自愛的暴力者であることを明らかにしていることになる。
 それにしても、<私たりうる私>のためにはどうしても捨てられないと思い込んでいたものを、ひとつひとつ捨てて辿りついた<何論>においては、その端初とも言うべきものが結局は老父との邂逅であるのだから、<私たりえぬ私>に目覚めるための隠遁生活によって辿りつく果ては、なおさら克服しがたきものとして立ち現れる老父的な自愛的暴力ということになるのだ。その意味においても、現在に至る何的隠遁生活を支えるとめどない反省的視座は、老父の中に何を発見することが出来るかということとして確保されなければならないのだ。
 そこで、いま老父の体臭にまみれつつ己の中にそれを感じているこの情況こそが、自ら選んで積極的に引き受けざるを得なかったものと覚悟すれば、私の自己否定のために不可欠の反照的自己愛が、老父に対峙することによって、90年前まで遡ることが可能な過去性の他者の中に、あるいは己の醜態の可能性である50年後という終局的な未来性の他者の中に、はっきりと見定め糾弾しうる視座を保証されたことになるのだ。
 それにしても老父との共生によって、とめどもなく見せ付けられる発育不全の自己愛にうんざりしつづける日々は、思わず反省の浄化力を衰退させて自己嫌悪にばかり陥ってしまうことさえあるのだ。そんなときこその緊急避難でもあるが、それもこんな緊急避難で結局は「あの老父にしてこの何行者あり」と言いうる開き直りへと到達し、とりあえずの解決がつく程度のことだから、今さら老父を恨んだり呪っても仕方のないごく日常的な軋轢にすぎないというわけなのだ。
 そもそも私の目指す何的因縁解脱とは、「せめて無意識の自愛的欲望として引き受けるものを最小に留どめつつ、同時に最大の努力でそれを掘り起こして浄化しつづけること」であるのだから、老父から私へと脈々と流れる自愛的欲望の不成就性の抑圧は実害のない形で引き受け無力化することこそが望まれるのだ。
 しかし、いま私の目指す<何的解脱>が老父との共生により日々の足掛かりを確保しているとは言っても、私が自己嫌悪するに至る様々の要因を老父との親子関係という因縁によって共有しているものと考えるならば、そんな因縁への反省的自覚をことごとく喪失している老父に、はたしていかなる解脱が可能であるのか? そもそも解脱とは、<何論>に限らずとめどない反省の所産であるのだから、その反省性を喪失してしまったものにいかなる解脱が可能なのかと問うことになる。
 つまり、ここにいう私の解脱とは、すでにボケゆえに自己崩壊の危機に立たされている老父によって、老父ゆえの私の私たりうる自愛的根拠を掘り起こそうというのだから、いま驚くほどの勢いで自己喪失の真っ只中にいる老父を抱え込んで、はたしてわれわれの共生にいかなる自利利他を実現しうるのかと問うことでもあるのだ。
 それは同時に「何って何!?」と問いつつ、そのように問うことがその回答にすぎないという<何かをしつつ何もしないこと>の非暴力性を求める私に、何もしないで生きていながら自愛的暴力者として何かをしてしまう悍しさ哀しさに取り付かれた老父には、いかなる平安を用意しうるのかと問うことでもあるのだ。
 だから私にとって、この老父との共生がもしも苦悩だけであったならば、私は己のために「なんだなんだ、それじゃ因縁解脱の行も、<何にもならなかった>わけだ?」とつぶやかなければならないのだから、そんな屈辱的に<何にもならなかった>ことの無力性をも<何>そのものとして提示しうるとめどもない何的反省によって、とりあえずの快的遊感覚を確保しておかなければならないのだ。
 それもヒトに言わせれば、何的隠遁生活など、どうせ遊びにすぎないと見なされてしまう程度のことだから、私は大いに気軽な遊びに徹することで老父のボケを楽しみながら、毎晩老父について語るこの物語をワープロで打ちつづけるという何的快感を獲得していることになる。
 だからたとえ「あんたは、そうやって毎日、何を書いとるんじゃ?」
 夜中にトイレのために目覚めた老父に唐突に聞かれても、今さらうろたえることはないのだ。
 「うん、以前からやっているライフワークの続きですよ」
 ところが、そんな当たり障りのないところで納得させられないとすれば、ここは一つ腹をくくり「私のライフワークとは何ぞや」へと問題を横滑りさせて、茫然自失の老父をさらに困惑の迷宮へと誘うことになる。そうすれば、どうせ何か言わずにはいられない老父のことだから、また老父が妄想的創造力で面白いことを言い出すのを期待できるというわけで、それを再び書き留めようという底意地の悪いおかしさに、自ら悪びれることなく書きつづければいいのだ。そうすれば老父も、とりあえずは感心して言う。
 「何んだかよく分からんが、それも大変な仕事じゃなあ。ま、それが金になればええんじゃがなあ…」
 結局、老父は、そんな私の仕事が無駄骨にすぎないことを認めてくれたことになるが、その時には、老父自身がそんな無意味な仕事として語られているとは知らずに、得意になればなるほど自らの言動をことごとく無意味性へと葬り去ることになるのだから、何もしないのについ暴力的な何かをしてしまう老父も、ここでは図らずもわれわれの共生に快的遊感覚性を保証してくれることになるのだ。
 つまり、私の緊急避難とは、攻撃的に撤退するという反省的視座の獲得なのだから、常に「はたして私は、老父を救済しうのか?」と問いつづけるところへと回帰しなければならないのだ。




     9.テレビ


 「わしはもう、先がないんだから、好きなテレビぐらい自由に見たいよ」
 これが、とりあえず老父がテレビを見ている自分を正当化するときの常套句になっている。したがってこの常套句で武装しているあいだは、たまたま掛かってきた電話で私が話し始めれば、10畳一間で顔を突き合わしていては、その声がうるさくてテレビが聞こえないとばかり、一気にボリュームを上げてはばからない。
 あるいは、私が老父に背を向けて日々の勤行をしていれば、いつのまにか私の存在を忘れ一人でいることの心細さに取り付かれてしまうことがあるらしく、いたたまれぬ思いを払拭するかのように唐突に大音量でテレビが鳴り始まる。ところがそんなときも、たいていは大音量にドップリと浸かってうたた寝をしているか、何やら悍しい顔をして無心に鏡を覗いているといった具合で、ほとんどまともにテレビを見ていることはない。そんなときに、勤行を終えた私が振り向いて立ち上がれば、老父は突然の人の気配に私が驚くほどにうろたえて大声を上げる。
 「アワワッ、あんた、そこにおったのか!! わっ、わしゃ、すっかり一人でおるつもりしとった!!」
 もっとも、東京の自宅ではしばしば母を目の前にして「アリャリャ、おかあちゃんはどこ行ったのかな?」と、急にうろたえてオフクロを捜すことがあるということだからこの程度のことで驚いてはいられないのかもしれない。
 ところで、退屈している老父が仕事をしている私を横目で見ながら、テレビにスウィッチを入れるために使う口実にこんなのがある。
 「なんか男らしいテレビはやってないかなあ」
 どういうわけかこの台詞を言い出すときに限って女子のプロレスを見ることになる。
 「なんだ、女子プロじゃないですか、これが男らしいってわけか」
 私がかなり嫌みったらしく言っても、それは聞こえぬふりでかわしてしまう。
 「女子でも鍛えれば強くなるもんじゃなあ」
 何か気まずいものを払拭するかのような熱の入れかたでひとり感心してみせる。どうやら<男らしいテレビ>を問いただせば「どこかでプロレスはやってないかなあ」ということであるらしい。
 それにしてもこれは、女子プロを見たい老父に何か気恥ずかしい思いがあって、これを隠すために言い出したとりあえずの予防線にすぎないのかも知れない。そう考えてみると、しばしばチャンネルをせわしなく回しながら言っていることも理解できるのだ。
 「最近は、子供の見るようなものはかやってない。わしらの見るものがみんな無くなってしまったなあ」
 こんなことを言っているときに限り、結局はマンガを見ていたり、子供向けの空想変身ドラマなんかを見ているのだから、やはりこの摩訶不思議も女子プロのときと同じ言い繕いになっているのかも知れない。つまりそれは、テレビにかじりついている老父に冷たい眼差しを送る私を意識しつつ、それでもテレビから離れられない自分へのせめてもの言い分けにしているのだろうから、多分腹の中では「子供の見るようなものはかやってないが、まあわしは、文句も言わずにこんな詰まらんものでも見ていなきゃ、ここの生活は退屈でいたたまれないんじゃ」なんて言っているようにさえ感じさせる。
 ところで、男と同様に頭脳の明晰さで自立していたり、仕事をバリバリこなせる女性に卑屈なまでのコンプレックスを抱いているらしい老父は、とくにテレビニュースの女性キャスターや女性アナウンサーに嫌悪に近い不快感を示すことがある。先日はニュースを見ているんだと思っていたら、突然画面を指して嘲弄的な顔でこんなことを言い出した。
 「ほれ、あんた見てごらん。この女は気違いなんじゃ。こいつは毎日毎日着るものを変えてくるんじゃ。ほれ、ええ歳をして、今日はこんな真っ赤なのを着ておるんじゃ。とうとう気が振れてしまったんだなあ、かわいそうに、ヒヒヒ」
 しかも老父にとっては、この発見がよほど抑圧されたコンプレックスを癒して余りある喜びであったのか、醜いほどの優越感に浸っている様子で「こいつは気違いなんじゃ」を繰り返していたから、これはニュースを見るたびに繰り返される常套句として定着することになった。
 そこで「いまどきね、テレビに出る女の人が、毎日同じ物着て出てくるなんてことはないんですよ。どのチャンネルのアナウンサーを見たって、誰も同じ物なんか着てこないでしょう。それなのに、どうしてこの女の人ばかり、特に気にするの? おじいちゃんは、こういうタイプの女性が嫌いなのか?」
 老父は全く予期しないことを聞かれてしまったというわけか、急にうろたえてしどろもどろになってしまった。
 「うっ、うんにゃあ、そ、そういうわけじゃないんじゃが…。こいつは気違いじゃから…」それっきり黙ってしまった。
 どうやら、老父にとってこのアナウンサーは相性の悪いタイプということになるようであるが、その欝々とした表情は、訳も無く兄嫁を中傷しているときのあの老醜にまみれた不快感を思い起こさせた。
 それにしても、どこの年寄りも<見た切り老人>といわれるほどに一日中テレビにかじり付いているようであるが、どうやら最近の老父は、テレビを見ていてもすぐに眠ってしまうようで、しばらくは楽しみにしていた『水戸黄門』も口で言うほどには楽しんでいる様子もなく、やはりうたた寝に勝るものはなさそうなのだから、結局のところ、老父の粗野な性格を満足させる暴力性によって、眠る暇を与えぬほどに興奮させてくれる刺激的で単純明解なプロレス以外には、何を見ていても面白くないというわけなのだろう。
 つまり、老父にとっての<つまらないテレビ>とは、何をやっているのか分からないものということに尽きるようで、それはドラマを見ていても、たとえばプロ野球を見ていても、その画面展開の速さに付いていけないということが最大の原因になっている。
 そんなわけで、プロ野球については強い巨人軍の試合以外にはまったく興味のない老父が、こんなことを言っていた。
 「最近は、すっかり野球が面白くなくなってしまったなあ…。いまの選手には真剣みがないんじゃ。巨人が弱くなったんで、いい選手が入らないんじゃろうなあ…。こういうつまらない試合ばかり見せておるから、若いもんがみんな野球をやらなくなってしまったんだなあ…」
 ひとり納得してしまった老父は、そんな勝手な思い込みのおかげで、すっかり不愉快になり、入れ歯の収まりを悪くしてまずそうに食事をしている。
 「そうねえ、V9のころに比べれば巨人は弱くなったかもしれないけれど、そのぶんだけ外の球団が強くなったんだから、野球は大いに面白くなりましたよ。そのおかげで今やゴールデンウィークには1日に50万とも60万とも言われるヒトビトが、あっちこっちの球場に出掛けるほどの人気になっているんですよ」 
 「うんにゃあ、そんなことはないだろう…。巨人にいい選手がいないようじゃ、外にいい選手がいるはずがない。とにかく名手といえるようないい選手がいなきゃ巨人はだめだ」 老父はこんな調子で引き下がる気配は見せないが、いつも老父とプロ野球の話をしていて、何故かしっくりいかないことの原因を考えてみたが、それは、どうやらプロ野球とは、テレビで中継している試合しかやっていないと思っているらしいということなのだ。
 「おじいちゃん、ドラフトって知っていますか?」
 「そんなものは知らん」
 老父は、いつものように知らないことを言い出されたときの不愉快な顔になる。そこで、とりえずはそのシステムを説明してみたが、選手も球団もくじ引きでしか相手を選べないという合理的な不合理を納得しかねていた。
 「そんなものがあるんじゃ、巨人の人気がなくなるのも仕方ない。それで若いもんが、野球に嫌気がさしてしまったんだなあ。それなのに、そんなことをして何んの徳になるんじゃろうか?」
 確かに老父の勝手な思い込みを抜きにしても、われわれの胸をときめかした王、長島というスーパースターの時代に比べれば、時代の違いにより野球の質が変わってしまったということも事実かもしれない。それは英雄の出現を待ち望むことによってしか自己変革を為し得ぬヒトビトの不幸というものがあるように、一握りのスーパースターによってしか語られることのなかったかつてのプロ野球とは、その全体的レベルが単に未成熟であったにすぎないということなのかもしれない。
 それにしても絶対的に強い巨人が弱いチームを叩きのめすことにしか興味のない老父が、かつての強い巨人軍をほうふつとさせる試合を見ていても一向に愉快そうではないことが不思議に思えた。たとえば江川がヤクルト相手に結構好投していても、なぜか怪訝な顔をしている。
 「江川は、しょうがないなあ…。ああ、また打たれた。また打たれてる、なんぼ打たれたら気がすむんじゃ」その憎々しげにつぶやく表情は、すでに醜く歪んでいる。
 「なに言ってるの? 江川は結構好投してるじゃないですか?」
 「うんにゃあ、江川はだめじゃ。さっきから打たれてばかりじゃ。もう何点とられたかも分からんほどじゃ」
 老父の三角になった目は、まるで私を非難しているようなのだ。
 「きょうは、まだ1点も取られていませんよ」
 「ん? さっきから打たれてるじゃろうが」
 老父の憤然とした顔は、「わしを、バカにするのか?」とでも言いたげなのだ。
 「いま、おじいちゃんが見ていたのは、外の球場のビデオですよ。選手のユニフォームが違うじゃないですか。あれは野球のニュース速報ですよ」
 ところが、私の言っていることが理解できないらしく、そんなことがあるのかという半信半疑の様子であるから、どうやらこの巨人対ヤクルト戦以外に試合をしているところがあるという事情を十分に納得しているとは思えなかった。
 すると今度は「この相手のチームには、外人が四人もおるんじゃな。やっぱり日本の選手には、ろくなのがおらんからなんじゃろうなあ…」と言い出す始末なのだ。
 「いまの日本のプロ野球では、1チーム当たり二人の外人選手しか出られないという決まりになってるんですよ」
 やはりこれについても納得しかねているのだ。
 「うんにゃあ、ほれ、見とってごらん、いま金髪の選手が二人打って、この選手で三人目じゃ、このあとにまだクロンボの選手が出てくるよ。それで四人じゃろ」
 つまり、老父の言い分を聞いてみるとホーナーの3回目の打席のときに、1回目と2回目の打席のビデオが再生されていたにすぎないのだ。
 「ねえ、おじいちゃん、最初の三人は、みんな50番という同じ背番号だったでしょう。いま打席に立っている選手の前回とその前の打席を、サービスでもう一度見せてくれたってわけですよ」
 「そうじゃったかなあ…」未だ納得できないのだ。
 こんな様子だから、野球の中継放送におけるビデオの多用化が、老父に混乱を起こさせていることは明白であるが、その混乱した情報の真っ只中では、3アウト取られても攻撃の交代がないというわけで、もはや野球のルールそのものさえも喪失していたことになるのだから、老父にとっては自己不信という不愉快さへと誘うテレビ鑑賞でしかなかったことになる。たぶんこのことが、テレビの野球中継を面白くないと言い出させる大きな要因であったと思われる。
 しかし、事が相撲なんかであれば、たとえビデオが多用されようとも、一番一番の勝負に因果関係があるわけではないのだから、その日一日分に限って言うならばルール上の混乱は生起しないというわけで、たぶん「きょうは大乃国が三番もとったんじゃ」とか「きょうは千代の富士が二番も勝った」なんて思いつつ、ただ相撲協会のサービスのよさに感激していたのかもしれないのだ。
 そういえば、老父がまだ東京にいるころに、倍償美津子が一升瓶を下げて波止場をかっ歩しているという焼酎のコマーシャルを見るたびに、得意になって言っていたことがある。
 「あの猪木の女房はのんべえなんじゃなあ…。ああやって、毎日飲んどるんじゃ」
 それは、猪木のファンである老父にとっては「猪木もあんな女房を貰ったんじゃ、大変だあ、先が思いやられるわい」とでも言っている風情だった。現に、猪木夫妻も離婚してしまったようだから、老父の心配もあながち的外れというわけでもなかったのだ。
 そうかと思うと最近では、叶和貴子の黄桜のコマーシャルを見るたびに同じようなことを言っている。
 「あの芸者も、のんべえなんじゃなあ…」
 ところで叶和貴子が芸者であるという認識は、どうやら老父の思い違いであるというところまでは追い詰めたが、老父は「ああそうか、そうすると、わしは、あの女が芸者の役をしとるのを見たことがあるんじゃな」とひとり納得していたけれど、私はそのことについて真偽のほどは分からない。
 どうやら老父にとっては、テレビにおける劇的瞬間のリプレイやコマーシャルの繰り返しは、それを見るたびに新たなる事件として立ち現れているというわけなのだ。
 ところが、その繰り返される情報は、そのたびに老父に新たなる情報として取り入れられているにもかかわらず、すでに興味と関連のあるものとして辛うじて記憶されているものや、勝手な思い込みを触発するだけに留どまってしまうのだ。つまり、ボケて鈍化し曖昧になってしまった事実判断と、それによる限られた記憶との照合がもたらす回答は、もはや新たなる情報を受け入れる柔軟さを失っているのだから、手持ちのわずかな常套句によってしか語られないということになる。その意味において言いうることは、限られた記憶に固執するということそこが、ボケ症状ということなのだ。
 先日は、ナイター中継を見ながら老父が、しきりと感心していた。
 「あれでプロ野球の選手も、ほとんど毎日じゃから、大変じゃなあ…」
 そうかと思うとこんなことも言っていた。
 「ところで、われわれの休みはいつじゃったかな?」
 私は、一瞬、何んの話をしているのか分からなかった。
 「われわれの休みって言ったって、おじいちゃんと僕は、ご覧の通り、毎日がこんな生活なんだから、毎日が日曜日で、お休みですよ」
 すると老父も一瞬当惑した表情であったけれど、照れ臭そうに言う。
 「ああ、ほうか、わしは、すっかりプロ野球の選手になったつもりしておった」
 あるいは、私がアキちゃんの山荘へと緊急避難するときに、老父が相撲のテレビでも見ていれば、相撲が終わったころを見計らって帰宅する私は、思わぬ知人を獲得させられてしまうのだ。
 「あんたは、さっき、誰ぞの別荘へ行ってくると言っとったが、わしは、よく聞いとらんかったけど、いったい、どの力士の別荘へ行っとったんじゃ?」
 こんな情況から考えてみても、自己中心的に自己に没頭してしまえば、やはり限られた私的記憶に固執することになり、いかなる情報の入手も私的意味しか持ちえないことになってしまう。そういう意味におけるいわゆる客観性の喪失についても、われわれはボケと言わざるをえないのだ。




     10.鏡


 老父は高原に来る直前に作り直したメガネのサイズが合わないとかで、耳の上をメガネの蔓に強く押さえられて赤く爛れさせている。そこに塗る皮膚病の薬は、行きつけの東京女子医大の内科の先生に無理を言って貰ってきたそうなのだ。そしてその薬がとても良く効いたからといって、今度は頭に出来ているいくつかの小さな湿疹にも塗りたいと言い張り、内科の先生が「それは放っておいたほうがいいよ」と渋るのを押し切って、同じ薬をさらに貰ってきたと言う。
 そんなわけで、老父は毎日手鏡を片手にしっかとポーズを決めて得意顔なのだ。
 「この薬はよく効くんじゃ。内科の先生は効かないだろうなんて言っとったが、わしは、この薬で治してみせると言ってやったもんじゃから、良くなったこの頭を見せて自慢してやるんじゃ」
 ところが、たいていはいつまでたっても鏡を手放さない。何を思っているのかしばし無言で鏡の自分に対峙しているのだ。それはほとんど祈りにも似た生真面目な様子で、まるで美しくなれと祈りながら鏡を覗く女たちのように、自己愛にただれた傷口を慈しんでいるのか、鏡の奥でしか漏らすことのない生暖かい溜め息をつきながら、悍しいほどの法悦に浸っている。まったく色惚けたババアみたいなジジイと言わざるをえないのだ。
 そういえば、この老いさらばえたナルシストは、誰の目をはばかることもなく己の身体を慈しむことのできる軟膏がこよなく好きだったのだ。古くは水虫に軟膏を塗り、関節が痛いといってはサロメチールを塗り、染みが出たといってはオロナイン軟膏を塗りながら、いつも色惚けたババアみたいに忘れられた快楽の時をまさぐるように、半開きの口元に放心した舌を覗かせてほとんど没我の境地に浸っているのだ。
 そんなわけで色惚けた老父の法悦は、ひたすら身体を慈しむことが目的だから、たとえボケのなせる業で頭の湿疹に塗る薬をひざの関節痛に塗ろうとも、足首のむくみに塗ろうとも、あるいはひざや関節に塗るアンメルツを頭の湿疹に塗ろうとも、誰にもとやかく言われる筋合いはないというわけなのだ。ただひたすら<さすりつづける>という肉感を求めてやまないことになる。
 この鏡との悍しき対話が始まってしまうと、もう鏡の中のババアしか見えないから、周りで何が起ころうともまったく気が付かないことになる。先日、老父は朝食のみそ汁を温めようとガスコンロに点火したのに、何を思ったのか2〜3分で温まるものをそのままにして、なぜか鏡の中のババアと対話を始めてしまったのだ。私は、確か午前8時ごろ、布団に入ったばかりで寝入る直前に、老父がガスコンロのコックを何度か押して点火している音は聞いていたのだ。ところが、私は老父の朝食に焼いて食べるものを用意した覚えがないのに、何か焦げる臭いを感じて変だなとは思ったが、それはもうほとんど夢の世界へと踏み込んでいる状態だったのだ。
 私はそのまま午後の2時まで眠ってしまったが、やはり老父はみそ汁のことをすっかり忘れ、気が付いたときには真っ黒になった鍋からモクモクと煙りがあがり、すでに家じゅうに煙が充満していたそうなのだ。たった6畳の小さなキッチンで、ガスコンロの前のテーブルにいながらこの始末なのだから、ボケたとはいえ老父の鏡はことごとくの現実という迷いを忘れさせる忘却の鏡というわけなのだ。
 老父は、そんな失敗を私に知られたくないと思ったのかも知れないが、その焦がしたアルミの鍋を奇麗に磨き上げてはいたけれど、落とし切らずにこびりついている部分を見れば、鍋の蓋までがほとんどが真っ黒なのだから、よほどの強火で15分や20分ぐらいは燃やし続けていたらしいのだ。すでにみそ汁は炭化して跡形もなくなっていたそうだから、部屋じゅうに充満した煙はカーテンなどに染み込んで、まるで火事場のような臭いが何日も消えなかった。
 ま、火事にならなかっただけでも良しとしなければならないが、以前には、私が途中で止めるわけにいかない勤行に入って中程まで来たときに、やかんが沸騰し始める音に気付いたが、どうしたわけか、そばに老父がいるはずなのに、それから行が終わって私が火を止めに行くまで沸騰させたままだった。
 「どうしたの? 沸騰したやかんを20分近くも放ったらかしにして? 危ないじゃないか。気が付かなかったの?」
 「ありゃりゃ、ほうで!! わしは、あっこに来とる鳥を見とったもんじゃから…」
 結局は、煮えたぎるやかんを前にしてやはり15分以上も気が付かずに、やかんの窓越しに小鳥が餌を探す様を見ていたというわけなのだ。
 ところが、老父の表情からすると、「なにも、沸騰しているやかんに気付かなかったからといったって、ほんの2〜3分のことなのに、そんなに大事件のように言わなくたってええじゃろう」と言わんばかりの不服顔なのだ。
 多分、老人の<一時>という概念を100mという距離に例えるならば、青年は10秒そこそで走り抜けてしまうほどに一瞬であるものが、老人はその何倍かけても走り抜けることが出来ないというわけで、一時すらも時間の枠が弛緩しきっているということなのだ。だから、みそ汁のときも、やかんのときも、老父に気付かなかった時間を聞いてみても、ほんの一時だったというばかりなのだ。
 ところが先日は、そんな老父が、いつもよりは入念にそして周到に鏡の中でババアに変身していると思っていたら、ひょいと顔を上げて言った。
 「なあ、ノリヨッチャン、あんたそこからわしの頭を見とって、どこかに、へこんでいるところでもないか? よく見てくれんか」
 「ええ!? へこんでいるところなんかありませんよ。むしろ見事なほどに真ん丸で、テカテカに剥げているだけですよ」
 すると老父は、どうしても納得出来ないという様子で、しばらくは無言のまま鏡の中のバアサンに渋い顔を見せていた。
 「そうかなあ、そうすると、どこもへこんだところがないのに、わしはすっかり頭が悪くなってしまったんだなあ…」老父は深い溜め息をついた。
 たぶん老父は、日ごろからボケてしまったと感じながらでも、何んとかそれを認めずにやり過ごす方法を思案していたのだろうから、いかようにも受け入れがたいボケは、何か不測の外傷による脳の機能障害へと擦り替えようとしたというわけなのだ。それは、ボケをあの「三回倒れた」という事実無根の不測の内科的な脳の機能障害へと擦り替えようという、姑息な言い繕いと同じことなのだ。
 たぶん老父の鏡の中には、見えない後頭部辺りに大きな<へこみ>でも見えていたはずだから、あえて私などに聞いてみる必要は無かったのだ。なぜなら、老父は私にテカテカの禿頭を見てもらうことにより、鏡の神通力を減衰させてしまったばかりではなく、認めたくないボケをも引き受けざるをえないものにしてしまったからなのだ。
 確かにそれ以降、老父が鏡を覗く時間は少なくなり、何かにつけて「いやだいやだ、歳は取りたくないもんだねえ」なんて言うようになった。だからといって老父のボケが進んだわけでもないし、治ったわけでもないけれど、何はともあれボケに対するささやかなる自覚は深めることが出来たはずなのだ。それでも老父にとっては、ボケという言葉は禁句とばかり、何かの不都合が生じたときには、クジュウと発音する90歳という年令へと責任を擦り替えてしまう。
 「わしなんか、これで90になったという感じはしないんじゃが、周りから言われたり、体のあっちこっちが痛んだりすると、やっぱり90なんじゃなあと思うよ」
 そんなわけで<まだらボケ>と言われる老父の場合は、自己愛を言い繕う知恵はボケないようだけど、その知恵を自己正当化の手法として自己愛を温存させることにしか活用できないとすれば、結局は減衰しつづける私的意味を硬直化させて、<私たりうる私>であるはずの自己愛そのものをボケさせてしまうはずなのだ。
 ここでは、未だボケていないはずの知恵が、不幸にも喪失感にさいなまれた<私たりえぬ私>へと追い込み、<ボケてしまった自己愛>を言い繕うだけの知恵として、<ボケたくない自己愛>をとめどないボケへと埋没させてしまうことになるのだ。

 


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