エピローグ


 きょう、あなたは<何>をしましたか?
 わたしは、<立身出世>と<蓄財という安心>のためには労働をしませんでした。
 でもサラ金には行っていません。
 そえいえば町に出ても誰とも話をしませんでした。
 タバコを吸いませんでした。
 セックスをしませんでした。
 賭け事をしませんでした。
 最近ようやく解禁した酒もきょうは飲みませんでした。
 そう、妻子は所有物ではありませんので未だ持つには至りません。
 しかし煩悩的<私>に霊的仏教語で語り掛けない生活はしませんでした。
 むろん体制的<私>に<何>的反省で語り掛けない生活もしませんでした。
 文字を書かない生活、文字を読まない生活、絵を描かない生活、ラジオを聴かない生活、テレビを見ない生活、つまり表現「行為=経験」をしない生活をしませんでした。
 唐突ですが、「浅田彰」の『逃走論』では、生きつづける表現者の「荒れるにまかせる暴力」からは、到底逃げ切れませんので絵実物的な逃走者になるつもりもありません。すでに絵空事的な道化を自認せざるをえないほどに生きがたきオジサンとしては、今さら自愛的欲望に呪縛されて「遊戯しつづけるニーチェ」などを引き合いに出すまでもなく、絵実物的価値観に愛でられし芸術家などを生きることもできません。
 だからというわけではありませんが、きょうはワーグナーを、そしてマーラーを聴きませんでした。
 しかし、あの鈍重にして閃きの乏しい芸術であり、しかも悍しいほどに「荒れるにまかせる自己愛」に無自覚なブラームスを、まるで明治生まれの老人たちの哀しいばかりの愚痴を聴くように楽しむことをしないわけにもいきませんでした。
 そんな勝手な意味づけの戯れは、「浅田彰」を正体不明の「有名人」として弄ぶようなものかもしれませんが、とにかくも5月の冷たい雨や11月の霙という欝的快感にけむる裸樹の高原で、生き延びるための買い出しの食料を抱えながら、それでも凍てついた雪原で烈風に刺し抜かれて覚醒する<何か>を忘却しえないために、自愛的欲望に無反省でいることができないということに他なりません。
 それゆえにと言うべきでしょうか、よくヒトビトが言う「してはいけないことをしてしまった自分」を悲しむという自己愛の楽しみ方をしませんでした。
 そしてヒトビトが「しなければいけないことをしないですませてしまつた自分」を哀しむという自己愛の楽しみ方もしませんでした。
 たぶんわたしは、<何>ばかりをしつつ生きるつもりなのです。

1986年3月   

                                こや のりよし   


「何って何!?」はここで終わりです。

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