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 おおっと、服を着るのを忘れ滝行のとめどない快的遊感覚にばかり浸っていては帰れなくなってしまう。まず、バッグの中から中型のバスタオルを取り出し、それを氷の上に敷く。そのときに頭や身体から振り落とされた水滴がバッグやヤッケの上に落ちると、それは生地に吸い取られる前に大きな氷の玉になってしまうのだ。
 何はともあれ、足袋が凍って脱げなくなってしまう前にこれを脱いでおかなければならない。縫い目のほつれた部分からたっぷりと川砂を吸い込んだ足袋を、足の皮を剥ぐようにめくり取る。
 素足になってバスタオルの上に立ちすぐに行衣を脱ぐのであるが、シャツは濡れて身体に纏わり付き、しかも風に煽られていたところは堅くなっているから、優しく手繰り上げやはり背中の皮を剥ぎ取るように脱がないと、性の抜けたシャツはたちまち破れてしまうのだ。しかも脱いだシャツを不用意に下へ置くと、そのまま氷の地面に吸い付き取れなくなってしまうから、すでに脱いである足袋の上に上手に乗せて置くことになる。
 そして小さなタオルを取り頭から上半身を拭くことになるが、まずタオルを顔に当てたときの柔らかさは、あまり感覚のない顔にも十分な温もりを与えてくれる。そこで次に手の水気を拭き取り手から僅かの熱も奪われることを防ぎ、それから頭を拭き始めるけれど、風の強い日には残り少ない頭髪は凍って跳ね上がり、あるいはそのままツララになっているから、あまり勢い込んで拭けば頭髪は折れて少ない余命をさらに縮めてしまうことになりかねない。無論初めのうちはそんな計らいをする余裕もなく、勢い込んで頭を拭きさらに感覚のない身体を遮二無二こすったものだから、髪の毛は無残に抜け凍っていた体毛は擦り切れて、全身アカギレだらけに成っていたというわけなのだ。
 拭いていたタオルを頭から被り、水泳パンツを脱いで行衣の上に置き、同じタオルで今度は下半身を拭くが、足の指はよく摩擦しながら拭いておかないとすぐに感覚がなくなってしまう。すっかり水気を含んだタオルを足元に置き、次に大きなバスタオルを出して、再び足の指を摩擦しながら拭きそのまま下半身から順に拭き上げていくが、ここで足の指にこだわるのは、帰り道で一番後まで暖まらないのが足の指だからなのだ。いつものように真っ赤に腫れ上がった脚には、膝や足首に青黒い欝血が見られるけれど、家に帰り着くころには消えてしまうから気にすることはなく、たまにタオルに血が付いているのを発見して氷で切った傷を知ることもあるけれど、これも痛みは感じないからたいして気にすることはないのだ。
 冷え込みの緩んだ穏やかな日などに、つい陽気になって裸のままで「荒ぶる自然」の震撼となる響きに酔い、あたかも結晶する冬の霊気を擦り抜ける風のごとくおおらかになり、しばし後に凍結した世界の真っ只中で茫然としている自分に気が付いて、己のたわいのない滑稽さに思わず吹き出すことがある。しかしいつまでも笑っていればやはり帰れなくなってしまうから、身体を拭き終わったバスタオルを頭から被ったままで、素早くブリーフを着くのだ。ところが、特に風の強い寒い日などには、かなり良く拭いたはずの足にブリーフが絡み、そろそろ手がかじかんで不自由になってきても、風に煽られたブリーフは一向に悪ふざけをやめないから、立っていることの存在感さえ乏しい足をさらに一本足にしてブリーフひとつに四苦八苦する様は、容赦のない寒気に追われて切羽詰まった愚か者の、逃げ場のない愚かしさへの笑うに笑えぬおかしさなのだ。
 それでも、「どうする! どうする!」と問いつつどうにかブリーフを着けば、多少の歪みは今さら問うに問えず、今度は勇んでズボンへと問い掛けるけれど、いつまでも足の通らぬズボンにからかわれていると気付くまでは答えが出ない。さて、単純明解な答えが出れば愚かな自分に呆れている暇もなく、ズボンのチャックを上げる前に被っていたバスタオルをふたつに畳み、それで指の白くなりはじめた足を包むのだ。
 そして次にTシャツを着る。これは去年からのことであるが、このシャツ一枚が予想以上に帰り道を快適にしてくれる。続いてプルオーバーのシャツを着るが、すでにかじかんでいる手に、シャツのボタンをするなどという高度な技術を要求することはできないから、ボタンなしで腹の出ないものにしておかなければならないのだ。シャツの裾をズボンに入れ、すっかり不器用になってしまった手でチャックを上げる。当然ながらウエストのボタンをする力は出ないから、ウエストには鈎ホックの付いた普通の紳士用スラックスがいいわけで、くれぐれもきつめのジーンズなどはご法度である。次にセーターを着るが、いままで愛用してきたジャガードのスキー・セーターは、裏の横糸がかじかんだ手に引っ掛かるようになり、セーターをズタズタにしてしまうほどに難儀をするので、去年からごく普通の編み方のものに替えた。
 ここまで身支度も整えば、奪われ続けていた体温もなんとか維持出来ることになり一段落といえる。ここでバッグのポケットからメガネを取り出して掛け、続いて毛糸の帽子をそのまま凍った頭にかぶせる。帽子を毛糸のものにしておけば、頭の熱で次第に解けて流れ出す水を吸い取ってくれるから、襟首に流れ込む水を防ぐことが出来るのだ。そして、急いで手袋をして足の指をマッサージし、まず両足にソックスを履いてからブーツを履く。このブーツは内側がチャックで開くからかなり楽に履けるけれど、以前のムーン・ブーツのときには、かじかんだ手ではブーツを引き上げる力が出ないために、ブーツに差し込んだ足に動きが取れなくて、むやみに力んではフクラハギの筋肉をつらせてしまったことがあるが、皮膚感覚の戻らぬ足でも筋肉のつる痛さは格別に応えたものだ。
 ブーツを履き終われば、もう<寒鬼の首>を取ったも同然だから気分だけは春の真っ只中といえる。そこで腕を回したり屈伸運動をして身体に春の温もりを呼び覚まそうとしても、ささやかなる温もりの幻想は滝から吹き付ける風に掠め取られてしまうし、ましていい気になって滑って転びでもすれば、そのまま冬の川へと落ち込むことになるからあまり浮かれてばかりもいられない。そこで気を取り戻して、いよいよ最後のダウン・ヤッケを着れば身支度は完了なのだ。
 いくら寒いといっても、裸になってからここに至るまでの時間はせいぜい一五〜二〇分程度のことだから、膝が笑ってしまったり歯が噛み合わないような震えを感じることはなく、じっとして居られないほどの寒さが身体中を走り回るのは、もう少し後になってからのことなのだ。しかし、それも毎年軽減されているところを見れば、やはり慣れというものがかなりの事を解決してくれると言える。それにしても寒気が襲ってくる前に帰り支度をしておくに越したことはないのだ。
 バッグのポケットからまず一枚目のビニール袋を取り出し、そこへすでにゴワゴワに凍っている水泳パンツと行衣を入れ、次に氷の地面に吸い付いている足袋を剥ぎとって入れ、さらに小さなタオルを入れて袋の口を絞り上げる。それを二枚目の少し大きいビニール袋に入れ、その中にマット代わりにしていた中型のタオルを入れる。しかしこのタオルは、すでに地面の一部になっているから、根性を据えて一気にめくり上げなければ、タオルの糸が引っ張られて垂れ下がる糸屑のお化けになってしまうのだ。とにかくタオルを剥ぎ取った後は、ブルーとグリーンの細かい糸屑が氷を染め上げているのだから、それがあの円形脱毛症的様相を際立たせて、この白い世界にいかにも不自然な人為的痕跡を残すことになり、己の浅知恵に失笑することになる。そもそもマット代わりにバスタオルを使うようになったのは、足袋を履こうと思うことの延長に過ぎないから、濡れた素足が氷に吸い取られるのを気にしながら、慌てて服を着る必要はなくなったけれど、足の指が元の感覚を取り戻すのにかかる時間にはさほどの違いはないと思われる。
 ところでビニール袋に入れた物は、家に帰っても凍ったまま取り出される始末だから、この上に丸めたバスタオルを力いっぱい押し込んでも、バッグの中を濡らす心配などまったくないのだ。後は、ただバッグのチャックを閉めれば出来上がりではあるけれど、大きな手袋の凍えた手では、小さなチャックを扱うこともちょっと難しい作業になってしまうので、チャックの引き手にはビニールの紐でも結んでおくのが得策といえる。
 さて、このバッグを首から下げれば一件落着なのだ。もう見掛けは立派な観光客というわけで、いま滝から出てきたばかりだとは誰にも想像させない変身ぶりだから、去年などは、帰り支度の済んだところへひょっこりと現れた三人の観光客が、大きなバッグを見て「おや、あなたも写真ですか?」なんて声を掛けてきたくらいだけど、そこでニヤニヤ笑いながら「いや、水を浴びていたんですよ」と言ってみたら、そのおじさんたちは、よほど体力を持て余した寒中水泳家とでも思ったのか、「へえ!? こんなところで泳いでいたんですか…」と正体不明の観光客に感激していたものだ。
 これからしばらくは、寒さと二人連れである。首の後ろでキーンキーンと寒さへの警報が鳴り始めると、思わず力んで身構えてしまうから、氷の上では足元がおぼつかなくなってしまうのだ。そこで要求されるのは、深く大きく吐き出す呼吸法ではあるが、そんな<気>を整える間もないままに、とにかく明日の滝行を「荒ぶる霊性」に約束し、氷の丸木橋を渡ることになる。そこからは狭い氷の道が緩やかな下りになっているので、滑らないようにと気を付けていくものの寒さの警報がしだいに脊髄を下りはじめると、おぼつかない足取りがおぼつかないがゆえに次第に速くなり、もはやその速さを制御することが出来なくなってしまえば、そのまま窟の手前まで一気に駆け下りることになってしまうのだ。しかしそれは、下手に止まる努力をして川へ滑り落ちるよりは、むしろ安全な策といえる。何はともあれ窟の観音像に<無事>に済んだ<何>行を感謝しつつ、その<何>事もない<何>を報告すれば、後は寒さに追い付かれないように歩き始めることになる。
 寒さに愛でられた<とりあえずの私>は、腹から深く大きく吐く息を、そのまま放出しては体温の無駄遣いになってしまうなどと、女々しい<何>行者への気まずさを言い繕いながら、口元に当てた大きな手袋でそれを受け止めるけれど、その息を暖かいと感じるまでにはまだしばらくの時間が掛かる。
 どんなに寒さに追われているとはいうものの、雪に埋もれたベンチの横を過ぎて急に開ける視界は、いま始まったばかりの体力回復の物語にわずかな<空白の時間>を用意して、広場から続く「洗心洞」の頭越しにV字型の空間を切り拓き、いよいよ薄暮に向かって流れる影の中へ身を沈めようとする谷間に、冬にしか見られぬ明晰な夕焼け雲を望ませるが、それが明晰であるがゆえにおどろおどろしく雪を抱えた雲の企みが暴露されて、予期せぬ<何>事かが始まるときめきが、「荒ぶる自然」の欲望色に染まっているようにさえ思わせる。そんな<何>的時間に立ち止まりせっかちな寒気をやり過ごしていても、すぐに気付かれてしまうからまた歩き始めなければならないのだ。
 そして再び「洗心洞」に入る。そういえば、まだ蛍光灯が点く前は、暗闇の道祖神に無事の<何>事を感謝し報告して通るその二つ目と三つ目の間で、しばしば人とぶつかる気配に「アッ、失礼!」なんて声を掛けることがあったけれど、いつもの霊的存在者であることに気付いて思わず失笑してしまうのだ。もっとも見えようと見えまいとにかかわらず誰かがいるとすれば、誰に対してであれ失礼などしないことに越したことはないけれど、それは「今日は居るかな」と思いつつ行く日よりも、そんなことを忘れている日にこそ遭遇するというわけで、分かり切っているはずのことに不意を突かれる愚かしさへの照れ笑いなのだ。しかし洞内が明るくなってからは、本来の見えにくい体質が負い目になった霊的存在者には、ここが、いささか居ずらい場所になってしまったのか、ほとんど人としての存在感を誇示することもなく、たまに初めの道祖神で耳鳴りがして、次のところで一瞬の偏頭痛がするという囁き程度のものに変わってしまった。
 とにかく雪が降り続いている日などには、乾いた土を踏めるわずかの場所である「洗心洞」が、はたしてその名の通り「荒ぶる自己愛」を浄化しうる領域であるのかどうかは問わずにおくとしても、洞内の冷たく乾燥しきった黄土の足跡で明るい雪景色へと踏み出す一歩は、ここを通り抜けていくヒトビトにこそ与えられる眩暈の一歩であるはずだから、いずれ雪の中へと解消されていく足跡に、無明無知なることごとくの迷いを託すことは出来るのだ。しかし、そんな誰かの足跡のために無明無知を担うものとして、あるいは霊的存在者の仮の住まいとしてある「洗心洞」は、いま<何>行者が寒さに愛でられし<とりあえずの私>を、正体不明者へと横滑りさせるための<私たりえぬ私>の身支度を再点検する絶好の場所になっているのだ。
 つまり、風の強い日とか、特に寒い日とか、あるいは雪の日には、ここでオーバー・パンツを着きヤッケのフードを被ることになるのだ。そしてまた、<とりあえずの私>に巣くう寒気から逃避することのない<何>行者の体力を誇示するために、駆け足足踏みをしたり屈伸運動などをしてみる場所でもあるけれど、いまここで期待されていることは、何よりも暖かいココアを飲むことに他ならないのだ。
 そもそも滝行を始めて四年目を迎える頃に、途中のユースホステルの前に「あったか〜い飲み物」と書かれた新しい自動販売機が目にとまり、それ以来帰り道に震える身体で熱い眼差しを送り続けることになったけれど、缶コーヒーの味はともかく、暖かいということだけでも十分に一〇〇円の価値はあるとしても、一〇〇円分の灯油をストーブで焚く温もりには敵うまいなどという「飲まない」ための理由を弄んでいるうちに、「では、なんで飲まないのか?」について考えてみれば、結局は自分で作れば三〇円足らずのことで、一〇〇円の缶コーヒーよりは十分に満足のいくものが飲めると知っているということに尽きるのだった。そう納得してみれば、では「いかにして暖かい飲み物を用意することが出来るのか」という<問い>へと横滑りすることで、棚の奥に忘れられていた小さな魔法瓶を思い出すことは、ごく自然の成り行きであったといえる。
 それからというもの、毎日の滝行には魔法瓶が不可欠のものとなり、正に日変わりメニューとしてコーヒー、ココア、ミルク、ミルクコーヒー、紅茶などが用意され、さらにそれには砂糖を入れた方が好いか否かなどいろいろと試してみることになったけれど、その結果、牛乳で作ったほんの少し甘いココアが一番歓迎されるものとして定着することになったのだ。それは牛乳が最も冷めにくいということ、そしてコーヒーは家でさんざん飲んでいるためにそれ以外のものがいいということ、しかも家で<何>的仕事中に飲むのなら甘くないものがいいが、寒さの中では無性に甘いものが恋しいということ、言い換えるならば甘いコーヒーとそのままの牛乳はあまり飲みたくないから、少し甘いココアにせざるをえないということでもあるのだ。
 とにかく滝行で「ココアを飲む」という思い掛けぬ出来事は、「早く身体を暖めたい」欲望を「ココアを飲みたい」欲望に擦り替える欲望の捏造というわけで、それは、とめどなく自己増殖する欲望の力を積極的に利用しつつ、その欲望を自己矛盾へと追い込もうとするいつもの<何>論的企みに他ならないから、「ココアを飲んだ」程度では到底「身体は暖まらない」にもかかわらず、「<何>かを飲みたい欲望」を満足させることで「暖まりたい欲望」を無力化しようという、欲望による語るに落ちる欲望の糞面白くもない糞真面目な戯れなのだ。もっともこれは、したたかな大人が聞き分けのない子供たちを言いくるめるときの常套手段でもあるのだから、この姑息な言い繕いを多少なりとも「いさぎよし」としない公明正大なるヒトビトのために、滝行とは、普段めったに飲まないココアを唯一「うまい!」と思って飲むために、わざわざ寒い思いをするという欲望の戯れにすぎない<何>行者の決意も付け加えておかなければならないのだ。

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 そういえばココアについて語るなら、去年の白い大きな犬についても語っておかなければならない。あれは確か熊川の護岸工事が始まった翌日あたりのことだったと思うが、その日は日曜日だったのか、ブルトーザが雪の中に放置されたままで工事のヒトは誰もいなかった。<私>がいつものように駐車場から「洗心洞」を抜け広場に差し掛かるところで、バッタリと大きな白い犬と出くわしたのだ。いや、それは突然目の前に盛り上がった雪の塊が、動物的な体臭で辺りを緊張させたときに、初めて犬であることに気付いたと言うべきかもしれない。
 猟犬というほどの職業的な体質的な精悍さはないが、その存在だけで十分な威圧感を持ち、野良犬ほどには食い詰めたヤクザな感じはないものの、しかしそれにしては連れのヒトもいないでウロウロしていることが不自然さを際立たせてしまうという、そういえば秋田犬の血でも引いていそうな目の細い、いかにもムックリとした白い毛の多分番犬と呼ばれるのが最もふさわしいと思われる大きな犬が、<何>行者の突然の出現に身構えた。
 しかし<私>は、犬の方にも暴力的な緊張がないことを感じ取りそのまま犬に向かって進むと、かえって深い雪の中では不自由な犬がうろたえた様子で身震いしたために、<私>が立ち止まり「おい、どうした?」と声を掛けてみると、その瞬間、犬は身を翻して転がりながら深い雪の中を窟まで逃げ込み、そこで改めて<私>の接近に身構えた。しかしその様子は、身体に不似合いの脅えなどではなく、ようやく遊び相手を見付けた子供のように、はしゃぎおどけている様子にも思われたのだ。そこで窟に着いた<私>が、腰をかがめて手袋を脱ぎちょっと嘗めた手を犬の目の下から差し出すと、犬は用心深くその手に鼻を付けひと嘗めして心を開いた。するとどういうつもりか、<私>が窟の手前の丸木橋を新しく積もった雪を踏み固めながら進むと、四つ足のくせにかなり不器用にしかも怖々と渡ってきて、まるでそうすることが当然であるかのように、でもあまり気が進まないという様子で行場まで付いてきた。
 ところで滝行を始めて二〜三年目には、途中で結構顔なじみになる犬もいて、時間になると近くまで迎えに来たり、帰りには家まで付いてくる犬もいた。その中に一度大滝まで付いてきた雌犬がいたけれど、そのころはあの台風の前だったから今年と同様に右岸を進めたわけで、<私>に付いてなんとか大滝の前までは来たものの滝の手前の橋を渡る勇気はないらしく、犬はひとりその場に残り<私>が服を脱ぐ様子を切ない顔で見ていたが、滝に入ろうとする<私>に気がついて、急に「アブナイヨ! アブナイヨ!」と悲痛な叫び声を上げてはみたものの、轟々たる滝の音に自分の声が反響すると、またその声に脅えとうとういたたまれぬ恐怖心に駆り立てられたのか、とっとと逃げ帰っていったことがある。もっともその犬は、あのAさんの家の近くで心配そうに待っていてくれたから、<私>の姿を発見したときには飛び付いてきて大いに喜んでくれたものだ。
 それに比べるとこの白く大きく無口な犬は、裸になって<護身法>を切る<私>の脇で、「何してんの?」と小さな目を向けるだけだった。そこで<私>が「もうオマエは帰んな…」と手で示し、川の中に入ってから振り返って見ると、犬はまったく合点がいかぬという怪訝な顔で見ているのだ。
 そしてしばらくして<私>が川から上がるのを認め、雪の深い道の途中で所在なげに、ひとりで戻ろうかどうしようかと思い悩んでいた様子を振り切り、再び近寄ってきてまた小さな目で「ねえ、何してたの?」と言う。
 <私>が裸になって身体を拭くのをしげしげとしかも不思議そうに見渡して、それから身体を流れる水をペロペロと嘗め始め、あちらこちらと嘗め回しているうちに、いつのまにか一番おいしそうなところを見付けたとばかり、お尻の間にペロリペロリと長い舌を入れてきた。「なんだなんだ、オマエは、オカマか!?」と<私>が言うと、「チョッ、つまんねェ冗談を言う奴だ」とでもいう目付きをする。しかし、これでふたりは訳もなく連帯感を暖め合うことになり、服を着終わるのをじっと待っていた彼と<私>はすっかり打ち解けて、歩きにくい沢伝いの道を互いの安全を気遣いながら抜けて出た。
 それから「洗心洞」に入り、オーバー・パンツを着いていつものようにココアを飲もうと思い、バッグの中からカサカサとポリ袋に包んだ魔法瓶を取り出すと、この無口な彼がなんともいえぬ歓喜の声を上げ、今まで見せることのなかった敏捷さで胸元へ飛び付いてきて、もうずっと以前からの友達であったかのようなおねだりの呟きをする。さらに、立ち上がった前足の一方を<私>の肩に掛けて一方で胸を叩いたり、チンチンしたまま跳ね上がったり、揚げ句にはポリ袋の端を加えたりして、「早く、早く、僕にも頂戴よ、ね、お願い!」と急きたてるけれど、「ようし、分かった分かった」という<私>の言葉にサッと身を引くあたりは、図々しくなっても叱られない程度は心得ている様子なのだ。
 それでもじっとしていられぬ彼が愛嬌を振り撒いてチンチンしているから、「オマエ!? そんな大きななりをして、そんなポーズが似合うほどのガキだったのか?」と言うと、彼は「ヘヘヘ」と屈託のない笑いをしている。「そうか、もうちょっと待てよ、いまカップに入れてやるからな」という<私>のかじかんだ手のぎこちない作業を、鼻を鳴らしながら何遍も首を振って待つ姿は、それなりに仕付けの良さを窺わせて大いに頼もしくも思われた。
 まずは、カップに半分ほど入れたかなり熱いはずのココアを、彼はあっと言う間に嘗め尽くし、カップを支えている<私>の手袋まで嘗めている。余程腹が空いていたのかそれとも寒かったのか、こんな熱いはずのものを一気に嘗め尽くす犬など見たことがないと呆れていたら、彼は<私>の手からカップをもぎ取るように加えて振り「ねェ、もっと欲しいョ」と言う。また半分ほど入れてやると、やはりアッと言う間に飲み尽くした。そこで同じカップに改めてココアを注ぎ、「今度は僕の番だ」と<私>が言うと、彼は素直に「うん」と言って引き下がり、いま慌てて飲んだために飛び散らかしたココアの面影を探し、お洞の地面をあるいは吹き溜まりの雪の中を嘗め回していた。つまり、<私>がいつも二杯飲むことにしていたココアは、この日一杯分が犬の口臭に変わってしまったというわけなのだ。
 それからふたりで県道まで出て栗平のバス停まで行ったけれど、途中で彼は自分のご機嫌ぶりを押さえ切れぬという様子ではしゃぎ、あのAさんの隣のやはりAさんという家の庭に小さな犬小屋を見付けたときは、「おや? 誰かいるのかな…」と空と知りつつ抜き足差し足で忍び寄っては、「ん!? なんちゃって、ハハハ」と<私>を振り返っておどけて見せたりして、そのひょうきんぶりは、しぶしぶ滝まで付いて来たときのあの浮かぬ表情からは想像も出来ないほどだった。
 そして、ちょうどバス停のところへ着いたときに折り返しのバスが来て、バスを包む軽い雪煙が排気ガスに暖められいま正に沈もうとする夕陽の涙を輝かせるときに、そんな小さな輝きが<私>の凍えた頬にも冷たいと感じられるほどに、<私>と彼が熱いエンジンのぶしつけで荒々しい鼓動に飲み込まれてしまうと、彼はその熱いエンジンの息吹の中で身体中に夕陽の涙を纏い、その場でクルクルと二〜三遍回って向き直り「何か変だな、何か変だな、ひょっとすると僕は、こんなところで遊んでいちゃいけないんだ…」と言う。<私>が「どうしたんだよ、何か思い出したのか?」と聞くと、「アア、そうだ! そうだったんだ! ヘヘヘ、いけね」とばつの悪そうな顔で笑い、動き始めたそのバスに付いて一目散に走り出した。
 彼は橋を渡るカーブの辺りで立ち止まり、遅れている<私>に向かい「あの…、ごめんね、先に行くよ。ごちそうさまでした!」と申し訳なさそうな顔で言うから、「ああ、気にすんなよ、じゃあな」と手を振ると、彼はペコリとお辞儀をひとつして走り去った。そしてそれ以来、彼には一度も会っていないのだ。
 それにしても彼との出会いとは、いったい<何>であったのか? 問うことの戯れに身を任せここでは「ココアを飲む」ということから見てみるならば、<私>の尻を嘗めた犬がココアを飲んだカップでココアを飲む<私>とは、自分の尻を嘗める<私>の関係を成立させているわけで、この動物的感覚の行為こそが自己浄化の原初的経験であるはずとすれば、結局のところ自己浄化という欲望とは、己の不浄を嘗める不浄なる行為によってしか成就されないという、自己浄化の孕む矛盾を明らかにしているということになるのだ。それは、いかなる苦悩の克服もそのこと自体が苦悩であるという、生きがたきヒトビトの救済が抱える矛盾と同じであるはずなのだ。
 ところが<何>行は、遥か彼方の救済のために苦悩に耐えたり、聖なるものに祝福されるために苦悩者であり続け法悦という涙をすすることが目的ではないのだから、どんなに寒くても五〇分も歩き続ければいずれは暖かくなるはずの身体に、あえて「ココアを飲む」という行為を喚起することにより、寒いときには暖かいものが欲しくなるというごく当たり前の欲望によって、ごく当たり前の<私たりうる私>に回帰するであろう<とりあえずの私>に、より積極的な自己浄化のために不浄なる行為を仕組むこととして、<当たり前たりえぬ私>へと横滑りし続けることを可能にしたというわけなのだ。
 それを言い換えるならば、「ココアを飲むこと」自体に罪悪感にも似た不浄なる行為性を見定めることによってこそ、<私たりえぬ私>は自己浄化のために「ココアを飲み続ける」ことが出来るのだ。
 そして、二杯目のココアを一杯目よりは少し熱いと思いつつ飲むことが、明らかに口の中の回復宣言であるにしても、すでに不浄なる行為によって浄化されつつある口は、ここで二杯飲むことになる理由を、魔法瓶の口まで満タンにしたココアが一番冷めにくいこと、しかしそのためにはここで二杯飲んでおかなければ空にして帰れないという、何が原因で何が結果なのかも曖昧な欲望の戯れとして語ることが出来るのだ。
 ところでいま思うと、あの白く大きな犬との巡り合わせが、寒いと思う感覚こそを浄化することになったのであろうか、あれ以来、ココアを飲むときの手が以前より震えなくなっているのだ。そもそも、滝から「洗心洞」に戻りこの辺りで立ち止まると同時に、脊髄を貫通する寒気に襲われて凍えの電撃がとめどない震えを起こし、まずはオーバー・パンツを着いてからにしようとしても、足元がふらついてブーツがパンツに引っ掛かり、なんとか足が通ったとしても今度はウエストのホックをする力が出ないというわけで、魔法瓶を落とさずにバッグから取り出すことさえままならないのだから、カップにココアをこぼさずに注ぐことは、かなりの高等技術であるとさえ思われていた。しかもそのような時には、目的とする行為に熱中し緊張すればするほど手が震えるというわけで、カップを口元へ運ぶときは大きく深く息を吐き、その一瞬に手の震えが止まる間隙を縫って唇でカップを挟み、寒さと緊張で噛み合わない歯に当てないように飲んだものなのだ。しかしあの滑稽なほどの身震いは、いま白く大きな犬と共に消えてしまっているのだ。
 「洗心洞」を出ると、今までは小康状態であったと言いうる疎遠な足が、踏み締める一歩毎にさらに血の気が失せていくのを感じさせ、何歩も進まぬうちにほとんど氷のブーツを履いた足になり、駐車場の凍結したタイヤの溝に翻弄されてしまうから、まるで意志という糸の切れかかったマリオネットになってしまうのだ。そして心細い歩みで呼吸が乱れれば、今し方暖かい湯気を吸い込んだ鼻が切ない鼻水を流し始めるので、しばらくはタオルのハンカチで鼻をかみつづけることになり、駐車場を過ぎると顔に当てているハンカチで曇ったメガネに、県道に出る手前の街灯がひとつ、まだ夕焼けで明るい空ににじんでいるのを見ることになる。
 流れ出る鼻水が一段落すれば、これからしばらくは手が自らのために片手を手袋のまま口元に当てて、吐き出す息を受け止め生のまま零れ落ちる自己愛の温もりを束ね、もう片方の手は、ヤッケのポケットの中ですでに束ねられた自己愛を握り絞め、不成就性の欲望として霧散してしまうはずだった霊力を、ことごとく自己完結させて解き放すというとめどない運動を繰り返していくのだ。するともはや無力化された霊力はポケットに留まることもなく、消極的な自然へと擦り抜ける風になってしまうけれど、いつの間にかポケットは誰のものとも言いがたい快適な温もりで満たされるのだ。
 県道に出たところで再びカーブ・ミラーを覗くと、真っ赤に腫れた正体不明の観光客の顔が見えるけれど、所詮<とりあえずの私>には顔の感覚がないのだから、それがどれほど不様に憔悴しきった顔であれ知ったことではないのだ。そのままカーブ・ミラーから目を上げると、下りになった雪原の彼方左側に堂々と立ち上がる白根山の全景があり、さらにその左の奥に続く山は万座から志賀へ抜け、一方右に流れる山並は雪の深い上越の山へと続く。
 すでに<透明なる夜>の色に包まれている雪山は、南西に向いたわずかの斜面を夕焼けに染めて、これから凄烈なる寒気によってこそ完成される<美>への「荒ぶる欲望」をなまめかしい寝化粧に隠し、密かに自己完結への期待が昂揚して軋ませるとめどなく淡い思いを、輝きを失った天空の縁に低く流れて絶望する光がそれゆえに再生を誓うことの出来る希望の色に託して、とろけるほどの自惚れを纏い早い眠りにつくのだ。そんな眠りに誘う<美>の欲望が、ことさら壮麗な白根に宿る日には、自惚れの囁きが夜の始まりにこそ輝いて見える霊性を、雪原を渡る北西からの流れに委ね、ヒトビトの<魂>と名付ける生暖かき自己愛へのかすかな念いをも眩惑させる素早さで、金糸銀糸に飾られた烈風を吹き付けるのだ。
 そんな日には、ポケットの中での姑息なる自己愛の浄化を諦め、手袋の中でさえまどろみえぬ自己愛をそのまま捧げ、わずかな温もりへの完結という女々しいほどの希望をも断たれた手を引き受けて、いまだ温もりえぬ<私>へととめどなく横滑りする<私たりえぬ誰か>を、とりあえずの<金剛薩埵身>のままにして金糸銀糸の霊性で飾れば、吹き抜ける風はたちまち輝きを変え<透明な夜>を駆け抜ける寒気を露わにして、そのまま峠へと駆け昇るのだ。
 ここから真っすぐに少しづつ下る白い道は、<透明な夜>へと誘う風に洗われて、金と銀とに輝く霊性の糸を流している。もはや温もりへの欲望も忘れ、吹き付ける霊性の糸をことごとく身に纏って歩く<何>行者は、<透明な夜>へと誘われるままに歩みを速めていくのだ。もしもそれが日曜日ならば、<透明な夜>の雪煙の中に峠を越えて都会へと帰るスキーヤーの車が、辺りの輝きを生臭いものに変えて通り過ぎるから、吐く息でそんな寒気を振り切りつつも吸い込む息に追い付かれ生臭くなってしまうという<私>的「何-景」に、もはやスキー場へと女の娘を連れて通わくなって久しいという、いささか身に覚えのある饐えた欲望の匂いを思い起こさせるけれど、いま清麗なる薄暮を欲望色に染めて走る彼らのフロントガラスの中にあたかも<透明な夜>の亡霊として、持て余した若さの自愛的霊性に愛でられしヒトビトには、ほとんど意味不明のまま言葉にならない輝きを纏って発見されるはずの、でもとりあえずは寒気に取り付かれた観光客もどきにすぎぬ誰かが、彼らの想像しえぬ<何>者かでありつづけるという完結した正体不明者であることは、<何>行者が欲望の匂いを振り切るニヤケた「風-景」が、自愛的欲望を暴力的に昂揚させてしか遊びえぬヒトビトの「遊びの<何>景」になっていることを思わせるのだ。

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