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 県道に出て二軒目のAさんを過ぎてから、右側が土木工事の残土で作られた広場のところで、<とりあえずの私>は寒さの痛烈なボディーブローの一発を覚悟して立ち止まり、ウォークマンを取り出すのだ。たとえここで痛恨の一発を食らおうとも、ウォークマンは、次第に<誰か>へと再生するときの蘇る皮膚感覚ゆえの「冷たさ」という痛みを、痛みゆえの快感へと倒錯するすれすれのところで、透明な戯れへと誘うのだ。いや、むしろこの痛恨の一発こそが、<私たりえぬ私>を寒さによって横滑りさせるウォークマン物語のプロローグとなるのだ。 そろそろ時刻は四時三〇分になり、これから四五分間続くテープの音楽は、霊性の糸に飾られた<金剛薩埵身>が、<風の響き>が夜の冷徹な美的霊性へと輝きを変えていくその「流れ」を語る物語なのだ。むろん<金剛薩埵身>がとりあえずの密教的霊性によってしか語りえないように、<夜という美>の輝きもとりあえずの<風の霊性>にすぎないけれど、いかなる音楽が<何>を語るのかということは、この霊性の彩りを決めてしまいかねないために、ここで<何>を選ぶかはその「選ぶ=選ばれる」ことの排他的な暴力性に見合った積極的な意味を担うことになる。
 それゆえに、家を出る前に天気と気温を見て帰るころの状況を予測し、その日はいかなる気分で<私たりえぬ私>へと横滑りしているかを見定めなければならないが、それは同時に<とりあえずの私>の中に澱んでいる風に流れ出す力を与えることでもなければならないのだ。しかし四五分を越えるマーラーなどは、<何>的戯れの完結性を延期させ欲求不満に埋没させかねないから敬遠しなければならず、二〇〜三〇分で終わってしまうものには、残りの時間を補填する配慮をしておかなければならないのだ。
 ウォークマンによる<何>的戯れは、去年から始めたことであるが、それは滝行によって<私>が<私たりえぬ私>として揺らいでも、いずれは暖かさにおける<私たりうる私>へと回帰することの安心感が、たとえいま寒さによって<私たりえぬ私>として揺らいでいても、いつのまにか寒さによってさえ<私たりうる私>に埋没してしまいかねぬ倒錯的な慣れに対して、いかなるときにも自己同一性という幻想で<私>にとどまることは出来ないという、反省のクサビを打ち込むことでもあるのだ。
 しかも、寒さに愛でられし<とりあえずの私>に反省のクサビを打ち込むこととは、かつて<私>の十代から二十代にかけて、己の不透明な存在理由に翻弄されていかようにも制御しきれぬ自愛的暴力が、結局はその暴力によってしか<私>を生きえないと知りつつも、それが肉親の傷みの返り血を浴びて生き延びることでしかないという、辟易するほどの愛の矛盾に撞着しているときに、当時の現代音楽という未知に遭遇したことが、常識・文化・制度を支える<愛>によってこそ<音>が<音楽>たりうるものを、単に<音>を聞くことでしかない音楽解体の現場へと引きずり込むこととなり、その<音>の<愛>に対する不信感によってこそ見えた「自分とは何か」を、「いかに生きるべきか」として生きる事件にしえたように、ここでは辟易するほどの過激な寒気を抜きにしては、<とりあえずの私>を寒気によってさえ武装しうる<愛>の<何>化を語ることが出来ないというわけで、冷徹な愛の霊性に凍える正体不明者として身を投じることの快感を、今度は<音楽>の自己矛盾を仕掛けることとして発見することなのだ。
 それにしても西洋の音楽が<音>として解体されるためには、何はともあれ愛の権化たる神の不在が語られていなければならなかったように、愛の住まいである<家族>という神話がひとりひとりの苦悩者として崩壊し離散してしまうためにも、やはり神話継承者たる<誰か>の不在化を必要とするのだ。言い換えるならば、<とりあえずの私>がかつて苦悩者としてしか生きえなかったときに、「<音>の閃き」とは、己が無意識に担う<家族>という神話に不在化されている<語部>を発見する啓示たりえたというわけなのだ。
 そこで今、この雪原でウォークマンによって語られようとする「<音>の閃き」が、<とりあえずの私>の<音楽>に対する自己否定的覚醒としての<何>行たりうることを、ひとつの崩壊する<家族>神話から語ってみたいと思う。
 とりあえずは江戸中期より明治末期にかけての約一五〇年間にわたり、製塩の利権と材木業から千石船による海運業としての掠奪システムを築き、ほとんど総合商社としての繁栄を欲しいままにした後に、没落すべくして没落した豪商の最後の当主に、後に神話継承者になるひとりの妾がいた。この当主は一五〇年来の繁栄と蓄財の管理運営を蔑ろにし、その上無明無知の強欲な見栄に付け込まれ、つまらぬ事業に騙されては失敗を続けて散財し揚げ句の果ては夭折してしまったために、妾のまま取り残されてしまったこの女性は、未完のままに挫折してしまった愛の物語を、この当主の無明無知性を悪しき性格として露わにしたために親戚縁者に疎まれていた嫡子と、病後精薄のその弟への愛欲的献身によって語り続けようとした。
 この女性の愛欲的献身が、没落者の末裔として栄光神話にすがって生きる屈折した発育不全者である嫡子の「わがまま」に対しては、ささやかなる歯止めで有り得たうちはよかったけれど、精薄の弟の死後この性格破綻した嫡子が初老期を迎えるころになって、病弱ゆえに婚期を逃していた三十過ぎの女性と妻帯することになり、かの女性は愛欲的献身の終焉を決意することになったのだ。ところが、嫡子とその妻の間に孫ほども年の離れた子供が誕生したことにより、この女性はくすぶりつづけていた愛欲的献身を、その子供への溺愛によって贖ったために、結局はその子供を発育不全者へと育て上げることになってしまうのだ。
 ここで生涯結婚することのないまま子供も産むことのなかったこの女性は、没落者の愛人でありつつ、その嫡子の母親でありながら愛人でありつつ、さらに嫡子の子供にとっては祖母でありえたけれど、しかしその愛欲的献身が栄光神話への贖いでしかなかったために、神話継承者としての自己神格化の欲望は、嫡子の妻の神話への献身的な愛を貧る姑でもありつづけたというわけなのだ。
 それゆえに、ほぼ六〇年の三代にわたる没落者たちに愛欲的献身を捧げた女性の<死>は、栄光神話あっての<家族>がその要を喪失することになり、いよいよ家族の絆を崩壊させることになるのだ。そこでこの神話性を喪失し崩壊した家族の<悲劇>は、年老いた嫡子と、自らがやはり没落者の末裔である一四歳下のその妻と、嫡子から四七歳離れた長男と四九歳離れた次男の四人が、それぞれ発育不全の自愛的欲望者であるために、苦悩なしには何事も語りえぬ物語として、もはや神話たりえぬ家族の肉親相克を語らなければならなかったのだ。
 しかも<音楽>から解体された<音>が、「<脱-音楽>作品」として提示される<音楽>であるように、たとえ家族神話が喪失されようとも、常に<誰か>の愛欲的献身にすがった発育不全によって生まれ生きつづけてしまっている家族的苦悩者にすぎないのだから、ここでも亡霊化したかの女性を神的不在者として背負っているというわけで、この不成就性の愛欲を浄化しないかぎり<家族>としての平穏を得ることが出来ないというわけなのだ。
 この四人の悲劇を、<音>の事件として語りつつしかもそのこと自体が苦悩であるにすぎぬひとりが、嫡子の気ままで裏切られるために愛されたにもかかわらず、そのささやかなる愛さえも長男に妬まれた次男であるところの<とりあえずの私>に他ならないけれど、すでに<何>行者たる<とりあえずの私>とは、この悍しき家族神話の不成就性の愛欲こそを<何>化せんとしたのだから、もはやこの雪原で喚起される<音>の事件は、<悲劇たりえぬ家族>を正体不明者として語ることでしかないのだ。
 だからいま再び、あの一九六〇年代に遡りシュトックハウゼンの『ピアノ曲』(ヴェルゴ\WER-60010)で、疾風のごとく突き抜ける音が予期せぬ爆発を孕んで炸裂するという、さながらにしてピアノの廃虚で繰り広げられる市街戦に巻き込まれた<私>が、絵画という独り言を武器にして親兄弟からえぐりとった愛欲の返り血を浴びて為て遣ったりの微笑みを浮かべるように、あるいは『(打楽器のための)円環』(WER-60010)で、音が自らの響きに覚醒するときの胎動ともいいうる「音に耳を澄ませる音」の戯れに突き放され、愛による自覚とは裏切りの動機に他ならないことを知り、さらに『(電子音とピアノと打楽器のための)接触』(WER-60009)では、音がうめき、呟き、うなり、回転し、舞い上がり、打ち寄せ、軋み、遠吠えするという、正に音楽の墓場で音が自らの欲望に目覚めて魑魅魍魎の世界に生き返り、跳梁跋扈の大騒ぎをしているところに遭遇することが、呪われた血という悍しい欲望によってしか家族たりえぬ<愛の偽り>は、呪われた血によってこそ贖われるべきだと知ることでしかなかったという、あの当時に回帰することはないのだ。思えば、<音>で切り取った<愛>の事件とは、襲い掛かる「音の欲望という爆風」に吹き飛ばされないように、歯を食いしばって<私>を自己愛で武装しつづけることでしかなかったというわけで、今となっては武装する<私>を持ち合わせていないのだから、もはやかつてのように<音>と対峙することはないのだ。
 それゆえに、今改めてあの頃の<音>事件を辿ってみても、いまさらシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』(コロンビア\OS-288)に憑かれたピエロのように、欝的な自己愛への生真面目さに溺れつつ、そのくせそんな自分を冷笑することによってしか、<私>を突き放すことの出来ぬ胸苦しさを再現することはないはずだから、たとえシェーンベルクの『ヴァイオリン協奏曲』(コロンビア\OS-287)に母の涙がすでに愛の不在を潤すことのできぬ哀しみであることを知り、バルトークの『ヴァイオリン協奏曲第2番』(コロンビア\OS-976-S)へと愛の不在に慟哭しつつ涙の巡礼をつづけた道を辿っても、武満 徹の『弦楽のためのレクイエム』(ビクター\SJV-1503-A)に沈潜することで、涙のとどかぬ哀しみに冷たく燃えた唇が、かろうじて隠した言葉さえも武器でしかなかったことの痛みを癒したように、<言葉>たりえぬ<音>で<言葉>たりえぬ<絵画>を癒したことへと思い至るだけなのだ。
 しかもバルトークの『弦楽器と打楽器とチェレスターのための音楽』(ビクター\SRA-2115)やペンデレッキーの『聖ルカ伝によるイエス・キリストの受難と死』(コロンビア\OS-923〜4-PM)で、哀しみによってしか生きえ ぬ自己愛に茫然と立ち尽くし、愛によって救済されるべき苦悩とは、愛こそが苦悩であると知ってしまった後には、もはやいかなる救いも無いことを思い知らされ、さらに武満 徹の『エクリプス』(ビクター\SJV-1504)『怪談』(SJV-1505)や篠原 真の『交流』(フィリップス\SFL-8538)に、自己愛の挫折こそが奇しくも安らぎであることの<ためらい>の中に情念によってこその昂揚を見定めつつも、それがルトスワフスキーの『アンリ・ミショーの三つの詩』(コロンビア\OS-915-PM)や同じミショーの詩によるミラン・スティビリの『汝、弱き翼よ、高みへ』(フィリップス\SFL-8538)では、救いのない情念に身震いしながら、結局は武満 徹の『地平線のドーリア』(ビクター\SJV-1503)『弧』(SVJ-1506)において自己崩壊に立ち会い、「では、いま自己崩壊に立ち会っている<私>とは誰か?」と問いつつ、<音>によっては解消しえぬ<私>を苦悩者のまま持ち帰らざるをえなかったことが、武満 徹の『ノヴェンバー・ステップス第1番』(ビクター\SX-2014〜5)で、<私>の傷だらけの<音>の彷徨が相入れない矛盾を<痛み>としたままの頂点で、<痛み>なくしては何事も語り続けることの出来ない一切の表現者としての宿命を見定め、小賢しい回答を用意することの欲望を霧散させてしまったのだから、その後に武満 徹の『秋庭歌』がこの表現者を<芸術家>へと埋没させてしまったことが、<音>体験も救済を求めて生きることでしかない<とりあえずの私>には、芸術的価値で武装する自己欺瞞を見せるばかりであったというわけで、たとえ今<音>によって過激な正体不明性に身を投じるにしても、たまたま<透明な夜>の霊性に呪縛されてこそ輝く<美>を、いまだ<美>とも<愛>とも名付けえぬ薄暮の中で、たとえば「芸術的苦悩=苦悩的芸術」という戸惑いの残映を纏う「風の声」に、<私>の不在を問い正すことに他ならないのだ。

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 いま<寒気>さえも<音>事件として生きてしまう<私たりえぬ私>は、もはや誰かに「聞かれることを拒否する<音>」に拘泥することもなく、ただ「荒ぶる自然」の霊性である<風>に<とりあえずの私>の<反省的囁き>を委ねるのみだから、<風>がいかなる響きを纏って<透明な夜>を吹き抜けようとも、流れ続ける<風の囁き>は正体不明者の告白にすぎないというわけで、いつのまにか<音>が誰かに「聞かれることを待ち望む<音楽>」に擦り変わっていても、<何>行という自己否定性の地平に変わりはないのだ。
 あらゆるものがそのものとしては在りえぬこの雪原では<風>が囁き、呟き、叫ぶときにこそ、<音たりえぬ音>と<音楽たりえぬ音楽>がことごとくの<私>的なる「荒ぶる自然」を反省的に響かせるのだから、いま<ヘッドホン>といういたって<私>的な領域を屹立させつつ、しかも<私たりえぬ私>の中空へと吹き抜けてしまう<音の装置>は、あの寒さによってさえ<私たりうる私>へと倒錯しかねぬ自己愛を、<何>行者ゆえの「荒ぶる霊性」によって中空へと巻き上げ、<装置>たる自らの「暴力=霊力」的存在すらも<消極的な自然>へと棚上げしてしまうのだ。
 いま<消極的な自然>の<静寂>によってこそ霊性の風が流れる栗平は、<透明な夜>に<私たりえぬ私>でありうるすべてのヒトビトを、厳粛にして凄涼なる寒気で包み込んでしまうから、ウォークマン的<何>行より以前に今よりは三〇分ほど遅く滝行していたころには、風に誘われて振り返る浅間隠山の裸樹に被われた白い霊域のすぐ上に、まだ青い夜の空に時間を止め空間を擦り抜けた閃きの満月が、月という意味の霊的光景のためにコラージュした明晰すぎる月として、その際立った明晰さによってこそ壮麗で感動的な戯れを輝かせていたのを見ることが出来た。
 それにしても落日の後にまどろむ光の霊的な戯れによって語られる影が、ほんの少しづつ春を予言しはじめる声を、まだまだ寒くなり続ける冬の真っ只中でも聞き取れるころになると、四時三七分栗平発のバスに擦れ違うことはおろか、その走り去る姿さえ見掛けなくなってしまうけれど、それは<何>行者が<透明な夜>から遅延されつつ吹き上げてくる風に、あるいは<透明な夜>へと誘う風によってこそ<私たりえぬ私>を委ねる霊性を発見しつづけていたことと、客のいないバスがつい光の春に向かってアクセルを踏み込んでしまうことの、ほんのささやかなる擦れ違いによる大きな隔たりであるのかもしれない。
 どこにいてもあまりヒトと会わない<私>は、めったに擦れ違うことのない誰かにとっては、なおさら寒さによってしか輝いて見えぬ風にすぎないけれど、橋下のすでにヒトのいない護岸工事の現場では、凍結防止のためにコンクリート・ブロックに張られたビニール・シートを、自惚れた輝きではためかせ橋を渡るのだ。そろそろちぎれそうに痛み始める足の指は、寒さから遠ざかることによってこそ<私たりうる私>たらんとする在り来りの欲望には、感覚回復の兆しだから微かな僥倖とも言えるけれど、<私たりえぬ私>を流れる風は、そんな肉質の僥倖をことごとくブラームス的自己愛へと委ね、<ヘッドホン>によって仕組まれた「<透明な夜>のすべてである静寂」と「記憶をまさぐる魂」に輝きの糸を流し続けるのだ。
 それゆえに、いまこの雪原で<ヘッドホン>という戯れの構造を吹き抜ける風の霊性が、そのとめどない反省力によってこそ「ブラームス」を語らずにはいられないとすれば、それはいかようにも「ヒトビトである<私>」を回避しえぬ<誰か>の<何>行というものが、すでに生まれ生きてしまっているヒトビト自身の厳密なる反省によって、「すでに<私>とは愛という欲望にすぎない」ことを見定めずにはおかぬ<恐怖の叫び>を、さらに<絶望の叫び>として反芻させて再びヒトビトを震え上がらせ苦しめずにはいられないという、傲慢な悲哀の矛盾こそを語らせずにはおかないからであり、ここでは「ブラームスである<誰か>」の自己愛をより悍しき自己愛で厚化粧しつつ、なおかつそんな企みを緻密な計算で武装せずにはおかぬ「ブラームスでありえた<誰か>」の心貧しき欲望が、結局は哀しみを楽しむことでしかなかったという反省によって、見事に風を巻き上げるからなのだ。 いまブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』(Vn\ナターシャ・ミルシティン、指\ヨッフム、ウィーン・フィル) (Vn\クレーメル、指\バーンスティン、ウィーン・フィル)が、ありきたりの幻想にさえ荘厳と神秘を纏わせる風が<幻想にすぎない幻想>に幻想的情熱を与え、雪原の裸樹の枝ひとつ動かすこともなくひそかに<透明な夜>へと流し続けているのを見せるから、雑木林の奥で忘れられた夏の山荘が自らの幻想にいまだ愛の温もりを与えることもなく、「それがどうした?」と幻想たりえぬ幻想的情熱を持て余し、「どうにもならない」不満を吐き捨てる澱んだ風を纏っていても、それは「どうする気もない」幻想であると知り尽くした雪原の風は、そんな思いさえアッと言う間に吹きちぎってしまうから、<透明な夜>の一時の耳鳴りは、「思うようにはいかぬ生活の苦しみは、思うことによってこそ始まると知りつつも、何かを思わずにはいられない」ものの痛みを反省的に響かせて、「何かを思うことによってこその思い通りの生活」をしたいなら、風とともにこの道を行くしかないと繰り返し囁きかけるのだ。
 だから透明な雪原を這い闇に向かって突き進む風に、たとえ荘厳と神秘に飾られていようとも身をよじり枝を軋ませている樹木があるはずなのに、何事もない静寂に支配されて微動だにしない樹木の平安は、たとえば<とりあえずの私>の欝的な静寂から記憶へと吹き抜けて、すでに「音の沈黙」となったブラームスの『ピアノ協奏曲第2番』(pf\ギレリス、指\ヨッフム、ベルリン・フィル)で満たされているとすれば、反省的に<何>かを思わずにはいられぬ<私たりえぬ私>が語る冬景色の「音の沈黙」は、烈風吹きすさぶ雪原であるからこそささやかな想い出でありうる炎熱の都会から、凄烈なる寒気の静寂へと吹きぬける『ピアノ協奏曲第1番』(pf\ポリーニ、指\ベーム、ウィーン・フィル) を「沈黙の音」として響かせていることにも気付かせるはずなのだ。
 そんな「沈黙の音」を辿り『ピアノ協奏曲第1番』の夏に横滑りしてみると、梅雨どきの雲の切れ間に、コンクリートやアスファルトのわずかな隙間にも十分すぎる水を含んだ街が、つかの間の夏の日差しに焼かれ、立ちのぼる陽炎がそのまま夜になっても冷めきらぬ火照りとなっているときに、それはいつまでも明かりと喧騒の消えない街の生理的な肉質を受肉してしまうから、たとえば澱んだ下町の風が、清涼なる高原の夏の夜から「荒ぶる自己愛」の街へと流れ込む「閃きの音」たりうるにしても、そんな閃きによって垣間見る高原の静寂さえもが、いたって人為的な自愛的意味の光を求めて群翔する「荒ぶる生命」を拒むことができないのだから、結局は生命を生命たりうるものとして存在させる「荒ぶる自己愛」を抜きにしては静寂たりえぬ夏の高原は、とめどなく自愛的な『ピアノ協奏曲第1番』を、今度は高原の静寂から街の記憶へと流れつづける「音の沈黙」にしてしまうのだ。
 それゆえに「沈黙の音」でありつつ「音の沈黙」でありつづける『ピアノ協奏曲第1番』が、澱んだ下町の欲望をとめどなく巡る風として、誰もが否応無しに自愛的欲望によって<私たりうる私>であり続けるときに、かろうじて立身出世という暴力的希望においてのみ<私たりえぬ私>でありえたものたちのサクセス物語に見合った貧困の中に、執拗なまでに自らを飾りたてるグロテスクな熱気が場末の街という歪んだ顔に淫らな欲情を化粧している様を見定めさせるならば、風に誘われて記憶をまさぐる<とりあえずの私>は、「家族という神話」を「四人の悲劇」としてしか語ることの出来なかったころの危機感にまで遡ることが出来るのだ。
 するとその<危機感>とは、アルバイトなどという名目でさりげなく街の生活を送る隠遁者が、隠遁生活の開放性から抜け切らず闇雲な<疲労>によって<私たりうる私>へと埋没しかねないという<何>論的危機感でもあるのだから、たとえそれが、仕事が遊びであることの愉快な疲労感へと落ち着くまでのほんの一時のことであるにしても、「<何>論してる暇もない」ほどの労働の身体的拘束性が時間の浪費に思われて、その揚げ句には「<何>論していられないほどに疲れてしまう」という、「精神の空間性」をも喪失させることの焦りには違いがないとすれば、何はともあれ危機という緊張感は、とりあえずの「身体としての精神」の空間的閉塞情況と言いうるものが、「精神としての身体」の時間的拘束性によって疎外されたものであると言えるのだ。
 つまり、『ピアノ協奏曲第1番』として生きられた<何>景とは、『ピアノ協奏曲第1番』が高原の<静寂>においてはいささか思弁的にすぎて整形された危機にすぎないと思われていたものが、街の熱気と喧騒の中においては新鮮な<静寂>でありうることの驚きとして、「精神としての身体」の時間的拘束性を「身体としての精神」の空間的拘束性が疲労させるのだ。しかもその<疲労感>こそが、一度それにどっぷりと浸かってしまえば、ヒトビトの欲望から<とりのこされた静寂>を「<あるべし>としては<ありえぬ>」焦りによってしか贖うことが出来ないというわけで、しかもそこでは「<ある>ようにしか<ありえぬ>」という<とりあえずの私>が<疲労>し続けるためにしか<働く>ことが出来ないものとして、笑うわけにもいかずに「おかしいじゃねえか!?」とか「こんなはずじゃなかったんだ」と叫ぶ<反省的閃き>の土壌でもあるのだから、たとえ<自己愛>を苦悩の元凶と見定める以前でも、そんな<反省的閃き>に感動しうる日々には、不成就性の欲望によってこその表現者を問答無用の情熱家へと駆り立てるのだ。そしていま<何>行者の『ピアノ協奏曲第1番』は、<疲労>の<何>景として「静寂さを閃かせつつ」、ことごとくの欝的な動機へのやり場のない情念によって「清浄なる輝き」を生きさせるのだ。
 それにしても<ヘッドホン>という戯れの<構造>は、女々しいほどの自己愛ばかりを巧みに巻き上げるから、<何>的<音>事件は、しばしば「ブラームス」を槍玉にして語り起こされるのだ。そにで再び<私たりえぬ私>として静寂のまま凍らせておいた『ピアノ協奏曲第2番』へと立ち返り、「音の沈黙」に満たされた雪の降る日に、そんなささやかな<静寂>さえもが、まるで大気中の<モラトリアム的真空状態>にすぎないはずだと思う<静寂たりえぬ何か>への反省的欝感を捏造し、そのかすかな<何>的念いの温もりでそっと雪を吹き払い『ピアノ協奏曲第2番』を解凍してみれば、そこには「たとえ苦しみと知りつつも思い通りの<私>を生きてみたい」と言わずにいられぬヒトビトのやるせない念いに、それは「<私>という苦しみぬきには何事も考えない」ヒトビトの<自己愛信仰>にすぎないとうそぶいてみせる三善 晃の『ヴァイオリン・ソナタ』(vn\黒沼ユリ子、pf\三善晃) や『ヴァイオリン協奏曲』(vn\数住岸子、N響) が、驚くほどの繊細さで<降りつづく静寂>を輝やかせ「沈黙の音」を吹き付けてくるから、今度はそんな「沈黙の音」の中から三善 晃の『弦楽四重奏曲第2番』(ビクター\SVX-1001) を探り出し、<金剛薩埵身>のあの神話浄化の情熱で解凍してみれば、そこにはサティーの『ピアノ曲集』(ビクター\VIC-4060〜4) によって語られる饒舌な「音の沈黙」が、あの雷鳴を轟かせるほどの滝で濡れ鼠の<何>行者の衣から滴り落ちるたった一滴の囁きのように、わけもなく欝的に滑稽な事件を<静寂>として語らせるはずなのだ。

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 滝の入り口から橋に向かって下りつづけた分を、ゆっくりと取り返す長い穏やかな昇りの道は、<風の声>を聞きつつ自らが<風の声>である<私たりえぬ私>に、「沈黙の音」と「音の沈黙」の狭間で<音>のない<音>の集落を歩かせる。すでに材木置き場にはトラックの姿もなく、<何>行者は忘れたころに通り過ぎる車にも吹き付ける風となり、ひたすら言葉の届かぬ<何>的意味の<透明な夜>を歩き続けるのだ。
 土建会社を過ぎ、そして小さな橋を過ぎるころに、時折学校の帰りが遅くなった子供達と擦れ違うことがある。それは子供達にとっても、いつものところでたまに遭遇する正体不明のオジサンが、いっも真っ赤に腫れ上がっているために元々は白いと分かる顔にサングラスを掛け、毛糸の帽子の上からヘッドホンを挟み、大きな手袋で口を被って通り過ぎるという、到底地元のオジサンとは思えぬ不思議的事件であるからこそ、子供達のねちっこい眼差しが、つい<何>行者にも「諸君! 君たちの顔こそ、オジサンに負けないくらい田舎焼けしているゾ」などと言わせずにはおかぬ滑稽さとして、いかにも子供好みの弱者嘲弄的快感を思わせる、そら恐ろしいほどの荒ぶる面白さへと引きずり込むのだ。しかしそれもほんの一瞬のことだから、すぐ直角のカーブを右に曲がり一直線の道に出るころには、もう何事もなかったことになってしまうけれど、いつのまにかこの辺りまで<光の春>が雪原を祝福する頃になり、<透明な夜>の誘いは言葉を求めぬままに遅延されていくのだ。
 風が重く暗い日にも<私たりえぬ私>の静寂は、澱みがちの風にもかすかな「沈黙の音」を聞き逃さないけれど、それはしはしば雪と氷に閉ざされた大地の温もりと囁きであるはずだから、たとえばスパイクタイヤに削り取られた剥き出しの土が凍える痛みに流す涙は、あまねく母なるものからの祝福こそが、それからは逃れられぬ苦悩者への洗礼であることを知る子供たちが、たまたま女の子であるときに自らが母性へと成熟し苦悩を宿すことになる宿命に流す涙であると言いうるとすれば、たとえその涙が生命賛歌の温もりであろうと愛欲的な宿業への悔恨の念いで心を凍らるものであろうとも、そんな母性的なるものへの「帰りたい帰れない」望郷の矛盾は、<私たりえぬ私>ならずもすべてのヒトビトがかつて子供であったことを忘れることが出来ぬままに大人でいつづけるという、「忘れたいのに忘れない」望郷的苦悩者であることが明らかになるから、ここで「忘れられないことへ帰りつつ忘れる」旅にでるのなら、やはりブラームスの『弦楽六重奏曲第1番(ポリドール\MG-2469)、第2番(キング\SLE-1004〜8)』そして『クラリネット五重奏曲』(cl\ウラジミール・ルジーハ、スメタナSQ) あるいは『チェロ・ソナタ』(Vc\ピエール・フルニエ、pf\バックハウス) や『クラリネット三重奏曲』(cl\プリンツ、Vc\スコチッチ、pf\デイムス) を仕掛けることで、追憶の戯れは快的な欝感でとめどなく溢れ出る涙とともに<何>化することができるのだ。
 しかし、とめどない母性への望郷を発育不全的自己愛で「優しさ」などと言い繕ってしまうならば、もはや「沈黙の音」は、森 進一の泣き言や八代亜紀の不成就性の愛欲に埋め尽くされ、揚げ句の果てには小林 旭のやたらと昂揚したヒロイズムへとさすらってしまうから、そうなってはいかようにも「音の沈黙」という風は吹き抜けなくなってしまうけど、望郷へととめどなく吹きちぎられていく涙が厳密なる反省への共感であるならば、森 進一は白い高原でかろうじて潤いを残すモミや松に共鳴し、八代亜紀はあの愛の呪文で風を呼び起こし、もしもそれが期せずして吹雪にでもなれば、小林 旭は<私たりえぬ私>でありつづける逃走の戯れへと擦り抜けて、いつも<私たりうる私>の根拠でありながらしかし自己愛の軋む<私たりえぬ私>のときにしか姿を見せぬという、<魂>と呼ばれる欲望の横滑りを「音の沈黙」として響かせるのだ。
 ブラームスによって語り起こされた<魂>という欲望の横滑りは、「音の沈黙」と「沈黙の音」を繋ぐ風の流れであるのだから、横滑りする<魂>の叫びは、顔も凍える酷寒の日にはモーツァルトの『ピアノ協奏曲K.482』(東芝EMI\EAC-90160) によって加速され、リヒテルとムーティの卓越した瞬発力がたとえば<作品>という約束された<魂>を軋ませ、さらに一切の愛による平穏という幻想にも亀裂を走らせ、やはりモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第3番、第5番』(Vn\ヨーセフ・スーク、プラハ室管)が、ただ寒くなるためにだけ冷えつづける「荒ぶる自然」の戯れを加速させれば、すでにそのものとしては在りえぬ<魂>の叫びは、マイルス・ディヴィスの 『ビッチェス・ブリュー』で流れる雲から時間を脱落させ、キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』(ECM-1064〜5)『ソロ・コンサート』(ECM\PA-3031〜3)で流れる風から空間を脱落させ、さらにはリストの『詩的で宗教的な調べ』(ロンドン\SLC・V-2295)(フィリップス\X-7813)で<私>という神を脱落させるのだ。
 もはや<透明な夜>の雪原に<私たりえぬ私>によってこそ静寂である霊性の輝きは、「消極的な自然」という正体不明者の欲望により、すべての<私たりうる私>と「積極的な自然」に反省を喚起しつづける「閃きの風」でありつつ、同時に静寂である誰かから記憶へと横滑りする「輝きの風」であるのだ。
 そもそも「風の声」が自らの霊性によって様々の<静寂>を語ろうとするときに、「音の沈黙(音が沈黙・自己否定として在る)」という企みとは、<とりあえずの私>から<私たりえぬ私>へと「吹き抜ける風」となり、そのときに<とりあえずの私>は「反省的輝き」によって<私たりえぬ私>を語り、そして「沈黙の音(沈黙が音の不在として在る)」という企みは、<私たりえぬ私>から<とりあえずの私>へと「吹き付ける風」となり、そのときに<私たりえぬ私>は「反省的閃き」によって<とりあえずの私>へと語りかけることであったのだ。
 それゆえに、「音の沈黙」と「沈黙の音」で語る「風の<私>小説」とは、物語という「荒ぶる霊力」によって<とりあえずの私>がとめどなく<私たりえぬ私>へと横滑りしつつ、しかも<とりあえずの私>は<私たりえぬ私>からの横滑りによってこそかろうじて<私>でありうるというわけで、とめどない横滑りによってしか語れぬ<静寂の物語>は、常に<私たりえぬ私>によってしか語れぬ「風-景」を、<とりあえずの私>の「<何>景」として語っているというわけなのだ。

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 そろそろ四時四五分になり、第三小学校に向かう小道へと入るが、この辺りに来ると次第に足の痛みを感じなくなるけれど、もはやそのことでは自己愛の温もりを貪る<私たりうる私>へとは回帰することもなく、<とりあえずの私>の記憶から<私たりえぬ私>の静寂へと流れ込む風でありつつ、同時に<私たりえぬ私>の記憶から<とりあえずの私>の静寂へと流れ込む風が、とめどない「沈黙の音」を語るように、かつての足の痛みによってこそ<私であった誰か>を意識するにとどまるのだ。
 そして今、この道を両側から覆う背の高い裸樹は、すべての枝に金と銀に輝く<透明な夜>の霊性を纏い、風ひとつない静寂の中で霊性の糸を乱舞させて、<とりあえずの私>の静寂から<私たりえぬ私>の記憶へと吹き付ける風でありつつ、同時に<私たりえぬ私>の静寂から<とりあえずの私>の記憶へと吹き抜ける風が、とめどない「音の沈黙」を語るように、とりあえずの寒気によってしか完成させることの出来ぬ<美>を、あの密教的曼荼羅世界へと捧げるのだ。
 そんな昂揚感を抱えて小学校のグラウンドに沿って左に折れ、真っすぐ続く帰り道から逸れてすぐの小道を左に入り、めったにヒトの入らぬ横道のすでに<何>行者によって踏んである足跡を、<とりあえずの私>の新たなる足跡で固めながら、二〇メートル余り進んで雑木林を抜けるのだ。
 すると突然、広大な雪原へと放り出され、思わぬ開放感にたじろいで目を上げれば、その雪原の中央に、いま大地が中空を吹き抜ける「荒ぶる霊性」を、寒気として纏ってこそ創造しえた自愛的欲望の脊稜が、すでに沈んだ太陽の断末摩の叫びを<美>の返り血として浴びながら、そのおどろおどろしい血の色を黒い念いのまま中空に凍結させて、「荒ぶる自然」の<美>的怨霊を光背とする浅間連峰が立ち上がり、さらにその上に、地上における一切の<美>的確執を超越する空間がそのまま精神世界へと突き抜けて、「光の空」と「闇の空」とを繋ぐ神秘的な領域に、輝きの霊性によってこそ拓かれた<透明な夜>が宇宙という闇の「沈黙の音」に支えられ、いまだ表現者でありつづけるヒトビトの自己愛を「音の沈黙」へと誘うのだ。
 それは、この広大な雪原の<透明な夜>から吹き上がる風が、「光の空」と「闇の空」の軋みを突き抜ける霊性の輝きであるからこそ、一切の<音>と<風>を沈黙させつづけてきた宇宙を貫通して、しかも宇宙の中心である「いま」「ここ」へと回帰することにより、宇宙開闢の動機と言いうる「荒れるにまかせる霊力」に感応しうるのだから、<私たりえぬ私>は<ヘッドホン>的構造を擦り抜けて、あのマーラーの霊性が『交響曲第8番』(指\小沢征爾、フランス響)で宇宙を<愛>によって震撼させたと確信しつつ、それでいながら『交響曲第9番』(指\レバイン、フィラデルフィア響)において、<愛>によっては救済しえぬものを救済論として語らざるをえないという、「創造主たりえぬ芸術家・表現者」のあまりにも西欧的な嘆きをも引き受けて、<風の声>によって語りうる一切の「荒れるにまかせる自然」を静寂として響かせるのだ。

 

 

 それゆえに透明な宇宙へと切り立つ浅間が、「闇の空」を引き裂きながら「光の空」を抱えて、<美>を完成させる夜へと降下しつづけるときに、歪められた空のクレバスににじみ出る「荒ぶる霊性」の悲しみは、ちぎれる噴煙と沸き立つ雲を嘆きの色に染めるのだ。もっともそれは、誰にも破壊されたり支配されることのない<静寂>を、屈折したマーラー的自己愛を引くまでもなく、<神>と名付ける霊力によってこそ支配されたいと願うヒトビトが、この日常的にして壮大なるドラマを永遠なるものとすべく<時間>という<力>を<神>へと捧げてしまうから、ヒトビトの感動を思わぬ誤算で<神>が歪めてしまう「光の空」の傷口は、いつも<愛>という<神>のはらわた色ににじんでいるというわけなのだ。思えば、この<愛の痛み>を共有しうるヒトビトこそが、マーラーの数々の長大な交響曲の中で<アダージョ>で語られる楽章に、もはや<音>によっては語ることの出来ぬ「沈黙の音」を聞き取っていたのではなかったのか。
 <透明な夜>の愛の悍しさに身震いして、再び取り出した魔法瓶から自己浄化力の減衰したココアを、揺らぎ続ける<私>の心の隙間に流し込むのだ。すると、この雪原に君臨する「荒ぶる霊性」が、自らの欲望のために暴力的なまでに<積極的な自然>として変容しようとするそのわずかな一瞬を、浅間が背負う<美>的怨念とともに欝血した雲に結晶させてみせるけれど、その時に「光の空」を擦り抜けていま正に「闇の空」の象徴として輝き出した一番星と冷笑的なまでに細い上弦の月が、すでに想い出になりつつある<透明な夜>に背を向けて、「どれほど愛欲に呪われた情熱でも、その<透明な夜>に凍結させておけるなら、誰にだって<美>と呼ばれつづけることが出来るはずさ」と囁き掛けるから、無骨なまでの「荒ぶる霊性」はそれがはかない望みと知りつつも、いま崩壊せんとする風景を抱え<私たりえぬ私>の事件にたたずむのだ。
 すでに闇の入り口で<美>を完結させてたたずむ浅間から、いま「光の空」の残響を抜け闇に向かって飛び立つ銀色の閃光が、音も届かぬ彼方で金色の糸を引き、宇宙の闇へと消滅する「沈黙の音」を囁き掛けるけれど、そこに「見えなくなるもの」「知りえぬもの」の「音の沈黙」を聞き続けるならば、「荒れるにまかせる自然」が常に孕む自己崩壊の危機を、自己矛盾の脊稜を渡ることの楽しみとして生きてしまう<何>行者には、<透明な夜>ゆえのとりあえずの<美>的戯れにもささやかなる僥倖を見せるのだ。
 そんな僥倖を、「荒ぶる霊性」で丸めた「沈黙の音」と「音の沈黙」の二色の飴玉として口に含み、再びもとの道に戻るけれど、<私たりえぬ私>は吐く息の白さまでも奪われた口の中で、「何って何!?」でしかない清涼感を味わいながら、たとえばそれをブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』の第三楽章を口ずさむ唇から、あたかも「語りえぬもの」の無意味性を語る「荒ぶる霊性」として、静寂な闇を纏いはじめた雪原へと送り返すのだ。するとそのときに、<透明な夜>においてこそ<私>的なる自己愛を目掛けて吹き付けてきた霊性の糸が、<何>行者の<私たりえぬ私>そのものの揺らめきとして、もはや輝きを必要としない霊性を<静寂な夜>へと解き放していくのだ。
 いま小学校に沿ったゆるやかな昇りの道も、そして右に折れる体育館裏の下りの道も、「荒れるにまかせる自然」の静寂の中で、<何>行者のあらゆる霊性への反省的眼差しに感応して、「あるようには在りえず、あくまでもありえぬものとして在りつづける」ことの軋みを穏やかに開き、あたかもショパンの『夜想曲』(フィリップス\X-7651〜2)が官能的にすぎる語り口で官能によっては語りえぬ反省的な霊性を語っていたと知るように、すでに見えるものとしては語りえぬ<私たりえぬ私>の霊性に身を委ね、いま<何>かを語ろうとするヒトビトのために優しく輝きだすのだ。
 それゆえに<静寂な夜>に、人に打ち明けることの出来ぬ傷みを抱えてこの道を行くヒトビトには、ありふれた道の見過ごしていた軋みが、まるでシェーンベルクの『清められた夜』(指\ブーレーズ、ニューヨーク・フィ ル)が語る、他人の子供を孕んだ女の苦しみとその苦しみを新たなる愛の証しにする男の物語のように、愛の救済に<慈悲>にも似たささやかなる僥倖を見い出だしうる空間として広がり、そのように「あるがままに在りつづける」ことへと反省的な祝福を投げ掛けるのだ。そして、寒気という厳しい反省に身を晒すすべてのものに荒々しい<美>を纏わせる夜の霊性は、誰もいない木造校舎の板張りの廊下で、ベートーヴェンともブラームスとも聞き分けられぬチェロを響かせ、寒気の中で「あるがままに在る」ことの「穏やかなる不安」に輝きを与えて、学校から続く雑木林にも夜を纏わせるのだ。
 そのときに<何>行者は、「積極的な自然」に対する<私たりえぬ私>を、音楽という霊性に<反省的な閃き>としての「音の沈黙」を語る「何かとしての私」としつつ、さらに「消極的な自然」に対する<とりあえずの私>を、すべての音に霊的な<反省的輝き>としての「沈黙の音」を語る「何んでもない私」として、しかもそれらを別ちがたい<誰か>が「ありのままに在る」ことの喜びとして示したことになるのだ。

 それは<光の春>を迎えた冬の真っ只中で「音の沈黙」を語る「何かとしての私」が、冬の始まりを告げる秋の真っ只中に「沈黙の音」を語る「何んでもない私」として、ことごとく言葉として語りつづけてきた<何>ごとかを、いまだ言葉たりえぬ<何>ごとかへと送り返しつつ、それでもなお正体不明の表現者が、冷たい霧雨の中でいつまでも穏やかな晩秋が胸苦しいほどに香るときに、FM放送が宿命的な歪みの中でもウェーバーの『クラリネット協奏曲第1番』(cl\リチャード・ストルツマン、指\アレグザンダー・シュナイダー、モーストリー・モーツアルト祭管)を損なうこともなく、ストーブの上ではこれからずっとそうであるようにお湯が沸き、<何>的表現者はいまだ<何>も描かれていない白い空間に「何も描かれていない白とは何か?」を黒く塗り潰してほくそ笑み、コーヒーは少し冷めてさらに味わいを深くし、たまたま二〇年ぶりに買ったブルージーンはまだ身体に訓染むほどには洗い上がっていないときに、読まれるために順番を待つ書物は早く扉を開けと媚態を示し、樹木の高みでは散り残った枯れ葉が濡れて光り、もう今さら創造という名目で語られるには及ばない幾つかの物語がそのまま忘れ去られようとしているときに、改めてドボルザークの『チェロ協奏曲』(Vc\リン・ハレル、指\レバイン、ロンドン・フィル)の中で、あるいは厳寒の予言を告げるシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』(Vn\クレーメル、指\ムーティ、フィルハーモニア管)の中で、静寂を弄ぶ高原が濃密な言葉である<沈黙>によって、屹立する「いま」のためにひとり<何>景論を語るのを聞くことが出来るということでもあるのだ。
 そしてこの<何>景論が、初冬の高原の低い空に真冬の浅間が暗い影になって立ち尽くす不穏な夕暮れにこだわり続けるときに、北西の風が、いまだ雪に閉ざされてはいない高原を褐色に埋める雑木林を弄び、裸木の悲鳴を楽しみながら此見よがしにうなりを上げて突き進み、そのまま乾いた畑の凍土をまくし立て、さらに山裾を駆け昇って積雪を穿ち、しかも頂の噴煙にさえ夕焼けを許さぬ厳しさを、高原が真冬へと向かうプロローグとすれば、いま「風の<私>小説」は真冬のエピローグへと向かうのだ。

 小学校から続く雑木林の道は小さな坂を下ったところに水銀灯が灯り、<静寂な夜>が<沈黙する夜>へと姿を変えるわずかな領域を輝かせるときに、「闇の空」を突き抜ける<黙想>の世界から、浄化された<愛>が待ちかねたとばかり舞い降りるのだ。
 <何>行者は町へ戻る道を避けてそのまま真っすぐ進み、すでに明かりの消えている郵便局のところで県道に出るが、ここで一日の仕事を終えたヒトビトの車がけたたましい雪煙を上げて通り過ぎるのに遭遇すれば、そこにまた正体不明の観光客が出現することになり、観光客は街灯と呼ぶほどのこともないまばらな明かりを雪煙の中で数えながら人気のない喫茶店を過ぎ、この辺りではどこでも見掛けるハリコの欲望と言いうる人を食った戯れの工事現場を通り過ぎると、たぶん不本意に酒屋であり続ける酒屋の前で町からの道と再会するのだ。
 いま消されようとする水銀灯が、目に痛いほどに冴え渡るガソリン・スタンドを過ぎて、いよいよ無用さを誇示する信号に出れば、すでに「闇の空」に抱かれた浅間が<荒ぶる沈黙>を<美>的装いにして眠り始めたところだから、もはや<音>事件による反省的霊性を語るまでもない<何>行者は、<音楽>の空白に補填されたわずかな囁きを残したままでヘッドホンをバッグへと仕舞うのだ。
 今年になってからは、しばしばゲートボール場の横を直進する辺りで、Sさんの車に出会い「乗って行きませんか?」と声を掛けられて、何食わぬ顔の観光客も<とりあえずの私>に引き戻されることがあるけれど、車に乗って一分ほど不本意な<とりあえずの私>でいるよりも、せめて残り五分を<私たりえぬ私>として歩き続ける豊かさのために、それは辞退せざるをえないのだ。
 いかなる事情があろうとも、ヒトの「小さな親切」は決して「大きなお世話」にするはずのない<何>行者ではあるが、いささか失礼にならない程度の挨拶で<私たりえぬ私>へと擦り抜けてしまえば、いつのまにか<荒ぶる沈黙>で<夜>を軋ませ始める白い道が、寒気ゆえに<黙想する夜>の密かな<美>的献身に支えられて浮き上がり、ことごとくの<霊性>が、もはや暴力によっては<美>とも<愛>とも名乗ることのない<何>景へと突き抜けて、<何>行者と呼ばれる<誰か>のためにごく日常的な<生活>を用意するのだ。
 だから<何>景に続くすべての道は、吹き抜ける<霊性の風>に穿たれて、すでに露呈しているはずの「誰かとして歩かれている<私>の足跡」を発見しつつ、いま誰でもない<私>が正体不明者として歩き続ける戯れの道なのだ。



  完   

 1985年

           こや のりよし 

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「冬の何景」はここで終わりです。

  
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