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 あまり横道にそれていると日が暮れてしまうから、とにかく橋を渡らなければならない。冬には特に水の少ないこの川では、いま橋の右手上流で狭い河川敷にブルトーザーを入れた護岸工事をしている。
 この工事は、やはり八二年の台風による岸の崩落と浸食、あるいは土砂の堆積に対する復旧・補強の工事と思われるが、それは、浅間大滝を流れ下る熊川で去年行われた工事と同様に、冬にはこれといった収入のない地域労働者のための、地方行政の欠くべからざる配慮というべきものかもしれない。
 ブルが小さくS字形に曲がって流れる川底を掘り下げ、そこから四〜五メートルの高さにコンクリート・ブロックを積み上げる作業は、凍っているはずの岸を削りそそくさとブロックで整形しても、春になればどこもかしこも氷が解けて土砂が緩むであろうから、はたしてどれほど本気で改修工事をするつもりなのか疑わしくも思われるけれど、それはそれで多少なりとも潤うヒトビトがいるのであろうから、職権を無意味な可能性ばかりにはしておかぬ行政的発想の貧りの企みがあるのかもしれない。それにしても橋の上からでは、川底に入って辛い作業をするヒトビトの表情も見えないし、まして彼らが、工事現場からいちいち橋を通るものを監視している暇などありはしないはずだから、<私>はかなり気楽な通行人でいられたのだ。
 この凍てついた橋を渡り、昇りながら右にカーブする道は、すぐ左に入る路地があり、その角に何故か国鉄の黒い貨車が一台、まるで場違いな晒し物として置かれている。これは今年になって初めて見る光景で、貨車は用意されたコンクリートの土台に車輪を外して乗せられているが、国鉄の赤字補填のための廃物利用に踊らされて無骨なコーヒー・ハウスにでも生まれかわるつもりか、それともそのまま倉庫としてたたずむつもりかは知らないけれど、いずれ朽ち果てて鉄屑になるには余りにも山のたたずまいを凌辱した哀しい立地条件と言わざるをえない。
 貨車を過ぎた右側にかなり大きな杉の木が立っていたと思うけれど、あの台風以来のことなのか、いつの間にか見なくなってしまったから、すでに太陽が山の影に入ってから歩くことになるこの辺りは、時折吹き付ける風が痛いだけの閑散とした空間になってしまったように感じられる。もっとも一月も下旬になれば、この辺りに来てもまだ右側に迫っている山並みの稜線に、立ち並ぶ裸木の影に絡んだ太陽が覗いているから、寒くなりつづけていく冬にそれでもわずかに日が長くなっていくことを知る<ときめき>は、<何>的滝行で企てる「冬に何もしないこと」の大義名文がまもなく解消されて、いずれ滝行以外に「何かしてしまいそう」な期待の鼓動に気付かせるのだ。
 それは、レストランのアルバイトという<何>的生活が「夏に何もしないこと」であったと言うときに、夏が終わっても<何>的生活に変わりはないものの、やはり「何かしてしまいそうな」予感にときめくのと同じかもしれない。しかもそれは、「春に向かう戸惑い」が<春たりえぬ春>を招き入れて、冬にこそ<何>そのものをしていたことを言おうとする春の<何>景論的企みであるように、たとえば「秋に向かう戸惑い」もまた<秋たりえぬ秋>を招き入れて、夏にこそ<何>そのものをしていたことを言おうとする秋の<何>景論的企みとも同じ発想と言えるのだ。
 そこでいま、冬の栗平を横滑りする<何>景論は、あの客の来ない夏のレストランから深い夜霧を抜けて秋になるけれど、その秋でさえ見事な晴天になれば、雨の続いた<夏たりえぬ夏>よりは暑い<秋たりえぬ秋>になり、秋を<何>景化してしまうのだ。

 「表現者を生きつづける」ことも「生活者が表現しつづける」こともイコールで結びうる知見に立てば、<秋たりえぬ秋>の「いま」をことごとく「まどろみ」へと誘う乾いた空間で、木漏れ日のしどけない愛撫に身を委ねても、この「いま」を表現する<反省的経験>が<行為>として保証されるときには、いかなる「まどろみ」も自己忘却的な<私たりうる私>に堕することなく、<私たりえぬ私>の快的遊感覚へと誘うのだ。だから、夏から秋に向かって吹き抜ける一陣の風が避暑客を都会へと連れ去り、もはや<夏の輝き>であるよりも<秋の閃き>として語られる<静寂>が、バッハ『ゴールドベルク変奏曲』(pf\ニコライエワ)を響かせるならば、乾いた昼下がりのつかの間の「まどろみ」に秋の夕暮れが始まっていることを気付かせるから、「変奏」の戯れは、<私>からとめどなく記憶へと横滑りする<私>に「変様」の楽しみを与えてくれるのだ。しかし「変奏曲」が、あまりに豊かな静寂に浮かれ、思わず詩人のように昂揚した美観で暑さに鎧われた昼に<輝きの霊性>を与え、この「まどろみ」の中から「永劫の変奏」を夢見てしまうにしても、それは<限りあるもの>のはかない望みにすぎないのだから、<とりあえずの私>のまどろみは、日が沈むまでには「変奏」を停止するテープの味気無さに腹を立てることもなく、あてもなく昂揚した美観をそのまま<輝きの霊性>に委ねて、もはや季節を問うこともない時の流れの中で<静寂が纏う風>へと送り返すのだ。
 そんなときにシャツに纏りつく風が、夏の仕事の匂いを思い起こさせたとしても、それは記憶に整理されてしまった「脂臭い夏」にすぎないから、ほんの一瞬フライパンを握った躍動感が蘇っても、かえって「まどろみ」として「ある」ことを自覚させる<表現行為>を喚起してしまうはずだから、思わず十全たる動機を獲得することになった表現者は、不本意に「ある」ことの自己忘却的な一切を遮断して「あるべし」清浄さへと<私>を駆り立てるのだ。つまり<秋の閃き>への冥想的想思念は、季節はずれの暑さゆえにかえって秋の夕暮れに向かって一気に墜落する「風の変様」を、今さら何にこだわることもない<私たりえぬ私>のありきたりの時間物語と見定めて、冥想という表現行為ゆえの<たりえぬ経験>によって単に「秋としてある」ことへと想思念を解き放すのだ。
 それは<夏の輝き>によって秋を<何>景化しつつ秋を語るように、誰のものでもありえた「変奏曲」を誰のものでもない「変奏曲」へと反省的に昂揚させつつ、「夏の後遺症」に拘泥せんとするしたたかなる表現者に、<何>的生活を喚起することでもあるのだ。それゆえに、たとえば秋の雨は、女々しき「夏の後遺症」などというものが惨めな身震いにしかならぬことを思い知らせてくれるから、そんな身震いが揺らいだついでに<私>を振り切ってしまえば、「誰かにとっての表現者である<私>」さえ「誰にとっても表現者たりえぬ<私>」へと<私>を葬り去る遊びを楽しませてくれる。
 そこで<雨の表現者>はいつものようにいつもの椅子に座り、スタンドの明かりをつけて悶々たる閉塞情況をさまよっていた誰かを<とりあえずの私>として位置付け、乾いた海原で冥想の旅に出るのだ。
 旅支度のスタンドの光が、まだ特別な出来事になりえぬほどに部屋は明かるくて、波頭をちぎって吹き付ける風がガラス戸を叩いて濡らすその奥に、風を切って走る雑木林が港を見せぬ海原を行くのが見える。それにしてもあの確信に満ちた船足はどこに向かっているのか? アア、これは誰のためにも回答する必要のない居心地のいい疑問なのだ。それゆえに気ままに増殖する快適な疑問は、ありふれた言葉とありふれた想像を束ね、光が明かりであることさえ<荒ぶる自己愛>である欲望の中に、円錐台の輝きの空間が静寂として切り取られたところで、異次元からの旅人たちがあたかも宇宙論的な秩序によって、厳粛にして有機体的なる滑らかな移動をくりひろげ、ガラス戸からガラスそのものの中へ、海原から海の底へ、あるいはありとあらゆる約束の中で移動することだけがすべてであるものの奥へ奥へと、見定めることが苦悩になるほどの奥へと進んで行くのを見守ることになる。
 そういえば「夏の後遺症」という自閉症的なポーズで仕掛けておいたジェームス・レバインのマーラー『交響曲第2番』の夜が、この<静寂>の界隈ではよくある病気の失語症を背負った表現者に弾けて、唐突にウエザー・リポートの『アイ・シンク・ザ・ボディ・エレクトリック』にのめり込み、「そうだったのか! そうだったのか!」と上げる叫びが夜明けを紅に染め上げたとしても、しかもそれが不穏な何かを期待せずにはいられない梅雨時の朝焼けとも違うと思えたとしても、それはまるで水中の生命が暗黒の海底から望む遥かな水面の戯れのように、すでに忘れてしまっても傷みのない想い出にすぎないはずだから、もしもそんな想い出がガラス戸という忘却の狭間で<誰か>の顔として揺らぐ<私>を発見してしまうなら、いまガラス戸の奥へと見通せないものの欲望のために、あるいは闇の中で水没した雑木林の鎮魂歌として、忘却されずにつきまとう手の届かぬ哀しみのために、旅人はキース・ジャレットの『サン・ベアー・コンサート/京都(1)ab(2)b・大阪(1)ab(2)aあるいは名古屋(1)a』を贈るのだ。
 しかしそれが、どれほど耳当たりの好い甘い言葉のように<愛>に飢えたもののみを虜にする媚態であるとしても、自らが渇いていたことを忘れさせるほどに乾いた響きの中で、何事をも見通すつもりのとりあえずの意欲さえ埋葬してしまった後のことであれば、鎮魂歌であるはずの響きがいつの間にか鎮魂歌たりえぬ言葉の戯れに擦り変わったとしても、もともと雨の中の乾いた想思念は<見通す意欲>さえ<見通している>はずだから、今さら<言葉>は自己愛に呪縛されて美を纏うこともなく、ただ舌触りの好い無毒の刺として、まるで気楽な夜光虫が暗黒の海底にそびえる禍々しい芸術という岩礁に寄生することもなく、幾重にもなった発見的感動という水の層を浮遊して楽しむように、ただひとりの善意の灯を弄ぶ虫けらのごとき快的遊感覚に住まうことになるのだ。
 たとえそれが浮遊するものゆえに倫理を持ちえぬ偽りの善意にすぎないとしても、それはいくつもの水脈の狭間であのマイルスの『アガルータ』が、あたかも武満徹の『怪談/雪』の亡霊に取りつかれながらも喚起しえた<希望>でもあるはずだから、いかに水面の覇者たる「荒ぶる自己愛」の人間臭い大波といえども、その欲望さえ届かせることの出来ぬ深層を、<静寂>として浮かび上がらせる<反省的な感性>の連帯感に他ならないのだ。
 だからもしも、再び<希望>の灯を消して人間的欲望の乱流に身を委ねてしまえば、とめどない<何>景のために仕掛けたマーラーの『交響曲第2番』を、今度はバーンスタインかアバードで繰り返すはめになってしまうから、いま光と影の揺らめきに<私>であることの煩わしさを仮託して、すでに顔のない誰かである<私>をカーテンの裏に隠し、誰にとっても誰かでありつづける<私>の顔をもはや誰にも見られぬうちに、そっとスタンドの明かりを消してしまうのだ。すると誰のものでもない<静寂>が、誰かの<希望>として輝き出すのだ。
 ただそういうことの遊びが、<何>的反省を喚起しつづけるのだ。

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 この想い出の<何>的退行によってこそ充足しうる閑散とした空間の左側は、路線バスが折り返しをする広場で、この辺りには栗の木一本も見当たらないのに「栗平」と呼ばれ、高原から前橋・高崎へと峠を越えていく県道の南東の外れに位置する集落なのだ。県道が真っすぐ山に向かい、右にカーブしていよいよ「二度上峠」へと一気に昇り始めようとするそのカーブを、ほぼ直進する小さな雪の道が浅間大滝への入り口なのだ。
 この小さな集落にはA姓が多いいと聞くが、この道の入り口手前左側にも、やはりAさんといういつも薪を切っているおじさんがいる。このおじさんは、道端のちょっと傾いだ茅葺き屋根の今は物置と車庫になっている家の前で、ほとんど毎日のように薪を切っているが、すでに薪はこの茅葺き屋根の家を満たし、さらにちょっと奥の物置小屋をも満たしているというわけで、それはひと冬やふた冬では到底焚き切れぬと思われるほどもあるのに、そのうえいくら焚いても減ることのないほどに切り続けられているのだから、たぶんこれはこのおじさんの健康の証しとも言うべきものなのだ。
 あれは、八二年の滝行のときだった。いつものように日も落ちて、そろそろマイナス一〇℃位にはなる頃に健康を誇示して薪を切っていたおじさんが、その前をいつも会釈をして通り過ぎる正体不明者である<私>の帰り道に、「毎日、どこへ行ってるの?」と物珍しそうに声を掛けてきた。
 さんざん身体を冷やした後の憔悴しきった表情で「浅間大滝です」と言うと、おじさんは大いに胸を張り、都会者にはさぞかし寒かろうとでも言いたげに、ニコニコと笑いながら「写真かね?」と聞く。<私>は、じっとしていると凍えて呂律が廻らなくなる口元を手袋でこすり、「いや…、水を浴びてくるんです」と言った。すると一瞬、おじさんの顔はポカンと口を開けたままで凍結されてしまったが、やがて気を取り戻して「大滝でかい?」と恐る恐る聞き返してきた。<私>が、寒さでひきつった顔に精一杯のほほ笑みを浮かべコクリとうなずくと、おじさんは悲鳴にも似た声で「ヒエーッ、そりゃ寒かろうが…」と言う。確かそのときに、ちょっと離れた後ろにおばさんがいて、おじさんは、「この人は、とんでもないことをするヒトだ!」とでも言いたげにおばさんの方を振り返ったけれど、話が通じていないおばさんは訳もなく驚いているおじさんに驚いていた。<私>は「エエ、まあ、好きでやってる滝行ですから」と言って、震える身体にせかされて会釈をして歩き始めたけれど、おじさんは話の子細を尋ねようとするおばさんにただ首を振りつづけ、聞かなくていいことを聞いてしまった心の痛みを振り払っていた。それからというもの<私>が通りすがりに今までよりも親しみをもって挨拶をすると、そのたびに何とも切ない哀れみの顔で「やあ…」と答え、やはり小さく首を振りつづけていた。
 そしてその年も「寒」の明ける前日になり、当初の目的であった五年間の滝行が終わる記念に滝行の写真を撮っておこうと思い立ち、知人に当たってはみたもののたまたま都合がつかなかったために、思い切ってこのおじさんに頼んでみたのだ。
 初めおじさんは、思いがけぬ話にちょっとひるんだ様子であったが、ささやかなる好奇心と他人の痛みを垣間見る誘惑に駆り立てられてのことか、一瞬の及び腰を振り切るように力強く承諾してくれた。おじさんは薪割の道具もそのままに、慌てて母屋に戻り作業用の防寒コートをはおって出てくると、それ行けとばかり<私>をおいてズンズン歩き始めたけれど、よくあるおっとり型の慌て者なのかそれとも思わぬ体験への期待に動揺していたのか、何かを話し掛けている様子だけど<私>の返事がなくて振り返り、あまりにも<私>が遅れているのに気がついて苦笑いしながらイガグリ頭を撫でていた。
 それにしても、もうすっかりウキウキした表情のおじさんは、<私>が追い付くのを待って「どこから来るのかね?」「いつから来てるのかね?」「いつまで続けるつもりなの?」と聞いてきたけれど、そういえば「どうして滝なんか浴びるの?」と聞かれた覚えがないのは、おじさんがヒトの心に踏み入ることになりそうな気配を感じて遠慮したためか、それとも<私>がかなりいい加減に、「まあ、趣味ですから」というぐらいの軽い返事で済ませてしまったためだったからかもしれない。もっともおじさんは、腰の手拭を取り出して力強くしわを伸ばしながら、今まさに一大決心の大仕事に向かうような気合を込めて素早くほっかむりをして、それをあごの下で固く結んでいたのだから、おじさんのする質問もほとんど上の空だったと思われる。
 おじさんは<私>よりも少し背が高く、一七五〜六センチはあると思われるガッシリとした身体を大きく左右に振り、まるで自分の庭を案内するようなすべてを知り尽くした者の自信に満ちた軽快さで進んだ。このとき<私>は、今まで知らなかった新たなる行場へと案内されるような、そんな期待に胸が弾む思いさえ感じたのだった。そしておじさんは滝の手前では、心得たとばかり川の浅瀬を見抜いては長靴のまま川を渡ったりしてかなり威勢がよかったけれど、いよいよ写真を撮る段になって、氷壁から風を巻きあげて噴き出す滝に気後れしてしまったのか、だいぶ落ち着かない様子になってしまった。
 あまりカメラを扱ったことがないというおじさんに、ピントの合わせ方とフィルムの巻き方を説明して、行衣の<私>が川に入ると、その瞬間に後ろでなんとも切ない「ヒエーッ」という声がした。そんなわけで滝を浴びるよりは、それを見るものが想像する痛みの方が辛いらしく、かなり慌ててあっち行ったりこっちへ来たりして、結局一〇枚くらいのちょっとピントのぼけた写真を撮ってくれたけれど、おじさんは滝から出てくる<私>を待ちかねて、いきなりカメラを返すと「これにてお役御免!」とばかりに一目散で帰っていった。
 それから毎年最初に顔を合わせたときには、「アア…、今年もまたやってるんですか、大変だあ…」と半ば呆れた顔で笑っている。
 このおじさんの家を過ぎ、大滝に入る雪の砂利道にかかるころは、だいたい三時五〇分を過ぎる頃である。砂利道の入り口左側に大きなカーブ・ミラーがあるが、その位置がかなり低いために、ややもすればヒトビトに疎まれかねない物好きの顔でも覗いてみることになるが、そこには紫外線を受けてダーク・グレーに変色するメガネが、グリーンに見えるほどに真っ赤に腫れ上がった観光客の顔が見えるだけなのだ。
 凍結した雪で被われているこの道を数分行くと、右手に山を切り崩して作った大きな駐車場がある。むろん冬に車が出入りするのは希であるが、それでも天気の好い日曜日などには、新しいタイヤの跡とそこからさらに奥へと続く足跡が雪の中に残されている。駐車場からの道はその正面を、熊川が「魚止の滝」と呼ばれて大きな岩が重なり合って流れ落ちる谷に遮られ、視界は川から直接立ち上がる向かい側の雪の斜面に阻まれて、道は川の手前を右に折れ細くなりながら「洗心洞」と名付けられたトンネルへと向かう。この「洗心洞」に入る道は、今は表土の流失した赤土の斜面を二〜三メートルほど切り取って作ったように見えるが、以前はもう少し余裕のある地形にこの倍の道幅を確保していたわけで、それがあの八二年の台風で道の半分とそれを支えていた土手が、一〇〜二〇メートルはあると思われる崖下の「魚止の滝」に飲み込まれてしまったのだ。
 とにかくこのあたりはヒトの欲望が地形を変え、さらにそれを自然の欲望が変え続けるという「荒ぶる欲望」の確執を、雪と氷に閉ざされた「魚止の滝」が、その中をうねりながら駆け下る重い水の響きで緊張させるから、何かでありつづけようとする欲望にはただならぬ不安を呼び起こさせるけれど、それは取りも直さず滝行への期待と不安が織り成す昂揚感であったはずなのだ。しかし今、滝行こそが<何>化されるに及び、<何>行者がことごとくの不安を<私たりえぬ私>として脱落させつつ、ここまで歩いて来たことの心地よい温もりの疲労感は、とめどなく「あらぬものとして在り続ける<荒ぶる欲望>」の張り詰めた<ためらい>を癒すことになるのだ。
 それにしてもこの心地よい疲労感が、「荒ぶる欲望=自然」の<ためらい>を癒すときに、<温もり>とか<疲労感>という感覚が<私たりうる私>に近付きつつあるものとして、ささやかなる傷みによってさえ<私をやめられない私>へと埋没しかねぬ堕落と背中合わせでありながら、なおかつ<私たりえぬ私>へと擦り抜けていられるということは、たとえば秋が、夏の後遺症でありながら冬の期待でありつづけることの内なる確執を孕んでしか秋を装うことが出来ないという<ためらい>を、それでも秋は決して夏でも冬でもないがゆえに秋そのものでなければならぬという<ためらい>の揺らめく欲望によってこそ癒し続けるであろうことに似ているのだ。
 そこで今、物語は冬の真っ只中で<ためらい。ながら秋へと移動し、ひそかに冬へと近付き続けるのだ。

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 とりあえず、<秋のためらい>をマーラーの『交響曲第4番』で彷徨すれば、力尽きて高原の地平線で挫折する落日が、紅葉を始めた雑木林の目聡い樹木の葉に掠め取られ、もはや林を貫通せんとする気概も萎えてしまったときに、すでに明晰さを喪失した小道へと山小屋の窓が開け放され、「荒ぶる自然」と「荒ぶる自己愛」を曖昧さでつなぐ<風の流れ>が、曖昧な<雑木林である部屋>と曖昧な<部屋である雑木林>に、あたかもマーラー的自己愛を「大いなる歓びへの賛歌」として贈るべくロマン的なる霊性によって、もうろうとした無明無知より立ち上がる壮大なる知の<美的構想>を企てるならば、そんな曖昧さが自己忘却という自己愛への埋没としてではなく、あくまでも無明無知への反省によって明らかにされる<風の流れ>でしかないことに気付いているときには、「荒ぶる欲望」のままに美的暴力者たらんとする表現者を、かえって闇の奥に退行しつづける雑木林から引き離し、さらに美的暴力者たらんとする雑木林を、ささやかなる明かりの中へと退行しつづける表現者から引き離してしまうはずだから、<風の流れ?への覚醒こそが「荒ぶる美的暴力者」への反省的な覚醒であるにすぎない<ためらい>が、それでも美的暴力者として君臨することの夢にうなされて、窓という欲望の狭間を自己愛で武装させるためにガラス戸を閉め、さらにそれをカーテンで遮断するならば、もはや<風の流れ>によってこそ構想されたマーラー物語は息の根を断たれ、スタンドの明かりの下に哀しくも暴力者たりえぬ表現者の詩的試みの形骸が、まるで冷めたコーヒーの中で白濁する秋そのものとして発見されるはずだから、<秋のためらい>は曖昧さの中を流れる風によってこそ<秋>でありながら、より一層<秋>でありつづけるために風を遮断せずにはいられぬ自愛的欲望によって、<秋たりえぬ秋>へと横滑りしつつとめどない自己矛盾へと語るに落ちる<ためらい>のままに、<秋>は自らを癒さなければならないというわけなのだ。
 あるいは、闇雲に<秋>である表現者のあまりにも<私>的なる矛盾を払拭する企てが清涼なる秋晴れとすれば、たとえばいま一気に冬を呼び込むであろう遅い台風の予感を秘めて降り続く激しい雨の中で、「ありえぬように在り」ながら「あるがままに在りつづける」樹木が、自然的欲望に委ねた未来へと紅葉という自己保身を進めるときに、荒ぶる風雨に叩かれてもいまだ身を捨てる手立てを知らぬ発育不全の青葉を残したままで、冬という反省期に生命の浄化をすべく精神世界へと沈潜する様は、在りもしない「清涼なる秋晴れ」にうつつをぬかす表現者に、あるがままに「荒ぶる自然」に翻弄されつつもささやかなる美的装いを慈しみながら、正に身を切る思いで枯れた衣を脱ぎ捨てる痛みを見せるから、いつのまにか<秋>に拘泥してしまう表現者でありながらかろうじて<私たりえぬ私>でいられる<何>行者には、「はたして限りない自己浄化のためにいかなる衣を脱ぎ捨てることが出来るのか?」と問うことになる。
 それにしても雨と霧に閉ざされた雑木林の平安は、限られた遠近法の外に広がる未知の領域を、ことごとく詩情という罠でそのまま美的世界へと肉化してしまうから、閉ざされた視界に思わず見定めることを諦め雑木林の霊性に安住してしまうと、雨に濡れ霧に巻かれたもののみならず不本意に紛れ込んでしまった表現者でさえ、<霧の欲望>によってお抱えのさもしい詩人に成り下がってしまうけれど、ここで見えないものを勝手に見たがる詩人として霧の霊界をさまようよりも、いっそ霧とともに流れる視界で見えるものだけを見定めるつもりなら、詩人たりえぬ表現者は醒めた霊性の雫に濡れて、かえって燃える事件の当事者として蘇ることが出来るのだ。しかし今日は、あえて詩人のいない事件のために「珈琲館<弦楽四重奏曲>」を用意して、ウィーン・アルヴァン・ベルクというバーテンダーにベートーヴェンの『作品95』を注文するのだ。
 いま「荒れるにまかせる力」としては消極的な霊性であるにすぎないコーヒー・カップに、暖められたベートーヴェンを注いで見定めることの欲望に明晰なるウィーンを香らせることができるにしても、思えばここに「珈琲館<弦楽四重奏曲>」という幻想を仕掛けないかぎり、たとえば無作為に一九八〇年一〇月一三日の新聞が語るアルジェリアの地震も、イラン・イラク戦争も、あるいは自衛隊の海外派遣問題にも、反省的な興味を持つ表現者の熱い念いを、ベートーヴェン的な狙い澄ました情熱で語ることは出来ないのだ。しかし、ベートーヴェンの周到な創造性によってこそ、反省的に喚起されることになる不本意な表現者の破壊的に無意味な想思念とは、作品の外に美たりえぬものとして、あるいはニュースの外に情報価値たりえぬものとして、排斥されたものの痛みに熱い血を注ぎ込むことであるのだから、むしろ今ここでは霧に閉ざされて見通せないものの前でたたずむつもりなら、『作品95』の外でたたずみ美という衣を脱ぎ捨てることでなければならないであろうし、あるいは見通せない霧の中に切り取られた珈琲館の明晰さが、再生音とか情報という事件報告の手前にたたずみ、正体不明の事件の真っ只中で真実とか事実という重い衣を脱ぎ捨てることでなければならないのだ。
 それにしても二日目になっても降り続く雨が台風の刺激を受けてさらに強くなる頃に、光を失いつつある雑木林が無意識という無明に退行して、部屋の明かりが窓ガラスに反映すれば、光源を隠したスタンドの下に肉質肉色の憂欝なる表現者が浮かび上がるけれど、それがいささか見覚えのある正体不明者であることに気付いたとしても、今さら誰かに回帰することを求めず、正体不明のままに茫漠たる記憶をまさぐりながら鏡となった窓ガラスの奥へ奥へと進めば、水没した湖底の雑木林をいまだ誰にも名付けられていないプランクトンとして気ままな浮遊を楽しむことができる。
 この未確認浮遊<形態>も、<何かが何かでありつづける>ために何かが増殖しつづける欲望の世界では、未確認浮遊<物体>としてその影ともいいうる<反物体>までも見透かされた霊的呪縛から逃れられなくなってしまうけれど、あくまでも未確認浮遊性の<何>的人格でありつづけられるならば、どんなに激しい霊雨にも打ちのめされることもなく、どんなに深い欲望の底でも自己愛の企みに押し潰されることもなく、まして暴力による自己保身しか信じない小心者の国家主義に対しても、取るに足らない正体不明者でありつづけられるはずだから、いまこの湖底より浮遊しはじめる<何>的表現者は、ヒトビトの辛辣な暴力にさらされてもまるで幽霊や亡霊のように不死身のエイリアンでありつつ、しかも幽霊や亡霊であることの迷いさえ擦り抜けていられる身軽さによって、たとえ<私たりうる私>でありつづけようとするヒトビトに捕らわれたとしても、そのときは待ってましたとばかり幻想世界から飛来する未確認浮遊<物体>を装い、人類滅亡の現前でかろうじて<希望>を垣間見せるおとぎ話さえも語ることができるのだ。無論そこでヒトビトへと託すメッセージとは、「もはや、あなたは<何>論によってこそ救われている。それは、あらゆる霊性に仮託するあなたの反省的な表現生活によってこそ明らかになる。<何>はともあれ、目醒めよ! 目醒めよ!」なのだ。
 だから「あるがままに在りつづける」暴風雨が、まるで吹き付ける雨をスクリーンにした映像にすぎない<何>的浮遊者に襲い掛かっても、結局は「目醒めよ!」などという大きなお世話の前で自らの暴力を空しくしてしまうばかりだから、ここでほんの僅かでも「荒ぶる霊性」に自己不信を軋ませることにでもなれば、「いかようにでも在りうる」はずであった暴風雨の自負心も揺らぎ、「ナニ、俺はもともと<ありえぬようには在らぬ>主義だから、そりゃそれでいいのさ」などと負け惜しみいっぱいの捨て台詞で言い繕い、そそくさといまだ無明無知なるカモを求めて立ち去るのだ。
 そんなわけで、すでに詩人たりえぬ表現者が、日々の新たなる目醒めのために台風一過の清涼なる高原で、キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を響かせれば、すでに十分すぎる水分を含んだ樹木が、わずかに残る紅葉で冬の準備のために自己浄化の情熱を燃焼させるときに、自然的なる生命の<何>景が、陽炎のように立ち昇りそのまましなやかな風の中へと解消される。すると<私たりえぬ私>の不在の響きも昂揚して、冬の姿に変わる雑木林を吹き抜ける風が輝きをまし、自然的なる欲望が永劫に秋でありつづけるかのような幻想に酔わせるけれど、それは所詮気楽な幻想にすぎないから再生音の停止というささやかなる限界に到達したときに、やはり解消されてしまう。
 ところが、あまりにも豊かなる秋から欠落してしまった『ケルン・コンサート』的感性は、かえって表現者の不用意な自己忘却的部分の欝感を掠め取り、ひそかに「荒れるにまかせる自己愛」を担って沈黙してしまうから、たまたまそんな空白の秋に「輝きの霊性」を纏った風が流れてくれば、いつのまにか冬へと身構えていた表現者は、したたかに秋でありつづける自然的なる欲望に足元を掬われ、まるで立ち眩みを起こしたように欝感を抱えてとめどない沈黙へと墜落してしまうのだ。しかし不意を食らった表現者も、<沈黙する表現者>という自己否定を抱えた欝感で気を取り戻せれば、今さらうろたえることもないのだから、ジャン・ジョエル・バルビエという重い感性の<不安と確信>をたぐりよせ、サティの『ジムノペディ』と『グノシエンヌ』を響かせることで、かりそめに<私たりうる私>であった沈黙を軋ませて<欝的な表現者>として蘇るのだ。
 いま冬支度の雑木林が、西日を受けて軽い空に溶解していく山を背負い再び風を纏って輝きだせば、すでに光の届かなくなった手元の樹木が新たなる欝感を装って息づき始め、うずくまった影から無造作に突き出た細い樹が輝く頂きに散り残った枯葉をかざし、冬に向かって遮るもののない風に揺れている。ふと強い風が立ち、さざめく樹木の高みで輝き流れはじめた枯葉は、その舞いをたちまち影の中に沈め不穏な夜への囁きを感じさせるけれど、それは夏の欲望にさらされて疲弊しきった高原を、慈しみの敷物で覆いつくす優しい息吹のはずだから、もう一度サティの戯言を仕掛けて耳を澄ましてみれば、自然が自らの傷を癒すときの憂愁の思いが舞い落ちる枯葉の一枚一枚に形を整えて、けだるいほどの静けさで語りかけてくるというわけで、サティならずもあまねく<欝的な表現者>は自然的営みの媚態に思わず息を呑むことになる。
 そんな自然的欲望の媚態に魅せられて、詩人たりえぬ表現者も、ついうっかりと美的価値観などを振り回してみるが、美的意味付けなどという小賢しいストップ・モーションの企みは、風の流れに身を任せ気ままな唄を歌う樹木のしなやかさにはぐらかされ、豊かな感動の流れを硬直した表情で切り取ることを空しくさせて、ことごとくの瞬間的臆断を流れつづける風の戯れへと誘うばかりなのだ。<風>というあまりにも妖艶で触発的な躍動感は、「荒れるにまかせる霊性」を女々しいほどのロマン的な感性に塗り込めて、在りもしない自然的実在と精神的実在を捏造しなければ収まらないほどに気まぐれだけど、それは人間臭い霊性によってのみ豊饒であるにすぎないのだから、結局のところサティによって仕組み仕組まれた幻想にすぎないと見定めれば、かりそめに冬を語る秋の夜にわずかな霊性の浄化が行われるだけで、生臭い<秋の欝感>は夢の中へと解消されてしまうのだ。

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