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 <何>気ない霊気が舞う凍てついたこの道は、七〜八分も行くと左に向かって直角に折れるが、その正面は一九八二年の台風で消滅した杉林のさら地で、その奥から立ち上がる小さな斜面はそのすぐ後ろに浅間連峰を隠しているから、一月も中頃を過ぎれば、つかの間の輝きを惜しむ冬の太陽の切々たる別れの歌に合わせ、すでに日影になった稜線の樹木が風を孕んで揺れているのが見える。そして道は左にカーブを続け、小さな川を過ぎたところで今度は右に向かってカーブする。
 この小さな川を過ぎたところで、右側の道のそばまで迫り出している斜面は、八二年の台風に山の形が変わってしまうほどの鉄砲水があり、その土石流は県道をまたいで向かい側の土建屋さん目掛けて流れ続けていた。土砂を扱うのが商売の土建屋さんとはいうものの、いささか金に成らぬ土砂にブルトーザを働かせなければならない様子だったけれど、ひょっとするとその同じブルが腹いせに土石流の後を掘り起こしたのであろうと思われるほどに、ブルの威力を見せ付ける深く大きなコンクリートの放水路が右側の斜面と県道の間に作られている。
 すでにこのあたりから栗平と呼ばれるところで、ここから浅間大滝まではちらほらと民家が続くのだ。この土建屋さんの隣が同じ名前の小さなユースホステルで、その道を隔てた真向かいが材木置き場になっている。ここはいままで空き地にすぎなかったところであるが、今年は杉と思われる丸太が山と積まれているのだ。それも、あの台風で出た倒木を臨時で積んであるのかと思っていたら、毎日のように大きなトラックが来て材木の積み下ろしをしている様子だから、かなり長期的な間伐材などの集積場になるのかもしれない。
 ここに出入りするトラックの中に、小さな子供連れの夫婦が、ヘルメットにヤッケと長靴という三人とも同じ姿で作業しているのを見掛けることがあるけれど、五〜六歳と思われる子供が見様見真似でトビグチを使い、到底動くはずのない材木を引っぱって遊んでいるのは、重い材木の積み下ろしという危険な作業からすれば、決してほほえましい光景などといって見過ごすことも出来ない。それがたとえ手不足の仕事であるにしても、共稼ぎで子供ひとり家に置いておくことの出来ぬ生活などを勝手に想像してみれば、わずかな観光事業からもあぶれてしまう林業のみでは、満足に食っていけない山の生活の厳しさを垣間見る思いがするのだ。
 再び左側を見ると、ユースホステルの隣に猟犬の訓練所をしていると思われる家がある。あれは、滝行を始めてから三年目か四年目のころだったと思うけれど、凍える手足に憔悴して帰りを急ぐ<私>が、この家の前に差し掛かったときに、多分この家のおばあさんと思われる人が、吹き曝しの雪の上にいるには不自然な下駄履きの着物姿で、待ってましたとばかりに手を広げ「おお! おお!」と言いながら、まるですがりつくように 寄って来た。
 何のことか分からぬ<私>は、ちょっとたじろいだけれどそのまま通り過ぎようとすると、そのおばあさんは<私>の右腕を押さえ、熱い眼差しで顔を覗き込み「信じますよ! あなたの霊感なら信じますよ!」と言った。いや、そう聞こえたと言うべきかもしれないが、その当時<私>が滝行をしていることなどこの辺りのヒトが知るはずもないし、まして大滝や栗平辺りでヒトに話し掛けられたことすら一度もなかったのだから、<私>は予期せぬ言葉をとっさには理解できなくて、「はっ?」と言葉にならぬ声で振り向くと、おばあさんはしきりと納得顔でうなずいているのだ。訳もなく声援を送られることの戸惑いのままに、<私>は軽く立ち止まり会釈をして立ち去った。
 あれは一体何事だったのか? その年は、そのあとでこの家の前を通るたびに、道に面したガラス戸の奥から、それと分かるほどの熱い眼差しを受け続けたけれど、<私>はヒトビトの苦悩を霊感で治せるほどの<神懸かり>ではないから、何事もないままに過ぎてしまった。今となれば、やはりあれも<私>を正体不明者へと誘う<何>的事件であったというわけなのだ。
 この家の大きな柵の中にいるあまり鳴かない猟犬たちとは別に、隣の家にけたたましく鳴きわめく二匹の犬がいる。県道からすこし奥に入った家の前に、小さな犬小屋に繋がれた犬が一匹、そして放し飼いの多分雌と思われる成犬が一匹、この二匹は、一瞬にして通り過ぎる車にはいささか吠えかかる機会を捕らえることが出来ないが、それ以外の通りかかる一切のものには誠に勤勉に鳴き続けているのだ。始めに何者かの接近に脅えて鳴き始める小犬の声にせかされて、必死の形相で出てきて鳴き始める犬は、見据える<私>の目からも顔を背け、すっかりシッポを巻き込んで腰がひけ後ずさりしている有り様なのだから、多分母親であることさえ悲痛な覚悟がなければ勤め上げられないという哀しい苦悩犬なのだ。とにかく毎日のようにヒステリックで臆病な鳴き声で出迎えてくれたけれど、それもようやく二十日ほどが過ぎるころになって、鳴きに出てこない日があるようにはなったものの、それでも必ずどこからかこちらの様子を伺っているのだから、たぶん正体不明の<何>者かには未だ心を許していないというわけなのだ。
 この辺りまで来ると、寒さとは関係なしに身体は快適に暖まってくるが、それは同時にアカギレでかさかさになっている脚にズボンが擦れたり、あるいは毛糸のソックスが擦れてチクチクと刺激するのが気になるころなのだ。この脚のアカギレだけがいつまでも治らないということには多少の理由があるが、それでも以前は滝行に入ると身体じゅうにアカギレが出来ていたのだから、最近はかなり状態が良くなったと言えるのだ。
 ところでその理由とは、八〇年の十一月から毎年冬の御歳暮と夏の御中元の時期に、デパートの宅配業のアルバイトで東京へ出稼ぎに行っているのであるが、たまたま最初の年に運動不足の解消を兼ねて自転車で始めたその仕事が、どうした訳かそのまま効率よく身についてしまい、今では仲間うちでも驚異の自転車サーカスとさえ言われる神懸かったスペシャリストになってしまったけれど、冬場はペダルを踏む足がジーンズに擦れて、特に太ももの外側がひどいアカギレになってしまうのだ。そしてアルバイトが終わったときには腰骨が当たるところからその下にかけて、手の平ほどの大きさに赤いアザが残ってしまうのだ。そこへもってきて日課である起床のときの水浴びとこの滝行のために、身体の脂気が少なくなっているところをタオルでこすり、あるいは凍結している体毛をタオルでこすり続けてしまうために、寒気にさらされた皮膚はなかなか元に戻らずアカギレをさらにひどくしてしまうのだ。そんなわけで毎日のようにオロナイン軟膏とか髭剃り後のスキン・コンディショナーなどを塗ってみるけれど、結局のところ滝行の間はほとんど目覚ましい効果は得られない。

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 さて、先程の小さな川を過ぎて、長く穏やかな下りの道を六〜七分も来ると、ふたつめの川がある。橋の手前右側には、よく車が出入りしているわりにはあまり人影を見掛けない工務店があり、左側には、あまり仕事をしていない鉄工所が吹きっさらしの酷寒の中で工具を錆び付かせている。そして川に沿った鉄工所との間に左に入る道がある。
 あれは確か去年の五月の連休あけの頃だったと思うけれど、めったに訪れる人のない<私>の山小屋に、しかも夜の九時ごろになって一台の車が入ったきた。それはある宗教団体の熱心な信者たちであったが、彼らはのんきに暮らしている人間を見付け出しては布教活動をしているというわけで、そのときの三人のうちの二人が、この道を入ったところの人だと言っていた。
 たまたま知人の山荘へ、ベランダ修理に来ていた大工さんがそのうちのひとりで、<私>が非常勤の「管理人もどき」として鍵を預かっていたために、様子を見に行ったことが彼らと知り合うキッカケであった。家の戸を開けずに一人で工事をしている大工さんに、「戸を開ける必要があったら声を掛けて下さい。この奥の家で鍵を預かっていますからね…」と挨拶をしておいた次の日に、いかにも素朴な感じの正に高原で働く好青年の典型とさえ言えそうな笑顔を湛えた大工さんが鍵を借りに来た。
 そのころも日の出を見てから寝て、昼過ぎに起きる生活だった<私>は、かなり早く起こされてしまったわけで、「だいぶ呼びましたか? いつも今頃は眠ているもんですからね、すいませんでしたね」と言うと、彼は戸惑いながらも恐縮していた。それから夕方になって鍵を返しに来た彼は、「あの、おひとりで、ずっとここにいるんですか?」とおずおずと声を掛けてきたけれど、<私>が「うん、静かだからね」と言うと、それ以上は何も聞かずに一人にこにこうなずいて、ひとこと礼を言って帰っていった。
 それから数日して、確か日曜日の夜だったと思うけれど、突然この大工さんが、母親だと名乗る太めにして温厚な品の良いおばさんと、三十前後の神経質で実直そうな、たとえば町役場とか農協職員にぴったりの痩身の男を連れて現れたということなのだ。
 作業服を脱い大工さんは、初めの印象よりは小柄でしかも気弱な感じさえ与える青年で、彼は「あの…、ちょっと宗教の話でも、させてもらいたいと思って来たんですけど…。あ、あの、うちのオフクロなんですが…」と、助けを求めるように母親を紹介した。「こちらに、とても気持ちのいい方がいらっしゃるからと息子が申しまして、ぜひ一度、宗教のお話でもさせて頂いたらどうかと申しますものですから…」と言うわけである。しかもおばさんは、「でも、こういうところに、おひとりでいらっしゃる方だから、きっと何かの宗教はやっていらっしゃるはずだよ、と言ったんですが、とにかく一度と言うものですから…」と、多少の心積もりはしてきた様子であった。
 さておばさんは、慎ましやかに管理しえている豊かな身体を律々しく励ましながら、多分どこへ行っても、そのように話を進めるのであろうと思われる確信に満ちたしかも方言のない口調で、それもマニアル通りであるはずのS学会的仏教観を語ってくれたけれど、どこかで聞いたことのあるようなあまり面白くない話だったので、今となってはほとんどその内容さえ思い出すことができないのだ。でもとにかくは真面目な聞き手であったはずの<私>が、「それで、皆さんのそのような信心とか信仰生活というものと、教団の意志あるいは宗派の宗旨といったものとの間に、いわゆる自己矛盾とか軋轢なんかは生じてこないのですか?」と尋ねたときに、彼らは豆鉄砲を食らった鳩のごとく、一瞬の不意を衝かれてたじろいでしまったことにより、後は<私>が話し手になることになった。ひょっとすると教団の手引きにも、彼らの信仰生活にも、この手の質問を喚起する「自分とは何か?」「いかに生きるべきか?」への反省的な土壌は耕されてはいないようであった。
 そこで<私>は、「どうしてこんなことをお尋ねしたのかと言いますとね、それは政治なんかを見ればはっきりと分かることだと思うんですよ。たとえば民主主義の名の下で、いくら自由主義を掲げて政党を組織し国家を運営しようとしても、それが国家としてのみならず政党や様々の派閥とか官僚などという<組織>としての生命力を持ってしまえば、あるいはそんな組織の力を巧みに掠め取る権力者や暴力者が出現してしまえば、その体制を根底から支えているはずの自由主義者や、そんなことにはまるで無頓着な国民までも抑圧することになり、思わぬ不自由な世の中になってしまうことさえあるということなんです。つまり、<思想>とか<理論>あるいは<教え>などというものを実際に生きてみようとする場合には、政治とか宗教にかぎらず、常にこういう問題を孕んでいると考えるからなんです。それで僕は、皆さんの信仰生活にはこういう問題はないのかという事をお尋ねしたわけなんです。
 じゃ、何でこんなことを言い出したのかと言いますとね、もしもこういう問題に目をつむり、すべての矛盾を<信ずること>にすり替えて解決してしまおうとすれば、あの太平洋戦争のときのように、天皇教の名の下に皇軍による聖戦であるなどと言い繕って、結局は財閥と結託した軍部に騙されて、略奪者や単なる殺人者にまで成り下がってしまった我々の親やその兄弟あるいは先祖たちの悍しき蛮行を、再び繰り返しかねないということを心配するからなのです。
 どう思われますか? 終戦直後に<一億総懴悔>などというスローガンがあったようですが、当時の国民、政治家などは、いったい何に対してどんな懴悔をしたんでしょうかねェ。とにかく、宗教者として生きるということは、自らの<信ずるもの>のためになら、異教徒を抹殺してもいいという論法を否定しえません。
 どうです? 宗教者たるものは、自分たちだけの神仏で武装するなどということだけでいいんでしょうか? どうですか? いいですか、ここでいくらおかしいぞと思ってみても、権力者とか権威者などの言うことを鵜呑みにしてただ<信ずる>ことのみでは、そのような<おかしいぞ>と思う自らの良心さえも裏切りかねない暴力者に堕落してしまうということなんです」と、かなり狙いすました一発を見舞うことになった。
 たぶん、教団支部あたりの真面目で分別をわきまえた布教員を自認していたのであろう痩身の彼は、宗教者である細い身体がさらに細くなる思いに居心地が悪いのか、うつむき加減で何か言わなければと思いつつも、結局は何とも言いようがないという様子で、しきりにずり落ちるメガネを揃えた細い指で押し上げていた。大工さんは依然として豆鉄砲を食らったままだし、おばさんは、宗教の恵みによってこそ育まれたはずの豊かな身体に、今さら自己否定の亀裂など走るはずのない地母神のように構えて、でも予期せぬ体験を自らの宗教生活の肥やしにせんものと<私>から目を離さない。
 そこで、おばさんの最初の話が、いわゆる仏教学の一般常識からはかなり自由に横滑りしていたことを踏まえ、<私>は、原始仏教といわれる釈尊の宗教生活が、後に小乗・大乗という仏教教団として形成されていく変貌の過程を、かなり簡単におさらいすることになった。そしてそれをふまえ、では「仏教とは何か?」「釈尊はいかに生きたのか?」「いま仏教者はいかに生きるべきか?」と問い返し、今われわれがこれらの問いに何等かの回答を用意しようとすれば、様々な時代に様々な場所でつまりはその時々の都合で、権力者や権威者があるいは救世者たらんとするヒトビトが、いつも<原点への回帰>を標榜しつつ、結局は自らの理想とするものに都合の良いように、勝手に拡大解釈し、歪曲し、矮小化し続けてきたヒトビトの営みについて、<反省的に語る>ところへと辿り着くしかないということを語ったのだ。
 ここで<私>は、「いま僕たちは、<本物>とか<真理>と言われるものが、まして<真実>とか<事実>というものまでが、ことごとく絶対的な意味や価値を持ちえぬものとして、相対化された臆断にすぎないことを知ってしまっているのですから、単に <嘘偽りのない本物の自分になるため> ということで何かを<信ずる>などということだけでは、もはや自己欺瞞を回避しえないということなんですよ。いや、むしろ<信ずる>とかあるいは<本物の自分>という幻想に捕らわれることこそが、自己欺瞞なんだと知ってしまっていると言うべきかもしれません」と続けた。
 しかし彼らのあまりにも神妙な顔付きが、たぶん彼らの宗教的な思惑からどんどん遠いところへと行ってしまいかねないという不安を訴えているようでもあったので、<私>は改めて、「皆さんの信仰生活というのは、普段どういうことをしているのですか?」と尋ねてみた。
 おばさんは、いまさら信心について語るわけにもいかないと思ってか、それとも下手なことを言って面倒な話になることを敬遠してのことか、「私達は、難しい勉強はよく分かりませんから、毎日、お題目を上げる程度ですよ」とかわし、布教員は、<信ずる>ことこそがまるで罪悪であるとさえ思われる話を聞いて、いささか語る言葉がないという様子であったけれど、「学会の名誉会長が、宗旨を在家のために分かりやすく説かれたのだから、自分たちは、それを信じて…、ということですが、布教活動をしているわけなんです」と、結局は自己矛盾へと語るに落ちる自分の言葉が忌々しいとばかり、すっかり暗い影の中に埋没してしまった。いまはすでに「宗教者もどき」にすぎない<私>ではあるが、ささやかなる<私>の経験からしても、いかなる宗教・宗派であれ、自分の巡り会った<その教え>でなければ救われなかったであろう苦悩を背負った、ヒトビトの様々な宗教体験というものがあると思うからこそ、それを踏まえた<仏教者>としての自覚などを聞いてみたいと思ったのであるが、それは果たされなかった。

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 ところで、無口な好青年を一手に引き受けていた大工さんは、<私>の穏やかな語り口が、何とか言う「にいちゃんに、そっくりだね。母さん!」を繰り返しながら、まるで<私>を彼らの生活の中に取り込みえたことを確信しあうかのように、しきりに母親に相槌を求めていた。
 しかし、なおも聞き手でいつづけようとする彼らのために、<私>は自分の仏教的な拘わりについて話すことにした。つまり、仏教の最大の眼目である「解脱-成仏-涅槃」に対して、「脱芸術論−不空芸術菩薩論−<何>論」という破廉恥な構想を立て、つまるところ「何って何!?」をするために<何>もしないことについて語ったわけである。それは<何>もしないために<無意味な何か>そのものをすることでもあるから、せめて毎日の勤行の前には必ず水をかぶること、日々の懴悔録としてあるいは<私たりえぬ私>へと横滑りしつづけるために、一日一画を三千日余り続けていること、そして寒中の滝行について言及したわけである。
 ここで何よりも彼らをして感動せしめたのは、この寒冷地における水浴びと滝行であったようだ。寒さの辛さを身をもって知る彼らにとっては、たとえば水を浴びた後に立て掛けた風呂場のスノコに、ほんの数分で五〜六センチもある見事なツララが何本も下がること、飛び散る水滴がそのままの形で壁に凍結している様は、正に日常的な悍しさに他ならないのだ。 おばさんは、その律々しさを十分に発揮する場もないままに、すっかり納得する側にまわってしまったけれど、ひょっとすると寒さへの思いが、背中をゾクゾクさせるほどに自分の中に抱えておけぬ痛みを目覚めさせたのか、それとも不動の大地たる地母神に、思わぬ一陣の風が立ち地殻変動の前触れを感じることになったのか、「でも、そういう、お辛いことをなさるには、やはり、よほどのキッカケになるようなことが、おありになったんでしょう?」と切なそうな顔で聞く。すでに辛さぬきでは何事も聞きえぬ耳を持ってしまった彼らに、いまさら「好きで習慣にしてしまったことには、辛さは似合いませんよ」などと言っても始まらないから、いまこの隠遁生活によってこそ克服しえている様々の苦悩とは、何はともあれ一六〜七の頃に、どうあがいてもうまくいかない肉親相克の中で、ほとんど手探りで見付けた「自分とは何か?」「いかに生きるべきか?」というふたつの問いに、がむしゃらに回答すべく摘出した苦悩であり、しかもそれは、絵を描くという反省的表現手段によってこそ掘り起こした苦悩に他ならないということを語ったのだ。
 それを呼び水に<私>はおばさんの入信における救済体験の一端を聞くことが出来たけれど、結局のところヒトビトにとっては、いかに崇高なる教儀を説く仏教であっても、何等かの現世利益を無視しては宗教たりえぬことを確かめ合いながら、なおかつ<私>は、そんな宗教が自らの救済を絶対的な価値へと棚上げし、ヒトビトの苦悩を不信心ゆえの報いと決め付けて、弱者・貧者の痛みの上に君臨しようとする体質を改めない限り、宗教こそが人類滅亡の最悪の元凶であることを、<信ずるもののみが救われる>という宗教の根本的な差別的体質の暴力から示し、しかもそれが、「荒れるにまかせる自己愛」としてしか生きえぬヒトビトのそのささやかなる欲望を、自然界の食物連鎖のごとく常に弱者の犠牲によってこそ満足させ続けてきたという、人間存在の根底的な差別的暴力性に起因することから語り起こしたのだ。
 そして、「もはや人類は、自らの手で滅亡しうる小賢しい暴力者に成り下がってしまったのだから、いかなる宗教も自らの暴力性を棚上げしたままでは、人類の救世主を誕生させることが出来ないということなのです。それゆえに、その反照的な意味において<核兵器>こそは、抑止力という救済幻想を<信ずる>ものにとってのみ、最も崇高にして<荒ぶる神>であると言えるのです。しかしこの<核-神>は、ヒトビトを平安へと誘う代わりに猜疑心に満ちた不安と危機感によってしか祝福してくれないのです。
 とにかくいいですか、この地球上には、無数のヒトビトが無数の宗教を持ち、様々な神仏の真実性を糧にして生きているのですよ。と言うことは、いかなる宗教も、もはや宇宙の創造を語るほどの絶対的な権威たりえず、ましてそのような権能もないと言うことなのですよ。そういうときに、<絶対的な安息・平安> の実現を<信ずる宗教者>であることが、どれほど欺瞞に満ちたことなのかということについて、われわれは目覚めていなければならないということなのです。ですから、もしもわれわれが、<反省的な宗教者>でなければならないと悟ったならば、もはや <信ずるもののみが救われる> などとは口が裂けても言えないということなのです。
 いいですか、いまこの人類滅亡の現前で、もしも宗教者がその偽善的仮面で <世界の平和> について言及してしまったとしますよ、すると彼らは、自らの<信ずる神仏>のその絶対性を疑い強いてはその存在すら否定することになってしまうのですよ、とすれば《彼らは<信ずる>ことをやめるか宗教者であることをやめなければならない!》ということになるのです。そこでもしも、自分の<信ずる神仏>が唯一絶対である必要はないと開き直ったとしても、そのときには、生まれながらにしての<荒ぶる自己愛>であるヒトビトは、結局のところ私物化された神仏を受肉する自己神格化へと堕落してしまうでしょうから、世界は魑魅魍魎の住む欲望の修羅場になってしまうというわけです。とにかく、いますべての宗教者に課せられた禁句とは、<世界平和のために貢献する> という言葉なのです。言い換えるならば、これを禁句としない宗教者とは、世界制覇のためには人類滅亡をも辞さないという神懸かった暴力者だということです」と言う<私>の言葉は、はたして彼らの宗教的な存在理由に、いかなる反省の一撃を喚起しえたであろうか?
一言もない彼らを見据えて、<私>はさらに続けた。
 「皆さんいいですか、こんなとてつもない矛盾を孕んだ宗教が、それでもなお臆面も無くまったく口を揃えたように <目覚めよ! 目覚めよ!> と、夜になってさえわれわれの心の扉を叩き続けていられるというのは、いったい何故だと思いますか? それはわれわれが、厚顔無知で欲の皮の突っ張った<宗教=家>たちに、たわいもなく騙されてしまうほどに見透かされた愚か者にすぎないという事だからなのでしょうか?
 たぶん、そんなことではないと思いますね。それは、すべての宗教がすべてのヒトビトに、己が無意識のままに、あるいは気付いたときにはすでに生まれ生き続けてしまっている<自分>に、その<自分>こそが苦悩者であること罪ビトであることへと、<目覚めよ! 目覚めよ!> と語り掛けていたからだと思うのです。この<目覚め>によってこそ、ヒトビトはわれわれは、宗教によってこそ救われなければならない<自分>と<あなた>と<みんな>を勇気づけてこられたのではなかったのでしょうか?
 つまり、宗教こそが、<荒ぶる自己愛>によってしか生きえぬヒトビトに、常に普遍的で真摯な<反省力>でありつづけたということなのです」。
 ここでおばさんが、なぜか感極まって「すばらしい!」とひとこと言ってくれたけれど、もうここまで語ってしまえば、思わぬ賛辞にたじろいでいるわけにもいかないから、「アア、このおばさんは、確かに救われているのだ」と心暖まる思いを称えつつ、さらに語り続けることにした。
 「もう一度言いますよ。もし宗教が、いま人類滅亡の現前でなおかつ未来に向かって<世界の平和>などについて何事かを語りうるとすれば、それはあくまでも <自分とは何か?> <いかに生きるべきか?> に対する厳密なる<反省力>であるということについてのみなのです。したがって<反省的な宗教者>に目覚めるということは、神仏によって自らの苦悩を<解放=開放>しようとすることが、取りも直さず神仏という苦悩こそを<開放=解放>することでなければならないということになるのです。だからわれわれが、どうせいつかは滅亡する人類であっても、その終焉を苦悩でないものとして少しでも先送りしつづけるために<世界の平和>について努力しようと願うならば、なによりも宗教という偏見を超えて反省的に生きなければならないということなのです」。
 布教員は思わぬカウンター・パンチをたてつづけに食らった様子で、ほとんど出る幕もないままに力尽きてしまい、いかようにも整理の着きかねる問題を持て余して、ただ「宗教を超えるものということですか…」を繰り返し呟いていた。若き大工さんは、母親の感動に立ち会う喜びに満足している様子で、何の屈託もなくこの光景そのものに酔っていた。
 しかし、彼らが後になって我にかえり、自らの真摯な宗教的情熱がはぐらかされただけだと気付いたときに味わうであろう口惜しさを思えば、いささかなりとも彼らを突き放したままにしておくわけにもいかないと感じた<私>は、「しかしね、僕の場合にも、かつて芸術論的な矛盾・苦悩を克服する問題は、芸術的手法によってしか解決されなかったと言いうるように、宗教の矛盾・苦悩を超える問題とは、結局、宗教によってしか解決されないと言いうるということですね。つまり言い換えますとね、すでに人類は<宗教的な想思念>というものによってこそ、自己崩壊を免れえぬ苦悩者として生まれかわり死にかわりし続けてきたにもかかわらず、同時にそれによって<世界の始原>にまで思いを馳せた<世界の平和>について模索しつづけてきたというわけですから、いま<世界の平和>を実現しうる手段とは、宗教の持つ普遍的な<反省力>をおいて他にはないといえるのです。正に<宗教>とは、永劫に苦悩しつづける人類を苦悩者へと突き落としつつ救う両刃の剣だということですね。われわれは、いまこそ宗教に目覚めて生きなければならないと言えるというわけですね」と付け加えたけれど、この言葉は、《表現行為は経験としてしか語れず、表現経験は行為としてしか体得しえぬ》という<反省的実践>について疎い彼らを、さらに深い困惑へと突き落としてしまったようだった。
 そこで、だいぶ遅くなってしまったと気付いたおばさんが、「あ、そのままにしておいて下さい」と言う<私>の制止を振り切って、決然と「いいえ、とんでもございません」と自分たちの飲んだコーヒー・カップを洗いに台所へ立ったのをきっかけにして、<私>たちの宗教談議は終わることになった。
 結局のところ、ちょっと暇なときに「ねえ、どお? 宗教の話でもしようか?」と言いたげに、手頃なカモを探しているのは<私>の方だったのだから、無事に家まで辿り着けるかどうかさえ不安にさせるほどに神妙な顔付きで夜道を帰る彼らに、「また、宗教の話でもしましょう。どうぞいつでも遊びに来て下さい」と言った<私>の言葉は、かなり辛辣な厭味にも聞こえてしまったかもしれない。

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