(4)



 道なりに県道へ出てさらに右に行けば、これからしばらくは両側に大きなモミの並木が続く長い直線の道になるが、何もかも凍結し枯渇した雪原で越冬する大地が、密かに再生の予言を託すモミの木は、吹きすさぶ雪原の霊気が抱えた未だ浄化されずにさすらう荒んだ自己愛に、とめどない<慈悲>の手を差し延べてたたずみ、いま右側の並木は斜めに差し込む夕日を遮る<悲の影>となり、凍える自己愛への愛憐と同情の眼差しを投げ掛け、一方かろうじて光がとどく左側の並木は<慈の輝き>で、自己愛ゆえの哀しみに涙するものの痛みに穏やかな安息のほほ笑みを返している。
 この道は、たとえ冬になっても生臭い荒んだ自己愛によってしか生きえぬ高原のヒトビトが、雪原の中にも大地のせめてもの<慈悲>を求めて育て上げたものというならば、それは<冬の静寂>も痛みなしには生きてゆけぬヒトビトの反省的な優しさに他ならないのだ。
 寒さの厳しかった去年は、ほとんど雪で固められていたこの道も、雪の少ない今年は道の両側に車で踏まれなかった雪がそのまま凍結して残されているのみなのだ。この凍結した雪の中に、この先の栗平地区から通学してくる子供達の小さなスノーブーツの跡が遊びながら不規則に続いているが、その中には<とりあえずの私>が歩く以前に、すでに<誰かである私>によって歩かれている規則正しい足跡を発見することができる。そんな足跡を踏みながら、もはやその行き先を問うこともなく、しかも新たなる<私>の足跡を残すこともなく歩きつづければ、ただ歩きつづけることのために歩く正体不明の<誰か>が屹立して、ただ寒いだけの冬の真っ只中に「いま」と「ここ」が快適に静止するのだ。
ところが雪の降ったその後に、いま新たに目的地へと向かう<とりあえずの私>が、誰にも踏まれていない雪面で<私たりえぬ私>へと踏み出す正体不明者を気取ってみても、ブーツの後に纒わりつく雪煙の後には、いささか見覚えのある足跡が執拗に追ってくるのを振り切ることができない。と、不意にモミの並木を吹き抜ける風の囁きで、細い葉を支える枝に休息していた粉雪の精霊たちが舞い上がり、落日の別れを辛い思い出にさせないために金色の涙を輝かせることがあるけれど、そんな精霊たちのとめどない涙が、<私たりえぬ私>へと踏み出す正体不明者と<とりあえずの私>とのわずかな心の隙間に舞い降りて、いまだ振り切れぬ足跡に<私でありつづけた誰か>の切ない思いを濡らすことがあれば、そのささやかなる涙の温もりは、とりとめもなく森 進一の『人を恋うる唄』や八代亜紀の『夢待草』によって横滑りする「涙の物語」になってしまうのだ。
 もう何年も酒場に行っていない<私>が、あるいはヒトと肌を温め合うことのない<私>が、まして恋におちる予定のない<私>が、いま<私たりえぬ何か>の旅路を歩きながら、すでに心地よい哀愁には委ねる<私たりうる私>の苦さもないとすれば、かつてはむやみに私でありつづけた自愛的欲望の空しさに、いまとなっては在り来りとしか言いようのない痛みを探り当て、今さらそうはありえぬ<私もどき>の歩みを慰めとして、いかようにも苦しみたりえぬ足跡を「人を恋うること」なくしては生きえぬヒトビトへと送り返すのだ。
 あるいはまた、花には命の水がいるように、すべての<私>に愛がいるかぎり寂しさなくしては生きていけないとしても、いまこの雪原で花も愛も見ることのない<何>的旅人は一人歩きこそが楽しいから、ヒトビトが自らの苦悶にみあった感動で、咲いた花にばかり醜い自分を見てしまうという辛い諦めより外には何も見えなくなってしまった愛に、<何>こそを見せる正体不明の足跡だけを残すけれど、「それがどうしたって言うのよ、何の解決にもなってないじゃないの…」とでもいいたげな訳ありの風をよけそこね、そんな歩みが思わぬためらいで横滑りでもすれば、それはひょっとすると<私でありつづけた誰か>が気ままな男であったために、哀しませてしまった女の夢待草が熱い念いで芽を吹く痛みかもしれないから、いずれは花で満たされるであろう雪原に念いを遂げられぬ女の哀しみばかりを咲かせてはなるものかと思い立ち、春には解けて黒い土へと消えていく<私もどき>の足跡に<何>しか見えぬ愛の安らぎを委ねざるをえないとすれば、いまは春に<慈悲>の涙を約束する心優しい歩みを<金剛薩埵身>として続けていかざるをえないのだ。それにしても八代亜紀の唄は、あのバッハの響きが神への信仰なくしては十全たる音楽たりえぬように、女の愛欲を愛のために懴悔する女の痛みを抱えた霊的救済論なくしては唄たりえないといえる。だから樹木の高みに乾いた軋みを響かせながら近付き、あっという間に通り過ぎそのまま雪煙の中に姿を隠そうとする風に、八代亜紀的救済論を投げ掛ければ、一瞬、風はひるみ、次の瞬間あの精霊たちの祝福の涙の中で<女の痛み>が一気に昂揚したかと思うと、ヨガにいうムラダーラ・チャクラからスパディシュナ・チャクラへと、さらにはマニピュラ・チャクラへと突き上げるクンダリーニの覚醒さえも予感させるのだ。 
 ところが、森 進一の唄には、まるで神懸かったところはなく切羽詰まって絶唱すれば、むしろ霊気は消化不良を起こしたり自家中毒となって発熱するだけだから、その唄は情念として燃えられないヒトビトの心を、切なさの中で即物的に暖めてくれる温もりの心地よさなのだ。それは演歌に限ったことではなく、あまねく<何かが何かでありつづける>ために響き出すものを、「震える霊気」や「即物的な温もり」として<私たりうる私>が引き受けてしまえば、結局は<何か>でありつづけられない不成就性の霊気に魅入られた<さすらい人>となり、いかようにも生きえぬ愛の痛みを背負わされて、とめどない涙を流すばかりになってしまうのだ。しかし、そんな涙がいとおしくていつまでも<さすらい>つづける酒と演歌が手放せないのなら、それはそれで酒場の隅で誰かの優しさを期待しながらそっと肩で泣きつづければいいのだ。
 さて「さすらいの涙」の似合わない<何>的旅人は、<私たりえぬ私>の「何って何!?」の優しさとしてしか口ずさみえぬ唄を、たまに通り過ぎる車の巻き上げる 「荒ぶる霊気」 に送り返し、「いま」「ここで」「何!?」でしかない<私もどき>の足跡を、誰のものとも知れぬところへと進めるが、そんな<何>の現場を毎日のように横目で流して通り過ぎる見慣れた車があることに気付くのだ。
 それは山の家々を回る鮮魚商であり、八百屋であり、雑貨屋であり、地元の土建業者のトラックであり、宅急便であったり、あるいは母親たちが通園通学の子供達を迎えに出る車であるが、彼らがこの時期に通行人など下校途中の子供以外にはめったに見掛けぬこのあたりで、いつものように同じころに見掛けることになる正体不明者は、通り過ぎればすぐに忘れてしまう程度に何気ない「あなたは誰?」「どこへ行くの?」という、どれほどの回答も期待しない眼差しに晒されて、正に<何>気ばかりを引き受けた<何>的旅人として歩きつづけるのだ。 そう、いつも旅人は「どこへ行くのか?」と問いつつ問われ、「どこから来たのか?」と問われて問いつづけているのだ。だからいかなる旅人も「どこからか来てどこかへと行きつつある」反省的表現者なのだと言えるけれど、いまここで正体不明性を際立たせて歩きつづけている<何>的旅人には、密教にいう「本不生」を引くまでもなくその出生を問うことがナンセンスにすぎないのだから、唯一その出生を辿る旅を語ろうとするならば「ここへ来るためにどこへ行くのか?」という本末転倒の物語になってしまうのだ。そんな<反省>さえも自己矛盾へと語るに落ちる物語であるがゆえに<何>景にすぎない<冬の静寂>は、いま<何>的旅人を一九八〇年の夏の「鬼押し出し」と呼ばれる地形のすぐ下にある大きな別荘地の一角へと滑り込ませるのだ。

戻る目次

 避暑地の森の奥に穿たれた広場の一日中客の来ないレストランで、あてのない客のために僅かの仕込みをすませた料理人が、期待の失楽園に注ぎ込む真夏の日差しと乾いた風の中で、さざめく葉音と川のせせらぎにのせてバッハの『フーガの技法』(ベルリン弦楽合奏団)を、ベートーヴェンの一〇曲の『ヴァイオリン・ソナタ』(Vn\パールマン、pf\アシュケナージ)を、あるいは七〜一一番と一五、一六番の『弦楽四重奏曲』(ジュリアードSQ)を響かせ、いまだ何かを期待せずにはいられない欲望を料理人の自己愛にすぎないと了解してしまう欝感の中で、仕事がないことによって保証された休息に、あたかも「働きたいのに働けない」とでも言いたげな見え透いた欺瞞を仕組みながら、放っておけば塵となって飛んでしまいかねない<真面目>を弄ぶのだ。
 するといよいよ、不意の来客を期待しないわけではなかった料理人のかすかに健全であったフィードバック機能も停止して、真夏の高原の強靭な日差しの下で短く深い影に閉ざされた店内が、森の輝きばかりが眩しすぎる窓によってさらに深い午睡へと沈み込んでしまうから、かろうじて料理人でありえたはずの<誰か>は、重い室内楽では音楽による気分転換の希望さえも去勢されてしまうと思いつつも、結局はまる一日欝的に漂う感性で「料理をしない料理人」と同じ意味を抱えた「芸術をしない芸術家」を探り当て、「何事もそうは問屋が卸さない」と了解ずみの手なずけた危機感を彷徨することになる。
 そんな彷徨の企みは、「生きることを表現」と見定める<誰か>が、たとえば真とか美とか聖という幻想の創造的快感と破壊的快感に飲み込まれてしまうことの不安と不信からの警鐘を、まるで起きるつもりもなく聞き流す目覚まし時計の囁きとして知るようなものだから、それを常識・文化・制度という約束からことごとく脱落しつづけることの緊張感と危機感を捏造することだと言い換えたとしても、ここで見透かされた危機は、自愛的欲望によって<想い><思い><念う>ことの不本意な自己疎外を、不本意に<想い><思い><想う>ことの欲望を積極的に<想い><思い><念う>ことで、幻想的事件の救済現場へと参入することとして解消せんとする<宗教>ならばたちまち一件落着と知りつつも、しかしそれが宗教によってしか克服されないと考えてしまうヒトビトの<真面目さ>には、それでは宗教的霊魂観という悍しき霊的欲望の呪縛を拭いきれぬはずだと失笑してしまう程度のことなのだから、開店休業の料理人にしてみれば、この店の経営者の挫折する欲望が自らのスケベ根性を取り繕いかねた不安と不信にいつもの悪あがきが始まるであろうことを、「今度はどうするつもりかな?」と<何か>を期待しつつこぼしてしまう冷笑の、その冷たさをもてあましてしまうという程度のことといえる。 しかし、たとえ見え透いた危機の捏造であれ、それは抗しがたき欝感にかろうじて<私たりえぬ私>を発見する手段たりうるというわけであるから、炎天下の灼熱地獄に清涼なる日影という救済を貧るものに堕落することなく、あえて「私たりえぬ私を<する>」という「ここに居るためにどこかに行く」行為者に身を落とし、昼下がりの<静寂>と<平安>の経験を語ろうという真摯な反省的試みであると言えるのだ。
 だから、肌寒い雲に抱かれた欲望ゆえの失楽園が、朝まで降り続いた雨にいまだ贖われぬ夜の冷気を宿し、夏を横滑りする夏に料理人の出る幕など初めっからないとしても、リストの『孤独の中の神の祝福』を響かせようと企む<危機的宗教者>がいれば、この夏こその欝感を語り続けることができるのだ。
 そこでリストのためにクラウディオ・アラウの重いピアノが体現させる<神の祝福>は、たとえば苦い酒と知りつつも飲まずにはいられぬ辛さに耐えかねて思わず飲み込んではみたものの、鉛のような液体は一向に消化されず心の痛みをえぐるばかりだとしても、それはそれとして悪酔いがらみでも身体がつづくかぎりは、<自己逃避>によってでも自己愛を癒してくれるというようなものだから、たまたま一瞬にして強酸性に変わって込み上げる胃液の悍しさが、すでに生暖かき内臓を黒き欲望の血で満たした、執拗なる腐蝕を宿す自己愛の味だと気付かせてくれるならば、ことごとく<私でしかない私>の決定論に埋もれてしまったときに、あるいは<私たりえぬ私>の自己喪失に迷うときに、知らぬうちにガラスの破片へと硬化させてしまった苦き酒の孤独の刺が切り裂く内臓の傷は、信仰の痛みを神の哀しみとして震撼とさせるはずなのだ。この<神の痛み>に救済を見るものがいるとしても、<神の痛み>にさえ空しさを見てしまえば、もはやリストの語る愛憎絡む深き哀しみの中で、栄光と挫折、虚と実に切り裂かれる苦悩は、いかなる懴悔によっても贖われることはないといえる。
 思えば<とりあえずの私>が、高原へと出奔して隠遁生活を始める以前に<芸術論的希望>も崩壊していたあの町で、愛の幸福論すら自己欺瞞の屈辱的苦悩にすぎないことを知った十代の知恵を、繰り返し繰り返し確かめ続けた日々にとめどない不成就性の欲望を持て余し、いくらこらえても込み上げてくる自己確信への闇雲な念いが、日暮里のアパートから望む谷中の森が雨上がりの朝日に輝き始めたときに、思わず初夏の風が誘う『孤独の中の神の祝福』に濡らされて、さんざん「どう考えたって、おかしいじゃねえか!?」と叫び続けた空しい情熱を、とりとめもなく豊かで優しい露に癒されたことが、「チェッ、なんでえなんでえ感傷的にすぎるじゃねえか」と腹立たしくも無性に快感であったことに身震いしたことを、いま改めてこの高原の森に響かせるならば、そんな<いま>がさらに輝きの事件としてありながら目眩く勢いで新たなる想い出へと遠ざかり始めるのだ。
 そんな目まいの空白にチッコリーニによる『愛の夢』が、リストの見え透いた苦悩を響き出せば、ようやく天中に昇る太陽が、湿った雲の念いを打ち砕き高原に真夏の装いを再開するのだ。しかし<危機的宗教者>は、どんなに太陽が輝いても決して払拭されない欝感の中にいるから、さらにブレンデルで『孤独の中の神の祝福』を語り続けずにはいられないのだ。
 ブレンデルは、アラウの甘く豊饒なる神の愛を感傷的にすぎるとでもいいたげに、宗教学的な企みにも似た明晰さで愛を語るから、とりあえずは反省的な神学とでもいいうる理神論的な<芸術家>であろうと思っていると、彼は自らの存在理由を<愛>と見定めるときに<美>の実現されたところに<神>の存在を確信する敬謙なる<宗教者>であることが明らかになるのだ。しかし、この明晰なる感性をとりあえずは欲望ゆえの失楽園に見合った響きだとすれば、かろうじて高原を流れる風に隠されている静寂と平安が感応して、あたかも袋一杯のささやかなる幸福である菓子に、菓子が自らの欲望で腐敗を始める自己愛から不安と不信を抜き取るために挿入された乾燥剤のように、欝屈した高原に流れる風を循環させる触媒として<自然的なる欲望>にささやかなる反省を喚起し続けるのだ。
 むろんここには、血みどろの苦悩者が、宗教でしか生きえないと思い込む切羽詰まった救済への期待と、歓喜に満ちた甘き祝福の保証はないけれど、それゆえに論理的に確信された<美>を受肉する<愛>は、理知的な反省が挫折しないかぎり決して倒錯を知らない<愛>を生きさせてくれるから、「荒ぶる自然的なる霊性」に感動することがあれば、感動を正当化する論理でまたたくまに自らの自愛的欲望を反省的に浄化し昇華して、<美>の自己実現を可能にしてしまうのだ。
 しかし今さら<美>を受肉するつもりのない<危機的宗教者>は、それが自己浄化力を備えた<美>であることを確かめて、いますべての窓を開け流れる風に『孤独の中の神の祝福』を解き放すのだ。すると高原を循環する風は輝き、ことごとくの<想い出>が反省的な閃きを担う<感動的な事件>として屹立するのだ。しかも<想い出>事件こそが、とめどない反省的閃きであるのだから、いかなる<反省者>もここでは倒錯することのない<想い出>への心地よい横滑りに身を委ねてしまえば、「ここに居るためにどこかに行く」無限退行の旅人にならざるをえないけれど、そんなしたたかなる旅人は欝感の底無し沼から<想い出>を抱えて蘇るはずだから、真夏の自己忘却的な「けだるさ」の中にのめり込んでさえ、反省的な「いま」を輝かせることが出来るはずなのだ。そして、さらに「けだるい日々」は続くのだ。
 いま、FMでモーツァルトの『クラリネット協奏曲』が擦り減らされて泣いている。アア…、切ないほどの感度不良、一時の安息を掻きむしるノイズ、音楽はかろうじてSP盤の顔で現れるけれど、ラジオはそのささやかなる音楽性をも退けて受信機であることを主張する。避暑地のレストランに乾いた風の流れ込む昼下がりの「けだるさ」は、すでに料理人のはかない望みをことごとく死滅させてしまっているはずだから、さらに芸術家たりえぬ芸術家のいまだ表現者であることを回避しえぬ欲望に纏わりつき、ふとビバルディーの『調和の霊感』を聞いてみたいと思う心を掠め取り、それならばバッハのとめどない『平均律クラビーア曲集』でもいい、いやいっそのことハイドンの壮麗な信仰を称え『天地創造』でもいい、アア‥、それが叶わぬならばモーツァルト、そうモーツァルトなら何でもいいと「まどろませる」から、いつのまにか哀しいSP盤は『クラリネット協奏曲』として蘇り、ほんの一時の真夏の幻想は立ちのぼる陽炎のように軽いと思わせる。
 そんな軽さに浮足立った表現者の欲望が、「アア…、こんな日には…」と呟くときに、かろうじて「でも、なぜに<こんな日>なのか?」と問い返す閃きに目覚めたとしても、結局は寝不足などという気持ちのいい言い訳を彷徨することになってしまうのだ。もはや「こんな日だからこそ」とか「今日こそは」という鋭角的な念いは炎天下の氷細工にすぎないとすれば、さらに解けて流れる弛緩した念いの変わり端を捕らえて放さぬ気負いもなく、ひたすら心地よき彷徨を正当化せんとする自己愛のしたたかさは、「単に<けだるさ>への安易な反照を求めるだけでは堕落の地平を克服することはできないし、まして<まどろみ>の中でじたばたすることは<けだるさ>ゆえの<私たりうる私>へと絡め取られるばかりなのだ」と囁くから、それならばシューベルトの嫋やかな『ピアノ・ソナタ』や、ショパンの閃きの『前奏曲』や『練習曲』を用意しろとでも言い出すのかと思っていても、一向にその気配はないのだ。
 そういえばシューベルトもショパンも、それらはあまりにも高原の清涼にして穏やかな霊性に感応しやすい<まどろみ>の欲望であるはずだし、ましてそれは<誰も>がそう思うであろうと言いうるほどにありきたりの感覚でしかないのだから、このままここに身を委ねてしまえば、もういたって常識的な<私たりうる私>の堕落から蘇ることが出来なくなってしまうであろうと思う危機感が、シューベルトやショパンを選ばぬことをより確かな安全策として、表現者を決して堕落させることのない<まどろみ>へと横滑りさせてしまうのだから、こんなところに芸術家たりえぬ表現者がなおかつ表現者でありつづけるという、表現という欲望の罠が隠されていることに気付いておかなければならないのだ。
 そこで、危機感によってこその表現者ともいいうる<私たりえぬ私>の念いは、シューベルトやショパンのみならず『クラリネット協奏曲』をも諦めて、リストの『巡礼の年/第一年・第二年』をチッコリーニで仕掛けるのだ。
 しかし<けだるさ>の中に流れ込む風の閃きは、雲ひとつない高原で遮られることのない日差しへの白紙委任状をちらつかせるばかりで、光の中にたたずむ夏の乾いた欝感は、まるで愛の救済論に女々しい苦悩を抱えて落ちてもいいと思わせるほどにリストの栄光ばかりを響かせる。しかししかし、風が僅かに流れを変えて、森の中からカビ臭い陰湿なる欝感を運び込めば、いつのまにか傲慢になっていた<けだるさ>は、かえってほんの少しの不快感にも過敏になって揺らぎ、ひょっとすると自らの<けだるさ>とは、気ままな<まどろみ>の快感ゆえに常に夢から醒めてしまうのではないかという不安を抱えていたことに気付かせ、今まで静思することのなかった重き欝感こそが、その不快さゆえにとめどない夢を見続けさせる快感を保証していたことに思いあたるのだ。つまり、<けだるさ>ゆえの快感とは、不快から夢を見る哀しい<まどろみ>にすぎないと知り、ここで夢から醒める不安とは、いつも不快の真っ只中で見る夢のささやかなる快感によってしか贖われぬことを改めて知ることになるのだ。
 それは風が流れつづけて夕方に激しい夕立でも運んでくれば、すぐに了解されることにすぎないけれど、たまにしか訪れぬ<夏らしい夏>がまたたくまに忘れられてしまうほどに冷たい夕立がつづき、そのまま風が流れて霧雨で日が暮れれば、ほとんど<店らしい店>の在り方を忘れたレストランに、<とりあえずの表現者>はそそくさと『巡礼の年』を響かせて、冷えた身体を抱えたままでリストの挫折に漂いながら、<誰>のものともいいがたい栄光の<まどろみ>を思うのだ。
 それにしても<けだるいまどろみ>が重い欝感ゆえのはかない夢であったことを思い知らされる冷たい雨の日が続けば、ついショパンの『夜想曲』をアラウで響かせてしまいそうになるけれど、それではささやかなる危機感も萎えてしまいそうだからと思いつつ、闇雲にロッド・スチュアートを響かせてみても、やはり重い欝感は沈み込むばかりなのだ。しかし、もはや打つ手はないと諦めてボリュームを森いっぱいに上げてベースを響かせれば、無骨なセクシー・ヴォイスは、いつもいつも客のいないテーブルや椅子の脚にことごとく「ありえぬもの」への哀愁を絡め、あろうはずのない人目を避けて頽廃的な情欲を愛撫する。「荒ぶる自己愛」があまりにも自然的である官能のリズムは、そのまま雨を波打たせすでに揺らめき始めた窓越しに、雨という風で森の隅々へと息をひそめた肉感を与えてしまうから、たちまち流れ伝うものの快感に身をよじる樹木は、自己忘却的な熱い吐息でその淫らな姿を森へ隠し、さらに森はその身悶えを霧で包みすでにモウロウとした歓喜を高原へと隠し、張り裂けるほどに淫らな鼓動があまねく命あるものを曖昧なままに昂揚しつづけるけれど、それでいながらそれ以上には昇りつめることのないリズムに掠め取られた欲望は、かえってやるせない念いを持て余し行くあてのない感傷へと女々しい退行を進めてしまうのだ。
 そこで料理人たりえず、芸術家たりえず、宗教家たりえぬ自由人が、冷たい雨のなまめかしい愛撫に身を投げて、あたかも欝的高原の悲しい道化を装いおどけて森のふところに身を寄せれば、高原の感傷委員会は粗野な手続きでさまよえる自由人の<まどろみ>の白紙委任状を取り付けて、そのうえ素知らぬ顔で荒ぶる雨の中へと突き放し、さんざん弛緩していた<明晰な感性>にずぶ濡れの身震いによる問答無用の棄却判決を突き付けて、「さあ、その惨めさからも逃れずに精一杯燃えてみろ!」と醒めた情熱を喚起する。正に冷湿なる欝感に仕掛ける自己否定的なる表現欲求は、冷たい雨にも見透かされているのだ。
 もはや自らの小賢しい企みをことごとく見透かされた道化は、開き直りの悪ふざけによってでも自己否定的な感性について語らなければ、欝感にとらわれた夏を克服することが出来ないと知るのだ。

戻る目次


 ところで、この店の正面にまことに巨大な石がある。そもそもこの別荘分譲地の森の中に穿たれた広場とは、この巨石によってこそえぐり取られた空間なのだ。夏の終焉を告げる霧雨が毎日のように夕暮れ時になって流れ、この巨石の存在すらおぼろげにしてしまうときに、もはや昼の温もりすら感じさせない堅い表情でうずくまり、とめどなく纏りつく露に濡れていま眠りにつこうとする巨石の静寂さが、高原にさまよう欝的な霊性を支配して、そのまま秋へと滑り込もうとする思いを準備させる。
 それにしても、火山灰と泥流の中にどれほど深く埋まっているのかさえ想像しかねるこの巨石が、浅間山から降ってきたと言っても疑いようのない自然的な身元保証の信憑性を、さもありなんと思わざるをえない「荒ぶる自然」のおおらかさは、小賢しい人為的能力にとっては単純明解なる恐怖と言わざるをえないから、「荒ぶる自己愛」の尺度で「荒ぶる自然」を篭絡しうるなどと考える微視的自然観にとっては、誠に痛快、滑稽にして有効な冗談といえる。
 もっともそんな無駄口をたたきながら身震いしているのが、「間に合わせ」的安普請のこのレストランであろうと思わざるをえないけれど、それとても「荒ぶる自然」には到底太刀打ちできぬと諦めた上での「間に合わせ」的金儲けでしかないのかも知れないから、観光という名の自然冒涜の<祭>に集い群がるガセネタ専門の的屋たちのあのしたたかなる商魂を思わせるこの店は、まったく商売にはならないにも拘わらずこの店こそを商品化して、欲の皮の突っ張った者どうしが騙して騙されて金を廻し、取った取られたの博打まがいのイタチごっこのネタにすぎないと見定めれば、そんな陰湿な悪ふざけに誘われる湿った笑いは、たたずむ巨石に諌められてジャン・ジョエル・バルビエの語るサティの『ピアノ曲全集』に託す重く暗い<けだるさ>に解消せざるを得ないとしても、変人サティの辛辣な厭味に満ちた道化ぶりを見過ごさずにすめば、それなりに説得力のある響きに再び口元をほころばせることになる。
 このサティ的な静寂の中で、もはや料理人であることさえこの店によって嘲笑されているとしか思えない料理人がちょっと歪めた表情で舌打ちしながらたたずむときに、もともと来客など期待することのなかったこの店がそれゆえに反照的に待ち続けていたことになる身も心も飢えた客が、あたりの静寂を此見よがしに蹴散らかして乱入すれば、欝々として自嘲的な笑いにのめり込んでいる料理人を差し置いて、陰険なる「芸術家もどき」が覚醒してたちまち美醜的直観にてその客を審問すれば、引きつった笑いのこの店にあまねく摩訶愚人の滑稽さを担って現れた醜悪なる表現者だと断定してしまうから、それなら俺にもひとこと言わせろとばかり、サティの救済論を構築して遊んでいた「宗教者もどき」が、この男こそは見栄というあらぬ理想にさえサイズの合わぬ運の悪い救済願望者にすぎないと認定してみせるから、後れ馳せながらやる気をみなぎらせて蘇った料理人が、あまねく「食う」ことの自然的なる欲望も、「貧り」という点に関しては断固として<何>化せずにはいられないという充分過ぎる厭味と僻味と妬味を効かし、朝からあてもなく仕込んだ「東洋の屈辱」という、明晰にして過激なる感性こそを唯一の旨味とする絶望的快感に澱んだカレーを準備して、もうずっと料理人を嘲笑してきたレストランへの当て付けにも似た昂揚感で、舌嘗りするほどの期待に胸を弾ませていれば、どれほどの訳もなくサティ的な不可解さで客になってしまったのであろう男が、陰気な明かりの下でほとんど無意識的な貧りで足を踏み鳴らし、「ふうん…、ここもかなり暇な店だ、ハハハ!」とひとり納得しつつ、ただ料理人の進めに応じてカレーを食えば、いよいよ摩訶愚人は高を括り「ナニ、どうせインスタント・カレー程度の店サ」と言わんばかりの無関心さで、ほとんど味覚を棚上げにして遮二無二掻き込んだ後に、突如それ以上は噛むに噛めず飲むに飲み込めず、衝撃的な炸裂弾の爆発で口じゅう血だらけの焦土になっていることに気付いても、もはや己の悲劇を打ち明ける口を閉ざされていて、苦痛に歪む顔にとめどなく溢れ出る汗と涙は、決して降って涌いた不幸を癒すことすらないのだから、そんな惨状をしてやったりの薄笑いで覗き込む料理人を、そして待ってましたとばかり醜悪な美こそを堪能する芸術家を、あるいは「それでいいのだ、サア、思う存分泣きたまえ」と言いたげな宗教者をにらみながら、見る見るうちに真っ赤に腫れ上がった風船男として、自己忘却的な貧りに見合った喪失感でコロリと失神してしまうのだ。
 しかも、萎んでしまった風船男が悍しい自己愛という汚物に身を横たえ、まるで今死に行く者が慌てて懴悔の階段を昇り詰めるかのようにピクピクしていても、それは所詮冷たい雨に見透かされて巨石に諌められた重い欝感の、レストランという物語が語るサティ的戯れの自己凌辱的な幻想にすぎないのだから、ほとんど夏らしい夏のないままに秋たりえぬ秋を迎えた高原の「何ごとも充全には何かとしてはありえぬ」という横滑りの真っ只中で、ずっと降り続いている雨がそのまま冷たくなれば、安定しない夏と秋との「荒ぶる自然」の内なる確執の狭間が冷たい笑いによってこそ贖われるときに、<私たりえぬ私>のみに許されていた静寂を冷たい夏として語り終えることが出来るのだ。
 そして、濡れた高原を秋へ秋へと流れ続ける白い幻想が、深い闇の中で冬にまで手の届きそうな空間の広がりと重さを見せるときに、<とりあえずの私>は料理人という夏を終わり冷たい笑いを置き去りにして、あのラサールSQ がシェーンベルクの『弦楽四重奏曲/第一番』で時代的な欝的感性にまで鋭角的な反省的表現を喚起し続けたように、白濁する闇にこそ果敢なる自己投企の危機を企てながら、正体不明者の秋へと車のアクセルを踏み込むのだ。

戻る


 

戻る / 目次 / 次へ