(3)



 とめどない<私たりえぬ私>によってこその<何的私>は、たまに擦れ違う子供達の「おじさんって何?」の眼差しに、変わらぬ無言の「何さ!?」を返しながら、小さな四つ辻を右に折れて小学校の裏口を過ぎ、そのまま小さな坂道を体育館に沿って上って行く。今ではすっかりこの道が予定のコースになってしまったけれど、以前はこの四つ辻を直進し、涌き水で川のようになった道をグラウンドの土手に沿って、あるいはグラウンドに登りその淵を回って行ったものだ。この道のほうが近道のはずであるが、いつも雪が深いところへもってきていつの頃からか涌き水が多くなりまったくの川になってしまったことと、それまで履いていたスノーブーツの水漏れがひどくなったことが、この道を遠ざける原因であったと思われる。
 そういえば七年前から履き始めていたあのグリーンと白でコンビになったスノーブーツは、当時のこの辺の子供達にはまだ珍しいイタリア製のムーンブーツであったから、擦れ違う子供達の眼差しが、その大きさとデザインの大胆さに度肝を抜かれて驚異と羨望にたじろぎ、皆この足元に吸い寄せられていたことを思い出す。あの大きなブーツが雪に残すキャタピラのような奇妙な足跡が、子供達の冷たい長靴やようやく出始めたばかりの小さなスノートレーに、想像を越える夢の快感を思わせていたのかもしれない。もっとも<私>は、そのブーツを、たまたま東京に出て高原に戻って来る直前の大晦日の夜、秋葉原でスキーのバーゲン屋を覗いたときに店頭の展示品であった汚れ物を、定価の四分の一である三〇〇〇円にしてくれたものを買ったのだった。
 それからまるまる六回の冬を過ごしたムーンブーツは、しだいに老化がひどくなりいささか手の施しようのないビニールの裂け目に、とりあえずの防雪・防水対策として、ブーツの足癖に合わせてカットした布製のガム・テープを貼り、それが三日から一週間で剥がれたり切れたりするのを何遍も貼り替えるという、ほとんど徒労に近い作業をストーブの前で繰り返す冬仕事の楽しみとして続けてきたのだ。それもいよいよ去年の冬で勇退となり雪のないときの防寒専用の予備役にまわることになったけれど、いま擦れ違う子供達の足元をみれば、いつのまにか高価なスノートレーやムーンブーツを履くようになっているのだ。
 だらだらとした坂を上り体育館裏の雪に埋もれたフィールド・アスレチックの木組を過ぎて左に折れ、今度は少しづつの下りをグラウンドに沿って進むことになる。右手の閑散とした杉の林は一九八二年の台風でほとんどが根こそぎ倒されてしまい、持ち主の落胆の念いを晒け出すかのようにそのままずっと放置されていたものが、ようやく今になってきれいに整理され始めたけれど、以前の面影を失った林の奥にそれまでは見通すことの出来なかった浅間連峰がすっかり露わになり、ひょっとすると古来からの植林の知恵を忘れてしまったのかもしれないヒトビトの小賢しい欲望を笑っているかのようにさえ思われる。
 そろそろ三時三〇分を迎えるころになり、浅間のすぐ上まで降りてきた冬の太陽はいささか衰弱し、すでに逆光となった山肌の青い氷壁を溶かす力など持ち合わせているとは思えないから、そんなささやかなる祝福の中でまどろむ小学校のグラウンドは、中央を縦貫する通学路とサッカーゴールポストだけを除雪して、あとは子供達に忘れられたままで冬眠を貧っている。グラウンドのはずれの小さな四つ辻を右に曲がり、いまだ倒木の目立つ雑木林を行くことになる。
 この道を覆う両側の雑木林が異様なほどに高いと思っていたけれど、それはよく見ると道が樹木の群生する小さな台地の切り通しになっているからで、裸樹の頭上に張り巡らされた枝の広がりは、まるで虚空を渡るかすかな風の霊気をも吸い込んで、やがて来る復活のために備える大地の毛細血管のようである。そんな命の鼓動を予感させる左側前方の奥に、三角形に突き出た浅間隠山が垣間見えるけれど、霊的な戯れに身を任せる<金剛薩埵身>は、そこに自らの所属する宗派の守護仏が体系的に語られている<破地獄光明如意曼荼羅物語>において、東方に位置する阿シュク如来とそれを意味する大円鏡智を想定することになる。そして右側の小浅間を抜け軽井沢方面にあたる雑木林の彼方虚空に、南方に位置する宝生如来とその平等性智を想定し、そのまま右手から後方を振り返り湯ノ丸山から四阿山(あずまや)方面に西方を司る阿弥陀如来とその妙観察智を想定し、さらに右に目を転じて草津から六合(くに)村方面に北方を司る不空成就如来である釈迦仏の本地身として準胝如来とその成所作智を想定し、最後に裸樹の霊的毛細管によってつながれた虚空と大地に、これらの四仏を包括するひとつの壮大な生命体としての大日如来とその法界体性智を想定するのだ。そこでこの大日如来に帰命し、その五智がこの<金剛薩埵身>における破地獄光明真言の徳として具現化することを願い、それぞれ四仏の真言と光明真言を十回づつ唱えるのだ。
 もっともこれは<とりあえずの私>が気まぐれに発見する曼荼羅世界にすぎないけれど、その戯れも毎日繰り返してみれば、それはそれで根拠など改めて問う必要もないままに、この場所こそが、流れる風によって「<私>的誰か」を誘うひとつの意味世界になってしまうのだ。これこそが正に「何って何!?」の宗教的戯れに他ならないのだ。
 それにしても記憶を辿る<とりあえずの私>にとって<金剛薩埵身>としての<冬>物語こそが宗教的戯れにすぎないとしても、いまだそれを語りうる<何>景論の地平というものが曖昧であるのだから、ここでは<冬>物語の舞台である<高原>の「荒れるにまかせる自然」性と<とりあえずの私>の「荒れるにまかせる自己愛」との冥想的関係によって語っておきたいと思う。

戻る目次

 冬のうちは野火止の平林寺あたりの雑木林にさえ、「なあに、取るに足らない雑木林さ」なんて言い捨てられても、じっと我慢するしかなかった枯れ木たちが、もはや二階建ての倍の高さまでも緑で覆い、うっそうとした森と呼んでも恥ずかしくないほどに変身して、そのうえ毎日の夕立で十分に吸い込んだ湿気で武装すれば、隠遁者の山小屋は悍しいほどの下草にも閉じ込められてしまうから、もう反省的知見への<真面目>さえ湿気ってしまったといいうる隠遁者は、かろうじて戯れの変装術による「<私>は誰でしょう?」的自由人に横滑りするしかないけれど、そんな柔な解放感は降り注ぐ夏の初めの日差しに憧れることで尽きてしまうのだ。そんなときに誰でもない隠遁者を魅了しつづける木漏れ日は、いずれ真夏の高原に君臨する輝きの帝王の威光から逃れるヒトビトのために、してやったりのすがすがしさを獲得させるまでのしばらくの間は、カビの衣で隠棲する<とりあえずの私>に色気たっぷりのストリップを見せつけて、羽目を外すほどに燃えてみたいと念わずにはいられぬ切なさへの怪しい誘惑を駆り立てるのだ。
 ところが今さら誰にも変装しきれぬ<誰か>が、そんな見え見えの誘惑に背を向けた拍子に、すねて暗闇に身を投げるつもりもないままに思わず昼寝に落ちてしまうことがあるけれど、たとえばそれが三日間にわたり一日のうちに五〜六時間の眠りを二回づつ眠るという徹底した体たらくだとしても、どうせそれはしばらく続いていたはずの<寝付けない病>の付けを返してもらっているにすぎないのだから、一時の夏を待つサナギのようにどれほどの意味もない期待に抱かれて静かに眠りつづけることになる。
 すると朝や昼で終わる一日の習慣が、朝から始まる一日へとヒトのいう健全な生活へと転換されて、まるで柔順なる自然の下僕に成り下がってしまうことになるけれど、気が付けばこの高原も初夏と呼ばれる今のうちは、たとえ昼間でもまだまだ静かなもんだと了解されたりするから、久し振りに一日の始めに浴びるつかの間の日差しが、一糸纒わぬ大胆さで大股開きよろしくこれでもかこれでもかと迫ってくれば、いよいよその気にもなってくるものを、今さら「でも、惚れちゃダメヨ…」なんて下手なポーズで雲に手を掛けて肩透かしを食わせるつもりでも、「ア、ア、惚れてる暇なんかないヨ、ホラホラ…」と、ひとたび狂おしいほどの律々しさで身構えてしまった昂揚感は誰も沈めることなど出来はしないのだから、いかなる<とりあえずの私>でさえもこの時とばかりに、さんざん湿気った自己愛をとめどなく射精する脳天気になってしまうのだ。
 そんなわけでもうカラカラの脳天気に教会の鐘が鳴り止まないといった有り様なのに、初夏の静寂を貧る小鳥のさえずりとすぐ裏手の地蔵川のせせらぎを聞きながら、思わず冥想の時間なんかが確保されることになるけれど、所詮は<自然的なる欲望>にも脳天気と知られている隠遁者のことだから、冥想のたびに夕立なんかを贈られて、つい雷と雹による高原の夏祭りへと誘い出されてしまうのだ。半眼の眼差しで探るまでもなく辺りは紫色の雷雲に閉ざされて、そこそこのパワー・アンプやスピーカーなんぞでは到底太刀打ち出来るはずのない走り抜ける重低音の波に、ブロック造りで土に根を下ろしているはずのこの小屋でさえ、まるで子供の積み木遊びほどに柔で頼りなくて為すすべもなく翻弄されてしまうのだから、パチンコ玉やビー玉ほどの氷の粒が勝手気ままに跳びはねて、四方のガラス窓にお囃子を添えてくれる周到さには、もう誰だって陽気な冥想にならざるをえないといえる。そもそもは隠遁者の脳天気に原因があるとしても、ひとたび羽目を外してしまった<自然的なる欲望>の自画自賛の夏祭りは、柔なヒトの想念など寄せ付けぬ破廉恥さだから、ドスドスドンドンチャカチャカゴロゴロの馬鹿騒ぎには遠慮というものがない。
 それにしてもわざわざ夕立の来る時間に、好き好んで冥想なんかして遊ばなくてもいいじゃないかと思うかもしれないけれど、言ってみればそれも成り行きにすぎないわけで、事の起こりはあの<寝付けない病>を楽しんでいるころに、やはり夕立が来てこれから始めようとする一日がすっかり寒冷前線とやらに飲み込まれてしまい、いささかデスク・ワークには身体が冷えすぎてしまったものの、いくらなんでもこの時間からストーブじゃ勿体ないと思われて、ここはひとつ暖かいコーヒーにでもしようと決めたのだ。
 そこで薬缶をのせた圧電式のガスコンロを捻ったときに、ガスに火を付けるはずの小さな人工の稲妻が何を血迷ったのか、高原をすっぽりと包み込んでひっきりなしにゴロゴロいわせていた下痢腹の空に、思わぬ呼吸の乱れを生じさせ激しい便意を喚起させてしまうように、それまで欝蒼とした自然的営為にすっかり弛緩しきっていた隠遁者の、青カビがビロードのような光沢を見せる感性のとらえどころのない虚空の真っ只中で、なんと小さな摩擦音がガスに火を付けることを拒否したあげく、目の前をすっかり青い閃光で満たし、薬缶を動顛させるほどに手痛いペナルティをビシリと炸裂させたのだ。そして窓ガラスをいたぶる雷鳴が、チリチリにしびれた身体を此れ見よがしに嘲笑していたから、しばらくは為すすべもなく衝撃音の真っ只中で、一切の言葉という言葉を失って漂うはめになってしまったのだ。
 それからというものは、夕立が来たら暖かいものを飲もうなんて見透かされたスケベ根性は差し控え、もっぱら冥想でやり過ごすことにしたというわけなのだ。しかし夏の大気が高原の霊性として腰を落ち着けぬ間に、脳天気で<犯したり><犯させたり>して遊ぶ欲望に目覚めてしまえば、そのときに<夕立>は隠遁者の冥想的戯れを待ち望む遊び好きの熟女へと変身しているはずなのだ。ところが、いかに脳天気の隠遁者とはいえ、毎日のように熟女と馬鹿遊びをつづけるほどの元気は持ち合わせていないから、こっそりと熟女の目を掠め雲ひとつない初夏の高原へと滑り込み、すがすがしい冥想と酒落てみれば、そんなときにさえ「ひとりでいいかっこはずるいわよ」とばかり、熟女は悩ましい<晴天のヘキレキ>を忘れないというしぶとさだけど、隠遁者はいささか知らんぷりの態なのだ。
 とは言うものの、たとえ夕立の真っ只中であれ、あるいはすがすがしい静寂に身を委ねていようとも、冥想とは「誰かが誰かでありつづける」ための妄想の手段ではないのだから、そこには誰のものともいいがたい単なる<冥想的事件>が「ある」にとどまると言うべきものなのだ。それゆえに、いま高原のすがすがしい初夏が冥想すれば、そこでは今さら動き輝くものたちを名付けることもなく、鳴き響くものたちを名付けることもなく、香り漂うものたちを名付けることもなく、そよぎ流れるものたちを名付けることもなく、ただ冥想が「ある」ことになる。
 そこで、今がことさらに静寂であることを際立たせる<高原>が、その意味を別荘地という欲望として見定めるならば、そんな都会的発想の暴力に凌辱されつつも、開発という欲望に群がる暴力者たちの「荒ぶる自己愛」などによっては、言い繕うことの出来ない物語を回復しようとするのだ。だから都会人が都会で息を詰まらせ自らの生存を空しくしてしまうように、あるいは高原の開発者たちが、都会的欲望を掠め取り小賢しい知恵で自然的営為を空しくしてしまうときに、<自然>は自らの生命力を霊性においても語りうる創造と破壊の確執の中で、ほとんどさりげなくしかも眩しいほどに充実した摂理で、より<暴力的>なものへとその命を託していくのだ。 それが、生まれ変わり死に変わりしつづけたヒトビトの欲望とともにある<自然>に取り込まれた、ヒトビトの自己愛を物語るひとつの情況であるとすれば、ヒトビトは自らをも滅亡させかねぬ暴力を自己保身のために<神と名付ける核兵器>として抱え、ありとあらゆる不信を弄びながら「荒ぶる自己愛」に隠棲し、そこでは未だに驚くほどに自然的でありつづける<自然>を棚上げにして、たとえ「核の冬」などが予想されたとしても、それは<神なき世界>のことだから「いま」語るには及ばないとでも言いたげに、ひたすら自己愛という「荒ぶる自然」をその欲望と恐怖によって昂揚させる暴力のみの自己増殖を進めてしまうのだ。
 ともあれ<ビッグ・バン>に遡るまでもなく、ことごとく<自然=神=命>と呼びうるものの存在理由を雪原の風紋という奇跡的な脊稜に見定めることが出来れば、この<高原>はささやかに都会ではないという意味から冥想し、その意味の外へと冥想する。それは無常なる<自然=命>が、無言のままに「管理=神」といういかにも人間的な欲望の外で自らの暴力について冥想するように、まずは都会が<自然>という「荒れるにまかせる暴力」の中で自らの小賢しき暴力について冥想することを要請しているのだ。この「荒れるにまかせる暴力」によって「取り囲み=取り囲まれた」関係の欲望と恐怖の真っ只中では、冥想すらも健康管理とかストレス解消の方法という様々の価値で暴力化してしまうであろう都会人に対し、とりあえずはいま都会でない高原の冥想が、「何かである冥想が何んでもないことへと冥想する」刹那において、誰も語ることのなかった<絵空事的快感>へと誘うのだ。
つまり、誰かが「荒れるにまかせる暴力」によって自然を「取り囲み」なおかつ自然に「取り囲こまれている」ときに、「高原の雷雨<を>冥想すれば」たちまち「高原の雷雨<が>冥想する」ことになる。そこで冥想はあたかも「荒れるにまかせる暴力」そのものとなるが、しかし冥想そのものはほとんど暴力たりえないのだから「荒れるにまかせる暴力」を擦り抜けていくけれど、しかしもともと「荒れるにまかせる暴力」によってしか冥想しえないとすれば、もはや<冥想たりえぬ冥想>は今さら「高原の雷雨を冥想しえず」、冥想が成立しなければ「高原の雷雨が成立しない」というわけで、すでに高原の雷雨が存在しなければ「取り囲み=取り囲こまれた」関係が成立しえず、この関係が成立しなければ「荒れるにまかせる暴力」も成立しえず、そこにはただ「<何!>としてのみあろうとする力」が息づいているだけになるのだ。そして、いずれはこの「<何!?>としてのみの鼓動」をも聞かぬ冥想が可能なときに、その冥想そのものを終わらせるときが来るのだ。

戻る目次

 ここでいよいよ「何って何!?」の宗教的戯れについて語る段取りであるが、そのためには「冬の静寂」物語を語る<とりあえずの私>が、いったいどこへ何のために行こうとしているのかについても語っておかなければならない。
 とりあえずの<金剛薩埵身>の寒中における日々の小旅行とは、この界隈唯一の観光名所である<浅間大滝>に滝を浴びに行くことであるが、しかしこの<滝行>が、たとえば密教の基本的な実践論である三昧耶戒によって意味付けられているなどという保証はどこにも無いのだ。ところで、ひとたび<金剛薩埵身>という存在理由を獲得すれば、かかる行為と経験をことごとく密教的に意味付けることが可能であると強弁することもできるが、しかしその<金剛薩埵身>という身分でさえ「とりあえずの装い」にすぎないのだから、当然この滝行も「とりあえずの滝行」と呼ばれなければならないというわけで、そのとめどない横滑り現象こそが<狙い>であることについて語らなければならないというわけなのだ。
 そもそも宗教的意味をもたぬ滝行などは、此れ見よがしでわざとらしく、しかもすこぶる不健康な我慢大会の余興程度のことにすぎないのだから、ひとまずこの浅間大滝における<水浴び>が滝行であることを言うためには、浅間大滝そのものの宗教的意味を明らかにするか、あるいは<とりあえずの私>の<何>行ともいいうる隠遁生活の宗教的意味を明らかにしなければならないというわけなのだ。つまりそれは、「何って何!?」という知見によって、ことごとくの<私>的存在に纏わり付く真・善・美・聖・愛という<価値>にも<何>的生活者としての回答を用意することになるはずであるから、何はともあれ回答者たる<私>の「表現=生活」における存在理由を、とりあえずの「荒れるにまかせる自己愛」と見定めることにより、それがつねに<自愛的欲望>というかたちでしか生きられていないのだと知るときに、あるいはそれをより霊的な意味において「魂−霊力」の関係に置き換えて理解するように、正体不明の浅間大滝と正体不明の<私>との間にいかなる<霊的物語>を語り起こすことが出来るのかということでもあるのだ。言い換えるならば、「荒ぶる自然である<滝>」と「ことごとく自然的欲望にからめとられている<私>」を共通の地平で語りうる霊的物語を探り、しかもそれに<何>的回答を出さなければならないということなのだ。
 そこで「思わぬことにとらわれて思うことができぬ」ために、「しなければいけないことが出来ず」「してはいけないことばかりしてしまう」という「生きがたき人生」では、<私たりえぬ私>が苦悩でありさらには<私でしかない私>も苦悩にすぎぬというわけで、この苦悩克服のために「いかに生きるべきか?」を問えば、いかんともしがたい<私>に「自分とは何か?」を突き付け、それに回答しつつ生きることでなければならないのだ。この事情をふまえて、いま<滝>と<私>との間に「<滝>行する<私>とは何か?」と問い掛けてみるのだ。
 まず、<とりあえずの私>がヒトビトとの関係において回避しえぬ最悪究極の<苦悩>を「人類滅亡の恐怖」として見定めるならば、個人から国家に至るまで自己保身のためには核兵器をも正当化しうる<自愛的欲望 = 暴力・差別>を、ヒトビトと通底する<私>的苦悩の原因とすることができる。この思い上がった人類の「荒れるにまかせる力」は、己の<欲望>に「意識的であろうと無意識であろうと」そのように「<あるべき>ものと割り切ろうが<あるがまま>にまかせようが」、あるいはそれを「人為的営為とみなそうが非人為的現象とみなそうが」、すでに<私>なるものが問答無用で生き続けている以上、<生命>そのものが「荒れるにまかせる力」であることに変わりはないのだから、これを改めて「自然を取り囲みつつ自然に取り囲まれている力」あるいは「自然とともにある生死流転の力」と言い換えるならば、それは正に冥想的知見として得られたものと同様の「宇宙的原理としての自然」と見なさなければならないといえる。
 つまり、この「荒れるにまかせる力」を踏まえて「<滝>行をする<私>とは何か?」について言いうることは、まず「自然的でない人間」は<私>たりえず、「<私>的でない自然」は<滝>たりえぬというわけだから、ここでは青い氷壁に鎧われた「荒ぶる自然である<滝>」の大いなる正体不明性に対して、「自己保身にとらわれた<私>」ゆえに予測不能や未知に抱く不安や恐怖をことごとく苦悩化してしまう<自己愛>こそを否定的に投企し、問答無用に「滝行をする正体不明者を生きる」ことで何んらかの回答を見いだすしかないのだ。
 しかも滝行によって<私>が「荒れるにまかせる力」として語ろうとする物語とは、「ウウッ、今日はマイナス一二℃か! これじゃ寒すぎるから止めにしようか…」とか、「アア…、いやな吹雪だなあ…」あるいは「フム、どうも風邪をひいたみたいだなあ…」などと、<自愛的欲望>にとらわれて滝行を回避する理由を探さずにはいられないというように「辛さを楽しむことが目的」ではないのだから、なにはともあれ「<私>ではない荒れるにまかせる<自然>に<とりあえずの私>を投企することを目的」にしなければならないのだ。この問答無用の自己投企こそが、自愛的欲望のままに想い思い念うことで<私>的幻想を貧っていた「無言の霊力」に軋みを与え、ことごとく想い思い念われて「荒れるにまかせる力」が担っていたものを響き出させるのだ。
 それゆえに「荒れるにまかせる力=<自愛>的欲望=霊力」である<とりあえずの私>が、「荒ぶる滝としての<私たりえぬ私>」でありつつ「滝が滝でありつづける力」を「荒れるにまかせる力=<自然>的欲望=霊力」として纒い、「荒れるにまかせる自然の<霊性>」を物語ることになるのだ。したがって、「荒れるにまかせる自然(霊力)」である<滝>と<私>は、「滝としての<私たりえぬ私>」と「私としての<滝たりえぬ滝>」を、さらには「滝行する<私>」と「<私>に行をさせる<滝>=<何>行する<滝>」をことごとく同じ<霊性>において語ることを可能にするのだ。
 しかし、あらゆるヒトビトがたいていは誰かの自愛的欲望を無言のうちに、あるいは当たり前のこととして引き受けることによってこそ、かろうじて<私>たりえていると言わざるを得ないとすれば、苦悩克服が誰かの哀しみや苦しみを踏み台にしてしか実現されないという矛盾を解消するために「いかに生きるべきか?」とは、結局のところ「荒ぶる自愛的欲望」の暴力・霊力による自己実現という<おごり><たかぶり>の差別的所産である真・善・美・聖に、心身の自由を売り渡さないために「いかに生きるべきか?」と問い掛けることと同じであるはずだから、ここですでに生まれ生きつづけてしまっている<私>を回避しえないという事実を踏まえるならば、『「荒れるにまかせる力」を<消極的>に引き受けて、しかもそれを<積極的>に無力化して、自利として解放しつつ利他として開放する<とりあえずの私>を「<自然>に生きる」ことでなければならない』のだ。つまり、これをふまえて「<何って何!?>の<私>を生きる」という<何>的回答をするためには、「荒れるにまかせる霊性」によってこそ語りうる「滝としての<私>の自己否定」と「私としての<滝>の自己否定」を端的に「<私>的霊性」において同時に語りうるとみなすことにより、<私たりうる私>とか<滝たりうる滝>として錯認させる一切の幻想を担う<霊的呪縛>を、自らの自己同一性を保証する<霊性>によってこそ「自己否定」せざるをえないものへと追い込み、「自己否定する<荒れるにまかせる霊力=自然>」としてしか生きえぬ<私>を提示することになるのだ。
 したがって、自己否定的に反省しつづける<とりあえずの私>が、その反省ゆえに<私たりえぬ私>としての<誰か>をいまこの冬の真っ只中で<何>行者として滝行させるためには、「滝行とは<何!?>」でしかない<自然的態度>を生きさせなければならないのだ。そのときに「正体不明の<私>」が霊的に浄化された<滝>として、同時に「正体不明の<滝>」が霊的に浄化された<私>として、それぞれの「<私>小説」である霊的物語を「解放=開放」していくことになるのだ。
 それゆえに言いうることは、三時に家を出て<護身法>を切り<金剛薩埵身>に変身して様々の真言を唱え、さらには般若心経や観音経を口ずさんだとしても、あるいはまた<破地獄光明如意曼荼羅>なるものを想定することも、結局はこれらの密教的霊魂観に仮託して、あたかも寝た子を起こすかのように「荒れるにまかせる自然」としての<私>的存在理由に反省を喚起しつつ「解放=開放」せんとする戯れに過ぎないということなのだ。
 でなければ、<私>が<金剛薩埵身>としてすでに救済されていると自覚することは、自らが密教的特権者として疎外したヒトビトの絶望的な苦悩と不幸こそを踏み台にすることの、優越的な<私たりうる私>に安息し快楽を貧る思い上がりにすぎないははずであるから、宗教によって武装する狂気こそが世界破滅の元凶であることを見定めるヒトビトにとっては、<金剛薩埵身>の善意など悪霊に呪われた悍しき敵意でしかないことになってしまうのだ。
 そこで今改めて<破地獄光明如意曼荼羅>の<何>的意図について語るならば、たとえば<準胝如来>が天寿を全うする功力をお授けになられるとするならば、それは密教者として<私たりうる私>の特権である以前に、たとえ人類滅亡の現前であっても<誰にでも>天寿を全うさせるために人類は滅亡しないという保証が与えられなければならないということなのだ。なぜならば、核戦争の真っ只中で<自分>だけ生き延びればいいなどという発想が茶番にすぎないことを知るならば、<準胝如来>の功徳とは、あらゆるヒトビトのいかなる方法・宗教によってでも天寿を全うしうるために、いつの時代においても人類滅亡の動機である「荒れるにまかせる霊性」そのものを浄化するものでなければならないからなのだ。だからもしも<準胝如来>の功力が密教的意味にとどまり、人類滅亡の回避を保証しないのにもかかわらずなおかつ「天寿を全うさせる」と主張しつづけるならば、<破地獄光明如意曼荼羅>なるものの意図こそが、絶望者であるヒトビトの努力約束を掠め取ることによって、絵に書いた餅にすぎない自らの救済物語を、ありもしない権能で言い繕うとする単なる思い上がりにすぎないことが明らかになるだけなのだ。
 それゆえに<宝生如来>が金銭的苦労や生活困窮しない福徳をお授け下さるとするならば、それも密教者として<私たりうる私>の心貧しき特権であるよりも、むしろ地球的規模の飢餓地帯の解消に光明をあたえるための、あらゆる暴力者の<貪り>的体質の浄化でなければならないであろうし、<阿弥陀如来>が現世・来世の二世にわたって極楽往生の妙智力を授け安らかなる臨終を保証して下さるならば、それも密教者の特権であるよりも、毎日世界中で死を迎えるすべてのヒトビトの死への不安と恐怖を取り除き、安楽なる臨終を保証する「荒ぶる霊性」の浄化でなければならないはずであり、さらに<阿シュク如来>が不動金剛力により様々な願望成就の功力をお授けになられるならば、それも密教者の特権であるよりも、自愛的欲望の暴力によって成功を貧りあるいは敗者として不成功に涙するヒトビトに、自己否定的欲望を喚起するものでなければならないはずであるから、たとえ<破地獄光明真言>がこれらの功徳を包括し、三悪道の諸因縁を打破し先祖の諸精霊を成仏させて家運繁栄の功徳をお授けになられるとしても、やはり人類が自らの無明無知を克服し明晰なる反省者として繁栄しうることの功徳でなければならないはずなのだ。
 つまり、伝統的な密教の<曼荼羅>世界に象徴される霊魂観を、すでに無明無知のまま自愛的欲望に呪縛されたヒトビトに、とりあえずの霊的安息を<成仏>と名付ける救済として与える方便にすぎないと見定めることが出来るならば、宇宙原理にまでさかのぼり全人類について語りうる「荒れるにまかせる力」に仮託した<何>的密教者の霊的善意は、もはや密教的特権者の暴力的差別的功徳にとどまらず、<回向>によって「願わくば此の功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と願うことにより、たとえ構造的に密教的<独善者>にすぎなくてもその霊的功徳の「自己否定的享受=伝達」が、そのまますべてのヒトビトの宗教以前的な「霊性の浄化」として「伝達=享受」されるという<何>的戯れとして語ることが出来るはずなのだ。
 いよいよ正体不明であることを確信するに至った<金剛薩埵身>は、凍結した砂利道を覆う堅い雪に、まるで足跡を残さぬ確実な歩みを進めるが、それもグラウンドのところで右に曲がってから三分そこそこのことで三度アスファルトの露出した県道へと出るのだ。もうこのあたりまで来れば、どんなに寒い日でもブーツの中で汗をかいている指を感じることになる。

戻る


 

戻る /  目次 / 次へ