エピローグ



 いま冬の溶解をすすめる雪原の雑木林が夕焼けもないままに暮れていくときに、まるで青い湖底に沈む<透明な夜>に厳粛なる冬の挽歌を贈るスピーカーは、マーラーの『交響曲第3番』をアバード指揮のウィーン・フィルで響かせることもなく、もはや冬ではなく未だ春たりえぬ<何>景の真っ只中でひたすら沈黙を貧るばかりなのだ。 
 そんな沈黙を身に纏いま誰も仮眠することのないウレタン・チェアーが、部屋に忍び寄る透明な湖を支えれば、とめどなく流れ込む湖の優しさに身を委ね冬の緊張を解きほぐすダウン・ヤッケが、ひと冬のあいだ抱いた温もりも忘れて窓辺に漂うという、そんな春を語るために潤いを纏う<透明な夜>だからこそ、いまだ誰にも明かりを求められないスタンドは、閉じた目にこそ見えてくる夜の温もりを輝かせるときに、いつも輝きの空間を欲しいままにする鏡が軋み、誰かの平穏無事な日々を横滑りさせる鏡が湖底の色を映し、もはや誰の「いま」を映すこともなく<透明な夜>を無明へと誘いつづけ、無明の壁に支えられて立ち上がる本の群れが、誰に扉を開かれることもなく夜の流れに舞い上がり、読まれて読むヒトを位置付け読むヒトによって位置付けられる希望を空しくして、ことごとくのものが自らの位置を決めかねているときに、青い湖底に在るべくして在る闇を貧るテレビは、情報収集と分析能力には優れているがいつも<事件>から輝きと閃きばかりを掠め取るNHKさえ映すこともなく、ただひたすら闇へと埋没しつづけるけれど、そんな闇の舞台として横たわりつづけるという約束をいつの間にか失っているベッドが、予期せずに与えられた物語に思わず身を伸ばしても、誰かの減衰した集中力を回復させることもなく自らの物語のためにのみ眠りつづけるばかりなのだから、いまだベッドにもウレタン・チェアーにも身を寄せることもなく、まして目的を見失うこともない誰かが集中力を昂揚させるためにワープロを購入して以来、めっきり出番の少なくなったシャープペンシルは、<何>ばかりを語りつづけているスケッチ・ブックの上で、いまだ何も語らずに「いま」「ここ」にたたずむばかりでも、気が付けば闇に向かって流れ続ける<透明な夜>を捕らえることのできない時計が、誰からも期待されることなく自己完結的な物語のために秒単位という正確さで<物語的現実>を刻みつづければ、「誰もいない部屋」のためにはいないはずの<誰か>でいつづける<私>が、「誰もいない部屋」のためにもはや<誰か>たりえぬ<とりあえずの私>としているのだ。

1986年6月  

                                   こや のりよし  


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