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 見渡す限りの裸樹が、深い雪の中からわずかな揺らめきで軋み始めた空に手をさしのべて<風の声>をとらえれば、雪原が自らのために雪原でありつづけた高原の冬が、いまヒトのいない山荘の屋根から雪解けの音で閉ざされていた静寂を破り、<風の輝き>で深い雪の目覚めを潤しながら、誰にも見取られることを求めぬ自らの念いを黒い土へと帰すのだ。そんなときに去るものの哀しみの溜め息が薄い雲を呼び、あまねく雪原を輝かせていたものからしばしば祝福を掠め取るけれど、しかし冬の涙は自らが<春の風>だから、風を運ぶ小鳥のさえずりで樹々の枝に纒わりつく輝きを回復し、再び冬の<何>景を語り続ける。
 いま自然的なる荒ぶる欲望が、約束されているはずの輝きの祝福こそを待ち望んでいたものたちのために驚くほどの情熱で冬の溶解を進めれば、その輝きに浮かれて何事かを語らずにはいられない「誰か」の<何>景への念いは、立ちのぼる陽炎を<春の閃き>として纒う<風の声>となり、ここではかろうじて記憶をたどることによってしか<私>でありつづけることのできぬ物語を、しかもそれが物語でありつづけられる「荒れるにまかせる自然」へと横滑りさせつつ、さらにそんな物語的欲望をごくありふれた自然的なるものがあまねく担うはずの「荒ぶる霊性」として引き受けることになるという、とめどなく正体不明のまま流れ囁く表現者を措定することになる。それゆえに「冬の<何>景」とは、冬の《風》景へのとめどない反省を《風》という正体不明者が語る物語であり、同時に冬の真っ只中においてこそ語りうる「反省の《風》景」なのだ。
 見よ! いまだ誰にも踏み荒らされていない雪原の片すみで、<風の輝き>に祝福された裸樹は、その枝の冬の殻にほんのささやかなる希望を走らせて、まるで<風の声>に誘われJ・S・バッハの『無伴奏チェロ組曲』を唄うチェロのように嫋やかな語り口で身を震わせている。そして樹木にチェロの響きを与える<風の輝き>は、高原を覆う白い思い出から、かつて酷寒の新雪のみに許された静寂と限りなく繊細な鋭角性の気負いを空しくさせて、先鋭的な美の喪失に惜し気のない涙を流す冬を頽廃的なまでに成熟させる。すでにチェロの囁きを陽炎として纒う<風の声>が、成熟した雪に遅すぎた肉質の躍動を誘えば、汚れを知らぬままに老成しいずれは朽ちて土に帰るはずの透き通るほどの柔肌は、思わず紅潮せずにはいられぬ恥じらいを樹木の影に隠すけれど、それでもけだるい陽炎は巧みに甘いまどろみへと誘いだしてしまうから、ささやかなる垣根を越えてもう熟れて落ちるだけだと悟った熟女のように、そのまま一気に遅れをとった快楽を取り戻そうと大地の復権を孕む母性的な身悶えにまで昂揚してしまえば、<春の輝き>によって受胎する成熟した冬は、ほんのひとときの至福と歓喜の中で自らのはかない<まどろみ>を失う運命だといわざるをえない。
 そもそも早春とは冬の<何>景としてしか語り起こせないのだから、「荒れるにまかせる霊性」に身を委ねる<風の声>は、いわば「<凍結されていた身体>としての精神」がその壮麗なる冬の呪縛を解かれて対自化する「精神としての身体」に、希望的未来へと身を投げる不安と歓喜への予感という響きを与えて、すでに幻想となりつつある「凍てついた精神」に哀惜の涙を贈る囁きなのだ。
 つまりこの物語は、記憶をたどる<風の声>が、<冬の静寂>を語る<とりあえずの私>になることによってこそ始められる「風の<私>小説」ということになるけれど、それは「冬の<何>景」を語る<風の声>が「誰」であってもいい<とりあえずの私>でしかないために、この物語は、あからさまに<作者>が己の記憶をまさぐることによって<私・自身>を語るのではなく、あえて<春の輝き>の中で<風の声>に耳を澄ませることが穏やかな冬の終焉において<とりあえずの私>の冬景色を拓きつつ、同時に「冬の《風》景」の中で<とりあえずの私>にすぎぬ<風の声>が、春から夏へそして秋に向かって流れる高原の霊性として、とめどなく冬の<何>化を語ってしまう揺らめきを止めることができないというわけで、冬の真っ只中においてさえ<私たりえぬ私>として冬こその静寂に限りない反省を喚起しつづける正体不明者は、<風の声>であることによってかろうじて<私>小説を語ることができるというわけなのだ。
 そこでいま、<とりあえずの私>が、たまたま春の真っ只中の都会で奇しくも<冬の静寂>を発見しえたビル・エバンスの『インター・プレー』に、高原の早春という反省的な風の囁きを与えれば、たちまち都会という季節のない脂ぎった体臭が露わになり、ビル・エバンス的輝きは冬へと揺らめきつづける雪原の春に戸惑いながら、それでも物質欲などという都会的残響に対しては多少なりとも禁欲的な肉質を維持しえて、すでに都会的快感としてはありえぬ<とりあえずの私>にからめてささやかに<風の輝き>を語ることができるけれど、それとても静寂なる雪原で荒ぶる冬の創造力と破壊力のせめぎあう脊稜が、その荒ぶる力で相殺しあってもなお解消しきれずに残す悔恨の念いでまったく不本意に風紋を形作るのに等しいと見定めるようなものだから、とりあえずは形のあるすべてのものが常に変様の真っ只中にさらされている自己喪失の危機感を、<とりあえずの私>でしかないものを<私たりうる私>へと自愛的欲望ゆえに臆断しうる閉鎖的な肉質の神を必要とする自然観で言い繕いうると思念する傲慢な体臭が鼻についてしまったときに、それがアインシュタイン以降<光>と名を変えた神や愛の神学にすぎぬ物理学的宇宙論を鵜呑みにして、宇宙原理たる神の存在を疑うことすらないであろうチック・コーリアとゲィリー・バートンの『クリスタル・サイレンス』へと自らを純化させながら共鳴しつづけることができたとしても、それはあまりにも人間的な欲望のかりそめの静寂として浮足立った<私という神話>を想起させるばかりなのだ。
 したがって、「在るべきものとしてはあらず」とめどなく「在らぬところ」へと横滑りしつづける<とりあえずの私>が、それゆえに<春の輝き>の中であたかも永劫に樹木を祝福しつづけるかと思われたバッハをも諦め、新たにミクロシュ・ペレーニのチェロでベートーヴェンの『チェロ・ソナタ』を唄わせるならば、まるで気まぐれな小鳥の飛翔のように不意に流れを変える<風の声>は、すでに西の雑木林に絡み始めた皮肉な太陽が、もう今となっては腐肉化してしまったとも言いうる慚愧の念いを逆撫でしながら<清純なる雪原>の記憶を蘇らせるときに、ヒトの美的装いを妬む変質者よりもさらに倒錯して、成熟した冬の肌を極薄のカミソリで切り裂く欲望を押さえることができなくなってしまうけれど、それは、冬の間息をこらしていた大地が「荒ぶる自然」の生まれ変わり死に変わりするとめどない欲望を不成就性の呪われた霊力として欝屈させているはずだと思念して、初心な熟女の汚れを知らぬ欲情をけだるい身悶えへとけしかけることで、その初めての快感が衝撃的な歓喜であればこそ身を滅ぼすであろう哀しい熟女を篭絡して、自らの糧にしようとする地母神のしたたかなる企みを暴露することになるだろうと高を括ったときに、たぶん勝手な思い込みをするがゆえに裏切られるとしか言いようのないほどに、まるで唐突にペレーニの鋭利なチェロが切り裂く冬の肌からは思いもよらず限りなく浄化された透明な体液がとめどなく溢れ出るのを見るようになるようなものだから、春の雪原で<私たりえぬ私>として響くベートーヴェンの『チェロ・ソナタ』は、自らがあまりにも<風の輝き>に似合いすぎていることにさえも居心地の悪い<何か>を喚起しつづけることにより、ひたすら<冬の静寂>が秘める「荒ぶる自然」の自己浄化力を掘り起こし、しかもここで高原を流れつづける<風の声>として自然的なる自己浄化を担いうると自覚する<とりあえずの私>は、その自己否定的なる横滑りの快感を手中にして、もはや愛という名の荒ぶる神や<光>という物理学的神学の呪縛からも解き放され戯れの繰り返しで再びバッハへと揺らぎ、たとえば今度はシェリングの凄烈なるヴァイオリンで春に向かって軋みつづける空間を、まるで冬へと回帰させるために少しの歪みも残さず切りそろえるように『パルティータ第2番』を唄い始めることもできるのだ。
 いずれにしても凄烈なる『パルティータ第2番』がその鋭利な切り口で冬を語りうるということが、そもそも春によって<何>景化しなければ語れぬ冬というわけであるから、とめどない反省的表現としてしか語りつづけることのできぬ「風の<私>小説」は、記憶をたぐることによって「静寂について語る<私>」であれ、物語の中から自らが「静寂として語り出す<私>」であれ、結局は「静寂たりえぬ静寂」としてしか<静寂>を語りえぬという表現者の自己矛盾についても反省的でなければならないということなのだ。
 そこで限りない反省によってしか<静寂>を語れぬ<風の声>に、たとえば音楽という<音>と<沈黙>の脊稜に「音の沈黙」と「沈黙の音」という反省的視座を仕掛けることにより、あまねくヒトビトの思いが風によって解き放されつつ、しかもその風によってこそ失いたくない思いまでもが掠め取られていくというごく日常的な局面から、<風>によってこそ喚起される「反省の閃き」と「反省の輝き」を<私たりえぬ私>として発見することこそが、この物語という事件に期待される<何>的戯れなのだ。

 



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