「思わず、広い額で芸術してしまうおじさんの眼差し…」1〜3

について


 
「思わず…」1                    「思わず…」2


「思わず…」3


なにゆえに「思わず…」なのか?

 そもそもおじさんは、仏教にいう因縁解脱の修行として一日一画の懺悔録(?/強いていうならば芸術家なんてものは一生救われないと覚悟する宗教者=苦悩者のようなものという自覚の中で、芸術そのものも懺悔せざるを得ないと考える表現者の叫び)をすでに7,700余枚も吐き出し続け、そろそろ苦悩もすり切れてきたと思われる敬虔なる宗教者(したがってすでに単なる表現者というべきか、それも「自分とは何か」「いかに生きるべきか」と問いつつ問いの自己撞着を回答にせざるを得ないときに「何って何!?」を生きるしかないと思い当たる表現者ではあるけれど)であることを自負しながら、それでも「思わず、広い額で芸術してしまう」おっちょこちょい、あるいは苦悩者というわけです。
 もっとも青春の苦悩を一生の糧と背負い込んではみても、歳月は苦悩をも記憶の地層に埋没させて知らんぷりの昨今ではありますが、あえていま掘り起こす苦悩の至って現実的なる原因はなんぞやと問い返してみれば、それは「絵空事」と命名した懺悔録の画像データベースなるものを「Mac」で作ろうと思い立ったことによると判明するのです。
 以前この作業の過程で2,600枚分のデータを横滑りさせビデオテープにまとめてみましたが、これもかなりの手間仕事。それも「画像無調整(無修正とはちょっと違うが)」と付記せざるを得ない体たらくは、パソコン関係のローンに追われながら、休む間を惜しんで働いていたら画像入力という初歩的作業さえいつまでたっても終わらない定めと知るのです。
 つまりこれは、救われてしまう苦悩を惜しみわざわざ新しい苦悩を捏造する苦悩の戯れにすぎないのですが、そんな戯れはいかなる苦悩もディスプレイの表層を止めどなく横滑りさせてとどまるところを知らない電脳世界にこそお似合いというわけで、ゆくゆくはインターネットあたりに超どでかいホームページとやらを確保して「コヤ美術館」あるいは「救済の館」でも作ったろかいなと夢想する有様ではありますが、果たして……。
 そんなおじさんの危ない眼差しは……

(1997.07)


 というわけで、皆様のご支援を頂き何はともあれ「コヤ美術館」の開設までこぎつけましたが、当初の思惑とはことなり、すっかり「救済の迷宮」へと横滑りしてしまった感を免れません。反省しきりの毎日であります。


「プロローグ」はここで終わりです。

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