はじめに

「<何>の錬金術」あるいは「救済の錬金術」として

 「救われたくない欲望」たちのために〜

 ここではコンピュータグラフィックスによる画集「<何>の錬金術」誕生の背景について、<何>行者と名乗らざるを得ない表現者の世迷い言をお聞きいただきたい。
 「狡猾に温存される自己愛」あるいは「横滑りする欲望」というわれわれの時代の「苛立ち」に、何はともあれ反省の眼差しを送ることができるのならば、そこに「混迷する自己愛=欲望」として立ち現れるはずの「心の揺らぎ」を「苦悩の戯れ」と呼ぶことができる。

 救済の戯れへと誘う秘術として〜

 「横滑りする欲望」を「苦悩の戯れ」として引き受けることで始まる「救済の予感=光明」は、横滑りし続ける自らの存立により「混迷する自己愛」を加速して救済そのものを混迷へと誘う。
 つまり「混迷する苦悩」のために変容せざるを得ない「混迷する救済」とは「救済の戯れ」なのだ。
 言い換えるならば「救われたくない欲望」をあえて「迷走=瞑想」へと誘い、わざわざ苦悩に仕立て上げるお節介、それが「救済の錬金術」なのだ。思えば「救済」とは、宗派、主義主張の違いを問わずして、ありとあらゆる苦悩を捏造しそれをこれ見よがしに摘出しては自分好みに鍛え上げ、はじめに救済ありきという本末転倒の法悦に生き延びる道を用意し続けてきたのだから、どう考えてみても救済そのものが「心の揺らぎ=苦悩」を温存する錬金術ということになる。
 さらにもう一言付け加えるならば「揺らぎの戯れ」を戯れることこそが錬金術としての「術=救済力」なのだ。

 刺々しい日常に隠棲する鬱屈した欲望の活性剤として、あるいはささくれ立った日々の不機嫌な自己愛の清涼剤として、さしたる効能も保証されずに用意されるささやかなる救済が、自らの脳天気な欲望を横滑りさせる錬金術を手に入れるときに、秘かなる「苦悩の戯れ」は「芸術の戯れ」へと窯変するのだ。
 したがって、ここでは苦悩を横滑りさせる錬金術をとりあえずは芸術と呼ぶことになるが、ここでいう「苦悩=心の揺らぎ」の正体は不明。あえていうならばこの画集で提示しうる苦悩あるいは芸術的感性への覚醒とは、あたかも函数といいうる「苦悩の器=感動の器」にすぎないのだから、もしもこの器を満たす「苦悩=感覚」を探り当てることができるなら「芸術の戯れ」が揺らぎだすことになる。
 はたして非力なる<何>行者の仕掛ける画集「<何>の錬金術」の中にどなたが「揺らぎ」「戯れる」ものを発見し、それとともに「揺らぎ」「戯れる」ことができるのだろうか。

 ところで、この<何>そのものについての解題は「あとがき」までお待ちいただくとして、とりあえずのキーワードを提示するとするならば、
 「何か」をするために、いかに「何も」しないでいられるか?
 「何も」しないために、いかに「何を」したらよいのか?
この二つの問いに用意されているとりあえずの回答は
  「はたして<何か>」をしつつ同時に<何も>しないでいられるか?」
 そこで、このキーワードに関していいうる<何>とは、そもそも「自分とは何か」と問うときの<何か>にすぎないということになる。


「はじめに」はここで終わりです。

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