(6) 作者の迷宮



 まったく放っておけばいい気になって、行者は<かたぶとりの太モモ>たちとの遭遇が、彼らの妄想ともいうべき瞑想体験にすぎないことを忘れている様子なのだ。そこで、より豊かにして健全なる物語未来のために、ここはひとつ作者の権能において物語を神田末広町の交差点に引き戻さなければならない。
 「あっ、あれえ…、どうして、ここにいるんだ!? んん?」
 「ありゃりゃ、わしゃ、また寝ぼけとるんじゃろうか。なんじゃか、今日は、あっち行ったりこっち行ったりで、忙しいこっちゃ…。
 うおっ、ブルブルッ、寒ぶ寒ぶ!
 しかし、いままで酒を飲んどったと思っとったのに、いったい、どないなっとるんじゃ…」
 「そっ、そうか!! 瞑想が中断したってことか…」
 「瞑想? おおっ、そうじゃった!!
 しかし、わしゃ、せっかくひと心地ついたとこじゃったのになあ…。
 ああっ、寒ぶ。あんた、またなんだって、こんなところへ戻ってしまったんじゃ?」
 「いや、私にも訳が分からないんです。とにかく、びっくりしてるんですよ。でも、この唐突な場面転換を考えてみると、やはり作者の仕業としか思えません。
 ああっ、そうかっ!!
 リストさん、これは、彼女たちとの再会で得た知見が、作者の介入を要請していたからですよ。そうですよ、私は、作者の創造性に私たちの未来を積極的に委ねるつもりでいたんですから…」
 「ほうで。すると、わしらは、これからどうしたらええんじゃろうか…。
 ひょっとしたら、あの娘らが、どこぞの店で、わしらを待っとってくれとるんじゃないじゃろうか、なあ、行者さんよ…」
 「ふむ、どうなんでしょうか…。しかし、この強引なやり方をみていると、私たちは、よけいな心配をしなくてもいいのかもしれませんよ。たぶん、作者の方から、なんらかのアプローチを仕掛けてくるはずですよ」
 「あんた、そんなのんきなこと言うとってからに、あんたらは、まだ若いからええかもしらんが、わしらみたいな年寄りに、ここで待っとれいうのは、ちょっと情がなさすぎるんと違うか…。おおっ、寒ぶ寒ぶ」
 「そっ、そうですねえ…。それじゃ、こんなところに立っててもしょうがないですから、また瞑想空間を辿るようなことになりますが、もう一度、上野の方へ行ってみましょうか」
 「んん、そうか…。また、歩かにゃいかんのか…。
 ほれ、何んと言うたかな、そこに走っとるのがあるじゃろうが、ああ、タクシーじゃ、タクシー!! あれに乗ったらええじゃないか?」
 「そ、そうですか…。ここからだと、タクシーに乗っても、松坂屋辺りまでは、一〜二分の距離ですからねえ…。タクシーが乗せてくれるかなあ…」
 「ありゃりゃ、ほうで、そんなに近いんなら、まあ、歩いたらええじゃろう…。 しかし、なんだって、こんなに寒いんじゃろうか…。風邪でも引きよるんじゃろうか…、うおお、寒ぶ」
 「そっ、それはいけませんねえ。じゃ、とにかくタクシーを止めてみましょう。とは言っても、日曜日のこの時間じゃ、なかなかタクシーが来ないんですよねえ…」
 「おおっ、あそこから来よるのは、どうなんじゃ…」
 「んん? あれは、タクシーじゃないみたいですよ…。だいいち、ウィンドーに赤いランプがついてないから、タクシーだとしても乗ってますねえ…」
 「ほうか…、じゃ、ぼちぼち、歩きもって、行ったらええじゃろう…」
 「あれえ? あの車、こっちへ向かって来るみたいだなあ…」
 黒塗りの乗用車がかれらの前に停まる。左ハンドルの前のウィンドーが下がり、運転手の帽子をかぶった男が声を掛けてくる。
 「失礼ですが、リストさんと、行者さんですか?」
 「ありゃ!? なんじゃって、わしらのことを知っとるんじゃ?」
 「ああ、それじゃ、リストさんと行者さんですね!!」
 「確かにそうですが、どうしてこの車が…」
 「はい、末広町辺りにいらっしゃるから、お連れするようにということでしたので、どうぞ…」
 「誰が? しかもハイヤーなんかを…」
 「はい、私は、会社からの無線でこちらに回ったもんですから、ご依頼のお客様は、はっきりとは伺ってないんですが…、あの…、ただサクシャさんというお名前の方だと聞いてますが…」
 「ははあ…、そうですか。リストさん、どうやら、作者の方で、物語を進めてくれるようですよ」
 「ほうか。それじゃ、これに乗ったらええんじゃな…」
 「ま、そういうことらしいですね」
 「いやあ、助かった、助かった。いやあ、わしゃ、また、歩かされるんじゃないかと思って、うんざりしとったんじゃ。ま、それでも、良かった良かった」
 車は、リスト老人と行者を乗せて、走り始めた。
 「それで運転手さん、どこまで行くんですか?」
 「ええ、実は、私もはっきり聞いてないんですが、なんでも松坂屋の前に、道案内の車が待っているというんですが…」
 「ええっ? どういうことなんだろう…、道案内の車があるんなら、わざわざハイヤーを頼まなくったって直接来ればいいのにねえ。それにしても、その道案内の車って、なんか目印でもあるんですか?」
 「はい、なんでもリヤウィンドーに、光るニワトリのマークがついているって言うんですが…」
 「うふん…。ニワトリか…、やけに手の込んだことするんだなあ…」
 「ああ、お客さん、ほら、広小路の手前に停まってますよ。いま左に寄って合図しますから…」
 「合図?」
 「はい、ランプを点滅してくれって…」
 「へえ…」
 「あ、ニワトリの車が動き出しました。じゃ、後をつけますから…」
 「いったい、どこまで行く気なのかなあ…」
 車は松坂屋の角を左に折れて蔵前通りに入り、不忍通りに出てすぐ左に曲がる。
 運転手が独り言のように呟いた。
 「あれえ、戻るのかなあ…。また左のウインカー出してるけど、あそこ曲がったら、また末広町に出ちゃうけどなあ…」
 「そうですねえ…」
 間もなく車は左に曲がり、行者とリスト老人は、それからまた左に曲がったように感じられたけれど、どうしたわけか、それを確認するまでもなく、二人はもう言葉もなく眠り込んでいた。
 「お客さん、着きましたよ」
 「ええっ!?」
 「ありゃりゃ、いつの間にか、寝とったんじゃなあ…。なんじゃか、きょうは眠くていかんなあ」
 「んん? なんだ、寝ちゃってたのか…。でもへんだなあ…。なんで急に寝てしまったのかなあ…」
 「お客さん、その向かい側の、石段のある建物へ、いらしてくださいということですが…」
 「ああ、そうですか…。それじゃどうも…」
 狭い四〜五段の石段の前に降り立った行者とリスト老人は、車の走り去った静寂の中に取り残された。
 「こっ、ここはいったい、どこなんだ? ああっ、そうか、あの運転手に聞けばよかったのに…、失敗失敗…。
 だけど、あんなに急に眠くなるなんて、やっぱり、目的地がどこであるかを知られたくないという作者の企みってことなんだろうか…」
 「あんた、何をぶつぶつ言うとるんじゃ。こんなとこに、立っとったってしょうがないじゃろうが。わしゃ入るよ」
 「あ、はい。だけど、この建物は、いったい何んなんだ?
 何も書いてないなあ…。なんか、裏口って感じがしないわけでもないけど…」
 ふたりは、半開きになっていた重い木の戸を押して中に入る。
 さて、中は闇になっていて何が何だか分からない。ただ天井の高い広い空間であることは風の気配で分かったけれど、まだ目が慣れてこない。
 「んん? こりゃどうなってるんだ…、何も見えんなあ…」
 「リストさん、正面に、何か、ガラクタみたいなものがありますよ…。気をつけてください」
 「ほうで…、わしゃ、まだ何も見えんがなあ…」
 不意に、右のほうから人の気配がした。
 「ようこそ、いらっしゃいました。お待ち申し上げておりました。どうぞ、こちらでございます」
 足元を小さなランプに照らされて、ふたりは案内されるままに付いていく。案内人は何を履いているのかまるで足音を感じさせないけれど、二人の足元だけが照らされて、埃っぽい板張りの床にリスト老人の乾いた靴音がカツカツと響き、行者のゴムゾウリがペタペタと床を叩く。闇に慣れ始めた目が周囲を検証すれば、どうやら倉庫か物置といった様子なのだ。
 しかし、足元を照らす光が速すぎて、後を付けるのがようやくだから、そこそこの検証さえ挫折して、再び取り残された闇を一層深いものにしてしまう。それでも右の壁に沿って奥へ進むのが分かり、突き当たりになった壁面に一つのドアーが照らし出された。
 「どうぞ、こちらのお部屋でございます」
 「はあ。そりゃどうも…。でも、これから何が始まるんですか?」
 「それは、作者様から直接お聞きください」
 「ほう、そうですか…」
 案内人がドアーを引くと、中の光が一気に溢れ出て一瞬目がくらむ。
 「おおっ、こりゃまた明るいなあ!!」
 「ありゃりゃ、わしゃ目がくらんで、何も見えんようになってしまったぞ!!」
 「リストさん、私の肩につかまってください」
 「おお、そりゃ済まんこって…」
 行者はリスト老人の左手を取って自分の右肩に当てる。
 「しかし、なんですか、この光は? まるでスポットで照らされているみたいじゃないですか?」
 二人は案内人に押されて部屋に入り、ドアーが閉められた。同時に、かなり広いと思われる空間に電気的に増幅された作者の声がする。
 「ようこそ、いらっしゃいました。お待ちいたしておりました。正面に椅子が用意してございますので、どうぞ、お掛けください」
 言われてみれば、確かに強い光の中に影になった椅子が二脚おいてある。
 「まったく、なんですか、この光は? 人の顔を、そんなにまぶしいほど照らすとは、失礼じゃないですか…」
 「まあ、そうおしゃらずに…。あなたがたは栄光の舞台にスポットを浴びて登場したわけですよ」
 行者は左手を額にかざしてスポットを遮り、リスト老人の肩に当てた手を確かめながら椅子に向かって進む。わずかに逆光の中で感知しうる空間は、椅子が二脚ある以外は何も見当たらずただ広いだけのことだから、言われるように舞台を思わせるものなのだ。
 行者が左の椅子に、リスト老人が右の椅子に腰掛けた。
 「そうです、それで結構です」
 「何が結構なんですか。これじゃ、まるで犯罪者の取り調べと同じじゃないですか?」
 「そういうわけじゃないんですが、ただ私としましてはね、そろそろ物語の清算をしたいと思いましてね。もしも、この光が納得して頂けないというのであれば、どうでしょうか、物語には姿を現すことのない神たる作者の威光だとお考え頂けませんか、ハハハ」
 「くだらん。われわれを舞台に座らせて、あんたはコントロールルームから監視しているだけのことじゃないのかね?」
 「ほほう、なかなか鋭いご意見ですね。ま、舞台の役者とコントロールルームの演出家の関係も、われわれの関係と似たり寄ったりでしょうからね。
 ところで、お二人に、わざわざここまで起こし頂いたのは外でもない、まず手始めに、あなた方が再会したいと願っている<かたぶとりの太モモ>さんに会わせて差し上げたいと思ったからなんですよ。どうですか、会ってみたいと思いませんか?」
 「んん? なんじゃ、あの娘らは、ここにおるんか?」
 「リストさん、気を許してはいけません。たとえそうだとしても、どうせまた交換条件として無理難題を押し付けてくるつもりなんですよ」
 「行者さん、そんな言い方はないでしょう。これでも私としては、善意でしていることなんですから…。
 そうでしょう、考えてもみてください。諸君の希望を取り入れてあげたために生じた物語の行き違いに、わざわざ公開で取り繕いの場を用意しようなんていう作者がいるでしょうか?
 これこそが、より良き物語未来を諸君と共に築こうとする私の善意でなくして、一体なんだと言われるんですか? ムハハ」
 「さあ、どうだか。私からみれば、ただ単に、自分の物語未来を創造しえなくなった作者の苦肉の策に思えてなりませんがね」
 「ほほう、相変わらず、口だけは達者のようですな」
 「冗談じゃない。この物語に対して、ただ口だけなのは、あんたのほうじゃないか。私たちは、あんたの都合なんかでは左右されない主体的な物語を心がけてここまでやってきたんだ」
 「まあ、その努力は評価しますよ。ですから、ここではその努力が実効的な効果を上げられるように頑張ってください。
 では、早速なんですが、ここでは、まず行者さんに性器崇拝者としての役柄を演じてもらわなければなりません。むろん、あなたが導師としてリストさんと<かたぶとりの太モモ>さんを快感へと導かなければならないのです。どうですか、口だけのあなたに、この役が勤まりますか?」
 「なんとでも言ってください。すでに、私としては、あんたが企んでいるところのいかなる無理難題も見事に全うしてみせる覚悟で来ているんですから…」
 「ほう、それは頼もしい限りです。この舞台で、あなたに与えられているものはそれです。舞台の中央をご覧なさい」

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 中央と言われた場所に新たなるスポットで照らし出されたのは、高さが三mはあるかと思われる張り子の男根なのだ。何で出来ているのかは分からないけれど、色はピンクと紫をベースにして、さらに極彩色で陰影をほどこし塗り上げられている。それが台座ごと静かに回転して、真後ろになったときに現れたのがやはり同じ色調で塗り上げられた巨大な女陰なのだ。
 「プッハ、なんですか、これは!! 冗談もいいかげんにしてください。恥ずかしげもなく、よくもこんな不細工なものを作り上げたもんだ、ハハハ」
 「ほほう、この物語いうなんは、よりによって、とんでもないもんばかりが出よるんじゃなあ…」
 「まあ、勝手に笑いなさい。しかし、これがあなた方のご神体に他ならないんですよ。とにかく、自分を笑う結果にならないように、よく心して信仰に勤めてくださいよ」
 「ちょっと待った。この張り子の大道具が、ご神体だって?」
 「そうですよ。何かご不満がありますか? あなたは、これが張り子だといって、バカにしているようですが、あなたの言い分によれば、所詮は物語も幻想にすぎないんでしょうから、この虚構の極みとも言える舞台に与えられるご神体が張り子だからといって、何が不都合だと言うんですか?
 私としましてはねえ、あなたのご意見に則してこの舞台を用意した次第なんですよ。そのへんの善意は汲んでほしいもんですねえ」
 「ふうん、そういう論法でくるわけか。ま、それなら別に異議を唱えるつもりはありません。これで大いに結構じゃないですか」
 「ほほう、なかなか物分かりがいいんですねえ…。それでは、早速、性器崇拝の行者として導師を勤めて頂きましょうか」
 「いいでしょう。それで私に、いったいどうしろと言うんですか?」
 「まずは、オリエンテーションです。性器崇拝とは何かということについてご理解頂かなければなりません。
 ご存じのように日本の各地にも性器をご神体とする神社はいくらもあるわけですが、これは単に農耕文化における豊饒多産を素朴に祈願するという程度の問題に留どまっているため、この物語における思弁的な興味を満足させるものにはなりえません。
 そこで、ここではかつての古代インド人の人生観から性器崇拝というものを語り起こそうというわけです。よろしいかな…。
 そもそも古代インド人の人生観とは、宗教的義務の遂行、財産名誉の獲得、性愛の充足という三大目標を掲げていたわけです。そして、この宗教的な最高の原理は女性神ということになっていて、この神との合一こそが人間の最終的な理想の境地である解脱に到達しうるものであるというわけです。
 すなわち、この徹底した現実肯定の楽観主義による救済こそが、奇しくも現在われわれの混迷の時代が求めているものに他ならないというわけです」
 「ほう、そりゃええな」
 「ちょっと待ってください。そこには、もともと宗教的で思弁的な古代インド人が『ウパニシャッド』によって最高の知恵として語っていたところのブラフマンとアートマンという二元論、さらにはそれを克服する人間と宇宙との合一による調和あるいは解脱としての世界観が隠されているはずです。
 ということは、宇宙的原理のブラフマンと人間的原理のアートマンが常に弁証法的な構造になっているはずですから、これを肯定論だけで解決しようというのは片手落ちということになります。
 ここではアートマンという人間的な世界観においても、<個に向かう集中>と<全体に向かう拡散>という概念による弁証法的構造があり、一方ブラフマンという宇宙観においても、<全体であることの集中>と<あらゆる個に向かう拡散>という概念による弁証法的構造があり、さらにこれらの四肢の概念が相互に弁証法的構造として同時に成立しているというわけです。
 そしてここにいう<集中>こそが自己同一的な肯定性つまり自我性を要請する発想であり、<拡散>こそが自己分裂的な否定性つまり無我性を要請する発想になっているということです。
 ですから、ここで同時に成立しつつ相克しあう流動的な関係を固定して、どちらか一方の立場のみが正当であるとする考え方は、様々な矛盾を克服しがたきものとして苦悩を深めるだけのことにしかならず、調和など望むべくもないのです」
 「ほほう、それは、古代インドの宗教観が、行者さんがごひいきの密教において完成されたとする論法というわけでしょうが、宗教はいつの時代も凡俗の救いになってこそ宗教たりうるというわけです。
 私が思うには、そもそも密教とは、仏教というものが空によってことごとくの論理的矛盾を解消しつつも、それによって凡俗の究極の救済になりえなかったという反省にたって、古代インドに脈々と流れていたおおらかな生命観、つまりは生命本来の無垢な欲望を知恵によって包括しうるという、人間信頼の発想を取り入れることによってしか生き延びられなかった仏教の最後の姿だったというわけですよ。
 ですからね、仏教という屈折した過去を引きずった密教の自己正当化の論法ならいざしらず、現在もインドでヒンズー教として生き続けている人間信頼の生命観を踏まえるならば、たとえばブラフマンに<集中する力を消滅>の動機として、<拡散する力を生成>の動機として了解し、さらにアートマンにおける<集中する力を生成>の動機として、<拡散する力を消滅>の動機として了解すれば、これだけのことで世界を生あるいは再生と死によって支配する女性神に委ねることが出来るのです。いかがかな…。
 この世界観においては、与えられた生命をよりよく充実して生きることこそが宗教的な理念を全うすることになるわけで、より豊かな現世利益を享受できる幸運に浴するためには、神への供養となる捧げ物を絶やさないように心がけることが要請されているのみなのです」
 「ほう、捧げものをな…」
 「ま、いいでしょう。すでにこの舞台に用意された異様な性器を前にしては、いかなる宗教論争も不毛と言わざるをえません。とりあえずは、あんたの言う性器崇拝の目的を現実肯定の楽観主義による救済ということで了解しましょう」
 「それで結構。それでは、早速、性器崇拝の方法論です。
 おおっと、その前に、もうひとこと付け加えておきましょう。この性器崇拝は性愛の充足による救済を標榜しているわけですが、ただ単に性行為をすればいいというものでもありません。重要なことは、この性行為がことごとくの苦悩を解消しうるほどの快感でなければならないというわけです。要するに、徹底した快楽を追及しうるものでなければならないのです。
 ご覧なさい、その性器を祭る祭壇には、すでにこの物語が性的意味において語ってきたシナモンクルーラーとフレンチクルーラーがお供えしてあります。それは今さら言うまでもなく男根の霊気と女陰の霊気を受肉する性的聖具に他なりません。
 そこでまず、このご神体の前で、諸君に神聖なる晩餐会を開いて頂きます」
 「ほほう、晩餐会か。そりゃええな。で、今度は何を食わしてくれるんじゃ?」 「ハハハ、それはお楽しみですよ。いま、係の者に準備をさせます。行者さん、あなたをお使い建てして申し訳ないが、舞台の上手にあるドアーを開けてください。<かたぶとりの太モモ>さんたちが、お待ちかねですよ」
 「ええっ、彼女たちを、そんなところに隠してたのか…」
 上手の闇から出てきて舞台中央にテーブルを運ぶ黒子の横を、行者は小走りで通り抜け、行者たちが現れたドアーと、ちょうど対を為す位置にあるドアーを見付け、一気に押し開けた。
 「んん? こっ、ここは!?」
 「あれえ、行者さん、急にいなくなっちゃったと思ったら、トイレだったのか…」
 「トイレ? いや、ここはトイレなんかじゃないよ!! それより、これは驚きだ。舞台の裏が、あの酒場だったなんて…」
 「行者さん、なに言ってんのよ。ひょっとして悪酔っちゃったんじゃないの?」
 「行者さん、よく見て、いま出てきたところはトイレのドアーよ」
 「いや、ここはトイレなんかじゃないんだ」
 「なによ、こんな狭い店で、トイレの場所を間違えるほど、あたしたちは酔ってなんかいないわよ」
 「いや、私も酔ってなんかいないですよ。とにかく、私は君たちを呼びに来たわけさ。ちょっと、こっちへ来てくれないか…」
 「いやあねえ、一緒にトイレに入って何をしようっていうの?」
 「もう、さっきの話の続きなら、トイレなんかじゃなくて、ラブホテルってところよ、アハハ」
 「ちょっと、話を聞いてください。どうやらラブホテル的展開ではありませんが、われわれの実践力が試されるときが来たのです。
 実は、いま、あの作者に呼ばれて、いよいよ性器崇拝の儀式が行われるところへ辿り着いたんです。しかも、その場所が、なんとこの酒場と背中合わせになっているんですよ。皆さん、驚かないでくださいよ、いま私が出てきたこのドアーは、舞台の入り口になっているんですよ」
 「もう、やんなっちゃうなあ、さっき、あたしが入ったときは、正真正銘のトイレだったわよ」
 「そんなこと言わずに、ちょっと来てごらんなさいよ」
 「あれえ、何これ? ねえ、マスター、これどうなっちゃってんの?」
 「あなた、なに言ってんのよ、マスターはさっきタバコ買いに出ていったじゃないの」
 「ええっ、そうだっけ? ああん、そんなことはどうでもいいの、ちょっと、来てみて…」
 「なによ…、行者さんの真似なんかしちゃって、そんなに大騒ぎしなくたって…、ええっ!! どうなっちゃってんの!!」
 「ねえ!!」
 「へえ…。それで行者さんたち、ここにいたの?」
 「そうなんだ。とにかく、物語はいよいよ佳境に入ってきたというところだね。さ、こっちへ…」
 「あれえ、何? これ?」
 「キェーッ、露骨!! 行者さん、これ、いったいどうなってんの?」
 「これがわれわれに与えられた舞台装置というわけなんだ。ほら、このスポットに照らされたここが、舞台になってるんだ」
 「ほんとだ。そうすると、これ、大道具ってわけね。それにしても、これはないわよねえ…、ハハハ」
 「ねえ、行者さん、この舞台って、あの作者が用意したの?」
 「そういうこと」
 「やっぱ、悪趣味の一言ね」
 「やあ、諸君、これで全員揃ったわけだね」
 「ああっ、あいつだ」
 「リストさんも、中央のテーブルへどうぞ…、準備が整ったようです」
 「リストさんも、一緒だったのね…」
 「おお、あんたらも、元気なようで、なによりじゃった」
 「リストさんも、きょうは、あっち行ったりこっち行ったりで、大変ね。それで、もう目は覚めたの?」
 「おお、もう大丈夫じゃ。それにしても、もうちょっとのんびりでけるとええんじゃが。せわしなくていかんよ…」
 「それでは、諸君、適当にテーブルについてくれたまえ」
 「ふん、なによ、えらそうなんだから…」
 テーブルは舞台中央の性器の前に縦に置かれ、左右に別れて四人が座る。左手奥がTちゃんの面影を背負った太モモで、その隣がリスト老人、右手奥が行者で、その隣がYちゃんの面影を背負った太モモなのだ。
 テーブルには、四人前のドーナッツとコーヒーが用意されている。一皿にシナモンクルーラーとフレンチクルーラーがひとつずつのっている。
 「行者さん、今、本日の晩餐会のメニューをお届けしましょう。メニューをご覧頂ければ分かりますが、これが、あなた方のいう行法次第というものになっているわけです。儀式はその手順で進めてください」
 「なんじゃ、晩餐会じゃ言うから、何が出てくるかと思うとったら、またドーナッツか。わしゃ、気が進まんなあ…」
 「そういえば、リストさん、結構食べてたもんねえ…」
 「しかし、われわれの目的は、作者の方法論に委ねてこそ達成できるはずなんです。ま、ここは、ひとつ我慢です」
 「ほうか、ま、あんたが言うんじゃしかたない」
 黒子がするりと現れて、一枚の紙を行者に手渡した。それを見届けて作者が物語を進める。
 「では諸君、これから性器崇拝の聖なる晩餐会に入ります。この場で、諸君が求めるものは、崇高なる快楽であることをお忘れなく。では、行者さんに進めて頂きましょう」
 「ふむ、これが行法次第か。やけに簡単だなあ…。ま、簡単であるに越したことはありません。それでは皆さん、まず初めは食前のお祈りです。皆さんは合掌して頂ければ結構です。次にコーヒーを頂きます。では始めましょう…」
 行者は、『ミスタードーナッツ』や酒場のときと同様に、<大虚空蔵菩薩普供養>の印を結んでご真言を二度唱え、それから観想に入って、再びご真言を一度唱える。
 「では、コーヒーを頂きましょう」
 「諸君、どうですか、私が言っては手前味噌になりますが、これほどの味は、そうざらにあるもんではありませんぞ、心して味わってください」
 「んん、ほほう、こりゃうまい!! さっき飲んだもんとは比べもんにもならんな、これは、ええ」
 「そんな、はっきり言わなくたって、いいでしょう…。んん、でも、ほんとだ!!」
 「一〇〇円のコーヒーなんかと比べるほうが無理なんじゃないの…」
 「ふむ、確かに、いい味だ。
 カップを口元に運んだときの感傷的なまでの誘い、そしてほんの少しの空気と共に吸い込んだときの新鮮な香ばしさ、そのまま一気に広がる円やかさ、これを広げた口腔で踊らせて、その温もりをそっと鼻腔から抜くときの濃厚な味わい、それに導かれるようにして自然に喉元へと滑り込む愉悦のうま味、さらにその一切を検証するかのように静かに込み上げてくるゆったりとした吐息…」
 「ほほう、行者さん、なかなかいいですねえ。その調子でやってください」
 「あれえ、だけど、このコーヒーって、なんか、ちょっと、へんじゃない!?」
 「うん、すっごく、気持ちがフワーッとした感じ…」
 「ふむ、ありえぬことじゃが、香ばしいコーヒーの香りがするコニャックとでも言ったところかな…」
 「皆さん、どうやらこれが、桃源境へと誘う聖なるコーヒーということらしいですよ」
 「そういうことです。どうですか、ユンケル皇帝液なんぞでも敵わない充足感と至福感が得られるはずです。ハハハ。体の芯からやさしい温もりが広がってくるのが分かるはずです」
 「そんな、いちいち説明してくれなくたって、ちゃんと感じてるわよ…」
 「それでは、次にドーナッツです。まず女性はフレンチクルーラーを、そして男性はシナモンクルーラーに取り掛かります。ああっ、ちょっと待ってください。焦ってはいけません。
 このドーナッツは、どうやら、聖なる性器の霊気を宿す性的聖具ということになっています。ですから、ここでは自らの快楽を慈しむように口に運びます。ただし、決して噛んではいけないとなっています。どういうことなんでしょうか…」
 「ハハハ、心配ご無用です。多分噛もうと思ってもそれは出来ないはずです。ま、これは説明するまでもないことですから、ご自分で確かめて頂くことになります。とにかく、続けてください」
 「皆さん、そういうことです。ドーナッツは、口に含んでとろけるのを待つということです。では、始めましょう…」
 「へえ? こんなドーナッツを嘗めて食べるなんて出来っこないでしょう!? 行者さん、ほんとにそうなってんの?」
 「はい。ま、とにかく、やってみましょう」
 「あいつ、なに考えてんだか、分かったもんじゃないわね」
 「ちょっとちょっと、これ、変よ…。ちょっと、嘗めてみて!!」
 「なによっ、そんなに驚いた顔して…。ううっ、なっなに、これ…」
 「わしゃ、どうも、その気にならんなあ。きょうは、こればかりじゃからなあ…。ありゃりゃ、あんたら、どうしたんじゃ?」
 「んん? リストさん、どうやら、これはただのドーナッツじゃないようですよ。ひょっとすると、嘗めてみるぐらいのことなら損はないかもしれません。
 だっ、だけど、君たちどうしたの? なんか冷や汗をかいてるみたいだよ…」
 「うっ、うん…。行者さんも、ちょっと、それ嘗めてみて…。どういうことだかすぐ分かるから…」
 「ありゃりゃ、こっこれは…」
 「ああっ、そういうことか!!」
 「ムハハ、諸君、いかがかな…。それが聖なる性具の性具たる所以ですよ」
 「いったい、どうなっちゃってんの!? 気持ち悪いわよ…」
 「あなた違うでしょ、気持ち好い、でしょ?」
 「バアカ」
 「こりゃ、なんじゃか、不思議なものじゃなあ…。ムホホ、こりゃムズムズして、ええわ…」
 「もう、リストさんったら…」
 「ふむ、自分の性器に感応するようになっているってわけだ。ようするに究極のオナニーってわけか…」
 「そういうわけです。ところでどうですか、初めのコーヒーで、そろそろ体が暖まって来たころだと思いますが…」
 「ちょっとあんた!! このコーヒーに何混ぜたのよ!?」
 「いや、それはそういうコーヒーなのです。そもそもコーヒーだって媚薬であることにかわりはないはずですよ。とにかく、そんなに向きになってはいけません。ここでは快楽のためにあらゆる快感を解放しなければならないのです。それこそが目的の晩餐会なんですから…」
 「ここはひとつ、作者の言う通りにやってみましょう。君たちも承知のように、われわれの目的とする物語も、まずは作者の想定する役柄を全うすることによってしか始まらないってわけですよ」

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 「ねっねえ、あれ、見て!!」
 「あれえ、さっきと色が違う!!」
 舞台中央の張り子のご神体が、ほんの少し赤みを帯びてきた。
 「どうやら、そのご神体は、われわれの快感のバロメーターになっているようですね」
 ドーナッツはやだといったリスト老人は、そんな言葉も忘れて無心にドーナッツを嘗めている。
 「諸君、それはリストさんのご努力のお陰ですよ。リストさんにばかり頼らないで、ご自分で快感を高めてください。さあ、大いに気持ち良くなってください」
 「なによ、動物実験じゃないんだから…。そんな言い方しなくったって…、だっ、だけど、どうして? このドーナッツを嘗めずにいられないような、なんか切つない感じ…」
 「うっうん…」
 「ふうむ、これは、まったく自己埋没的な快感だ!! 正に一人でうまいものを無心に食べているといった感じだ…」
 「そっ、そう、そんな感じ。…で、でも、自分で感じさせてるのに、みんなと一緒でも恥ずかしくない…」
 「違うのよ、みんなと一緒だから、とっても幸せな感じなのよ…」
 「ふむ、そういわれてみれば、そんな感じだなあ…。
 自己埋没的なのに、なぜか共通体験としての充足感もあるってわけだ。見られることが羞恥心を刺激して屈折した快感へと昇らせるってこともあるはずなのに、ここでは、そんなものがなくて、見られることが、そのまま快感の共有になっているみたいだ」
 「とにかく、体が、無性に快感を求めるの…」
 四人は互いの快感を確かめ合うように、それでいながら誰も介入することのない自己完結的な至上の快楽のためにドーナッツを嘗め続けるのだった。
 「さあ、皆さん、次は、となり同士で、ドーナッツを交換するこになっています」
 「ええっ、そんなのあり!?」
 「はい」
 「交換か…」
 「ありゃりゃ、すると、どういうことになるんじゃ…」
 「そうですねえ、それは、たぶんフェラチオとクリニングスの関係になるはずです。つまり性具によるシックスナインってわけですよ。要するに、今度は、より積極的な他者の介入というわけなんでしょう」
 「自分のためじゃなくて、相手のために<する>わけね…」
 「でも、自分のために<される>ってわけでしょ?」
 「と同時に、至って自然な欲求で<したくって><されたい>関係になるってことですよ」
 「ムフォ、こりゃええわ。わしゃ、こんなにも心底充実したシナモンクルーラーになったことはなかったなあ…。あんた、なかなかええぞ。ほな、わしも、してみるかな…」
 「アアッ、ちっ、力が抜けて…。フレンチクルーラーがとろけてしまうわ…」
 「ウウッ、せっ、切なくて、フレンチクルーラーが泣きたいほどよ…」
 「しかし、これは不思議な感じだなあ。どういうことなんだろうか、上り詰める快感が射精願望によって欠落したシナモンクルーラーになる焦りもなく、まして腔内射精を相手に飲み込んで欲しいなどという屈折した欲望も起こらない。
 こっ、これが、性具によるシックスナインか!!
 さっきとは違って、確かに自己目的的な快楽の完結性に不本意な歪みを生じているのに、そのずれをフレンチクルーラーすることで補えるってわけだ。しかも止めどなく沸き上がる欲望が穏やかに高揚して、まるでシナモンクルーラーのたおやかな情熱が永劫に充足つつづけるって感じだ…」
 「あっ、あたし、このままずっとシナモンクルーラーして上げたい…」
 「確かに、それが我々の共通感覚になっているようだ…。
 さて、次ぎの段階へ進みます。皆さん、そのドーナッツを自分の皿に置いてください。そして、今度は、自分の皿にあったもうひとつのドーナッツです。つまり、男性は元からあった方のフレンチクルーラーを、女性は元からあったシナモンクルーラーというわけです。これを、自分の好きな方法で食べることになっています」
 「うおおっ、あんた、そんなことしてええんか? そんなことしたら、わしら倒錯の罪悪感から一生逃れられんことになってしまうんじゃないか?」
 「そっ、そうよ、行者さん、そんなことしたら…」
 「でも、ちょっと違うみたいよ。なんていうのかなあ…、これを食べないと自然な、ごく平安な快感が満たされないって感じだけど…」
 「そうです。私たちの儀式は、至上の快感のために純粋なる欲求を貫徹しなければなりません。つまり、ここで我々に課せられる罪悪感とは、むしろ自らの純粋なる欲求を回避することなのです。いや、ちょっと待ってください、すでに我々は、作者の儀式に身を投じた段階で善悪の彼岸に立っていたのです。
 ご覧なさい。ここにあるのは善悪を司る神ではなく、我々の純粋なる欲求を象徴する張り子の性器なのです」
 「おおっ、すっかりええ色になって来とるなあ…」
 ドーナッツにかじりついた四人は、互いに目をむいて声を上げた。
 「ああっ」
 「ムム、そういうわけか。これは男性にとっては女陰の形をしたバイブレーターへの挿入感なんだ。ということは、女性にとっては男根の形をしたバイブレーターの挿入感になっているってわけか…」
 「うっ、うん」
 「要するに、自己目的的なオナニーの発展型いうわけなんじゃな…」
 「のっ、飲み込む度に、喉元に突き上げてくる至福感なんてあるのね…」
 「こっ、このままじゃ…、頭の中が、柔らかくなってしまうわ…」
 「こんなんは、始めてじゃ…」
 「おおっ、土踏まずから電気が上り始めだぞ…」
 「ほんと、身体中を走る!!」
 それぞれが自分のペースで、優しく、そして時には激しくドーナッツにかぶりついているけれど、やはりここでも男性は射精願望には至らず、女性も失神するほどのエクスタシーに上り詰めて終息してしまうことはなく、ただとめどない快楽に身を委ねるばかりなのだ。それは、まるで終わることを知らない階段を躍り場でまどろみながら昇り続けるようなものなのだ。
 「ねっ、ねえ、どういうことなの? みんなで、いっしょだからなの?」
 「そう、自分でしてるのに、なんか、してもらってるみたい…」
 「うむ、言われてみれば、そうじゃな…」
 「そうか、これはセックスの代償行為なんかではなく、あくまでも自己目的的なオナニーが、性具の媒介によって他者にしてもらうオナニーへと発展して、共軛的関係を不可欠のものとしつつ完結しているわけだ!!
 皆さん、どうやら我々の共通感覚が確実なものになってきたってことですよ。
 では、先程から嘗めたまま放置していたドーナッツに取り掛かるとしましょう。そうです、他者のドーナッツです。いよいよ、これを食べる段取りなのです」
 「でも、行者さん、そんなことしたら、せっかくのこの完結性が失われてしまうんじゃないの?」
 「いや、ご心配には及びません。我々はあらゆる可能性の中で快感の浄化を達成できるはずなのです。つまり、ここでこの完結性に埋没してしまうのもいいかもしれませんが、ささやかにこれを横滑りさせていくことのみならず、この完結性の中で新たな欲求を醸成させるのも、すべてが自らの意志に委ねられているというわけです。まして我々の望むものは至高の快感でなければなりません。言い換えるならば、方法はまだまだいくらでもあるということです」
 「ふむ、ということは、今度は他目的的に<する>ということになるんじゃな」
 「そうですね。ここでは<する>感覚と同時に<される>感覚が、正に肉体に捕らわれない性行為として体験されるわけですね」
 「で、でも、そうすると行者さんがいつもいっていた心身一如としての体験が達成できないんじゃないの?」
 「そうではないのです。たぶんそれは方法論が違うということになります。いうならば、それは物語のラブホテル的展開への横滑りということになります。
 しかし、今我々が主体的に獲得してきたこの純粋なる境地は、ドーナッツによる晩餐会という儀式によってなのです。つまり、勃起した男根と濡れた女陰という発情した肉体に捕らわれてしか体験できない性行為ではなく、<食べる>ということが<心身一如の欲望>に還元されて切り拓く至高の快感なのです」
 「じゃ、これでいいわけね…」
 「はい」
 四人は相手のドーナッツを慈しみながら、激しく優しく、速く遅く、攻撃的に防衛的に、快感の諸相をくまなく確かめ合うように、快楽の尊厳のためにドーナッツを食べ続けるのだった。
 すでに張り子の聖性器は燃えるような真紅に変わり、小刻みな膨張をしながら脈動を始め、そのはちきれんばかりの脈動で回転が速まり、速まる回転とともに脈動も速まり、そのまま脈動が膨張の極に達したときに、それはほとんど同時といえる瞬間に男根の頂点から白煙が噴射し女陰の部分から二つに裂けて、ネジ切ってしまった回転が惰性だけになって次第に弱まった。
 すると、男根の部分が萎縮して見えなくなり、裂けた女陰の小陰唇が発達して外へ外へと盛り上がり大陰唇を巻き込んで、再び巨大な女陰として復活するのだった。
 それは正に、女性神による世界の再建ともいいうる仕組みなのだ。
 四人は放心した顔で空になった皿を見詰めているが、誰からともなく互いの表情を確かめ合うように顔を上げたときに舞台の一切の照明が消えた。
 「あっ!!」
 「んん?」
 「どうしたの?」
 「ふむ、そうか!! これは本不生の闇で、いまだいかなる思いも醸成しえぬ欲望のカオスということですよ」
 「どういうこと?」
 「あたしたち、このままこの闇の中にいるの?」
 「わしゃ、また長い眠りに入ってしまいそうじゃ…」
 「ねえ、行者さん、あたしたち、これからどうなるの?」
 「いよいよ、これから物語が始まるんですよ」
 そのとき、舞台の照明が蘇り、小さな劇場の客のいない空間が現れた。そして作者の声がする。
 「よおし、今日はこれまで!!
 ところで、ちょっと気になるんだけどねえ、なんて言うのかなあ、アドリブとしての発展はいいんだけど、もっと基本的な部分でのシナリオに忠実であって欲しいんだよね。どうだろうか?
 この点について、あしたは、もうちょっと考えてみてよ…。ま、とにかく、今日のところはこれでおしまい。すべてはあしたあした。お疲れさん」
 四人の表情が猛烈な勢いで役柄から抜け落ちる。
 「あァあ、疲れた」
 「いやあ、お疲れさま…」
 「じゃ、わしゃ…、じゃない、僕は、お先に…。お疲れさま」
 「相変わらず、逃げ足の早いこと。お疲れさま」
 「じゃ、またな…」
 「ねえ、あなた、今度の物語どう思う? あたし、なんだか、どうもイマイチなのよね…」
 「そう、観念的に過ぎるのよ。でも、それが彼のいいところでもあるんだけどね。それにしても、なんか、ひとりよがりにすぎるってことかしら…」
 「そりゃそうだよ。これは純粋なるオナニーの話なんだから、大いに一人でよがるしかないってことさ、だろう?」
 「ハハハ。だけど、なんて言うのかなあ、この作者って、結局は発育不全のオナニストってことなのかなあ…」
 「ふむ、それは言えてるね。要するに、君と僕のような、愛によるごく日常的な性生活が欠落してるってことさ。」
 「だけど、その日常生活ってことだけで、作者の問題提起が、すべて解決しちゃうのかしら…」
 「ほらほら始まった。君は、こんなところで油なんか売ってないで、早く作者のところへ行ってあげなよ。いまごろは、あのコントロールルームで、潤んだ目で男根握り締め、君の来るのを待ち焦がれているはずだよ」
 「もう、そっ、そんな言い方しなくたっていいでしょう。あたしは、あのひとの、愛に対する懐疑ってところに惚れてんだから…。いつも言ってるでしょ、<愛こそが人類滅亡の動機だ!!>っていう彼の言葉好きなんだもん…」
 「分かった分かった。ま、君たちの、愛への懐疑と不信感を温め合う愛に乾杯!!」
 「じゃ、またね。お疲れさま」
 「ねえ、あなた、どう思う?
 あたしたちの物語って、こんなもんでいいのかしら…」
 「というと?」
 「うん、なんていうのかなあ、もっとしっかりとしたストーリーとか、ルールっていうようなものが必要なんじゃないかしら…。だって<なんでもあり>で、すべて解決できるのかなあって思うのよねえ…」
 「いや、この物語のルールが<なんでもあり>ってことなんだよ。でも、ご覧の通りさ。だからといって、そう、何でも出来るってわけじゃないからね…」

完   

1990.3.15(5.11)   

こや のりよし   

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「ニワトリがかたぶとりの太ももをくわえて転ぶのを見た」
はここで終わりです。

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